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第三章

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何の変哲もない景色が車窓を滑っていく。座席を挟んだ反対側は扉。帰りの列車は片廊下型コンパートメント車を取ったので、四人は間仕切りのついた客室の中にいる。等級の低い客室はさながら乗合馬車に押し込められたように狭苦しいが、このように良い客室を取れば足元も広く、個人的な空間として優雅な旅を満喫できる。ロバートが研究費を工面して余らせておいたのだ。稲熊とリニーは普段と異なる列車に感動していたし、こういった高級な車両に乗り慣れているはずのアンジェラもどこか上機嫌だった。

食堂車で旅の食事を満喫した一行は自分たちの客室に戻った。午後の西日が差し込むようになった室内は座面も熱を持って、全体が少々熱いくらいに感じられる。

食休みの間、列車の振動はゆりかごのように感じられる。誰も彼もうつらうつらして暫しの休息に入る頃、稲熊は「時に……」と向かいに座るロバートに切り出す。

「此度の成果は、諸外国にも輸出されるのであろうな?」

「おそらく、きっとな。」

「何ゆえ曖昧な言い方をするか。」

「細かいことはこれから会社と相談して決めるからだよ。特許とか、そういうのも。」

「あなたのものなのだから、あなたの勝手にすればよいのではなくて?」

ロバートの隣で肩を壁に寄りかかっていたアンジェラがうっとりしながらやおら首を彼に向ける。

「そういうわけにもいかないさ。研究成果とそれをどうするかは氏の会社に委ねるというのが本来の契約だから。とはいえ社内で隠しおくはずもないだろう、産業スパイが横行する世の中で企業秘密を守れることもないのさ。目下、特許料をどうするかという議題はあるだろうね。残念ながら僕は実業家ではないから、その辺りの賢しいやり方は知らない。」

「研究のこと以外には興味が無いのね。」

「なぜなら技士だからな。」

「ともかくも、」と彼は調子を整える。

「これだけの発見だ、否応にも世に広まらないということはないのさ。時化を抑えるだなんて、今まで誰も聞いたことがないから。十年後を考えてみろよ、東はボストンから西はロサンゼルスまで、どんな街でも夜通し電灯が照るようになるんだ。電気の光の下にある時、思い出すといいよ、『これを作ったのはロバート・グレイヒルだ』とね。」

「ちょっと居丈高。」

リニーは呆れた顔をする。三人とも同じようにじとっとした目でロバートを見るので、彼は苦笑した。

「良きこと哉。これで我が国も漸く近代化の道を邁進できようぞ。」

「どういうことよ。」

「アンジェラは存ぜぬか。日本の術士は多くが神職や僧――つまり聖職者であって、工業化の道に協力することに及び腰なのだ。」

「そういうものね。欧州の術士だって、元々は辺境の里や森で暮らしていた農民や狩人なのよ。国家の術士囲い込みが始まるまではね。」

「そこで他の方法を求めておったのだ。行きずりの者とはいえ、ロバートの付添人となりし某は先見の明があったな。」

「確かにな。大したもんだ。」

稲熊はわざとらしく威張って笑う。

「まったく、男の人はどうしてすぐ調子に乗るのかしら。」

アンジェラがそう言うと、リニーも眉が下がった。

太陽に雲がかかり、客室に落ちる四角形の光が縁を失う。稲熊は再び「良きこと哉」と呟いた。

「日本は術士に頼らずに列強に及ぶようになる。」

すかさず「それはなくってよ。」とアンジェラは鼻を鳴らした。

「世界の国はどこも術士の力があって国家が動いている、勿論アメリカもね。術士の資本なしに国が回ることはなくってよ。」

「而して日本の術士は山寺に籠って修行に励むのみであるぞ。それにロバートの杖があらば術士は要らぬ、そうであろう?」

「まさか。もしもの時はどうするの?まったく要らなくなるはずがないわ、ねえロビン?」

二人同時に同意を求められて、ロバートは困った。というのも、現状ではどちらの意見にも頷き難かったからである。それで彼は「まだ調査が足りないから……」と言葉を濁した。

「あの装置を試したのは『大きな穴』の前だけだ。もしかしたらこれはあの地形のような特殊な場所だけで作用するものかもしれないし……」

「先刻は『国中が電気の明かりに照らされる』と言うたであろう?」

「それは、ゆくゆくの話だ。そうなるようにするのがこの研究の目的だからさ。現時点の代物がそうできるかは決まったことじゃない。」

そんなことを言いながら彼が口ごもるので、アンジェラはいられなくなって「はっきりしてよ」と声を大きくした。

「あなたの発明が術士の仕事をまったく要らないものにするのなら、話は変わってきてよ。合衆国の術士社会は反発するわ、必ずね。ねえロビン、どうなの?」

アンジェラの剣幕は怒っているのではない、それよりもむしろ心配しているのだ。資本家のカルテルと並んでこの国を牛耳る術士の社会が牙を剥けばどうなるか、その末端にいる彼女は知っているのだ。

ロバートは霜にかじかんだ手を動かすように拳を握った。

「僕の研究の目的は、最終的には、術士の力を借りずに時化を制御することにある。考えてみろよ、建国から今に至るまで、合衆国の術士は圧倒的に足りない。日夜工場は生産を続け、新しい工場は次々に建設されている。鉄道だって路線の増加は留まるところを知らない。それなのに術士の移民は一向に増えやしない。それだから最近は術士を雇わずに操業する危険な工場や列車が増えた。僕とリニーだってその列車に乗って危うく死にかけたんだ。僕の研究が、後先考えずに膨張したこの国の工業から労働者や市民を守る手立てになるんじゃないか。」

全員が黙った。言葉が荒くなってしまったのを反省して彼は一言謝った。アンジェラはどさっと座席にもたれて窓の外へ顔を向けた。

「ロビン、慎重になさい。あなたのやることが社会に何を及ぼすかをよく考えて。」

被り慣れた帽子を深く被って、目を隠すまでつばを倒す。大したことない、大したことはない。

ロサンゼルスには夕方に到着した。外はまだ暗くなってはいないが、仕事は全て明日に回してホテルでくつろいで時間を持て余した。旅の仲間と過ごす最後の夜なのだから少しは無理して盛り上がるべきだったかもしれない。しかし昼間のことが尾を引いて、ロバートの心に影を落とす。

いくら「時化を止める」と雖も、術士の仕事をすぐさま取って代われるはずがない。まずは送電線から、そこから少しずつ、少しずつ、応用可能な分野に浸透していく。それは全ての産業に対してではない、単調な作業にだけ杖は肩代わりする。そうして術士はより高次で生産的な活動に仕事場を移していくのだ。

――なんて無駄なことを考えているんだろう。こんなことを気にしていたってどうにもならない。それに自分は、最も大切な事から目を逸らして考えないようにしている、意図的に。部屋のベッドに横たわって目まぐるしく回る思考の海に溺れていた彼は気が付けば目を閉じて眠りに就いていた。

翌朝、ロバートは朝食を抜かして誰にも会わずにホテルを後にした。行き先はウエスティングハウス・エレクトロニックの支社、ウエスティングハウス氏からの連絡はそこに届くようになっていた。

オフィス街の中にある社のビルの扉を開けて中に入る。今は業務が始まる時刻で従業員もひっきりなしに集まってくる。受付に名を名乗ると、「お待ちしておりました」と二階の一室へと案内された。

長机に向き合ういくつかの椅子、北向きの窓から差し込む光は弱く、壁に備え付けられたラムプが空間を照らしている。カーペットを張った床は歩いても音がしない。ロバートは案内されるまま腰掛け、案内は去って室内は一人になった。

扉を叩く音がして、背広姿の男が一人、社の担当者である。彼は慇懃に挨拶した。

フラッグスタッフでロバートが送った連絡について、担当者は氏からの返答を預かっていた。男は懐から書状を取り出す。その紙を広げる前に、男は言った。

「グレイヒルさん、単刀直入に結論を申し上げましょう。誠に残念ですが、この度の契約は破棄されました。」

ロバートは目を見開いた。理解できないその言葉は、黙ったまま時間が経過するごとにますます難解さを増していった。

出だしに声が裏返りながら、早口にまくしたてる。

「待ってくれ、それはどういうことだ。僕は何もしていないぞ!」

「落ち着いてください。」

「落ち着いてなどいられない!何が何だかさっぱり分からない。」

「ですから、落ち着いて聞いてください。契約は違反ではありません、『破棄』です。」

「『破棄』?」

思わず腰が浮きあがったロバートはその姿勢で動きを止める。

「既にお渡しした前金については返却の必要はございませんし、取材費その他一切についても我が社は支払いを求めません。」

「一体、どういうつもりなのですか。どうしていきなりこのようなことに?」

「『どうして』とは?」

「そのままの意味です。」

「あなた……今朝の新聞をお読みでない?」

彼がだらしなく口を開けていると、男は外の者に指示をして朝刊を持ち込ませた。まもなく手渡された全国紙の一面には、最も太い見出し文字でこう書かれていた。

『時化と術を黙らせる発明』

続く小見出しには

『ウエスティングハウス・エレクトロニックの研究員が発見』

『「ヴィエナ宣言」抵触の可能性も』

と書かれていた。

ロバートは食い入るようにその記事を読んだ。その記事には自分の名前が出ていて、ヒルバレー近郊で実験を行ったことが記されていた。研究内容については概ねウエスティングハウス氏へ送った手紙に綴った内容が紹介されている。有識者からは時化と術に関する研究を行わないことを定めた「ヴィエナ宣言」に抵触する可能性が指摘されている。

恐れていた通りになった。彼は始めにそう思った。

彼は新聞から顔を上げた。担当者の男の影が揺らいで見える。

「その記事が出たことについて、社長は憂慮しています。グレイヒルさん、記事の内容は正しいですか?」

「このようなつもりでは……」

「記事の意図は関係ありません。問いたいのは書かれている内容が事実かということです。」

頷く、それ以外ない。

「はい……。」

「では、契約については先ほどの通りに。」

「契約が破棄されるならば、僕と社との関係は如何なるものに?」

男は鼻から息を吐いた。

「無かったもの、としてください。」

新聞が情けない音を立てて皺になっていく。

「残念ですがグレイヒルさん、私共には社の信用とその向こうに幾万の顧客があるのですから。」

男は書状をロバートに渡し、「本日はご足労感謝します」と早々に退出を促した。彼は「待ってください」と声を上げた。

「研究は、僕の研究はどうなるんですか!?」

「仰る通りですよ。それは『あなたの』研究です。当社は関知致しません。」

ロバートは見下ろす男の瞳がぽっかりと空いた大穴のように思えた。

一歩一歩、薄暗い廊下を歩く。すれ違う者は項垂れる男を訝しく思って、顔を合わせずに通り過ぎる。

――切り捨てられた、自分が。

世の中は評判が大切だ、どんな物事も伝え方によって印象はガラリと変わる。社会の役になるべき発明も、最初の紹介のされ方がこれでは敵わない。社が信頼の回復を何より優先するのはビジネスに生きるなら当たり前のことなのだろう。何よりも、挑戦の機会を与えてくれた氏を悪く言うことはできない。

会社の玄関口を出ると、通りに一人の女性が立っていた。上着を羽織って、帽子を被って、服装からは察することができなかったが、見慣れた黒いお下げ髪はすぐに分かった。

「リニー。」

「ごめん、けど来ちゃった。」

舗装されたばかりの道路を二人は歩く。通りの片端で電信柱が等間隔に並ぶのに沿って進む間、暫く会話は無かった。

リニーは今朝の朝刊を読んでいた。事実を確認しようと、辛抱堪らずここまで来たのだった。先刻まで衝撃のあまりにこの場で朝刊を突き付けて問いただすつもりだったが、思いの外意気消沈して現れたロバートに只事ならぬのをすぐさま感じ取った。

「新聞に載るって、すごいことばかりじゃないね。」

丸めた朝刊を持って、ホテルまでの道を歩きながらリニーは言う。下を向いて、石畳の筋を目で追いながらロバートは自嘲気味に話す。

「トカゲは、身を守るために尾を切り離すんだ。僕も切り離したい気分だ、首でもなんでも。」

「やめて。」

「……仕事の報酬、入らなかった。すまない、君の軍資金にするって、前に言ったのにな。」

「もとより頼むつもりは無かった。」

「そうか。」

それきり二人はホテルまで一言も喋らなった。

ホテルでは、一階の待合室で荷物をまとめた二人が柱の傍に立ち尽くしていた。肩を落とし、ともすれば崩れ落ちてしまいそうなロバートの様子を見れば、仕事の顛末は想像に難くないことだった。

「初めから尋ねる必要はないようね。」

そう言ってアンジェラは新聞の一面を突き付ける。

「これ、ゴシップではなくて?」

「本当だ。氏に送った手紙の内容が漏れ出たらしい。そのことで、悪評が流布するのを嫌った先方からは契約の破棄を通達されたところだ。」

「そう、本当なの。」

「……心配要らないさ、その記事には僕の名前しか出ていないだろう。実際、先方にも同行者の詳しい話はしていなかったからな。この件は僕がどうにかする。」

「何を、どう?」

「それは……。」

稲熊はアンジェラの手から新聞を受け取って片手でそれを眺めた。

「つかぬ事を訊くが、『ヴィエナ宣言』とは何ぞ?」

「それ、私も知りたい。」

「『ヴィエナ宣言』か。今から百年以上前に出された共同宣言で、『今後一切、術と時化の発生に関する研究を行わない』という誓いだ。法的なものではないが、今でも技士の倫理規定とされている。」

「されば、主の研究はその宣言に反すると?」

ロバートは大理石のタイルに目を落とした。

「ウエスティングハウス氏に依頼されたのは『送電設備の時化の影響を抑えてほしい』ということだ。時化の影響を抑えようとする研究はどこででも行われている技術革新の一環で、僕も最初はその研究をしようと考えていたんだが、結果的に、焦点が変わったのは確かだ。だけどそれが宣言に反するかは、議論の余地があるはず。」

「適当な言葉を並べ立てたって何にもならないわ。」

アンジェラは再び稲熊から新聞を奪い取った。

「ロビン、あなた本当に記事を読んで?」

「ああ、読んだが……。」

「だったら、もっと大きな問題があるでしょう。あなたの研究は『術を封じる発明』と書かれているのよ!」

新聞を突きつけ、ロバートに詰め寄る。彼の目の前に押し付けられた記事の題には焦点が合わない。

「術士の仕事を奪うだけならまだマシよ、だけれど術そのものを根本から封じるとなれば、話は全く違ってくるわ!これはどういうこと!?」

「アンジェラ、落ち着いて。」

リニーは彼女の肩に手を置いて諫めようとする。アンジェラは一歩下がった。

「装置を作動させている時、私は身の回りの『乱れ』を感じなかった。アンジェラもそうだった?」

彼女は回想し、同意して頷く。

「あの時『乱れ』を感じなかったのは、装置がそれを鎮めているからだと思っていたわ。だけれど本当はそれだけでなくて、あの時『乱れ』が無かったのは、私たちがそれを感じられなくなっていたから……?」

リニーは小さく頷いた。

「そうだとしたら、あの時確かに、術は封じられていたことになる。……ロバート、どう?」

彼は目を固く瞑って、歯を食いしばった。

「前にも話した通り、術と時化とは同じ原理だ。時化を抑える技術があるなら、それは同時に、術を使えなくする技術でもあるだろう。」

その場からため息が漏れた。

「ねえ、いつから分かっていたの?」

ロバートは俯いて、目を見せない。

「帰りの列車であの話をした時には、あなたも気付いていたのではなくて。あの骨の力を確かめた時にはもう分かっていたでしょう――これが危険な研究だって。」

「違う」とそう呟いた。

「アリゾナに行く前から、全部分かっていたんだ。これを続ければ『ヴィエナ宣言』に反するということが。本当は諦めるべきだった、そうしなかった理由は成果を出すことに気持ちが急いていたからじゃない。こんなこと話したって何の言い訳にもならないけど。」

アンジェラはそれ以上責め立てたりしなかった。ため息をついて首を横に回して、細々とした声でこんなことを語った。

「術士の歴史は血濡れているわ。その昔、大陸の術士は『魔女狩り』の下に謂れなき迫害と弾圧を受けてきた。彼らが辺境の森林に暮らしたのは、それが習わしであり、そうしなければ生きられなかったから。それが前世紀の産業革命になってやっと、社会の表舞台で正当な扱いを受けることができるようになったのよ。これじゃあ術士の歴史は逆戻りじゃない。シヴィル・ウォー以来の大事件だ……いいえ、その再来かもしれない。」

稲熊は、重く静かに問いかける。

「覆水盆に返らず、既に話は世に出でた。主は如何する。」

「契約が破棄されて、研究成果はすべて僕のものになった。この内容を理解しているのだって僕一人を置いて他に居ない、そうだろ。だから、全部自分次第だ。」

「ロバート――あなた、最悪よ。」

ここでもまた、皺になった朝刊が一部。


サクラメントまでの列車は窮屈だった。誰もが目を合わせぬよう顔を背けて、一言の言葉も発されずに肉体だけが高速で移動を続けていた。車内販売のカートを押す添乗員も、ただならぬ空気を感じて逃げるように去って行った。新聞売りの少年は駅のホームで声を張り上げる。窓の向こうに座っているのが不名誉な一面記事に載った張本人だと知る由もない。

古より続く、世界の理を探究する学問はその名を自然哲学といった。

ギリシアの都市国家に住まう自然哲学者は、自然に満ち溢れる種々の現象について理解を深めようとした。以来、そこから出でた成果はあらゆる分野に応用され、技術、経済、政治、戦争、文化、その他の人類の営みを前に押し進めてきた。

欧州で発展した自然哲学の巨大な一分野は、錬金術である。賢者の石によって鉛を黄金に変えんとする情熱的な学問は、その本願を成就することはなかったが、その過程で見止められた数多の発見は自然哲学の世界に大きな成果を残した。

錬金術を志す者たちはその悲願の達成に術と時化こそが鍵となると信じてやまなかった。世界を賑やかす神秘の現象について理解を深めるために活発な研究が行われた。魔術師たちの中にもまた、自らが錬金術師となって研究を進める者があった。

少数で細々と研究を続ける学者たちが陽の目を浴びたのは前世紀も後半に差し掛かった頃である。国家の生産力を向上するためとして、時化の発生を抑える研究が奨励された。各地の大学ではこぞって時化と術の研究が進められる、その背景には今産声を上げんとする、人の手を借りずに動く動力機関の影があった。

こうした動きに反発したのが教会の魔術師たちである。辺境の里に暮らす魔術師や魔女と異なり、各国王家の庇護を受けて教会内で実力を持った魔術師たちは一連の研究を『主の御業たる術の神性を削ぐ冒涜的な行為』として激しく糾弾した。それに対して学者たちも応酬した。既に多くの発見によって、彼らは術と時化もまた自然哲学的な一現象に過ぎないと信じていたのだった。

こうして始まった学者と魔術師の『戦争』は十年以上繰り広げられた。その結果は、学者陣営の敗北である。過熱した研究は多大な功績を残したものの、遂に誰一人として時化が発生する根本の原理に到達することができなかった。戦いが長期化するにつれて、魔術師たちは為政者に取り入って学者への圧力を強めた。彼らは危惧した、このままでは学問が弾圧され、自然哲学のあらゆる営みが絶たれてしまうと。これ以上の無益な争いを避けるため、名立たる学者が結集したオーストリアのヴィエナで共同宣言が発表された。

『我々自然哲学者は、今後一切、術と時化の発生に関する研究を行わないことをここに宣言する』

自然哲学者による無条件降伏、ここに長い戦争は幕を閉じた。一七七六年、大西洋の彼方の新大陸で、取るに足らない小国が英国からの独立を宣言したのと同じ年である。

「ヴィエナ宣言」以来、種々の自然哲学者たちは自分たちを、専ら人類の技術向上のためだけに研究を行う存在として、技士と名乗った。まもなく英国の技士、ジェームズ・ワットは実用蒸気機関を発明する。それはこれまでの産業構造を大きく変革すると共に、魔術師の社会を一変させた。魔術師は術士と呼び名を変え、その力でもって産業を発展させる。国家主義に傾倒した列強は国土と植民地で熱心な術士の囲い込みを行い、それは明日の国力になる。世界中で術士の地位は青天井だった。

かの「ヴィエナ宣言」から既に百年以上の時が経過している。学校で工学を習う技士はまず初めにこの宣言を学ぶ。前世紀の技士たちが残した誓いの精神は今も生き続けている。


サクラメント駅の見慣れた白い駅舎。外に出れば隣に前の職場である電信局も目に映る。はじめに仕事の話を受けてここから発った時、まさかこのようになるとは予想できなかった。仮にこの未来が予測できていたら、異なる結果をもたらすように仕向けただろうか?

ロバートはホームに立ってそれとなく辺りの乗客の顔を窺ってみた。もし見知った顔がいたら見つかりたくない。その者はひょっとすると新聞を読んで知っているかもしれない。幸い、帽子の下の顔ぶれは誰も見覚えがない。

床に鞄を置いてしばらくは何も話さないでいたが、稲熊が懐から紙切れを取り出して三人にそれぞれ差し出した。

「某はすぐに行く。サンフランシスコではそこに居る故、用あらば便りをくれ。向こうひと月はそこに居るであろう。」

そこには住所が書かれていた。サンフランシスコに住む知人の家らしい。それを渡すと稲熊は一礼し、次の列車が入るホームに向かって歩いて行く。黒の軍服は目立って、群集の中でもしばらく余韻のように残り続ける。

「私は迎えを呼んであるから、行くわ。」

ベンチに腰掛けていたアンジェラが立ち上がった。そばで立ち尽くすロバートに向き合ってこう言った。

「ロバート、それからリニーも、また会いましょう。」

「アンジー……」

そう呟く声は人ごみに紛れて、振り返らず彼女は去っていく。もう五年以上は同じ街に暮らしていて、一度も彼女と顔を合わせたことはない、姿を目にしたこともない。当たり前だ、住む世界が違うから。「また」なんていつ来るか分からないのに。

後に残されたのは二人だけになった。はじまりの列車に乗った時と同じ、二人。リニーはベンチに座ってロバートの顔を見上げた。彼は俯きがちで陸に上げられた魚のような眼をして、それでも顔を覗きこまれているのに気が付くと力なく微笑んだ。

「ロビン!」

彼の名を呼ぶ者があった。人もまばらになり始めたホームに、こちらへ近付く影が一つ。体躯に沿った黒い士官服に背の高い軍帽。ブーツの足音を響かせやってくるのは、グレイヒル将軍であった。サクラメントに戻る前に電報を打っておいたのだ。彼は自らの甥の前まで来ると、軍人の癖で背筋を伸ばして声をかけた。

「ロビン、戻ったのだな。」

「はい。」

「インディアンの君も一緒だったか。」

「ご無沙汰しております。」

リニーはロバートの隣に立って丁寧に挨拶する。

「急な事なのにわざわざ来ていただいてすみません。」

「当然のことだ。それにお前とは話すべきことがあるからな。」

その言葉を聞いてロバートは首を少し下に傾けた。

「あの、叔父さん、お願いしたいことがあるんです。」

「言ってみなさい。」

ロバートはリニーの肩に手を置いた。

「少しの間、この子、リニーを預かってくれませんか。ついでに彼女の話も聞き入れてくれると嬉しいんですが。僕のところじゃ……無理になってしまったから。」

リニーはそう聞いて驚いた。すぐに首を横に振る。どうしたってこんな時に自分の身の置き場のことを心配しているのかと、彼女は言ってやりたかった。

「ずっととは言いませんから、お願いします。彼女は僕のことを助けてくれた大切な友人なんです。どうか助けてやってください。」

「ふむ、構わない。」

「いいえ、私は……」

「気にすることはない、しばらく吾輩の家で勝手にしなさい。」

リニーはいたたまれなく思った。今、本当に助けが必要なのはロバートの方だろうに。それでも厚意を無駄にはできないと彼女は承諾した。

「ありがとうございます。」

ロバートは胸をなでおろした。

「それでだ」と将軍は再び彼の方に向き直った。胸の金ボタンが光を散らす。

「あの内容は、本当なのか。」

将軍は勿論新聞を読んで話を聞き及んでいた。

「はい。」

彼の言葉に返事はなかった。将軍は心のどこかで記事がホラ話であることを望んでいた。そうであれば収拾をつけるのも容易かったからだ。

「喜んでくださいよ、時化を止める、大発見ですよ!あなたの甥が見つけたんだ!」

彼は馬鹿に明るくそう言って、後悔した。かえって辺りの空気は冷たくなり、虚しさが漂う。

「何でもよい、ただしあの書かれ方ではすこぶる印象が悪い。嘘が千里を走る時、真実はまだ家でズボンを履いていると云う。間違った話を訂正するのは骨が折れることだぞ。立ち話も難だから吾輩の家に行こう、今日は遅くなるからロビンも泊まりなさい。」

「いいえ、今日はもう家に帰ろうと思います。お話はまた今度に……」

「そのようなわけにもいかん。来なさい。」

「すごく、疲れてるんです。お願いします。」

必死さは欠片もない、至極気の抜けた声。それだけで将軍は彼の憔悴が分かって、自らの提案を引き下げる他なかった。

「では、これだけは教えてくれ。なぜこのような結果になったか。」

「なぜ……?」

次の瞬間、彼の目は見開かれた。

「僕は頑張った!熱心に仕事をしただけだ!それなのに……!本当だ、僕は頑張ったんだ!」

周りの人も振り向くほどの気迫でまくし立ててから、また元の通りに萎むと「すみません」と呟いた。

「この子を、よろしくお願いします。」

リニーの頭に手が置かれた。黒髪を優しく撫でるように手を下ろすと、彼は鞄を持ち上げてその場を去る。

荒野の太陽より眩しかったその背中が、ひどくか細いものに変わっていた。


『術士を殺す発明』


『ウエスティングハウス・エレクトロニック、研究の詳細を関知せず』


『ならず者の技士、国際宣言破りの「黒」研究』


『ニューヨークの術士、連名で研究の即刻破棄を要求』


誰もいない食卓に一人残って、天井の明かりの下で新聞を大きく広げる。海亀のシチューの香りを鼻先にまだ感じるのは、この広い部屋からか、それとも自分の腹の中か。

グレイヒル邸の厄介になって数日が過ぎている。陸軍大佐の私邸となればそれは大層なもので、第一に庭が広い。芝生の向こう側にパーゴラがあって、松の肘掛け椅子が野ばらの垣根の方を向いて置いてある。そんな明るい庭が見える窓は天井近くまであって、掃除が行き届いた部屋の隅々まで照らす。召使が何人か雇われていて、食事の時間になると向こうの台所からこちらまで勝手に運んできてくれる。朝起きてから寝るまでにしなければならないことは何もない。

当のリニーはというと、大変ばつが悪い思いをしていた。それはこの首回りが少々苦しい絹の洋服のせいではない。自分がまたしても他人の厚意に与かって「気取った」暮らしの中にいるためである。グレイヒル将軍に文句をつけるつもりではなく、望むと望まざるとに関わらず、幸運にも今の状況に上手く収まった自分に対してやるせなさを覚えるのだ。顔向けできないのは、寄宿学校の友人、故郷の家族や同胞、それに今ではもう一人増えた。

一刻も早く、この嬉しくも望ましくない状況を脱せねばならない。

そう思って今だってこの新聞を読んでいるのだ。食後の新聞を読む時間は彼女の日課になりつつある。彼女が探しているのは政治家やら有力な資産家やらの名前である。自らの支援者になり得る融和的な人物を見定めるために、種々の記事から人名を捉えてはそこを読み込んでいる。

今のところ、力になりそうな人物は見つけられていない。見つけたところで、何をどうすれば協力が得られるかも見当がつかない。それでもやらないよりは幾倍もいいから、最低限の行動を起こしているという言い分は作れるから、一枚一枚粗末な紙をめくっていく。英語の記事を隅まで読むのは骨が折れる、それでも根気強くやるのが肝心だ。

目を血走らせんとする迫真さで読み続けていると、しょっちゅう彼に関する記事を見つける。この黒枠で囲われた記事は確か社説といって、世事に対して新聞社が意見を表明する場所だ。題は『シヴィル・ウォーは再び来たるか?』、読むまでもない、どうせ彼に対して批判的なことが書いてあるのだ。名前など知る由もないが、空気の淀んだ事務所の机で煙草を吹かしながらこれを書いた冴えない髭面に比べれば、私を助けてくれた彼の方がずっと立派に決まっている。

部屋の扉が開いた。扉の前に立った時の靴の音で分かった、将軍だ。目が合ってリニーが立ち上がろうとするのを制止した。

「お帰りでしたか。」

「ああ、今日はな。」

将軍は扉を閉めて彼女のもとまで歩み寄った。

「どうだ、この家には慣れたか、リニヤ……」

「リニーと、彼はそう呼びます。」

「そうだな」と彼は頷いた。

「吾輩も君の勝手が分からぬから、君のしたいようにすればいい。何かあれば使用人に言い付けなさい。」

「いいえ、大変お世話になっております、グレイヒルさん。サンフランシスコでのホテルのことといい、あなたには助けられました。」

「それならば結構。しかし、甥が君を連れているのを見た時はどういうことかと思ったが、こうしてみれば君はなかなかしゃんとしているな。」

リニーは作法や礼節の類を寄宿学校で厳しく指導された。それが脱走してからの生活の役に立っているのは皮肉である。

こうして将軍と向き合うのも初日以来のことで、リニーは日頃の疑問を尋ねる機会だと思った。

「つかぬ事をお尋ねしますが……」

「何だ。」

「この家には他に家族は居られないのですね?」

この広い家には将軍の他に家族が住んでいる気配が無かった。

「それもそうだ。吾輩は男やもめであるからな。それだけに、甥が唯一の親族だ。」

将軍は結婚しない主義か何かあるのだろうと、リニーはどこか納得していた。それにつけても気になるのはロバートの家族のことだった。彼も一言たりとも話が出たことがないから、これは訊くべきでないことなのかもしれない、それでも訊かぬことには何も始まらない。

「ロバートの家族はどうされたのですか?」

瞬間、将軍の眉間に皺が寄った。けれどもそれは不快に思っての反応ではなかった。ただ単に彼女に対し話して聞かせることを躊躇ったのだ。将軍は遂に頷いて口を開いた。

「君も知っておくべきかもしれない。ここで話を聞いたことを彼に伝えるかは、リニー、君に任せる。」

「はい、分かりました。」

「ロバート――彼の両親は彼が幼い頃に亡くなった。殺されたのだ。」

将軍は近くの椅子に座り、卓の上に肘をつけて甥の生い立ちを語った。

「我が家は元々マサチューセッツ州のボストン近郊に暮らしていた。兄弟は二人だけで、兄貴と、弟の吾輩だ。冬は冷えるが、風の心地よい土地だった。兄弟といっても中々対照的なもので、兄貴を吾輩と同じような男だったと思ってはならんぞ。吾輩と違って彼は繊細で仕事のできる奴だった。それで兄貴はサンフランシスコで銀行員の仕事を得て西海岸へ渡ったのだ。当時カリフォルニアといえば『金鉱殺到』の真っ盛りで、誰もが黄金のために西を目指した。それなのに兄貴ときたら銀行員なんて、ただまあ、今思えばサンフランシスコの金融業は先見の明があったな。そこが兄貴らしかったのだ。その頃の吾輩はウエスト・ポイント陸軍士官学校に在籍していた。やがて、彼は結婚した。相手は郵便局員の女性だそうだ。吾輩は一度だけ会ったことがある、柔らかい雰囲気で、青い目をしていた。しかもその時二人は子供を連れていた。母親の腕に抱かれた、母親と同じ色の目をしたその赤子はロバートと名付けられた。吾輩の甥だった。兄貴の溺愛ようといったら並でなくて。『お前も結婚しないのか』などと言われたがな。」

「――前置きが長くなったな。本題はここからだ。一八六一年にシヴィル・ウォーが始まった、兄貴に子供が生まれて一年後のことだ。そこから吾輩は忙しくなり、兄貴とも連絡を取らなくなってきた。そもそも、あの時代は混乱で郵便も途中で立ち消えることが珍しくなかったから。そんな戦いもようやく終結の兆しが見えてきた頃のことだ。兄夫婦の死を告げる便りが吾輩に届いた。どうやら仕事でメキシコ国境近くの砂漠の街まで行った時のことのようだ――当時は鉄道など通っておらず――馬車が襲われたらしい。赤い悪魔……分かるであろう、その辺りは白人とインディアンの抗争が絶えない土地だった。殺戮と略奪の限りを尽くす悪魔といえど、幼子を殺すだけは忍びなかったのであろうな、彼だけが生き残った。駆け付けた騎兵隊が発見した時は、両親の死体の傍で眠るように倒れていた。」

それからの将軍の話は軽く語るに留められた。ロバートの後見人には祖父母は既に高齢で、経済的にも豊かである叔父が選ばれた。その頃にはシヴィル・ウォーはほぼ平定されており、将軍の配属はちょうどカリフォルニアに移されたので、今の家に移り住んで幼い甥と暮らすようになったのであった。

真っ先にリニーが思い出したこと、それはヒルバレーを発った日にジェロニモの襲撃現場を目の当たりにした時である。無抵抗に撃ち殺され、侮辱的に大地に転がされた死体の傍で彼は叫んだ、彼らの野蛮な行為に怒りを、不条理な世界の善良な命に対する仕打ちへの嘆きを。その根源には自分の家族を目の前で奪われたいつかの景色があったのだろう。

それならば彼はリニーがアパッチの一団に具すことに何を思ったろうか。自分の仇敵とも言うべき暴虐なインディアンに彼女もまたついて行ったことを。彼は独善的に他人を批判するような男ではないから、何も言わなかった。きっと、その影では失望を抱えて。勝手に出て行ったり、都合よく戻って来たり、リニーは自分のやったことが信じられなかった。

彼女の衝撃を察して、将軍は黙って卓に目をやった。リニーが広げた新聞が彼女の前に置かれている。彼はそこから真っ先に目に映った題を読み取った。

「『シヴィル・ウォーは再び来たるか?』……。けしからん、不用意に不安を煽るような記事は。」

すかさずリニーは新聞を畳んで記事が見えないようにする。

「こんなものはでたらめです。彼は決して悪人ではありません。」

「それだけ市民は恐れているということだ。あの戦いが再び巻き起こることを、この国が戦火に呑まれることを。」

「シヴィル・ウォーですか。」

「ああ。」

「グレイヒルさん、不躾にもう一つお尋ねしたいことがあります。……シヴィル・ウォーとは如何なるものでしょう。私は当時の様子を知りませんが、白人がこの名を口にすることも憚るほどに大きな恐れを抱いているのを知っています。私はそれほど興味があったわけではない、けれども、彼の件でその名が引き合いに出されるのなら、私は知りたいのです。」

将軍は目を逸らした。畳まれた新聞のひっくり返った文字を読むでもなく目で追った。それでもう一度目の前の娘を見ると、彼女はまだこちらを見つめていた。両手を膝の上できゅっと結んで、まるで聞かないままではこの場を離れないとでも言うかのような真剣なまなざしで。

「君もアメリカで生きるのなら知るべきだな。民の心が大時化に見舞われた時代の記憶を。」


シヴィル・ウォーは二十年余前にアメリカ合衆国で発生した内乱である。一八六一年から一八六五年まで、四年間続いた。この戦いが歴史として語られるとき、そこでは「敵無き、勝者無き戦い」と称される。

シヴィル・ウォー発生の原因を一つに定めることは容易ではないが、大きな要素の一つは術士と平民との対立関係にある。合衆国は建国から八十年以上を経て、強欲な資本家への富の集中と労働者の貧困は既に埋めがたい域に拡大していた。富が集中した少数の市民の中には当然術士も含まれていた。国は産業革命の中にあって、機械を動かすための術士はいくらいても足りない状況だった、背景には欧州の各国が自国内の術士の囲い込みを行い、人材の国外流出を防いだことが挙げられる。術士が不足する当然の帰結として、彼らの賃金は際限なく上昇していく、合衆国へ渡った術士は必ず好待遇を得ることができた。一方で平民の労働者にそのような幸運は舞い込まない、成功を信じて訪れた新天地では貧しい土地を耕す日々が待っていた。厳格な身分制度が敷かれた欧州ならまだしも、船に乗って大西洋を渡ったその時は等しく「移民」だったはずの人々に、これほどの差が生まれるとは。

この状況に業を煮やした労働者たちが工場で暴動を行ったのが一八六一年のこと。運動は瞬く間に全国に広がった。シカゴ、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモア、ワシントン、リッチモンド、ナッシュビル……。ストライキと称した集団が破壊行為を行い、放火し、治安当局への攻撃に至る状況が各地で巻き起こった。全国の都市で急速な治安の悪化が進行していく。

術士たちが恐れをなすのは当然であった。彼らは自衛の手段を講じる必要性に迫られた。すなわち、邸宅に籠城し私兵を雇い、術士同士で協力体制を築くことであった。一方で彼らが応戦の構えを見せたことは相対する集団にとっては挑発に他ならなかった。暴動の次には各州で無名の集団同士の戦闘が発生する。連日どこかで繰り広げられる銃撃戦、合衆国に銃声は休む間もなく鳴り続けた。

次第に集団は統合と分裂を繰り返し、元の共同体を失った貪欲な戦闘集団へと成り代わる。それぞれが行う行為はただ、「銃口を向けられた相手を撃ち返す」のみ。敵が何者であるかは分からない、交戦勢力不明の戦いは無数に発生した。「敵無き戦い」の始まりである。

事態は警察の対処可能範囲を超えており、合衆国軍が必要であった。しかし開戦から半年程度は合衆国軍がろくに機能しない惨憺たる状況が続いた。多くの集団が合衆国軍の武器庫を目指して襲撃を行い、各駐屯地は自らの領域を死守することに手一杯で組織的な反抗力は失われていた。加えて、激化する戦闘で国土は疲弊し、整備が行き届かなくなった道路や通信網は機能不全に陥り相互の連絡を困難にした。誰もが明日を生きることに必死で、戦火の国土を再統一しようなどとは夢にも思わなかった。

だが、合衆国という列車もやがては暗く長い隧道を抜ける時がやって来る。一人の偉大な「機関士」によって。

エイブラハム・リンカーン――第十六代アメリカ合衆国大統領。シヴィル・ウォーの渦中で大統領職を務めあげた。彼は日に日に戦火が拡大し、諸外国から諦めと失望のまなざしを向けられる合衆国の現状を憂い、この戦いを終息させることを決意した。

リンカーンは自ら合衆国軍を指揮し、治安の回復にあたった。長引く無名組織同士の戦闘で軍の威光が失われたと感じた彼は部隊に敢えて中心街での観閲式を強行。反抗する勢力によって市街戦に発展するかと思われた危険な行為は多くが成功し、これにより東海岸で非戦闘員の軍と政府への信頼を取り戻すことができた。

次に合衆国軍は鉄道を用いて強固な補給線の構築に取り掛かった。各地で孤立していた駐屯地は鉄道によって相互に連絡し合うことが可能になり、軍の行動力は大幅に改善された。

ポートランドからリッチモンドに至る東部全域で支配権は確立され、その効果は劇的なものであった。人一人歩いていなかった市街が、子どもが外に出て遊ぶまでに至ったのである。

一八六三年、ペンシルベニア州ゲティスバーグ。リンカーンはこの地で歴史的な演説を行う。決して長くはない演説の中で、彼はこう訴える。国民の心において発生したかつてない時化によって合衆国の礎である「自由」と「平等」は失われかけた。だが今こそは、この長い戦いと分断の最中にあって、民主主義の脅威を排し、我々の勇気によって合衆国の精神を取り戻す時が来たと。当時を生きた国民にとってこの言葉は深く心に刻まれている。一度散り散りになった連邦は再び一つになれると、皆は確信した。

リンカーンは数々の名演説によって融和を説いた。その一方で、未だに続く反抗に対しては毅然とした態度を崩さなかった。「戦いを終わらせるための戦い」の準備を彼は進めていた。リンカーンはここで「世紀の名采配」とも言える判断を下す。前線の指揮官に若く有能な士官を任命した。この男は後の世で「名将」と名高い――ワトキンス・グレイヒル、その人であった。

エイブラハム・リンカーンが衆目を集めるに従って、種々の組織の矛先は彼の指揮する合衆国軍に向けられていった。反乱軍は軍人ではない素人の寄せ集めといえど、実力を侮ることはできなかった。既に国内には外国から密輸された新式の銃器が蔓延しており、突発的に襲い来る彼らの用兵はかつての軍も相当に苦しめられてきたからである。

次第に支配域を西、南に移動させる集団に対して軍は攻勢に出た。グレイヒルの勇猛果敢な部隊は面白いように敵の守備陣を切り崩し、次々に戦果を挙げた。各州の統治は合衆国政府の手に戻り、市民は解放される。新聞で日毎報じられるグレイヒル隊の戦功に国民は沸いた。

追いやられた反乱軍は集結が進み、その本拠地はルイジアナ州、ニューオーリンズにあった。彼らはジェファーソン・デイビスという政治家を祀り上げてその首領としていた。一大大戦がニューオーリンズ近郊で展開される、合衆国軍はこれを打ち破り、ついに反乱軍は組織的な活動能力を失った。その後も小規模な戦闘は断続的に発生するも、大義を失った集団に抵抗を続ける余力は残っていなかった。一八六五年、後に「シヴィル・ウォー」と呼ばれる長い戦いは幕を閉じた。

この戦いが「勝者無き戦い」と呼ばれるに至ったのは、その後のアメリカ社会が辿った経緯による。

不毛な戦闘によって荒廃した国土を復興するため、大統領は再建政策を打ち出した。一連の政策の目的はもう一つあった。リンカーンは内乱が発生した要因の一つが格差による国民の分断であったことを重く受け止め、経済成長こそが国民に連帯を生むと確信した。シヴィル・ウォーを経ても裕福な術士と貧乏な労働者の構図が崩されたわけではない、これを根本的に正すことは不可能とも言える。その代わり国家が大きな経済成長を遂げ、国民全体の生活が豊かになっていくうちは、多少の経済格差は目につかないだろうと考えたのだ。実際に「再建」を掲げて実行された様々な政策によって市民の生活環境が改善されていくと、旧態依然として燻っていた社会階層間の軋轢は縮小していったかに思えた。

また、この過程で合衆国西部の開拓も進んだ。フロンティア・スピリット――大統領は、開拓者は、アメリカ国民はこの言葉を繰り返し唱えた。強い意志によってまだ何もない荒野に文明を根付かせる崇高な精神は、合衆国全体を導くものとしてお互いの合言葉になっていったのだ。

対立を超えてアメリカは強くなる――誰もがそう信じていた――あの悲劇が起こるまでは。

偉大な大統領、エイブラハム・リンカーンはワシントンの劇場で暗殺された。観劇中に後頭部を至近距離で撃たれ、翌朝死亡した。全国民が大きな悲しみに包まれた。犯人はジョン・ウィルクス・ブースという俳優で、現場からの逃走を図るも追手の軍に射殺される。

この事件を受けての国民の動揺は並々ならぬもので、これによって鎮まったはずの内乱の炎が再び燃え上がるのではないかと恐れを抱いた。合衆国民の心が再び巨大な時化に見舞われるのを防ぐため、国民が団結して取った行動は「口を閉ざす」という、最も単純な手段であった。リンカーンの死を巡って論争を続けることでもう一度望まぬ戦いが繰り広げられるかもしれない、それよりは、すべてに口を閉ざし、彼が遺した再建政策を推し進めることだけがせめてもの手向けではないか。こうして政治家も新聞も、術士も平民も、シヴィル・ウォーと大統領の暗殺について口にすることを辞めた。

大地を覆いつくすほどの大量の血を流したこの国が学んだ教訓は一つ、「人々の心もまた時化る」ということ。たった一つのデモから上がった炎が国中を焼き尽くした、何だってきっかけになり得る。一つの諍いが次のシヴィル・ウォーを生むかもしれない、それは何の前触れもなく目の前の暖炉が時化るのと同じだ。そうなることを防ぎたければ、なるべく、なるべく過去の争いについて言及することを避け、対立を煽ることを抑えなければならない。黙秘の上にしか平和は築かれない。


「あれから二十年が経った、今の社会はどうだろうか。実際は何も変わってなどいない、それどころか、少数の者による富の独占は加速している。シヴィル・ウォーを乗り越え、「黄金」と呼ばれる時代を迎えた今も争いの種が消えたわけではない。だからこそ国民は恐れているのだ。いつ何時再びそれに火が点いて大きく燃え広がるか分からない、今となっても我々がかつての内乱に多くを語りたがらないのはそういうわけだ。リニー、吾輩が『この記事はけしからん』と言った理由が分かったろう。」

「この国は、二十年前の大戦を未だに乗り越えてはいないのですね。」

将軍は頷いた。

「世間は吾輩を『名将』と褒め称えるが、我々は勝者ではなかった。吾輩が相手にしたのも国民だった。本来であれば外敵から命を賭して守るべきものを我が軍は刈り取った。それが果たして『名将』といえようか。……失礼、最後の話は口外してはならぬよ。いつでも強くあれ、それが吾輩が大統領閣下から学んだことだからな。」

将軍はこの会話を「長話が過ぎたかな」と言って締めくくった。

庭先の陽の当たるパーゴラは影の向きが変わって、野ばらの垣根にかかるようになっている。

リニーは自室に戻ろうと立ち上がった。すると将軍が彼女を呼び止めて話を持ち掛ける。

「リニー、一つ頼まれてはくれないか。それというのは無論、ロバートに関する用件だ。」

その名を聞いて彼女の目は見開かれた。

「彼のところに書簡を届けてやってほしい。手紙にしてやってもいいが、大事なことだから直接届けるのが確実だ。それに、親しい者が訪ねるのが彼にとってもよかろう。様子を見てきてほしい。」

「あなたは行かれないのですか。」

すると彼は鼻から息を吐いて首を横に振る。

「吾輩はこれよりワシントンに向けて発たねばならなくて、彼の面倒を見る時間がないのだ。このような時に彼のもとを離れるのはこちらとしても心苦しい、怠慢な後見人と思うだろうが、許せ。」

「いえ、決してそのようなことは。お引き受けいたします。」

「うむ。後で部屋に書簡を届けるから、明日にも持って行ってくれ。」

「『大事なこと』とは何ですか?」

リニーはさっきの将軍の言葉を繰り返した。

「この事態を収拾つけるためには甥が公の場で直接話す必要がある。そのための会見場を整えたので、それを伝えるものだ。」

「会見ですか。」

「事実、甥は何かの法律を犯したわけではないし、かの研究さえ然るべき処分を行えば事態は丸く収まるはずだ。術士団体の要求する通り、研究については凍結、破棄を宣言すればよかろう。」

破棄、リニーは納得がいかなかった。

「ロバートはあの研究に命まで懸けたんですよ。それを今更すべて闇に葬るなんて……。」

「大変に心苦しいことは分かっている、だがそうする他に無い。研究の成果が彼の言う通りなら、社会に与える影響は大きすぎる。そしてこれ以上の混乱を招くことがどうなるかは、この場で話した通りなのだから。」

「しかし、それでも……」

「吾輩にはこうすることしかできぬ。元はと言えば吾輩に原因があるのだ。彼を苦しめることになるなら、このような仕事を紹介するべきではなかった。」

将軍はリニーを置いて部屋を後にし、その日のうちにまた邸宅を出て行った。


サクラメントの中心街はいつだって賑わっている。いつだって皆自分の目的地を目指して脇目もふらず進んでいき、浮浪者は歩道の端で野良犬と共に座り込む。頭上には幾重もの電信線が激しく交差していて、太陽の光を遮って街をどことなく暗いものにしている。

リニーはそのような風景を馬車の座席から眺めていた。彼女はこれほど多くの人が集う場所を見たことがなかった。寄宿学校を抜け出して、ロバートと共に訪れたサンフランシスコ、ロサンゼルス、あれらの喧騒を目にするまでは。だから今でもあまりに人が多いのには慣れていなくて、思わず圧倒されてしまう。この街は今乗っている二人乗りの馬車よりもずっと窮屈なのだ。

車が止まり、御者が到着を知らせた。彼の手を借りて地に足をつけると、そこは赤茶けた煉瓦造りの三階建てアパートメントが立ち並ぶ地区だった。そして御者の話によれば目の前の建物が目的地だという。

将軍から事前に報酬を受け取った御者はそのまま車を脇に寄せて落ち着けた。御者をあまり長く待たせるのもよくないので早めに用事を済ませてしまおう。彼に間違いが無ければロバートはこの建物に住んでいる、そうであることを願う。

建物で一つしかない郵便受けはいくつかの郵便の存在を見て取れた。それがロバート・グレイヒル宛に届けられた抗議文書であることをリニーは知らないが、将軍が「直接届けるのがいい」と言った理由は察するに十分だった。

外扉の呼び鈴を鳴らす。軽快な金属音を奏で、その音は家主を呼び出す。扉を開けたのは中年女性であった。てっきりロバートが出ると思っていたから、リニーは家を間違えたかと一層不安になって、最初の言葉が出てこなかった。代わりに女性は言う。

「ここのところ見慣れないお客様が多くて困ってるんです。グレイヒルの坊ちゃんにご用があるなら、彼は出られませんことよ――。」

その夫人は来客を記者の取材だと思ったのだろう、しかしそれにしては奇妙な浅黒い肌の少女が立っていたので、彼女の方も言葉を失った。

「あの、ロバートのお宅でしょうか……。」

「ええ彼は上に住んでいますが……あなたインディアンの娘さん?」

リニーはカクカクと首を上下に動かした。

「分かったわ、きっとあなた、坊ちゃんのお知り合いなんでしょう。分かりますとも、坊ちゃんは不思議なお友達が多い人ですからねえ。」

リニーはさらに首を動かした。何はともあれ、話が通じたのは幸いだった。

夫人は彼女を招き入れ、上への階段を上がるように促す。それと同時に階段の上に向かって「坊ちゃん、お客さんですよ!かわいらしいお嬢さんが!」と呼びかけた。

階段の上は静かだ。板張りの床を踏みしめる足音だけが響く。階段室の窓から差し込む光線は宙を舞う埃の存在を明らかにして、それが漂っているのを見守ることができた。その光筋の先に一枚の扉がある。一階の内扉と同じ構造の深い茶色をした木で、ノブは薄く黄色がかった鈍い光沢を放つ。鍵穴が一つ、真ん中に黒く目立つ。

その扉の前に立って、握った左手が木の表面に触れるかどうかのところで扉はひとりでに開いた。ロバートはそこに立っていた。見慣れたジャケットは彼らだけが知っている冒険の跡でくたびれていて、いつもの帽子がない代わりに琥珀色の髪が日差しを受けて輝いた。

「リニー、やっぱり君か。」

「分かったんだ。」

「『かわいらしいお嬢さん』の知り合いは君しかいないものだ。」

「アンジェラは?」

「かわいらしいとは違うだろう。それに彼女はここには来ないよ。」

ロバートは目を逸らして階段のある方を見た。

リニーは少し安心していた。数日ぶりに会った彼は決定的に生気を欠いているというものではなく、存外変わりなかった。それでもかつてほどの気力に満ち溢れているのでもなかった。

ロバートはリニーを招き入れた。玄関脇の帽子掛けには見慣れたあのヘルメットもしっかりぶら下がっていた。リニーは入るなり目に入った奥の壁を埋める巨大な本棚に圧倒された。ロバートはそんな様子を見て微笑んだ。

「これが技士の部屋さ。学生の頃から集め始めて今ではこれだけになった。エマソン邸で巨大な本棚を見た時は僕も圧倒されたものだ。」

「これを全部読んだの?」

「読んだだけじゃなくて、だいたいのことは覚えてる。」

「すごい。」

「学ぶことを辞めたら技士ではいられないから。」

通りに面した窓際には机があった。ペン立てにラムプ、下には引き出しもついてそこから書類がはみ出ている。そして無造作に投げ出された筆記用具の隣には、彼が叔父から受け取った拳銃が置かれていた。黒い銃身は窓の外を向いて呑気に景色でも眺めるように、太陽に照らされたシリンダーの下、引き金の上には「W・グレイヒル」と彫られてあった。リニーはそれを見た時に将軍の顔と昨日の会話が思い出された。机に向かったまま背中でロバートに話しかける。

「叔父様から、ご両親のことを聞いた。」

「そうか。僕が赤子の頃に亡くなって、僕には朧気にも思い出せないんだ。」

「どうして私を助けたの?」

ロバートは顔をしかめた。

「それ、どういう意味だ。」

「私の家族が白人に殺されたら、私は白人のすべてを憎むと思う。ロバートは、違うの?あの列車で私を助けたのは何故?」

「君の言いたいことは分かるが、それは的外れな話だ。僕の両親を殺した輩と君と、何の関係があるんだ。」

「それならば何故、私がアパッチと共に行くのを止めなかったの。あなたのことを何も知らずに戻ってきた私に、失望したでしょう。」

ロバートは一時口をつぐんだ。それからすぐにこう返した。

「君の考えを尊重したまでだ。誓って失望なんてしていない。」

「どうしてそんなに平気でいられるの!?」

リニーは声を振り絞った。力強く握り締めた拳からは固く締まる音でもするかのようだった。

ロバートはベッドに座り込んだ。古いマットレスが沈み込んで彼の形に窪む。

「平気なんかじゃないさ。」

ベッドの足先にある机の前に立つリニーを見て、彼は言った。

「リニー、君のことは、助けたいと思ったから助けた、それではダメなのかな。……君が戻ってきてくれた時は本当に嬉しかったよ。」

彼の体はカーテンの影になって薄暗がりで、その中でもこちらを見つめる青い瞳は良く見えた。彼の母親も同じ瞳をしていたなら、一度会ってみたかった。

リニーは潤んだ瞳を細めた。

「ロバートは私のことが好きなの?」

「は?ちょっと待てどうしてそうなるんだ。……いや勿論、嫌ってなんかいないけど、何か勘違いしてないか。」

さっきまでの表情はどこへやら、すっかり崩れてしまった。あんまりに恰好つかないから、リニーは噴き出した。

「冗談。」

きまりが悪そうに頭を掻くロバートをよそに、リニーは将軍に託された書簡を取り出して彼に差し出した。

「これ、叔父様からの便り。大事なことが書いてあるの。」

「大事なこと?」

「あなたの、これからのこと。」

ロバートは書簡を受け取ってリニーを隣に座らせた。封を切って折り畳まれた中の紙を広げ、九十度回転させる。それからは書かれた文字に目を落として、しばらくそれと向き合っていた。リニーは本棚の背表紙を順番に目移りさせながら、それとなく彼の横顔を見た。彼は眉一つ動かさず、至って冷静にそれを読み進めた。てっきりひどく落ち込むか激昂するように思われていたので、書いてある内容は将軍の話した通りなのかと疑いさえした。

終いまで読んで、再び視線を最上段に戻すとロバートはリニーに問いかけた。

「叔父さんは、何て言っていた。」

「あなたを置いて街を発つのは心苦しいと。ロバートを苦しめるくらいなら、仕事を紹介しなければよかったとも仰っていた。」

おそらくは文面にも同じようなことが書いてあったのだろう、ロバートはそれを聞いて首を横に振った。

「それは違うさ、彼は機会をくれたんだ、それを棒に振ったのは僕だ。」

「――憧れていたんだ、二人の人に。一人は、エマソン卿――アンジェラの御父上だよ。僕に技士の道を拓いてくれた人だ。資産家でも驕らず、常に恵まれぬ人々のために尽くす方だ。この街の人はみんな慕っている。もう一人は僕の叔父、グレイヒル将軍。何事にも動じず堂々と構えていて、固い意志を持っている。何より国民の英雄だ。僕は二人の偉大な男に助けられてこの道を生きてきたんだ。……だけど、彼らのようには上手くいかなかった。人を助けるようなことも、立派な軍人になることもできなかった。そうしているうちに、叔父さんには顔向けできなくなってしまった。彼に会うことを避けるようになり、便りを送ることさえ億劫がるようになった。その一方叔父さんは、今だってこうして、僕を気にかけてくれていたのにね。」

ロバートは、手紙を折り畳んで人差し指と中指の間に挟んだ。

「この話を受けるよ。ここで宣言して、金輪際この研究とは、いや、この道からも訣別するよ。電信局の機械いじりが僕にはお似合いさ。」

「そんな、せっかく見つけたのに。ねえ、研究成果は誰にも見せずに隠していればいいんでしょ。世の中の風向きが変わったらその時はまた再開すればいいじゃない。」

「そういうわけにいかない、それが大人の約束だ。」

リニーは肩を落とした。

彼は現実が見えている、いつだって合理的に判断しているだけだ。それでも――その考えは彼らしくない。人っ子一人いない荒野で来る日も研究に没頭していた彼なら、そんなことは言わない。リニーはそう言ってやろうと顔を上げると、彼は固く目を瞑っていた。

「例え人を助けられなくても、その逆のことをしてはいけない。これ以上多くの人に迷惑をかけるわけにはいかない。いい加減認めるんだ、もっと早く気付くべきだった。――僕は、あの二人のようにはなれないんだ。」

その震える声でリニーは理解した。彼とて黙って納得したわけではない。彼女が声をかけるまでもなく一番葛藤しているのは本人なのだと。これ以上何も言うことは、ない。

ロバートは目を開いてリニーに微笑みかけた。

「気にするなよ、誰が何と言おうと世界で初めてあれを見つけたのはロバート・グレイヒルなんだ。三人の友人もそれを知ってる、だろ?」

なんて、虚しい笑顔。

「そんなに平気そうにしなくていいよ。」

「……少し、一人にさせてくれないか。」

リニーはその申し出を退けたかった。彼をこの部屋に一人置き去りにするなんてそれほど冷酷なことも他にない。だが、この憐れな技士を救い給う神が居ないのなら、何の助けもしてやれない少女が傍にいたって無駄なことだ。結局、彼女はベッドに腰掛けたままの彼を置いて部屋を後にした。


作業机に敷き詰められた新聞紙は灰色のテーブルクロスを形作る。幾重に折り重なったその上で大小の黒い文字は汚い言葉の旋律を奏でて踊る、踊る。こんなものはすべて意味のない羅列、それでも一人の男を貶める羅刹。この紙面に載せられた写真の男を。

アンジェラは机の上に各社の朝刊を並べてその全体を俯瞰して立っていた。件の会見が行われてから、これをするのは三回目になる。今日になって漸く一面記事の座を別な事件に譲る紙面が現れたが、相変わらず広い枠を取ってこのことは報道が続いている。

背中の方から部屋の扉をノックする音が聴こえた。

「アンジェラ様、いらっしゃいますか。」

その声は召使のマリエットだ。アンジェラは「入りなさい」と一声かけた。扉が開いて、黒い制服に身を包んだマリエットが彼女の後ろに控える。

「下賤は随分と口さがないものね。まあ、知れていてよ。」

アンジェラはぶっきらぼうに呟く。

「あの、車のご用意ができましてございます。」

「ありがとう。この新聞は片付けておいて、竈にでもくべるといいわ、よく燃えるわよ。」

マリエットは弱々しく返事をして、口ごもった。何か言いたげでしばらく上目遣いで主人を見つめていたが、やがて意を決して彼女を呼び止めた。

「アンジェラ様、ご慎重になってくださいませ。マリエットはあなた様の想いを知っております、ですが、此度の件だけは、どうか思慮深き行動をなさいませ。これはあなた様のみならず、ひいてはエマソン家の行く末にも関わることでございます。」

「ええ、そうでしょうね。」

アンジェラの肩越しに新聞を見据える、そこからは人々の叫喚が聴こえてくるかのようだ。

「その新聞が仰ることも、決して見当違いではございません。このことが社会に陰りを差し、災いをもたらすやもしれません。」

アンジェラは短く息を吐いた。「それならば……」とこう語る。

「その『災い』とやらの炎が上がったとして、それを真っ先に浴びるのは誰?」

主人に詰め寄られたマリエットは再び首を垂れ、消え入るような声で呟く。

「……グレイヒル様です。」

「……私はまだ諦めるわけにはいかないの。」

アンジェラは荷物をまとめて部屋を出て行く。去り際にマリエットはもう一度だけ声をかけた。

「このマリエット、アンジェラ様に力添えいたします。」

「ありがとう。あなたがいてくれて良かった。」

マリエットが顔を上げた時、彼女の姿はもう見えなかった。

玄関前につけた専用の車に乗って家を発つ。正面の道を進むと背丈の倍以上はある高い白塀が聳えている。鉄の門が開かれ、邸宅の前の通りに顔を出す。

最短距離で目的地へ向かう馬車の中で、アンジェラは先日の会見を思い返していた。

サクラメントの講演場を借りてロバートの会見が行われた。参加の予約を取った記者の他は基本的には立ち入れないようになっていたが、アンジェラは父の名を使って席を取っておいた。当日も会場の隅に控えて彼の話を聞こうと構えていた。

予定開始時刻の二分後に彼は現れた。活動的な技士の服装でなく、間抜けたあの帽子でもなく、正装に山高帽で登場した彼はそれなりに見目が良くて、金融街の銀行家に見えなくもない。アンジェラは普段からああしていればよいのに、などと冗談めかして思った。

中央に用意された会見席に座った彼は緊張して見えた。無理もない、多くの記者、カメラ、どれも研究の場には存在しないものばかりだから。用意した原稿があったのだろう、彼はそれを取り出して、止まった。のっけから詰まるのは良くない、取材陣を前に無駄な言葉は慎まなければならないが、黙るのも良くない。不慣れであるとか、そんな事情を考慮してはくれないのだから。

ロバートはそのまま動かなかった。表情すらも固まって、時間にして二、三分、それでも途方もなく長く感じるような沈黙があった。

長い長い静寂の後に、彼は口を開いた。前を向いて、目の前の群集の、そのずっと奥までも見据えて、とても短い言葉を発した。

「僕は決して諦めない。」

ロバートは立ち上がり、袖に消えていった。それ以上何も言わなかった。その場にいた者は皆、目の前で起きたことをすぐには理解できなかった。

ロバートが放った短い言葉が何を指すのかは分からない。だがそれは彼の精神を伝えるに十二分なものではあった。翌日の朝刊では各社が様々な憶測を展開した。

――技士、ロバート・グレイヒルは時化と術を止める研究を破棄しない。それどころか、今後も研究を進めるつもりである。

――研究の凍結・破棄を要求した術士の団体に対しての降伏を拒み、真っ向から勝負を挑んだ。

――彼の研究の成果は誰にも明け渡すことを拒否するものである。

いずれにせよ、彼が語った内容は当初予定されていた事実の説明、研究破棄宣言とは正反対のものであった。このかつてない大事件は一夜のうちに全国に広がった。それだけでなく、大きな衝撃は国外に及んだ。かねてより諸外国政府は本件について懸念を表明していたが、ロバートの宣言によってそれは強い非難の言葉に変わった。産業革命以後に台頭した術士貴族によって政治の実権が握られている欧州の国々にとっては、彼の発明は政情不安にすらつながりかねない大きな「爆弾」であったからだ。この国際問題に合衆国政府は大いに頭を悩ませていた。

世界中の視線がサクラメントの一人の技士に注がれている。

最初の目的地にたどり着いた車は車道の端に停まった。アンジェラは窓から通りの向かい側の建物を覗く。壁を接した両隣の住宅と変わらぬ外観をした建物の前には、玄関扉が見えなくなるほどの人集りができている。ハンチング帽を被った男たち、中には歩道の中心に堂々とカメラを立てる者もある。あれらはすべて記者だ、合衆国中の新聞社が揃って記者を派遣して、元々は閑静な住宅街に大変な賑わいを興している。彼らの獲物はかの家に住む技士。一たび玄関から外に出て来ようものなら、一斉に取り囲んで取材を行う算段だ。会見の翌朝から、勤務時間の間はずっとああしているらしい。

アンジェラは続いて上の階に目を向けた。すべての窓は鎧戸まで閉め切って、一切中の様子が窺えぬようになっている。あれでは室内は真夜中の道よりも暗い。孤独の闇に佇んで彼はどうしているのか。

今はここにいても仕様がない、車を出させるために彼女が御者に指示をしようと小窓に声を発しかけたとき、車の外で歩道を歩く女性が「もう嫌!」と癇癪起こしているのを耳にした。アンジェラが見下ろすと、買い物帰りだろうか、荷物を手にした夫人が記者溜まりを睨みつけていた。アンジェラは馬車の扉を開けて声をかける。

「ご夫人、あなたはそこの家の住人でいらして?」

思わぬ方向から声をかけられたので夫人は派手に驚いてみせた。

「ええそうよ、そうですとも。それで、お宅はなんですの?」

アンジェラが答えるより早くその女性は手のひらを前に出してしきりに頷いた。

「待って、答えないで。きっとあなたもグレイヒルの坊ちゃんのお知り合いでしょう?」

「ええ……そのような者ですわ。」

「やっぱり、坊ちゃんは変わった付き合いが多いのね。私は、あの家の下の階に住んでいる者よ。」

「どうぞ、お上がりになって、中で話しましょう。」

夫人は御者の手を借りて車に乗り込んだ。二人は向かい合って座った。夫人はこのような豪華な車に乗ったことがないので恥も知らず物珍しそうに隅々までぎょろぎょろ見回した。アンジェラはしばらく黙って好きなようにさせていたが、やがて彼女に声をかけた。

「彼、ロバートのところに来客が?」

「そうですわよ、この間もインディアンのお嬢さんがね。悪い人ではないから通しましたけど。」

それがリニーのことだとアンジェラにはすぐ分かった。

「他にも誰かいらっしゃって?」

「ここ最近はね。私にはよく分かりませんけど、坊ちゃん、最近有名人なんですってね。新聞に名前が載ったって聴きましたよ。それで連日記者さんみたいな人がいらしてたんだけど、二日前からはあの通り。あれじゃ満足に家も出入りできません、もう少し迷惑を考えたらどうなのかしら。……でも大丈夫、ご近所の裏庭を伝っていけば勝手口から入れますのよ。」

「ここだけの話よ」と夫人は念を押す。

「あなたはきっと、そういう輩の一人ではないんでしょう。ええ、見れば分かりますとも。坊ちゃんのご友人?それとも……」

彼女は口を押さえて「坊ちゃんも隅に置けないのね」と笑みを漏らす。

「彼はどうしているの。まさかとは思うけど、倒れていたりして。」

「昨日の晩に扉の前で声をかけた時は返事がありましたよ。」

「顔を見ていなくて?」

「今は誰にも会いたくないと言うんですよ。誰が来ても通さないでくれって。だから申し訳ないけど、あなたも坊ちゃんのところにお招きするわけにはいきません。」

アンジェラはもとよりロバートと顔を合わせるつもりはなかった。彼が今一番会いたくないのは自分だと分かっていた。しかし気にかけてくれる隣人とも顔を合わせたくないとあれば、一層深刻だ。

「私にも分かりますとも、坊ちゃんはきっと、あまり良い意味で名が知れたわけではないのでしょう。それでも彼は良い技士ですよ。坊ちゃんは機械の古くなって交換した部品だかを貰ってきて、それで息子のためにおもちゃを作ってくれたんですのよ。」

楽しげに語る夫人を見ていると、アンジェラの心も和んだ。

アンジェラは丁寧に礼を言って夫人を車から下ろした。夫人は振り向いてアンジェラに問いかける。

「坊ちゃんに何かお伝えしましょうか。あなた、お名前はなんて?」

アンジェラ・エマソン、きっとこの夫人もその名を知っている、だから名乗ってはいけない。彼に伝えることもない。

「いいえ。私は彼が生きていればそれで十分ですわ。」

玄関前の飽きない連中は一向に減る気配がない。その扉を開ける者もいないのに待ち続ける彼らを尻目に馬車は出発した。

二番目に訪れたのはサクラメント駅の隣、駅前の電信局。そこはかつてロバートが働いていた場所である。ウエスティングハウス・エレクトロニックの仕事を受けるにあたって仕事を辞めて以来、彼がここを訪れたことは無い。電信機の故障は無く、今日も粛々と業務が行われていた。

「ロバート・グレイヒルですか、忘れもしません、彼のことは。」

電信会社の専務は言った。応接室のカウチの背もたれに背を預けて、両肘を左右にかけ、燕尾服のボタンの前で手を組んで座る。黒い蝶ネクタイ、時計の四時半と七時半の方を向いて直角に伸びた髭、自らの社会的地位をひけらかすべく整えられた格好のすべてがわざとらしくて、かえってありきたりだった。

アンジェラは彼に以前のロバートの振る舞いを尋ねた。考えてみれば彼女は再会するまでの彼のことを何も知らないのだった。士官学校に入学した――彼女は軍に入隊したと聞き及んでいたが――その後のことは知らなかった。こうして電信局に勤めていたことも、再会した本人の口から聞いた。

専務はただの技士のことをよく覚えていた。

「彼は技士の仕事となると自分でやらないでは気が済まない男でしてな、ここの局の電信技士は彼一人で回っていたらしいです。そういう輩がいると班作業が上手くいかないから良くない。おまけに彼は上司に対する礼儀もなっていないものでしたな。それがあのような邪悪な研究を行っていたとは、全くとんでもない。」

「『邪悪』かどうかは……いえ、何でもありませんわ。」

アンジェラは言い淀んだ。ここで彼の肩を持つ意味はあるまい。専務はコーヒーに口をつけて「だが……」と窓の外に視線を動かす。

「技士としての腕だけは確かだった。その技量が他の分野に生かされていれば、あるいは。」

「ままならぬものだな」、専務はコーヒーカップの波紋に語りかける。

「しかし、エマソン卿がこのことで情報を集めなさるとは、些か意外ですな。……いえ、この街を思ってこそのご判断なのでしょう。」

「……お言葉ですが、本日の機会を設けさせていただいたことについては、父は無関係です。」

「なんと?」

専務の尖った眉が上がる。

「それではどなたが……エマソン嬢、もしかして貴女が?」

「そうですわ。」

「これは失敬。いやはや、これはまた……」

意外、仰天、その後に続く言葉は何でもよい。

「さすればなおのこと、なぜお嬢様が?」

平民嫌いで、父のように慈悲深くない彼女がなぜ。彼の目はそう物語って見える。確かに専務がそう思うのもまっとうなことだ。アンジェラ・エマソンはこれまで父の活動には非協力的で、彼と共に公に姿を現すことはなかった。西海岸の術士を率いるエマソン家の恥、エマソン卿の威光に差す唯一の影は実娘だと社交場では専ら吹聴されている。その傲岸不遜な娘が今更出しゃばって例の技士に関する情報を集めているのだから、これは不思議というよりも不審なことである。

アンジェラはコーヒーの減っていないカップを置いた。

「先刻、あなたが仰った通りですわ。この街の市民が平穏無事であることを願って……当然の責務でありましょう?」

「いやあ、まったくですな。……それを貴女の口からお聞きするとは。」

「では、私は失礼いたします。お時間をいただき感謝申し上げます。」

アンジェラは立ち上がり帽子を手に取って被った。同時に専務も立ち上がり外までの道を先導する。

「我々はエマソン卿のご活躍を頼みにしています。特に末端の術士などはこの度の件を非常に憂慮していますから。」

「お気持ちは察します。しかし生憎ですが、父は今ニューヨークに居りますのよ。」

階下では電信機が絶え間なく符号を鳴らし続ける、局員もまた電鍵を叩く。正面の窓口では何人かの客が順番に自らの便りを送ろうとしている。電信局は今日も正常に働いている。

蒸気機関車が発車の汽笛を鳴らす。まもなく電信局の建物の裏手、ホームから伸びる線路の一本を通って列車が西へ出発した。

駅舎の時計塔は正午を過ぎた時刻を指して、昼下がりの太陽が駅舎の白い壁を明るく照らしている。また一本、この街に辿り着いた列車からは大小の荷物を抱えた乗客がわんさか降りてきて、ちょうど改札を抜けて広場に姿を現した頃だった。アンジェラは電信局の玄関先に突っ立って停めてある車に乗り込まず、顎に手をやってどうしたものかとこの先のことを思案していた。

ロバートの行動に対する術士社会の動揺は並大抵のものでなく、その震源地たるサクラメントの術士たちは大きな不安を抱え、そのはけ口をエマソン家に求める者もあった。昨日は数件の来客があり、彼らは皆エマソン卿に一目会いたがったが、それが叶わず娘だけがいると知るとそそくさと立ち消えた。如何様に考えても、彼らが念頭に置いているのは二十年前の災禍である。

シヴィル・ウォーにおけるカリフォルニア州及び西部諸州の被害は東海岸のそれに比べると軽微であった。サクラメントにおいては『光線卿』ことビル・エマソンが身を投じて市民の融和を図ったことの功績が大きい。アンジェラは幼い記憶が曖昧ではあるが、常に重苦しさを抱えた世間で父親が東奔西走していたのを覚えている。だが彼が語るには、この地域の人々の心を時化から守ったのは彼らの中にある共有された一つの精神だと。エマソン家のたった一つの家訓でもある、その名は――フロンティア・スピリット。

開拓者の精神とやらが人の心を繋ぐなら、紛糾し続けるこの事態も解決してはくれないものか。今この街に光線卿がいたならば、術士社会の不安を和らげ、口さがない論者や礼節を弁えない新聞記者を退け、かつてそうしたように、彼に救いの手を差し伸べてくれたのではないか。

お父様にできることが、私にはできない。サクラメントのエマソンの名を持ちながら、まるで正反対の風評を持つ私には。

――今は思い詰めるのはよして、家に帰りましょう。頭に袋を被せられたようにまとわりつく悪い考えを取り払って、一歩目を踏み出したその瞬間に、前を通り過ぎようとした通行人と体がぶつかってしまった。反動で後ろに戻されるアンジェラ、ぶつかったのは大柄な男だった。

「ご婦人、申し訳ない。」

「いいえ、私がよく見ておりませんでしたわ。ごめんなさいね。」

男は帽子に手をやって軽く頭を下げ、また道を歩き出す。アンジェラは車に乗り込みながら彼の背中を見送った。

あの男は、術士だった。触れた時にすぐに分かった、術士はその者の周囲の乱れが違っているから傍に寄れば簡単に分かる。ついでに片言な英語を話したので、合衆国に来て日が浅いか、旅行者の類だ。そこまでは、少し珍しいくらいで問題ではない。アンジェラは車を出さずにしばらく窓から男を目で追っていた。彼は駅前で数人の男たちと合流した。全員が同じ黒の背広、帽子。随分大仰で物々しい雰囲気を放っていた。あれじゃあ旅行ではなくってよ、そう思ううちにアンジェラは違和感を覚え始めた。

思えば、ぶつかった瞬間から『魔女の勘』というか、直感が彼の奇妙さに気付いていたのかもしれない。外国から来た術士で、旅行者ではなく、男たち全員が術士だとしたら――。そのような集団がサクラメントを訪れたのなら、術士のコミュニティを通じて我が家まで話を聞き及ぶはずだ。この空前絶後の事態においてもそれは衰えていない、否、むしろ外様に過敏になっていると考えるのが自然だ。であれば尚更海外の術士の来訪が知らされないはずはない。

彼らは何者だ。

エマソン卿が不在だから話が回ってこなかったのか、その可能性は十分にある。アンジェラはもう数年間、術士の社交場に顔を出したことがないのだから。それなら杞憂で済む話だが……この胸騒ぎは、どうにも収まりようがない。

男たちは到着した車に乗り込んだ。そこでアンジェラは御者に「あの車の後をつけなさい」と命じた。走り出す二台の馬車。こんなものは馬鹿げた妄想であってほしい。だが、かの馬車がある場所に向かったことで悪い予感はますます現実味を帯びてくるのだった。


その日、召使のマリエットは彼女の主人がひどく動転して駆け込んできたので、何事かと仰天した。玄関を乱暴に開け放って、いつもの優雅さの欠片もなく、自室に飛び込んでいくので彼女はその後を追った。

「アンジェラ様!」

呼びかけに答えることはなく、机に立って向かって、引き出しから取り出した紙に必死で何かを書きなぐる。マリエットが覗き込もうとすると、すぐさま後ろに腕を突き出して彼女の前に紙が差し出された。

「これ、電報送って。」

アンジェラは続けて新しい紙に別なことを書き出す。待っているといずれ彼女は振り向いて召使の胸にそれを押し付けた。

「これを、グレイヒル将軍の邸宅に。そこにリニーというインディアンがいるから、渡して。」

「落ち着いてくださいませ。一体どうしたのですか?お話しくださいませ。」

「そこに書いてある通りよ。」

言われるがまま受け取った紙に目を通した。みるみるマリエットの表情が険しくなっていく。

「これは、どういうことですか!?」

「私だって、信じられなくてよ。でもこれは、限りなく確信に近いことなの。さあお行きなさい、それと屋敷の者を皆集めて。私は警察署長に繋ぐから。」

「はい!」

マリエットは鉄砲玉のように部屋を飛び出る。

アンジェラは父の執務室に向かった。そこには警察署に直通の電話回線があった。発明されたばかりの初々しい技術である電話は、固定された二点間で音声のやり取りを可能にする。エマソン卿は邸宅に不測の事態が発生した時のため、警察署に繋がる回線を用意させていた。音声は時化による干渉を大いに受けるため、使用する時はある程度の技量を持つ術電話士が必要である。

受話器を取り、軽く息を吸い込んで電話線に術を吹き込む。こうすれば音声の乱れが少なく抑えられるのだ。実際のところ、アンジェラは初めてこの家に回線が引かれた時以来この受話器を手にしていないから、どこまで上手くやれるかは不安が残っていた。

向こう側の受話器が取られて、若い警察官の声が届く。

「いかがなさいましたか。」

「署長さんに繋いでくださる?大切な用事があって、今すぐよ。」

「承知しました、お待ちください。」

向こうの受話器が置かれる。相手のいない電話は絶え間なくザラザラとした不快な音を立てる、それが不安を煽るようで、アンジェラは尚更不愉快だった。

「お待たせしました。エマソン卿、いかがなさいましたか。」

先刻とは違う低い男の声が伝わる。

「私です、アンジェラですわ。」

「お嬢様?エマソン卿ではないのですか。」

「ええ、ご連絡差し上げたのは私ですわ。一つお願いがございますの。」

そう聞いた途端署長の声の調子は下がった。

「何でしょう、お話しください。」

「オークストリートの巡回を増やしてくださいませ。夜は特に。それと言うのは分かりますわね、彼の――例の技士の家の辺りですわ。」

「はあ。ご安心を、あの地区は警官を巡回させ、治安維持に努めております。」

「ですから、それを増やしていただきたいのですわ。」

非常に奇妙な要請に、署長は明らかに渋っていた。

「理由をお尋ねしても?」

「詳しくはお話しできませんが……あの辺りで危険なことが起こるかもしれませんのよ。警察とて、警備を万全にするに越したことは無いでしょう。」

「それはそうですがね、お嬢様、具体的に仰っていただきませんと……」

「確実なことは何一つ言えないの。それでも、近いうちに事件が起こるかもしれない。無論、例の技士を中心に。」

「……エマソン卿がそう仰られたのですか?」

「いいえ、父は関係ありませんわ。」

「ふむ。お嬢様、我々は街の治安を維持するために日々最善の努力を尽くしております。」

「いいのよ、そのような話は!とにかく増やしてちょうだいよ!」

「しかし……」

署長が渋る理由は分かっている。この電話はエマソン卿との締結によって設置されたもので、今この電話は要請も、話し相手も本来想定されていないものだからだ。加えて彼と対立している娘がこの受話器を取っている。アンジェラの一方的な要請に従って動けば、後でエマソン卿に知れた時に問題になることを懸念しているのだ。

――やっぱりここでもそうだ、お父様なら万事うまくいったのに。それでも、退いてはならない。

「署長さん、分かっておりますわ、今まで何一つこの街のために尽くしてこなかった私が今更勝手を言おうなどと、これほど虫のいいことはないと。例えそうだとして、恥を知ってなお私は言葉を変えません。どうか私の頼みを聞き入れてくださいませ。」

回線は暫しザラザラと雑音を上げる。その後に署長は口を切った。

「のっぴきならない事情がおありなのですね。そこまで仰るなら、お嬢様の言う通りにいたします。」

「ありがとうございます。警備の者には、くれぐれもお気をつけくださいませと。」

アンジェラは震える手で受話器を置いた。

廊下に出ると、屋敷にいる使用人は全員集まっていた。マリエットは彼女の傍に寄った。

「便りは外の者に託しました。」

「そう。ご苦労だったわね。」

胸を張り、大きく背筋を伸ばす。アンジェラは使用人の皆に向かって高らかに訓示した。

「よくお聞きなさい、あなたたちは我がエマソン家に仕える名誉ある使用人です。そしてこの家の主はビル・エマソン、だが彼はここにはいないわ。主なき今、エマソン家の主はこの私、アンジェラ・エマソンよ。主人である私に逆らうことは許さない。私はあなたたち全員を守り、あなたたちは私のために働きなさい。それを肝に銘じなさい。」

身が引き締まる、首の毛までそばだつ。腹を据えなさい、この家を守れるのは私しかいないから。

一段、一段、闇へと落ち窪む階段。その奥に見える暗闇に通じる扉。ここは屋敷の地下室への入口。アンジェラは手に持ったラムプで鍵束を照らして、地下室の鍵を穴に挿し込む。

カチャリ。

闇に満たされた室内、ラムプに照らされて壁に映った影は揺らめく。靴音を響かせながら室内を見回す。今は使われなくなった品々が埃を被って積み上がる中に、果たして目的の物はあった。アンジェラはその足元から胸の高さまである細長い直方体にそっと触れた。

「最後に頼れるのはこれだけね。」


ロバートは暗闇から目を覚まし、目の前の真っ暗闇を見渡した。窓際に机の輪郭がうっすら浮かぶ。こうも暗くちゃ目を開けていても閉じているのと変わらない。

今は何時だろう、昼も夜も判断つかなくなってきた。鎧戸の隙間から光が差し込んでこないので今は夜だ。それも宵なのか、未明なのか、夜明け前なのかははっきりしない、一口に夜と言ってもそれは長いのだから。

起き上がって素足を床に滑らせ、足元の靴の位置を探る。つま先に触れた靴に片足ずつ突っ込み、最後まできちんと履かないで踵を出したまま立ち上がると、体勢が崩れてもう一度座り込んでしまった。思うように足が動かない、当たり前だ、最後に食物を口にしたのが何十時間前か覚えていないから。

ベッドを伝いながらよろよろと体を動かし、漸く机の前までやってきて窓を開く。鎧戸を開け放つと鼠色に濁った夜空が広がっていた。下を覗くと、昼間の記者は皆帰ってしまって、建物の周りは静まり返っている。記者も、月も星でさえも、久しぶりに外の世界と繋がった彼を出迎えてはくれなかった。今は何時かという質問の答えは、少なくとも、人は寝静まる時刻らしい。ロバートは再び窓を閉じた。

マッチ箱を開けて一本のマッチを擦って、机の上のラムプに明かりを灯す。淡い光は仄かな温もりと共に彼の顔を照らす。同時に、窓の外によく見知った顔がぼんやりと浮かび上がった。

なんだよ、ロバート、案外平気そうじゃないか。てっきり今にも潰れそうに萎れ切っているかと思ってたぞ。

机の上には旅から持ち帰った研究資料がばっさり広げられている。今、頭は冴えていて、これらと向き合えばよい考えが思いつくかもしれない。そんなことを考えてしまってから、どうしようもなくなって頭を抱える。この期に及んで研究にだけは前向きな思いが残っているなんて、どこまでも仕様がない。

こうして真夜中に何をするでもなく机に向かっていると何かを思い出す。その「何か」とは何だったか――思うように頭が働かない――そうだ、士官学校の寮にいた頃と同じだ。横になるとどうしても身体が痛くて、目がぎらぎらして眠れそうにない時、仕方なく起き上がって勉強机に向かったまま何時間もただ座っていたのを思い出すんだ。

ウエスト・ポイント陸軍士官学校、合衆国陸軍が運営する士官学校で、名門の大学校でもある。シヴィル・ウォーの名将らを始め、多くの秀でた士官を輩出している。その入学初日からロバートは上学年の先輩方に声をかけられた。あのワトキンス・グレイヒル将軍の甥だというから、大変な人気を博した。ロバートは気恥ずかしくも誇らしかった、あれが宣戦布告だなどと知る由もなかった。

先輩方は名将の甥に因縁をつけ、何かと厳しいしごきを与えた。元々教官や上級生による「しごき」は学校の伝統であったが、殊に名高い軍人の家柄であるロバートに対しては度を越していた。日常的に暴行を受け、休憩時間や放課後も「指導」と称して無理な要求を押し付けるので、彼が心休まる場所は無かった。教官は教官で、練習の時間には見せしめとばかりに一人だけ厳しい課題を課す。前日のしごきで満足に体が動かない日があれば、罰が追加される。それを繰り返して永遠に負の連鎖が続いていた。「この程度でへばっていたらグレイヒル将軍のようにはなれない」その言葉を毎日浴びせかけられた。同級生のことは覚えていない。隣で痛みにじっと耐えるロバートを気の毒そうに見ていたような気もするが、ほとんど交友が無かったので今では顔も名前も曖昧になっている。

孤独だった。休日も校外に出ることはほとんど無かった。どこにも顔馴染みの場所なんてないし、他に居場所を見つけてしまったら二度と士官学校の門をくぐれなくなる気がした。叔父さんには元気にやっている旨だけ送って、クリスマスも復活祭も帰らなかった。授業が無く、先輩方が皆地元に帰ってしまう休暇の頃こそが彼にとっては心休まる日々だったからだ。やがて一年が過ぎ、当初は好きだった学問も満足についていけぬようになってきた。辛く厳しい一日を終えてベッドに倒れ込むと、痛みで眠れない代わりにどうしようもなく涙が溢れてきて、止まらなくなった。自分は何故このような仕打ちを受けねばならないのか、高名な叔父を後見人に持ったからか、もしそうでなかったら、叔父さんさえいなかったら――。そう考える自分の存在に気が付いてしまった時、ロバートは士官学校を中退した。

おそらく教官らの言うことは正しかっただろう、戦争という修羅の道で生きる軍人になるには、学校という閉鎖空間で行われる理不尽に耐え抜ける精神でなければならない。先輩方もかつては上級生からしごきを受けていたに違いない。叔父さんだって士官学校の卒業生であるから、あの世界を耐え抜いてきたのだ。自分にはそれができなかった、自分は軍人には向いていなかった。何よりも苦しかったのは頬の痛みではなくて、叔父さんの期待に沿えなかったことだ。叔父さんは失望の言葉を投げかけたりはしなかった、それでも彼の方が顔を合わせることに及び腰になって、やがてグレイヒル邸を出て行った。今更大学に入り直すつもりはなく、故郷に電信技士の仕事を見つけて収まった。幾らか職業訓練を積めば誰にでもできる仕事で、名門の中等学校にウエスト・ポイントまで行ったのに、叔父さんとエマソン卿にしてみれば大変な大損である。

大きな挫折を抱えて電信局の片隅で働いてきた。それなのにまだ自分の実力に虚栄心を持っている節があって、会社の電信機を勝手に改造して性能の向上と共に上司に大目玉を食らったことがある。一日がかりでやれと言われていた仕事を十五分で終わらせて残りの時間を呆けていたら、職務怠慢だと言われたり、挙句の果てにこの間は専務の怒りを買って出勤停止を食らった。――なんだ、技士の仕事までろくにできないじゃないか。

叔父さんに紹介を受けた仕事は、最後の最後の機会だったんだな。リニー、稲熊、アンジー、みんなの協力もあってやっと辿り着いた答えも、終いには社会の批判を受けて破棄せざるを得なくなった。

人生でこれまで見たこともないようなたくさんのカメラ、自分一人に注目する大勢の人々を見て、ロバートは言葉に詰まった。原稿は手にした紙に書かれていたのに、それすらもだんだん見えなくなってきて、考えるのは一つ。この研究まで捨てたら、自分は今度こそ何にもなれない盆暗になるんだ。そのうちに、彼の目の前には別な景色が浮かんで見えてきた。

――見渡す限りどこまでも続く荒野。まだ誰も踏み入れたことがない、風の音と、囁く草の音だけが響いている。こんなところに何の用があるのかと、誰しもが思う。だけど僕にはレイルが見えるんだ。まっすぐと、地平線へ続く二本の平行な線、等間隔で渡された枕木、二つを繋ぎ止める犬釘は丸く、その中に小さな太陽が眩しく輝いている。ここから先、このレイルがどんな景色を進むのか僕は知らない。いくつも険しい山を越え、深い谷を渡るかもしれない。それでも、線路の続く先には必ず何かがある。止まらずに列車を進めた者だけが、それを知ることができるだろう。ならば僕は――。

「僕は決して諦めない。」


さあ取り返しのつかないことをした、と後の祭りが始まったのは会見場を後にしてからのこと、心に任せて狂気的なことを口にして、騒然とする会場。ロバートはそこから逃げるように家に戻り、布団の中に潜り込んだ。翌日からの世間の反応など一切知らない。調べるまでもない。ただ家の前に集まる囲み取材の記者の声を聞けば、十分すぎるくらい社会の動揺が伝わってくる。そこから今日までロバートは一歩も部屋を出ず死んだように時を過ごしてきた。

実を言うと、ロバートは窓の外に広がる夜があれから何回あったか覚えていない。おそらくは、これが四回目。確証はない。自分はまだ動けるのだろうか、それすらも自信が持てないから、試しに何か書いてみることにした。目の前にある紙は研究の成果だから、日記にしてしまうには惜しい。この期に及んでも、やっぱりこれが捨てきれないんだ。代わりを探して机の上を綺麗にすると、紙束の下から黒いものがゴトリと音を立てた。旅から帰って投げ出したままの鉄の塊、回転式拳銃だった。

ロバートはそれを手に取って構える。窓の外の彼と銃口を向け合った。そういえば、士官学校でも射撃の腕は良かった。動かない的を狙うだけならいい点数が出せた。だけどこれは使えない。叔父さんがせっかく託してくれたのに、この銃で自分を守ることはできなかった。諦めて銃を下ろし、装填口を開ける。回していけばシリンダーには一つも弾が入っていやしない――否、一発だけ入っていた。いつの間に入れた?安全のために全て抜いておいたはずでは?実際はどうあれこの銃は一発だけ、撃てる。それが事実だ。

ロバートは弾が次に銃身にくるようにシリンダーを回し、装填口を閉じた。親指でそっと撃鉄を起こす。これは裁きの弾丸だ。刑台に上るのはもちろん決まっている。ここには一人しかいないのだ。

――叔父さん、一つだけずっと訊きたくて、訊けなかったことがあるんだ。これを尋ねたら叔父さんの気を悪くさせてしまうと思ったから。……僕の父さんは、母さんは、どんな人だったの?もう一度、会ってみたいよ。

再び銃を構える、今度は正しい場所に向けて。この引き金を引いたら響く銃声が最後の合図。旅の終わりだけは自分で決めるんだ。

――コンコンコン。

おや、外は風があるのか。窓枠が揺れている。

コンコンコン。

またしても窓が鳴る。誰かがノックしているみたいだ。いけない、大事な時に変なことを気にして気を紛らわせては。

コンコンコン。

いや、やっぱり誰かが目の前の窓を叩いている。……まさか、ここは最上階だぞ。空を飛ぶ鳥か形ある幽霊でなけりゃ、こんな真似はできないはずだ。何か不吉な予兆なのだろうか、ロバートは急にこの部屋に一人でいるのが気味悪くなってきた。

コンコンコン。

開けなければ。外を確かめなければ、この正体は分からない。彼は今や銃もすっかり下ろしてしまって、調子よく音を出す目の前の窓に釘付けになっていた。

ままよ、とついに決心して彼は両手で窓を押し上げた。


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三人を乗せた馬車が邸内に駆け込むと、即座に鉄門が閉められた。リニーは車を屋敷へと直線に続く馬車道の中ほどで停止させた。等間隔の植栽と開けた芝生は静かな夜の空気に満たされ、先ほどまでの騒々しい闘争の緊迫を微塵も感じさせない。馬の鼻息がつむじ風のように音を立てて吐き出される。

ロバートは荷台に倒れ込んだ。激しく揺られて身体の節々を打撲し、平衡感覚も狂い、起き上がるのもままならなかった。ただ彼の研究資料を押し込んだ書類鞄だけはしっかりと握られているのを確認できた。

「一難切り抜けたようだな。」

ロバートは無言で稲熊を見上げた。彼は懐から雑紙を取り出して刀の血脂を拭っている。

「あの爆発は何だったの……?」

リニーは背中をさすりつつ問うた。門前にいた者たちがこちらへ駆け寄ってきて三人の無事を確認した。次いで奥からもう一人接近する。

「案の定、彼らもう追ってこなくてよ。こちらの陣地で立ち回れるほどの人員も余裕もないというわけね。」

アンジェラはそう語りながら歩いてきて、やがて車の足元に立つと荷台でへばっているロバートを覗き込んだ。その腕には彼女の身長の半分はある猟銃を抱えていた。

「ロバート、何はともあれ、今は生きているだけでよしとすべきかしら。」

「何も分からない。アンジェラ……それは?」

「言ってなくて?猟が趣味なのよ。」

彼女は銃を見せるように肩に担ぐ。

「つまらぬ社交会に付き合わされるくらいなら、森の中で自然と向き合う方が心身の健康によろしくってよ。」

「さもありなん、主はどこか逞しいところがあった故。」

「おっと……まだ弾が入ってるわよ。」

稲熊は呆れて肩をすくめる。ロバートは枯れた声で「全然面白くないぞ」と呟いた。

銃弾で蜂の巣になった馬車を降り、四人は歩いて屋敷の中に入った。深夜にも関わらずすべての照明が灯された屋敷は昼間のように明るく、玄関の柱時計が示す時刻も信じられないほどだった。

四人は一階の一部屋に入った。カーテンは閉め切られ、アンジェラの合図で室内にいた数人の使用人は廊下へ消えた。それぞれは部屋の中央に向き合ったカウチのそれぞれに身を投げ出した。

「あなた、研究はすべて持っていて?」

「ああ、ここに。」

ロバートは書類鞄を持ち上げ、すぐに力なく腕を垂れ下げる。

「そう。もうあの家には戻れないわ。そもそも、今頃は部屋が灰になっているかもしれないけれど。」

アンジェラがぶっきらぼうに言うのでそれで彼は一息に起き上がって前のめりになった。

「マクドナルド氏の一家は!?階下に住んでる家族だよ!」

「あれだけの騒ぎで間違いなく目を覚ましただろうけど……」とリニーが顔に手を当てながら語る。

「大変だ、今すぐ助けに行かなきゃ。別な車を出してくれないか?」

「あなた、自分がどういう立場か分かっていて? 命を狙われているのはあなたなのよ!」

「口惜しいが、今は己の事のみ考えよ。」

「それならば尚更だ!彼らは無関係なんだぞ!今すぐ車を出してくれ!」

彼は立ち上がって部屋の出口に向かって歩みを進めた。その途端、何かが彼を躓かせた。そのまま床に倒れ込むロバート、しかし足元には何もなかった。彼の脚に力が入らなくなっていた。

膝を床に打った、咄嗟に床についた手も痛い。すぐに三人が駆け寄って身体を起こす。

「怪我をしているの?」

「平気さ……水を一杯、くれないか。」

「まさかあなた、最後に物を口にしたのはいつ?」

「覚えてない。」

「そんな体でどうしようというの。丁度いい、お食事を用意してあるの。次はいつ落ち着いて食べられるか分からないから。」

外の使用人に命じてすぐに四人分の食事が運ばれた。ロバートは椅子に座らされていくつもの料理を目の前にしたところで一切の食欲がなかった。それなのに、久しぶりの栄養を前に手は考えるより先にフォークを取った。広いテーブル、銀製の食器、輝くグラス、それらには到底そぐわないほど下品に貪った。それだけがっついたら喉を詰まらせて倒れるのではないかと自分で思うほどに強欲な食べ方をしていた。

――自分はまだ生きている。

一人だけ完食してしまってから、ロバートは目の前のクロスに染みを作ったのをアンジェラに詫びた。「別に。」と答えた彼女は内心で、あの時無理を言ってでも扉を蹴破ってでも彼の様子をこの目で確かめておけばよかったと後悔していた。

「漸く頭が働いてきたんだ、そろそろ話を聞かせてほしい。彼らは何者かということを。」

「それはアンジェラに問うべきであろうな。」

「そうね。二人にも詳しく話しておかないと。」

アンジェラはナプキンを手に取って口元を拭った。

「あれは今日の昼のこと――正確にはもう『昨日』だけれど。私は駅で不審な術士を見かけたの。黒い服で、英語の拙い男。同じような服を着た数人の仲間と話し込んでいた。見るからに観光客ではなく、サクラメントの術士コミュニティで来訪が知らされていない謎の術士――これだけならまだ疑うほどではないのだけれど、魔女の勘とでも言おうか、私は妙な胸騒ぎがして、彼らが乗った馬車の後をつけた。そうしたら不運なことにその勘は当たってしまった。車はロバートの家の前に停まってよ。あなたの部屋を見上げたり、周囲を見渡したり、何かを調べている様子だったの。私は彼と目が合って、車も目立つものだったから、これ以上の追跡は不可能と判断してその場を離れた。あれは間違いなくあなたに危害を及ぼし得る存在だった。」

「それで、私と稲熊に連絡したんだ。」

「警察にもね。今晩の内にあなたを部屋から連れ出す計画だったけれど、何とか間に合った。」

「そうか……、何にせよ、みんなには礼を言うべきだな。」

ロバートの自分の手を見つめた。先刻は自死せんとしていた者が、生きながらえたことに感謝するなどとんだお笑い種だ。

「奴らは確実に僕を狙って撃っていた。ただの技士がなんで命を狙われなきゃならない……いや、それは問うまでもないな。」

「あなたは今や世界的な有名人、もちろん悪い意味で。あなたの研究が世に出たら困る連中はいくらでもいてよ。特に、術士が実権を握る外国にはね。そんな連中があなたごと研究内容を闇に葬ろうと考えたのだわ。」

「僕は『術士を殺す黒技士』だものな。最近の新聞は読んでないが、あの会見の後世間がどうなったかなんて考えてみるまでもない。……そうだ、アンジェラ、君はどうなんだ?この間はああ言っていただろう、僕のしたことをどう思ってる。」

四人とも、最後に顔を合わせた、サクラメントに帰った日のことを思い出していた。結局世の中は彼女の言った通りになってしまった。「シヴィル・ウォー」という単語まで再び目にする事態になってしまった。アンジェラはいつも正しいことを言う。

「ロバート、あなたのやったことが善いか悪いかなんて判断できない。それが世に出たらこの先何が起こるかなんて分からない、未来を見通す術なんてないもの。術士たちが不安に思って、あなたに口汚い言葉を浴びせかけるのも理解できないことはない。それでもあなたは、黙って命を奪われなきゃならないことなんか絶対にしていない。」

「左様、主を闇討ちなどする卑怯者共の手にかけさせる道理はない。」

「ロバートは私を認めてくれた友人だから。」

ロバートは意地悪な質問を詫びた。自分を生かそうと危険を冒す者たちがいて、どうして自分はここまで弱気になっていたのだろうと、彼は自らの弱さを恥じずにはいられなかった。

屋敷の彼方から消防車の警笛が聴こえる。音のする方角はロバートの部屋と違っていない。先刻の話の通りなら、今頃は跡形もなく燃えてしまっているかもしれない。エマソン卿から譲り受けた本も、叔父さんから譲り受けた一張羅も、両親の形見だと聞かされている品々もすべて失っただろう。この身にあるのは身につけた服と鞄の研究ばかりになってしまった。

テーブルの食事は片付けられ、アンジェラは次に大きな紙を巻いた筒を持ち込んだ。クロスの上にそれを広げると、卓いっぱいにアメリカ全土の詳細な地図が姿を現した。

「奴らが何者か、今はそれを考えても仕方がないわ。考えるべきは次の行動よ。」

「この街を出るのか?」

「当然。あれだけ派手なことをやったのだもの、私たちだってままならなくてよ。明日の朝一番に警官が捜査のためにこの家にやって来るわ、夜明け前にここを出て始発の列車に乗るの。」

「駅馬車は使えぬか。」

「すぐに顔を覚えられて足跡がつくでしょう。たちまち騎兵隊に追いつかれるわ。」

「大丈夫、自慢じゃないけど、私は駅員の目をかいくぐって列車に乗れたから。」

「待て、待ってくれ。」

ロバートは地図に視線を落とす三人の注目を彼に集めた。

「なぜそんな逃避行をするんだ。それじゃまるでこっちが犯人みたいじゃないか。」

「これ以外にどうするというの。」

「これは正当防衛だろう。警察にしっかり事情を説明してだな……」

「あなたは、どうするの?」

「どういう意味だ。」

「よくよく考えよ。何にせよ主は重要参考人として身柄を押さえられる。敵はこの機会を見逃すまい。然る後、理屈をつけて主を逮捕・投獄まで行うに違いない。」

「それ以上の実力行使だってあり得るわ、現に銃を持っていたでしょう。あなたの居場所が知られることはよくない、それが例え警察署の中であっても。」

「だからといって逃げたら、それこそ罰が免れないじゃないか。」

「今はあなたの身の安全を確保することが何よりの最優先事項でしょう。あなたは高らかに宣言した、そして刺客は現れた。もう引き返すことはできないわ。」

元はと言えば彼が会見で放った短い言葉がこの事態を招いたのは火を見るより明らか、その言葉を過小評価しているのは当人だけだ。今更自分を呪っても仕方がなく、ここですべきことは過去を悔いることではないと、ロバートは理屈で分かることを自らに必死に言い聞かせようとした。

「闇雲に乗り回しても埒が明かぬ。旅の終着点は何処ぞ。」

「そんなもの、決まっているでしょう。」

アンジェラは人差し指をサクラメントに置いて、そこから言葉に合わせて紙の上を滑らせていく。

「サンフランシスコ行の列車に乗って、港で船に乗り換えて日本へ行くのよ。」

彼女の指は太平洋を滑って地図の外に消えていった。

「日本とな!」

「日本は欧州やアメリカから距離がある。国内の術士の権力も強くないというし、それに稲熊、前にロバートを歓迎すると言っていてよね。」

「ならぬ。」

「どうしてよ?」

「ならぬものはならぬ。日本はまだ弱き国、彼を匿いしことで列強の圧力を受ければ風に吹かれし枯葉の如く飛ぶ。」

「こっちは彼の命が懸かってるのよ!」

「許せ。……維新のために流れた士の血を無駄にはできぬ。」

稲熊は俯き、歯を食いしばった。友人の危機を前に祖国を選びとるほどに、彼はなお軍人であった。

リニーはテキサスの南、リオグランデ川以南を指し示した。

「メキシコは?」

「いけないわ、合衆国の影響が強すぎる。仮に国境を越えたとして、合衆国が脅しをかければメキシコ政府は軍隊を出して血眼で彼を探すでしょう。」

「北は?自治領カナダは?」

「もっと駄目。大英帝国のお膝元で平穏無事にいられるはずがなくってよ。」

リニーは頭を抱え、次にカリブ海の島々を囲んだ。

「キューバは?テキサスから船で行けない?」

「キューバは……スペインとの戦争を続けて情勢が混迷しているわ。追手とか、刺客以前の問題よ。」

やがて室内は静まり返ってしまった。時刻は日付を跨いで久しく、加えて戦闘による疲弊が彼らの心身を苦しめていた。

事実として、彼が身を隠すだけならばそう難しいことではなかった。ならず者が街を逃げ出し、アメリカのどこか別な土地に住み着いてのうのうと暮らしていることは珍しくない。彼とてサクラメントを出てどこぞの田舎にでも移れば生きていくだけなら容易い。問題は、件の会見で宣言した通り、ロバート・グレイヒルは術と時化に関する決定的な研究を手にしたままであることの一点に尽きる。これを破棄しなかったから断じて彼の存在を認められぬ勢力がある。それと同じように彼にとってはこれを破棄するということが、絶対に為せぬ一線なのである。それだから彼らは非常に悩んでいた。

誰も語らなくなって五分以上経過した。黙っていても夜明けは近付く、時間の経過は焦りとなって重くのしかかる。ロバートは自分が渦中の人である以上、議論を前に進めなければならないと責任を感じ、何か一言でも言葉を発そうと思って腕を組んだ。それで彼は初めて懐中に紙が入っているのに気付いた。それは封がされた手紙だった。

「其は何ぞ。」

稲熊は視界の端に見えた白い四角形に気付いて声をかけた。

「懐に入れてたのを思い出したんだ。会見の夜、僕が最後に自宅の郵便受けをさらった時に入っていた手紙だ。」

「どうせ、ろくなことが書いてない、あなたへの抗議文書でしょう。昨日だって郵便受けに山ほど詰まっていたじゃない。」

「そうだろうと思ったんだけど、これだけは切手も消印も、宛名もないんだ。つまりこれだけはあの日誰かが直接郵便受けに入れたものなんだ。妙だと思ったから他のものと分けておいて、この上着を脱いだきり忘れていたよ。」

「開けてみないの?」

リニーが問うので、彼は手紙を耳元に寄せて軽く振ってみた。手ごたえはなく、ラムプに透かしてみても一切の小物は入っていないようだった。

ロバートは封を手で切ってそっと中を覗いた。一枚の紙。二本の指でそれをつまんで取り出す。周りの三人も釘付けになっていた。

手紙を開いた。それはタイプライターで書かれた文章で、丸みを帯びたセリフ体が等幅で並んでいた。


同志ロバート・グレイヒルへ

まずは君がこれを見つけてくれたことを嬉しく思ふ。この手紙は私の協力者が私の意思を受けて君に送つた。

私は君と同じ者である。私は君が研究の破棄を拒絶したことを支持する。人類の叡智を前に進めむとする研究者としての気高き精神を称賛を持つて受け入れる。

しかし世間にはそれを良く思はない者も居るだらう。君の偉大な成果を奪い取らうとする者も居るだらう。君が今どのやうな状況にあつてこれを読んでいるか私には分からないが、仮に君の研究が重大な危機の中にあつて、それでも猶ほ君が死守する意志を崩していないなら、私は救ひの手を差し伸べることができる。

私たちの活動が白日の下に晒されることを防ぐため、ここでは一切の情報を明かすことができないが、私たちには君の研究を安全に匿ふ用意がある。君が私に研究のすべてを託してくれたならば何年でも、必要とあらば何十年でも秘匿し、然る後に世界の風向きが変はつたその時は改めて君の功績を世界に公表しやう。

誤解が無きやうにはつきりと述べておくが、私たちは君の身の安全を一切保障できない。私たちと接触し目的が達せられた後も君は追はれ続けるだらう。君はこの件をひた隠しにし、自らの身を自らで守らねばならない。

君の気高き精神がまことのものであるならば、ニューヨークを目指せ。さすれば研究の全ては未来永劫安寧の下に置かれる。

我らの技士に神のご加護を。

T・E・


手紙にはこれ以上何も書いていなかった。ロバートは差出人のイニシャルを見つめて固まっていた。全く身に覚えがなかった。

「馬鹿げた悪戯ね。」アンジェラは吐き捨てる。

「さっさとお捨てなさいな。街の誰かがあなたを物笑いにしようと郵便受けに投げ入れたのよ。」

「確かにそうだ、馬鹿げた話だ。けど、僕の研究そのものを支持する声は初めて聞いた。そしてそれを守るという声も。」

ロバートは再び手紙の封を見た。まっさらで飾り気がない、送り主の素性は察することができない。文面通りなら、何かしら有力な者がその身分を隠して協力を申し出ているといったところか。

「ニューヨーク、か。」

端から全く信じていないわけではない、頭の中では既にニューヨークへ向けて旅程を組んでいる、そんな様子の彼にアンジェラは声を張り上げた。

「まさか、その手紙を信じているんじゃないでしょうね!?」

「本当である確証がないように、嘘である確証もまたない。」

「その『T・E・』なる頭文字に憶えはあるか。」

「全くない。まずニューヨークに知り合いなんかいない。」

「……でもこの手紙、ロバートのことは助けられないって書いてあるでしょ。」

リニーは卓上の大西洋に浮かべられた手紙を見やった。

「そこにむしろ信憑性があるんだ。僕という一人の人間を匿い続けることはできなくても、僕が書いた論文を安全に保管しておくことはずっと容易い。」

「左様。主に近しい者にあらざれば、後々捜査が入ることもなかろう。」

「ニューヨークだな、次の指示も、彼らの正体も、行けば分かるんだろう。……夜行を乗り継いで四日もあれば辿り着くだろうか。」

「待ちなさいよ!」

合衆国全土地図の路線を目で追いながら経路の見当をつけるロバートを、アンジェラが手で制した。

「仮に、手紙の送り主が実在していたとして、彼の話が本当だったとして、あなたの命が救われることはなくってよ!」

「その通りだ。」

「それでいい訳ないでしょう!」

「いいんだ。……命が惜しかったら、僕は会見であんなことは言わなかった。」

彼女ははっとして黙り込む。

「死にかけたことなら一生に何度もあった。僕が恐れているのは死ぬことじゃない、僕が死んでこの無二の知識が失われてしまうことだ。それを誰かに託せたなら、僕はそれでいいんだ。」

「後のことはそれから考えればいいじゃないか。世界のどこへだって行けばいい、だってニューヨークだぞ。」

彼は世界の港町の名前を並べ立てた。マンハッタンから海に出れば、続く大海原の先、いつかは辿り着ける都市の名前である。そのどれだって彼は自分の目で見たことは無い。

「行こう、東へ。」

彼が頷くと、三人もそれに続いた。

「全長二千五百マイル、正真正銘アメリカ大陸を横断する旅だ。」


サクラメント駅――白い駅舎、時計塔。暁の駅前広場にまだ人の気配はほとんどない。ここは一人の技士にとって馴染み深い場所である。駅舎の隣の職場に毎日出勤し、汽笛と噴き上がる蒸気の音と共に働いてきた。特別な仕事を受けて旅に出た時も、そしてその旅が合衆国を揺るがして失意に終わった時も、立っていたのはこの駅舎だった。いつだって大事なことはこの場所から始まる――そして今も。

追手はまだない、警察も、昨夜の事件を噂する衆も。機関車庫から今日の相棒を引き出す機関士と、改札に立つ駅員。ホームの先に見える信号扱所では信号士が通信を聞きながら欠伸をしている。四人はそれぞれの手に荷物を抱えて人のまばらなホームに立った。朝の乾いた空気が肌に刺さって気を引き締める。身体の芯まで震えるような彼らの緊張を知る者はただの一人だってここにはいないのだ。

始発列車が彼らの前に巨体を横たえる。今日の一番乗りは俺様だと、いきり立った機関車はホームの照明に赤い車体を晒して、金色の金具が眩く乱反射する。煙突から休みなく上がる蒸気が冷えた空気に抜けていって、紺一色に人工の雲を描き出す。

四人は一等客車にコンパートメントを取った。衆目がある普通客車は幾分安全に思えるが、見知らぬ者が居合わせるそれ自体が危険でもあると判断してのことだ。個室に入ってすぐに窓を開けてホームを見回す。昨夜の刺客が乗り込んでこないかを入念に調べる必要があった。出発時刻合わせの停車は長い。誰もいなくなる瞬間すらあったホームは人探しをするには容易く、幸いにも、その長い時間で怪しい影を見止めることはなかった。

汽笛は響く。ホームに立つ車掌が乗り込む。すべての客車の扉は閉め切られ、やがて四人はサクラメントの駅を、この街を置き去りにしていく。列車はこれからシエラネバダに隠れる寝坊助の太陽を迎えに行くのだ。

サクラメントから東に伸びる大陸横断鉄道を建設した会社はセントラル・パシフィック鉄道である。シヴィル・ウォーの戦火がほとんど立ち消えて燻る残火ばかりになった頃、合衆国政府はアメリカ大陸を横断する鉄道の建設を認可した。西側の建設を請け負ったセントラル・パシフィック鉄道はシエラネバダの過酷な山々を越える線路を敷き、名にし負う「西部を開拓した鉄道」を作り上げたのである。これまでサンフランシスコからメキシコの南、パナマ地峡を跨いで一か月に及ぶような長い旅の果てに通じ合っていた合衆国の東西海岸を、数日のうちに繋いだ。毎日のようにニューヨークからカリフォルニアへ、カリフォルニアからニューヨークへ発つ者が大勢いる。客観的に見れば、彼らの旅もそうした乗客と変わりないものである。ただし、彼らには未知なる追手が迫る。ソルトレイクシティに至るまでたった一本しかない線路を通る四人の旅人、その千載一遇の好機を敵は黙って見過ごすであろうか。

列車に揺られて一時間足らず、サクラメントを含むセントラルバレーの端に到達した。ここはシエラネバダの麓、これより列車は急坂を越えて六千フィートを優に超える標高へ駆け上がる。

シエラネバダはカリフォルニアの頂点にして合衆国の最高峰。中央部の渓谷はヨセミテという、州の定める自然公園である。常緑の針葉樹林、花崗岩の断崖、天頂から奈落へ叩き落ちる流れ、峰々と氷河が織り成す地形はフロンティアに到達した者のみが目にできる絶景として名高い。

列車は山間の川が流れる渓谷に沿って進んでいく。その中でも見通しの良い直線になったところは信号所が設けられている。行き違いの貨物列車を待って列車が側線に停まった。個室の車窓から見えるのは山側の景色で、針葉樹の鬱蒼とした木立を眺めながらロバートが思っていたのは、出発の前の一場面でああった。

長い議論の末にニューヨークまでの道筋が決まって、アンジェラは使用人に計画を伝えた。それから明け方まで一同は束の間の休息を設けた。昼間から活動を続け、死闘まで繰り広げた三人はとっくに疲労が限界を超えていてすぐに眠りに落ちてしまった。ロバートだけは日中も日がな横になって浅い眠りと覚醒を繰り返していたので今更眠気が襲い来ることはなく、カウチに座って横になっている彼らを眺めていた。それを見て部屋にいた使用人の一人が彼に声をかけて廊下へ連れ出した。

部屋の外の廊下でその使用人の女性はマリエットと名乗った。聞けば十四年前にロバートが邸宅へ招かれた時も仕えていたそうだが、彼が使用人の顔を覚えていようはずもなかった。

「本当に行かれるのですね。」

マリエットは彼に問いかけた。壁に据え付けられたラムプが黒い使用人服を照らした。

「ああ。何から何まで尽くしてくれてありがとう。エマソン卿はここには居られないようだが、彼はこのことを知らないんだろう?いいのか?」

「ええ。私は『お嬢様の』マリエットですから。」

「そうか、君がアンジェラの身の回りの世話をしているんだね。」

マリエットは頷いた。それから何も言わずに視線を左右に動かしている。何か言いかねているようで、ロバートは「何だい」と言った。

「わたくしはこの道行きには反対でございます。いえ、グレイヒル様ではなく、お嬢様に対してでございます。」

「すまない。彼女には悪いことをした。」

ロバートは彼女の目を見ていられなくて、俯いた。

「本来ならこれは僕一人で背負うべきことだ。命を狙われるのだって、僕だけで十分なのに。」

「お気を悪くなさらないでくださいませ。お嬢様がお決めになったことですから、わたくしは止めは致しません。いえ、できないのです。わたくしはお嬢様がどれだけ長くこの時を待ったことか、それを存じ上げておりますから。」

「どういうことだ?」

「あなた様にお会いになったその日より、お嬢様は一日たりともあなた様をお忘れになったことはございません。」

憶測に過ぎないが――ロバートはそのことを分かっていた。ロサンゼルスで再会した時に彼女は一目で彼に気付いた。彼の研究について行くと言い張ったのも、ただの旧知の間柄には度が過ぎる。そして今だって。

「お嬢様に万が一のことがあればと思うと、わたくしは何をもってしてもお止めしたい。でもそれはお嬢様があなた様に対してお想いになっていることと、何ら変わりはないのでしょう。」

マリエットは両手を自らの胸に重ねた。それからロバートの手を取って、彼の青い瞳を見据えた。

「グレイヒル様、あなた様は一度お嬢様をお救いになられたお方です。どうか今一度、わたくしの主をお守りくださいませ。このマリエット、あなた方の無事を神にお祈り申し上げます。」

ロバートは自分の手を見た。あの使用人の温もりは微かに残っている。

自分が何の力も持たぬ技士の端くれであったら、武器を持つ敵から誰かを守ることなどできはしないだろう。だが幸か不幸か、そうではない――彼女の父に見出された知力と、一度はこの身が陸軍の最高学府にあって、この腰には合衆国の名将から授かった銃がある――これを不幸にしてはいけない。

行き違いを終えた列車は再び走り出す。微睡の中にいる三人と、確かに意識がはっきりした彼とを乗せて小刻みな揺れを繰り返す。

列車は隧道に入った。渓谷に掘った狭い暗がりの中で、車内を暫し闇が包む。――それは短い隧道を抜け、再び車内に陽光が差したと同時のことだった。

後方の車両で立て続けに二、三発響く銃声。すぐに聴こえる乗客と思しき悲鳴。四人は一斉に音に反応して、互いに目を見合わせた。

稲熊とアンジェラがほぼ同時に個室の扉傍の壁に身をすりつけた。それぞれが窓越しに通路の奥を窺う。

「何ぞ見えるか。」

「いいえ。さっきの音は後方二両ってところかしら。何人だと思う?」

「分からぬ。一車両に固まりしところ、さしたる多さでもなかろう。」

アンジェラは臙脂のケエスにライフルをしまっていた。今はそれを持ち上げて、取っ手の側にある留め具を外して中のライフルを取り出した。

「追手なのか。」

ロバートは小声で呟く。

「さあね。でも車内で発砲するなら危険な者には違いなくってよ。」

リニーは窓を開けて首を外に出す。髪を顔の前になびかせ、後方を窺ってから前方に目をやる。

「機関士は聞こえたかな。」

「おそらくは。車内で事件が発生した時、近くに敵の増援がいる可能性を考慮して次の駅まで駆け抜けるのが基本的な手順なんだ。」

「じゃあこの列車は次の駅まで止まらないのね。」

「敵は僕たちの場所までは知らないらしい。ここで潜んでいた方が安全だ。」

「そのようね。」

手元に目をくれずアンジェラはライフルに弾を込めていく。さらに銃声が響いた。

「私、上から見てくる。」

そう言ってリニーが今度は窓の上を見やった。

「上って……屋根に上るのか?」

当たり前と言わんばかりに頷く。

「のこのこ出ていくより安全。今は渓谷だから速度も出ていないし。」

「待てよ、それでも危険だぞ。」

「隧道にはお気をつけなさい。」

頷いて、リニーは窓枠に手を掛けた。そのまま易々と車両の屋根に上がって視界から消えていってしまった。ロバートは呆然として眺めていた。

「機を待とう。ロバート、頼んだぞ。」

「何だ?」

そう言うと稲熊は納刀して刀を座面と背もたれの間に置き、座り込んでしまった。

「この部屋では某の刀やアンジェラのライフルでは取り回しが悪い。主が頼りだ。」

ロバートは言われた意味を理解して、腰の上着が拳銃で膨らんだ部分を触る。

「それはつまり、この部屋に来たら、撃て、ということか?」

「当たり前でしょう。」

「待ってくれ!まだこっちを狙っていると決まったわけじゃないだろう。」

「関係ない。この場で銃を撃つような者は敵よ。」

「だが、僕は……」

「……その拳銃、弾は入っておろうな?」

ロバートは昨晩から銃に手を触れていない。弾倉には一発だけ残っていたはずだ。

「突然のことで、準備がなかったというか……」

彼が言い切る前に、車両の扉が開く音がした。誰かが通路に入ってきた。三人の間に緊張が走り、すぐに黙り込む。稲熊はロバートに身を低くするよう手振りを示した。それからアンジェラは稲熊と視線を合わせ、武器を構えて通路側の壁に貼りつく。そのまま様子を窺っていると、男たちの会話が聞こえてきた。

「こっちが一等客車だ。」

「ここに違いねえ。」

男は二人いる。並んで足音を響かせ、通路をまっすぐに近付いて来る。やがてそれは稲熊の視界に入るようになって、彼は首で合図をした。

一つ、二つ、三つ、数えて、稲熊は力強く扉を開けた。刀を振り上げて構え、通路の中央に立って男たちに対峙する。

「何だ!?」

男は驚愕の声を上げた、それが致命的だった。

短い哮り、刹那に間合いを詰めて銃を持った右手首を斬る。返す刀で腹を突き、そのまま押し込まれた男は後ろに倒れかかり、その後ろにいる者の体勢を崩した。

「アンジェラ!」

稲熊が叫び、振り向きざまに刃を引き抜き、身体を捻りながら膝をついて屈む。前方の男は倒れる。即座にアンジェラが通路に現れて、無様に晒された後ろの男の胸を撃ち抜いた。

短いうめき声、重い音を立てて倒れる巨体。板張りの床に血溜まりはゆっくりと広がって、板の隙間をなぞるように赤い線が素早く伸びていく。

「見事であった。」

「そっちこそ。」

ロバートは通路を覗いていた。耳だけは何の変哲もない列車旅の音を聴く。その一方で目の前の光景は、鼻を刺す硝煙の臭いは、この状況の異常を訴えている。身をかがめていたのはいつの間にか四つ足になっていて、腕が自分の意思と関係なく震えるのだ。

後方から音がした。リニーが窓から飛び込んできて、うずくまる彼の背後に立った。

「大丈夫?」

我に返ったロバートは身体を起こして彼女の前に立った。

「こっちは二人やってよ。」

「まだいる。向こうで車掌を撃ったのが。さっき見つかった、今は屋根の上にいる。もうすぐこの車両の上に来るよ。」

「任せなさい。」

アンジェラはそう答え、今度は窓際に移動すると腰に巻いたベルトから大きな弾丸を一つ取り出した。

「この車両は他に人がいない。狙い撃ちするなんて面倒だから屋根上全部吹き飛ばしてよ。」

「其はよもや、昨夜の爆弾ではないか。」

「ええ。擲弾筒よ。このライフルにつける追加の装備品。先込めで擲弾を差し込むと上に発射されるの。」

銃口を直上に向け、銃身の下に据え付けられた擲弾筒の口に弾丸をあてる。

「先に謝っておくわ、破片が屋根を貫通したら悪いわね。」

と不穏な一言を発し、アンジェラは一、二……と数を数え始める。これが彼女なりの狙いの付け方だった。

手を離す。弾丸は筒の中を落ちていき、最下まで達したら煙と轟音を上げて直上に飛び出す。

破裂音、列車の屋根が一斉に割れるような音を立て、それから何かが屋根にぶつかる音。ロバートは窓を見た。アンジェラは銃を持ち直す、その向こうに、窓の外を落下していく物体を見た。あれは人ではなかったか。

硝煙の煙が窓の外に逃げていく。列車は速度を落とさずに渓谷に敷かれた線路の上を進み続けている。もう発砲音は聞こえなかった。

「機関士に状況を報告しないとね。車掌もどうなっているか。生きていればいいけれど。」

「某らが要らぬ誤解を招かれては致し方ない。」

などと二人が話している間、リニーは顔に手をやって考えていた。そして、

「あと一人、いる。」

と呟く。

「兄貴!」

通路から素っ頓狂な声が上がった。

「残党か!」

言うと同時に稲熊は刀を振りかざして飛び出した。通路には男がもう一人、斃れた男の一人に駆け寄ってうずくまっていた。突然現れた稲熊に為す方なく、拳銃をはじき落とされ切っ先を向けられた。「ひ……」と声にならない悲鳴が上がる。

「リニー嬢、これで終いか。」

「うん。確認した限りでは。」

稲熊は拳銃を蹴って通路の向こう側まで滑らせた。

「さて、如何にするか。」

男はすっかり震えあがって抵抗する気力も失せている。二人とも武器を下ろして血溜まりで腰を抜かした哀れな男を見下ろす。ロバートは数歩後ろからその様子をおずおず眺めていた。

「私、手荒なのは苦手よ。」

「ふむ、では紳士的にいこう。質問は任せた。」

アンジェラは男を睨みつけた。

「答えなさい、お前たちは何者か、もしくはお前たちの雇い主が何者か。」

「お、お前らこそ何なんだよお……!」

「質問を質問で返すな。答えなさい。」

「や、雇い主なんかいねえ!見て分かるだろ……お前らはそれを守ってんだろ?」

「間怠こい物言いをするでない。」

「何言ってんだよ……」

稲熊が刀を振り上げた。男は叫び声をあげ、顔を手で庇う仕草を見せる。

「カネだよカネ!ケチな銀行家がこの列車で現金を運んでるって聞いたから、それを狙って乗り込んだんだ!おれぁお前らみたいな護衛がいるなんて聞いてねえぞ!」

二人はしばらく顔を見合わせた。不意にアンジェラはため息をついて列車の壁にもたれかかった。下に向けた銃口が床について音を立てる。

「そんなどうでもよいことのために列車を襲って?せこい列車強盗のとんだ迷惑に付き合わされたものよ。」

「お前ら、関係ないのか……?」

「黙っていなさい。」

果たして強盗騒ぎは完全に収まった。生き残った強盗は縛りつけられ、乗客らは落ち着きを取り戻した。最初に撃たれた車掌が唯一の犠牲者だった。リニーは機関士に状況を報告し、列車は次の街で運行を取りやめることになった。

四人は座席に戻った。アンジェラはライフルを抱えたまま苛立っていた。すぐ外の通路には縄で手足を縛られた強盗が床に座り込んでいる。

「ともあれ、幸いであったな。追手ではなかった。」

「最悪よ。これで完全に足跡がついた。私たちが東に向かったことが知られてしまうわ。すぐにでも刺客を送り込んでくるでしょう。」

「鉄道警察に出頭するの、嫌だなあ。」

「仕方がないことよ。なるべく早く終わるといいけれど。」

「堂々と構える他あるまいぞ。……ロバート、主も。」

彼は項垂れていた。肘と膝を合わせて肩を落とし、足元の床と鞄ばかりが視界に入っていた。彼はグロッギイだった。

「ロバート、もう少ししゃんとしてよ。」

アンジェラは隣の彼を見やった。

平時であれば彼のような反応は至極当然のものであろう。ロバートは昨晩の襲撃と、それ以前の心労が拍車をかけていた。それでいて他の三人は闘争心に燃え、多少の心身の傷はものともしない状態になっていたので、彼の滅入った様子が際立ったものに映った。

「外の風に当たってくるよ。」

彼は立ち上がった。通路で屍を跨いで行くわけにもいかないので、反対の側に渡って列車の連結部に出ようとした。通路に出た時、足元に強盗がうずくまっていた。

「兄貴ぃ、兄貴ぃ……。」

先刻から男はこのようなことを繰り返し、さめざめと泣いているばかり。いい加減に鬱陶しく、かといって離れた場所にやるわけにもいかないのでアンジェラは声を上げる。

「お黙りなさい。渓谷の下に突き落とすわよ。」

「そうしてくれぇ!おれを殺してくれよ!」

更に泣き喚く男に彼女はいよいよ頭を抱えた。男は縛られた手で顔を拭った。血溜まりについた手は赤く、それで拭った頬も血糊で塗りたくられている。

ロバートは屈みこんで彼の顔を覗いた。

「お前はあの男の舎弟なのか。」

「よさぬか。その男と話すな。」

稲熊の言葉を無視して彼は問い直した。

「舎弟なんて安いもんじゃねえ、おれと兄貴は血は繋がってねえけど本当の兄弟だ。兄貴がいなけりゃおれなんて生きてねえんだ。」

男はまたも泣き出す。涙の筋が顔の血糊を洗い流して目の下に線を描く。

「兄貴が逝っちまって、おれだけ生き残るなんて嫌だよう……これなら死んだ方がマシだ。」

ロバートは男の隣に寄り添ってしばらく黙っていた。力なく項垂れた男。ロバートは立ち上がった。転がる死体の少し離れたところに、「兄貴」の帽子があった。ひっくり返って帽子の頂点を血溜まりに浸している。彼はそれを拾い上げて、項垂れた男の頭に被せてやった。そうして三人の座る座席に振り返り、こう言った。

「サクラメントに、帰ろう。」

シエラネバダを越えた列車は次なる街を目前に控えていた。


リノ――ネバダ州の西の入口。大陸横断鉄道でカリフォルニアを脱した者たちを最初に出迎える街。ネバダ州のほとんどを覆う『大いなる盆地』、グレイトベイスンの西端に位置する。シヴィル・ウォーの英雄の名を冠したこの街は金鉱殺到により相次いで金鉱、銀鉱が発見、鉱山の街として命知らずな野心家たちを集めた。鉱山が枯渇して後も欲望に溢れた男たちの熱気は冷めることを知らず、やがてカネの街としてその名を馳せるようになった。街中には賭博小屋やらが所狭しと立ち並び、カリフォルニア州では既に違法とされた賭博の数々が夜な夜な催されている。リノを訪れる何者も、大勝利の野望を抱いている。夜通しラムプで照らされた華やぐ深淵は、甘い夢を悪夢に塗りこめていく。それでもこの街に勝負を挑む愚か者が絶えないのは、そこに、ほんの一握りの勝者が確かに存在しているからだ。

列車を降りた四人は事件の関係者として鉄道警察の取り調べを受けた。捕らえた強盗と乗客との証言もあり彼らが逮捕されることは無かった。ならず者が多いこの街では銃撃戦など日常茶飯事で、当局は正義を執行する行為については深く取り調べない体質ができあがっていた。拘束された強盗の一人は独房に入れられた。いずれ裁判により判決が言い渡されるであろうが、それより後のことは知らない。

取り調べは午後までかかった。やっと解放されても、遅れた旅程を取り戻すことにはならなかった。彼らには話すべきことがあった――ロバートの発言について。

薄暗いホテルの一室、ラムプで照らされた壁紙は植物の葉のような柄模様を持っている。日暮れが迫る窓の外は酒場、賭博小屋がそれぞれの建物の一階を占有している。今はまだ閑散としているが、辺りが暗くなるごとに賑わいを増して人の目は爛爛と輝きだすであろう。

四人は四角い部屋につかず離れずの距離で立って、まるでそれぞれが自分の領域を持っているかのように見えた。

こういう時、沈黙を破れるのはアンジェラだ。

「そろそろ聞かせなさい。あなたが何を考えているのか。」

ロバートは目を合わせなかった。窓際に立って通りに視線を落として、外の明かりによって三人からは表情を窺うことができなかった。

「サクラメントに帰ろう。この旅は終わりだ。」

彼はもう一度、先刻の列車内での発言を繰り返す。

「まさかあなた、あれくらいで心が折れたの?ただの二度襲われたくらいで。」

彼女は故意に厳しい言葉を選んだ。返す反応は予想を裏切るものだった。

「ああ。」

「――僕にはできない、このままニューヨークまで逃げ続けるなんて。僕たちが目指す街は彼方にあって、途方もなく、遠い。それにあの手紙だって本当か分からない。」

「呆れた。昨夜のあなたに聞かせてやりたいわ。」

「そうだ、昨夜はどうかしていたよ。」

「戻ってどうするの?」

姿見の前に立つリニーは問いかけた。机の上のラムプが顔の輪郭を浮かび上がらせている。

「アンジェラの家だって、今は安全か分からないでしょ。」

「この研究は捨てて、僕は当局に出頭する。君たちは事情を説明すればまだ引き返せるだろう?」

「『引き返す』って、随分なお言葉ね。まるで私たちが悪魔に魂を売ったみたい。」

「そう言いたいんじゃあない。」

「帰ってどうなるというの。」

「それを問うならむしろこのまま進み続けたらどれだけ負の影響が出るか、だ。引き返すなら今しかないんだ。」

稲熊は腕を組んで壁にもたれかかっていた。軍帽を深く被って、目線を隠したまま尋ねる。

「時に、主は何ゆえ考えを変えたか。某は一つ理由に思い当たるものがあるが、それは正しいか如何。つまり、列車強盗の男と話したことぞ。」

「決め手と言うならその通りだ。彼はきっとこれまでも多くの者の死を見てきた、そのいくらかは自分で手を下しただろう。それなのに、一番近しい者の死体を前にして動転し正気を失っていた。なんて自分勝手なのだろう。僕はそんな彼と同じだと気付いたんだ。」

「要はあなた、自分のせいで私たちを、無関係の人を巻き込んだと、そう言いたいわけ?」

「そうだけど、言いたいのはむしろその逆だ。僕はみんなのことが大切だ。勇気づけられも、仕事を助けられもした。そんなみんなが……僕のために誰かを殺めるのに堪えられない。」

「自分の置かれた状況が分かってるの?」

ベッドに座り込み、ライフルのケエスを床に置いていたアンジェラは立ち上がった。

「向こうはあなたの命を狙っているの!あの強盗だって、抵抗すれば容赦なく撃った、現に車掌は殺された!やらなければあなたがやられる、それだけの簡単な話でしょう!」

「それでも!誰かが誰かを殺すのは嫌だ!そうなるくらいなら僕は僕に諦めをつける。」

部屋は静まり返った。彼の決断を止めることができる者はこの部屋にも、世界にも、どこにもいないことが分かっていた。

稲熊は帽子のつばに手を掛けた。

「言うておくが、某らが引き返せるというのは誤りぞ。主の命を追う者が存在することを知ってしまった以上、奴らも某らを生かしてはおくまい。」

「それも分かっているさ。本当は部屋を出る前に僕は決めなければならなかった。いつだって諦めるのが遅いんだ、何もかも手遅れになってから、自分の身の程を知る。本当に何と言っていいか、みんな……」

「それ以上言わないで。」

漏らしかけた言葉をリニーが止める。

ロバートは部屋を飛び出した。

「待ちなさい、今、外に出ては……」

「もういいんだ。僕は死ぬのはこわくない。」


太陽がシエラネバダに沈む。カリフォルニアに住むうちは決してこのような景色を見たことはなかった。ぼんやりと紫がかった空は徐々に東の荒野から立ち昇る夜闇に呑まれていく。この斜陽の刻をトワイライトという。原始の時代、夜はすなわち死と隣り合わせであった。夜行性の獰猛な獣たちが動き出し、昼間の熱気を失った空気が身体を刺す。だがしかし、本当の危険が潜むのは真夜中ではない。夕暮れの中にあってこそ人の目は未だ暗闇に慣れず、一インチ先の脅威を察知することもできない。トワイライトとはすなわち人が盲目になる刻である。

リノの核たる歓楽街の中心を歩く彼は孤独であった。賭博小屋を出入りする勝負師たちも、早くも出来上がってしまってふらついている飲んだくれも、彼はどこか怯えた目の端で捉えて足早に通り過ぎていった。

どうしようもなく馬鹿なことをした。この状況下で一人飛び出すなどどうかしている。彼らがもし自分を探しに出ているなら、それこそ危険に晒すことになる。万が一本当に自分がここで殺されることがあれば、彼らに一生の後悔を背負わせることになる。死に際まで誰かに迷惑をかけていくのは、大抜け作のすることだ。

気が付けば彼はその手に鞄を持っていることに気が付いた。列車の中でも、部屋の中でも肌身離さず置いていたのをこうして出てくる時も持ち出してしまった。本当に嫌気がさすことに、この期に及んでも研究を後生大事に抱えているらしい。これならば一緒に心中してしまうべきだ。昨日の夜に自分の部屋で死ねなかったのは、こいつと一緒じゃなかったからだ。

憧れてばかりの人生だった。当時は自覚していなかったけれど、今になって認められる。陸軍士官学校に入ったのは、偉大な軍人の後見人に育てられたから。自宅の本で詰まった本棚は、いつか見た邸宅の光景が忘れられなかったから。気まぐれに人を助けたりしたのは、慈善家の真似事。アパッチの戦士に追われていて足を止めなかったのも、研究を諦めなかったのも、どうしようもないけどどこまでもついて来る仲間がいたから。

甘い夢だ。まるで自分が金鉱を掘り当てるとでも思っているようだ。誰かに憧れているうちは、夢想に憑りつかれているうちは、何物も手にすることはできないのに。

不意に、彼の前に男が立ちはだかった。男と目が合った時、ロバートはそれをごく自然に、当然の結論のように、追手の輩であることを見抜いた。流れるように近くの柱の陰に回り込み、男が銃を抜く前に隠れた。それがあまりに滑らかだったので、自分が自分でない何者かに動かされているかと思った。

一発の弾丸、柱を射抜いて木くずが飛び散る。銃声に驚いた人々は蜘蛛の子を散らしたように逃げ去っていく。屋内の者はおっかなびっくり窓の外を窺う。銃撃戦に慣れたこの街の者はまず、その銃口が誰に向けられたものなのかを確認するのだ。

ロバートは駆け出し、柱の間を縫って通りの角を曲がった。素早い身のこなしに敵の照準は追いつかない。建物の角に背中を張り付けて通りの正面を探る。彼の思考は急速に巡り始めた。

死ぬのはこわくないと言ったが、語弊がある。今この状況で斃れるのは認められない。この瞬間にも他の刺客が三人の部屋に迫っているかもしれず、それを伝えないことには死にきれないからだ。先刻まで自暴自棄になって呆然と通りを歩いていたのに、この身の変わりようには自分でも失笑してくるほどだった。結局自分はここでも諦めが悪いのだ、仕方ない、そういう男だ。

既に表通りから人影は消えた。これで敵を把握しやすくなる。腰のホルスターから拳銃を抜く。装填口を開くと、やはり一発は入っていた。無様に持ち出した研究と同じで、懐に入れた弾薬は肌身離さず持ち歩いている。ロバートは空の弾倉に順繰りに五発の銃弾を込めた。

胸の高さで建物の角が撃ち抜かれる。真正面に敵はいる。――やれるだろうか、自分に、銃口を的に向けて引き金を引く、士官学校で習った基礎中の基礎ができるだろうか。人が殺せるだろうか。土壇場ではやってみるしかない。ロバートは建物の陰から身を乗り出した。

これで天国の父さんと母さんには会えなくなるが――

――天国?

そんなものがあるのか?

しくじった。彼は思った。無防備にも身体を晒して、引き金を引くのが遅れた。男は既にこちらに銃口を向けている。何もかも終わった。

――ザッ。

男ががくりと顎を上げた。銃を下ろし、前に崩れ落ちる。彼の背後から現れたのは、刀を振り下ろした黒い影――サムライであった。

「大事ないか。」

サムライは問いかける。

「ああ……。」

「他に敵は。」

「見ていない。」

「ここを離れるぞ。ついて来い。」

ロバートは右手に銃を、左手に鞄を抱えて無我夢中で稲熊の後について走った。

二人は歓楽街の外れ、一軒の寂れた酒場の裏手に隠れて落ち着いた。路地の出口は二か所あり、それぞれの際に立って表を窺った。人通りは少なく、不審な影は未だ見えず。一瞬の物音に警戒したが、それは近くを通る野良犬だと分かった途端に肩の力が抜けた。

「あの二人は部屋にいるのか。」

「出てきたのは某のみぞ。」

「早く戻らないと。」

「あの者らは屈強にして非凡な乙女らよ。」

稲熊は思わず笑みがこぼれた。

「そうは言ってもだな……」

「まずは己が身の安全を確保されたし。」

待てども追手は現れなかった。ほとぼりが冷めるまでこの場に留まることにした。裏口の傍の水溜めの陰に並んで座り込んだ。稲熊は刀の血糊を拭き取りながらロバートの手に握られた拳銃を横目でみやった。

「主の迷いが失せぬまま、その引き金を引かぬでよかった。」

その言葉で彼は叔父さんの手紙を思い出した。

「君は叔父さんと同じことを言うんだな。『悩み迷ひは銃を抜く前に整へよ、引き金を引く時に考へてはいけない』、その意味を身をもって知ったよ。」

「主の叔父上は聡明であられるな。」

彼は拳銃に刻印された親族の名前を指でなぞる。撃鉄が起きた銃はいつでも撃てるのに、いつまでも撃てないままだ。

「稲熊、どうして君はそこまでするんだ。」

「何をか。」

「君は日本の軍人で、政府の命を受けてこの国にいる。その立場や責務だってあるんだろう。」

「それが如何したか。」

「それなのになぜ危険を冒して僕を助けるのかってことだ。今や世界中が僕を敵視している。もう分かったろ、僕はこんなに弱い男だ。それなのにどうして。」

「某が此処に居るのはならぬことか?」

ロバートは口をぽっかり空けて隣を見た。目が合った稲熊はさらに続けた。

「友に死んでほしくないと思うのはならぬことか?」

黒い瞳は答えを求めるように彼を見つめる。ロバートは何一つ答えることができなかった。

「『旅は道連れ世は情け』――」

ロバートは彼の口から発せられた馴染みのない言葉――おそらく日本語――を理解できなかった。

「何と言ったんだ?」

「某はこの国に死するがために来た。」

質問に答える代わりに稲熊は語った。

「郷里を裏切り、戦を落ち延びて間の抜けた日々を送っていた某は祖国に死に場所すら失っておった。合衆国に派遣さる命を受けたのは、某を知る者が一人と居らぬ異郷で地に伏すがよいと悟ったが故。この刀も、某が何時でも命を絶つこと能うようにと携えておった。それがある男に会いて、予定が狂った。男と知り合いて、まだ見ぬ景色に打ち震え、愉快な冒険まであった。某はまたも死に損なってしまった。」

「――その男は某の見立てより遥かに強き男であった。仕事を完遂し、その信念を曲げなかった。崇高な精神を胸に抱いておった。その隣に立っているうちに、某の考えも変わってきたのだ。国に戻り、日本をこの国のように強き国にせねばならぬと使命に燃えるようになった。」

稲熊は話す間、上を見上げていた。酒場の軒の向こうに、夜空が細長い長方形に覗く。この四角い夜空は遠く海の向こうの国まで続いているだろうか――あの夜の、木々の隙間から覗く細切れの夜空に繋がっているだろうか。

「かつての己に檄を飛ばすこと能うならば、某はこう告げる。そう易く捨て去れるほどこの世はつまらぬ物ではない、と。それから、某を生かしたその男にも同じようにな。」

稲熊はもう一度隣の男に首を向けた。

「ロバート、生きよ。主の意志が挫かれることは、己が意志が挫かれることと違わぬ。主のおかげで某にはレイルが見えたのだ――枯れた荒野をまっすぐに突き進むレイルが。友よ、もう一度それを見せてはくれまいか。」

彼は驚いた。

「なんで君がそれを知っているんだ……?」

「何ぞ。」

「いや違う……君にも見えるんだな。」

ロバートは立ち上がる。壁につけていた上着の背を払った。鞄を持ち上げ傷ついていないか表面を確かめる。

「戻ろう、いつまでも隠れていられない。」

「左様。」

稲熊は刀を腰に差して隣に立った。深く被り直した軍帽の金の装飾が暗がりでもよく映える。

通りの正面はニ、三の労働者が歩いているだけ。太陽は沈みきってしまい、酒場の窓からこぼれる照明の光が道を進む手掛かりになる。

先刻は刺客に襲われたのが噓であったかのように、道行く者は二人を無視して通り過ぎるばかり。誰も彼らに興味はなく、明かりに満ちた店で陽気な夢を謳うことしか頭にないようだ。向こうの賭博小屋では今宵も数々の勝負が繰り広げられている。賭け金を上げるも自由、据え置くも自由。確実なことは参加費を払って手札が配られたなら、どうしようが勝負は始まっている。

不意に、二人の前に立ちはだかる者があった。だがそれはもう厄介な殺し屋ではなかった。ロバートと稲熊はその人影をよく知っていた。

「アンジェラ!リニー嬢!大事なかったか。」

「それはこっちの台詞よ!」

「さっきから探してたんだよ。」

「ロバートも……無事なようね。」

彼は固まって立つ三人のもとに近付いた。

「襲われたのか、そっちも。」

「大したことなくてよ。手っ取り早く金に目が眩んだ素人を雇った、そんなところでしょうね。」

それを聞いて稲熊は不意に笑い出す。二人はついにおかしくでもなったのかとぎょっとして彼を見た。

「言ったであろう、ロバート。」

「彼は襲撃の後で主らを気にかけておったのだ。某は『屈強な乙女ゆえ心配には及ばぬ』と言ったのだがな……」

途端にリニーとアンジェラの顔が驚きから怒りに変わった。

「お気をつけなさい、このライフル、弾を込めたままにしてあってよ。」

「斯様なところぞ。」

「稲熊、あまり言っていると身を滅ぼすよ。」

とげとげしい彼らの会話を遮るようにロバートは謝罪の言葉を口にした。

「勝手に飛び出してすまない。」

「……まあ、髭面の日本人はさておき、あなたが無事ならそれでいいわ。」

リニーも目を閉じて首を縦に振る。

お互いの安全を確認して一息ついた四人は暫し黙り込んだ。頭は冷静で、迅速に次の行動を決めなければならないと分かっていた。

「部屋にはもう戻れなくてよ。」

「駅に行こう。今なら夜行に間に合うはずだ。」

リノ駅の駅舎は街の象徴たる華やぐ賭博小屋と相反して、質素で薄暗いものである。この時間になれば利用客の姿もほとんど見えなくて、鉄道は一日の営業を終える準備を始めている。板張りの屋根の向こう側、ホームからは夜空に煙が上がっているのを確認できる。今日の内に街を出るならあれが最後の列車になるだろう。

「ここで待っているから、切符を買ってきてよ。」

アンジェラの言葉にロバートは頷いた。

三人とも彼の意思を問い直すことはしなかった。敢えてそうしなかったのは、これから買う切符の行き先が自ずとそれを示すからだ。全ては彼のための旅ならば、当人の意思に従う以外に道はないことを理解していた。

――初めから僕は、僕の研究以外は何も背負っていないと思い込んでいた。ところがそうではなかった。諦めの悪い信念が誰かの意志を変えさせるほどに他人を巻き込んで、気が付けばそんな彼らの命運までこの肩に担いでいるのだ。自分はその無言の信頼に応えてきただろうか。そうでなかったなら、これからそうするのだ。

切符売り場は改札の脇にあって閑散としている。買い求める者の列も今はなく、ロバートはカウンターに腕を置いて折り曲げた指で木板をノックした。駅員が向かい側に現れて遅くに現れた客に愛想無く目をつける。

「まだ列車は残っているか?」

「あれが最後ですが。」駅員が親指で改札の向こうを指し示す。ホームに見える一編成の列車、機関車の向きを見れば幼い子供にでもその行き先が分かる。

「四枚くれ。等級は何でもいい。」

「どこまで?ウィネマッカ?エルコ?」

――レイルはまだ、見えているか。

「もっと、もっと東だ。大陸の果てまで僕たちを乗せてくれ。」

駅員は呆れたように目を細くして、夜行列車が走る終点の駅の名が書かれた切符を取り出した。


ネバダ州に広がる『大いなる盆地』をグレイトベイスンと呼ぶ。一年を通じて降雨が少なく、枯れた土地には背の低い雑草が点々と茂っている。地形は線状の山脈と間の低地を何重にも繰り返し、鳥の目で見れば洗濯板のように波打った大地を観察できる。その山脈の間々を縫うように開拓道路は敷かれ、今ではそこがネバダ州を東西に貫く大陸横断鉄道の路線になっている。

見た目の不毛さに反してこの大地は宝に満ちている。今から二十年も前にいくつもの金鉱、銀鉱が発見された。ここをフロンティアの最前線として開拓者が押し寄せ、わずか数年のうちに世界で有数の採掘量を誇る鉱山地帯へと変貌した。現在でも採掘は続けられている。資産家たちが自らの財力をひけらかすために身に着ける金装飾の多くは、ここで金鉱掘りたちが汗を額に輝かせて採掘した苦労の塊である。

この列車は食堂車を牽いている、それも最後車に牽いている、これは珍しかった。今は昼時で食堂車が利用可能である、そして最後車といえば、後ろの扉から外に出ればデッキには半周の広い眺望を得ることができた。真後ろに進む列車は周囲の景色を次々に置き去りにしていく。足元から線路はどんどん湧いてきてそれを視界の中心軸に据えながら地平線まで来た道の軌跡を描く。これは客車の屋根から眺める景色ともまた違って、どこか奇妙で爽快な、飽きずに眺めていられるものであった。

静かである。ここまで来ると機関車の駆動音はほとんど聴こえない。ガタゴトと線路を駆け抜ける音は、不思議と耳に気にならなくなって、いつの間にか意識の外に追いやられている。側面の手すりを掴んで横に流れる景色を眺めつつ、身を乗り出して食堂車の外壁を覗くようにしてみた。

涼しい、風。頬を通り抜ける。お下げ髪を首の後ろに靡かせる。これは堪らないと顔を引っ込めると、すぐにまた静かな世界に戻る。また顔を出すと、強い風は再びこの体に吹き付けた。

列車は緩い曲がりに入って、前方を覗く視界に全ての車両が視認できるようになった。赤いボイラーの機関車を先頭に、炭水車、連なる客車、最後に食堂車。どれもが噴き上がる煙の下で順繰りに体を揺らして走っている。こうして自分が乗っている列車を俯瞰できたことはない。この光景を独り占めにしているのが少し勿体ないような気がした。

一番手前の窓に車内の様子が少しだけ窺える。テーブルがあって、見知った顔が見える。アンジェラだ、また何かご不満があるらしい。リニーは景色を眺めるのをやめて車内に戻った。

扉を閉めると、すぐ横の壁に稲熊が背を預けて立っていた。腕を組み、目を閉じていたのをリニーが戻るとすぐに反応した。

「戻ったか。」

二人は揃って一つのテーブルを見た。そこには手前側にロバートと、その向かいにアンジェラが座っていて、彼女はマグを手にしていた。

「もう一度訊くけれど……ここがどこかお分かりかしら?」

「ああ――もうじきユタ準州に入る頃なんじゃないかな。」

「そういう意味ではなくてよ。この車両が何かを訊いているの。」

「食堂車。」

「そう、食堂車よ。」

答えながら、アンジェラは口で息を吸った。

「それであなたは、どうして卓上いっぱいに紙を広げているのかしら。」

二人が座るテーブルは細かい文字や数字がびっしり書かれた紙でそのほとんどが占領されていた。ロバートはその一枚を眺めていたのを、不意に顔を上げた。

「仕方ないだろう、これはまだ体裁がなってないんだ。技士として、おざなりに実験データと簡単な書き取りだけを渡すわけにはいかないだろう。せめて論文としてまとまったものにしなけりゃな。」

彼は鞄の中にしまい込んでいた研究資料をテーブルの上に広げているのだった。

「勘違いしないで、私は何も研究をするなとは言っていなくてよ。わざわざ食卓ですることかって訊いているの!」

「他にどこでするんだ。広い机がここにしかないんだよ。」

「広い机と言っても、これは食卓よ。こうも資料を広げられたら、満足に食事もできないじゃない!あそこにいるリニーを見なさい!あなたに場所を譲って、まだ何にもありつけていないでしょう!」

彼女が急に車両の奥のリニーを指さすので、当人は困惑した。ロバートも後ろを振り返ったのを、リニーは身体の前で両手を振って「別にいいよ。」と答えた。正直なところ、固いパンと乾いた肉、冷めたビーンズにコーヒーだけの車内食は手放しに喜べるようなものではなかった。

「それを言うなら、食べ終わった君が避ければいいんじゃないか?君のところは空けといてあるじゃないか。」

「食後のコーヒーが終わっていないでしょう、見て分からない?」

アンジェラがマグを掲げて揺らす。

「それこそここでなくてもいいんじゃないか。」

「あなたってば本当に、どうしようもない人ね!」

豪快にコーヒーを一飲みしてしまうと、アンジェラは荷物を持って客車への扉の方に歩いて行ってそのまま扉を開けて消えてしまった。

空いた座席にリニーが座り、その隣に稲熊は座った。ロバートは一瞥してから「ペンを新調した方がいいな」などと呑気に語って資料との格闘を続ける。

「女の人にあんな言い方したら良くないよ。」

リニーはそっと彼を諭した。

「いじらしき哉、主。」

稲熊の言葉を聞いて彼は顔を上げて不機嫌そうにした。

「僕はな、女性はもっと淑やかで奥ゆかしい方がいいと思う。……少なくとも昔はそんな風に見えたんだけどな。」

「憶測だけど、それ、あなたにも同じことが言えると思うよ。」

「僕は昔からこの通りだ。」

彼はそう言ってから黙り込んだ。俯き、資料に目を落とし、帽子を被り直した。

「もう少しやらせてくれないか。」

「どうぞ。」

「圧し潰されそうな不安から逃れる方法を、これ以外に知らないから。今だってこいつらと向き合っていなきゃたちまち元の通りになってしまいそうなんだ。」

「……急ぐことはなかろう。それは主にしか背負えぬものぞ。」

「ありがとう。本当は君たちにもこんな様子を見せてはいけないと分かっているんだけど。」

ロバートは顔を上げた。

「僕は明日をも知れぬ命だ。この世から消え失せる前に、これだけは何としても完成させなければならない。そのために進み続けるんだ。」

不意に、彼は散らばった紙を集めて整え始めた。

「やっぱり、ここは譲るよ。昼時が過ぎて、みんなが客車に戻ってから僕は作業を再開することにする。」

「いいの?」

「一人の方が何かと落ち着くから。」

荷物をまとめ、彼は立ち上がる。「向こうで待ってるよ」と言い残して席を後にした。

一両前の客車、午後の時間をくつろぐ乗客の姿がちらほら見受けられる。ここにいる者が刺客でないことは探りを入れておいた。時に長い列車旅の間では行き先を同じくした者同士が知り合い、打ち解けることもある。用心のために彼らが正体を明かすことはなかったが、乗客と顔見知りになっておくことは身の安全を守ることにもなる。そうしながら、万が一の事態があれば自分はこの者たちを危険に晒すことになるのだといった考えが脳裏をよぎることもあった。

向かい合った座席の長椅子、その中央にアンジェラは座って新聞に顔を埋めていた。ライフルのケエスは決まって座席の下、荷棚に置くより有事の際に取り出しやすいからだ。スカートの裾から臙脂色が見え隠れして鈍く光る。

彼女には向かいの席に座った男が見ずとも分かった。

「研究はよろしくて、『先生』?」

「あー、疲れたから休憩だ。君の言う通り、一人の時にやった方が捗る。」

「あらそう。」

ロバートからは新聞の一面と最後の面が見えている。滑稽に描かれた政治家の顔がこちらを見ていた。怒りで顔を醜悪に歪めている。見出しから察するに先日の不祥事絡みの内容か。世間の誰が何をしたとか、興味はない。

「何か書いてあるか?」

「ええ」と彼女は答えた。

「サクラメントの一夜の事件、自宅の焼け跡に遺体無し、そしてリノで目撃情報。噂は蒸気機関車なんかよりずっと足が速くてよ。今は東に向かっているだろうって。」

「御推察通りだな。」

「今頃ソルトレイクシティじゃ歓迎会の準備でも進んでいるのでなくて?」

衆目が集まれば闇討ちはしにくくなるだろうが、寄り付く者の中から刺客を見つけ出すのがより困難になるだけだ。

「何事も思い通りには運ばない。」

「他にも書いてあるわ。」

彼女は平坦な口調で文章を読み上げる。

「切符売り場で行き先を尋ねられたグレイヒルは『もっと東だ。』などと頓珍漢なことを述べた。」

「おい、それ絶対書いてないだろ。」

「ウ・ソ。」

新聞紙が下に下がった。顔を覗かせたアンジェラは笑いを堪えきれずにニヤついていた。

「ねえ、あれどんな気持ちで言ったの?」

「君、本当に可愛げがないなあ。」

顔が熱くなるのを感じた。

ロバートは新聞を受け取ってそれを開いた。アンジェラは「読む価値がない」と渡すのを渋った。彼女の気遣いは身に染みるが、外の情報を掴まないわけにもいかない。

ロバート・グレイヒルは犯罪者で罪を逃れて逃走している、そのように書かれていた。共にいる三人のことも既に身元が知られていた。これは仕方のないことであった。証言では何者かと交戦していたことも書かれてはいるが、依然その正体については一切の不明である。事実に悪意ある喧伝を交えて記された記事は良いものではないが、社説には少し違った意見が載っていた。畢竟、国民は彼の研究内容について詳細を全く知らないのであり、彼の行為を審議する上でもその要素は重要になってくるであろう。こればかりはロバートも頷いた。

彼は新聞から目を離した。座席の向こう側ではアンジェラが心配そうにこちらを覗き込んでいる。そこで彼は言った。

「叔父さんに電報を送ってみようと思うんだ。」

彼女は驚いた。

「叔父様は確か、ワシントンにいらっしゃってよね。」

「彼は陸軍省にいて、個人的に連絡を取ることは不可能だ。おそらく電報の内容も漏洩する。」

「目的地も何も教えられないじゃない。何を送るの?」

「『無事だ』って――それだけ。叔父さんは僕の家族だから。」

彼が今自分に対して何を思っているか、ロバートは知らない。リニーを伝って渡された書簡が最後の便りである。あれから音沙汰ない――あったのかもしれないが、結局彼のもとには届かなかった。だからロバートが便りを送ろうとしているのは、彼自身がそうしたいと――家族に安否を知らせたいと願ったからだ。

「君はどうするんだ。ニューヨークの御父上に伝えることは無いのか。」

アンジェラは黙った。「ないわ。」それだけ返した。

「しかし……」

「あの人から便りがあれば正直に返すようにと家の者には言ってある。もちろん、行先は教えないけれど。」

「彼は君の手ずからこそ聞きたいはずだ。……アンジェラ、僕が言える立場じゃないけど、父親との関係を拗らせたままにしてはいけない。」

「……別に、これを今生の別れにするつもりはなくてよ。」

アンジェラは窓枠に腕を掛け、車窓に首を向けた。彼もそれ以上は何も言うことはなくて、新聞を席の隣に置いて目を閉じた。

客車に戻った稲熊、リニーと入れ替わるようにしてロバートは鞄を抱えてその場を後にした。


ロバートはただ一人の食堂車で資料を机に置いた。純白のクロスの上には取り留めのないことを書き連ねた備忘録が散らばる。どうにも考えに行き詰まって窓の外を見た。雪原と見紛う純白の景色がここにも広がっている。これは雪ではなくて、塩の土だ。

ユタ準州、一日をかけて渡ったグレイトベイスン東端の地がここ、グレイトソルトレイク砂漠。『大いなる塩』と名を冠するグレイトソルト湖の西側にあって、広大な湖よりさらに広い砂漠である。この大地が不毛の砂漠であるのは無理もない、土壌の非常に濃い塩分濃度によって草木は生えず、瓶の塩をそのまま撒き散らしたような白一色の世界ができあがっているからだ。

如何にしてこの塩の大地ができたかというと、人類が栄えるより遥か昔、数百万年前にこの地に存在した湖による。名をボンネビル湖といって、グレイトソルトレイク砂漠の全体に塩湖を湛えていた。それが干上がったことで塩分だけが残り、果てしなく平坦で白き土が一帯を覆いつくした。つまり太古の時代、現在のグレイトソルト湖は今より何倍も大きかったことになる。五大湖や自治領カナダの氷河湖に匹敵するような巨大な湖が、この西部にも存在したのである。

涸れた白銀の平原を、線路は限りなく直線に貫く。この道を行く列車は前後左右どちらを見回しても冷徹な水平の線だけを目にする。これが如何に孤独であることか、かつて馬車でロッキイを越えた冒険家たちの孤独はこれに比べようもないものではなかったか。

この食堂車は静かでいい。資料を散らかせるテーブルは広い。だがこの白いクロスもまた、孤独だ。ここには冷えたビーンズの皿が載ってこそ相応しい。暗くなる前に今日の作業は切り上げて、客車に戻ろうか。

そう考えた矢先に前の車両で銃声が轟いたのを聞いた。何か、次の行動を起こそうと考えた時に限ってこういうことが起こる。続けて響いた銃声――音は軽くライフルでない。

これは敵襲である。

彼はすぐさま出入口を警戒した。前も後ろも今のところは人影が見えない。急ぎテーブルの紙と鉛筆を鞄にしまい込む。席から立ち上がって身を屈めた。

三人が心配だ。最初の銃撃は一発、不意打ちを食らっていたら……。敵がこの車両に来ないことから、まだ全員はやられていないと考えていいのか。

安全策を取るなら、彼らの退路を作ってこちらの車両で迎え討つことだ。だが、向こうは何人いるのか?この瞬間までどこに潜んでいたのか?敵の装備は?

自分がもっと早く向こうの車両に戻っていればよかった。――戻っていたら何になるのか?それよりかここに一人でいた方が安全なのか?三人はそう思っているかもしれない。

――冗談じゃない、助けなきゃ!


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「旅の道行も、この手の中にある研究も、悩むこと、迷うことばかりだ。それでも『引き金を引く時に考へてはいけない』、叔父さんの言葉がやっと分かったんだ。大切な仲間を守りたいなら、立ち止まって考えちゃいられない。」

静寂たる車内に銃口から立つ煙が宙を舞う。ロバートが銃を下ろした。座席の隅で小さくなっていた乗客たちが屍体を踏み越えて前の車両に消えていく。

「無事か、みんな。」

三人はそれぞれ遮蔽物から立ち上がる。見たところ深い傷を負った者はないようである。ところが稲熊は納刀する時に自らの上膊に左手を当てた。

「怪我したのか?」

「稲熊、無事だったの?」

彼の左手には傷口に触れたところに血がついていた。

「大事ない、咄嗟に刀で弾いた弾が脇に流れた。我ながら良き反応であった。」

「え?刀で……何だって?」

「紛れぞ。」

ロバートは車両の中ほどに進み出て倒れた敵を見やった。誰も動く気配はない。

「敵はこれだけか。」

「どうかしら。ひとまずこの車両にはもう誰もいないけれど。」

「奇妙だな……」

彼が立ち尽くしていると、機関車が吠えた。長い汽笛を鳴らす。四人が機関車の進行方向を向いてそれを聴いていた。それから短い汽笛は繰り返され、その回数は――八回。

「ロバート、これって……」

リニーはその汽笛を覚えている。彼は頷いた。

「非常事態だ、機関車が時化ている!」

「この列車、術機関士は乗っているのかしら。」

「いなかったら厄介だ、いたらもっと厄介だ。術機関士がいるのに時化が抑えられないということは……」

「……術士が意図的に工作している。」

四人は即座に顔を見合わせる。これも敵襲の一部に違いなかった。

「リニー、機関車まで行けるか?機関士を助けてやってくれ。僕たちは先頭の車両に行く。術を掛けている敵がいるとしたらそこだ。」

リニーはすぐさま車両の屋根に上がり、直ちに先頭へ駆けて行った。三人は一両ずつ客車を渡っていく。残っている乗客は怯えた様子で彼らが通り過ぎていくのを目を見開いて凝視していた。道中に潜む敵は居らず、客車の一両目と二両目の間のデッキに立って彼らは立ち止まった。機関車は速度を上げ、真白の平原を駆けて行く。連結部から下を覗くと目に留まらぬ速さで通り過ぎていく枕木を確認できた。

ロバートは扉の脇に立って、壁に背中をつけながら窓越しに車内を窺った。後ろで銃声が聴こえたのだから、当然乗客の多くは先頭の車両に避難している。座席は埋め尽くされ、立っている者、しゃがんでいる者、慌てて持ち込んだ荷物は通路にはみ出るほどである。

「アンジェラ、何か感じるか。」

彼女は客車の壁に手を当てた。

「術を使っている者がいるわ、前の方……正確な場所は分からない、せめて中に入らないと。」

「そうだな。稲熊、中に入ったら扉の前にいてくれ。逃げる者がいたら止めろ。」

「任せよ。」

「アンジェラ、ライフルはここに置いていくんだ。銃を持って入って、乗客が恐慌したら大変だから。」

「危険よ!」

「大丈夫、僕がやる。」

彼は黙って頷いた。アンジェラはその言葉を信じて、デッキの床にライフルを置いた。ロバートは拳銃の撃鉄を起こしたままホルスターにしまい込んで、扉に手を掛けた。

「行くぞ。」

車内の乗客が一斉にこちらを見た。戦闘を知らない者は彼らを遅れて避難してきたようにしか思わなかった。扉を閉め、その前に立って全体を俯瞰する。ロバートは稲熊と目を合わせ、手順通りに任せる。その次に、顔を合わせないまま隣に立つアンジェラに囁いた。

「分かるか、術を使っている者が。」

彼女は首を振る。

「いけない、既に術をやめているわ。これではうんと近くまで寄らないと分からない、この密度では尚更よ。」

リニーの妨害が入ったのを察し、こちらを見止めた敵は術をかけるのをやめていた。今は避難者に紛れ込んで暗殺の機会を窺っている。

「近付くしかない、か。」

彼はそう言って頷いて、左腕の肘を軽く横に突き出した。

「腕を取れ。」

「……正気なの?」

「いいから。」

強く促され、渋々アンジェラはその腕に手を回す。

「ゆっくり行こう。術士の存在が分かったら僕に合図をくれ。それで立ち止まる。」

「本当にやるの?」

「君が頼りだ。」

ロバートは右手を腰の辺りに浮かせていつでも銃を抜けるようにした。それから手前に転がる鞄を乗り越え、最初の一歩を踏み出す。稲熊は徐々に離れていく二人の背中を見送った。

一歩。一人一人を確認し、また一歩。列車の揺れはガタガタと、歩みを進める二人を揺さぶる。塩の雪原に太陽が近付き、西日が車内に差し込んで薄暗い足元を確認するのを難しくしている。のろのろと一インチを進む蝸牛のように彼は一フィートを歩んだ。人は皆恐れと不安と入り混じった表情で二人を見る。

やがて車両の四分の三は進んだか、不意に左腕を強く掴まれる。ロバートは立ち止まった。彼の上着に皺を立てながら、アンジェラは斜め後方から耳元に囁きかける。

「一人、いる。近いわ。」

ざっと周囲を見回す。男性、女性、若者、壮年――。座席のこの区画だけでも十人ほどが立ち、座りしている。当然ながら敵は平民らしい装いをしており、見た目から分かるものでもない。この至近距離で先手を取られたらすなわち死だ。

ロバートはその中の一人、中年の男が、自分の手元を隠しているのを見つけた。彼は警戒してこちらを見つめている。ロバートはついに意を決して拳銃を男の額に向けた。

「おい、お前。」

銃身で男の帽子を弾き飛ばす。一気に震えあがって、彼は途端に両手を頭の横に掲げた。――何も持っていない。

「ロバート、その人は術士ではないわ!」

――バン。

アンジェラは背後で物音を聞いた。振り向くとそこには銃を持った男が倒れていて、胸元を貫かれている。真後ろに伸ばしたロバートの腕に握られた拳銃は煙が吹きあがっている。

「隙を見せれば必ず攻撃してくる、そう思っていたさ。近付きさえすればいい、そうすれば、僕は外さない。」

人差し指を掛けてくるりと銃を回し、銃身を下に向けてホルスターに差し込んだ。

「ありがとう、アンジェラ、君のおかげだ。」

「あなた、見えていたの……?」

「西日が差していなければ、分からなかったな。」

彼は車窓を指さした。背中に夕日を浴びていた彼には、背後で立ち上がる人影がよく見えていた。

「天晴だ、ロバート!」稲熊は駆け寄る。

「主の力、見誤っておった。」

「そうね、よくやったわね。」

「……さて、僕は機関車の様子を見てくる。運転室にいる者に報告しなきゃ。」

ロバートはきまり悪そうに左腕をくいと揺さぶった。それでアンジェラは今に至るまでずっと手を掛けていたのに気付いてぱっと手放した。

「ライフルを取り戻してくるわ。」

「それがいい。」

もう安全だと乗客に伝えると、彼らは少しずつ動き出してそそくさと後ろの車両に戻っていった。ロバートは屍体を見下ろして静かに脱帽した。決してもう一度は振り返らずに機関車へ続く扉の方へ歩みを進めた。


グレイトソルト湖の北岸にプロモントリ―・サミットと呼ばれる小高い丘がある。ここは一八六九年、歴史的な『レイルの結婚』が成された場所である。大陸横断鉄道はシヴィル・ウォーの終盤に建設が認可され、東はオマハを起点としてユニオン・パシフィック鉄道が、西はサクラメントを起点としてセントラル・パシフィック鉄道が建設を請け負った。両者の「競争」とも言える線路建設合戦は盛んに行われ、終盤には一日に最大で十マイルもの長さの線路が瞬く間に築き上げられた。いよいよ東西の路線が完成間近となった両社は合流地点をプロモントリー・サミットに定めた。一八六九年五月十日、合流を記念した式典が開かれた。ユニオン・パシフィック鉄道のトマス・デュラント、セントラル・パシフィック鉄道のリーランド・スタンフォードをはじめ、多くの関係者や作業員が集う中で、最後の枕木に金製の犬釘を打ち込む作業が行われた。最後の犬釘が打ち込まれた時、電信によってその情報は全国に即座に伝えられた。「done」の四文字にニューヨークからサクラメントまでの市民が歓喜した。合衆国の東と西はこの時一つになったのである。ユニオン・パシフィック鉄道の一一九号、セントラルパシフィック鉄道の「木星」号ならびに関係者が写り込んだ最も有名な大陸横断鉄道の写真はこの日に撮られたものである。

ロバートは幼いながらにこの日のことをよく覚えている。彼はサクラメント駅に詰めかける群集を見た。合流の瞬間には何十両もの機関車が狂ったように歓びの汽笛を鳴らしていたのだった。

その歴史的なレイルを踏みしめ、一行はオグデンを経由してソルトレイクシティに至った。

ソルトレイクシティを一言で言い表すならば、宗教の街ということになる。ユタ準州、ロッキイ山脈の麓にあってグレイトソルト湖の湖岸に位置するこの地域には、もともと何もなかった。そこに西部の荒野への玄関口たる大都市ができた由縁は、時を半世紀遡ることになる。

ジョセフ・スミス・ジュニア。合衆国に生まれたこの男は、少年時代に教会で神の言葉を賜って「預言者」となる。その言葉は「数々の教会によって異なる教えが与えられ、宗派による対立が当たり前のように行われているが、それらすべての教えは誤りである」というものだった。スミスは正しい神の教えが回復することを願い、そしてアメリカの地にて黄金板に刻まれた聖なる文書を掘り起こす。これは古の預言者がこの大陸に渡って埋めたものであったという。聖書に違う『もうひとつの証』を手にしたスミスはその言葉を書き起こし、新たな教条として宗派を創始した。これは合衆国憲法に認められた信条の自由に基づいてこの国で産声を上げた、「アメリカの宗教」であった。

スミスの遺志を継いで二代目の指導者となったブリガム・ヤングは旧来の宗派からの迫害に対して、開拓することで対抗した。ヤングは信徒と共に西部へ渡り、手つかずの大地に一から都市を建設した。その都市を、近くにあった塩湖にちなんでソルトレイクシティと名付けた。斯くして新たな宗派による新たな都市が完成した、「預言者」ジョセフ・スミス・ジュニアの意志はまさしくアメリカを開拓したのである。

ソルトレイクシティには荘厳な教会が建設され、現在も多くの信徒がここに暮らしている。そうした街は近年、別の理由で発展が続いている。すなわち「海水浴」の流行である。

グレイトソルト湖の塩分濃度は、海水のそれよりも高い。従ってその水は強い浮力を持ち、大人の男でさえも簡単に浮かせてしまう。また、塩分濃度の高い土壌は延々と続く白砂浜を作り出している。こうした非日常的な光景は旅行者たちの人気を博し、「海水浴」場が整備された。これに商機を見出した実業家が鉄道を整備し、ホテル、レストラン、遊戯場を備えたリゾオトを完成させた。水上に建つコテエジ、桟橋の遊覧船、水着の恋人たち――、そうしたものが、今ではこの街を象徴している。

ロバートらは今、そのリゾオトにいた。保養とは凡そ無縁の旅である彼らがなぜここにいるかというと、それは鉄道会社の補償であった。列車内での事件発生を受け、鉄道会社は乗客の信頼回復を第一に行った。それが「希望者にグレイトソルト湖畔のリゾオト宿泊券を与える」というものだったのである。……実際、事件の中心人物であって、原因の一端は自分たちにあるとも言える四人であったが、黙っていればどうということはなく。、宿も決まっていなかったので一般の乗客を「装って」――事実その通りではあるが――宿泊券を手に入れたのである。

レストランは水上に足場を組んで建てられていて、辺りが闇に包まれた宵の中では文字通りに建物が水に浮かんでいるように見える。近くの砂浜は日中には水着の人々で賑わっていたのだろう、この時間は波間にレストランの照明を映してゆらゆらと幻想的に輝いているのみである。

レストランのホールは壁のない吹き抜けで、木造の三角屋根は屋根というより庇と称すべきであり、前方は見渡す限りに漆黒の湖を望むことができる。湖は水平線で夜空と境界を作り、それぞれに調子の違う闇色に染まっていて、それらが壮大な自然のせめぎ合いをしているようにも見えた。足元は踏めば音が鳴る板張りの床、真下の水面は随分下にあったはずなので、例え安全だと分かっていてもここで飛び跳ねるのは愚かな考えだと感じる。

「予約席」と書かれた四人掛けの丸い卓に座ってしばらく待っていると、ウエイターによって料理が運ばれてきた。カウンターの奥に厨房があって、開放的な空間に二十ほどのコック帽が忙しなくしているのを確認できた。運ばれた料理は、干しブドウパン、カットレット、バターミルク和えマッシュドポテトと茹でキャベツの付け合わせ、仔羊のシチュー、数種類のアルコールから一つ――中でもビールはこの街の産品であった。

四人は黙々と食事を続けていた。車内食は世辞にも美味いと言える味ではなくて、停車中に駅の食堂で食べる時もあまり悠長に食していられなかったから、食事に関してあまり満足がいっていなかった。それに戦うということは、腹が減ることであった。

ロバートはせっせとナイフを動かしている稲熊を見て、声をかけた。

「気分はどうだ。」

「よろしい。『カツレツ』は日本にもあるのだ。某は上官に連れられて銀座の洋食屋で食せり。実を言うと、某はこれが好物也。」

もう一切れ頬張る彼を見てロバートは思わず笑みがこぼれてしまった。

「それは良かった。僕は腕の調子を尋ねたんだけどな。」

稲熊は「ああ」と声を上げてナイフを持つ腕の肘を上げてみせた。

「案ずるな、戦いに支障なし。じきに快復しよう。」

「あまり無理するなよ。あと何度、何人と戦うことになるか分からない。」

「……こんなところで料理を食べてていいのかな。」

リニーがぼそりとこぼす。

「また敵が来たりしたら。」

「僕が何時何処にいても、敵は来るところに来る。その度にうまいこと立ち回るしかないんだ。……とりあえず、今襲撃されたらどうするかだけを常に考えておけばいいんだ。」

「主も随分肝の据わった物言いをするようになったな。」

「感心ぞ」と笑って、また肉を一切れぱくりと頬張る。

「士官学校で訓練されたことが、少しずつ呼び起こされている。結局あの道は挫折したが、諦めたことですべてが終わりになるわけじゃない、それまでの努力は無駄になっていないんだな。」

「なんだか、いつものあなたに戻ってきたわね。」

「いつもの?」

「――ちょっと鼻に掛けたところ。」

途端に三人が噴き出して、彼はしかめ面になった。アンジェラは笑いながら「そうじゃなくて」と言うが、半分はその通りに思っていそうだった。

「あなたは切羽詰まった時こそ冷静に動く性格でなくて?」

「そうなのかな。」

「左様。」

「私はそういうところ、見てきたけど。」

ロバートは頭の後ろを掻いた。彼は悪い方向にしか自己分析したことはなかった。

「だが、弱気になるわけじゃないが、この先のことは心配だ。僕たちは相手を知らなさすぎる。」

そう言いながら彼はアルコールを口にした。

「サクラメントでアンジェラが見たという者共は、外国人に違いなきか。」

「おそらくね。彼よりあなたの方がよっぽど英語が上手くてよ。」

「恐悦。」

「じゃあ、敵は外国にいるの?」

「さあ。国内の者が足跡がつかないように外国の殺し屋を雇ったかもしれない。問題は、向こうの動きが僕たちを上回るほどに早いってことだ。僕たちがサクラメントを出た日の夜にリノに刺客を送った。あれは僕の家を襲った連中とは違って十分な用意がなっていなかったからきっと即席で用意した者なんだろう、だがそれにしても迅速だ。」

「あっちには高い諜報能力があるのね。」

「ああ。殺し屋とは別に『尾行者』がいるんだ。それも一人や二人じゃない、交代を繰り返しながら四六時中監視を続けられるような。」

リニーはさっと辺りを見回した。それから小声でこう囁く。

「今もいるの?」

「……そう考えるべき。少なくとも発言の内容には用心しなきゃ。」

「敵の一味は大きいということか。」

「正体に見当はつかないのかしら。その研究から思い当たるところはなくて?」

尋ねられて彼は首を横に振る。

「術士の団体から各国の政府まで、反発する者を数えれば枚挙に暇がない。表立って動いていない連中こそが殺しの指令を出しているかもしれない。」

「サクラメントで捕まった男が正体を白状すればよいのだけれど。」

襲撃の夜に巡回の警官と銃撃戦を繰り広げた敵のいくらかは、その後逮捕されているらしい。警察の取り調べがどこまで進んでいるか定かではないが、報道に目ぼしい情報は上がってきていない。

「何にせよ、動きが迅速であることは重要だ。諜報が行き届いているにしても、実働部隊をこれだけ早く出せるものだろうか。会見から三日、僕の研究が最初に新聞に報じられてからも、精々一週間しか経っていなかったんだ。英語が下手な殺し屋。それでいてこの用意のよさ……これは根拠のない僕の憶測でしかないんだが。」

「ほう、言ってみよ。」

ロバートは声量をさらに抑えて、テーブルの中央に向かって顔を突き出した。

「敵は僕たちを狙うずっと前から、何か別な目的を持ってこの国で暗躍していたのではないだろうか、と。」

彼は座り直した。今や全員が手を止めて一つのことに考えを巡らせていた。ロバートは深刻な話をし過ぎたかと思って「さあ、早く食べよう」と促した。

「この道を進めば、自ずと手がかりも得られるだろう。」

彼にはそれを希望というより確信としてその胸に抱いていた。


浜辺のレストランから駅を挟んで陸側に建てられたホテルは白壁と赤い瓦屋根が地中海の様式を模している。マルセイユかベニスでも気取っているようだが、どうということはない塩湖のほとりに一棟だけが建っているのではむしろ滑稽である。室内のラムプなども上品ぽく波打った傘がついていて洒落ているといえば聞こえがいいが、柄になくどこか背伸びしているようで落ち着かない。

もう夜中だというのにベッドが四つ並んだ大部屋の隅では嫌味らしいラムプが煌々と照っていて、ペン先が紙を引っ掻く音が断続的に続いている。ロバートが机で黙々と作業をしていた。彼は背後に人の気配を感じて手を止めた。

「起こしてしまったか。もうすぐ終わりにするから。」

「ううん。でもそうした方がいいよ。」

声の主はリニーらしかった。振り向けば黒髪のお下げを解いて寝間着で――と言ってもほとんど変わらない姿でそこに立っていた。彼は一瞥をくれてからすぐに机に向き直った。

「いくら用心のためとはいえ、君とアンジェラには悪いな。」

「私は構わないよ。昨夜だって隣で寝てたんだし。」

「夜行列車とこれとは話が別だ。」

「そう?彼女も気にしてないようだけど。」

「あれでいて融通が利くんだ。」

彼女は彼の肩越しに机を覗き込んだ。机一杯に資料を広げてあって、ラムプが照らす手元には白い紙とインキ瓶、それに先の尖ったペンが光を跳ね返して輝いていた。

「仕事は進んでる?」

「やっと構成がまとまって本文を書き始めたところだ。もっとも、構成はヒルバレーにいる間も、部屋に引きこもっている間も練っていたからな。」

「『論文』ってどんなの?」

「同じ学問をやっている人向けに、『私は是々をして其々を発見しました』ということを詳らかにするんだ。普通はこれが出版されて初めて発見者や発案者として認められる。新聞や文学ほど大衆向けでないから、きっと読んでも分からないよ。」

「ロバートって技士なんだね。」

「御明察。」

決して馬鹿にしたのではなく素直に感心してリニーは言ったのに、彼はわざとらしく受け応えた。

「邪魔しないから、ここで見ていてもいい?」

「どうぞ。面白いものじゃないぞ。」

リニーは作業机の隣にある椅子を引っ張ってきてそれに腰掛けた。ペンが紙の上を走る音が聴こえだす。頬に照らされた彼の横顔は青い瞳にラムプの光を映して、琥珀色の髪と一緒に明るい輝きを持っていた。

しばらくしてまたペンを置いた。彼は顔を上げてリニーを見つめ返した。

「どうかしたか。」

「え。」

「気のせいかもしれないけど、何か思いつめたように見えるから。」

リニーは言葉に詰まった。そんなに顔色に表れていたかと自省しつつ、問われたからには黙っているわけにもいかなくなって遂に口を開いた。

「ニューヨークに着いた後はどうするの?つまり、その論文を届けた後は。」

「今は考えないようにしてる」とすぐに答えた。

「目の前の一つ一つに集中するしかないんだ。どこかに身を隠せる場所があればいいけどな。」

「私の村に来ればいいよ!」

リニーは言い放つ。返事があるより早くこう続けた。

「私の家族や村のみんなはあなたがいい人だって、すぐに分かってくれる。街に比べたら不便かもしれないけど、その方がずっといい。」

「それじゃあ君の家族まで巻き込むことになる。」

「私たちは仲間と認めた者のためならできる限りのことをする。いつまででも居ればいい……だって、世間は誰もあなたのことを分かってくれないんだから!」

「……嬉しいな。そんな暮らしもいいかもしれない。」

ロバートは上を見上げて呟いた。天井の壁紙まで気取った絵柄がついて憎らしいくらいだ。

「そしたらもう二度と、研究のことなんか考えも及ばなくなるんだろうな。」

はっとして、リニーは俯いた。わざわざ話を持ちかけるまでもなく、彼の性格ならこう答えると分かっていた。それ以上は何も言えなくなって、今は浅はかな自分を呪った。

ラムプの灯が揺れる。

「一つ、後悔していることがある」とロバートは呟いた。

「アリゾナで君が僕のもとを離れると言った時、止めなかった。それが君のためだと思って、大きな使命を負った君を僕に止めることなんかできないと思って。だけどそれはひどく無責任だ。行かないでくれと言うべきだった――それが例え極めて個人的な願望だとしても。」

「これは君が謝ることじゃないよ」と彼は付け加えた。

「ニューヨークに着いた後のことは、全く希望がないわけでもない。それと言うのも、これがあるからだ。」

そう言って彼は手元の紙をトンと叩いた。

「この研究は社会の混乱を招く大変なものであるのは間違いない、おそらく術士の立場をも変えるような。でもそれは裏を返せば、社会を変え得る大きな力を持っていることを意味する。だったらこれは僕にとってもう一つの武器になるはずだ。それはもしかしたら、たった一人で大きな敵と対峙できるものかもしれない。そしてこの力は、君の目的を達するのを助ける力にもなるかもしれない。――僕はこの論文を持って戦う。困難には違いないが、きっと道は拓けるはずさ。それが自分自身の言葉を噓にしないために僕ができることだ。」

言い切って肩をすくめた。アンジェラが「鼻に掛けてる」と言うが、その通りだと自分でも思う。

「ありがとう」その一言がリニーの口を突いて出た。

「私はあなたのことを尊敬してる。まるで蒸気機関車みたいに、まっすぐなレイルを迷いなく進んでいくの。私のレイルは曲がりくねって、何度も二手に分かれている――けれどあなたに教えてもらった精神があれば、きっと迷いなく進めると思う。……だからこの旅は最後まで一緒に行かせて。」

「……君もそうなんだ。」

「どうしたの?」

気にしないでくれとロバートは満足気な表情で首を横に振った。

「それはそれとして、いつか故郷を案内するから、私の家族にも会ってね。」

「喜んでそうさせてもらうよ。」

ラムプの油が切れるといって、一日の活動を締めくくった。ロバートは着の身着のまま横になると身体はすぐに疲れを思い出して間もなく眠りに落ちた。


ロバートはカーテンの裾から入り込む陽の光で目を覚ました。立ち上がって足元の靴を履き、窓まで歩いていってその前に立った。両手でカーテンを掴んで左右に引くと、四角く切り取られた朝の世界がカメラの閃光を焚いたように部屋の全体に投じられた。それがあまりに眩しくて、三人はやおら布団を剥いで瞼を擦りながら窓を向いた。

「見ろ、ロッキイに朝日が昇る。」

丘上に望むソルトレイクシティの市街の先、遥かなるロッキイの峰々が鋸のように空の境界を作り出している。空は赤く燃え上がり未だ残る夜の紺青と混ざり合って、山際からは今まさに白い円が顔を突き出してくるところだった。

「あの太陽が顔を出すところまで僕たちは行くんだ、そこが合衆国の夜明けの場所だ。」

燃える空は闘志を満たし、刻々と増す輝きが心に希望をもたらす。その景色は未知なる地平を開拓する精神までもこの胸に抱かせるのであった。


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