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あとがき(短編集 HORNET)


短編と言えば誰だってそうでしょうが、一万字以下のものならば一日二日でささっと仕上げてしまうのが基本でしょう。僕は遅筆なので途中で疲れてきて結局一週間かかっちゃうこともありますが。

短編はラーメンと同じ、できたてほやほやが大事。数日間構想を練ったならば、あまり遅くならないうちに書いてしまった方がいいです。推敲作業は後からやればいい。いろいろ作業が立て込んでるときに限っていいのを閃いたりなんかしちゃって「思いついちゃったものは仕方ない」の姿勢で作業を中断して書き始めるのです。自分でも「そんなテキトーでいいの」とツッコミを入れたくなりますが、これがそれなりに良くて、じっくり構成を練った中・長編と比べても遜色ないなと感じられる。だからやっぱり「その時の閃き」って大切なんですね。

そんな生活を繰り返していたらいくつか作品が貯まったので、この短編集を公開するに至ったというわけです。

あとがきまで読んでくださる親切な方々のために、ここでは各作品についてどのような思いを抱きながら書いたのか、個人的な振り返りの意味も込めて述懐してみることにします。ときどき妙にはっちゃけたあとがきを書いて、読んでいて作品の余韻がなくなるようなあとがきがありますけど、ああいうのは苦手なのであくまで冷静に。


HORNET

紛争解決の手段としての暴力は究極的には認められます。なぜなら我々はこの拳で人を殴る方法を知っているからです。それを知っている以上、暴力が使われなくなるという絶対的な保証がなされる日は決して訪れない、故に「人が死なない戦争」なんてのは存在しえないわけですが、仮に存在できたとしたら……?

僕のいくつかの作品のテーマに共通したものに、人の「生まれ変わり」とも言える現象があります。ルソーは『エミール』の中で「第二の誕生」を著しましたが、僕は人は「生まれ変わる」べき瞬間がいつか訪れるものと信じています。男性の場合、それは「少年から大人へ」です。本作もそれを描いた作品の一つです。

以前書いた短編小説『つばくらめの仔』も「少年から大人へ」を描いています。人間の寿命が縮んだことで再び青年期が失われた未来の世界、現代の価値観では「子供」に違いない十二歳の少年でさえも、あることをきっかけに大人としての自覚を持つ。反対に、現代社会では「ヤングアダルト」といって、二十代も青年期の途中であるという考え方もあります。このことからも僕は男性の「少年から大人へ」の「生まれ変わり」はいつだって発生しうるものだと考えています。

『つばくらめの仔』では人生のパートナーを見つけることでそれが発生しましたが、本作『HORNET』では家族からの自立を通してそれを発見します。「生まれ変わり」はいつでも起こり得るものであると同時に、様々なきっかけで起こり得ることが二つの作品で示されています。みんなが言っている意味とは違ったけれども、確かにスレイドも「HORNET」を受けたことで男になったのです。

兄弟姉妹って、時として親以上に密接な関係だったりします。子にとっての親は「保護者」ひいては「創造主」という感覚が拭いきれないものであるのに対し、兄弟姉妹はそれ以上に対等な血族だからではないでしょうか。スレイドもマチもお互いを家族の中で一番大切な相手だと考えています。それは創作にありがちな「優しいお姉ちゃん」「手のかかる弟」だからでなく、密接な関わり合いがあるからです。


おかえり、私の王子様

これを書こうと思ったきっかけは、家の前に現れたカラスをまじまじと見た時に「近くで見ると意外とかわいいな」と思ったことです。ご存知の通りカラスはとても利口な生き物なので、これくらい考えながら生きていても不思議じゃないなって思えます。

「人は愛する人のためにどこまでできるか」という問いについて、社会的規範を尺度に考えることはナンセンスでしょう。「窃盗までならギリやるけど他人を傷つけることはできないよ」といった具合に考えてよいかというと、そうではないでしょう。「どこまでを『やって当たり前』と考えるか」というその人の個人的な問題なのです。そのことを本作の少女は表しています。

人を殺し、あまつさえその遺体を鳥に食べさせるという、鳥葬の文化圏以外では死者への冒涜に違いない行為を少女は平気でやってのける。「それだけ愛が深いんだ」と考えることもできましょうが、当人にとってはコンビニで好きな人のためにスイーツを買って帰ることくらい「やって当たり前」なのかもしれません。結局のところ、「愛の深さ」というものは行為ではなく、本人の心の中だけによって量られるのです。

さて、愛のために法治国家で禁忌を犯した少女はこの後も幸せでいられるはずがありません。しかし同時に「クロウ」もまた動物でありながら越えてはならぬ一線を越えるという禁忌を犯しています。互いに禁忌を犯した者同士はここではない別の世界で平和に結ばれるというのが古典的な悲劇の定番ですから、そういう意味ではやはりこの二人も「幸せ」です。

ところで、本作には伏字部分をすべて明らかにした【解答編】原稿があります。敢えて公開は避けましょうが、そこに書いてあることには、少女の名前はシラセキレイカと言います。


カンニング

本作も一言で言い表せば「思春期」となるのでしょうが、成長段階で直面する様々な課題を乗り越えていこうとする試行錯誤の過程をおしなべて「思春期」と称してしまうことには些か疑問です。

人は他人の悪事を前にすると自らの風紀も乱れるようです。若者においてはその傾向がますます強そうです。「他人がやっていたから(いけないこととは知りつつ)自分もやった」と言うと「主体性がない」と大人は叱りますが、子供にとってはそれだけでもっともらしい理由になるのです。

それほど些細なことから道を踏み外してしまうならば、同じくらい些細なことで心を改めることもできるのではないか――本作のきっかけはそこからです。

誰にも知られず悪事を遂行していた女の子、先生方からの信頼の厚い優等生であっただけにそのギャップも大きい。しかもその子は好きな子だったからもう大変、天地がひっくり返ったような思いです。悪事を前にして彼は正義漢ぶって、自らも悪事を行うことを正当化しようとします。その「悪事」が破廉恥な方向に走るのはまあ、中学生男子であれば無理もないことです(女性の皆さんには、理解し難いですか)。

ところが良心の呵責を抱えたまま実行するものだから計画通りに進むはずもなく、うまいこと勘違いされて感謝までされる事態になってしまいます。目の前で人が改心する場面を見た時、主人公もまた心が救われたようになって、初めて恋心に気付くのです。結果的にはそれぞれが最良の形で終わる、まあ何とも不思議なハッピーエンド。

現実の人間はおとぎ話の登場人物とは違いますから、善にも悪にもなりきらない。傍から見れば些細なことで揺り動かされながら、善悪の間に立って生きるものではないでしょうか。


純な彼女を食らって書いた

僕が作品の中で「作品を書く人」を出したのはこれが初めてですね。小説を書く人の小説、マンガ家が主人公のマンガ、アニメを作るアニメ、こういう「メタ」的な作品はともすれば扱い方が非常に難しいと思います。今回は文芸部の一幕という非常に狭い領域、かつ僕が知らない領域(文芸部じゃなかったので)に絞ることで何とかフィクション性を確保しています。

二人の作家は揃いも揃って不純なやり方で作品を書いていたようです。不純=ダメと言いたいわけではありませんが、少々ひねくれているでしょう。

簡単に言えばこういうこと。「好きな人にいいところを見せたいから頑張る、好きな人がいないところでは頑張らない」ていう人がいたらどうですか?身の回りにいたら面倒ですよね?二人がやってたのはこれと同じことです。自分が書く作品はすべてある人へ向けた好意の証であり、その想いが届かないと分かったらやる気がなくなる。それって作家としての「強度」に欠けるでしょう。

しかしまあ世の中を見回せば誰かに向けて書いたものが世間に大ヒットしてるなんて普通です。『エリーゼのために』『Hey Jude』なんてタイトルからしてモロですし、百人一首なんてそういうののオンパレードですよ。作中の奈那子も、燃えるような熱情があったからこそ文学賞を頂くに至ったのでしょうね。


王国復興譚 前章

打って変わってファンタジックな作風。「ファンタジー」の意味は「空想」です。あからさまな空想として描くからこそ「これは作り話なんだ」という安心感がある。ならばいっそもっと芝居がかった作風にしてはどうか。だったら、舞台劇の台本の形式で書くのはどうだろう――。そういった経緯で生まれました。

男性の「生まれ変わり」とも言える大きな変革が「少年から大人へ」であれば、女性にも「生まれ変わり」があります。それは「女から母へ」ではないでしょうか。生物学的には「妊娠によるホルモンバランスの変化が……」と説明がなされるようですが、果たしてそれだけでしょうか、ということを古典的な展開にのせて描いたのが本作。

国王と王妃から幼い王子を託された近衛隊長ハルシオンは養育という重責を前に、初めてその行動原理が「王国への忠誠」から「子供への愛」に変わります。甘えることが許されない厳しい養育を受け、結婚→妊娠→出産という段階を経験していない彼女でさえ、赤子を抱いて死の危険をかいくぐった時には「女から母へ」成長している――。人間は誰しも「生まれ変わり」の因子を秘めているのではないかと思うのです。

ハルシオン改めアルセナのとった選択が王子にとって最良であったことは間違いないでしょう。発達心理学の用語では「母性剥奪」といって、成長段階で母親の愛情を受けなかった子供はその後の発達に悪影響が及ぶ可能性が知られています。レジスタンスで匿われ王子として育てられたならば、彼は国王たる器に成長できる気がしません。ハルシオンは母として振る舞うことが許されず、そもそも剣を捨てなかったハルシオンは母たり得ることができませんから。十分に成長してから真実を告げられたからこそ、王子はそれを受け入れ決断することができたのです。彼が「少年から大人へ」成長するのはこれから先のことです。

題名を『王国復興譚 前章』としたのは、この後に続くストーリーが明るいものであることを明示するためです。


五月闇

「さつきやみ」と読みます。意味は「梅雨の頃、夜の闇が暗いこと。」です。五月の夕方の一幕、ただしこの作品においては「病み」と変換した方がいいかもしれません。『おかげさまで五月病は患ってない』と言いつつも無自覚に五月病に罹っている主人公の心情を表しています。

短編に「続き」は必要ないと僕は考えています。理由は単純、「世界観を広げたいなら短編じゃなくていいから」。だからこの作品も本来は執筆するつもりはなくて、ここまで読んでくれた方への「おまけ」のようなものです。ではなぜ執筆したかというと、僕自身が前作『カンニング』に対して煮え切らない思いを抱えていたのと、公開に先立って前作を友人に読ませたときに「はいはい、こういうおとなしい子(詩緒音さん)が好きなんでしょ」みたいなことを言われたので「おとなしい子だっておとなしい子なりにいろいろ考えながら生きてるんだぞ!」という謎の反骨心を持ったからです。

確かに本作は『カンニング』の半年後、前作の登場人物であった古谷詩緒音の視点で語られていますが、作品としては完全な別物と捉えるべきです。「続き」として書いたのは前作の終わり方に煮え切らなかった人(僕を含む)への「補足」であり、作品のテーマは完全に異なっているからです。

俗に「五月病」と呼ばれる精神状態の原因は「新しい環境に変わったことで自分の社会的所属を見失うことによる不安」だとも言われます。そういうとき、頑張って周りに合わせてみたり、以前の関係を維持することに固執したりしますが、どちらも良い方法とは言えません。多くの場合五月病は長期間新しい環境に置かれることで次第に「慣れて」いって薄らいでいくようですが、意識的に克服する方法はないのでしょうか。その答えを本作では問いています。

自分自身の在処を見失った女の子の心の隙間を埋めるのは、高校の新しい友達とのおしゃれな遊びでもなく、親友との思い出であるコンビニのファストフードでもなく、自分を好いてくれる男の子でもありませんでした。心の隙間は、自分自身の希望で満たすしかないのです。それに気付いたとき、精神不安は克服されるのでしょう。

それにしても、二人とも揃いに揃って鈍感ですね。


作品の外で多くを語ってはいけないはずの作者が、またしてもいろいろと語ってしまいました。反省。

他の作家様の作品にしたって、解説されない様々な精神がたくさん込められているはずです。このあとがきみたいに言語化する必要はありませんが、単なる読み物としてではなく、そういった精神を感じ取りながら読んでみてはいかがでしょう。

それでは、次の小説が出るころにまたお会いしましょう。