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五月闇

古くからある教会の大鐘を叩いたような『ウェストミンスターの鐘』の音色も、最初は胸がざわつくようだったけれど、今ではすっかり体に馴染んだ。

この学校、放課後に掃除がないんだ。話に聞いた外国の学校みたいに生徒は掃除をしない。中学の頃じゃ考えられないことで、今でもときどき帰りの挨拶のあとは机椅子を後ろに下げそうになってしまう。習慣ってこわいね。

わたしが明清館高校に合格したのはやっぱり奇跡っていう他ないと思う。明清館はいわゆる私立名門って学校で、もとはと言えば「進学実績がいいから受けなさい」ってパパとママに勧められたから第一志望にしたんだ。だけどわたしは中学でクラス委員とか何もやったことないし、その上、三年の二学期中間テストの成績がいろいろあってすっぽり抜け落ちてて、内申はもうボロボロ。いくらなんでも受ける前から結果が見えていて、「ダメでもともと」って受けたら――結果的にはそれがよかったのかもしれない。

そんないきさつで始まったここでの高校生活も一か月半くらい経った。おかげさまで五月病は患ってない、と思う。

「詩緒音!」

友達との会話を終えて、美樹がわたしの席までやってきた。

「このあと、ヒマ?」

こう言う時はいつも遊びに誘ってくれるんだ。

「ごめん、今日は早く帰ろうかなって。どうしたの?」

「ハルミたちとカラオケ行こうって。」

カ・ラ・オ・ケ。カラオケ、ニガテ。人前で歌うとか本当に無理で、この間遊んだ時に流れで連れていかれた時は、生きた心地がしなかった。

開いている後ろの扉から春実が飛び込んで、一直線にこちらへ突っ込んできた。

「美樹、今日竹尾くんたち来てくれるって!」

「マジ!?」

「詩緒音はどうだって?」

「今日はキャンセルだって。」

「そっか、残念。じゃーまた今度ね。」

わたしは「ごめんね」って手を合わせる。

「あたし塾の関係でなかなか詩緒音とタイミング合わなくてさー。今度どこか行かない、詩緒音リクエストで?」

「わたし?……考えておくね。」

そう言うと二人は頷いて、鞄を肩にかけて手をヒラヒラさせながら教室を後にした。


わたしは鞄を背負って駅に向かう道を歩く。周りにはグレーのブレザーに赤青のリボンやネクタイ姿の高校生がたくさん歩いている。わたしも同じ格好。

高校に入ってからたくさん友達ができた。中学の友達の何倍?――答えはない。ゼロに何をかけてもゼロだもん。

中学の頃は友達がいなかった。趣味:勉強で、昼休みも勉強、放課後は塾に直行するわたしをみんなはそっとしておいてくれた。相手にしないやさしさ、ていうのもあるんだ。今思えばみんなやさしかった。

高校でもそんな感じだと思ってた。初対面で話すの苦手だし、明清館は頭のいい人ばっかりだから、わたしと同じような生活してると思った。全然違った。みんなはわたしの何枚も上手で、勉強と遊びを両立してる人たちだった。

そしてみんなやさしかった。人に話しかけるのが苦手なわたしを放っておかなかった。さっき話した美樹は最初に知り合った子で、そこから交友関係が広がった。ちょうどわたしも高校進学して塾を減らしたところだったから、誘われるまま放課後の街に繰り出していたら、たくさん知らない世界を知った。なんだか高校生っぽいよね。それから男の子の友達も。話の内容はイマイチついていけないけど、これから頑張ろうと思ってる。

今のわたしを中学の同級生が見たらきっと驚くかもしれない。「古谷さん、そんなに遊ぶの?!」ってな具合に。なにせ一番驚いてるのはわたしだから。人付き合いって苦手なタイプだと思ってたけど、意外にやれてるなあって他人を見るみたいに感心する。

そのかわり、少し距離が開いた友達がいる。

カヨ。瀧田佳代乃。以前のわたしの数少ない友達。

元々小学校が同じだった。だけどその頃は特別仲が良かったわけじゃない。わたしは相変わらずの性格だったし、向こうも割とそんな感じ。転機が訪れたのは中学に上がってから。カヨとは別々の中学に進学したんだけれど、塾が同じだった。最初はどう知り合ったかあんまり覚えていない、そのうちに志望が同じ明清館だってことが分かって、気付けば毎日のように顔を合わせて話をしていた。だいたい志望校ごとにプログラムが分かれてるから、同じ志望なら毎日同じ教室にいるのは当たり前だ。

あれだって、中学の同級生が見たら驚いたかもしれない。「古谷さん、しゃべるの?!」ってな具合に。失敬な、わたしだってしゃべる。とにかくいろんなことを話した。お互いの学校のこと、よく分からない精神論、他愛もない愚痴。心の中で渦巻くあれこれを気兼ねなく外に出せるチャネル――人間関係の中に一つくらいは必要な場所――お互いそんな感じだった。中学校でのわたしがニセモノとは言わないけど、「ありのままの」姿の一つは、間違いなくそこにあった。

最近は違う。

カヨとの間柄が変わってきた。

あの子は今、熊金第一高校にいる。この辺りの公立高校で偏差値が一番高いところだ。熊一は私の滑り止め。それはカヨにとっても同じで……つまり、あの子は明清館に不合格通知を受けた。普通に考えたら逆だよね、わたしはいろいろあって絶望的で、あの子は成績ももちろん、何の問題もなかったのに。

ここで、わたしとカヨの関係が変わった理由を早合点してほしくない。二人そろって第一志望に合格できなかったからって、仲が悪くなるほど薄弱な関係じゃない。合格発表のとき、カヨは「おめでとう」って言ってくれた、あれは心からの言葉だったから。卒業式があった日も二人で会って写真を撮ったし、春休みにも顔を合わせた。

高校生になっても大丈夫、「高校生活」というものに対する漠然とした不安を、不思議と打ち消してくれていたのは他でもないあの子の存在だった。

その後なんだ、少しずつ変わっていったのは。

まず、会う回数が減った。受験期は週六日、日曜日に自習室に行けば週七日顔を合わせていたのが、高校に進学して塾の授業を減らした。あっちも同じだから、今では週二日くらいしか会えない。それでも会った日はいっぱい話していたので、疎遠になったのにはもっと大きな理由が他にある。

カヨが、変わったんだ。

少し前からあの子はわたしの話を聞いている時に、どこか退屈そうにしているのを知っていた。明清館に落ちたことを悔しいとはもう思ってないとしても、わたしが高校での話をあれこれするのは無神経だったかもしれない。そう思って高校の話はあまりしないようにした。それと同時にカヨも学校の話を滅多にしなくなった。するとどうだろう、お互いの話題が減ってしまった。「こんなに話すこと無かったっけ」と思えるくらい。どうでもいい議題で激論を交わすこともない、取るに足らない愚痴はいちいち言うまでもない。会っても無言の時間が増えた。

それだけならよかった。それだけなら――。

この間、わたしが何か話してた時――内容は今じゃ覚えてない、重要でないことに変わりはない。「しお、」っていつもみたいにわたしを呼んで、あの子はこう言ったんだ。

「それでどうしたの?」

愕然とした。その時まで一度も、カヨは結論を急かすようなことを言ったことはなかったから。

その後のわたしは平静を取り繕うだけで精一杯だった、まるで隠しきれていなかったと思う。ぼんやりと窓の外を見つめた無表情の中に、氷のような冷たさと厳しさを秘めていた。わたしは、こわくなった。

カヨは変わった。あの子にはあの子の高校生活がある。わたしがそこに入り込む余地はないんだって気付いた。

それ以来わたしはカヨに会う度、自分ではない別の誰かが代理であの子と話しているような感覚がする。


気が付けばわたしは駅前通りの角のコンビニがあるところまで来ていた。夕暮れ近付く街はもうあと三十分もしないうちに帰宅のラッシュが訪れる。

この角を駅と反対に曲がれば塾がある。この辺りも以前は塾通いで通るだけだったのに、今じゃ朝から歩く。

今の時間に自習室へ行けば、カヨがいるかもしれない。三階自習室の、入って右へ行って左手の奥から三番目。きっとそこだ。美樹たちに「早く帰る」と言った手前、まっすぐ家に帰るべきだしそうするつもりでいたけど、晩ごはんの時間までは自習室に籠ってもいい。そうすればカヨに……。

会って、どうするつもり。やっぱり帰ろう。

駅の方角へ振り返った時、目の前のコンビニの灯りが眩しかった。ここのコンビニは塾と駅のほぼ中間。カヨと歩いた帰り道、しょっちゅう買い食いをした。それで店員さんと仲良くなるくらい。気のいいおじさん、目の前の総菜ケースから揚げたてを教えてくれる。真夏におでん、買ったことある。夜になっても蒸し暑いビルの谷間に、お出汁のしみたあつあつの大根は悪くない。そんなことを思い出すわたしの足は、自然と店の中へ向かっていた。

店内は私服姿の若い人、仕事終わりのサラリーマン、雑誌の立ち読み、いろいろだった。いつものおじさんはいなかった。比較的新しく入ったらしい、慣れない手つきの外国人の店員さん。「いらっしゃいませー」と上がり調子でわたしに声をかける。

ケースの総菜はいつも変わらないメンバー。今はさほどお腹が空いていないけど、見れば不思議と食欲が湧いてくるものだ。戯れに何か一つ、買って帰ればいい。昔カヨと食べた、あれとか、これとか……。

「ご注文お決まりですか?」


駅のペデストリアンデッキで縁に寄りかかって、眼下のバスターミナルに発着する青い市バスを眺めていた。腕にずっしり重いコンビニのレジ袋をぶら下げて。

わたしのバカ、ときどきとんでもないことやらかすクセがあるんだよね。カヨとの思い出の味がたくさんあるからって、全部買う必要ないじゃない。お会計は優に千円を超えるし、第一食べきれるはずないし。

パパに無駄遣いするなって言われるかな。ママにそんな体に悪いものばっかり食べてって言われるかな。全部お腹にしまってゴミをどこかに捨てていく?そしたら晩ごはん食べられなくなる。どうするの、こんなもの?

いい加減、気付くべきだよね。変わったのはカヨだけじゃない。

本当に変わったのは、わたしだ。

やさしい子たちに囲まれて、自分は何の努力もしないまま華やかな高校生になったつもりでいて。みんなから「変わった」って思われることを内心期待したりして。そうしているうちに大事な友達の心も分からなくなって、ついにはそれを相手が変わったんだと言い訳をして。

環境が変われば人は変わっていくものだ。けれど、醜く変身してはいけない。

買わなくたって分かってた、このレジ袋の中身はもうおいしくなんかないってこと。


「詩緒音……さん?」

後ろからわたしの名前を呼ばれた。声の主が誰なのか、すぐには分からなかった。間の抜けたところを見られて恥ずかしい人だと困る。やおら振り返ると、黒い制服姿の男の子がそこにいた。

「やっぱり古谷さんだ。久しぶり……だね。」

ゆっくり近付いてきて、彼の横顔が灯りに照らされた。その男の子は三浦くんだった。

「ぶちょ……三浦くん。」

今さら「部長」って呼ぶ間柄じゃなくて、慌てて言い直してしまった。

三浦くんは中学の元同級生。「部長」というのは、彼がわたしと同じテニス部で、部長をしていたから。もっとも勉強漬けで幽霊部員だったわたしはテニス部員を語る資格はないけど。人一倍打ち込んでいた三浦くんの前ではなおさらだ。彼は今カヨと同じ熊一高校に通っていて、着ている制服もそれだった。

「ひ、久しぶり。」

「テニス部の卒業祝賀会以来だよね。二か月……半、ぶりくらい?」

「だね。」

「できるだけ全員で遊びたいから古谷さんも来て」って言われた三月の祝賀会、その時に彼とメアドを交換して、それ以来ときどきメールを送ってきてくれる。だから今は中学の同期って言うより、メル友?彼、メールの返信が非常に早いんだ。わたしは勉強してたり何なりで返信が遅いのに申し訳ない。

中三の二学期、三浦くんにはあることでいろいろとお世話になって、その頃から何かとわたしを気にかけてくれてるみたいで。それはわたしが腐ってもテニス部員だったからかな。三浦くんはテニスと部員に篤い、正義漢なのだ。……そういうプロのテニス選手、いたよね。

二人してしばらく無言で向き合っていたけど、そのうちに三浦くんは私の手に提がったわがままなレジ袋を見つけた。気になるよね、そりゃあ。

「違うの、これは……。」

「誰かと待ち合わせ?」

わたしは「断じて違います」とばかりに首を振った。

「三浦くんは?」

「ああ、おれは今ね……」

そう言っているうちに、熊一の制服を着た男の子が四人、駅の方から小走りでこっちへ来た。

「うい~、漏れるかと思った~。」

「デカいほう漏らしたらシャレになんねーだろ。」

和気藹々としている男の子たちは四人ともわたしよりずっと背が高くて、まさに男子高校生って感じ。四人は三浦くんのもとまでやってきて、わたしの存在に気付いて足を止めた。

「……壮哉、その子は?」

「おな中の古谷詩緒音さん。今偶然会ったんだ。古谷さん、こいつらはテニス部友達。」

三浦くんはみんなにわたしを紹介してから、こちらに向き直ってわたしにも紹介した。わたしは失礼のないように一度頭を下げた。

「詩緒音ちゃん?よろしく。」

一番背の高い子が言った。右端の子はわたしの制服を見て「おっ」と声を上げた。

「明清館高校?すげーなー、めっちゃ頭いいんだ。」

「才色兼備じゃん。」

「そうだぞ、古谷さんは学年で一番勉強してたからな。」

三浦くん、そんなこと言わなくても。才も色もないです。

「いいなー、おれさあ明清館受けたけど落ちたんだよ。」

「初耳。この変人が明清館にいなくて良かったわ。」

「もしかしたらおれも詩緒音ちゃんと一緒にバラ色ハイスクールライフを送ってたかもしんねー。」

「詩緒音ちゃん関係ねーだろ。」

こうやって楽しそうにしてる男の子たちの輪にまぜられたことってないな。

男の子の一人が「それでよ、」と勿体つけてたことを口に出すかのように尋ねた。

「二人は何、そういうカンケイなの?」

前にもあったな、こんなこと。ある件でわたしと三浦くんが二人だけで話してたのを、他の子たちに勘違いされたの。あの時から迷惑かけっぱなし。三浦くんは軽くあしらうみたいに笑って答えた。

「へへ、そうだったらどうする?」

男の子たちは一斉に息を吐いた。

「その言い方なら安心だな。」

「あ、オイ。確かに違うけどさあ。」

「壮哉に先越されたらおれ寝込む。」

「よりにもよって詩緒音ちゃんみたいな子をさ。」

三浦くんは「ひでーなオイ」と笑って、こっちを向いて困った顔した。わたしは顔を背けて俯くしかなかった。

例によって四人がわたしのレジ袋に気付くまで時間はかからなかった。「買い出し?」って一人が尋ねた。確かにそう見えちゃうかもしれない。何も言えなくて恥ずかしくて、わたしは咄嗟に

「みなさん、お腹空いてませんか!」

と言った。振り絞った声だった。わたしは袋を持ち上げて前に突き出した。

「……これ、よかったらみなさんでどうぞ。さっきコンビニで買ったやつです。」

やっぱりみんなきょとんとしていた。どう考えても変な女だよね。

「誰かと食べるんじゃないの?」

「いいえ、わたし、もう帰りますから……。」

「いいやでもこんなにたくさん。」

「大丈夫です!」

「……古谷さん?」

答える代わりにグイッと彼の方に袋を向けた。差し出されるまま三浦くんはそれを受け取った。

「あ、ありがとう。」

そうして「ほれ」と言ってレジ袋を四人に回してやった。みんなして袋の中を覗いて感嘆の声を漏らしていた。

「いろんな意味であったけ~!」

「詩緒音ちゃん……いや、詩緒音先輩、ありがとうございます!!」

「ごちそうさまです、先輩!!」

口々にそう言った。「先輩」なんてそんな……。でも我ながら太っ腹なことをしてしまった。後悔……は、してない。

「部活頑張ってください、みなさん。」

みんなは「あざす!」と元気よく口を揃えた。

三浦くんたちはこれからカラオケに行くんだって。やっぱりみんな好きなんだ、カラオケ。相当に恥ずかしいことをしたわたしはそそくさと立ち去ろうと思ったけれど、男の子の一人が「待て」とわたしたちを止めた。

「壮哉、お前女の子を一人置いて行くつもりか?ごちそうにもなっておきながら。」

「はあ?」

「送っていけ。せめて改札か、バス停まで。」

「何ならそのまま帰ってもいいぞ。おな中なら行き先一緒だろ?」

わたしは申し訳なくて首を横に振った。三浦くんは確かにそれを見ていたけど、やがて「そうだな」って頷いた。

「いろいろいただいたことだしな。『先輩』をお送りするよ。」

「よし、これでおれたちの取り分が増えたぜ。」

「そんなこったろうと思った。……古谷さん、それでいい?」

「……バス停まででいいから!」

三浦くんは笑って頷く。喜んでるはずの男の子たちが少し残念がって見えたのはなんでかな。

わたしたちに向かって手を振る四人は、こっちが手を振り返しているうちにペデストリアンデッキの雑踏の中に消えていった。残ったわたしたちはバスターミナルの十三番乗り場に向けて足を踏み出した。デッキの下からは、発車を待つバスの後ろについた赤い灯火がいくつも目に飛び込んできた。

カヨに三浦くんの話をした時、「諦めて彼の愛をうけいれちゃいなよ」って言われたことがある。わたしに男友達がいないのをからかったんだ。三浦くんはそういう関係じゃないし、そもそもわたしは男の子とお付き合いするつもりもないの。

三浦くんはやさしい人だ。堅いところがあって、律儀で自分に正しく生きている。テニス部の部長になったのはじゃんけんで当たったかららしいけど、それでも適任だった。そういうところ、見習わなきゃって思ってた。

今日の三浦くんは、少し違っていた。

新しい友達に囲まれて、遊んでいそうな感じだった。ありていの男子高校生。わたしなんかは言葉を交わすこともなさそうな。

みんな、変わるんだな。隣を歩く学生服は、駅前で見かける名も知らぬ熊一生のと同じだ。

「制服、似合ってるね。」

地面のタイルを目で追いながらわたしが言うと「そう……?」と彼は上着の裾を引っ張った。

「そうかな。古谷さんも……ね。」

「似合ってる」って、素直に喜べなかった。このかわいいリボンもスカートも、本当はわたしが付けるべきものではない。

「ホント、三浦くん、大人っぽくなったね。背が伸びた?」

「そんなことないって、全然。そういえば、『部長』ってもう言わないんだ。」

「だって、さすがにもう部長じゃないもんね。」

「そっか?案外、悪くなかったけどなあ。だってほら、後輩からさえ『部長』って呼ばれたことなかったからさ。古谷さんだけなんだ。」

「うん。」

乗り場に着いて、既に数人が並んでいる列に加わった。三浦くんは「バスが来るまで一緒に待つよ」と言ったから、断るのも追い払うみたいで悪くてその言葉に甘えた。ぽつり、ぽつり、彼は話しかけてきた。その度にわたしは短い言葉を返していたけれど、あんまり上の空だったからよく思い出せない。バスターミナルの向こうに見える商業施設の看板や広告を読むでもなく、視界の中心に据えていた。

環境が変われば人は変わる。そこに昔の面影を探したって、わずかな輪郭が見えるだけ。だったら自分は、忘れることを学ぶべきだ。

カラオケ、苦手だけど行ってみようかな。流行りのアイドルのCDでも聴いてみようかな。美樹にオススメ聞いておこうかな。

家のある方へ行き先を示したバスが目の前に停まった。扉が開いて待っていた人たちが自分の席を確保しにいく。

「じゃあね。」

別れの言葉を言って軽く手を挙げてから、列の流れに乗ってバスのステップを踏んだ。三浦くんは他の人の邪魔にならないように一歩退いて、一呼吸あとに「じゃあ、また。」とだけ言った。

バスの後部、進行方向左手の席が良い具合に空いていたからそこに座った。鞄を膝に抱える。発車の時間まではもう少しあるから、時刻合わせにバスは停まったままでいる。

鞄から携帯電話を出した。当然誰からもメールは来ていない。受信ボックスには三浦くんからと、クラスの友達数人からのメール。みんなとメアドを交換するまではこのケータイはママに帰宅の連絡をするだけの機器だった。高校の友達ができて、やっと電話帳をスクロールする余地ができた。カヨとはメールしたこと、ほとんどないな。今さらしようったって、白々しいよね。いっそ、消しちゃえば――

「詩緒音さん!」

外から声がした。周りの席の人も驚いて声の主に目をやるくらいだった。まだ帰ってなかったんだ、そこには三浦くんがこっちを見上げて立っていた。わたしは彼と目が合った。

わたしはその目を知っていた。

思い出した。彼が中学最後の試合でたった一人コートの真ん中に立っていた時、誰もいない空き教室でわたしと向き合った時、三年の年の暮れに自習室の隅で数学の問題を解いていた時、彼は決まってその目をしていたこと。凛とした瞳の奥に燃えるような情動を感じた。その目にわたしも身が引き締まる思いがしたのは一度や二度ではない。

部長は部長、なんだね。

わたしは立ち上がった。ずり落ちそうになった鞄を両腕で抱きかかえて、バスの真ん中に走る。彼もわたしの正面に移動した。

一歩、一歩、降りていく、彼の目線の高さまで。そうしてついに地面に足が着いて、わたしたちは直に向かい合った。何も聞こえなかった。二人だけが宇宙の遠い惑星に行ってしまったみたい。

背後で宇宙船のタラップが閉まった。メインエンジン始動、徐々に出力を上げ、宇宙船は走り出し……。

「あっ。」

発車時刻を迎えたバスは行ってしまった。首を戻すと、驚きと困惑の表情で部長がわたしを見ていた。

「えっと……どうかしたの?あっ、もしかしておれが声かけたから!?ゴメン!そういうつもりじゃなかったんだけど!ただ、最後に少し話そうと思って……その……なに言おうとしたんだったかなー。」

わたしの思いがけない行動を前に部長もしどろもどろしていた。

「ううん。行くところができたの。」

「そっか……。」

彼はまだ混乱した様子でいる。またしても部長に変な人って思われただろうな、わたし。もう取り返しがつかないのでこの際、部長の前では変な人のままでいい。

部長のポケットから着信が鳴った。メールが来たみたい。彼はケータイを取り出して受信トレイを確かめた。メアドを交換した時に触れたのと同じ、顔が映るほどシルバーのケータイ。

「あいつらが、詩緒音さんに『何か欲しいものないか』だって。きっとお礼のつもりだよ。何がいい?」

「要らないよ。」

「遠慮しなくていいよ。あげた分より高いものだって喜んで用意すると思う。」

「欲しいものは、もう持ってるから。」

腕に抱えた鞄を持ち直した。どっさりのレジ袋はもうないから身軽だ。わたしは軽やかに足を前に出す。

「また、連絡するよ。」

「またね、壮哉部長。」

後ろの部長がどんな顔か、振り返って確かめてみるまでもない。笑っているでしょ、きっとね。

階段を駆け上がって駅前通りへ走る。帰路について混雑する街も、目の前から駆け抜けてくる女子高生を前に思わず道を開ける。まっすぐ行けばいつものコンビニ、その先には通い詰めた塾。三階自習室の、入って右へ行って左手の奥から三番目。あの子はそこにいる。

環境が変わったから、人が変わったから、そんな言い訳はもうやめる。何があったって人のまことは変わらないんだ。わたしだってそう、カヨだってそう、心はあの頃とおんなじ。それを確かめるのは簡単だ、あの子と面と向き合って、その目を合わせてみればいい。

わたしだけの輝きが、そこにある。