作家になった同級生と再会した。
決して大きくはないが出版社に勤める私のことだから驚くほどのことでもない。いつかは来るだろうなって思っていた、それがついに来ただけだ。
その日は星水賞の受賞を記念した会見があった。星水賞、新人作家の登竜門。この賞を取れば文句なしにプロ作家の仲間入りができる。ついでに普段は活字に見向きもしない世間の注目を一日だけ集める。そんな賞を彼女は取った。
瀬尾奈那子。私の高校の同級生。何となくふわふわしていていつも彼女の周りだけ重力が小さいみたいで、だけどここぞって時には鋭かった。その日も彼女は主賓でありながら、インタビューの群に紛れた私を目ざとく見つけだした。
すべての段取りが終わって彼女が会場のホテルから出てきた時には、街は帰宅するサラリーマンが優占していた。
「ごめんね遅くなって、仕事の方は大丈夫だった?」
顔の前で手を合わせながら奈那子が出てきた。昔と変わらぬからっとした声。髪が短くなって雰囲気は変わったけど、それも似合ってる。
「うん、昔馴染みならあわよくばガッツリ取材して来いってさ。」
「あはは、よっしどこからでもかかっておいで。」
笑いながら調子をつけて言う。
「まさかこんなところで昔馴染みに会うなんてね。賞も取ってみるもんだ。」
「私も。」
私も、なんてそれはおかしな話だ。
奈那子が文学賞を取ったのはこれが初めてだけど、その前から本を出版している。もちろん私はそれを知っていたから、こちらからあちらの動きは常に把握している。今日だって会見に出席したのに「まさか」なんてことはない。
「どこか行きたいところある?」
何となく駅に向かう方向へ歩みながら私は尋ねた。
「じゃあ……我らが母校でも行っちゃいますか!」
「新幹線で?」
彼女は変なことばかり言う。それが、ああ奈那子だなって安心させてくれる。
結局駅前のハンバーガー屋に入った。注文した品が載せられたトレーを持って二人掛けのテーブルセットに掛ける。
「改めて、星水賞おめでとう。」
「ありがと。いやー大したことないってあんなの。なんか書いてたらついてきただけだって。」
「書いてるだけではついてこないよ。」
「そんなもんかな」と奈那子が笑う。笑った時に小鼻が動くところ、記憶の姿と変わらない。
「こうして会うの何年ぶりかなー。」
「七年、かな。卒業してから会いたいねって言いながら、ついに会ったことなかったから。」
七年前、通いつめた私たちの部室で、胸に花飾りをつけた奈那子と最後の日を過ごした。何を話したかは覚えてないけど、絵画のような彼女の姿だけは鮮明に覚えている。
高校三年生に上がって、尊敬する先輩方はみんな卒業してしまって文芸部は私と奈那子だけになった。部を存続するには最低でもあと三人は部員が必要だったけど、私たちは一向に勧誘をする気がなかった。今年で文芸部は最後だねって開き直って、最後にふさわしい華々しい活動をしようって二人で笑った。
そんな二人の「華々しい活動」とは、放課後になったら旧校舎の部室に行って、おしゃべりをしたり、ゲームをしたり、黒板に落書きをしたり。もちろん文芸部らしいこともした。私は瀬尾奈那子がデビューする前の作品をいくつも読んでいる。私も、書いた。
「ポン太郎は最近書いてる?」
「それ、私のペンネーム。」
私は久方ぶりにその名を呼ばれて頬を赤らめる。自分でもすっかり忘れていた。
小田ポン太郎は私の高校時代のペンネーム。無論私の本名は「太郎」でもないし、「小田」でもない。なぜその名前にしたのかもう思い出せないけど、なぜかずっと昔からそのネーミングが心の隅にあった。体育館の天井に挟まってるバレーボールみたいな感じ。
「もう使ってないよ、その名前。」
「そう?でも私にとってはポン太郎はポン太郎だからさ。」
「そういえば奈那子ってペンネーム使ってないよね。ほら、昔使ってた……」
「あー」と奈那子はきまりが悪そうな顔をした。
「あの時のはあれ専用っていうか、文芸部時代限定っていうかさ。そ・れ・よ・り・も、最近書いてる?」
ドリンクを手に取った彼女は尋ねた。
「書いてないよ。本なんて出したこともない。」
「本にしなくたって書いたものはあるでしょ?」
「ううん。」
「そっかぁ残念だなー、私ポン太郎の書く話が好きなんだけど。」
「そう言ってくれるの奈那子だけだよ。」
奈那子はまさしく金の卵って感じだった。
彼女が私に読ませてくれた作品はどれも一流の作家と遜色ない圧巻の出来で、原稿用紙をめくる度に強い衝撃を受けた。そんな「書く」才能に満ち溢れていただけでなく、彼女は「読む」才能もあった。彼女はいつも私の作品を全身で受け止めていた。細部の表現一つ一つにまで意識を向けて、骨の髄までしゃぶりつくす肉食獣のように、貪欲に作品の神髄を味わおうという気概があった。奈那子に読んでもらうためなら私は身を尽くして書くことができた。
私の作家としてのすべては奈那子と共にあった。
「暇ができたらまた書いてよ、ポン太郎。どんなに簡単なのでもいいからさ、また読んでみたいな。」
懐かしむような、惜しむような顔で奈那子は言う。
「どうかな、もうずっとやってないから。」
「ないの?インスピレーションとかさ。」
「私のは……けっこう前に枯れたかな。」
「そうなー私もそういう時あるからな。」
それでも、書けるんだからすごいよ。
奈那子が腕を組んで視線を上にずらした。
「懐かしいな、文化祭の時の、あれがポン太郎の最高傑作だね!ああいうのがまた読みたい。」
思い出した、あれ以来書いていないんだった。
高校生活最後の文化祭。文芸部は毎年部誌を発行していた。けれど文芸部最後の年は部誌も発行しなかった。入稿作業を先輩に任せていたからノウハウを失ったことに加え、二人だけでは大したボリュームにできないことが目に見えていたから。何よりも、人様に向けて作品を出すつもりが私にはまったくなかった。奈那子も同じだった。この学校に私たちのセンスを解する者はいないって笑い合った。顧問は難色を示していたけど、奈那子が「作品は見せたい相手に見せられたらそれでいい」と啖呵を切って、最終的に部誌の話はなしになった。
そのかわり、お互いに文化祭までに作品を書いて当日読み合おうと約束した。
私はその作品に自らのすべてを注いだ。自分の心の中にあったものを全部吐き出して原稿用紙に綴った。何度書いてもうまく伝えきれなくて、やっとの思いで書き上げた時には当日の朝になっていた。
いつもと同じ二人だけの部室。だけどその日は何かが違う。廊下から聴こえる喧騒のせいか。一年に一度の祭りに心躍らせる少年少女の声が漏れ聞こえるからか。とにかく不思議な高揚感に包まれながら原稿用紙の束を奈那子に渡した。彼女の細い指がそれを手に取って一枚、また一枚、流れるようにめくっていった。いつしか廊下の声は耳に入らなくなって、目の前の彼女の整った鼻や薄い唇から漏れ出す呼吸の音だけを捉えた。
最後の一枚を読み終えて、彼女の小鼻が動いた。
あの空間だけはきっと、世界のどことも繋がっていなかったと思う。
いつの間にか窓の外はビルの夜景に変わっていた。
奈那子は手持ち無沙汰からか手元の紙ナプキンを意味もなく折り畳んでいた。心なしか調子も落ちた。慣れない会見などしたから疲れが出たのだろうか。
「私の本、読んでくれた?」
「受賞作?」
「それもだし、どれでも。」
私はすっと目線を足元に落とす。
「それがね……」
「読んでないんでしょ。」
「ごめん、まだ……」
私は作家としての瀬尾奈那子の作品を読んだことがなかった。理由は自分でもよく分からない。新作が出る度にそのことは頭に入れてきたけど、単純に手に取ったことがなかった。
「書店で見かけていつもえらいなあって思ってて、読んでみようとも思ったんだけど、今まさに売れる瞬間を見たりするとああみんな読んでるんだな、ってなんか安心しちゃって。それに私はみんなの知らない秘蔵作品、読んでるからね。」
さすがに傷つけちゃったな。今日だって読んだことないくせに会見に来たなんて、笑い種だ。
「ごめん、今度全部買う!ていうか今から買ってくる!」
「いいよ別に。そっか、そういうこともあるかー。」
奈那子は自分に言い聞かせるように言った。そうして後ろ髪をなでつけようと上げた腕の袖口から、ちらと腋が覗いた。
それを見た瞬間、私の身体に電撃が走った。
全部、思い出した。この体の芯が熱くなる感覚も。
私は奈那子が好きだった。
文芸部室を愛していたのは、そこに私と彼女の二人だけの空間があったから。
いつでも彼女の姿を鮮明に思い出せるのは、そればかりを心に焼き付けていたから。
彼女の澄んだ瞳や明るい笑顔にどれほど心を惹かれ、股座に高揚を覚えたことか。彼女の控えめな乳房や腰のふくらみを思い浮かべては夜中に自分を慰めたこと。私は奈那子に恋をしていた。
そのために私は作品を書いた。彼女に対して燃え上がる情念を糧に、彼女だけに向けた作品を書いた。心の中に渦巻くぐちゃぐちゃが私の原動力。それ以外に何もなかった。
文化祭の日、私のすべてを注いだ作品を読んで彼女はいつものように笑った。その時私は悟った、どれだけ想いの丈を込めようとも私が真にほしいものは決して得られない。だからあの日を最後に私はペンを折った。
私は作家として死んだのだ。
今なら分かる。私が彼女の本を読まなかったのは、無意識が彼女を遠ざけていたからだ。一度開けばすべてを思い出してしまうから、しまい込んでいた感情が堰を切ったように流れ出して、私を溺れさせてしまうから。
その後は何を話したか覚えていないが、すぐに今日はお開きにしようということになった。外見上の私は案外普通に振る舞えていたのかもしれない。
駅の中央口の前で私たちは佇んでいた。
「今日は会えて――」
良かった。当たり前の台詞に私は詰まった。良かった、と言えるだろうか。悩むべきでないところにさえ考えが及んでしまう。
「次会う時は、全部読んでおくから。」
「無理しなくていいよ。大したものじゃないから。」
奈那子は改札に向かって歩き出し、途中で振り返った。
「じゃあね、ポン太郎……じゃないか。――。」
彼女の颯爽とした黒髪と華奢な肩が人ごみに見えなくなってからも私はしばらく立ち尽くしていた。
後に読んだ彼女の著作にはこんな一節があった。
『人は何かを食わねば生きてはいけない。作家も同じである。何かを糧にせねば一文字だって書けやしない。幸い私のそばには良い糧があった。友人の作品である。その友人はいつだって純な文章を書いた。それさえあればいくらでもペンを執る意欲が湧く。大方、私は純な彼女を食らって書いたのである。』
二人が会うことは二度となかった。