雀蜂の針は、一度刺されれば男になれる。二度刺されれば毒が回って死ぬ。
それは極めて短い時間の間、言うなれば魂が抜けた、そんな風に心が上の空になった。次の瞬間には背中を強く叩かれて正気に戻っていた。
「スレイド、ボサッとすんな!八十八年の因縁に俺たちが今ケリをつけるんだぜ!」
シーザーの言葉は大袈裟で、実際はいいとこ三か月の因縁なのだが、それでも俺たちにとってはそれくらい待ち望んだものだ。
残り時間は八分、短いようでいて長い。それでも八分だけこの点差を守り切ることができたら、俺たちの勝ちだ。ボールだって今はケイルの手にある。
軍服を着た相手はすぐにケイルからボールを奪いにかかる。俺は中央に陣取って彼からのパスを受けた。
ケイルはダメだ、シーザーとピンクは内に回ったが完璧にマークされている。ここは自分で入れるしか――いや、数秒前の時点から察するに、俺の斜め後方に、いる。
ならば、俺は目の前の敵を左にかわして引き付け、目線はゴールを見据えたまま後ろに向かってボールを放った。恐る恐る振り返ると、やはり来ていた、コペンだ。ボールは彼の手にある。コペンはその位置からボールを掲げてシュートを放つ。
緩く回転しながら山なりの軌道を描いたボールはネットの縁に当たりながらもその内側を通り抜けていく。
「よっしゃあ、ダメ押しだ!」
快哉を叫ぶピンク。敵はボールを拾ってすぐにプレーを再開しようとする。
その時、通りの方から声が聞こえた。
「やっているかね、君たち。」
中隊長だ。一人で来たらしい。
「げ、ウィーバーさんだ。」
「ボビン二等兵、状況を報告したまえ。」
敵の一人が姿勢を正して明瞭に答えた。
「我が方微かに劣勢です。これより巻き返します。」
「残り時間は?」
「七分と半ほどです。」
それを聞いて中隊長は頷き、上着を脱いで近くのベンチに掛けた。
「では、俺が加勢しよう。」
「マジかよ……。」
シーザーは落胆の声を漏らす。
一方的だった。俺たちは急にペースを崩して中隊長に翻弄された。みんなときたら、中隊長を警戒するあまりに徒に体力を減らしている。点差はどんどん縮んでいき、ついには逆転まで許してしまった。残り二分を切るころには誰も満身創痍で、見るからに試合展開についていけてない。
中隊長は単身ゴールに迫る。守備のケイルとコペンにはキレがない。もう心まで折れかけているんだ。せめて、一矢報いたい。俺は残る力を振り絞って精一杯彼に食らいついていった。シュートを狙う彼に立ちふさがったが、おぼつかない足で勢いを止めることはできず、そのまま突き飛ばされ、身体の側面からコンクリートに打ちつけられた。
一九〇四年、世界の国が大戦を始めた年。国家の利権と権威の争乱に多くの人民が犠牲になった。
それから八十八年、戦争は『まだ』続いている。
開戦から五年が経過したころ、若者の命が散らされることを憂いた一人の科学者が革新的な発明をした。科学者の名はアキレウス博士、彼は「不殺の銃弾」を作り出した。その名をHORNETという。
軽量金属で作られた銃弾は人体の表層で止まる。弾頭が変形し潰れることで銃弾の芯に充填された薬液が漏れ出して被弾した兵士の体内に入り込む。薬液は三日ほどの間に人体の組織液に触れて別な物質に変化し、排泄器官をすり抜け超長期にわたって体内の循環に留まり続ける。これだけならどうということはない。銃創はすぐに完治し、循環の中の化学物質は健康に何ら影響することなく日々の生活を営むことができる。問題は、もう一度銃弾を受けた時だ。薬液がもう一度体内に入った時、薬液は循環する化学物質と反応を起こし、致死量の猛毒物質に変化する。すべては五~十分の間に完結する。助かる見込みはない。
戦争終結の決め手を欠いていた各国は戦争継続のために足並みをそろえてこの銃弾を採用した。以来、戦場は様変わりした。前線の兵士たちは被弾しても死ぬことはほとんどない。しかし二度目の凶弾を受けるわけにはいかないのですぐに後方に下げられ退役となる。兵士は社会復帰し、銃後の民として国家を支えることができる。戦闘の度に数万に上った戦死者の数は、年間で数十人ほどまでに減少した。かつては鉛の弾で人と人が殺し合っていたらしい。信じられないことだ、人を殺すことは、何より許されない戦争犯罪だ。
不殺の銃弾は戦争を安全なものにし、若者の未来を守った。その代わり重大な問題が発生した。戦争が終わらないのだ。国家の生産力は衰えることを知らず、砲撃や爆撃のような殺傷に至る破壊兵器の使用は厳格に制限され、悲惨さの欠片もない戦争に対する市民の不満は消滅、戦争の終結を急ぐ理由は完全に消え失せた。牧歌的な戦いは日常の中に溶け込み、いつしか八十八年の時が経った。
一九九二年、第一五六八師団の召集が行われた。前線に近い東部地域を中心に満十八歳の徴兵年齢に達した男子によって組織される普通師団。この街でも徴兵前の身体検査が行われた。学校の同級生も皆同じ隊に配属されて、いよいよ出征を控えた春の日、街の鉄道が敵軍に寸断された。輸送路を失った前線は後退、街は数日のうちに敵軍の占領下になった。当然ながら出征は無期限延期となり、既に学校を卒業し、召集のために就職もしていなかった同期の男子は揃って行き場を無くし、この三か月宙ぶらりんにされているのだ。
そんな折に出会ったのが駐屯する敵軍の小隊。敵軍は市街から数キロ離れた丘の上に陣を敷いているが、娯楽の類を求めて街に降りてくる。戦闘による外出禁止を解かれて数日、暇を持て余して友人たちと空き地でバスケットボールをしていたところ、通りがかった敵軍の兵士たちに目を付けられた。持っていたボールを見るなり貸してくれと声をかけられ、成り行きで試合をすることになった。
今でも思い出される、圧巻だった。素早い身のこなしと正確な連携。手も足も出なかった。彼らも気に入ったようで週に一、二度は現れるようになった。こっちはこっちで彼らに勝利を挙げることが一つの目標になっていた。いずれこの街が奪還されれば彼らは退却するし、師団の編成が再開される。それまでの少々の楽しみとして空き地で行われるバスケットボール大会が定番になっていた。
俺はコート脇の一画に腰を下ろした。地面に打ちつけた体がまだ痛む、素肌を擦ったところは血が滲んでいる。
「すまない、スレイド。大事はないか?」
中隊長が目の前に膝をついてこちらを覗き込んだ。
「大丈夫です。」
「熱が入りすぎてしまった、本当にすまない。」
俺は腕を使わずに立ち上がる。痛みは引ききっていないが、過度に心配させてこのまま場の空気が冷めてしまうのは勿体ない。
「ウィーバーさん、どうしてこのタイミングで来ちゃうんすか。」
シーザーが文句を垂れる。他も口々に悔しさの滲む声で言う。
「助太刀のために来たんじゃないんだ。本当に偶然通りかかっただけさ。」
中隊長は迫るシーザーたちをなだめすかす。
「本当に助かりました、中隊長!」
「鈍ったんじゃないか、お前たち。」
「途中までは俺たちの方が調子よかったのに、ウィーバーさんが来てから一気に巻き直したよな。
まだ息が荒いケイルが呟いた。あいつの言う通りだ。
中隊長は強い。入隊前は有力なバスケットボールチームで中心的な役割を果たしていたらしい。個としての実力は誰も及ばない。しかし中隊長がすごいのはそれだけではない。統率力があって、彼がコートに入ることでチーム全体が勢いを増す。そうなれば俺たちはペースを乱されて消耗させられる。これまでも、今日の試合もそうだった。
「あーあ、一度でいいからウィーバーさんがこっちのチームに来てくれないかなあ。」
「俺は決して寝返らないぞ。」
「答えは分かってました」という風にピンクは空を仰ぐ。
「チクショー!スレイド、なんか言ってやれ!」
「コペン、次は勝てるよ。」
「何だよそれ?もしや、ウィーバーさんを足止めする策があるのか?」
「いや、むしろ中隊長がいる時に勝つよ。」
これは根拠のない自信ではない。コペンの言うような姑息な策でもない。俺はこの三か月で自分たちが確かに成長しているのを実感している。だから次は勝てるんだ。
俺の言葉を聞いて中隊長は目を輝かせた。
「それは楽しみだ。だが、すまない。」
「え?」
「我々はしばらく余暇時間を取れなくなるから、ここに来ることはできない。」
他の隊員たちも残念そうにしている。話は既に全員に通っているのだろう。
「おいおい、勝ち逃げじゃんか!ずりいっすよそんなの!」
シーザーはまたも不満を垂れる。
「すまないな。だが君たちにとってはいいことだ。我々が体制を整えるということは……」
途端に隣にいるシーザーたちの目の色が変わる。
「うちの軍の反抗作戦ですね!」
「よっしゃあ!俺らやっとこの街を出られるんだ!」
「長かったー、俺なんかもうずっと家じゃ穀潰し扱いだぜ?」
その声には安堵と期待が入り混じる。
「無論我々はここを維持するつもりだが、今回の敵軍はかなりの大部隊だ。どうなるかは分からん。」
そっちが勝ったらバスケットボールの続き、こっちが勝ったら戦争で白黒つけましょうよ!俺たち、誰が一番戦果を挙げられるか勝負するんすよ。」
召集が決まったころにそんな話をしていたっけ。
「最低でも五人は倒さないと男じゃないね。」
「それは相当難しいことだぞ。」
「え、そうなの?」
「二人撃てたらいい方だ。」
中隊長が指を二本立てる。この部隊も組織されたばかりで、中隊長を除いてはほとんど実戦経験がないという。
「でも親父は十人倒したって言ってたけどな。」
「ピンク、親父に騙されてるだろ。」
「そうだったのか……。」
「俺はやるぜ。そしてお前らに言うこと聞かせてやるんだ。」
「一番倒せなかったやつが罰ゲーム、じゃなかったっけ?」
「そうだったか?」
記憶を探る四人を見て小隊の面々も入隊したての頃を重ねているようだった。
中隊長は兵士たちに帰投を指示した。
「俺はスレイドを家に送り届けることにする。怪我をさせてしまったことだしな。」
それを聞くとシーザーたちは目を細めてこっちをチラチラ見てきた。
「別に大丈夫ですよ。」
「いいや、ご家族にも説明しないと……」
「そうだよ、お姉さんにも話さないとな。」
ケイルはニヤつくのを抑えきれていない。あいつら、分かって言ってるんだ。
「……分かりました。」
俺が引き下がるしかないようだ。
「じゃあなスレイド。試合はなくても俺たちの練習は継続だからな!」
そう言いつつそれぞれの家の方向に散っていく彼らを見て、俺は中隊長と一緒に立っていた。
家まではそう遠くない。向こうの通りにある生活用品の店、それが俺の実家。街の住民が石鹸や化粧品を買いに来るような質素な店だ。街が占領されてからは兵士たちが煙草やらを買いに来るようになった。本国から供給が遮断されたことで飢餓にはなっていないが、生活物資は少しずつ不足するものが出るようになった。新しい仕入先を確保するのは大変なんだ。
「何か我々に勝つ秘策があったのかい?」
中隊長が尋ねた。どうせ訊かれるだろうとは思った。なにか具体的な策があるわけではない。
「そう思ったから、勝つだけです。」
「随分な自信だ、しかしそれがいい。君はよくできる。」
「どういうことですか?」
「スレイド、今日はどこにいた?」
試合での自分のポジションを尋ねているんだ。
「……中央。」
「そうだ。そして先日の君たちが健闘した試合でも、スレイドはセンターにいた。君はコートの全体がよく見えている。だから司令塔としてセンターに立つとチームはうまく回る。よくできるとはそういうことだ。」
あまり実感が湧かない。
「だから君たちとプレーするのが楽しみだった。」
中隊長はしみじみとした趣でそう言った。彼は本当に試合を楽しんでいたのだと思う。軍人になる前はチームのエースだったそうだから、口にはしないまでもプレーできない今の生活は退屈なものなのだろう。俺も何か必死に打ち込んでいることがあれば、徴兵を快く思わなかったと思う。
俺の家が見えてきた。二階の高さに看板がついていて、正面は店舗になっている。木製のカウンターの向こう側に商品が並んでいるから、入り用のものを伝えれば店番が取り出すようになっている。この時間なら店番は決まっている。
「おかえりスレイド。あら、中隊長さんも。」
「こんにちは、マチさん。」
さっきまでと打って変わって柔らかい声で中隊長は挨拶をした。
マチ姉さん、俺の姉貴。元々この店を手伝っていたけど、少し前に親父が荷物運びの最中に腰を痛めてからというもの、代わって店番をすることが多くなった。そして、街にいくつかある同じような店の中で、ここが一番人気の理由でもある。姉さんは気立てがいいんだ。中でも占領軍の兵士たちにはすこぶる人気がある。もちろん、ここにいる中隊長も同じだ。
「スレイド、今日の試合はどうだった?」
俺たちが一緒に帰ってきたのを見てバスケットボールをしていたと察したのだろう、にこにこしながら姉さんは尋ねる。
「同じさ。ちっともだよ。」
「そんなことないじゃないか、今日は接戦だった。」
「あなたが来るまでは、ですよ。」
俺は中隊長が華を持たせるようにこう言ってくるのが気に入らなかった。点差なんてどうでもいい、負けは負けだ。
中隊長は姉さんのことが好きだ。今だって、怪我をした俺を送り届けるというのは口実でしかない、本当は店番をする姉さんに会いに来たんだ。俺は彼のプレーは素晴らしいと思う、だけどそれ以外の部分はちっとも尊敬してはいない。姉さんの前では「誇り高い兵士」の面を被って、俺に対して兄貴分みたいな態度を取ってくるのが気に入らない。何よりそんな姿を恥ずかしげもなく堂々と見せてくるのに反吐が出るくらいだ。しかし、もっと不愉快なことには、姉さんも彼を気に入っていることだった。
「試合中に私とぶつかって怪我をさせてしまったんだ。本当に申し訳ない。」
「そうなんですか?」
姉さんは驚いた顔をこっちに向ける。
「平気だよ。少し倒れ込んだだけさ。」
「中隊長さんはお怪我ありませんか?」
「ええ、私は。救急用具は足りてますか?無ければ救護室から取って来ましょう。」
「心配には及びませんのよ。スレイド、姉さんに見せてごらん。」
何を言ってるんだ。店の前で服を脱いで見せろっていうのか、中隊長もいるのに。
「平気だって言ってるだろ。俺がそう言ってるんだから。」
「そう。痛むときは言ってね。」
本当に軽傷だ、例えそうなったとしても言うものか。
俺が問題ないと分かると、中隊長は『本命』にかかった。
「ここへ来たついでだ、煙草を一つ。」
「はい。」
姉さんは背後の煙草が並んだ棚から迷わずに金色の箱を取り出してカウンターの上に置いた。HORNET、あの銃弾と同じ名前の銘柄。五十年以上続くロングセラーだ。中立国で生産されているから両陣営の兵士に人気がある。俺も吸ってみたことがあるけど違いが分からない。
ちょうどの金額を出して中隊長はカウンター上のそれを手に取った。一本を口に咥え、ポケットから出したマッチを擦って火をつける。煙草の先が赤く燃えて白い煙がこちらまで流れてきた。まとわりつく厄介な煙を避けて俺はカウンターの向こうに回って棚の商品をそれらしく並べ直す作業をした。
「怪我したんでしょう、私がやるから奥で休んだらいいさ。」
「ご心配どうも。」
わざとぶっきらぼうに言った。ちょうどいい、俺がこうしていれば二人きりになれない。姉さんも半分は分かってるんだ、わざとらしいため息をついた。
「中隊長さん、愚弟はこんなへそ曲がりですが、立派な兵士になれるでしょうか?」
「大変結構、ひねくれ者は出世します。」
「あなたのような人が上官についてくださったらどんなにいいことでしょう。」
「心配せずとも彼ならいずれ我々を脅かす名将になりますよ。」
猫を被った二人の馴れ合いに背中の毛が逆立つようだ。こんな話をして何が楽しいんだろう。
姉さんが俺を追い払おうとしつこく休むように言ってきて、中隊長も同調するので俺はついに折れて吐き気のする現場から離れることにした。その後も二人が歓談するのを店の奥から漏れ聞いていた。
十五分ほどして中隊長は帰ったらしい、姉さんが店の奥に入ってきた。棚の上を探るための踏み台に座り込んでいる俺を見て声をかけた。
「大丈夫?大事な時なのに、無理して身体悪くしたらいかんよ。」
「その割には中隊長の方を心配してたよな。」
「だって、あの人は兵隊さんでしょ、何かあったら大変じゃないのさ。」
姉さんは彼に騙されている。元はと言えば姉さんだって人を見る目がない。
「随分と仲良さそうにやってるね。」
「いつもここに来てくださるからね。あんたのこともよくしてもらってるじゃないの。」
「こっちは試合なんだよ!」
「試合って、一緒に遊んでるんじゃないの?それだったら私より仲がいいわ。」
呑気だ。何もわかってない。俺は彼に勝つために三か月挑戦し続けているんだ。悔しい、負ける度にそう思ってるんだ。
「戦争なんだよ、俺たちは戦ってるの。」
「ふふ、おっかし。じゃあ次は勝たないとださ。」
姉さんは至って真面目に神経を逆撫でするようなことを言えるのだから、もはや天才的だ。
「姉さんさ……俺が出征してから、俺と、あの人と、戦うことになったらどうすんだよ。」
「何さそれ?」
「どっち側につくかって訊いてんの。」
姉さんは、目を細めて鼻をさすった。
「ふふーん、じゃあ中隊長さんのこと応援しようかしら。」
思っていた通りの答えで寧ろ安心した。それと同時に阿保らしい質問をしてしまった自分に腹が立った。
晩飯の時間も退屈だ。家族全員集まらなければならないから。
出征前になって親父はやたらと武勇伝にもならない武勇伝を語りたがった。あと少しの辛抱だと黙って聞いていたが、このザマになってしまい、もう三か月もそんな話を聞かされ続けている。どこまでが本当か分からない、聞く度に少しずつ内容が変わっているところがある。とにかく不毛なんだ。
「分かってるよ。最初は刺すように痛くて、その後に痛みが引いていくんだろ。」
同じ話を繰り返されないために細かく答えたのだが、親父は「そうそう」と言って軽快に語り出した。
「最初に激痛があるのは撃たれた兵士が反撃してこないようになんだと。これがいてーのなんのって、大の男が泣くぐれーよ。でもそれからすぐにスッと引いていっちまうんだなこれが。」
「薬液が体に浸透するからだよ。」
「ほーん。ま、これを経験しなきゃ男にはなれねーのよ。」
そう言いつつ親父はシャツの襟を掴んで肩をあらわにした。幾度となく見たその傷跡が顔を覗かせる。
「やっぱし弾を受けるなら普段は見えねーところがいいな。でもよ、傷跡をきっかけに会話が弾むこともあるしな。くれぐれもアソコに当たるのだけは勘弁な。」
孫の顔が見れねえと親父が笑う。
「お父さん、食事中ですよ。」
「悪い悪い。」
「スレイドをあんまり脅かしちゃよくないわ。」
「『二度目』を受けたらどうなるんだよ?」
「二度目?」
「聞いたことないな」、親父は言う。
「体が動かなくなって死ぬんだったか、想像を絶するほど苦しいって噂には聞くが、実際に見たことあるヤツはいないだろ。兵士ならすぐ家に帰されるし、民間人が撃たれるなんてもっとありえねーからな。」
たまに新しい話を聞けるかと思ったが、そんなことはなかった。
先月の戦死者数が四人。いずれも当たり所が悪くて内臓まで貫通したとか、そんな理由だ。二度目の銃弾に当たった人なんて聞いたことがない。兵士、民間人の別なく被弾証明が発行されれば一生銃弾とは縁遠い場所で暮らすことになるからだ。アキレウス博士の思惑通りに作用して、『二度目』の実例は数十年の間に消滅してしまった。
「ビクビクしねーでお前も男になれ!」
高らかに笑いながら親父は治りきっていない自分の腰をさすった。
一日が終わって店のシャッターを閉めに行った姉さんの「あっ」と驚く声が聞こえた。表に出てみると姉さんは懐中時計を手に持って頭を抱えていた。
「大変、中隊長さんの忘れ物だわ。」
その時計には見覚えがある。中隊長が内ポケットに入れている黄金色のもの。時間を確認する時に取り出す。
「届けてさしあげた方がいいよね。」
「置き忘れた場所は分かってるんだ、すぐに気付いて明日にでも来るだろ。」
姉さんに現を抜かして忘れる方が悪い。
「でも、明日からしばらく来られないかもって言ってたのさ。」
「それでも来るよ、大事なものなら。」
「だったらなおさらよ。きっと今頃心配してるわ。今から行ってくる。」
「本気で言ってるの?今から行ったらすっかり夜になるよ。明かりもないし……」
「慣れた道でしょ、いまさら迷ったりしないのよ。」
「自分がどこに行くか分かってるの?敵陣だぞ?」
「みんないい人よ。」
「そうじゃない。あそこには男の兵士しかいないだろ。」
「当たり前ださ、何か問題あるの?」
姉さんのこういうところが嫌いだ。危機感がないにしても度が過ぎている。そうまでして会いたいのか、中隊長に。俺は苛立ちを抑えきれなかった。
「分かった、分かったよ。明日、俺が行ってくる。姉さんは店番をしてればいい、それでいいだろ?」
「でもあんた、怪我してるじゃないの。」
ああ、不快だ。こうして俺の怪我まで口実に使われると本当に嫌気がする。
「いいから素直に聞いてくれよ。夜道を歩くよりずっといいだろ。」
「そう……じゃあお願いね。」
そう言いながら気を落として残念そうな目をするのを見逃さなかった
次の日は姉さんに余計なことを言われる前に時計を持って家を出た。
市街を外れ北に向かって歩く。この先にある丘に占領軍は陣を敷いている。三か月経って塹壕が形になり、兵舎はテントから簡易的な小屋になった。その進展を絶えず市街から見上げていたのだが、こうして目の前まで来るのは初めてである。当然のことながら近付けば追い返され、怪しまれてしまう。
敵意のないことを示すために両手を挙げながらゆっくり歩く。道に立つ兵士に事情を説明して時計を渡せばやることは終わり。そのまま回れ右して帰ろうとしたら、運悪く近くまで来ていた中隊長その人に見つかってしまった。彼は感謝を伝えてそのまま俺の返事も聞かずに陣の中へ招いた。おしゃべりをするつもりなんか無かったのだが、気迫に押されて了承した。
民間人が陣地の中を歩くというのは非常に肩身の狭い思いをすることだ。まして、「まだ」とはいえ俺も兵士だ、ここにいるのは全員敵なのだから。
中隊長ともなれば個室があてがわれる。小屋の外観に反して内装はしっかりとしていて、すっからかんの机と雑多なものが詰まった書類棚、寝具があった。
「つまらないものだろう、俺は仮の宿に余計なものは置かないんだ。」
立ち止まって部屋を見回す俺に向かって振り向きざまに中隊長が言う。
「マチさんは君を心配していなかったか。」
「いいえ、まったく。」
「そんなことはないだろう、君はあの人に可愛がられている。あの人には会う度いつも君のことを訊かれるよ。」
昨日みたいに仕様もないことを尋ねて話の種にしているのが目に浮かぶ。
「なぜだろう、マチさんと話していると昔の恋人を思い出すんだ。実はこの時計も、その人との思い出の品だ。」
「なんですかそれ。」
そう言わずにはいられなかった。はっきり言って中隊長は異常者だ。「あなたの姉は自分が好きだった人の『代用品』です」ということを堂々と言えるのは、厚顔無恥にも程がある。そのことを本人に伝えてほしいとでもいうのか?
「勘違いしないでほしい、彼女は彼女として尊敬している。ただ、君たちとの試合といい、彼女といい、ここにいると俺は順風満帆だった頃を思い出さずにはいられない。」
「大変浅ましい話だが、人生に満ち足りるということを知れば、人はどのような方法をもってしてもそれが久しく続くことを欲する。それは俺も例外ではなかった。兵役に至る前の俺はすべてがうまくいっていたんだ。」
「それなら、あなたは何をしたっていうんですか。」
「これを見てくれ。」
中隊長は机の上に腰を下ろし、軍服の前を開けてシャツをまくり、素肌を露わにした。深く形の浮き出た腹筋、そして臍の隣に小さく、銃で撃たれた傷跡があった。
まさか。
「銃と弾薬の生産は国家によって厳格に管理されているが、それ以外の銃器がまったくないというわけではない。薬液を含まない旧時代の銃――極めて粗悪だが、密かに流通している。命に等しい手足に後遺症が残ってはいけないから、と考えたが、どこも変わりはないな。」
「それは、被弾証明を受けるための偽装……」
中隊長は黙って頷いた。
「兵士として誇りもない行いだ。結果から言えば、失敗だよ。被弾の記録は厳密に取られるんだ、それに血を調べれば分かってしまうらしい。どのような罰も覚悟したが、『どうということはなかった』よ。偽装して被弾証明を受けようとする者は珍しくないらしい、何事もなく配属が決まった。しかし、この行為のことは故郷に知られてしまった。俺が守りたかった完璧な世界は今はもうないんだ。」
驚いたな、『代用品』は姉さんだけじゃなかったんだ。俺は今すぐ帰りたい気分だったが、ここまでくると寧ろ興味が湧く。訊かずにはいられなかった。
「あなたはなぜそんな醜態を自ら晒したんですか?なぜ俺に話して聞かせるんです?」
「醜態か」、と呟いた。今、彼は何をもって笑ったのだろう。
「スレイド、君が聡明で才能があるからだ。」
「分かりません。」
「自らの腹に銃弾が食い込んだ時、痛みの中に気付きを得た。戦争とは本来どういうものか、とね。――この戦いが八十八年もの間続いていることは、『死なない』ことが理由だ。」
「俺たちの親も、その親も戦いに赴いてその身に銃弾を受けている。俺たちもいずれそうなるだろう。それはこれから先も同じだ。――マチさんは婚約者がいるのか?」
「いいえ。」
いたとしたら中隊長のような者が近付くのをよしとしないに決まってる。
「そうか。それでも近いうちに嫁に行って、そうしたら子供もできるだろう。男の子だったら、君の甥っ子だ。その子もまたいつかは出征することになる。嘆かわしいことだ。」
「何が嘆かわしいんですか?」
「異常なんだ、その感性が。戦争は成人の儀ではない。」
異常なのはそっちだろう、と言いたくなる。先刻から中隊長が何を言おうとしているのかさっぱり見えない。
「二度刺されることの本当の意味を考えてみろよ。」
それから彼は窓際に立ってぼんやりと外を眺めていた。彼は俺に失望しただろうか。伝えたかったことの少しも伝わらなくて落胆しただろうか。彼の期待に沿おうなんて思っちゃいない、異常な彼の感性に共感したくもないが、その言葉の意味だけは知っておきたかった。
「あなたは……」
不意に、窓の向こうで何かが光った気がした。
ミシッ。
身の毛もよだつ音がした。木々の見える四角い景色に放射状の亀裂が走る。
「スレイド!!」
俺は右腕に異変を感じて知らぬ間に二の腕を手で押さえていた。その手を放してみると、赤い染料みたいな染みが掌と袖に広がっている。
中隊長が俺を抱えて倒れ込んだ。昨日と同じところを床にぶつけて痛い。それからすぐに外でいくつもの銃声が聞こえた。
サイレンが響く。どれくらいこうしていたのだろう。中隊長が体を起こした。
「なんということだ……すぐに救護室へ連れていく。」
彼は俺の腕に手をやった。その時初めて想像を絶するような痛みが腕に走った。
「うああああああああああああああああ!!」
痛い、痛い、痛い。猛獣に腕を食いちぎられたようだ。――違う、
俺は雀蜂に刺されたのだ。
今すぐにでも泣き叫びたいほどだ。誰でもいい、この苦しみを取り除いてくれ。助けてくれ、助けて……
「姉さん……」
親父の言う通りだった。しばらくすると痛みが和らいで、必死で悶えていた自分が滑稽に思えるほどだった。応急処置を受けて一晩が経てば、痛みはほとんど取り除かれた。救護室の並んだベッドには他にも被弾した兵士が横になっている。彼らはすぐに故郷に返されるはずだ。
先の戦闘はこちらの軍の威力偵察だったらしい。陣の背後に構えた森林を潜伏に利用されたのだという。
中隊長が入ってきてまっすぐこちらへ進む。
「調子は良くなったろうか。」
「腕は使えませんが、身体は動きます。」
「腕もすぐにまた使えるようになるはずだ。」
右腕には包帯が巻かれている。服はすっかり汚れてしまったので用意されたシャツに着替えた。
「俺を狙った弾が逸れたんだ。不用意に窓際に近付くべきではなかった。本当にすまない。マチさんには真実を伝えてくれ。」
「自分はもう会えないから」と言うのは、戦闘の準備に忙しいからか、合わせる顔がないからか。
「惜しむらくは、才能に満ちた若者を間接的にとはいえ、俺が葬ってしまったことだ。君は軍人として素晴らしい資質を秘めていたというのに。」
「そうでしょうか。」
「だって君はバスケットボールができる。」
「俺を買い被ってますよ。」
「そんなことはないさ。」
中隊長は俺を立ち上がらせて、肩掛けの鞄に医薬品を詰めて渡した。
「戦闘は止んだ。今のうちに丘を降りるといい。マチさんも心配しているだろうよ。」
「そうさせてもらいます。」
「スレイド、君と戦場で会わずに済んだことは、幸運かもしれない。」
苦い笑みを浮かべた中隊長は救護室の入口まで俺を見送った。
一夜明けて辺りの様子は何も変わっていないように見える。開けた丘の正面では戦闘が行われなかったのだろう。腕は安静にしていれば痛くない。このまま行けば家に帰れる。
戦場に行かずして弾を受けるなんて、不名誉だと言われるだろう。友人たちとの勝負は不戦敗だ、嗤われてしまうが、こうなったものはどうしようもない。これから被弾証明を受けて――。
俺は立ち止まった。
できない。
被弾証明が受けられない。
徴兵に際した身体検査はもう済んでいる。そのまま入隊しても傷は見つけられない。今更騒いだって徴兵逃れにしか思われない。それに非従軍時の被弾は詳細な状況説明が要るんだ、「敵陣の真ん中で敵兵と語らっていた」などと知られたらどうなる?被弾偽装の疑いに重大な軍規違反、そこまでして兵役を逃れた先に、もとの世界が戻って来るのか?
もう毒は体中に回っている。二度目の弾を受けたらどうなる?一度目だってあんなに苦しかったんだ、二度目を受けたら、俺は――死ぬ。
「そんなの嫌だ。」
俺は死にたくない。戦争は怖いものだ。名も知らぬ誰かに俺は殺される。そんなのは嫌なんだ。
俺の脚はふらついて、まっすぐ前を歩けているかどうかも分からない。ここは来た道か?俺は何処に向かって歩いてる?
どうしてみんな嬉々として悲惨な世界に赴くんだ?
どうして親は我が子の成長のためといって笑顔で地獄に送り出すんだ?
どうしてこんな世界が八十八年も続いているんだ?誰か止めることはできなかったのか?
このままどこかへ消えてしまおうか。そうせずともいい、踵を返してあの陣地から銃を一丁、この胸に撃ち込めばいい。胸だと痛いから、足先くらいにしておこうか。今にも沈みそうな舟に乗るくらいなら、いっそ船底に大穴を開けてやる。足を止めて、市街には入らない。くるりと後ろを向けばいい。そうすれば生きる苦しみからは逃れられるんだ――。
「スレイド!」
前方から俺を呼ぶ声がした。垂れた頭を一生懸命持ち上げて見る。
「姉さん……」
「やっと見つけた……!」
姉さんは駆け寄ってきて俺の両肩に手を置いた。鏡のような黒い瞳に俺の血色悪い顔がよく映る。
「一晩中帰ってこないで何してたのさ。戦闘があったから巻き込まれたんじゃないかって思って……」
「ああ。」
姉さんはハッと息をのんだ。
「中隊長の忘れ物は届けたよ。あの人は平気だ。今は陣地にいて……」
「そんなこと知らない!」
俺の肩を掴む手の力が一段と強くなる。
「私はあんたのことを訊いてるの!あの人は敵の兵隊さん、でもあんたは――私の弟でしょう!?」
そうだ、姉さんは一晩中俺を心配していたんだ、俺が救護室に伏している間も。随分な心労を負わせてしまった。
姉さんは俺を抱きしめた。その時傷口に腕が当たって思わず情けないうめき声をあげてしまった。すぐに放して訝しげに俺の顔を覗き込む。
「どこか怪我したの?」
本当のことは言えない。言えるはずがない。
「森を走って逃げる時に枝を刺したんだ。すぐに手当てをしてもらったから今はもう問題ない。」
右腕の包帯を見せると、姉さんは目にいっぱいの涙を浮かべて、ついに顔を覆った。
「姉さんのせいだわ。私がわがまま言ってあんたに気を遣わせたから、怪我までさせちゃったんだわ。ごめんね、ごめんねえ。」
姉さんは泣いた、泣き崩れた。弟を危険に巻き込んだ自責で、押し寄せる最悪の状況への不安から解き放たれた安堵で。こんなに感情を露わにした姉さんを最後に見たのはいつだろう。もしかしたらそれ以上だ。俺は怪我していない方の肩をそっと貸してあげるくらいしかできなかった。そんなに泣かなくてもいいじゃないか。
「痛くない?あとで包帯替えてあげるね。」
俺が持ってきた肩掛けの鞄を提げて姉さんは尋ねた。普通に歩いているようでいて、歩幅もリズムも俺に合わせている。
俺が二度目の銃弾を受ければ、姉さんは悲しむ。そして気付いてしまう。自分の行為で俺を逃げ場のない袋小路に追い詰めたことを、この嘘を見抜けなかったことを、一生後悔しながら生きていくんだ。だからといって真実を伝えたところで、自分を責めながら俺を守るために身も心もすり減らしていく姉さんを見て何になる?
生きるんだ。必ずだ。俺が姉さんを守らなきゃ。
「平気さ、自分でやるよ。それよりお腹が空いたんだ、昨日から何も食べてないんだ。」
「……うん、分かった。いっぱい作ってあげるね。」
今だけは冷たくあしらうことを赦してほしい。
少し前まで大泣きしていたはずの姉さんが不意に笑顔を見せた。何かを思い出してくすっと笑う横顔が妙に可笑しくて俺も笑ってしまった。
「スレイド、これ言ったら怒るかな。」
「何だよ。」
「姉さんが学校に通い出した頃、あんた、朝はいつもふてくされてた。私が出かけちゃうのが嫌だったのさ。小っちゃい頃のあんたは何をするにも姉さんと一緒じゃなきゃ嫌だって、そんな子だったさ。」
言い終わってから俺の顔を覗き込むようにして、「怒らないね?」と小さく言った。
「ああ、その通りだったよ。」
「その時姉さん思ったんだわ、この子は私がついてないとダメなんだわって。……でも、本当は違ったんださね。」
その先は何も言わなかった。気の利いた答えを返すこともできなかった。何か口にすれば声が震えてしまいそうだったから。
「あんまり、遅くならないでね?ずっと帰ってこなかったら、姉さん、お嫁に行っちゃうのよさ。」
悲しいことに、その願いは叶えてあげられそうにない。だけど姉さんの子供が大きくなる頃には、その子を狂った戦争から救い出すことはできるかもしれない。できるかじゃない、そう決めたから。
それからというもの、俺は療養のために一日のほとんどを部屋で過ごした。姉さんは仕事の合間を縫って顔を出してくれた。いろいろ世話してくれるのはありがたいが、流石に料理を食べさせようと口元まで運ぶのはやめてほしかった。
劣勢が混んだ占領軍は街からの撤退を決めた。それから一週間ほどで鉄道が復旧したのは都合がいい。とっくに治ってよい頃なのに、これ以上包帯を巻き続けるのはいくら何でも不自然だから。
力持ちの先頭車両が満載の客車を引き連れる。ここにいる者は皆、線路の先に男になるための冒険が待っていると思っている。彼らにとっちゃそんなものかもしれないが、俺は違うんだ。この体に回る毒が、世界を侵す本当の毒から俺を守ってくれる。
二度刺されることの本当の意味を知っている。