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黎明 前編

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「――じゃあ何から話そうかなー。」

静まり返った研究室で天井を仰ぎながら教授が言った。その視線の先にあるのは黒く点々としたトラバーチンの模様が広がるのみである。

不意に教授は髭を押さえていた手を放して正面に向き直った。そこには何人かの学生が彼を見めめて座っている。

「万物の根源とは何か。まさしく、これがいいね。何と言ってもこれが黎明よりの、人類のホットトピックだからね。」

もう一度同じ問いを繰り返す。

「万物の根源とは何か。つまりこれは自然界を形作る最も根幹の要素とは何か、という問いだよ。はじめにこの問いを発した人は答えを『水』に求めたようだよ。生命は水より出でて、動物も、植物も、水なくしては生きられないからね。しかしこうしてしまうといくつか不都合が生じる。燃え盛る火は、照りつける太陽は、果たして水から生まれうるだろうか。そもそも水は何から生じるんだろうか。これに説明がつかない。だから次の人は『何物でもないもの』が根源だと考えた。何物でもないものこそ何物をも生ずる、とね。しかしこれもまた、こんな曖昧な説明で誰しもが納得できるだろうか。だってもっと具体的な説明がほしいじゃない。そこで『何物でもないもの』は『空気』じゃないかと考えた人がいた。自然の火も水も、その他のすべても、空気があれこれ姿を変えることで形作られているんじゃないかということだ。ところがこれは現代を生きる僕たちなら簡単に否定するね。窒素と、酸素と、その他微量の諸々の混合気体がすべての物質を生成できるはずなんかないと、理科を学んだ子供にでも否定できる。」

「――その後もさまざまな知識人がいろいろな根源を考え出すんだ。すべてを灰にする『火』こそが絶えず変化し続ける自然界の根底であるとか、すべての物質がこの世に『存在する』ことそのものが世界の存在の証であるとかね、あとは錬金術でおなじみの四大元素、すなわち『火・水・土・気』、究極的にすべてはこの四つが素となりできている、といった風にね。ついにはあの言葉を生み出す人も出てくるんだよ。これ以上分割できない最小の単位、『原子《アトム》』が万物の根源たるのだ。これはかなり核心をついているようだけれど、近代科学が言うところの『原子《げんし》』とは似て非なるものだよ。なぜならこれまでの話はすべて古代ギリシアで繰り広げられた論争なんだから。でもある種の予言として、『原子』という単語を生み出した彼はなかなか先見の明があるといえないかな。」

「ところでさあ、」と教授は話を続ける。実に得意気で疲れる様子は全くない。

「古代ギリシアの知識人はどうしてこの問いを追い求めてきたのだと思う?僕としてはね、ここが大事だと思うんだ、個々人の考える答えが何であるかよりもね。みんなも知ってるでしょ、ギリシャ神話。全能の神ゼウス、知恵と戦いの女神アテナ、以下多数の神々。聞いたことはあると思うんだ。大衆娯楽に慣れ親しんだ僕たちとしてはファンタジーのモチーフとして親しまれているこれらの神話は、古代ギリシアの人々は現実のものとして信じていたんだよ。政治、戦争、そうした人事に手を下しているのが神々だとごく自然に考えていたんだ。この世は神々の御業である、そう言われたらみんなはどう思う?それはさておき、知識人たちもまた、こうした社会の中で暮らしていたはずだ。ところが、彼らは決して周りの市民と同じようには考えていなかった。神々に動かされていると云われたこの世界で、あくまでも自らの信じられる『万物の根源』を求めていたはず。繰り返すようだけれど、ここが大事だと僕は思うんだ。神威の息吹は疾風の如く、敢為の精神で我道を拓く、彼らにあるのは知識と、それを愛し求める情熱だけ。そういう意味でね、彼らは自分自身をこう呼んだ。『自然哲学者』。この話はね、哲学の黎明の話だったんだ。」


「さて、それから二千数百年の時が流れて……」

「すいませーん。」

さっきまで話を聞いていた学生の一人が手を挙げた。

「ん、どうかしたかい?」

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「コスモス」の記憶装置がない。

この手に握っていたはずの記憶装置が今はない。ぶつかった拍子に手放してどこかへ落としてしまったのだ。アスファルトの路面に叩きつけられて破損してしまったらどうしようもない。あの記憶装置は「コスモス」専用規格で作られた特別製なのだ。通常の補助記憶装置とは端子の規格からして違う。故に非常に高価な一品なのだ。なにより、あれは大学から教授《せんせい》に供与されたものだ。

与作は装置の無事を祈って辺りを見回す、すると改めて不可思議な光景に目を奪われた。

羽根。清白な鳥の羽根が、辺り一面に散らばっているのだ。今ここで鶏を絞め殺したような、羽毛のクッションを鋭い刃物でめちゃめちゃに引っ掻き回したような、不穏で美しい光景が目の前に広がっていた。この初夏の候に、ここだけ新雪が舞い降りたかのようだった。

与作は自分のズボンに引っ付いた羽根の一つをつまんだ。昔、募金をした時に真っ赤な羽根をもらった、得意気に名札につけたりする、あれをそのまま真っ白にしたような、実に軽やかな見た目をしている。偽物――には違いない。先刻の女の子が抱えていたのをぶつかった拍子にばら撒いてしまったのだろうか。それにしては一つも拾い集めずに、足早に走り去ってしまうなんて不可解だ。それ以前に、なぜそんなもの持ち歩いているのだろう。

羽根は弱い風に吹かれて次々に向こうへ流れていく。与作は膝をついてそれらをかき分けながら慎重に辺りの地面を探り始めた。記憶装置がこの雪山に埋もれていたとしたら、細心の注意を払って捜索せねばならない。その一方であまり時間の猶予もない。この路地に車が進入してくれば、怪しい光景の中地面に這いつくばる男の姿を見られるだけでなく、目当ての探し物が轢断されてしまうかもしれない。与作は祈れるものなら何にでも祈りを捧げた。

十五分くらい辺りをくまなく探したが、探し物は一向に見つからなかった。夢中で探すうちに気付けば衝突現場を離れ向こうの電柱のところまで行っていたが、それでも無かった。むしろ不気味なほどに見つからなかった。既に白い羽根は思い思いの方向に散っていって、この場に留まっているのは与作一人だった。かくなる上は無意識に避けていたあの場所を覗いてみるほかない。彼は道路の側溝の蓋をちらりと見た。いつだったか側溝に自転車の鍵を落としたことがある。その時は引き揚げるのに本当に苦労して、それ以来道路の片隅にぽっかり穴が空いているのを恨めしく思うようになった。

結果はそれよりも悪かった。鉄格子の向こう、落ち葉やら何やらが積もった暗い穴にすら記憶装置の姿はなかったのだった。忽然と姿を消した、そうとしか言いようがないと思った。

与作はすっかり途方に暮れて力なく路傍に腰を下ろした。吹き上がった羽根が一枚、彼の目の前で踊りながら向こうへ飛んでいった。与作はポケットから携帯を取り出して電話をかける。

『……与作?ずいぶん遅いね。帰宅ついでに昼寝しちゃったんじゃないかってみんなで言ってたところだよ。』

電話の相手は哲だ。

「寝てねえよ。」

『……どうかした?』

「いや実は……失くしちゃって。」

『え?』

「今さっき失くしちゃってさ、記憶装置。」

『失くした?』

「うん。」

電話の向こうで「ちょっと代わって」と声がした。理央が哲の携帯を奪い取ったのだろう。

『どういうこと?』

「ホント、言葉の通りなんだ。」

あからさまなため息が電話越しに聴こえる。

『あんたが部屋を片付けないからでしょ。よく探したの?』

「それが俺の部屋じゃないんだ。」

『……今どこにいるの?』

与作は端的に事実のみを伝えた。自分で話しながら非常にはがゆい思いがした。

途中で口をはさむことなく聞き終えてから理央が言った。

『……あんたがあんまり遅いから教授は用事で出てっちゃったところなの。今はとりあえず、私たちもそっちに行くから。』

「ありがとう。」

『それは見つかってから言いなよ。』

ひょっとしたら出てきやしないかと僅かな望みに賭けてもう一度探しているうちに二人がやって来た。二人は与作が既に探しつくしたような場所をいくつか見て、それから警察の現場検証よろしく最初の曲がり角を囲んだ。

「角から女の子が突っ込んでくるなんて、なかなか珍しい体験をしたね。」

冗談めかして哲が言う。

「まったく嬉しくないけどな。」

「もうこうなったら、確率の低い話だけど、その子の荷物にまぎれちゃったんじゃない?」

そう考えるほかないでしょ、理央は言った。

「何か思い出せないの?その子の特徴。背格好とか。もしかしたらうちの大学の学生かもよ。」

「どうにも『ぶつかった』ていう事実の方が大きくて記憶が曖昧なんだけど。」

与作は心配そうに覗き込む彼女の顔を思い起こした。

「えっと……意外とかわいかった。」

「は?」

「すまん。……きっと俺らより年下かな、髪がそこそこ長くて、白い服、ワンピースっての?着てたかなあ。」

必死に記憶をあたりながら身振り手振りで訴えた。

「そっか。それで知り合いにも訊いてみよう。この街も、世間も、案外狭いものだからね。」

「今頃教授の記憶装置はきっとその子の鞄の中ね。」

与作は妙に納得した。必死の捜索にも関わらず見つからないことへの都合のいい説明と言われようが、今はこう考えておくのがいいと思った。

――いや、何かおかしい。

「与作!心配しない、この世のどこかには絶対あるんだから!」

「理央は開き直ってていいね。」

考え込んでいる彼をよそに二人は話し始める。

「だってそういうもんでしょ。とりあえず、教授に話しに行く方が先。」

「でも『コスモス』の記憶媒体が特別規格なのはファインプレーだ。万が一誰かに拾われても中身を盗まれないで済むね。」

「教授のことだからあんまり大したもの入れてなかったんじゃないかしら?なんて。」

「……ちょっと待て、二人も一緒に教授のところに行くの?」

「そうだけど。」

「証人がいた方がいいでしょ」と理央も得意気に言う。

「その……ありがとう。」

「だから、それは見つかってから言いなってば。」

三人は来た道を大学の方へと戻っていく。その道すがらも与作は考えていた。あの女の子は荷物なんて持っていただろうか。無論そうでなければあれだけの羽根を辺りに散らすことはできないのだが、記憶の中の姿では――。与作は自らの記憶違いを願った。


三人が戻ると研究室にいた学生は皆いなくなっていた。ただ一人教授だけがデスクに着いて「待っていたよ」と彼らを出迎えた。

「なかなか苦労の相が顔に出ているよ。まあ座って、今お茶を淹れようね。」

いつもと変わらぬ朗らかな調子で教授は言った。

阿手内研究室にはとりどりのカップが置いてある。はじめに各人専用のカップを用意するというのがこの研究室の慣わしなのである。教授は彼のくたびれたスーツのジャケットと同じ、焦茶色の湯呑。与作はというと間に合わせで買ってきた安物の白いマグカップ。安易だが、逆に同じ選択をする人がいなかったのでよく役割を果たしている。同様に、哲と理央の分もある。

教授は人数分のカップを盆にのせて、それぞれの席の前に差し出した。最後に自分の席に戻って仰々しく座り込む。

「詳しく聞かせてほしいな。」

何か講義でも拝聴するかのように、教授は与作の話を至極興味深そうに聞いていた。決して長くはないその話の合間に時折頷いたりしていた。哲と理央は彼の隣から適宜補足を入れる。

「――つまりは、僕の記憶装置は、その鳥の少女と共に消えてしまったというわけだね。」

「はい、そうなんです。」

「これはもう装置と羽根と、等価交換が起こったと考えるしかないね。与作くん、羽根は残らず集めたんだろうね?それは『元』記憶装置なんだからね。」

「いえ、今頃はもう風に乗って……」

「冗談だよ。」

ほほ、と教授は一人で笑った。

「僕から訊きたいことは一つかな」と髭を撫でながら教授は言う。

「その少女のことをどう思っているかな?」

「はい?」

「どうなんだね、与作くん?」

与作は答えに詰まって何もない壁の方に目をやった。あの女の子に対して思うこととは。

「どうと言われても……そこそこかわいい子だったな、としか。」

「まーたふざけて。」

理央は呆れて首を振った。予想外の答えに教授はきょとんとして、「それならいい」と微笑んだ。

「それならばいいんだ。そんなにかわいい子なら挨拶の一つもしておけばよかったねえ。」

「あの、どういう意味ですか?」

与作が尋ねるとニコニコしていた教授の顔がすっと戻った。

「もし君が、少しでも、この件が起きたのは彼女のせいだとか、彼女が恨めしいだとかそういった思いを抱えていたとしたら、僕は君を強い言葉で叱らねばならなかったよ。」

「叱るのは下手だけどね」と付け加えながら教授は言う。

「でもそうは思っていないというなら、この件はまさにこれでいいじゃないか。」

「しかし教授はよろしいんですか?」

「君が少女を悪く思わないのなら、僕が君を悪く思うことはないね。僕としてはこれで筋が通っていると思うんだけど。」

与作の顔が明るくなった。素晴らしい方だと思った。

「ありがとうございます。」

「あと、あれは大学の予算で用意したものだから僕の懐は痛まないんだよね。」

「……教授、それは聞きたくなかったです。」

教授はわざとらしく口を押さえてみせた。

全員のカップが空になるのを見計らって「ああそうだ」と思い出したように教授が口を開く。

「今日は『コスモス』を見学しに行こうか。」

「僕たちだけでですか?」

哲が問いかけると教授はうーんと唸った。

「本当はみんな一緒がいいんだけど、暇そうだったから今日はもう帰しちゃったんだよね。だからトクベツ君たちだけ連れて行ってあげるよ。」

「よし決まり」とやおら立ち上がって教授は三人を促した。

キャンパスの北側の外れ、量子応用技術産業研究棟、通称「『コスモス』棟」にそのコンピュータは設置されている。僻地にあるという理由だけでなく、一般の人が訪れる用事のあるような場所でもないので、専門の研究者を除いては学生のみならず教職員でも滅多にその中へ入らない。与作たちも「コスモス」が置いてある、以上のことはよく知らない。

エントランスで身分証を提示して階段を降り地下一階、建物の中央にある大部屋がまさしく人類の新境地の所在地だ。

四人はその脇の見学通路から厚いアクリル板越しにその姿を見た。空調を完全に制御され、わずかな塵の侵入も許さない完全防備なフロアの中央に、似つかわしくないこじんまりした黒い大箱。人の背丈より高いくらいのもので、最新式の大型冷蔵庫ですと言われれば信じてしまう人がいそうなほど単純なデザインである。

「あれが我々の叡智、量子コンピュータ『コスモス』だよ。」

視線の先の黒い物体から目を逸らさずに教授が言った。

「僕はもう少しかっこいいデザインの方がいいかと思ってたんだけどね、いざ完成してみればこういうシンプルで真っ黒なのも悪くないよね。」

「かっこよさって重要ですか?」

「重要だよ。かっこよくなきゃ世間の注目も、予算も集まらない。中身の前にまず外見、人間と同じ。」

世知辛いねえと感慨じみて言う。

与作はこれを初めて見た。開発中の写真や映像で見たままの姿ではあったが、どこか新鮮さを覚えた。静かに回り続ける冷却装置と点いては消えてを繰り返す淡い青色発光ダイオードの数々がどこか生物の息吹のようであった。生きている、というより、何かがそこに存在している。誰もいない部屋で背後に自分以外の「何か」を察した時のような、それがありありと感じ取れた。精巧を極めた機械はそれ自体ある種の知性であるのだと、正気でいたら笑ってしまうようなことを本気で思った。

「なんかさ、生きてるみたいだよね。」

教授がぼそりと言った。与作は驚いた。

「そりゃ、『コスモス』を使って人工知能を動かせばそれはもう人間と同じくらい複雑な思考を行う知能ができるだろうけど。そうと言うより、僕は『コスモス』そのものが一つの生命体のようにも思えてくるね。変な話だけど。」

「……俺も同じ風に思ってました。」

「えー、ホントにー?」理央が茶々を入れる。

「本当だよ。なんとなくっていうかさ。自分でも変だなって思うけど。」

「ほほ、僕と気が合うかもしれないね。」

「与作はときどき面白いことを考えるからね。」哲も頷く。

四人は水族館の大水槽を覗くみたいに立ち止まったまま暫くアクリルの向こうを見つめていた。

「気が合うついでに今朝の話の続きでも聴いてもらおうかな。」

「えぇ。」

「『えぇ』って与作くんねえ、あんまりそういうこと言ってるとね、卒業させてあげないからね。」

「冗談です。本当は教授の話意外と面白いですよ。」

「『意外と』?」

「とっても。」

一同は思わず笑いだす。

「……えーっと、どこまで話したかな。」

「確か、話が現代に戻ってきたところですよ。」

哲が確かな記憶をもとに答える。どんな小噺でもしっかり覚えているのが彼という男だ。

「ああそうだっけか、哲くんありがとう。自然哲学の興りだったね。時は流れて、万物の根源とは何か、という問いに一応は決着がついたかのように思える。つまり、物質的な話で言えば万物を組織するのは『量子』だということだね。」

「原子のさらに内側、陽子、中性子とかのことですか。」

「そうだね。しかしながらね、僕は物理学者としてはあるまじき、否、むしろ物理学者だからそう思うのかもしれないけど――。量子とか物質的な次元を超えて世界の根本、世界のありようそのものを規定する何かの存在を信じてしまう、というより信じずにはいられない気がするよ。」

「それ、どういうことですか?」

「例えば、目の前に花畑があるとする。その花々は整然として、色も、並び方も、見事なまでに統一感を保っている。なんでその花畑はそうなっているのだと思う?」

「なんでって言われても。」

「その花々は自然にそうなったのかい?」

「いや、おそらく几帳面な人が手入れしているから、だと思います。」

教授は頷いた。

「庭師の存在が見て取れる。僕が言いたいのはまさにそういうことなんだよね。」

「庭師?」

与作は首を傾げた。

「世界は偶然にしてはできすぎている、ということですか?」

理央の問いかけに答えるように教授は親指と人差し指で丸を作った。

「この世界を作った庭師がいるということさ。世界が神の御業でないことを証明するために生まれたはずの科学の道を突き詰めるほど、何か特別な存在の手引きがなければ到底説明のつかないような事象に出会ってしまう。殊に僕の研究分野ではね。そんな時、こんな偶感を覚えるのさ。」

「そういうものですかね。」

「ほう、与作くんには何か思うことが?」

「人間はしょっちゅう物事を都合のいいように捉えたがりますからね。」

「与作、ちょっと自虐が入ってない?」

「あんた、まーだ落ち込んでんの?」

理央は与作の肩をベシッとはたいた。

「まあまあ。でも君の言う通りかもしれないね。君は宗教をインチキだって思うタイプかな?」

「いいえ、決してそんなつもりは。」

「歴史の人々も『特別な存在』をさまざまに思い描いてきたんじゃないかな。それを『都合のいい説明』と一蹴することもできよう。つまり、『特別な存在』とは世にいう神様とかGodというもの。でももっとかっこよく言うなら、超越なる存在、とかね。」

超越なる存在、その言葉を反芻する。庭師よりはよい響きだ。

理央は教授に問いかけた。

「教授はそれを信じてるってことですか?」

「改めて訊かれると困っちゃうな、教授として学生にこんなこと言っていいのかと言われたらいかにもその通りだけど――僕個人としてはいてもおかしくないと思ってる。」

「だとしたら、世界は『超越なる存在』の意のままですか。」哲は言う。「彼が突然世界に大型アップデートを加えてきたら困りますね。ある日花畑の花を全部植え替えるとか。」

「大型アップデート?オンラインゲームみたいな?」

「またはルール変更ともいえるかな。これまでの物理法則が通用しない新たな事象を導入してくるみたいな。」

「確かに物理学科の私たちや教授としては困るかも。」

「まさかあ。」

与作は眉をひそめる。

「僕も更に手を加えてくるとは思わないかな。」教授は続けざまに言う。「僕の認識では超越なる存在とは、完成した箱庭を眺める園主のようなものだと思っているよ。ずいぶん前に完成させた箱庭、あとは日々眺めて楽しむだけ。」

「そうだとしても、見ている途中で気になった個所を手直ししたくなりませんか?彼はもともと庭師なんですから。」

そうかもねえ、と納得させられたように教授は腕を組んだ。そうだとしたら――

「僕たちはどうしようねえ。」

暫く黙っていた。話題が尽きたとみて教授は外へ出ようと言った。

「そろそろ戻ろうか。あの機械を羨むように眺めていても、僕に触らせてもらえるのはまだ先のことだからね。そもそも記憶装置を再調達しないと。」

「……すみません。」

「いいじゃないか、お楽しみはとっておけば」と言いながら教授は出口の方へ歩き出した。


翌日の与作は打って変わって閑暇を極めていた。普段通りの彼なら哲や誰かに連絡して急な遊びに出かけるか、家にこもって日が暮れるのを待つところだが、やはり昨日のことが気にかかって同じ曲がり角を訪れた。どこぞの刑事が言うには犯人は現場に戻ってくるということだが、今の彼は何か啓示に導かれるように無意識のうちに家を出ていた。快晴の空、向こうの幹線道路の喧騒と、上空を突っ切るヘリコプターの音が聴こえる。

昨日は大変な異常気象があった例の曲がり角も、今日になっては何の変異も感じられない平凡そのものに戻っていた。一通りの捜索を終えた頃、側溝や塀の影の吹き溜まりに集っていた僅かな羽根でさえ一切残っていない。記憶装置もどこか風に乗って飛んでいってしまったかな。

――ふわり。

与作の目の前に羽根が現れた。昨日と同じように、しかし今度はこちらへ引き寄せられるようにその一枚が「やってきた」のである。与作はそれをつまんだ。おうお前、また来たのかいと語りかけでもするかのように温かい視線を注ぐ。天に向かってのびあがる羽根はよく見れば艶がかって日の光を反射している。見れば見るほどリアルだ。

「……鳥の図鑑とか、載ってねえかなあ。白鳥か鷺か、鳩かなあ。でも白い鳩って見たことないや。そもそも羽根だけで分かるのかなあ。」

などとぶつぶつ言っているうちに、与作は羽毛の向こうに何かを見た。

ゆっくりと羽根を持った手を下ろす。『持ち主』がそこにいた。

「あ……。」

昨日と全く変わらぬ格好だった。鞄の類は持っていなかった。向こうもこちらに気付いたようで、二人は五メートル程度の間隔を空けて正面から向かい合っていた。

「あの……」

与作が言い出すより先に彼女が声を出した。

「昨日はどうも、すみませんでした!……大丈夫でした?」

「うん。」

訊かれるままに答えたのを聞いて彼女はほっと胸をなでおろした。

沈黙が流れる。お互い次の言葉を探していた。

「あのさ、今日も急いでます?」

変な質問だな、と与作は自分で思った。

「ううん、別に。」

「実は昨日ぶつかった時に、落とし物をしちゃったみたいで。完全に俺のドジなんですけどね。」

「落とし物……?」

与作は左手で空気を掴んでみせた。

「こんくらいの、丸くて、メモリみたいなものなんですけど、もしかしたら君が持ってちゃったりしてないかなーと思いまして。」

「めもり?見てません。」

少女は首を傾げた。

「あー、マジかー。あの後友達も呼んで探したんですけど全然見つかんなくて、けっこうなくなったら困る代物で、あ、でも別に気にしなくて大丈夫ですよ。どーこいったかなー。こうやって、手に持ってた時にちょうどぶつかっちゃってですね、きっとその瞬間にブワッと……。」

それを聞いた次の瞬間、少女は大口を開けて黒く輝く瞳を真ん丸にした。

「え、どうかしました?」

「んー、ああ、えっと……なんでもないかなー。」

明らかになんでもあるような様子だった。与作の表情が曇る。

「ま、まあ、探し物って見つかんないときは見つかんないですからね。」

阿手内教授《せんせい》、こういう時でも彼女を咎めてはいけないのでしょうか。だって彼女はどう見てもやましいことがある顔をしています。

「あの、ちなみにそれはどういうものだったりします?」

「記憶装置?売ってないものだから説明し辛いんだけど――」

「ウッテナイモノ……」

「簡単に言えばUSBメモリとかHDDみたいにパソコンのデータを記録する機械なんだけど――」

「キカイ……」

「特別なコンピュータに使う特別製だから替えが効かないっていうか――」

「カエガキカナイ……」

彼の説明の断片をカタカナで復唱して、少女はみるみる顔を青くしていった。

「まあ、そんな感じです。詳しいことはあんまり言えなくて。」

「……ホントにごめんなさい!何か別なもの、用意したらいいと思います。それじゃあ、私はこれで――。」

あ、この子逃げようとしているな。この瞬間与作は自らの面子に懸けてこの少女を帰してはいけないと決意した。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

既に少女は向こうを向いてこの場を立ち去ろうとしている。よく見れば正面からは気が付かなかった彼女の後頭部の左右の結び目が、歩行に合わせてふわふわ揺れる。

なおも彼女は進み続ける。与作はそのあとを追いかけ、だんだんに調子を上げていった。しかし待てよ、このまま鬼ごっこをして警察など呼ばれたら自分の立場が危ういのではないか。そうでなくても周囲の目には痴話喧嘩をする間の悪い男のように見える。

都合の悪い考えは閃光のように頭を駆け巡るが、現実には何としてでも彼女を引き止めねばならない。阿手内教授と研究室のみんなに懸けてそうせねばなるまい。ここに一つ策がある。非常に無骨な策がある。ためらうな、言附与作。彼女を呼び止めるにはこう言うのだ――

「君に、会いたかった。」

「……え?」

彼女は振り返った。

間違ったことは言ってない、間違ったことは。今回の件の関係者としてこの女の子を求めていたのは間違いないのだから。しかしながら、おお、これがナンパか、与作は思った。この行為をナンパと呼ぶならば、俺はおそらく世界で最も偉大な大義名分をもってそれを行っていることになるだろう。

「……どこかで会いましたっけ?」

「いや、昨日が初めて。」

「じゃあなんで?」

「その……なんつーか、つまり……」

ぐぎゅるるる

地獄よりベルゼブブの咆哮が聴こえた――正確には目の前の少女の胃袋が収縮する音を聴いた。与作はこれを聞き逃さなかった。

「もしかして腹減ってる?」

彼女は白いワンピースの真ん中を押さえてはにかんだ。

「えへへ。」

その様子があまりにもいじらしくて与作は笑ってしまった。

「何か、食べに行く?俺が出すよ。」

「本当に!?」

さっきまで逃避を試みていたというのに、思いのほか気軽に彼女は乗ってきた。だがこれでいい、なんとか呼び止めることができた。

最寄りのレストランに向かおうと思って与作は次なる問題にぶつかった。金がない。ほんの少し装置を探しに来るだけのつもりだったから、スマホは自宅で充電したまま、現金は僅かに三百円弱だった。果たしてここで所持金の不足を理由に一旦帰宅することが許されるだろうか。さりとて、そうするほかないのである。この腹ペコ娘を留まらせるためならば。「コスモス」とそれが解き明かす世界の真理に懸けて、そうせねばなるまい。

「あのー、家に寄ってもいい?すぐそこだから。」

「……もしかして、お兄さんが作ってくれるの!?やったー!」

「え、マジで?」


「おじゃましまーす!うわー、きたなーい。」

与作が扉を開けるや否や、いいと言う前に少女は部屋に滑り込んだ。既に靴も脱いですっかり我が物顔である。さっきまで気にも留めなかったが、玄関に残された彼女の靴はペンキで塗ったみたいに鮮やかな赤一色である。

テーブルの上に放っておいた雑多なものを床にどかして、与作は押しかけ客人をその前に座らせた。

「俺、与作。言附与作。すぐ近くの啓倫大学ってとこに通ってるんだけど。」

「わたし、アガタです。」

「……どうも。それより、本当に俺が作らなきゃダメ?」

「自分で言い出したことは守らなきゃダメなんですよ。」

「誰も言ってないし。」

「与作シェフ、いつもの!」

そう言ってアガタはびしっと敬礼した。いつものって何だよ、そう思いながらやれやれ与作はキッチンに向かった。

雑然とした部屋でもキッチンは整っている、あまり頻繁に使わないからだ。それでもまったく料理ができないわけではない。彼女の舌に合うかは分からないが。与作は冷蔵庫を開いた。大したものは入っていない、何かの折に余らせた野菜がいくつか、昨日炊いた米の残り、常備しているソーセージ。こうなれば困った時のチャーハンに限る。……いや、卵がホルダーで燦然と輝いているではないか。

「……オムライスとか食べる?」

「あ!わたし大好き!」アガタが目をキラキラ輝かせた。「なんでわたしの好きな食べ物知ってるの!?やっぱりどこかで会ったことあるの?」

「ないって。たまたまだよ。」

大好き、か。彼女は言動の端々に子供っぽさを感じるがきっと食の趣味も子供だろう。

「言っておくけどふわとろじゃないからな?」

「それがいいんだよ!オムライスはオムライスであってオムレツじゃないの。」

「よく分からないけど、要するにオムレツほどとろとろしてなくてもいいんだな?」

なかなか分かってるじゃないかと彼は思った。オムライス界には「ふわとろ至上主義」が流布している。ふわとろ党は「オムライスの卵はふわとろが大前提である」と思って話をする。京都風に言えば「八ツ橋は生八ツ橋がスタンダードである」と思って話をするようなものだ。『生』という接頭語の意義を考えてみるとよい。

キッチンで支度をしながら後ろで座っているアガタに声をかける。

「アガタさん、だっけ。初めて聞いた名前だな、漢字は?」

「なんでもいいよ!」

「なんでもいい?」

「分かんないから基本カタカナ。もしかしたら漢字ないかも。」

アヤシイ。薄々気付いていたがこの子は所謂不思議系の子なのか。そのうち「自分は○○星から来た」とか言い出すのではなかろうか。

「……歳はいくつ?」

「えっと、与作さんは?」

「俺?今年で二十二だけど。」

「じゃあ、同じくらい。」

『じゃあ』、『くらい』。いよいよアヤシイ。それは年齢を誤魔化したいときに使う台詞ではないか。中高年じゃないんだから、一つや二つの歳の差が随分重大ではないのか?万が一にも十八歳未満の家出少女だったりしたら困るのだ。

「……てことは大学生?」

「違うよ。」

「働いてるの?」

「ううん。」

恐れていた事態にまた一歩近付いたかもしれない。卵をかき回す手元が狂って容器の外にこぼしてしまいそうになった。

十五分ほどで与作の手作りオムライスが完成した。彼が作ったにしては上出来だと自賛したくなる見た目であった。与作はそれを床に座るアガタの前に差し出した。

「ほい完成。味は保証しないけどな。」

「おー、すごーい!」

与作はテーブルの向かい側に腰を下ろした。ケチャップの容器を差し出してやるとアガタはそれを受け取って、薄焼きの卵の上に慣れた手つきで一筆にハートの形を描いた。


「いただきまーす!」

スプーンを持った手を律儀に合わせてから、端の方をしゃくって一口。

「おいしい!おいしいよ!」

一口目を飲み込むなりまっすぐな瞳を向けてアガタは言った。

「ん、そりゃ良かったな。」

そっけない答えだった。言葉に反して、本当は、嬉しかった。他の誰と食事に行ったって、一流のレストランだったって、こんなにおいしいおいしいって歓喜する顔が見られるだろうか。その上これは与作の手料理だ。話を聞くほどアヤシイ女の子は、料理を食べる姿はふつうの、純粋な女の子であった。

がっつく彼女にコップに入った水を持ってきて皿のそばに置いてやった。

「食べながらでいいから聞いてくれるかな。俺の探し物のこと。」

アガタはちらりと与作を見た。

「ごめんなさい……。」

「やっぱり何か知ってるんだよね?俺もできればあれを探し出したいんだよ。まず、君が持ってるわけじゃないんだろ?」

こくりと頷く。

「あの、探しても絶対見つからないんです。」

「どういうこと?」

「わたしのせいで、もうどこにもないから……。」

「と言うと?」

「あの、こういう羽根見ませんでした?」

そう言いながらアガタがテーブルの下から掲げた手にはどこから持ってきたか白い羽根が一枚。

「ああそれ、もうそこら中にいっぱい。」

「ぶつかった時に、手、当たりましたよね?」

「どうだっけ?一瞬だからよく覚えてないや。」

「たぶん、与作さんのキカイは、その時……」

「ごめんなさい」もう一度彼女は謝った。

「これ以上は言えません。」

食い下がるのが道理だったと思う。これまで懸けてきたあらゆるものにおいて、そうせねばならなかった。だが与作はそうしなかった。この尋問ごっこが良心の呵責に堪えかねたのではない、女子供を泣かせるのは主義じゃねえ、そんな勘違いした男気でもない。腹をすかせた子がのんきに家までついてきた、それに飯を与えてやったらたいそう喜んでくれた。それで十分な気がしてきたからだった。

言えないものは仕方ない、与作はティッシュを一枚引っ張ってアガタがテーブルの上にこぼしたケチャップライスのひとかけらを拭った。

「それ食べたら帰ってくれよ。家は近く?どこから来たの?それくらいは答えてくれるよな?」

彼女は俯いた。瞳が切り揃えた前髪に隠れる。

「――ょうえつ。」

「ん……上越!?」

半ば凪に入っていた与作の心がまたもかき乱れる。

「上越ったら、新潟県か!!ここ常葉《とこば》だぞ、思いっきり関東!やっぱアガタ、家出少女だな!」

「家出……そうかも……。」

与作は息を、長く、吐いた。どうしたものか。事情はどうあれ正体不明の家出少女を連れ込んでしまった。これは親切心から助けただけなんです……と言えるはずもなく、言い訳の続きは署で考えることになろうか。

――ふと、与作は立ち上がった。外が騒々しいようである。車のエンジン音とは違う、これは回転翼である。それ自体は日ごろ頭の上を通っていくので聴き慣れたものだが、これは違う。狭いアパートを轟かさんばかりの音量で、まるですぐそばの河川敷にでもいるようだ。

当然アガタも気付いていた。上目遣いで与作を見つめている。まさかとは思うが、こいつか、こいつなのか?彼が目配せするとアガタは申し訳なさそうに頷いた。ほうら、言わんこっちゃない、もう後戻りはできない。

「ここで待ってろよ、外を見てくる。」

返事を待たずに与作は部屋を後にした。

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言われるがまま与作は無骨な機動車両に乗せられた。アガタは同乗しなかったが、向かう先は同じだという。

与作は自分の身に起こっている事態を何一つ理解できなかった。後部座席で左右を迷彩の男にかためられて、これがパトカーだったらさながら凶悪犯の護送といったところだ。……それより悪いかもしれない。

与作を乗せた車両は自衛隊の深緑の車列に混じって国道を進んでいく。やがて車列は隣町の郊外にある陸上自衛隊の駐屯地にたどり着いた。

フェンスで囲われたその区画の内へと通じる検問所で彼の乗る車両は一時停止する。運転手は詰所に立つ隊員へ後部座席の民間人について話をした。それを聞いた隊員は、借りてきた猫のようにしている与作をまじまじと覗き込む。きまりが悪そうに目を逸らして力なく会釈をした時、前方の車止めが開いて車両は再び走り出した。

車が止まり、与作は建物へ案内された。非常に丁寧に応対する隊員に対して当の本人はすっかり『凶悪犯』の気分で縮こまっていた。

移動式の机と椅子が向かい合って並べられた小会議室のような部屋に通された。誰もいない部屋だった。与作は奥の椅子に座らせられて、一緒に部屋に入ってきた三人の隊員の内一人が彼に向かい合って座った。残りの二人は部屋の隅に控える。

「我々にご協力感謝します。私は桐野一太郎《きりのいちたろう》です。」

目の前の体格のいい隊員が言った。差し出された右手をおそるおそる手に取る。

「言附与作です。」

力強い手だった。その感触は桐野という割には樫の木のようだなと与作は唐突に思った。

「それじゃあ言附くん。」

桐野はどこかぎこちない笑顔を浮かべながら声をかけた。

「これから君自身についていくつか質問させてもらいます。簡単な個人情報についてだが、君が答えたくないと思った時はいつでも回答を控えてくれていい。」

「はあ。」

「そのあとに、身体検査を受けてもらいます。」

「身体検査?」

「病院の診察みたいなものだよ。」

今の体調について尋ねたり、上を脱いでもらったりもすると思うよ。と桐野が付け加えた。

「それって受けなきゃいけないものですか?何かマズいことがあるとか?」

「うん、まあ、念のためね。まず問題ないはずだよ。」

『念のため』ですか、『問題ないはず』ですか。先ほどに増して不安が募る。

「……あの、おれはどうなるんでしょうか?」

与作は主治医に縋る患者のように尋ねた。情けない話だが、彼は今まさに、自分がまな板の上に置かれている気分だった。

「安心してください!我々は君を捕えようとかそういうのじゃありませんから。いくつかお話を伺いたいだけです。」

「それは、つまり……『あの子』関連ですか?」

与作は両手を頭の後ろにやってピコピコ動かしてみせた。少し見ていて気付いた、アガタのよく揺れる後ろ髪の結び目の真似だ。その仕草に桐野は頬を緩ませて、黙って頷いた。

桐野の言う通り、身元に関する質問だけを受け、与作は真摯に答えた。その後部屋を移動して診察室で行われた身体検査も、学校で検診を受けるようなものだった。終わってみれば機動車両の後部座席で揺られている頃が緊張のピークだったように感じる。

――目の前でヘリコプターが消えた時よりも。

与作は改めてそのことを思い出した。度重なる未知の状況にところてん式に押し出されてしばらく頭の中から抜け落ちていた。そっか、消えたんだもんな、ヘリ。白羽根の中に飲まれるように、いや、むしろヘリそのものが羽根の山になってしまったかのように。それと、その時のアガタの言葉。超越……なんとかの使いだとか言ったか。ほとんど忘れたというか、そもそも聞き逃した。もう一度彼女に会わないことには何一つ分からない。しかし、もしヘリが羽根に「なった」のだとしたら、一つつじつまの合うことがあった。

身体検査と称する診察が終わり、与作は元の部屋に戻された。今度は桐野がいなかったので、しばし部屋の天井の四隅と友達になった。やがて二人の隊員が入ってきた。一人は桐野、もう一人は、先刻アガタを見つけるなり怒鳴ってた眼鏡の女性隊員だった。そんなに長くない髪を規則通りに後ろで一つ結びにして、端正な印象を受ける。

「言附くん、お疲れ様。」

先に桐野が言った。

「言附さん、はじめまして。私は五木花《いつきはな》です。」

五木花、彼女はそう名乗った。

「どうも……」

五木は与作の前に座った、さっきは桐野が座っていた席だ。彼はその隣に座る。眼鏡ごしの目つきの鋭いのに与作はたじろいだ。

「これから、事情聴取、させてもらいますからね?いいですか?」

「はい……。あのー、」

「……何ですか?」

「あの子は、今どこに……?」

五木は大きなため息をついた。それがどうにもわざとらしくて威圧感があった。

「こんなときにアガタの心配か。ひとしきり説教が終わったので今は別室で意気消沈してるところだ。『懲戒処分』です。」

「はあ、なるほど。」

「まったく、どうして君という人は見知らぬ女の子を部屋に招き入れたりしたんだ。まさか、その、変な気があったんじゃないだろうな?」

「神に誓ってありません。」

ただ、逃がさないように尋問しようとしただけです――とは言えないので、代わりに首をぶるぶる振った。

「あんまり腹減ってたみたいなんで、つい……。」

「そんなアホな理由があるものかと言いたいところだが、あいつのことだからまるっきり否定はできない。とりあえず、はじめから話してください。全部ですよ。」

はじめからと言えば、前の日に記憶装置を取りに戻ったところからになる。与作はそこから順を追って一つ一つ話していった。記憶装置を無くし、今日再会したところまで、思い出せる限り詳細に話したつもりであったが、聞く側にしてみれば要点をまとめられていなくて、何度か話題の整理が必要だった。

話の内容を事細かに手元のパソコンに打ち込んでいた五木は向き直った。

「それじゃ、その装置を無くした状況について詳しく知っているのは二人の友人たちと教授だけということだな?」

「はい。」

「あとで三人の連絡先も教えてください。」

「……ちょっと待ってください、教授《せんせい》やあいつらは無関係ですよ。」

「でも、事情は知っている。」

「そりゃまあそうだけど、でも……」

「言附さん、」メガネの縁に手を触れながら五木は言った。

「もうお察しだろうが、本件については我々にも退っ引きならない事情がある。それに『コスモス』の記憶装置、それほど高価なものならば、財産権に関わる問題ですから。適当にはぐらかしたところで、意味がないんですよ。」

与作は黙った。如何ともし難いやるせなさがあった。半分は自らの行いで、もう半分は不可抗力的に巻き込まれた事態だとしても。

そんな彼を見かねて五木は声をかけた。

「もとは我々の、いえ、私の監督不十分によるものです。多大なご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。」

五木は深々と頭を下げた。それを見て隣の桐野も言った。

「五木さんだけの責任じゃないです。本当に申し訳ございませんでした。」

丁寧に頭を下げる二人を前に与作はすっかり参ってしまった。「大丈夫ですから」と力なく繰り返すだけだった。

広がった書類の束を立てて整え、五木は与作を見据えた。

「本日はお忙しいところ誠にありがとうございました。後日追って連絡いたします。こちらの者が駅までお送りいたしますので。」

「え?」

事が済んだような口ぶりに与作は動揺を隠せなかった。

「帰っていいってことですか?」

「ええ、どうぞお帰りください。」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

思わず立ち上がって言った。

「何かとんでもないことを目の前にして、あなた方に連れ去られて、いろいろもみくちゃにされた挙句、何もなかったから帰れってことですか?そりゃ納得できないですよ!」

「言附くん、落ち着いて。」

桐野がなだめる。与作は席に座り直した。

「もっと、説明はないんですか?あなた方の『退っ引きならない事情』とか、第一、あの子とあなた方の関係って何ですか?」

五木は再度ため息をついた。

「回りくどい物言いを抜きにすれば、あなたの言う通りですよ、言附さん。本件は何事もなかったかのように忘れて帰っていただいて構いませんので。むしろそうすべきです。」

「五木さん、でしたっけ。そりゃ無理ですよ。」

「と言うと?」

「確かに、さっきあの光景を目にしただけだったら、ああ俺は悪い夢見たんだなって忘れたくもなりましたよ。最近疲れてるんだなって。でもね、こうして自衛隊の人にぞろぞろ囲まれて、あれこれ訊かれて、身体まで診られたってんならいくら悪かろうが現実だと受け入れるしかないんですよ。それを『何事もなかったかのように帰れ』と言うなら、それはもっと早くに仰っていただきたかったですね!」

与作は一息にまくし立てた。思ったままのことが口を突いて出たという風だった。

五木と桐野は顔を合わせた。桐野が小さく頷くのを見て、五木は眼鏡のつるごしに見える瞳を光らせた。

「気持ちは分かります。……そうまで知りたいと仰るんですか。」

「ええ。」

「それは知的好奇心ですか。知的好奇心なら、やめなさい。」

厳しい口調だったが、それは悪意でも非難でもなかった。

「好奇心?多分違います。」

「アガタ、あの子は明らかにただの女の子ではないでしょう。そりゃ性格とか、いろいろ変わってると思いますが、そういう問題じゃない。何か世界をひっくり返すくらいの大それた秘密があるように見える。……刺繍ってありますよね。かわいいキャラクターの刺繍が施されたハンカチやら服やらがあります。洗濯しようと思ってそれを裏返したら、縫い目の加減で、かわいいキャラクターがおぞましい形相をしてるんですよ。言うなれば、そんな感じです。一度それを見てしまったなら、表に返したってもう前と同じ世界には見えない。そういった『世界の裏側』の片鱗を垣間見てしまったような気がするんですよ。だから、単純に好奇心という言葉で片付けられるものでもないんです。」

「話が長いなあ、お前。」

「ぐっ。」

話を一蹴されて狼狽える与作の前に五木は一枚の紙を差し出した。

「特定防衛秘密の保護及び漏洩防止に関する誓約書」

書類の一番上の表題を読み上げ、前を向き直って「何ですかこれ」と問いかけた。

「そこに書いてある通りだ。……サービスの会員登録をするときに利用規約は全部読むタイプか?」

「すみません、読みません。」

「……まあ、それが普通だろうな。分かりやすく説明する。」

「『特定防衛秘密』というものがある。漏洩することで我が国の安全保障上脅威となり得る極めて重要な事項について特別に定めたものだ。これをみだりに探知・収集したものは十年以下の懲役に処される。悪意を持たぬ場合でも漏洩した場合は五年以下の懲役。つまり、トップシークレットだ。言附与作、お前は『特定防衛秘密』の収集に片足を突っ込んだことになっている。とはいえ、そうとは知らぬ間の出来事であったし、話を聞く限り問題には当たらない程度であったため、今回は処罰に該当しないものとする。一方、本件によって極めて重大な財産を消失したことは紛れもない事実であり、かつ、偶発的にでも本件について他者に口外する可能性を鑑みれば、『特定防衛秘密』の保護・漏洩防止の誓約の下に真実を知る権利を有するといえる。むしろ、その方が双方にとっても理に適っているとの判断による。」

「……すみません。」

「何だ?」

「それはホントに分かりやすく言い直したんですか?」

「うるさいなあこっちだって用意された文章を読んでるだけなんだよ。」

そう言って五木は手に持っていた書類を指で弾いた。

「まあ、もっと分かりやすく言うとだ……。その紙にサインすればお前の知りたかっただろうことは全部教える。その代わり、そうしたら最後、見たものも聞いたこともすべて口外しちゃいけない。家族にも、彼女にも、ペットにも!一から了まで!何もかも!……現時点では、この誓約の効力は無期限と考えてもらいたい。」

「秘密は墓まで持って行けと。」

「必ず、そうしてくれ。」

五木は持ってきたボールペンを差し出した。

「……先刻、『世界の裏側』とか言ったな。その裏側を『見る』だけで済むのなら、それほど楽なことはないな。」

与作は書類に目を移した。「氏名」と書かれた欄の、下線のその先を見る。

「俺の考えは変わってないですよ。」

ペンを取り、ノック一押し、慣れた手つきで署名する。

「いいな、お前は。」

書かれた書類を受け取り、確かに五木はそう言った。

五木の合図で隅に控えた隊員が部屋の扉を開けた。

「あ!与作!」

他の隊員に連れられて入ってきたのはアガタその人だった。

「大丈夫だったー?!元気?」

彼を見るなり駆け寄ってきてアガタは顔を近付けた。

「あ、あんまり。」

「それはタイヘンだ!」

「いつからそんなに親密になったんだ、お前たちは。」

二人の様子を見て辟易したように五木が言った。桐野はその隣でにこにこしている。

「同じ釜の飯を食えば、そりゃもう親友だよ!」

「俺は食ってないけどな。」

「あれ、そうだっけ?」

「分かったから、アガタはそこで大人しくしてなさい。……ったく、本当に反省したのか?」

五木は向こうの席を指さした。

「分かったよ、花ちゃん!」

アガタはビシッと敬礼した。

「……『花ちゃん』?」

「うるさい!お前に関係ないだろ!」

恥じらいを隠せない五木を見て与作は笑みがこぼれた。

「わーい!わたしがお誕生日席!」

長机の短辺を撫でまわしながらアガタは言った。

「ねー花ちゃん、なんでお誕生日席って言うの?」

「どうでもいいだろそんなこと。」

「そこで静かに待っててね。」

すかさず桐野がなだめすかす。

「さて、言附、あの子に二度会ったな。これで三度目か。」

元気よく手を挙げる彼女を指さして五木が言った。

「はい。」

「『特定防衛秘密』とは、他でもない、あのおとぼけそのもののことだ。」

「アガタ……の存在?」

「そうだ。彼女は現在我々陸上自衛隊で保護されており、この駐屯地で我々と共に生活している。そもそも自衛隊は要人警護も任務の一つであり、その一環ということになる。」

「でも、その辺をほっつき歩いてたじゃないですか。」

「今は言わないでくれそれは……。」

五木は表情を曇らせる。

「名はアガタ、というが、これは自称だ。もっとも、他にふさわしい呼称もないので今では我々もそう呼んでいるが。」

「自称?」

「他でもない、あの子には戸籍がないんだからな。それ以前に国籍もない。」

「そんな、それじゃ宇宙人じゃないですか。」

五木は答えなかった。堪らなくなって与作は言った。

「……冗談ですよ?」

「……私は嘘は言わない。確かでないことを断言もしない。」

「宇宙人じゃないとも言い切れないと?」

二人は揃ってアガタを見た。それに応えて彼女はキュッと眉をひそめてそっと人差し指を突き出す。二人はそれを眺め続けていた。

「これはまさしく宇宙人だな。」

「アガタ、その歳でよくそのネタ知ってるな。」

「『その歳で』と言うが、年齢も不明なんだ。」

「えっ。さっき歳を訊いたら俺と同じくらいって言ってましたよ?」

「外見からするに十代後半かそれくらいだから、そういうことにしてるんだろう。」

応えてもらえずしょんぼりするアガタをよそに二人は向き直った。

「そろそろ教えてくれませんか。」

「うむ」と小さく答える。

「少し前のこと――正確にいつとは言えないが――数か月単位で前のことだ、この街の交番で一人の女子が保護された。名前を除く身元に関する記憶は一切なく、自分がここにいる経緯も、何を尋ねても知らぬの一言。これといった外傷もなく、無論薬物なんか検出されず、本当に何も問題がないので警官たちは頭を抱えた。身元不明人として処理しようとしていた矢先、常軌を逸した事実が明らかになった。そのために一気に県警本部、果ては霞ヶ関まで話が飛躍して、現在では安全保障上の理由から我々が保護している。『特定防衛秘密』とされた本件で便宜上『甲』と名付けられた者、『甲』自身が語る自らの名は――」

「アガタです!」

元気のよい答えだ。

「こいつの存在に関して、我々が知り得る情報は以上だ。」

「以上?」

「何度も言わせるな。さっきから何でもかんでも質問で返すなあお前は。」

「すみません。でも本当にそれだけなんですか?身元が分からないにしたって、今も警察とかが調べてるんでしょう?」

「ああもちろんだ。だが手がかりは何もない。」

さも当然のような答えだ。

「何もないって、家族とか、知り合いも?」

「ないったらないんだよ。むしろ、それが答えかもしれない。警察が全国まで捜査網を拡げて、それでも何もかからないならば。」

「そんなはずないでしょ!記憶を失って、見知った人もいないとなれば、アガタはここまでどうやって生きてきたんですか!?」

与作はつい力がこもって机に両手のひらを置く。桐野が低く唸った。

「『ここまで』ねえ。その『ここまで』がどれくらいの期間かも分かっていないんだよ。」

「……はい?」

「えっとね与作……」とアガタは五木の顔を窺いながら語り始めた。

「さっきも言ったよね、あんまり覚えてないかもだけど……。わたしはね、『超越さん』に生み出されたんだよ。」

「超越さん?」

思い出した、先刻、彼女は「超越さん」という語を口にしていた。

「『超越さん』はね、すごい人なの。あ、きっと人じゃないと思うんだけどね。きっとすごいからそういう名前なんだ。とにかくね、『超越さん』はわたしを生み出したんだって。わたしはわたしのことは何も覚えてないけど、『超越さん』に生み出されたってことはしっかり覚えてるんだよね。アガタって名前も『超越さん』がくれたものなんだ。だからそういう名前なの。」

「……ということらしい。」

彼女の話のあとに続けて五木は言った。

「こいつは本当に困ったやつだが、どうやらそれだけは確信を持って言えるようだ。『超越さん』が何なのかは知り得ないが、アガタの言う通り人間ではないだろう。ポンとこの子を生み出したんだからな、この世界に、おそらくつい最近のことだ。」

おいおい待ってくれよ……与作は黙り込んだ。普通ならちょっとおかしな奴の戯言、で流してしまうような馬鹿げた話まで、この期に及んでは真剣に検討せねばならぬというのか。自衛隊や国だって同じ風に思ったことだろう。それでも、イレギュラー中のイレギュラーを前にそうするしかなかったのだから。

「アガタ、人は試験管から生まれたりしない。確かに人工授精はシャーレの上で生命を創り出すかもしれない。それでも、父親と母親は存在するんだ。『超越さん』から生まれたなんてアリかよ?『超越さん』を本当に信じてるのか?アガタに父さんや母さんはいないのか?」

アガタはこう答えた。

「……えへへ、いたらいいな。でもそしたらわたし、今ごろ大・親不孝娘だよ。いたらいいなっては思うけどね。……あ!花ちゃんや一太郎さんやみんなもすっごく優しいよ。だから家族はいなくたって……って、そんなこと言っちゃダメだよね。」

――そんな悲しい顔をするとは思わなかった。ただ話の流れで言っただけなのに。当たり前だ、この子は事情は特別だが、境遇は記憶喪失の患者と同じだ。頼れるものがなくて、浮草のような心持でいるだろう。想像は、できたはずなのに。

「すまん。」

「何で謝るのさ?」

彼女はすぐに笑顔になった。その笑顔は前と違って見えた。

「こればかりはいくら掘り下げたって埒が明かない。それよりも、重要なのは『常軌を逸した事実』の方だよ。」

五木は話題を変えようとして言った。『常軌を逸した事実』、それこそこの話をこうまで壮大に仕立て上げた核心だ。

「先に言っておくと、君の失くした記憶装置は二度と戻らない。その理由を今から説明する。」

「アガタちゃん、ちょっといい?」

そう言うと桐野はアガタの背中の方に手を伸ばし、そこから引っ込めた手には羽根を一枚持っていた。

「引っ付いてたよ。」

「えへへ、ありがと。」

桐野はそれを与作に差し出した。

「触っても大丈夫だよ。」

「言われる前から散々触りました。」

その羽根を受け取りながら与作が答える。見れば見るほど繊細だ。さっきはこれがそこら中に舞い散っていた。

羽毛の流れに沿って撫でている与作をよそに五木は語った。

「その羽根の主成分はケラチンというタンパク質だそうだ。動物の毛を組織するごく一般的な物質。つまり、その羽根は鳥の羽根と相違ないものだ。」

「じゃあこいつはどこからきたんですか?」

そう言われると五木は顔の横で人差し指を上に向けてくるくる回してみせた。

「……『無』?」

「いや。あるだろう、この部屋を満たす……」

「空気?」

――驚いた。手品師がシルクハットの中から鳩を取り出すように空気の中から羽根を取り出したというのか。手品、というより、超能力だ。

「どうやって出してるんだよ?」

その質問にはアガタが答えた。右手を前に突き出し大きく開く。

「こうやって手を出してさ、ん、って。心に思うんだよ。必ず、手じゃなきゃダメなんだよ?」

「ごめん、まったく意味分からん。」

「分かってよお。」

「分かれるものか。俺は苟も理系人間として、そんな非科学的なことは信じられない。」

「そうか、理系人間か、なら我々の分かっている範囲でタネ明かしをしよう。」

「ぜひとも、お願いします。」

すると五木は書類をまとめているゼムクリップを取ってアガタの方に滑らせた。それから立ち上がり歩いていって与作の背後の窓を開けた。遠くから訓練の掛け声が聴こえると、ここが駐屯地の中であることを思い出させる。

「彼の前でそれを作ってみろ。」

「花ちゃん、いいの?」

「今だけだぞ、絶対それ以外はするなよ。」

「任せて!」

与作が話の内容を掴めないでいると、アガタはそっと手のひらを差し出した。

「いい、まばたき厳禁!」

「わ、分かった。」

アガタは反対の手の中で受け取ったクリップを数度回した。「キンチョーするなあ」って照れ笑いしてから、意を決してひらいた手に力を込めた。


風が吹いた。集中してなければ感じないくらいの弱い流れ。よく回る空調ではない。開いた窓から入り込む午後の空気でもない。頬を押すというより、引き込まれるような風。彼女の手のひらに注がれていた意識をくすぐられるような、いたずらっぽさと優しさがあった。


「できた!」

アガタの歓声が響いた。

「ねえこれうまくない?ほら!」

「うん、上達したな。」

「やった!花ちゃんにほめられたよ!」

何のことかと思いもう一度彼女の手のひらを見ると――クリップがあった。そして、反対の手に握られていたクリップも、そのままでそこにあった。

クリップが増えた。

「言附、これがこいつの力だ。」

「どういう、ことですか?」

五木がアガタの頭にそっと手を乗せた。

「アガタはものを分解し、ものを創り出す。厳密に言えば、原子核を分解し、原子核を構成する、『原子核再構成』ができるんだ。」

『原子核再構成』、字面から大変想像しやすい、想像だにしない現象。

「今ここで、この子は手のひらの周りの空気の原子を分解して鉄原子でできたクリップに構成し直したんだ。これが君が記憶装置をいつまで経っても見つけられなかった理由であり、目の前でヘリコプターが羽根の中に消えた理由だ。両者は羽根の中に『消えた』んじゃない、羽根に『なった』んだ。」

「羽根に『なった』」、奇しくも五木は先刻の与作の思索とまったく同じ言葉を使った。つじつまは合った。

「与作の頭の上に『?』が出てるよー。」

黙り込んでしまった与作をアガタが茶化す。

「理系なんだから君の方が私より理解しやすいだろうに……。」

五木は席に戻って裏紙に何やら書き始めた。それをボールペンで指し示しながら次のようなことを語った。

「この世界で物質を構成する最小単位は原子だ。空気も、机も、羽根も、人間も、突き詰めれば全部原子でできてる。その原子の中身を見てみると原子核と電子でできてる。電子はとりあえず無視して、原子核の中身を見ると陽子と中性子ってのがくっついてできている。水素だとか酸素だとか原子の種類の違いは、この陽子と中性子の個数の違いで決まる。ここまでは分かってるな?」

与作は冷静に頷く。一方アガタは「花ちゃん、分かんない」と既に聴く気がない様子。

「いい加減に自分がやってることの仕組みを覚えたらどうだ……?まあいい。」

「――ここで、さっきやったように空気と鉄を考える。といっても空気は窒素が八割、酸素が二割、以下多数の混合気体なので、面倒だからここでは窒素百パーセントの気体ってことにしておく。『原子核再構成』というのはつまるところ原子核を構成する陽子と中性子を自由にばらしたり組み替えたりする能力のことなんだ。窒素の原子核に含まれる陽子は十四個。原則として中性子は陽子と同じ数だけ含まれているものだから、今回は十四個。これが窒素原子だ。空気中の窒素分子は原子が二つくっついたものだから合わせて陽子と中性子が二十八個ずつ。まとめると、空気中の窒素一粒には陽子と中性子が二十八個ずつ含まれてる。他方、鉄原子はどうかというと、陽子と中性子が五十六個ずつ含まれている。だから、窒素分子の原子核を分解して鉄原子を作ろうと思ったら、ちょうど窒素分子二個につき一個の鉄原子が作れるってことになるな。アガタが今やったのはおおよそこういうことだ。」

「――もう少し難しい話をする。分からないなら分からないで構わないが、もし五十六グラムの鉄、すなわち一モルの鉄を原子核再構成で創り出したいと思ったら、同じく五十六グラム分の、量にして二モルの窒素が必要。常温常圧下では一モルの気体の体積は二十二・四リットルと決まっているから、四十四・八リットルの窒素を使うことになる。四十四・八リットルといったら、二リットルペットボトルが二十二本くらいだろ?二リットルペットボトル十二本入りの段ボール、天然水とかの、あるだろう?あれを二箱置いたのと同じくらいの空気がこの部屋から消えるんだよ。ゼムクリップ一つくらいならなんてことないが、私が窓を開けたのは、一応そういうわけだ。」

「あんまりやりすぎると空気なくなっちゃうの?」

無邪気に問いかけるアガタに桐野は答えた。

「金とか鉛はもっと重い金属だから、もしアガタちゃんがここに金塊の山を作ろうとしたら、あっという間にこの部屋の全員息ができなくて死んじゃうよ。」

「ホント?じゃあやらない。」

「そろそろこいつが安全保障上どういう意味を持つか分かってきたんじゃないか?」

手持無沙汰なボールペンをくるくる回しながら五木は話を続ける。

「『原子核再構成』はその気になれば何だって創れるし何だって消せる。もし仮に、という話だが、特定のニトロ化合物を作ったり、特別な水素を使ってごにょごにょしたりすることもできなくないわけだ。そしたらどうなると思う?」

「……よく分かりました。でも実際のところ創れるんですかね?針金でクリップを作るのと訳が違いますよ。」

「無理だろうな。本人が、あれだしな。」

「二人とも、何か失礼なこと言ってない?」

アガタはふくれた。

「あんまり難しいのはわたしには創れないんだよ。キカイとか、中身までちゃんと創らないと意味ないじゃん。与作の装置?なんか絶対ムリ。あ、でもね、背中からバサッて出てくる翼ならいつでもできるよ!こればっかりは難しいこと考えなくても心で思うだけで出せちゃうんだよねー。」

「じゃあ俺とぶつかった時や、ヘリの時は……」

「あの時はぶつかった拍子にびっくりしちゃってつい。ヘリコプターはとにかく何とかしようってあせっちゃったから。何も考えずに力を使おうとすると、羽根が出てくるよ。」

「なんで羽根なの?」

「分かんないや。『超越さん』に訊いてみないとね。」

「そういうわけだから、こればかりは納得するというより受け容れてくれ。」

五木は二つのゼムクリップが混ざらないように気を付けながら片方を書類の束に戻し、もう片方を試料として近くの隊員に回収させた。

「あなた方の言わんとすることは分かります。アガタを前にしちゃ、俺たちの常識はまずもって通用しないってこと。でもやっぱり気になることはいくつかあるんですよ。」

「なになに?与作になら何でも教えてあげるよ。」

身を乗り出して答える彼女に薄ら笑いを浮かべつつ与作は言う。

「『原子核再構成』は今のところ算数のおはじきと同じだ、足し算引き算の話でしかない。実際はもっと複雑ですよ。鉄の原子は陽子と中性子が五十六個ずつ入ってるからといって、陽子と中性子五十六個分の質量じゃないんだ。なぜならそこには質量欠損があるから。つまりはその分の質量はエネルギーになってるんですよ。原子核はその中にとてつもないエネルギーを秘めてる。原子力発電が何で動いているかを考えれば分かるように、ちょーっと原子核をばらしたりくっつけたりすれば、お風呂が沸かせちゃうくらいの熱が取り出せるんですよ。アガタが本当に手のひらで大それたことをやってるというなら、それだけのエネルギーを一体全体どこから取り出し、どこに放っぽってるってんだ。何もないところからエネルギーは取り出せないんですよ。何もない箱からものは取り出せないように……」

「でも現にそれをやってのけてるだろ。」

「たしかに……。」

与作は椅子にもたれかかって天井を見上げた。誰に言うでもなく「そーなんだよなあ。」と呟いた。

「物理法則とか、世の中の常識を超えた存在としか言葉には言い表せないよな。」

「ふふ、いいねえ、わたしのことで悩んでる人を見るのは。」

「アガタちゃん、最近変な趣味ができたね。」

「教授《せんせい》やあいつらだったらもっといい考えあるだろうになあ。」

「そのことだが――」と五木が口を開いた。

「彼らに対しては君の方から弁明した方がいいと思う。装置は手がかりナシということにして、今日のことは――」

「何もなかったように、ですよね。秘密は守ります。でも変に察しがいいから、あいつら。」

「そうしてもらわねば君が困る。君はもう部外者ではないので。……これ、何かあった時の連絡先だ。駐屯地の電話窓口に『アガタの件で……』なんて電話されたらたまったものじゃないからな。」

そう言って差し出された紙には携帯の電話番号が書いてあった。与作は携帯を取り出して電話帳に登録する。

「特に質問がなければ今日はこれで……」

「ちょっと待ってよ!」

アガタが唐突に叫んで立ち上がった。

「与作、帰っちゃうの!?」

「そうだけど……。」

何をそんなに驚いてるんだと五木はため息一つ。

「『疲れたでしょ~今日は泊っていきなさ~い』とかないの?」

「お前はここをなんだと思ってるんだ?お前の家じゃない!」

「いいなー与作の家に帰りたーい!」

「お前はここをなんだと思ってるんだ?ここが家だろ?!」

「花ちゃん言ってること逆~。」

言い合う二人を放って桐野が立ち上がった。

「言附くん、外まで案内するよ。」

促されるまま荷物を持って与作は立ち上がった。二人はなおも言い合っている。

「だってさー与作の家はいいんだよ!広いしいろんなものあるし、川のすぐそばだし、かなり汚いのが残念だけど……」

「一番いい宿舎で寝てるくせに贅沢言うなー!ついこないだテレビが欲しいって散々ごねたばっかりだろうに、まだ足りないのか!?」

「だってだって与作は料理上手いんだもん!」

「一回餌付けされたくらいでなつくな。野良猫かお前は。」

「にゃー!」

扉に向かって歩いていた与作はつい足を止めた。肩を揺さぶられながら文句を垂れる彼女の様子は見てて飽きなかった。自然と笑みがこぼえる。

「あの子はいつもあんな感じなんですか。」

隣に立つ桐野が頷いた。

「なんだかんだあのペースについて行けるのは五木さんだけだね。本人はあんな風に言ってるけど、ここだけの話、アガタの対応部署を新設するにあたって五木さんは自分から志願したんだよ。」

「そうなんですか?」

「こうしてみると良いコンビだよね」と言いながら、桐野はにこやかに二人を眺めている。

「私に何枚始末書を書かせれば気が済むんだこのわがままが……!!」

「でもでも与作はトクベツなのー!!」

手を払いのけられながらもうねうね近付いていってアガタは訴える。

――トクベツか。それもいいな。

「……あの、その子にまた会うことってできますか?」

「できなくないかもしれないが、基本は……どうしてだ?」

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与作がいつも食事に使う一人用の食卓に、彼と秋山が向かい合って正座した。秋山の後ろには二人と、逃げられないよう五木に肩を掴まれたアガタがいる。今、彼の部屋は本人が驚くほど片付いている。こうして彼らが訪問するのを前に、死力を尽くして片付けをしたのだ。与作はやればできると自分自身に感心したし、実は床に散らばったすべてのものは収納が可能だったという事実に驚いた。

「今、お茶を出しますね。ああ、でも全員分のコップがないや。」

わざわざ買っておいた二リットルのお茶を出そうとしてコップが足りないことに今さら気付いた。

「気持ちはありがたいが、遠慮するよ。我々はお茶をいただきに来たわけではないからな。」

「あ、そうですか。」

「あとで二人で飲もうね~。」

ニヤニヤしながらアガタが言う。その隣で「頼むから黙っててくれ……」と五木が白い顔で言い聞かせる。

秋山は鞄から書類を取り出して彼に差し出す。

「困った時のためのマニュアルみたいなものです。これから話すこともこの中にすべて書いてあるので、一度は目を通しておいてほしい。」

「ありがとうございます。」

「これから領収書はきちっと取っておいてくれたまえ。アガタとの生活費全般については我々がきちんと補填するのでな。」

「生活費全般て、俺の分もですか?」

「言附くんがきちんと二人の勘定を分けてくれるなら、我々はアガタの分だけ支払えばよいのだが。そうしてくれるか?」

与作は言葉に詰まった。それを見て秋山が笑う。

「少し大目に見よう。」

「勘違いするなよ、『生活費』だからな。内容は精査させてもらう、呑み歩きや個人的な娯楽まで国民の税金から出ると思うなよ。」

横から五木が釘をさす。

「はい、承知してます。」

「じゃあわたしが買ったってコトにすればいいんじゃない?」

「お~ま~え~なぁ~。」

「ジョーダンだよ、花ちゃん」とアガタは舌を出す。二人の軽妙なやりとりに秋山は目を細めた。

「二十四時間君たちの近くに隊員を待機させておくので、何かあった時は呼ばずとも駆け付ける。言附くん、君にも護衛をつけておくが、大学とか必要最低限の外出を除いてアガタから目を離さないようにしていてほしい。」

「友達に気付かれたりとかしませんかね?その、護衛が。」

「我々もプロだ、安心したまえ。」

「そういうことなら。」

「それともう一つ……」

秋山は部屋の天井の隅を指さした。エアコンの隣にはさっき隊員たちが設置していた黒い物体が下げられている。

「あれは監視カメラではない。アガタの監督義務はあるにしても、みだりに君のプライバシーを覗くわけにはいかないからね。何というか、あれはガイガーカウンターみたいなものだ。」

「放射線量測定器ですか?」

「実は、『原子核再構成』が発生した際にきまって特定波長の放射線が観測されることが知られている。放射線といってもごく微量なもので、たとえこの部屋中の物質を再構成しても健康に危害を及ぼすことはないよ。専門家は『再構成の副産物』と考えているようだが、それにしても量の少なさが目に付く。だから今のところは『原子核再構成』をした証、とでも捉えておくのがちょうどよいだろう。あの測定器は、その特定波長の放射線を観測することができる。」

「『原子核再構成』測定器ってことですね。」

秋山は大きく頷いた。

「あれが反応すると即座に隊員が駆け付けるようになってるので、そういう行為は避けてもらいたい。といってもこれは君に言っても仕方ないな。」横を向いて言った。「分かったかな?」

「はーい!花ちゃんにすっごい言われたから大丈夫です!家でも外でも使いません!」

「いい返事だ」と言いながらしきりに頷く。

話が終わり、一同は腰を上げた。

「私に通したい話がある時は遠慮なくここにいる五木や桐野に伝えてください。場合によっては直接会う手筈を整えましょう。アガタ、君もだ。くれぐれも彼や皆に迷惑をかけぬようにな。」

「お心遣いいただきキョーシュクです、閣下!」

彼女は敬礼で答えた。それを聞いて秋山は堪えきれず笑い出した。

「こういうのも君が教えたの?」

「いえ決して!アガタが自然と覚えたんです。」

五木が直立して答えた。先日の彼女の様子を覚えている与作は、今日のかしこまった姿が可笑しかった。そっちの方がいいのにとも思った。

アガタに敬礼をして応える秋山に与作は問いかけた。

「どうしてこのことを認めてくださったんですか?俺が言うのも難ですが、まさか本当にこんなことになるとは思ってませんでした。」

秋山が彼に向き直った。あまりにもまっすぐ見つめられたので、彼は思わず目を逸らしかけた。

「愚問を承知で尋ねるが、君こそなぜ『いいよ』などと言ったんですか?」

「えっと、それは……」

「うまくやってくれると期待しているよ。」

それだけ言い残して秋山は玄関に向かって歩いた。そのあとを二人がついていく。与作の隣にはアガタが残った。

「花ちゃん、わたしがいなくて寂しくならないように電話してあげるね!」

「余計なお世話だ!絶対、用もなく電話してくるなよ!」

「用なら『話したいから』でいいよね?」

五木は呆れたように鼻から息を吐いて、それきり何も言わなかった。

三人が出ていってからも二人はしばらく立ち尽くしていた。


玄関の戸が閉まったのを確認して秋山は帽子を被り直した。眼下に広がる河原には数人のグループがいくつか散らばっていた。この辺りは怪奇現象が発生したというので少々話題になったばかりだ。

桐野はかねてよりの質問を彼に投げかけた。

「言附くんの言うことももっともです。なぜこのような突拍子もない話が通ったのでしょう?」

「それは、君らが言ったんだろう。『甲』は、アガタは単純に見えて実は知恵深い性格なのだと。動物じゃあるまいし、ご飯をもらったくらいでなつかない、そもそも見知らぬ者に勝手について行ったりしない。言附与作には心許す何かがあるのだろうと。私にも彼が普通の大学生にしか見えなかったが、彼女をよく見ている君らのことだ、その言葉に間違いはないはずだろうな。君らには今まで以上に負担をかけることになろうが。」

「お任せください」五木はそう言ったが、溢れるほどの自信は感じられなかった。

「両腕を交差させて肩甲骨の辺りに手を当てる、あれはアガタが開翼するときの準備動作です。言附のところに行きたいと言って、あいつはその動作を見せた。無論本気ではないが、脅しですよ、それは。」

「そうだな、国家の防衛力も天真爛漫な少女には勝てない。……時に君は彼女に『花ちゃん』と呼ばれているんだな?」

「なっ!!」

五木の顔が一気に赤くなる。桐野は思わず噴き出した。

「私が名乗ったら勝手にそう呼びだしたんです!認めたことは一度もないのに!」

「いいじゃないか。よい信頼関係を築いているようで。」

次に秋山は表情を固くした。

「しかし、どうか忘れないでほしい。私が君らに与えた任務は彼女を監督し保護することであり、同時に、彼女の力を我々の管理下に置くことができず、国民の生命と財産を脅かす兆候が見られたならば――対象を完全に無力化する。」

「心得ております。」

「信頼関係は漆喰だ。塞ぎきれぬ亀裂が入らないように、少しずつ、少しずつ、塗り重ねていく。それでも、崩壊が避けられぬ時がある。」

「……実を言えば秋山陸将補、我々の目の前で『ニンジャ』が消えた時、私はもう少しで銃を抜くところでした。ですが結果としてはそうしなかった。恥ずかしながら、それは冷静な洞察による判断というより、彼女を信じたい願望によるものだったかもしれません。桐野も同じだったそうです。……我々はいずれ、過ちを犯すやもしれません。」

「分からぬよ、誰にも。だが、彼女が君を信じてくれるために、君は彼女を信じたのだろう。今はただ、それだけだ。」


「ほら、お前の好きなオムライスだぞー。」

最初の晩餐に与作は二皿のオムライスを食卓に置いた。あれから今日のために少し練習しておいたのである。アガタは手を叩いて喜んだ。

「よっ、待ってました!」

「これからアガタが何食ったかとか、ちゃんと記録付けとかなきゃいけないんだってさ。拾い食いとかするなよ。」

「乙女の食生活が詳らかにされるんだね。」

「きっとデブにならないようにだろ。」

「ひどーい。」

ふくれる彼女の顔が収まるようにスマホのカメラを構える。しかし撮った写真にはピースサインと元気な笑顔が収まっていた。

元気のよい「いただきます」と同時にかきこむ様子を見ると、ひょっとしたら薄焼き卵の下に何を入れてもきれいさっぱり食うんじゃないかと邪推した。

「そういえばさ、なんで駐屯地抜け出したんだ?」

「えー……つまんなかったから。」

「『つまんなかったから』で逃げ出すなよ。五木さんたち、心配しただろ。」

「うう。逃げたんじゃないもん。でももう家出しないよ、ここが二人の愛の巣だから~。」

「嫌な言い方するな。」

話しながら食べ進めるうちに、話題は『超越さん』の存在についてになった。

「よく分からない存在についての確信だけがあるってどういう感覚?」

暫く悩んでアガタは答えた。

「テレビのオカルト特集で見たよ、始めて来た場所なのに、なーんか前にも来たような気がして、変な記憶があるの。実はそれは前世の記憶だったのだ!なーんて、そんなカンジ?とにかく、心がそう感じるんだ。」

説明を聞いてもよく分からなかったが、テレビっ子であることは分かった。

「『超越さん』ってね、不思議なの。『原子核再構成』は『超越さん』の力なんだよ。お願いします!ってやるとわたしにその力を分けてくれるんだ。というより、わたしが思ってる風に代わりにやってくれる、そんなカンジなのかな。だから、この力は、授かり物。それとね、もう一つ不思議なことがあるんだ。」

アガタは手をひらいて「与作、手。」と言った。彼がスプーンを皿に置いて同じようにすると彼女は突然その手に触れた。

子供みたいに柔らかくて温かい手だった。

「『原子核再構成』は人の身体にはできないんだ。こうやっていくら力を込めても全然きかないの。そんなの人の身体だけ。だから与作がケガしたって治してあげられないんだからね。包帯くらいなら巻いてあげるよ。」

「そりゃどうも……って、おい、今俺の身体バラそうとしたってことか?!」

「もっとイケメンにしてくださいってお願いしてみた。」

「おい。」

「うそうそ。与作は今のままでもかっこいいよ。」

冗談でもいきなりそう言われるとどう答えていいか困る。アガタはそれを見てまた笑った。

「気にならないのか?『超越さん』の正体。」

「すっごい気になる。何で私を生んだんですかって、この力は何ですかって。訊きたいことたくさんだよ。」

そっか、そうだよな。

「じゃ、探しに行くか。」

「え?」

「これから毎日俺の部屋にいたってやることないだろ。人生に目標っての見つけなきゃ、張り合いがないっしょ。俺も一緒に探してやるよ。『超越さん』に話聞いて、んで記憶装置を取り返す。な?」

「いいね、すっごくいい!」

きっとこの出会いだって何かの縁なんだ。それは『超越さん』に運命づけられたものか、はたまた――。

「天上であぐらかいてる『超越さん』に俺らの力、見せつけてやろうぜ。」

「おー!」

この日交わした二人の誓いは、落ち窪む無限の深淵に僅かばかりの光を投げ込んだようであった。


コーヒーの薫り香ばしい雑多な研究室。

室長席に座った阿手内教授は手に持ったカップを口に近付け、飲むことはなく、再びコースターの上に戻した。それぞれのデスクに向かって作業する学生たちの横顔を見回し、それからぼそりと呟いた。

「またいつもの独り言だと思ってくれたらいいんだけどね――」

誰に聞いてほしいでもなく自分の話をしたいとき、教授は決まってこの文句から始める。

「僕も卒業研究がやりたいんだよねー。」

学生の何人かが視線を教授に向ける。だいたいこういう時は室長席に一番近いデスクの与作が話を聞くのが恒例になっている。「独り言だと思ってほしい」と言いつつ誰も反応しないと教授はいじけてしまう。与作は話の内容次第では素っ気ない受け答えをするが、教授はそれすらも楽しんでいるところがあった。

「啓倫大は国立だからさ、僕もほとんどはお国のお金で研究してるわけだ、好き勝手な研究に研究費をおろそうとするのは認可以前に良心の問題なんだけど。でも君たちは卒研なんだから、本当にやりたいことやれるんだよね。僕もできるかぎり協力するけど、後は自分で頑張ってね、てのが僕のスタンスなわけだから。」

教授は再びカップを口に寄せて、やはり飲まないまま元に戻した。

「そもそもが研究ってそういうものでしょ。自分で決めて、自分で追っていく。つまり卒研は本来あるべき研究の姿だと思うんだ。僕がやりたいって言ったのはつまりそういうこと。ところが考えてみたらさ、『自分で決めて、自分で追っていく』って、世の中大抵の仕組みがそうなんだよ。」

「例えば何ですか?」

与作が口を開いた。教授は言い出してからに答えに詰まって、少しの間考えてから目を光らせて言った。

「……恋愛。」

研究室から失笑に似た笑いが起こる。「そんなにおかしなこと言ったかなあ」と教授の白い眉が下がる。

「恋愛こそ、その型にはまらないものの代表だと思いますよ。」

与作の奥のデスクから顔を覗かせて哲が言う。

「若いながらに悟ってるねえ、君たちは。」

「でもさ……」と話を続ける。

「望んで得たものより、望んでないけどそこに収まったものの方がずっと多い。むしろ世間はそっちの方でできているよね。僕、知ってるんだよ。君たちの中に、研究室配属の時に第一志望でここを選んだ人がどれだけいるだろうね?」

その場にいる全員が目を逸らしたり苦笑いを浮かべた。

「そろそろ研究室人気最下位を脱したいところだよ。そのためにも、君たちの中からすごい研究をしてくれる人が現れればいいのにね。」

「広報が足りないんですよここ。存在すら知らない人多いですよ?」

「宣伝《プロパガンダ》は学者の仕事じゃないんだもん。」

その時教授のポケットから着信音が鳴り響いた。よれたズボンのポケットに手を突っ込んで折りたたみ式の携帯電話を取り出す。一度スマートフォンに替えたのに使いにくいと言って昔の機種に戻したらしい。

「うわっ、家内だ。」

着信を見て呻き、おそるおそる電話に出る。

「もしもし?仕事中は電話しないでって言ってるじゃん……え?クリーニング?そんなの知らないよ……分かった、分かったってば――」

携帯を持つ反対の手も添えながら、天井の方を見て電話の向こうの妻に腰を引く。与作たちは押し黙ってその光景をしばし見つめていた。

早々に電話を切って合掌するようにしながらパタンと携帯を折りたたむ。

「『あ』が付くクサイものには蓋。」

「どういう意味?」

「『悪妻』。」

「理央くん大正解。」

教授は携帯をしまいながら理央を指さした。「ダメですよ」と諫めつつ、どこか得意気な顔で理央が応える。

「というわけで、クリーニングを受け取りに行かなきゃいけないので僕はもう帰る!鍵は別な人に任せておくから、みんなは夜まで好きにしてていいよ。」

そう言い残すなり教授は荷物をまとめて足早に研究室を去った。あとには結局一口も飲まれなかったコーヒーが取り残された。

「さて、僕たちはどうしようね。」

おもむろに哲が問いかけた。

「そうだなー、俺は、晩飯の食材調達して帰ろうかなあ。」

「へー、料理できんの~?」

キーボードを打つ手を止めて理央が顔を向けた。

「なんとなくやる気がな。まだ全然だけど。」

「じゃ、そのうちご馳走してくれる?」

「全然そういうのじゃねえって。」と首を横に振る。「じゃあ僕も」と哲が手を挙げる。

「きっと不味いって言うぞ。」

「大事なのは味じゃないよ、与作。」

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「あのなー、日がな一日遊び暮らしてんのはどうなんだ?同居人として、掃除とか、少しは貢献しようという気はないのか?」

アガタはこの頃YouTubeにご執心である。家にあるものは早々に遊びつくして、与作のパソコンを借りて動画を漁るようになった。勝手に動画にコメントをつけるなと念を押しておいたが、気が気ではなかった。

「失礼だなー、今日もこうして立派に『留守番』という任を全うしてるんだよ。」

「それをニートという。」

血税でこんなぐうたらを養っていることが知れたら国民はどう思うだろうか。

あれこれ屁理屈をこねていたアガタだったが、今度はふてくされた風を装い始めた。

「あーあ、そんなに言うならこれはナシかなー。」

「な、なんだよ。」

「いいもん別に。せっかく与作にプレゼントを用意したのにさ。」

「プレゼント?」

この部屋にはおおよそ与作のものしかないのに、何を用意したのか。

「教えてくれよ。」

アガタはけろっと元の調子に戻った。

「その前にご飯!」

普段の晩飯といえば米とみそ汁の他に何か一品のみだが、今日はもう一品増やしてみた。というのも、毎日の食事を記録していたところ栄養が偏っていると五木にお叱りを受けた。その上炊事班の知り合いからちょうどいい料理を訊いてきたとレシピまで送ってきたので、仕方なしに作るしかなかった。しかしてそのレシピ、大鍋で作る前提の分量で書かれていて、まずは二人分に換算するところからだった。

「最近ますます上手くなったよね。」

「お、そうか?」

「でも分かってきちゃったよ、レパートリーが少ない。」

「痛いところを……。」

それから与作が「プレゼント」について尋ねると、待ってましたとばかりにアガタは一枚の紙を差し出した。

「はいどうぞ!」

部屋のどこかに置いてあった何のことはないコピー用紙に、鉛筆で書いたかわいらしい字でこう綴られていた。


窓からさしこむ太陽さんの光がわたしに降り注ぐ

だけどね まだ朝じゃないよ

あなたの熱いまなざしが注がれたとき わたしの朝がはじまるの


ふき抜ける風さんが遠くの愉快な香りを運んでくる

だけどね まだ昼じゃないよ

あなたの作るいい匂いのごはんが運ばれたとき わたしの昼がはじまるの


夕暮れの空に鳥さんの「帰ろうよ」って声が聞こえる

だけどね まだ夜じゃないよ

あなたの「ただいま」って声が聞こえたとき わたしの夜がはじまるの


星空にお月さんの明かりがわたしのほほを照らす

だけどね もう明日はきてるんだよ

あなたのやさしい笑顔が心を照らすとき わたしの明日ははじまってるの


与作はその紙に書かれた言葉の旋律を暫し眺めていた。

「これは……ポエム、だな?」

「うーん、詩《ポエム》っていうより、詩《うた》だよね、これは。」

「歌か、じゃあ歌ってみてよ?」

「そうじゃないんだよね……」

箸を置いてアガタは語る。

「詩《ポエム》っていうのはさ、自分の心の中にあるものを何とか言葉にしようとしたものなんだ。景色を写真に撮るみたいに、心を言葉に写し出すんだ。詩《うた》も似たようなカンジなんだけどね、そこには誰か『届けたい人』がいると思うんだ。『届けたい人』は知ってる人かもしれないし、知らない人かもしれない。一人かもしれないし、たくさんの人かもしれない。そういうのが詩《うた》だと思うの。わたしはこれを誰のために書いたか、分かるでしょ?だからこれは詩《うた》なんだよ!」

与作は彼女にこんな繊細で抒情的な一面があることを初めて知った。詩的な、と言ってしまえばあまりに直接的で味気がない表現だが、彼女を「詩的な」存在だと感じた。何より、この詩は読めば読むほど温かい気持ちにさせてくれる。

「俺は詩とか全然分かんないんだけどさ……」

「いいんだよ、思ったままのこと言えば。」

「すっごいいいと思う、これ。なんか、すごい納得できる感じ。分かるなあって。ごめんな、言い方下手だけど。」

アガタは頬杖をついて、何も言わないまま満足そうにしきりに頷いていた。

「そうだ、これはここに飾っておこう。」

与作は立ち上がって紙を本棚の上に壁に立てかけるようにして置いて、その前を写真立てで支えた。棚の上には写真立ての他に、地方の観光地で売っている土産物らしい小物やらが並べられていた。

「ここにあるもの、なあに?」

「ここにはさ、ものも、思い出も、大事なもんはだいたい置いておくことにしてんだ。誕プレとか、この写真とかもな。例えばこれ、大学二年の時にさ、突然『富士山登ろう』ってことになって登頂した時のやつ。あれは誰が言い出したんだったかなー。アガタからのプレゼントなら、ちゃんとここに飾っておかないとな。」

「いいねいいね。」

アガタは恍惚とした目で品々を眺めた。それから自分の詩を見て一番満足げに微笑んだ。

食事が終わってから思い出したようにアガタが言った。

「そうだ、そこにわたしの宝物も置いていい?」

「ん、いいよ。どんなの?」

「えっとね……」とアガタは白いワンピースの中に着た服をまさぐって、何かを掴んで引っ張り出した。それは色とりどりのビーズでできた輪のアクセサリーだった。ブレスレットくらいのものだが、それにしては少し小さい。

「この服は最初っから着てた服なんだけどね……」

「ああ、洗濯するから着替えろって言っても全然聞かなかったよな。こだわり強いの?」

「だって『超越さん』がわたしのために用意してくれた服でしょ?当たり前だよ。それでね、その時に、ポッケにこれが入ってたんだ。だからこれも大事なものなの。どこかに置いといて失くしたらいやだったんだけど、ここなら大丈夫だよね。」

「ここに置いとくね」と詩のすぐそばにアクセサリーを寝かせた。与作はそれを覗き込んだ。プラスチック製のビーズ、よく見れば一つ一つの表面に細かい傷がある。活動的な彼女のポケットの中で揺られて、真新しさはなくなっている。

「これって、もしかして何かの手がかりになるんじゃねえか?」

「そうかもね。……まだ誰にも見せたことないんだ。」

「五木さんとかにも?」

「調べるからって預かられちゃったりしたらいやだもん。」

「じゃあ写真に撮ってさ、これについて何か知ってる人がいるかもよ?」

「それも……いやかな。」

与作は彼女の方を向いた。彼女はまっすぐこちらを見ていた――見てはいなかった。どこか虚ろな目で、与作を突き抜けてその奥を見つめていた。その瞳はいつものアガタらしくなくて、彼は無意識に目を逸らした。

「……まあ、それなら。」

アガタは小さく頷いた。


翌日、阿手内研究室に教授の姿はない。所用で外に出ていて、研究室では学生たちが各々の活動をしたり談笑したりしていた。教授は私物の持ち込みを許可しているので室内は娯楽やアメニティ・グッズには事欠かなくて、半分共有財のように扱われている。中には要らなくなったものを持ち込んでそのまま卒業してしまう者もいて、もはや誰のものともつかぬ物品すらある有様である。

与作はパソコンのデスクトップ画面を前にして何をするでもなくぼんやりしていた。頭の中にあるのは、ここ数週間のうちに起こった大それた出来事の端々を貼り合わせてできた不格好なコラージュ。脳が理解しないまま日常に溶け込んだものたち。

アガタとの生活を苦に感じたことはない。もちろんぐうたらには辟易しているが、それは生活そのものまで不快にさせるものじゃない。当たり前だ。だから多分、体と心が追い付いてないだけなんだ、この疲れは。眠ったら取れるものじゃない、そのうち小さくなって消えるものだ。そうに違いない。その上に、考えるべきことはもう一つある。先日高らかに誓いを立てたこと。

理央が組んだ手のひらを真上に掲げて大きく伸びた。

「あーダメだ、進まん。」

それを聞いて与作と哲はチラリと覗き込む。

「ちょっと飲み物買ってくるわ。あんたらも外の空気吸ったら?付き合ってよ。」

「ちっ、しゃーないな。」

言葉とは裏腹に軽く立ち上がる。

「テツは?」

理央が呼びかけると彼は「んー」と小さく唸った。

「僕はいいところだから遠慮する。」

「そ。りょーかい。」

返事を聞いた彼女は頷いて、小さな鞄を下げて部屋を出ていった。与作はスマホと財布だけ持ってそのあとについた。


建物を出て理央はまっすぐ右に向かった。それが飲み物を買いに行くにはおおよそ向かわない方向だったので、与作は尋ねた。

「スタバに行くんじゃないのか。自販機にしたって近いのあっちだろ。」

彼女は立ち止まって振り返った。

「気が変わったの。いいでしょ?」

与作は訝しげに思いながらも隣に立って歩いた。

大学の敷地を囲むように木立が広がっている。その中に舗装された遊歩道が通っている。大学の喧騒を離れ、敷地外の幹線道路の車の音を遮り、静かで悠々とした憩いの場になっている……と思いきや、あまりにも鬱蒼としているので昼でも薄暗くて、ジョギングや目的地までの近道の他には通る人も少ない。

頭上を見上げれば林冠をすり抜けて春の青空が途切れ途切れに覗く。葉や名も知れぬ木の実がまばらに散らばる遊歩道の中を、二人は歩幅を合わせて少し遅めに歩いた。

「逍遥ね、これは。」

理央が言った。

「しょうよう?」

「ぶらぶら歩くこと。ほら、テツがいつも言ってること。」

「ああ、『考え事をするなら歩きながらがいいんだ』ってやつか?」

「そうそれ。」

二人は歩みを続けた。理央の結んだ後ろ髪が揺れる。理央は人気者だ。ただでさえ男女比が著しく偏った物理学科、その上顔も性格もいいから人気者なんだ。なにせ去年の「ミス啓倫」、他でもない、彼女だ。男子陣は近寄り難くてイマイチ距離を詰められないが、願わくば仲良くしたいし、それ以上を望む。彼女の方も他学部の学生と交わりがちだから、研究室、学科全体で見ても仲がいいのは与作と哲くらいだ。それもそのはず、三人は一年からの付き合いなのだから。人に話すのは憚られるような黒い話や愚痴も三人で呑むときは激しく飛び交う。もっとも、その手の話題は与作か理央が語り出すのだが。

「何かいい考え浮かんだ?」

不意に尋ねられた。

「えっ、俺が考えるんだったのか。……いや、お前のことしか考えてなかったわ。」

「は?」

鋭い目つきで理央が睨みつける。演技なのは分かるがそこまで嫌そうな反応しなくても。

「いやそういう趣旨だと思わなくてさ……。」

「いいから、それらしい話の一つでもしてよ。何でも聞くから。」

その口ぶりから彼女の求めんとするところを察した。

「超越さん」、その正体を何と心得るか。理央ならきっと興味深い答えを返してくれるはずだ。事実ここしばらくの間自分はこれに頭を悩ませていたのだから、相談するならこれがいい。だが、「特定防衛秘密」に関わることは口が裂けても言ってはいけない。だから、核心に触れることは一切伝えず、察してしまわれないように、それとなく話題にできたらいい。それは単なる雑談でしかない……はず。

「最近見たフィクションに出てきた話なんだけどさ……」

「アニメ?マンガ?あんたのことだから小説ってことはないでしょ?」

「小説、マンガ……まあともかく、ネットで読んだんだ。」

与作は「説明下手だけど許してな」と前置いた。「ふーん」と息を吐きながら答えて、理央は話に聞き入った。

「人間を遥かに超えた存在がいて、そいつは姿を現さないんだけど、現実世界に干渉するんだ。パッと物を生み出したり、まさしく魔法みたいにな。そいつの正体は、宇宙人とか超能力者とかそういう具体的なのじゃなくてさ、もっとこう、概念的、抽象的なんだ。『確かなことは何一つ言えないけど、いる』。原作じゃまだ正体分かんないんだけど、理央だったらそいつの正体何だと思う?」

「ようやくしっぽを見せたと思ったら、何その悩みは?」

「ん?」

「なんでもない。つまりは、それに答えてあげれば与作のつかえも取れるってわけね。なら、大いに答える。」

顎に手を当て「そうねえ……」と理央は考えて、それから当然の如く答えた。

「神様ね、それは。」

「神様?まさか、創作じゃあるまいし。」

「だからフィクションなんでしょ?」

「え、ああ、ごめん。そうだったわ。」

与作は自分がフィクションという体で話しているのを忘れていた。理央はいっそう不審の目で彼を見たが、すぐに視線を前に戻した。

「超越さん」は「神」。あっけない回答。しかしそう言われてしまうとストンと納得する。人為を超えて奇蹟を起こすなら、それは神だ。

「でも神といったっていろんなタイプがあるだろ。キリスト教、とか天照大神、とかさあ。」

「そうね。どんな神話にも、人を超えた絶対的な存在ってものが出てくる。捉え方も姿も様々だけど、とりあえずは日本語の中から最も適した言葉で、『カミ』って呼ぶことにしてるのよ。本当はいちいち現地の呼び方に倣った方がいいんだろうけどね。」

「なるほど。」

「とりあえず、『神』って呼ぶとどうしても宗教的な話になって面倒だから、別な呼び方にしよ。その作品では何て呼ばれてるの?」

答えられない。話を始める前に答えを考えておかなかった自分が悪い。

「決まった呼び名がないんだ、その、すごいのは。」

「じゃあ『すごいの』で。」

「本当にそれでいいのかよ?」

「いいんじゃない、ここで悩んでも仕方ないんだし。」

「超越さん」、今だけ「すごいの」だ。

頭の中で言うべきことを整理して積み木のように組み上げ、それが完了した理央はすっと息を吸い込んだ。

「最初の問題は『すごいの』に人格があるか、ね。どう思う?」

「超越さん」の人格か。アガタを生み出したことに何らかのねらいがあるならば、人格はあることになる。その一方で、そんなに不可思議な存在が人間的感情を備えているとも考えにくい。二つの考えを天秤にかけ、皿が落ち込んだ方を取り上げる。

「ある……今はとりあえず、そう思うよ。」

「そう。じゃあ世界の神話に出てくる神様と同じね。議論の前提として、『すごいの』は現世とは別の世界にいる存在と考えるべき。」

「別の世界?でも『すごいの』は現実世界に干渉してる。魔法みたいにものをポンと生み出すんだぞ。」

「現世と別に世界があるって考えるのはおかしい?」

「オカルトチックだ。」

理央は頭をあげて上の方を見た。まだ新しい葉の浅い緑色が視界のほとんどを占める。

「与作、人は死んだらどこに行く?生まれる前はどこにいる?」

「えっと、天国とか。肉体のない魂だけの状態でさ……。」

「天国ってどこにあるの?歩いて行ける?電車で何駅?」

「そういう次元の話じゃない。そもそも別の世界でさ……あ。」

口をつぐんだ。理央は首を戻す。

「もっかい訊くけど、現世と別に世界があるって考えるのはおかしい?」

「おかしくない……かも。」

「私もあんたも無神論者じゃないから、現世以外に世界があると考えるのはごく自然なことでしょ。なんでそう考えるのか。私は、みんなの心の奥には『現世は不安定で不完全だ』という認識があるからだと思う。だってそうでしょ、生きてりゃいいこともあるけど、悪いことがいっぱいあるから。だからこそそれとは逆の、『完全で永遠の世界』があると考える。悪いことなんかなくて、いいことだけの世界。」

淡々とした語り口は通りすがりの者でさえ聴き入ってしまいそうな静かな説得力があった。それを裏打つのは、この話が与作の話題を受けて即興に練ったものではなく、彼女自身の日頃からの信条に則った話だからだ。理央はこう続けた。

「不完全な現世に対して、完全で絶対的な世界。それを『イデア界』って呼ぶの。あり得るとしたら、『すごいの』はイデアの世界の住人であることよ。」

「イデア界?なんだその名前?」

「昔の人がそう名付けたからそう呼ぶの。前に教授が言ってたでしょ……」

覚えてないか、理央は頭を横に振った。それに合わせて後ろ髪も揺れる。

「分かったよ。でもそのイデア界っての、あまりイメージがつかないや。」

「今から説明する。物事には基準がある。現実の三角形はよく見るとどこか線が曲がってたり、頂点が丸まったりしていて正しい三角形ではない。でも私たちは『三角形』とは何であるかを知ってる。それはなぜか。イデア界には『完全な三角形』というものが確かに存在していて、私たちはそれを知っているから、現実の三角形を『不完全だけれども』三角形と認識することができる。小学校の算数で習う図形的な三角形の定義だって、イデアの三角形をもとに決められたものなの。同じように、すべてのものにはイデアが存在する。これは物体だけの話じゃなくて、『美』とかの概念についてもね。」

「イデア界には物事の『基準』が存在する。その『基準』を俺たちは認識することができるんだな?」

「そういうこと。合鍵とマスターキー、もしくはレプリカと実物の関係ってところかな。現世のものはすべて、イデアをもとに作られた模倣品でしかないのね。」

「ところで、人間の魂は生まれる前イデア界にあったのよ。今となってはその頃の記憶はないけど、深層心理はその時のことをきちんと覚えてる。だからこうして現世に生きていてもイデアを思い出すことができるし、ノスタルジックに浸って完全なものを愛し求めようとする心も生まれるの。本当はここから魂の在処とか、幸福とは何かを論ずることができるんだけど、そのことは今はちょっと置いとくね。」

理央は手で払いのける仕草をやってみせた。

「姿も見えない『ちょ……『すごいの』を、なんで知覚できるのかは分かった。それでさ、結局『すごいの』は何のイデアなんだ?」

「それね……」

ここへきて理央は少々悩んだ。与作はその横顔をちらりと覗き見る。

「『すごいの』には人格があるんじゃないかって言ったよね?」

「憶測だけどな。」

「その憶測通り、人らしい部分があって、ものを考える存在ならそれは――『人のイデア』そのものなんじゃないの。」

人のイデア。それが意味するところは、「超越さん」は人の完全な存在であるということ。人格的な部分にしろ、能力的な部分にせよ――不完全な現世の人間には到達できない――一つも欠けることのない絶対的な存在、それが「超越さん」。確かに超越している。

「でもそれちょっとおかしくねえか?完全で絶対的な人間は、魔法が使えるってことになるだろ。いくら何でもそれは飛躍してる。もしそんな人間がいたらな――」

――いや、いる。俺と一緒に住んでるじゃん。

アガタ、理央の理論で考えれば彼女は人間よりも『完全な』人間に近い存在だということになる。「超越さん」はそれを思って彼女を生み出したのだろうか?

「それについてなんだけど……」と理央は目だけを動かして斜め上の方を見ながら答えた。

「それは本当に魔法なの?」

「ん?」

「知っての通り、今の物理学は分からないことばっかり。人類の科学の常識では知り得ないから『魔法』なんて呼んでるだけで、それは本来ごく一般に起こし得る自然現象だったりしてね。そうだとしたら、人間が操ることもできるのかも。」

「そうか、そうかもなあ。」

与作は頭を掻いた。しばらく悩んでいたことを相談したらこんなにもあっさり答えを返してきた、理央の思慮深さにはやはり感服する。時々、どうして自分なんかが哲や理央と一緒にいられるのか不思議に思う。

「やっぱすごいなあ理央は。」

「ふふん、そうでしょ。」

「まったくです。」

お手上げという風に与作は両手を軽く挙げた。

「じゃあ……例えばの話だけど、俺が『すごいの』と意思疎通するとか、できると思う?」

「できない。」

余りの即答に少々面食らった与作に続けて言った。

「だってそれはフィクションだから!」

「ああ!そ、そうだったな!ちょっと深く考えすぎた!まったく……」

またも忘れていた。勘の良い理央のことだ、嘘をついてるのはもうバレバレかもしれない。それでも「特定防衛秘密」は知る由もないことだから大丈夫だ。与作一人が変な気分に浸っていたという理由で丸く収まる。

「なんか、今日は変な気分の日だ。この話は軽く受け流してくれよ。」

理央は「分かった」と短く答えて頷いた。

「大切なのはね、与作、深く考えないこと。あんまりややこしく考えたって、いいアイデアなんて出てこないんだから。」

「へいへい、分かってますよ。俺は理央やテツほど頭良くねえからな。」

「うん……ま、そういうことだ!」

話しているうちにかなり奥の方まで来てしまったので、引き返そうということになった。帰りは無言だった。理央は少し下を向いたまま歩いて、何かものを思っているようだ。

与作は思った。「超越さん」へと至る道は長い。その旅路に哲と理央もいたら心強いだろうこと。むしろ二人がいなければたどり着き得ぬ気さえするのだ。理由はそれだけじゃない。アガタ、孤独に飲まれていたあの子には、もっと仲間が必要だ。すべての事情を知ってなお、二人なら彼女を温かく迎える、その確信があった。

――でも、それはできない。

「ねえ、」

聴こえるか聴こえないかくらいの声、聴こえなかったらそれでもいいという思いで理央は声をかけた。

「ん?」

彼は返事をした。「気が向いたら、」理央はそう言って少し黙って、それからその言葉を重ねた。

「気が向いたらさ、その作品の話、教えてよ。」

「うん。」


同日、言附宅でお留守番をしているアガタは襲い来る暇に我慢の限界を迎えようとしていた。家にあるマンガもゲームも遊びつくした。大学の専門書にまで手を出しかけて、難解だったのでパタンと閉じた。昼時のワイドショーはつまらない。パソコンを借りてネットサーフィンしてもいいが、今は気分じゃない。堪えかねて花ちゃんに電話しようと思ったが、与作のスマホを除けばこの家には電話がないことにやっと気が付いた。

暇とは毒である。まったくなければ気が滅入ってしまうが、持て余したのでは知らぬうちに心身を蝕んで怠惰という名の病に罹る。そのことを知ったのは、駐屯地で無味乾燥した毎日を送った経験からだ。必要なものは用意してくれたが、すべて一人の時間を過ごすためのものだった。部屋の隅に控える女性隊員に声をかけたって、アガタのことを刺激しないよう細心の注意を払って緊張の目をぎょろりと向けるのだった。

きっと、このままでいたら、生きる理由も失ってしまう。

そんな退屈の霧が晴れるかと思って彼との生活を選んでみたものの、結局これでは場所を移しただけに他ならない。少しくらいはこの気持ちを汲み取ってくれてもいいのに。

畢竟、何が言いたいかといえば――与作に会いに行く。それには大義名分があるんだ、いいことなんだ、自分を説得する材料を用意していた。

アガタは合鍵を持って家を飛び出した。昼下がりの陽気が自らの心を励ます。ほらね、外はこんなに気持ちいいじゃん。

大学までの道のりは知らない。でも与作は徒歩か自転車で通ってるから遠くはない。迷子になったって少なくともこちらの動きを察して捕捉を続ける隊員に救難信号を発すればいい。しかし、アガタは絶対に迷わない方法を知っていた。

道行く人に尋ねて回る。

曲がり角ごとに手近な人に尋ねていけば、絶対に迷うはずはないのだ。便利なことに、年頃の女の子は誰に話しかけたって逃げられたり断られたりしないんだ。

長期戦を覚悟して挑んだ道行も三人ばかりに尋ねたらたどり着いてしまった。立派な木々に囲まれた広大な敷地。前に家出した時も見かけた記憶がある。大学だったんだ、これ。「啓倫大学」と旧字体で刻まれた大層な石彫りのモニュメントを横目に、出入りする学生たちに混じってアガタは構内に足を踏み入れた。

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愛田哲と名乗る学生は物腰柔らかく、穏やかそうな印象だった。

「与作の知り合い?」

「はい!そうです!アガタって言います!」

「はじめまして。与作にこんな知り合いがいたんだ。それに……。何年生ですか?」

アガタは戸惑った。正体を明かすわけにはいかない。だが学生だと偽る必要まではないだろう。

「ここの学生じゃないんです……。」

それを聞いて哲は眉を動かした。

「彼に会いに来たんですよね?うちの研究室に来るといいですよ。今はいないけど、すぐ戻ってくるはずだから。ついてきてください。」

歩き出そうとして、何かに気付いたように哲は立ち止まった。困った顔で振り向いて、ポケットを探ってスマホを取り出した。

「怪しい者じゃないよ。……ほら。」

そう言って彼はアガタにスマホを差し出し写真を見せた。それはいつか研究室で騒いでる時に撮った与作のふざける姿だった。アガタはそれを見て笑った。

「本当に与作の友達だから、大丈夫、ね?」

その様子に必死さが感じられたのでおかしくてまた笑ってしまった。

「アガタさんって、名前ですか?」

暫く無言のまま歩いてきて、建物の中に入ってから哲が尋ねた。

「はい。……あの、わたし、哲さんの年下なんでフツーに話してもらって大丈夫ですよ!ホント、フツーに!」

「そう?それじゃあ……て言っても元からこういう性格なんだけどね。」

エレベーターで上の階に上る。案内板をちらと見た限り、この建物は理工学部の研究室が集まっているらしい。初めて見る光景の連続にアガタはそわそわしていた。

廊下を進んだ途中の扉の前で哲が立ち止まった。「ここ」といって指さした部屋の表札には「阿手内研究室」と書かれていた。

「ちょっと変わった研究室。男ばっかりでごめんね。みんないいやつなんだけどさ。」

哲が扉を開けて中に入る。アガタもそのあとについた。

「ああテツ、戻ったか……」

学生の一人が気さくに声をかけようとして、固まる。何事かと顔を上げた他の学生たちも各々の姿勢で動かなくなる。研究室が静まり返った。

「は、はじめまして……。」

慣れない空気に緊張したアガタは上目遣いでその場の面々を見回した。

「与作の知り合いだってさ。会いに来たんだって。」

沈黙を破って哲が紹介する。途端に部屋中がざわめきだした。面々の疑問は「なぜ与作にこんな可憐な知り合いが?」ということだった。彼らを無視して哲は彼女をデスクに案内した。

「今、与作は外に出てるんだ。でももうすぐ帰ってくるはずだよ。あそこがあいつのデスク、そこで待ってて。僕はここにいるから何かあったら声かけてね。」

そう言って室長席に一番近いデスクに彼女を座らせた。座ったらすぐに気付いた、この椅子はほんのり彼の匂いがする、彼のベッドと同じ匂いが。

研究室はまたいつもの調子に戻った。だが先刻までとは違う、どこか落ち着きを失っている。皆が阿手内研究室に似つかわしくない少女の存在を気にかけつつ、何も言い出せずにいたのだ。

ガチャリ。

誰かがドアを開けた。

「やっほー、今戻ったよー。」

教授だった。

「ああなんだ、教授か。」皆が落胆したようにそんなことを口にした。

「えぇ。教授が戻ってきてがっかりする要素ある?もしかして僕嫌われてるの?」

「違いますよ、教授。」

「じゃあ何なの?」

そう言いかけて、教授もようやく与作の席に座った見慣れない影に気が付いた。

「おや?なになに?」

「あちらはね、この研究室の阿手内教授だよ。」

哲が手で教授を指し示して言った。

「どうも……。」

「教授、こちらは与作の知り合いのアガタさんです。彼が戻ってくるまでここにいてもいいですよね?」

「ああ、構わないよ。で、彼は?」

「きっと逍遥してますよ。」

「ああそう、それは大変結構だね。」

教授は自分の席に着いてそこからアガタを覗いた。

「アガタくん、何年生?所属は?」

「それが、ここの学生じゃないらしいですよ。」

哲が代わりに答えた。各々の作業に没頭するふりをして、皆話に聞き耳を立てていた。

「そっかそっか。じゃあいくつ?」

アガタは心の中で頭を抱えた。答えられない。初対面の人に怪しまれないためにはそろそろ自分で自分の年齢を決めてしまうのがいい。だが、勝手に決めてよいものか。それに、必要に応じて一つずつ自らの設定を付け加えていったところで、出来上がるのはつぎはぎの自分だけ。またほつれたらすぐに破けるような自分を作って意味があるの?

無難な答え、ないかなあ。そう思ってアガタは化粧品の広告で聞いた文句を思い出した。

「……いくつに見えますか?」

それを聞いた教授は額に手を当て、笑いながら大げさに困ってみせた。

「いやー参った。僕は能天気だからこの手の質問には迂闊に答えるなって家内に口酸っぱく言われてるんだよね。こう訊き返されちゃもうお手上げだね。」

なんだか自分が見当をつけているよりも更に幼く見られていそうだなとアガタは思った。

「そうだアガタくん、お饅頭食べる?お饅頭。こないだの学会のお土産。余ったんだけど、みんな憎たらしいから二個目はあげたくなかったんだよね。」

「ホント!?」

教授は引き出しを開けて、箱の中でわずかに残っていた饅頭の一個を取り出し、にこやかに彼女に差し出した。受け取った饅頭は一口サイズの茶色い薄皮で、てっぺんに何かの家紋の焼き印が押されている。

「いただきまーす!」

ビニールの包みをはがして満足そうに頬張る姿を眺めながら、教授はしきりに頷いた。

「ありがと、先生!」

「我が研究室の学生たちは皆研究に勤しんでいるからね、代わりに僕とお話ししよう。」

「すっかり教授に気に入られちゃったね。」

教授と向かい合って座るアガタの背中に哲が語りかけた。

食後のお茶を出して教授は再び席に着く。

「アガタくんは与作くんのご家族?お友達?ガールフレンドだったりする?」

同居してる、なんて言ったら変に思われちゃうよね。ここは遠慮して、

「えへへ、ガールフレンド。」

向こうのデスクからガタッと大きな音がする。ぎょっとしてそちらを向くアガタに「気にしないで」と哲がなだめる。

「そっかそっか、じゃあ僕には与り知らぬ世界の話だね。」

「先生には奥さんいないんですか?」

「いるよお。僕なんか到底敵わないのが。」

教授は両手で空中に爪を立てた。アガタはにこにこしてそれを見た。

二人の会話が途切れたのを見計らってか哲が声を漏らした。

「アガタさん、出し抜けに一つ訊いてもいい?」

「何ですか?」

「与作とはどう知り合ったの?」

「えっと……」

はじまりは何とも言い難いもので、答えに詰まった。すると哲は質問を変えた。

「いつ頃知り合ったの?」

「けっこう最近、です……。」

「そっか。もしかしてさ、ちょっとした事故がきっかけだったりしない?事故っていってもそんな大層なのじゃなくてさ、例えば……道の角でぶつかる、とかね。」

パソコンを起動していた教授が顔を上げて二人を見る。彼らの会話を除けば静かだった研究室が、より一層静まり返った。

「……まさかあ。それはちょっとロマンが過ぎるんですよ。」

「そりゃそうだよね、ごめんごめん。……ところが与作ときたらこの前そんな経験をしててさ、その時にぶつかった子の特徴が、君にそっくりなんだ。」

「えー。おっちょこちょいだなあ、与作。しかも別な子をわたしと見間違えたんですか?」

哲は笑いながら「いやいや、」と返した。

「あいつの名誉のために言っておくけど、見間違えたんじゃなくて、面影が似てたからつい連想しちゃっただけだと思うよ。つかぬことを訊いてごめんね。」

アガタは愛想笑いを浮かべながら、心の中でこの後に待ち構える花ちゃんのお説教に背筋を凍らせた。

完全にバレた。そういえば与作、友達にあの時のこと話したって言ってたじゃん。容姿に関する話題をどこまで口にしたかは分からない、けど、今のアガタはその時とまったく同じ身なりをしている。哲は頭の回転が速そうな人だが、そうでなくても気付くのが道理だ。アガタはもうこの場にはいられないと思った。後の言い訳は与作に任せて、自分は事態を悪化させる前に引き返した方がいい。ただでさえ勝手なことして怒られそうな身の上なのだから。

言うより早く立ち上がった。

「やっぱり、待ってられないから探しに行きます!」

教授が残念そうに声を上げる。

「えー、学生じゃないんでしょ?迷わない?大丈夫?哲くんが呼んであげればいいんじゃない?」

「本当はそうしたくなかったんですけどね……」

「なんで?彼を呼べない理由があるの?」

「『卓越性における友愛によって』ですかね。」

「ふむう……」と教授は腕を組む。

「分かるようで分かりかねるよ、その答え。」

「すみません教授。アガタさん、もう少しで帰って来るはずだから。」

「いいえ!大丈夫です!」

一刻も早くこの場を去るのだ。逃げ足には自信がある。

「よし……」

哲が立ち上がった。悪い予感がした。アガタはその顔をおそるおそる見上げた。

「じゃあ僕が一緒に行ってあげるよ。場所はだいたい分かってるんだ。可及的速やかに与作に会わないとね。」

研究室の者も皆彼を見上げていた。完全なる好意の笑顔を前に、アガタの眉尻はスローモーションで地を向くのみ。

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「なんというか、今回は災難だったね、言附くん。」

不器用な同情はかえって憐れみのように感じられる。

アパートの外階段は二人が並んで腰かけるのがちょうどくらいの幅だった。午後になって直射日光に晒された薄い鉄板は不愉快な温度を持っていた。

与作は隣に座る桐野を見上げた。大柄な彼は座高で比べても与作よりよっぽど高かった。閑静な住宅街で悪目立ちしないようにと制服の代わりに装ったスーツは、もう一サイズ大きくてもよいくらいだ。

「この家の周りには自衛官の方が常に目を光らせてるんじゃなかったんですか。」

明らかに不満のこもった調子で与作が尋ねた。

「そうなんだけど。話によればあの子ときたら行く道すがら歩行者に道を尋ねるものだから、連れ戻す余地は全くなかったそうだよ。さすがに男数人で女の子に声をかけるなんて、普通じゃないだろう?」

「普通じゃない、って言い出したらキリがないですよ。」

「そうだね。」

与作の皮肉に桐野は苦々しく微笑み返した。

アガタの突然の宣言にその場は凍り付いた。哲も理央も今まで見たことのないような顔で固まっていた。「話はあとで」、与作はそう言い残して逃げるように彼女を引きずってきたのだった。そして話を聞きつけ家の前に先回りしていた桐野に会った。アガタは挨拶もしないまま横を通り過ぎて部屋に閉じこもってしまった。今、彼女は部屋でご立腹だろう。与作はその空間に踏み入っていく決心がつかずに玄関先で桐野を相手に愚痴と弱音の入り混じった言を連ねていた。

「すごく漠然とした訊き方で申し訳ないけど、これからどうするつもり?」

「それはこっちが訊きたいくらいですよ。」

「友達と歩いているところを浮気と勘違いされたという話?」

与作は力なく頷いた。

「もうなんて説明すればいいか……。理央には迷惑かけられないし。」

「痴話喧嘩の相談は残念ながら俺の専門外だな。女性経験は見ての通りだからさ。」

言いながら桐野は肩をすくめる。

「やましいことはないんだから正直に話すのがいいんじゃない?」

「はい、分かってます。それ以外にやりようがないことも。でもそれが大変なんですよ。せめて五木さんがいてくれたら……。」

「それは間違いないね。でも君まであの人に頼っちゃ良くないよ。」

「俺まで?」

「俺たちは頼りっきりだからね。」

桐野は刈り揃えられた頭に手をやりながら答えた。

「知っての通り、俺たちのなかで一番アガタちゃんに信頼されてるのは五木さんだ。だからあの子に意思を伝える時はだいたいあの人に頼ってる。あの人もアガタちゃんの扱いにこなれているようだけど、実は違うんだよ。一通り叱った日のあと、あの人はいつも言ってる。これでよかったのか、もっと別な言い方があったかもしれないって。」

「そうなんですか?」

「五木さんがあの子の信頼を得ることができたのは、一人の少女としての彼女に向き合ったからで、そこが他の担当者とは違うところだと思う。最近では俺たちもそれに倣って接している。それでも、俺たちは自衛官だ。自衛官には任務がある。あの子を保護し、きちんとした監督の下に置くという任務が。いくら女の子としての彼女に向き合ったところで、それを完全に捨て去ることはできない。五木さんの中にある葛藤っていうのは、おそらくそこからくるものなんじゃないかな。」

これ本人の前で言わないでね、と桐野は念を押した。

「言附くん、五木さんがいればなあって言ったよな、それは違うと思う。」

与作は返事をする代わりに彼の方を向いた。

「今は君が一番あの子と心を通わせられると思う。それは、君には自衛官としての立場がないというだけじゃなく……、うまく言葉にはできないけれど、現にあの子は君に近付いていった。そこにはきっと特別な何かがあるはずだ。」

「そうですかね……。」

曖昧な返事をしながら与作は考え込んだ。

アガタの方から自分に近付いていった、それだけではない。自分の方からもアガタを求めていた気がする。出会いの頃にしたって、駐屯地での彼女の突拍子もない提案にしたって。あの時、自分は確かに「いいよ。」と言ったのだから。

「俺からはこれ以上何も言えない。言附くん次第だね。きっと、言葉を交わせば分かってくれるはずだよ。何てったって、あの子は君の『お嫁さん』だろ?」

「ちょっ、この期に及んでそんなことを……!」

ごめんごめんと桐野は言ったが、悪びれる様子はない。

軽く息を吐いて桐野は立ち上がった。日差しを遮るその背中は壁のように広い。

「そろそろ家に上がった方がいいんじゃないかな。時間は君に対して負に働く。」

与作はようやく重い腰を上げた。

「お友達に知られてしまったことは心配しなくていいよ。元はと言えば我々の対応が遅れたのが原因だから。だけどお友達に事情を尋ねられたときにどう答えるかは考えておいた方がいいね。確かその二人は前回の一件でアガタちゃんの背格好を知ってるんだっけ?すると状況はちょっと複雑だ……。」

「それについては、あんまり心配してませんよ。」

「そうなの?」

「あいつらは話せば分かってくれますから。」

「それは、秘密を明かすってことじゃないよな?」

「違います。」

自信のある口ぶりに納得した桐野はそれ以上尋ねなかった。「何かあれば連絡して」と言い残してその場を立ち去った。


心を通わせる。

桐野の言葉を頭の中で反芻した。

難しいことはない、話すべき言葉はもうできている。少し時間が経ってあっちも落ち着いた頃だろう。要点を簡潔に述べて、納得してもらったところで明日改めて謝りに行こうと誘う。これで丸く収まる。

与作は意を決して扉を開けた。玄関からはアガタの姿は見えなかった。与作は靴を脱いでいつになく丁寧に揃えてから上がった。

「ただいま。」

返事が聴こえない、状況は違えどそれ自体は珍しくないことだ。

彼はキッチンの横を通り過ぎた。アガタの昼ごはんの皿が流し台の底に残っている。毎度きれいに食べるものだ。部屋に入って一面を見回して、ベッドの布団が丸く膨らんでいるのが目に留まる。ふてくされて布団にくるまるなんて、古典的でかわいいじゃないかと与作は噴き出しそうになる。

ベッドのそばに膝をつき、そっと声をかけた。

「あのー、ただいま戻りました。」

返事はない。こんな言い方がしたかったのではないと与作は思い直した。

「今からちゃんと説明するから、聞いてくれないか。」

しばらくして布団から頭のてっぺんがにょきっと出てきた。思わず笑みがこぼれてしまったが、すぐに語り出した。

すべて順序立てて話した。大学の研究室という場所のこと。与作の所属する阿手内研究室とそのメンバーについて。大学一年来の気の置けない友人、愛田哲と赤明理央について。そして今日一日のことについて。一つに繋がった長い糸のような話だ。

「――そういうわけだから、今日はたまたま理央と一緒に歩いてただけ。それにさ、二人にはアガタのこと知られてたようなものだから、特に心配することないよ。桐野さんもそう言ってたし。怒られないってさ、俺たち。」

「良かったな」そう言いながら与作は布団から突き出した黒髪にそっと手を伸ばした。結び目に触れるか触れないかというところで、「そう」と返す声がした。素っ気なかった。与作は手を引っ込めてその後に続く言葉を待った。

「それだけ?」

「『それだけ』って、まさか信じてないのか?」

「本当にそれだけ?」

「本当だよ、ウソなんかついてないって。それでさ、明日……」

「分かったよ。」

アガタはむくりと起き上がった。そのままベッドの縁に座って与作を見下ろした。

「わたしはずっとここにいればいいんだよね。」

「なあ話は最後まで聞いてくれ。明日、もう一度あいつらに会おう。そこで改めて話そう。」

「やだ。」

今日一番はっきりした口調で答えた。

「そんな、なあ頼むよ。」

「いやなものはいやだよ。」

「ちょーっと会うだけでもいいからさ。そうだ、今晩はオムライスにしよう。それでここは一つ!」

アガタは微笑んだ。与作はしめしめと息をつこうとして、とどまった。それは大好物の名を聞いただけで飛び上がるような彼女にしては不自然だった。

「与作はいいよね。」

諦めと失望の淀んだ息を吐いて彼女は語り続ける。

「大学ってにぎやかで楽しそうなところだよね。哲さんは優しそうな人だし、研究室、っていうの?先生もみんなも面白そうだしさ。」

「教授にも会ったのか?」

「うん。おまんじゅうくれたよ。」

「そうか、はは、こないだの出張のお土産だな、それ……。」

アガタは「そうみたいだね」と呟いた。

「それからさ、理央って子、きれいだよね。スタイルよくて、おっぱいも大きいし、ちょっと、男の子に媚びた感じがさ。与作はさ、うん、あの子と仲良くすればいいんじゃない。」

「さすがにそれは失礼だろ。俺の友達だぞ。」

「ごめんごめん、大事な人のこと悪く言って。」

「おい、いい加減にしろよ。」

与作は立ち上がって逆に彼女を見下ろした。

「そもそもそっちが勝手に出歩いたからこうなったんだよ。その上俺の知り合いに会って話をややこしくするし。一人で外に出ないって決まりだっただろ!?文句言いたいのはこっちの方だよ!」

声を荒げた彼に張り合ってアガタも立ち上がる。

「ほら、やっぱりそう言うんだ!もういいよ、与作の大バカ!」

「この……!」

――いけない、冷静さを欠いている。自分を落ち着けるためにはとにかくこの場を離れよう。与作はトイレに駆け込もうとして、不意にキッチンの洗い物が目についてそちらへ方向転換をした。作業だ、無心で作業をする。あれだけ言ったのに食べ終わった皿に水を入れていない、些細なことにもふつふつと沸き上がる怒りを押し殺して、固く握りしめたスポンジで汚れをこすった。向こうではアガタがどかっと腰を下ろすのが聞こえた。

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与作は自分に縋るアガタを宥めた。突然のことで、先刻までの怒りは蝋燭の灯を吹き消したように、ほのかに後残る煙に似た余韻を残して消え失せた。

どんなに宥めても泣き止まない、ただ「ごめんなさい」と繰り返してぺたんと座り込んでいる。それを見て与作は申し訳なさが込み上げてきた。別にこうまでさせるつもりじゃなかったのに、そっちがその気なら少しくらい張り合ってやろう、それだけのつもりだったのに。完全な悪となった自分への後悔でいたたまれなかった。その直後に自衛官らが部屋に転がり込んできた理由は知る由もなかったが、彼にとっては部屋の様子を見てきょとんと立ち尽くす彼らもまた自分を責めにきたように感じられた。


翌日、午前の休憩時間にして大学中央の石畳の広場は三々五々の学生たちで賑わっている。

与作は後ろを振り返って見た。そこにはさっきまでとまったく同じ距離間隔で後ろをついてくるアガタがいた。アガタときたら今朝から言葉少なではっきり返事もしない。二人と会うことは承知したようなのでこうして連れて来たものの、決して与作の横を歩くことはなく、目を合わせず俯きがちで数歩後ろをぴったりつけてくる、まるでかげぼうしだった。昨夜のことを引きずっているのか、寝て起きたら不満が蒸し返してきたのか、与作には理由が分からなかった。

自衛官らは部屋の天井の隅にある放射線量測定器、『原子核再構成』検知器が作動したから突入したと語った。それとは裏腹に当の本人は大泣き、与作はおろおろの真っ最中だったから双方ともにしばらく混乱が続いた。差し迫った脅威がないということで彼らは報告をもってその場を後にしたが、誤作動だろうという与作の指摘だけは決して受け入れなかった。与作は涙を流せば鼻水も垂れるみたいに感極まったことによる『力漏れ』だと見当をつけた。実際、初めて会った時もぶつかって「驚いた」拍子に記憶装置が風に舞ったのだから。

彼は再び後ろを振り返ってかげぼうしに声をかけた。

「なあ、そろそろこっち来いよ。」

立ち止まって呼びつけるとアガタはそっと近付いてくる。首の角度だけは相変わらずだ。与作は「こっちだ」と指し示して広場の中心へ向かった。

広場の中心に人の背丈ほどの台座があって、その上に銅像が立っている。裸で天を仰ぐ少女が何の象徴なのかは知られていないが、憩いの場として人を集めている。今日も銅像のもとには学生たちが集っている。その中に哲と理央の姿を見とめて与作は声をかけた。彼に気付いて二人も微笑み返す。

「よ。調子はどう?」

「適当だな。」

哲はいつでも第一声はこう言う。それに与作が返す言葉も決まり文句である。

哲は次にアガタの方に向き直った。

「おはよう、アガタさん。」

「……おはようございます。」

まるで感情のない挨拶、続いて理央が「はじめまして」と声をかけても同じだった。

「どこか、場所を移そうか?」

「いやー、お前らがいいならこのままでもいいかなって。」

「そ、じゃここで。」

四人は広場の腰かけに座った。既に講義時間を告げるチャイムが鳴って、広場の人影はまばらだ。与作はそっと辺りを見回した。五木の話通りなら、今この時も自衛官がどこかでこちらを監視しているはずだ。それはこの視界に入る人の中にいるかもしれない。今からする会話も一部始終を聞いているはずだ。

「さてと……。紹介するよ、って言ってもテツはもう知ってるもんな。この子、アガタ。今俺の部屋に住んでる。」

次に与作はアガタの方を向いて語りかけた。

「昨日も話したけど、こいつら、同じ研究室のテツと理央。何だかんだ一年からの付き合いで……まあ……二人とも俺よりは頭いいよ。」

もう少し気の利いた説明でもできればよかったのだが、生憎アガタに二人を紹介する台詞は用意していなかった。

「改めてよろしく。」

先んじて哲が話しかけるとアガタは俯きがちなままそちらへ目をやって上目遣いで答えた。

「……よろしく、お願いします。」

理央は小さく「よろしく」と返した。理央は彼女の様子を見るに、まだ昨日のわだかまりが解けていないのだと思った。

「それでさ、昨日の件はこの子が俺んちから出て俺を探しに来た時にちょうどテツと会って、んでその頃俺と理央は外に出てて……というわけなんだな。アガタにもあの後ちゃんと話したよ。ああそうだ、言っておくけどこの子は俺の嫁とかじゃないからな?」

「当たり前でしょ。」

理央が呆れて言った。

「ていうか与作もさあ、そういう子がいるならそう言いなよ。そしたら私もそれ相応の配慮ってものをさ……」

「配慮?」

「だからその……ああもういい。」

察しの悪い与作に説明を諦めた理央を見て、哲が困ったように微笑んだ。

「話すって言っても事情がな……。お前らも多分気になってると思う。なんで一緒に住んでるのかってこととかさ。結論から言うとだな……」

「全部、話せない。」

アガタが顔を上げて彼を見た。

「これまた随分開き直ったのね。」

理央は眉一つ動かさないまま返した。「確認だけど、」と哲が問う。

「『話せない』ってのは『話したくない』ってのとは違うんだ?」

「そうだな。『話せない』。」

「……適当に話を作るよりはいいんじゃない?与作にしては。」

「はは、だって嘘ついたってお前らすぐ見破るじゃん。」

「与作の嘘が下手すぎんのよ。」

そんなにかよと彼は肩をすくめた。

全員が黙った。やっぱり流石に無理かな、と与作が思った時、沈黙を押し破って哲が言った。

「話せないものは、いつか話せたりする?」

例の誓約書を思い返す。制約の有効期限は、現時点では無期限。秘密を墓場まで持っていかなければならない、それは難しいことだ。

「分からない。言えるようになるかもしれないし、もしかしたらミスってポロッとこぼしちゃうかも。」

「それは良くないことなんじゃない?」

「その通りだな。」

「じゃあその時は耳を塞いでおくよ。」

「ありがたい、そうしてくれっと。」

「そうしなくてもあんたの口を塞いでやればいいのよ。」

「それもそうだな!……ホントは――」

俺も二人には話しておきたいんだけどな。

広場を歩く人はもうほとんどいなくなった。アガタはひらけた石畳の欠けたりひび割れたりしたところをあっちこっち目でなぞった。

「……ついでにも一つお願い。アガタのことさ、面倒見てやってくれないか?」

思いがけない提案にアガタは声を漏らした。

「なんせこの子はこっち来たばっかりだから俺以外に知り合いいないだろ?友達ってか頼れるヤツが俺の他にもいた方がいいと思うから。」

「私でよければ全然構わないけど……」

「僕もアガタさんともう少し話してみたいと思ってたんだよねー。なんだか面白い雰囲気がする。」

「アガタもそれでいいよな?」

与作がこちらを向いたので目が合った。アガタはたじろいで、弱々しく頷いた。

与作はどうしてそんなことを頼めるんだろう。身元不明の、しかも事情は『話せない』ようなアヤシイ相手と仲良くしてほしいなんて、正気じゃない。そんな状態で、むしろわたしの方が何を話せるというんだろう。

「分からないことがあるっていうのは、何も問題じゃないと思う。」

遠くを見つめながら哲が言った。アガタは心を読まれたような気がした。

「事情はどうあれ、相手のことを何一つ知らないっていうのは初対面なら当たり前のことだよ。アガタさんだって僕たちのことは全然知らないよね?理央の好きなもの、何だと思う?」

「なんで私なの。」

アガタは首を横に振った。

「ローソンのチーズケーキ。そのせいで外国人の店員に『チーズケーキのヒト』って覚えられちゃったんだよ。」

「ちょっと!」

理央は哲の肩をはたいた。与作が「あったなそれ」と笑う。

「えっと、わたしは、オムライスが好き……です。」

怒っていた理央は恥じらいながらそう告げるアガタを見てすぐに微笑んだ。

「いいね。私も好き。」

哲と理央はとっても優しい、アガタは思った。与作は難しい決断をしたんだ。アガタのことはできるかぎり秘匿しなければならない、それは彼も分かっている。それでも与作は二人にわたしを紹介した。半分バレちゃったからいっそ仲間に引き込もうっていう魂胆の開き直りではない、本当のこと何一つ言えないままでも二人なら理解してくれるから、それだけ信頼しているから話した。それもこれも全部わたしのため――わたしが一人にならないため。

出し抜けに理央が手を叩いた。「はいはい」とキレよく声を出す。

「こう言ったからにはね、与作、あんたが次にすることは、明日からアガタと一緒に大学に来ること!」

「え、マジ?」

「なにか渋る理由でもあんの?」

「一応部外者じゃん。大学に出入りするっていうのは……」

「いいんだよ啓倫大はその辺緩いから。」

「そりゃそうだけど研究室にも入るのか?教授だって……」

言いかけて、阿手内教授なら快諾しそうだなと思った。哲は「その点は心配ないよ」と言った。

「同室のみんなもむしろ気になってるだろうし、教授なんかもう気に入ったみたいだし。」

「ちょっと男くさくて嫌だけどね、研究室。あと教授がこぼすからコーヒー臭いし。でもそこは阿手内研究室女子筆頭の私が何とかするから、ね?」

「わたしはあそこ、好きです……。」

そうかあと言って与作は唸った。五木との交渉がうまくいくかを憂いていた。

「俺としてはお前らがちょくちょくうちに遊びに来てくれたらなあと思ってたんだけど。」

「それ!おかしいでしょ。」

「え。」

「生活に慣れない子を一日中家に置いてほったらかすなんて、一般常識に照らし合わせておかしいでしょ。正直今からでもこないだまでの与作をぶっ叩きたい気分だよ。だってそんなの、寂しいじゃない。」

「そうだよ!」

アガタは理央に我が意を汲まれて思わず語気を強めた。与作ははっとした。昨日は勝手なことをして、と憤っていたが、彼女を過度に縛り付けて世界を狭めていたのは自分だった。

与作は頭を下げた。

「ごめん。」

「……うん、いいよ。」

謝罪しながら与作はもう少し跳ね返りがあると踏んでいたので拍子抜けした。許しはどこか儚げだが、根に持っているというわけではなさそうだ。

「そうと決まれば今から行こう」と理央が立ち上がって、哲もそれに続いた。

「今日だって教授はいるし、きっと誰かならいるでしょ。」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺あいつらにはうまく言える自信ないぞ……。」

「二人の関係は親戚、ってことにしとけばいいんじゃない?」

哲が手を挙げた。

「ちょっとませたところがある従妹なんてかわいくてよくない?」

「テツ、それアニメっぽくない?私どうかと思うんだけど。」

「だからこそでしょ。うちの研究室の顔ぶれ考えてごらんよ。」

「言い返せない。」

与作は腕を組んで考える。

「確かにうちのやつらちょろいもんな。それで何とかなるかも。」

「よし、話も決まったし行ってみようか?」

「おう。」

立ち上がって、与作は振り向きざまに声をかけた。

「アガタ、どうする?」

「分かった。」

アガタは立ち上がり彼の隣を歩いた。

「んー、どうしても聞いておきたいことがあるんだけど……。」

「ん?」

「実際のところ二人は付き合ってるの?」

与作が何もない地面で躓いてつんのめった。

「そこだけはっきりさせときたいなー。」

「え、ちょ、それは……」

「あんた、早く答えた方がいいんじゃなーい。」

理央が白けた目で急かす。告白、したりされたわけじゃないしなー……。与作はアガタの様子を窺うことができなかった。

答えられずに詰まっている間に、四人のもとに一人の男が近付いていた。

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