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第2論 「微分絵」論 その2

雨宿作品の絵柄に迫る「微分絵」論、今回はその2です。

その1を読んでいない方は先にそちらをどうぞ。


最初にその1の内容をおさらいしましょう。

絵画の画風として僕は二つのタイプを提唱しました。

一つは「積分絵」、「二次元の絵画をあたかも三次元の現実世界のように見せる絵」、言い換えれば「リアルな絵」、それがこちら。もう一つは「微分絵」、「三次元の現実を二次元の絵画表現に落とし込んだ絵」、言い換えれば「絵らしい絵」、それがこちら。この相反する二つの画風の中でマンガはその中間をいくような作品形態をとります。ですが僕の作品はより「微分絵」に寄った世界観を目指しているとのことでした。

しかしながら「微分絵」の画風には独自の世界観があり、リアルさを追求した「積分絵」に比べて情景を読み取りにくい、という問題もある。これじゃあマンガは読みにくい。

というところまでご紹介しました。

その2では、その問題にどう取り組むのか?というテーマで実際の事例を見ていきながら雨宿の「微分絵」の世界をご紹介したいと思います。

何から何まで手前味噌な話ですが、どうぞ最後までお付き合いください。


おやくそくと解釈

ところで、前回の最後に「おやくそくと解釈」というキーワードをちょろっと出したのを覚えていますでしょうか?「微分絵」を紐解くカギはまさにこれです。じゃあ「おやくそくと解釈」って何でしょう?


「おやくそく」とひらがなで書かれれば、なんとなくそのニュアンスが分かるでしょう。創作の世界で「おやくそく」と言えば「現実ではありえないような創作特有の表現」のことです。

  • 登場人物がまとはずれな言動をした時に周りの人が頭からずっこける
  • 怒った時に雷が落ちる
  • 寝てるときに大きな鼻ちょうちんができて、割れると起きる

これらは「おやくそく」の典型例です。どれも我々にお馴染みの表現ですが、現実で見たことある人はいないですよね。ですから「おやくそく」を全く知らない人が見れば疑問に思うかもしれませんが、見知った我々からすれば「お決まりのアレね」で理解できます。

余談ですが、どうしてこういう「おやくそく」表現が生まれたのか考えてみると面白いかもしれません。今回挙げた例に関して僕の考察をこの記事の最後に書いておきました。


もう一つは「解釈」。こっちの説明はもっと簡単です。「作品中で明示(明言)されていない事柄について読者の理解によって補完する」、そういったイメージです。

簡単な例をご紹介します。

題1:山盛りのごちそうに舌鼓を打つシーンのあと、すべての料理が綺麗に平らげられたシーンに変わる

とあれば、これを見たほとんどすべての人はこう考えます。

解1:カットされた間にその人がごちそうを完食したのだろう

これは作品で明示されていない「ごちそうを食べた」という事柄を読者の皆さんが「解釈」したということです。なんだか作者と読者の間のゲームみたいですね。このような簡単な題であれば読者全員の解釈は一致します。それでは、次のような場合はどうでしょう。

題2:主人公が故郷を離れ遠くに転校することになった。見送る駅で幼馴染は旅立つ彼にだけ聞こえるように一言告げた。それを聞いた彼はにっこり笑った。

さてここでは「幼馴染は主人公に何と言ったのか?」が解釈の問題です。このような題では読者によって意見が分かれるでしょう。「必ずまた会おうね」「いつまでも親友だよ」とか、幼い頃から二人の間で交わされた合言葉とか、場合によっては「これは二人だけの言葉であり、読者が知る余地はなくていいのだ」と主張する人もいそうです(その解釈、好きだな~)。作品のその後で答えが明かされない限り、この問題は読者の解釈次第です。

おやくそくと解釈がどういうものか分かっていただけたでしょうか。ではそろそろ僕の作品の場合に移りましょう。


おやくそくと解釈の「微分絵」

前項までをお読みの方でこう思ったかもしれません。

おやくそくと解釈って、作品のストーリー上の効果じゃん。絵柄の話してるんじゃなかったの?

そうですその通りです。ここまで説明したおやくそくと解釈は作品の展開そのものに与える効果。ですが僕が使うおやくそくと解釈は、絵そのものに対して発揮されるのです。そしてそれこそが「微分絵」でもあるのです。

なにはともあれ、実例を見ないことには始まらない。


まず、『まがたび』第1話の30ページです。

長崎の大叔父さんの家へ旅立つことを決意した遊真が出発する朝です。

ここで使われている「微分絵」は一番右上の第一コマです。山から昇り光の尾を引く太陽、旭日です。これを見るだけでみなさんはシーンが切り替わり、時間帯が朝であることが分かります。でもなんで?

旭日は日本画でよく見られる表現で、昇る朝日を表します。それを知ってる多くの日本人はこれを見て夕日だとは思わない、朝日だと分かります。「微分絵」である日本画のおやくそく表現だから。

実はこの前のページが「沈む夕日を背に遊真が音羽に向かって決意を語るシーン」なんですよ。そこから一気にシーンが切り替わってここになる。だからリアルな朝日を描いちゃうと「まだ夕日のシーンが続いてるのかな?」って勘違いされる可能性があったんです。そこで「微分絵」を使ってシーンの切り替わりを印象付けました。

さらに言えば旭日は大漁旗にもデザインされる、おめでたいものの象徴ですから、これから先の遊真の旅路に幸あれ、といった願掛けも含んでいそうですね。


続いては『お嬢おか』第1話の2ページ。

作品の舞台である中辻市の光景です。

こちらは街の概観を描いた「鳥観図」とよばれる日本画の技法をお借りしたものです。建物にデフォルメが見られ、画面端にふにゃふにゃした白いものがありますね。これは雲です。錦絵や絵巻物で見られる技法で、部分的に隠すことで四角いキャンバスに動きを与えます。

これは街の風景を「微分」したものでもありますが、冒頭にこうしたおやくそく表現を入れて作品全体に和風なテイストを吹き込むねらいがあります。僕の作品は全般的に水墨画的な「和」を感じさせる成分が含まれていることはみなさんならもうお分かりのことでしょう。この作風をはじめに理解していただくためにもこのような鳥観図からはじまる第1話を描いたのです。これを見たあとであれば主人公の結子店長が度々古語表現を使うのもちょっと納得というか、しっくりくるところがありませんか?

同様の表現が随所で用いられています。これは『お嬢おか』第6話の1ページ目。

中辻商店街を描いたコマの構図、江戸の町を描いた浮世絵なんかで見たことありませんか?実際の商店街を撮影してもこれと同じ構図を再現することは無理です。なぜならこの絵は商店街という直線の街並みを「微分」して描いたものだからです。


今度はおやくそく表現ではないけれど解釈をねらったシーン、同じく『お嬢おか』第4話の7ページ。

第三コマと第四コマの、ベンチの後ろにあるくっきりとしたもやもやは何でしょう?

これだけ見たって分かりませんが、その前のコマをよく見てください。二人の奥にあるベンチ、その背後には垣根がありますね。そう、このもやもやは垣根をデフォルメして描いたものです。

このシーンで大事なのは二人が公園で会話してる、その事実なんですから、後ろの垣根とかはっきり言ってどーでもいいです。そういったもので不必要に画面を埋め尽くしては良くないから、垣根を「微分」しました。PCゲームの動作が重い時にグラフィックの品質を下げるのと一緒。それでも前のコマをちゃんと見ておけばこれが垣根だと解釈できるし、少なくともベンチの背後が何もないすっからかんでないことは分かる。

同様の例はこちら、『みさき』第3話のマンガ4ページ目。

与作を追って大学にやってきたアガタ、初めて見る大学はたくさんの学生が行き交っています。

はいここ、第三コマ、アガタの後ろのシルエットは何でしょう。形をよく見て。ここまで説明したからお分かりですね、人間です。

人の脳は不思議です。点が三つあるだけでそれを顔と認識して注意を向けてしまう、そういう生き物です(これをシミュラクラ現象と言います、テストに出ません)。だからモブの顔なんていちいち描いてたらそっちに気が散るんですよ。こっちはかわいいヒロインを描いてるんだからモブの顔なんか見てんじゃねえ。だけど、いろんな人がいるって言ってるそばから次のコマでモブが全員消えたらおかしいじゃないですか。ですから人間を究極の「微分」によってシルエットだけの存在にすることで「そこにいるけど注意は向かない」代物に仕上げました。ここまでの内容を解釈できれば、これが人だと分かります。


おわりに

おやくそくと解釈による「微分絵」を読みやすくするための工夫の実例をご紹介してきました。

これを書いていて一つ思ったことがあります。

「うっわコイツの絵めんどくせえ!」

……だからその1で申し上げたんですよ、「微分絵」は難しいって。その上でそれをちゃんと読めているのだから、みなさんは本当に素晴らしい。雨宿拾遺物語の読者は特別な訓練を受けています。その「おやくそくと解釈」力は誇っていいくらいです。


ここまで二回にわたって僕の絵柄「微分絵」について実例と共にご紹介しました。こうして偉そうに語っておきながら、僕もまだまだ表現の試行錯誤を続けているところであります。どうか今後とも気楽なクイズ感覚で「微分絵」の世界をお楽しみいただけたら幸いです。




「おやくそく」表現に関する考察

「話の腰が折れる」と「躓く」という動作が関連した模様。「ずっこける」自体はマンガ表現以前からある単語だが、「羽目を外す」等の意味であって少々異なっている。「転げる(こける)」に対して滑稽な意味合いを持たせた「ずっこける」があって、「足元がおぼつかなくなるほど飲んだり騒いだりする」という意味に繋がったのかな?

「雷が落ちる(意味:怒鳴りつけること)」という慣用句が先にありき。雷は急に大きな音がしてびっくりするから、怒鳴られた時に連想するのは想像に易い。

「割れたら起きる」は大きな音がして目が覚めることと風船が割れる様子を関連付けたものだろう。そもそも「鼻ちょうちん」はまず見ないが、子どもや猫にできやすい傾向がある模様(?)。安らかな寝顔とこうしたかわいいモチーフを関連付けたのか?