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第2論 「微分絵」論 その1

このシリーズではお久しぶりでございます。

連載記事「雨宿拾遺的『論』」では雨宿拾遺物語の筆者である僕が提唱する「論」についてつらつらと書き綴っていくシリーズです。

前回(第1論)ではオリジナルの作品形態である「絵草子」について簡単な説明を行いながらその難しさと楽しさについて論じました。

第2論でも自らの作品に関する「論」を行いたいと思います。題して、「微分絵」論です。またしても耳慣れない単語が出てまいりましたが、要するに僕の「絵柄」についてのお話です。


当然のことですが、この記事もすべては雨宿拾遺の自論ですから、みなさん自身の意見や一般論とはどうか切り離してお読みください。


「微分絵」とは?

ハイ、微分絵です。

微分絵って何でしょう。これは例によって僕が考えた言葉ですので、みなさんは知る由もないです。

微分絵の「微分」とは「微分・積分」の「微分」です。こう言うと高校数学の苦い経験を思い出させてしまうかもしれませんね、ごめんなさい。ともかく、「微分絵」とは「世界を『微分』した絵」という意味です。

これじゃますます理解しづらい。理解していただくには最初に数学の「微分・積分」とは何かというお話からする必要があります……が、

割愛します。

これについては立派な先生方が非常~に分かりやすい解説をしていらっしゃる本がたくさんありますので、そちらをご覧ください。

だって、説明しきれないんだもん!

そもそも積分の起源は古代ギリシアのアルキメデスの時代まで遡るし、微積分学を生み出した二人の大先生の活躍は17世紀なの!以来、微積分は人類の文明を前に推し進めた偉大な理論なの!そんなのを簡潔に!めっちゃ分かりやすく!解説することなんてできないんだよ!

それよりも大事なのは、その数学界における「微分・積分」を念頭に置いた、本論での「微分・積分」のニュアンスです。この記事では「微分・積分」をどういう意味で使っているのか。それは、

「積分」とは低次元のものを高次元に昇華させること、「微分」はその逆

です。これが数学の微積分学の理論と当たらずといえども遠からずであることが、微積分を学んだ方には分かっていただけるはずです。

この場合の「低次元」とは、「低俗、程度が低い」という意味ではなく、文字通りの意味です。


二次元の平面、三次元の立体


「俺、嫁がいるんだよね。」

「でも二次元じゃん(笑)」

「もう三次元の彼女なんか要らないよ。」


の「次元」です。(なんか意味違くない?)


それではこの「微分・積分」という考え方を踏まえて「微分絵」「積分絵」の話に入ります。

突然ですが、絵画って何次元ですか?

――はい、当然二次元です。ではこの現実は何次元でしょうか?

――物理学の細かい話は置いといて、当面は三次元ということにします。

このように絵画と現実の間には次元の差が存在します。だから、絵画に現実を映し出すことはできないのです。

ところがですよ、世の中には風景画、人物画、現実を写し取った絵画が存在します。なぜこれらが存在できるのでしょうか。それはきっとそれらを描いた人が「現実のように見える」技法を使ったからです。

消失点、陰影、ハイライト。

これら全部現実の光景に似せて描くために編み出された絵画の技法です。

「二次元の絵画をあたかも三次元『のように』見せる」、「世界を『積分』する」、それが「積分絵」。

遠近法を生み出したのはレオナルド・ダ・ヴィンチだと言われています。彼の代表作、『最後の晩餐』では遠近法の消失点がちょうど中央にいるイエスの頭のあたりに来るようにできています。このルネサンスの時代より遠近法は欧州絵画の基本となります。「積分絵」の誕生です。

「積分絵」を生む技は何も絵画の技術のみにとどまりません。21世紀日本のアニメ・マンガの世界で革命的な手法が編み出されます。

「聖地」です。

創作の舞台を現実に存在する街として、象徴的な建物や風景を背景に描き込む。こうすることで受け手は「この場所にあのキャラクターが……」という臨場感を得られ、その存在を肌で感じられるようになる(聖地巡礼)。これも「積分」でしょう。「積分」とは作品に「リアル」を与える重要な手段に他ならないのです。

ともかくも、ルネサンス以来今日に至るまで「積分絵」の手法は芸術の中心にあり続けました。


一方で「微分絵」はどうでしょう。「積分絵」の反対だから、三次元を二次元に変換する?こう言い換えられるでしょう。

「現実を絵画の世界に落とし込む」

それは「積分」の手法を使ったものではありません、描かれているのは「現実とは似ても似つかない現実」なのです。

理解しにくいでしょうか。でもこれってけっこう身近なものですよ。

例えば、平安時代の絵巻物。遠近法はないし、人はみんな同じ角度で描かれてるし、そもそも人の形おかしいでしょ。ちゃんとデッサンしたのかよ?と言いたくなります。無論、してません。

する必要がないからです。

絵を見てください、描かれているのは現実にあった出来事や人々(物語の挿絵だったりもするけどね)、でも全然リアルじゃない。それでも、絵画全体として統一感を持っています。画家が描きたかったのはその光景が「美しかった」という事実。だからこそ「美しかった」事実を表現するために世界を「微分」し、「微分絵」としてそのメッセージを残そうとした。

長らく東洋絵画の世界では「微分絵」の方が一般的でした。遠近法を使っていないからって、彼らの絵は未熟ですか?僕はそう思いません。

20世紀に入って「微分絵」の世界にまた新しい仲間が増えます。抽象画です。パブロ・ピカソの『ゲルニカ』、その絵は現実とは似ても似つかない世界ですが、描かれているのは悲惨な現実そのものです。


このように「積分絵」と「微分絵」は相反するものでありながら表裏一体の存在として現実を写し出してきました。


なぜ「微分絵」なのか?

僕が提唱する二つの絵画の形態については理解していただけたでしょうか。

そういえばこの記事のタイトルは何だったでしょうか。

「微分絵」論です。

僕はこれから自らの「微分絵」について論じていきます。それではなぜ僕が「積分絵」ではなく「微分絵」を選んだのか、気になるのはそこでしょう。


前述の通り、マンガの世界においても今のところは「積分絵」がほとんどすべてです。その理由も前述の通り、「積分絵」がリアルを与えてくれるからです。我々が生きているのがこの三次元の空間なのだから、できる限りそれに似せて描いた方が臨場感は出るでしょう。作品にワクワクドキドキを与えるのはいつだって、「それがリアルであるか?」だからです。

それじゃあ「微分絵」は完全になりを潜めているのかと言えば、そうではありません。SDキャラってありますね、スーパーデフォルメキャラ、ちびキャラとも言います。二頭身や三頭身のアレです。あのシーンだけキャラクターがあのサイズになってる、なんて考える人はいないでしょう(一部例外アリ)。「コミカル・かわいらしい」を前面に押し出すために本来我々と同じような体格のキャラクターを「微分」しているのです。

考えてみればマンガの世界では「積分」も「微分」も結構意のままなんですね。これは日本マンガの大きな特徴でもあります。とはいえ、あんまり「微分」に頼らずに余力がある時はしっかり世界を「積分」して描くべきです。その方がリアルだし、そうしないと

すっごく読みにくい。

例えばさぁ、雨宿拾遺って人の作品、「微分絵」で描くものだから、絶えず読者に対しておやくそくと解釈を要求するめっちゃ面倒なマンガなんよ。

失敬な。だけど言ってることは間違ってない。

微分絵は読みにくい。

現実をそのまま写し取った「積分絵」に比べて、現実を絵画に落とし込んで独自の世界観を作り上げる「微分絵」にはその世界のルールを知らないと読み取れない、という問題があります。仲間内でしか通じない暗号で会話してるようなものです。

そんな読みにくくしてまでなぜ僕は「微分絵」にこだわるのでしょうか?

その方が面白いからです。


「微分絵」の面白さ

どうして「微分絵」だと面白いのでしょうか。


第一に、マンガは白ければ白いほどいいです。もしくは、黒ければ黒いほどいいです。

まったく何言ってるんでしょうね。要するにこういうことです。

白がちなページは白い部分(余白)が多ければ多いほどいい、黒がちなページは黒い部分(塗りつぶし)が多ければ多いほどいい。

真っ白い壁にポツンと黒いしみがあったら嫌でも気になりますよね。ところがあれこれと柄の付いた壁紙で同じようにしみがあったってあんまり気になりません。このようにまったく同じものでも周囲の状況によって目立つか目立たないかは大きく左右されます。

ご存知の通りほとんどのマンガはモノクロで描かれます。そこで主題をどう強調するかは大きなテーマです。カラーなら色味や濃淡でいくらでも方法がありますが、そうはいかない。そこで役立つのが「白い壁の黒いしみ」の手法なのです。白ければ白いほどいいというのはこれが理由です。主題(多くの場合キャラクター)を目立たせたいがために、それ以外の部分はなるべく白か黒一色で押さえるべきなのです。毎回まっくろくろすけにするわけにもいかないので必然的に白くする場合が多いです。

画面を白くする、そのための手段が「微分絵」です。

こんな場面を想定しましょう。「二人の登場人物が昼時の繁華街を歩きながら会話をする」シーン、これを一般的な「積分絵」で描くとどうなるでしょうか。

まず二人のキャラクターを描きます。会話の内容に合わせて表情を変えます。そして繁華街にいるのですから周辺の店舗を描きますね。昼時ですから人も多いでしょう、道行く人々を描きます。何も持ってないのはおかしいですから買い物した袋とか、鞄とか描きます。

そうこうしているうちに、余白と呼べるものはほとんどない。


これがあんまり面白くないなあって思って。じゃあ今度は「微分絵」だとどうなるか。

最初のコマで二人が繁華街を歩いている光景を描きます。

おしまい。

あとはこのシーンが終わるまで会話する二人の表情と身振りだけを描けばよいのです。二人の奥にある店舗や人々は描かない。

え、じゃあ街の喧騒は消えてしまったのか?――そんなことはない。最初のコマで読者は二人が繁華街を歩いていることを知っていますから、その余白には本当は街の喧騒があって、描かれていないだけだってことを知っています。

ないものが、そこにある。

不思議ですね。たくさんの情報がある現実の世界を「微分」したことで二人だけの空間が出来上がる、なんとも不思議な世界、それが「微分絵」です。

なんだか面白くなってきませんか?


「微分絵」マンガはあんまり普及してません。余白ばっかり作ってるとこう言われるからです。

手抜きじゃん。


そうだよ。

ぶっちゃけ「微分絵」は手抜きです。そりゃそうだよ、そこにあるものを描いてないんだから。それでも先ほど述べた通り本来マンガは「積分」も「微分」も通用しうる世界ですから、「微分絵」の手法だって多くの作品で上手く作用するはずなんです。

パッと思いつく例外はホラーとミステリーくらいです。前者は不気味な世界観を保つため、絶えず背景や演出を描き込み続ける必要がある。後者は背景の中に謎解きのヒントをさりげなく混ぜ込みたいので、敢えて必要ない部分も描き込む必要があります。こうした作品と「微分絵」は相性がいいとは言えませんね。



ここまでの内容で「微分絵」「積分絵」と僕が「微分絵」を推す理由がお分かりいただけたと思います。

しかして、「微分絵」には大きな問題が一つありました。「読みにくい」ことです。

先ほどの繁華街のシーンにしても、「背景の喧騒は省かれている」「余白には何もないけどそこにはお店と通行人がある」という書き手と読み手の共通の認識を前提としていました。前にチラッと出てきた「おやくそくと解釈」とはこのことです。筆者と読者のプロトコル、とも言い換えられます。これが必要だからこそ、「『微分絵』は読みにくい」のです。

マンガはスムーズに読みたい、「微分絵」は読みにくい、このジレンマを解消せねば「微分絵」マンガなどありえません。

雨宿拾遺はこの問題にどう取り組むのでしょうか。


ところで、この記事のタイトルに「その1」と書いてあるのを知ってましたか?そうです。今回はここまで。

続くその2では僕の作品における実際の手法を見ながら「微分絵」マンガをどう描き上げていくかを論じます。

キーワードはやはり、「おやくそくと解釈」。

次回をお楽しみに。


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