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EX7-1

はじまりは、いつも丘。

平野が一望できる高い丘、遥か遠くには山の稜線が青空をギザギザに切り取って、そこを境にして下半分は夏のテラレジア特有の黄緑色の平原。丘の足元は崖になっていて、そこは広い川の合流地点になっている。そのほとりに広がっているのが、小さな街。

……小さな、街?

そうだ、眼下に小さな街が見える。赤茶の瓦屋根に、家々の煙突からは煙が立ち昇る。この辺りではまだ薪ストーブが使われているんだ、随分な田舎なんだな。

一体ここはどこだ。見覚えがあるようで全くない。山の稜線も、あの広い川も、ここから見える景色は確かに見覚えがあるのだけれど、こんな場所を訪れた記憶は全くない。

いいや、分かっている、分かってはいるんだ。これはアイツが見せるやさしい夢の中で、真実の世界ではないと。僕はまだ、アイツのクソみたいな茶番に付き合わされている。だからこそ困惑しているのだ。アイツはこれまで一度だって、僕を知らない場所へ連れて行ったことは無い。時代や身分が滅茶苦茶になったふざけたパロディは何度もあったけど、そこは首府だったり、知っている街だったりして、とにかく、知らない場所は絶対にあり得なかった。だがこんな場所は、僕の記憶にはない。忘れているんじゃなくて、ないんだ。

――はじまりは、いつも丘。

待てよ、その言葉が正しいとしたら?はじまりは、いつも丘、夢のはじまりはいつも丘なのだ。それは変わっていないのでは?だから、僕が今立っている、この丘は……。

「よ、『旦那』。」

フェルドに肩を叩かれた。フェルドはすぐ隣に立って、同じ景色を見下ろした。

「領主自ら見張り番とは精が出ますなあ。もしくは、ただのサボり?」

「……言えたことかよ。」

なるほど、分かってしまえばあっけない。見慣れない紅いローブを羽織ったコイツの姿を見て確信した。これも悪辣なパロディだ。アイツは時々、余興に突拍子もない世界をブチ込んでくるのだ。今回もそれだ。

「夢を見てたんだ。」

「どんなの?」

「こことはずっと別の世界で、そこにはフェルド、お前もいて、我々は悪いヤツらをブチのめすために派手なことをしてた。」

「それ、現実とだいたい同じじゃねえの。」

「ハハ、そうかも。かなり長いことその夢を見ていたせいで、この世界のこと、少し忘れちまったよ。ええと、ここはどこだったかな。」

「お前、バカじゃねえの?」フェルドは軽く毒づいた。「ここがお前の郷だろ。」

郷……そうか。身に覚えがないけど、ここが僕の国なんだ。

草むらに寝転がって「この世界の」フェルドといくらか会話をしておおよその情報は掴めた。いくらかは自分の推測だが、間違ってはいないだろう。

ここはテラレジア王国建国以前の時代だ。西ローマ帝国崩壊後の、西暦五〇〇年よりちょっと前ってところだろう。そしてここは首府があるはずの場所。この景色に見覚えがあるのは当然だ、今寝転がっている丘に、未来では王城がそびえているのだから。

フェルドの話と僕が持つ『テラレジア・クロニコ』の記述の記憶を辿れば、もう少し事情が掴める。建国以前からテラレジア家はこの一帯の有力な領主として人々をまとめていた。かつて地域を支配した西ローマ帝国が衰退したことで、この辺りは諸侯による小競り合いが起きるようになった。しばしば遠方からの蛮族の侵入も受けている、つまり現代に比べちゃハードな世界ってこと。そして自分こそが、テラレジア家の当主らしい。前の主人夫婦が亡くなり、僕がこの地位を継いで凡そ一年、あまり真面目に領主の役割を果たしていたわけではないらしいが、それでもこの地は平和にやってこられたみたいだ。フェルドは昔馴染み。一応、領主の側近の役には就いているらしいが、これじゃ一緒にサボるだけの悪友だ。

まったく、突拍子もない。いつ何時も王政復古を目指していたが、こんな形でそれらしい地位を手に入れることになろうとは。いくらなんでもこの設定は無理がある。だいたいが建国以前のテラレジアなんて、アイツも知らない世界だ。やさしい夢はアイツの認識の中でしか作れないから、アイツも知らないことはデタラメで再現することになる。こんな世界はすぐにどこかでボロが出るんだ。そうでなくても、こんなところさっさと……。

襟元で握った手が空を掴んだ。……無い。

そりゃ、『ない』に決まってる。王家の三宝の中で王珠は最も古い歴史を持つが、それも建国後、ずっと後の時代になって初めて生み出されるものだ。この時代には王珠なんてあるはずがない、当たり前だ。

王珠がない。じゃあ……どうすればいい?

――この現実は、抜け出せない。

……いや落ち着け、正確には全くないというわけではない。僕が「この時代に王珠はない」ことを知ってしまっているから、そう認識してしまっているから、ここには王珠がないだけの話だ。完全に消え失せてしまったのとは違うんだ。だからといって、「ない」ものをどうして「ある」と認識できようか?全部の記憶をすっからかんにしない限り「ある」と認識することはできない。

自殺するか?僕が死にそうになればアイツはこの現実をやめにするはずだ。いいや、リスクが大きい。仮に自殺に成功してしまうと僕は文字通り死ぬ。それに自分はさっさと命を投げうてるほど人生に諦めをつけちゃいないんだよ。

今はまだ、この世界に留まった方がいい。

「おい、大丈夫か?」

フェルドが身体を起こしてこちらを覗き込んだ。

「ああ、平気。」

……方法は後々考えよう。

その時、丘の向こうから僕たちを呼ぶ声がした。

「アークさーん!フェルドさーん!」

カノンだ。当たり前だ、どんな世界でもフェルドとカノンとエリセアは必ずいる。アイツがそうしてるからだ。

カノンは息を切らしながら現れた。王城に上がるシャトルバスが無い時代に、ここまで登ってくるのは相当な苦労だろう。カノンの栗毛の髪はいつもより長く、この時代らしい、足元まである長い布を腰に巻いている。こうして見るとお母さんにそっくりなんだ。でも顔立ちはあの人にも似てる。

「やっと……着いた……」

「おうおうお疲れさん、とりあえず休めや。」

フェルドが言い切る前に、カノンはその場に崩れ落ちた。慌てて抱え起こすと、真っ赤な顔で「すみません」とかすれ気味に呟いた。

カノンはしばらく横になっていたらすぐに調子を取り戻した。「本物」より体力がありそうだな。

「アークさん、まーたお勤めサボって。フェルドさんも。二人とも戻ったらガリバンさんのお説教が待ってます。」

「ガリバン?あの親爺ここでも生きてんのか。」

「ひどい!こないだのはただのギックリ腰で、まだバリバリ現役ですよ!『ろくでなし共をまともにするまではくたばらない』って言ってるでしょ。」

親爺め、ここじゃ教育係か何かか?

「残念ですが俺たちはまともにゃなりませんって言っとけ。そういうカノンも、コイツのことを『アークさん』て呼んでると大目玉食らうぜ。」

フェルドは横に手を伸ばしてこっちの肩をバシバシ叩いた。

「だってえ、昔から呼び慣れてるし……それを言うならフェルドさんも。」

「俺はいいの、俺は。」

「今さら呼び方にこだわるなよ。余はアーク・テラレジアだ。これまでも、これからも。」

「そうですよね!やっぱり!アークさんはアークさんで、エリセアさんはエリセアさん!」

ふむ、エリセアもどこかにいるか。この時代にテラレジア清教は無いし、何か別の立場に代わっているはずだ。

「まったく、」フェルドは頭の後ろで手を組んだ。「将軍の娘が聞いて呆れるね。」

「むう。」

「将軍の、娘……?」

僕は起き上がった。上体をひねって二人の方を向く。

「カリスか!?カリスが、いるのか!?」

二人は虫が入りそうなくらいだらしなく口を開けてぽかんとしている。

「カリスなんだな!?」

「うそお前、それも忘れたの?」

「う、うん……わたしの、お父さん。」

聞くや否や、僕は駆け出していた。転がるように丘を降りてゆく。風を切って走る。後ろからは二人分の足音が聴こえてくる。二人は僕に向かって叫んだ。

「どうしたんだよ!」

「『忘れた』ってどういうことですか!?ちょっと……待って!」

二人には悪いが、もう無我夢中だった。丘を下り終わって木立を抜けると、市街が見えてきた。

道端の百姓が声を掛けてくるのも振り切る。カリス、カリス・ライカ。カノンの父親、僕の命の恩人。僕に生きる理由を見つけさせてくれた人。

市街の道なんて知らない。ただ、その辺を歩いていた兵隊らしいヤツにカリスの名前を叫んだ。そうして彼らが指さしてくれた方へ、僕は走った。もう疲れなんか感じない。

兵隊がたくさん歩いている、木の塀に囲まれたここが兵舎らしい。兵たちは僕を見ると一斉に畏まる。思ったよりずっとかすれた声で「カリスは……?」と問いかけたら、その中の一人が呼びに行ってくれた。それが永遠の時みたいに感じられた。後ろではやっと追いついたらしいフェルドとカノンが広場の真ん中に座り込んでしまっていた。

奥の建物から男が出てきた。僕はその顔を知っている。もう一度その顔を見たいと、どれだけ願ったことか――。

「おいでなすったな、閣下。またサボりかい?」

「ずっと、会いたかった……。」

きっとその時、僕の顔は汗だくだった。それだけじゃない、慣れない靴で、道中で何度も転んだから、泥まみれだったんだ。だからきっと……この涙はバレなかったはずだ。

僕の様子が尋常ではないので、辺りは少々殺気立っていた。僕が這う這うの体で緊急事態ではないことを告げると、それでやっと落ち着いたようだった。そりゃあ領主が死にそうな顔で走り込んで来たら、そうなるだろう。残りの事情はフェルドとカノンが話してくれた。

「そうかいそうかい、つまりなんだ、今日の閣下は少しおセンチってわけか。」

「まあ、そういうわけっすよ。」フェルドは笑った。

僕はカリスの腰に提げられた剣に目をやった。こんな骨董品、博物館でもそうそうお目にかかれない。

「アンタに剣は似合わないな。カメラが一番似合ってるよ。」

「カメ……?甲冑のことか?」

ここに立っているのは、こうして喋っているのは、カリスでしかない。だけどこれは、真実じゃない。本当のカリスは、もう二度と僕に笑いかけてくれやしないんだ。

広場での騒ぎを聞きつけて、炊事場から女性が現れた。

「どうしたんだい一体。」

「ああ、お母さん!」カノンが言った。

誰にも顔を見られないように俯いていた僕は、顔を上げた。オルセーネ・ライカ、カノンのお母さん。格好は見慣れないが、彼女と同じ色の髪が間違いなかった。

「主人様、何事ですか。」

「お母さん……。」

「もうその呼び方はやめてください、あたしも『あるじさま』と呼ぶのですから。」

「いいだろオルセーネ」カリスは妻に笑いかけた。「今日の閣下はおセンチなんだってさ。」

「こら!あなたはそうやっていつまでも主人様を子供扱いして。……カノン!あーたまた何かやったね。」

「ちょっと!無実よ、何もやってないってば!」

僕は頭を抱えた。……クソ、残酷だ。あんまりだよ、こんなのは。自分からこんなものを作り出して、お前だって苦しいだけだろ?

聞くところによればオルセーネさんは僕が幼い頃の養育係で、結婚してからはカリス共々「めのと」だったということだ。つまり、二人の子供であるカノンは僕にとって妹に等しい存在。どんな悪夢よりひどい話だ、これは。だが、嬉しかった。もしあの頃、カリスだけでなくライカ一家に会っていたとしたら、この人たちが本当の家族だったら良かったのにって、絶対にそう思ったろうから。

お母さん……オルセーネさんはすっ転んだ傷の手当てをしてくれた。冷静に考えたら薬も抗生物質もないこの時代でケガをするのはかなり危険だ。次からは気を付けないと。飲み物を貰ってすっかり落ち着いた。それからゆっくりと事情を語ることができた。全部その場で考えたウソだけど。多少強引な説明ながらも納得してもらえたのは、自分が普段からどれだけろくでもないヤツかってことを端的に表している。

「主人様、」オルセーネさんはおかわりを差し出してくれた。「しっかりしてくださいまし。もうすぐあなた様の生誕祭だって、街の皆は意気込んでいるんですから。」

「ああ、もう大丈夫。フェルド、カノン、いきなり走り出して悪かった。」

「大丈夫ですアークさん、なんとか生きてます。」

「俺はお前の速さに驚いたぜ。」

「こら!あーたたち!」

オルセーネさんに叱られて、二人は苦笑いして「主人様」と言い直した。カリスはそれを見て笑った。

「閣下よお、領主になって一年ばかし、まだ慣れないことも多いと思う。だが安心しなよ、閣下の身の回りに居る者は優秀ですぜ。西の地域はちょいとキナ臭いが、それは何とかなるさ。政治の方だって、ハゲの旦那が上手くやってる。」

「ハゲの旦那?……まさか編集長?」

「編集……長?」カノンは首を傾げた。

「もみあげが立派で、ちょいと太ってて、いつも額に汗が滲んでる。」

「あはは、確かに!」

やっぱりな。趣味の悪いパロディなら出演はとことん知り合いで固めるはずだ。それにしてもあの親父が宰相かよ。いいさ、仕事はできるだろうからな。

こんな茶番に意味なんかないはずなのに、僕はここを離れることができなかった。カリスやオルセーネさんとはもっと話していたかったし、この家族を見ていたかった。そういう浅ましい思いが僕の中に存在していた。

僕たちが屋根のある休憩所で休んでいると、また新しい二人組がやってきてフェルドの名を呼んだ。

「やっと見つけたわ、フェルド。……ああ、主人様、ご挨拶が遅れました。」僕たちと同い年くらいの、黒髪の女が礼をした。誰だろう、この人は知らない。

「今しがた主人様とフェルドたちが街を駆け抜けていったと聞いて、何事かと思いまして。」これまた同い年くらいの金髪の男が答えた。

「おうお前ら。何でもねえよ、主人様と『かけっこ』しただけ。」

フェルドはうししと笑った。それで僕はやっと思い出したんだ。

フェルドから聞いたことがある、故郷に居た頃の話と、そこでの親友の話、そして彼らが最後にどうなったか――。外見の特徴と、こうして仲睦まじく話している姿、何より僕は彼らを「知らない」ということが一番の手がかりだ。間違いない。

「フェルド、この人たちは……」

「おいおい、俺のダチまで忘れたとは言わせねえぞ。」

そうじゃない。ダメだ、ダメなんだよ。

「アークさん?大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃ、ないかも。」

いくら茶番だからって、流石にひどすぎる。いよいよもってアイツが許せない。憎いとすら思える。マジに最低だよ。

「アークさん……やっぱり何かあったんですよね。」カノンは隣に寄り添って僕の背中に手を置いた。「そんな顔、初めてですよ。」

「いいや、」無理に明るくした。「冗談だよ、平気だから心配するな。本当だ。」

フェルドは僕をよそに立ち上がって二人と話していた。

「そういえば」金髪の彼が言う。「さっき向こうでロディヤさんが探してたよ。『あたしのフェルド様はどこですの』って。」

「ゲ、マジかよ。あいつに捕まると厄介なんだよな……。」

ロディヤ……確かオーダーの暗殺者の女。もう何が起きても驚くまい……そりゃそうだよな、テラレジア王国がなきゃオーダーもあるはずがない。ここでは普通の女性だ……ちょっとばかし愛が重いだけの。

「悪い、俺もう行くわ。あいつが探しに来たら適当にウソついてくれ、な。」フェルドは周囲を警戒しながら早足で歩きだした。「それじゃアーク、またな!」

「ああフェルドさん!待って!」

追いかけようとするカノンをオルセーネさんが首根っこ掴んで引き留めた。

「あーたはここで手伝いなさい。」

「うへえ。」

「『うへえ』じゃないこの堕落娘。」

カノンはまもなく抵抗を諦めて大人しくなったようだった。

フェルドがいなくなってしまってから、彼の親友は僕の元へ歩み寄った。

「主人様、」黒髪の彼女が言う。「妹の様子は如何ですか。あの子、ちゃんとやっていますでしょうか。」

妹……。そういえば、フェルドの親友の女の子はメノブロードという家の者で、エリセアの実姉だったはずだ。そう思って見てみれば、雰囲気が似ている。性格は全然だけど。

「君は会っていないのか。」

「あの子ったら『自分は家を出て嫁いだ身だから』って変なところ強情で、親にも顔を見せないんです。せっかく主人様がいつでも生家に顔を出せるようにと計らってくださったのに。」

「と、嫁ぎ……え……?」混乱して呂律も回らない。

「あの子、性格は相変わらずですよね。」金髪の彼は苦々しく笑う。

「それでも本当は主人様のこと、お慕い申し上げているんですよ。ホントのホントです。」

隣で聞いていたカリスがガハハと笑った。

「領主様も女房には敵わないか!尻に敷かれ……いたっ!」

カリスはオルセーネさんに肘で小突かれた。この二人って見かけによらずかかあ天下だったのか?僕は知らないことだ。

それよりも。

「エリセア……アイツ今どこだ?」

「エリセアさん……じゃなかった」カノンはオルセーネさんを横目で見て言い直した。「奥方様ならいつも通り主人様のお館ですよ。」

「奥方……様……。そうか。余は家に戻る。」

「お気を付けて、主人様。」

僕は立ち上がった。世話をしてくれたオルセーネさんに礼を言う。

「閣下、」カリスは微笑んだ。「無理しなさんな。閣下の代わりは誰にも務まりませんぜ。」

「ああ、分かっているよ。」

大切な人たちを置いて、僕は歩き出した。


全速力で駆けていたさっきは気付かなかったけれど、領主というのは不思議な感覚だ。道行く人の誰もが僕に対して畏まる。太陽通りを歩いていてもこんなことはなかったのにな。せいぜい、面白い物好きの市民に「お前、例の王様だろ」って絡まれるくらい。ここでは何もかも違う。

自宅の場所も分からないとなるといよいよ危ないヤツになるのでそれを尋ねるのだけは避けたかったが、流石は領主の館、大通りのつきあたりにあって、これでもかってくらいあからさまだ。塀で囲まれた二階建ての広い建物で、庭付き。そういえばこの家だけは丘の上から見た時も目立っていたっけ。近付いたら門番がすぐに気付いてくれた。出迎えてくれた使用人に「エリセアはどこだ」と尋ねると、「お部屋でおくつろぎでしょう」とのこと。その部屋がどこかは知らないが、どうせここは自分の家なのだ、隅から隅まで物色したって問題はあるまいよ。

エリセアの部屋は二階の奥らしいと分かった。いよいよって段になって僕の足は止まってしまった。心配することはない。どんな現実であれ、僕たちの姿は服装や髪型が変わるくらいのもので、それ以外はまったく変わらない。アイツは僕たちを完璧に知り尽くしているから。だから、この扉の向こうにいるのはいつものエリセアと変わらない。違うのは立場だけ、そう、立場だけなんだ。

この扉の向こうに、誰もいなければいいな。僕は心のどこかでそんな希望を抱きながら、勢いよく扉を開けた。

果たして、エリセアはそこにいた。トラックの荷台ほどに広いベッドがあって、そこに髪を下ろしたアイツが座っていた。白くてひらひらした服が大西洋のクラゲを思わせる。

「おかえりなさい、あなた。」

淡白ないつもの調子で「あなた」ってのも、いつも呼ばれているのと一緒だ。だけど、クソッ、今回ばかりはニュアンスが違う。

「また街の外に行ってたんでしょう、あの人も一緒に。あと、きっとカノンさんも。遊んでばかりではだらしがない、あまりみなさんに迷惑を掛けては……」

気が付けばエリセアの胸に飛び込んで、そのまま押し倒していた。彼女の体温と、においと、あといろいろを感じていた。

エリセアは急に黙り込んだ。僕の様子が普通でないってすぐに見抜いたのだ。

「どれだけ待ちわびたことか……。ずっと、こうなりたかった。お前のことが、好きなんだ。」

「わたくしも、ですよ。」

アイツは僕の背中に腕を回した。

エリセアはかのメノブロード家の次女。一年前に僕が当主になった折に結婚して僕の妻になった。どういう経緯で結婚が決まったのか、それ以前の関係はどうだったのかとか、いろいろと知りたいことはあったが、訊けなかった。だって恥ずかしいし。

エリセアは枕もとに座っている。僕はその膝に頭を乗せて、仰向けで天井をぼんやり眺めた。こんな気持ちのいい枕は世界でここにしかない。

「卑怯だよな、まったく。」

「何が。」

エリセアは僕の頭にそっと触れた。

「本当のお前は尼だから、こんなことはさせられない。だから、そうじゃないところで、ここぞとばかりにお楽しみ……なんてさ。」

「尼……?」

「いいや、こっちの話だ。気にするな。」

ここにいるのはアイツであって、アイツじゃないってことだ。

「いいじゃないの、卑怯でも。それを言うなら、わたくしはいつでも本心を隠して、そのくせほしいものだけはきっちり手に入れている、卑怯者ですよ。」

「構うもんか。それに……お前の本心はいつだってダダ漏れだぞ。」

エリセアはぎゅっと鼻をつまんできた。不意打ちを食らったので、ふがっと間抜けな声が出た。それでアイツはにやりと笑った。

「厳しいな、今回ばかりは。」僕は呟いた。

「どうしたの。」

「ここは最高だ。ずっとここで暮らしていたい。王政復古から一番遠いところへ来て、ほしいものをみんな手に入れてしまった。二度と見られないはずの笑顔に、失われたはずの幸せな時間、そして何度繰り返しても一緒に居たい大切な人たち。ここにはテレビもレコードもないけど、そんなものは必要ないんだよ。王珠も王家もないが、それすらも必要無かったのかな……?クソッ、認めるしかないんだろうか。結局自分は、適度にちやほやされながら、大好きな仲間とバカやれたらそれで満足だったんだ。十年分の孤独を癒してくれる人たちに囲まれてればそれで幸せなんだって。……エリセア、お前いつか言ってくれたよな?『王でなくたって、わたくしはあなたのことが好きだ』って。あの言葉は今も変わってないか?そうだとしたら、余は……僕は、本当にこれ以上は何も要らない。」

エリセアは答えなかった。なんで答えなかったんだろう。今日の僕がよっぽど頓珍漢だからまともに取り合っても意味がないって思ったんだろうか。

「ごめん。」僕は誰かに謝罪をこぼした。「分かってるよ、それでも諦めちゃダメだって。『これ以上は何も要らない』って言ったけど、あれはウソだ。この世界には足りないものが一つだけある。誰一人欠けることなく揃っているこのやさしい夢に……アイツだけは、いないんだ。バカで、ふざけたナリで、最低最悪のろくでもないおせっかい焼きの男がさ。

強情っぱりのアイツの目を覚まさせてやるまでは、僕は諦めるわけにはいかないんだ。」

……でも、どうすればいいんだろう。

ここには王珠がないんだ。そもそも王家が存在しないんだ。僕はもうこの小さな郷の長で、取り戻すべき玉座もプライドもありゃしない。この世界の「勝利条件」って何なんだよ。

「今日のあなたは不思議ですね。」

「悪かった。カリスの言う通り、今日はおセンチなんだ。でもそれだけ。ホントだよ。」

「構わないわ。わたくしの前では、どんなあなただって。けれど、みなさんの前ではしゃんとしてください。これからわたくしたちは、自分たちの力でこの乱世を生き抜いてゆかねばなりません。西の方では戦いが続いていると聞きます、蛮族の侵攻を許せばたちまちすべてが奪われる。戦でなくても、飢饉や、疫病だって。この郷の者は、みんなあなたが頼りなんですよ。あなたが先頭に立って、導きを与えてくださると信じているからこそ、皆はあなたを慕っているのです。だから、しゃんとしてください。大丈夫、あなたはもう一人じゃないから。」

僕は起き上がって、エリセアとキスをした。これがやさしい夢の中だとしても、目の前にいる相手をパチモンの幻想だなんて思ったことは無い。エリセアは、エリセアだ。

やっと、光が差してきたんだ。この時代に生きる意味、自分が何者であるか。王政復古はできないけれど、「王になる」ことはできるはずだろ。『テラレジア・クロニコ』が描く歴史はこの頭の中に完璧に入っている。あとは奇跡を再現するだけ……。違うか――ローガン?

僕は一人で立ち上がった。

「やることができた。」

「そう。」そう返すエリセアはもう、いつも通りのキツくて凛々しい瞳だった。

「そういえば余の生誕祭っていつだっけ?」

「明後日でしょう。」

「……そっか。」

部屋を出ようとしたところで使用人と鉢合わせた。

「奥様、お着換えの用意が……主人様!いらっしゃったんですね、失礼しました。」

「いいや、ちょうどいいタイミングだ。君、大聖堂でエリセアと一緒に居た尼だよな。確か名前は……そう、カミニ。」

「ええ、はい。」カミニは頷いた。

「カミニ、編集長を……じゃなかった、アイツの名前なんだっけ。まあいい、ハゲの宰相を呼んでくれ。この郷の資料をすべて持ってこさせろ。律令の記録、租税の帳簿、兵役の名簿、今あるもの全部だ。それから、晩にフェルドとカノンをここへ呼んでくれ。エリセアと四人で、大事な話がある。それじゃよろしく。」

「は、はあい!」

カミニはエリセアの着替えを押し付けて部屋を飛び出していった。僕はその服をベッドに放り投げてやった。

「聞いてたな、今の。また後でな。」

「はい。」


テラレジア清教の開祖は建国と同じ時代の人物だ。教祖としての半生については聖典や『テラレジア・クロニコ』に記述があるが、肝心なことや、その人となりに関しては全くと言っていいほど記録が存在しない。おそらくは神性を保たせるために「人間くさい」記述を意図的に省いたのであろうというのが歴史家の見解である。ただ、分かっていることもいくらかある。開祖は初代テラレジア国王に近しい人物であった。つまり、この世界では僕と親しい誰かということになる。見ての通りこの世界は悪質なパロディだから、真実の歴史とはいろいろ事情が異なっている。実際にはフェルドとその親友、ライカ一家、メノブロード家のような人々は存在しなかったわけだが、それでも宰相だの将軍だのと、そういう立場の人間は本当にいたはずなんだ。自分自身=テラレジア家当主を含め、いくらかの人物は実際に存在した誰かの「代役」をしているということになる。ならば、後のテラレジア清教開祖となる人物にも「代役」がいるはずではないか……?それが誰かは現時点で断定できないが、不思議なことに、もう確信を持っている。

日暮れ、僕たち四人は食堂に集まった。まだ篝火こそ必要ないが、既に辺りは薄暗くなってきて、もうすぐ完全に日が落ちれば現代人には想像を絶する闇が広がるだろう。幸いにして、ド田舎育ちの僕は毎晩そんな世界を見てきたんだけど。

僕は落ち着かないほどドデカい食卓の主人席に座って、呼びつけた三人は左手にエリセア、右手の手前からフェルド、カノンが座っている。僕たちは部屋の反対側まで続く食卓の、こちら側の端にちんまり座っているわけだ。

「領主様直々に招待を受けるとはねえ。」

フェルドはスカしたことを口走る。

「お前らは客人じゃないよ。どっちかっていうと、家族だ。」

「うんうん!」カノンはしきりに頷く。「こうして四人で集まると昔を思い出しますね!」

「わたくしはあなた方二人に振り回されていただけですけどね。」

「ウソつけ、お前もなんだかんだノリノリだったろ。」

腐れ縁かよ、こいつら。惜しむらくは、僕にだけその記憶がないことだな。

「お前らをここへ呼んだのは他でもない、今日のこと、ちゃんと話しておこうと思って。昼間はちょっと正気じゃなくなってて、悪かった。余は今朝がた天啓を受けた。」

演じきるのだ、あくまでテラレジア家の領主として。

「はあ?」

「天啓?」

「そう、天啓。そうして余はこの世に生を受けた理由を悟った。――国を作るぞ。余は王になる。」

「国。」

「王。」

幼児のお勉強タイムじゃないんだから聴こえた言葉を繰り返すのをやめてくれ。

「乱世だ、この世は。小領主が絶えずつまらない争いごとを続けている。耕した土地は焼かれ、民は傷つけあうばかりだ。不毛だろ、こんなの。そうこうしているうちに蛮族に大地を踏み荒らされるわ、辺境の海賊が港を襲うわ、村々も野盗の被害を受けるわ。いい加減我慢ならん。もうローマ人はやってこないんだ、同じ民族同士で力を合わせて一つの国を作るべきだろ。諸侯をまとめるその役目、余が引き受けた。余、自ら君臨して国を作り上げた時、その国は、そこに集う民は、こう呼ばれるだろう――『テラレジア』と。」

「ハハ……マジかよ。」

「マジ。」

「アークさんが、王様……?」

「そ、王様。」

「突拍子もないですね。」

「そりゃあ今初めて言ったからな。」

見知った三人にこれだけウブな反応をされると、心に刺さるものがある。

それから三人はほぼ同時くらいにホッと息を漏らした。

「冗談……なワケねえよな。こうして俺たちだけ集めて言ってるんだからさ。」

「アークさんの言う通りです。みんな、もっと平和に暮らせたらいいなって思ってます。もしそうなるなら、最高です。」

「あなたの治める国なら、きっといいわ。」

「それで、具体的にどうすんだ?」

「いやいやいや、待て待て。」僕は両手を掲げた。「話が早いな。余が何をするか分かってるのか?」

「だからそれを訊いたんだろ。」

「タダじゃいかない、統治の負担は増える、覇道を行けば必ずや戦にもなる。特にカノン、お前の父君は将軍だろ。余は命令次第で彼を、カリスを死に行かせるかもしれないんだぞ。」

「分かってますよ。」カノンは肩ひじ張って答えた。「でもこんな時代だし、黙っていたって敵はやってくるでしょ?お父さんのこと、アークさんがどれだけ大切に想ってくれているか、知ってます。それでも決断したことなら、それ以上言うことはないですよ。」

あの人を二度喪う、か。考えたくはないな。まして、自分がそうさせるなんて。

「わたし、これでも将軍の娘ですよ!どんな困難だって乗り越える、その覚悟はできているつもりですから。」

「分かったよ。試すようなこと言って悪かった。強いな、カノンは。」

「まだまだです、えへ。」

カノンに負けてられない、しっかりしろよ、アーク、生かすも殺すもお前次第だぞ。

「明日には方々に話をつけて、明後日の生誕祭で決意を語るつもりだ。」

「本気なんですね。」

「当座の目標というか、計画はあるのかよ。」

「ある。それを伝えるためにお前らを集めた。まずはここより北方、バロンを恭順させる。向こうとは交流もあるから外交交渉で決着をつけられるだろう。バロンは北部の要衝でもあるから、あそこを押さえれば北部一帯に手が伸ばせる。そんでバロンを手中に収めたら……そこで宗教を打ち立てる。」

「宗教、ですか。」

「これから先、戦いは避けられない。何千の味方が斃れ、何万の敵を散らし、何十万もの民を恭順させる。そのために必要なのは魂の救済だ。イエスの宗教はハッキリ言って我々向きではない。王国を統治するには、王を預言者とするテラレジア人のための信仰が必要なんだ。その立ち上げはフェルド、」アイツを指さした。「お前がやれ。」

間違いない、ずっと僕のそばにいるコイツこそが開祖になる男だ。

「は?なんで?」

「分かんないかねえ、余は王、王は君臨するものだ。人々に寄り添って教えを説き、導きを与えるのは別の人間がやる必要がある。お前昔っから女を口説くのだけはうまいから、そういうの向いてるよ。」

「それが理由かよ。」

「何より必要なのは人を救いたいって気概だろ。お前ならもう、十分持ってるよ。」

フェルドは長いこと唸った。何でも即決の質だから、こういう姿を見るのは珍しい。

「しかし、なぜバロンなのですか。創始した場所は聖域、最も大事な場所になるでしょう。」

「だからこそ、だ。ぜんぶこの街で済ませたら内輪の宗教になっちまう。違う郷の者が同じ信仰を共有してるってことが大事なんだ。」

「確かに、そうですね。そういえばバロンには大きな岩山がせり立っていると聞きました。地元ではにわかに信仰を集めているとか。そこに立てはフェルドさんでも何か導きが得られるでしょう。」

「何その言い方。サルでも分かる……みたいな。」

エリセアは「そこまで言ってませんけど」とつんけんした。

「フェルド、信じられる道を示す者が必要だ。余と共に来い。」

「……任せとけよ。人助けなら得意なもんだ。」

この瞬間から、僕にはもうテラレジア清教の開祖といったらコイツの顔しか浮かばないようになってしまった。

「それから、カノン。お前は王室の書記長に任命する。これから起きること、全てその手で記せ。お前はお父さんもお母さんも立派で、読み書きができる。これぞ『才媛』ってヤツだ。」

「しょ、書記!?」カノンは派手に驚いてみせた。

「この仕事は代々王室の書記に継がせる。テラレジア王国の年代記を、作り上げるんだ。」

「わたしにできるかなあ。」

「できるさ。余はお前の書いた記事が気に入ってるよ。」

何度読んでも退屈しないんだ、アレは。もちろんここにいるカノンは何のことだか分かってない様子だった。

カノンはやがて「そうですね」と言って胸を張ってみせた。

「カノン・ライカ、拝命いたしましょう!」

さてと、後はもう一人。

エリセアは黙ってこちらを見つめていた。僕が知っている中で一番きれいな瞳だ。

「エリセア……お前は、ずっとそばにいろ。それで、余の世継ぎを産め。とこしえに続く王の系譜を描くんだ、例え、我が王国が敗れ王がその玉座を奪われる日が来たとしても、余を継いだ血統は、その精神は、悠久の時を超えて必ずこの国に戻って来る。」

「はい、あなた。」

ここぞって時だけは驚くほど素直だから、憎めない女なんだ。

僕はもう一度姿勢を正して、三人と順番に目を合わせた。

「最後に一つ言っておく。余は、お前らがいないと正直やっていけない。いつでも、力を貸してほしいんだ。それから、生きていてほしい。何度繰り返しても思うんだよ、こうしている時間が一番だなって。」

アイツらがどう答えたか……それはもう言う必要がないだろう。

待ってろよ、ローガン。この世界に自分一人きりだって勘違いしている大バカ野郎が。どんな現実に放り込まれたって諦めるものか、民の一人だって見捨ててやるものか。アーク・ウエスト・〝テラレジア〟、それがこの国の王の名前だ。