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EX3-2

自宅のベッドでないところで目を覚ました時、俗に言う「ここはどこだっけ」とはなかなかならないものだが、どうしてか、目を開けてから周りの状況を確認するのがやけにもったりとして、慎重な動作になる。

アークはここがどこだかきちんと分かっていた。この埃っぽくて薄暗い部屋はバロン大聖堂の救貧館の男子棟である。中世に作られた建物らしく壁は重厚な石造りで、格子の入った窓はとにかく小さい。白黒時代のテレビ画面だってあんなに小さくはなかったと思うのだが。その上、彼は今二段ベッドの下に寝ているのだから、尚更じめじめして薄暗い。

昨日のじゃんけんに負けなければこんなことにはならなかったのに。テラレジア清教の開祖の生誕地たる聖地でも、ベッドの上下を決めるじゃんけんに加護を授けてくれたりはしないのだ。

アークは少々カビ臭いリネンを放って体を起こした。窓がオーブンの覗き口並みに小さいのでよく分からなかったが、今は太陽も昇りきって朝というには遅すぎる時間帯らしい。寝具の質と眠りの心地よさにはあまり相関がないということだ。

それからアークは梯子に足を掛けて上段を覗き込んだ。

「お目覚めかい。」

先に口を開いたのはフェルドだった。

「なんだ、起きてたのか。」

「うんにゃ、今起きたようなモンだが……ほれ。」

フェルドは顎を動かして天井の隅を指した。

「あそこで巣を張ってるクモを眺めてた。」

「毒グモじゃあるまいし、それがどうしたよ。今さらそんなのにビクつくようでもないだろ。」

「でもこっちに下りてくるかもしれねえ。そよ風以外に寝首を掻かれるのは嫌なんだよ。例え節足動物でもな。」

アークは天井の隅にふっと息を吹いてみたが、ここからでは巣をわずかに揺らすくらいだった。

彼が梯子から飛び降りると、続いてフェルドも体を起こして下に降り立った。

「どうにもこうじめじめしたところは好かん。これじゃセーフハウス(救貧館)っていうよりストアハウス(倉庫)だな。」

「それをあなた方が選んだのでしょう。」

部屋の入口から声がした。見れば、扉を開けたところに尼が一人立っていた。モノクロームな尼の正装が黒髪と共に薄暗い部屋に溶け込んでいる。

「おっと、昨日の尼さん。」

「エリセアです。」

「ああ、そうだった。おはようさん。」

「もう『おはよう』ではありませんよ。」

アークは「じゃあこんにちはさん、だ。」と微笑んだ。エリセアはため息で返事した。

エリセアは扉を開け放って二人のもとへ近付いた。

「本来ならあなた方はこの施設など必要ないであろうに、わざわざベッドをお貸ししているんですよ。」

「その節はどうも。……ところでエリセア『さん』、俺たちお腹空いたんだけど。」

「ありませんよ。」

「え?」

「ありませんよ。」エリセアは繰り返した。「ここでは食事の時間は決められているんです。こんな時間までグースカこいて朝の斉読をエスケープした不道徳者に食事が用意されているとお思いですか。」

「マジに?」フェルドは顔をしかめた。「俺、朝は聖典より新聞派なんだけど。」

「この施設に泊まる者は神に祈りを捧げるのが日課です。」

「余は聖典を読み上げずとも祝福を受けてるんだ。何てったってテラレジア王だし。」

「そうでしたか。では、食事はお付きの家臣にでも命じて持たせてくださいね。」

「わーエリセアちゃん厳しい。」

「茶化さないでください。」

二人は顔を見合わせた。彼女の言うことは冗談ではなさそうなので、致す方無かった。すると、しばらく黙っていたエリセアが自転車の空気入れを全部押し込んだ時みたいに息を吐いた。

「二人分、食事をとってあります。心を入れ替えるなら、あなた方にご用意しないこともありませんけど。」

「神さま仏さまエリセアさま。」

「……やっぱり今の話はなかったことにします。」

アークはフェルドをぶった。

「神でさえ世界を作るのに七日かかったのに、お前は五秒で全部台無しにするんだな。」


三人は尼寺の祈りの間で『退屈な』斉読を終えたあと、台所の隣の一室に移動した。そこにはパンとスープとおかずが二品の質素な食事が二膳用意されてあって、汚れを防ぐようにクロスが覆いかぶせてあった。

エリセアは二人を椅子にかけさせて、自分は向かい側にかけた。

「あなた方のことだからどうせ食前の祈りなんて覚えてないでしょうから、わたくしがやります。黙って座っていてください。」

「祈りならさっきやったばかりだろ。」

エリセアは相手をせず、祈りの句を詠み始める。

「しかも略式じゃなくてフルコーラスかよ。」

「では、ご期待にお応えしてアンコールもしましょうか。」

二人はそれ以上何も言わずに目を瞑った。

エリセアの「どうぞ」という声で再び目を開けて、ついに食事にありつくことができた。バル「相席屋」の食事ほどとはいかなくても、炊事係の尼は腕がいいらしかった。

エリセアは暖炉に火を入れ直して席に戻った。暖炉といっても直接火を入れるのではなく、そこに達磨ストーブを押し込んであるだけだから不格好で趣がない。

「男子棟の手入れが行き届いていないのは、申し訳ありません。」

ストーブの火を眺めながら彼女は言った。

「なんでお前が謝るんだ。」

「タダの寝床なんだから贅沢は言わねえさ。」

「本当なら皆様にはもっと快適な環境の下で精進していただきたいのですが。」

「何か理由でも?」

アークはスープを啜った。透き通ったスープには申し訳程度の牛テールが浮いている。

「大聖堂の司祭たちは救貧館の世話をしたがらないのです。女子棟はわたくしたちが引き受けていますが、尼たちには男子棟に近づかないようにとわたくしが言いつけています。ですから今の有様は、わたくしに責任があります。」

「なるほど、ねえ。」フェルドは食器を置いた。「極貧が持つ最大の財産ってのは、失うものがないことと、それ以上落ちる場所がないってことだ。」

「過去にあったのか?……そういうことが。」

エリセアは小さく頷いた。

「わたくしがまだこの地位に就く前のことです。その尼はまもなく破門されました。司祭からは『お前が教条に反して劣情を煽ったのだ』と責められて。」

「それは神に背く行いがどうこうという以前に、法律の問題だろ?」

「警察は大聖堂内部のことに介入したがらないのです。」

「通りで、あのしゃがれジジイがデカい顔して俺たちに喧嘩ふっかけてきたワケだ。」

それを聞いてエリセアは直ちに唇に人差し指を当てた。

「おやめください。大聖堂にいるのなら、決して教会に逆らってはなりませんよ。」

アークはフォークを置いて襟元の王珠にするりと指をあてた。

「だがエリセア、お前はそうは見えないがな。」

「何の、ことでしょう。」

宝石を覗き込んでいたエリセアはすぐに目を逸らした。

二人が盆の上の料理をすっかり平らげると、エリセアはやって来た炊事係に下膳を頼んだ。アークはストーブの扉を開けて顔に熱気を受けた。傍にあるバケツから石炭をすくって、火室の中の赤色が弱くなったところに放り込んで扉を閉めた。「ありがとうございます」とエリセアが小声で言った。

「今朝方、ライカさんからお電話がありましたよ。昨晩無事に帰宅したそうです。」

「帰り道は迷子にならなかったようだな。」

「あなた方が問題を起こしてないかと訊かれましたが、斉読をサボったくらいで『大した問題』ではありませんとお伝えしました。」

「悪かったって。明日からはちゃんと起きるから、お前も起こしに来ることないぜ。」

いちいち語気を強めるので、素直に聞かなければならない気がしてくる。

エリセアは赤く燃える火に手をかざした。遠くからでもほんのりとあたたかいのが伝わってくる。

「ライカさんは本当にあなた方を信頼しているのですね。」

「カノンはいいやつだよ。将来は立派な記者になれる。」

「案外気が合うと思うぜ?お前とカノン。」

「そうですか。ではあなた方がこちらにいる間はライカさんの代わりにしっかり見張っておきますから……くれぐれも尼を口説いたりしないように。」

「あのバカ余計な事まで伝えやがって……。」

炊事係の尼が三人分のコーヒーを持ってきた。中年の品の良さそうな尼は二人にカップを差し出す時にそっと微笑んだ。エリセアは礼を言って受け取る。テーブルの中央に角砂糖の皿を置いて、彼女は盆を抱えて部屋を後にした。

フェルドは砂糖を入れずにコーヒーを啜る。どんなコーヒーでも決して入れないのが流儀である。

「エリセア、お前、大尼僧だっけ?尼のトップなんだよな?」

「ええ。」カップを傾けて彼女は頷いた。「バロンの尼寺は若い尼が修行を積む学校のようなところですが、最年長のわたくしが今年の大尼僧です。といっても、やることといえばせいぜい話のまとめ役か大聖堂の司祭に毎日の報告をするくらいで、上下関係はないのですよ。」

「最年長だってなら、あの炊事役の尼さんみたいに時々歳食った人もいるのはなんでだ?」

「失礼を言わないでください。」エリセアは彼の言葉遣いを諫めた。「あの方々は事務方としてわたくしたちを支えてくださっているんです。学校でいうところの先生か用務員、あるいは寮母さんでしょうか。それがどうかしましたか?……あなたまさか、親子くらい年齢の差があるんですよ!?」

「アホか、お前の頭の方が心配なんだけど。」

二人が睨み合っているところにアークが口を挟んだ。

「大尼僧のお前に訊きたいことがあるんだが、ここの者には顔が広いか?」

「ええ、顔と名前くらいなら大抵は。何でしょう。」

「我々は人を探してるんだ。向こうはこっちを知っているんだが、こっちは相手の顔も名前も分からない……ただ、手がかりが一つ。」

そこまで言って、アークはフェルドと目を合わせた。彼は目で返事した、話を続けるべきだと。

バロン大聖堂に来たきっかけ、それは一枚のハガキ。差出人の名前も住所もなく、描かれているのは花の絵だけ。カミツレ、またの名をカモミール。

カモミールはテラレジア国内でも野山で見られる一般的な草花である。小さく白い花弁に中央は黄色く、リンゴに似た芳香を持つ。観賞用としてはもちろん、古くから薬草として重宝されてきた。そんなカモミールは『テラレジア・クロニコ』の中にも登場する。

イベリア半島でレコンキスタと称するキリスト教のイスラームの争いが続いていた頃、地続きのテラレジア王国は両陣営から戦火が飛び火してきた。国境付近の国は度々両陣営の侵略を受けた。テラレジア清教を信仰するテラレジア人は、どちらにとっても異教徒の敵に違いなかったのだ。そんな中、占領地で迫害を受けていたテラレジア人のとある娘は、王に助けを乞うた。字の書けない娘が贈ったのはカモミールの花。それは踏まれても萎れない、逆境に立ち向かう勇気の象徴。小さな花からその真意を汲んだ王は、直ちに兵を送ってその地から異教徒を追い出した――という逸話。

テラレジア王たるアークのもとに送られたカモミール。もしこれが『テラレジア・クロニコ』の一節を引用したものだとしたら、送り主は彼に助けを求めていることになる。そう直感したアークはハガキの消印を頼りにしてこのバロン大聖堂へやって来たのだ。

アークは一切を語り終えて、あたらめて手元にあるハガキを見た。

「大聖堂内郵便局はほとんど内部の者しか使わないんだろう?送り主がここにいるのは間違いないと思うんだが。」

「カモミールですか……。」

エリセアはやがて向き直った。

「知りませんね。」

「うっそ、お前あっさりしすぎじゃね?」

「知らないものは知りませんよ。大聖堂内郵便局はハガキを出すだけなら参拝者でもできますし。新聞記事の読者が書いたいたずらでは?心当たりはないんですか?」

「そりゃ、読者のお便りならしょっちゅうくるぜ、でも大抵は『バカ』とか『アホンダラ』とか、『アタシとイイコトしない?』ってのよ。カモミールだけ描いて送ってくるなんて、よっぽどの物好きだろ?」

「余には分かるんだ、これの送り主は嫌がらせで送ったんじゃない。助けを求めているが、何らかの理由があって自分からは名乗り出ることができないんだ。そして、直面している問題は王でなければ手に負えないほどのものだということも。」

「……であれば、今ここでわたくしに話したのは失策では?黒幕たるわたくしはすぐに送り主を特定して、あなた方が接触するより先に潰しにかかる……かもしれませんよ。」

エリセアは目を閉じてカップに口をつけた。黒い液体が彼女の唇に触れる。

アークとフェルドは笑みをこぼした。ほとんど同時に、示し合わせたように。

「やってみろよ、エリセア。その時は余が王の威をもって須く罰してやる。」

「こっちゃテラレジア一の喧嘩屋だ、神サマとだってタイマン張ってやるよ。」

彼女は目を開いた。

彼らには凄味がある。ハッタリだって真実に変えてしまうような、現実をひっくり返すほどの凄味が。ここへ現れてから「ただの」ろくでなしだった二人組は、実は「とんでもない」ろくでなしかもしれない。

エリセアはゆっくりとカップを置いた。「言ってみただけです」と声を漏らす。

「カモミールといえば一つだけ。尼寺に菜園があります。祭事に使う植物や観賞用の花を育てているのですが、その中にはカモミールもあったはずです。その絵を描いて送った者は、絵を描く参考が必要だったでしょう。」

「花壇のカモミールを見ながら描いたかも……ってことか。」

「園芸係のカミニを訪ねてください。何か知っているかもしれません。ちょうど今時分は園芸の仕事が少なくて、暇しているでしょうから、話し相手になってあげたらいかがですか。彼女が悪人ではないことは、旧知の仲であるわたくしが保証します。」

二人はコーヒーを飲み干して立ち上がった。

「エリセア、礼を言うぞ。我々はカミニを訪ねてみる。何か分かったら伝える。」

「そんじゃ、ごちそうさん。」

「お待ちなさい。」エリセアは足早に立ち去ろうとする二人を留めた。「事を急いてはなりません、くれぐれも慎重に、何に与するべきかを見極めるのですよ。」

「王は王だ。従えることはあっても従うことはない。」


今ほど寄付金が潤沢でなかった時代、聖職者の暮らしは自活が基本であった。過食は慎み、必要な作物を自ら汗を流し、収穫する。勤勉に働くことが神に近付く行いであると信じられていたからだ。清教の教条に食の禁忌はないが、今でも聖職者の食生活が菜食を主とするのはその慣習を色濃く継いだものである。

そういった理由から、大きな教会や尼寺では菜園が開かれているのがお決まりである。前述の通り、かつては自らが食べるための作物を育てる場所であったのだが、現代ではそういった意味合いは薄れ、むしろ祭事や儀礼的な、あるいは司祭・尼の趣味も混じったものとして細々と営まれている。

バロン大聖堂の菜園は大聖堂と尼寺の中間辺りに開かれている。大聖堂は岩山を丸ごと教会として拓いたもので、地下の比較的浅い所に水溜まりがあるので用水には困らないのだが、やはり農作業に適した土地ではないのは明らかだ。だからこの菜園で育てられているのは、多量の水を必要としない、自然に降る雨だけでも生育できるような野草類が中心のようだ。

二人が菜園の管理部を訪れ、手近なところに座っていた十代の半ばくらいの尼に声を掛けた。昨日きたばっかりだというのに二人の噂は十分に広まっているみたいで、少女はおっかなびっくり応対をしてくれた。まだ小さい娘さんの上に、一年のほとんどを大聖堂の中だけで過ごす世間知らずな修行尼なのだから、男二人を前にしてすっかりあがってしまうのも仕方がない。だけどそれは未知の男に対する恐怖というよりは、有名人を前にして声が出なくなる方に似ている。

カミニという女性は園芸係の長をやっているらしく、すぐに話は通った。今日はきっと園芸書庫で調べ物をしているだろうという。少女は二人を扉の前まで案内して、扉越しに声を掛けた。少しして返事があった。少女は「そういうことで」と一礼したら、そのままぴゅーっと飛んでいってしまった。礼を言う暇もない。また一つ新しい噂が広まる気がする。

「どうぞ」と声がした。

扉を開けると、古い紙のにおいがした。左右に本棚が並んでいて、中央でテーブルについている尼が一人。色黒な肌にブロンドの対比が良く映える。

「ようこそ、我らが園へ。荒涼たる心を抱えた迷える子羊に、新緑の導きを授けましょう。」

「あー、カミニ、さん?」

途端に尼は噴き出した。

「なーんてね冗談!アッハッハ!ちょっとお上品にキメてみたかっただけ!もちろんお二人のことは知ってますよ、そのうちに挨拶に伺おうと思っていたんだけど、向こうから会いに来てくれるなんてもう感激!」

自分で自分のネタが面白すぎてたまらないって風で笑い続けるその尼を見て二人は肩をすくめた。

「貴様がカミニという尼か。」

「そうです、わたしがカミニでーす。あ、お二人のことは知ってますよ、新聞記事いつも読んでますから。あとでサインくださいっ!もしかして、昨日一緒に歩いてた娘はあの記事を書いてる記者さんなんですか?お二人とはどういう関係なんですか!?聞きたい……けど聞きたくない!」

「……何はともあれ、エリセアほどめんどくさい女じゃなさそうだぜ。」

「こら!わたしの竹馬の友を『めんどくさい女』呼ばわりはめっ!ですよ。」

「竹馬の友?」

「ナウな感じに言えば、マブダチですよ。」カミニはコホンと咳払いした。

アークは手を挙げて答えた。

「そのエリセアから紹介されたのだ。少々訊きたいことがあるんだが、構わないか。」

「はて何でしょう……でもここでは寒いからわたしの執務室に行きません?あったかいハーブティーを淹れますよ。」

カミニは手元の本を小脇に抱えて立ち上がった。

カミニに案内され、上階にある彼女の執務室に移動した。正面に大きな窓があって、そこからは菜園の全体と、その奥にある大聖堂の大ドームを見渡すことができた。室内には一つの執務机と、来客用の椅子が何脚か用意されていた。他は部屋の隅に棚があるくらいでこざっぱりしている。中央には暖炉もあるが、これもやっぱりストーブが押し込められているだけである。いずれここには電気ストーブが置かれるようになり、いつかは暖炉が「ストーブを押し込める穴」と呼ばれる日が来るのだろう。

一時席を外したカミニがやかんを抱えて戻ってきた。注ぎ口から湯気が立っているやかんは、さっきまでどこかで温められていたのをそのままもらってきたようだ。彼女は「よっこいしょ」と言いながらそれをストーブの上においた。

「ふう、あちち。」カミニは手を擦った。「尼の服装って正直動きにくいですよね。毎年この季節になると、スカートの裾を焦がしちゃう子が必ずいるんです。」

「ミニスカートにすればあ?」

「今度の総会で提案してみようかな。フェルドさん発案ってことで、エリセアに伝えてもいいですか?」

「絶対にやめてくれ。」

フェルドは首を横に振った。

カミニはポットを持って来てお茶を淹れてくれた。菜園で採れた薬草を使ったというハーブティーはお湯を注いだ瞬間から青い薫りが部屋中に広がった。ここに来た時からなんとなく匂っていたのは、どうやらこれらしい。飲んでみると、苦味はあるが、確かに体の中から効いてくる気がした。神も薬効も、信じる者のみ救われる。

彼女は自分の分のティーカップを机に置いた。こだわりのある専用品らしく、それだけは元々この部屋に置いてあったもので、白磁に装飾が施されている。物欲を慎み、多くを持たない聖職者だからこそ数少ない私物にはとことんこだわる、カミニはそういう性格なのだ。

それから彼女は書庫から持ってきた本の表紙をさすった。

「今、来年植える植物を考えているんですよ。わたしがここにいられるのはこの夏が最後ですから。」

「エリセアと同い年なんだな。」

「そうですよ。今年で二十二になったでしょ、来年は二十三、そうしたらここを『卒業』してどこかの尼寺に就くんですよ。嫌ではないですよ、ここよりものびのびできるかもしれないし。でもずっとここで暮らしてきたから、ちょっとドキドキしちゃう。」

「配属先はまだ決まってねえの?」

「これから。一応希望は訊かれるんですけど、ただの参考です。わたしやエリセアみたいにここで要職を務めてると、むしろこっちの願いは聞き入れてもらえないっぽいです。仲いい先輩が行ったところに行けたらラッキー、みたいな?」

「地方転勤のサラリーマンみたいだ。」

カミニは力無く微笑んで、ご自慢のカップを置いた。「はいはい!」と手を叩いて話題を変えようとする。

「お二人が訊きたいことって何でしょう。大尼僧様にご紹介あずかったとなれば、このわたし、何なりとご協力させていただきますよ。」

アークは頷いた。

「カモミール、と聞けば思い浮かぶことは?」

「カモミール。かわいい花ですよね。防虫効果があるから野菜と一緒に植えたりもします。今お出ししたハーブティーには入っていませんけど、御用なら持って来ましょうか。」

「いいや。」

「えっと、それだけですか?もう少し質問してくださいよお、せめて友達に『アーク&フェルドにこんなこと訊かれちゃった』って自慢できるくらいには。」

「それ自慢になるのかね?」

「そりゃあ、もちろん!娯楽に乏しい尼寺ではテラレジオ・ポストの連載小説が一番の大ヒットですよ!」

「ここに来てからの尼たちの反応のワケがなんとなく読めたぜ。」

フェルドは頭の後ろを掻いた。

エリセアの言葉もあるので、アークはカミニには真実を話してもよいと思った。それに、彼女が送り主本人というのでもなさそうだ。そこで彼は例のハガキを取り出して、表のカモミールを見せた。手に取ってカミニは「あら」と声を漏らした。

二人が事情をすっかり話してしまうのを、カミニは口だけは黙って聞いていた。反面、始終瞳をきらきら輝かせていて、これは『テラレジア・クロニコ』未刊行の冒険譚を本人たち自身の口から聞いて楽しむ熱心な追っかけでしかない。

話の一切が終わってから、さっきからうずうずしていたカミニは「最高ですよ!」と歓声を上げた。

「すべらない話を聞かせてやったわけじゃないんだぞ。」

「いやいや、最高ですよ。その絵ハガキ一枚でこの大聖堂までたどり着いたなら、それで十分すぎるくらいじゃないですか。普通、そんな意味不明なハガキでそこまで気付きますか?送り主さんもぶきっちょすぎよお。アッハッハ。」

「……それは言えてる。」

「カミニは思い当たることがないだろうか。」

「そうですねえ、」カミニは口に手を当てた。「僭越ながら、一つお告げを。この場合、姿を隠した送り主が誰かより、その人は何から助けてほしいのかを考えるべきでしょう。逸話の通りなら異教徒の軍勢ですが、そんなものここにはいませんから、別なものですよね。」

そういうことなら、と考えてみる。

「前提として、それは我々にとっても敵である者だ。王である余にとって、敵する者はかなり絞られるぞ。」

簡単に思い当たるものが一つ。

「敵といやあ、大司教のしゃがれジジイ、俺たちが来るなり喧嘩ふっかけてきやがった。俺たちが邪魔だってのが清教会幹部の基本姿勢らしいぜ。」

「そうそう。」

カミニは両手で拳を作って胸の前に掲げた。

「あまり大きな声では言えませんけど、大聖堂の司祭たちときたら、ひどいものですよ。基本的にわたしたち尼のことを下に見てるんだ、面倒事は全て押し付けるくせに、重要なことになると全く口出しさせません。それだけじゃない、輪をかけてひどくなったのは今の大司教になってからです。横暴なだけならまだしも、最近は金回りにおかしな様子があるって、内々で有名な話ですよ。しかもねえ!こないだなんか、司祭のおっさんがわたしに色目を使ってきたんですよ!信じられます!?ああいうタイプはねえ、エリセアみたいな高嶺の花には手を出さないで、その隣にいる『手の届きそうな美人』を狙うんですよ!ねえ!?」

「それ自分で言うんだ。……だが、司祭の風上にも置けねえな。」

「でしょでしょ!?ああいうの、ボッコボコにしてやりたいわ。」

カミニは空中に左右のストレートを叩き込んだ。気持ちは分かるけども、こういうのも尼の風上には置けない。

「以前、セーフハウスで傷つけられた尼が泣き寝入りになったそうだな。」

「ああ……ひどい話でした。わたしたちにも優しくしてくれた先輩でした。でもね、そういうのは目に見えた事件ってだけで、普段から、少しずつ少しずつ傷つけられてるんですよ、みんな。身体に千本トゲが刺さってたら、あと一本くらい増えたって別に気にしないでしょ?……だけどあの子は、そんなみんなのために戦ってるの。」

「エリセアか。」

アークは俯いたカミニの顔を見下ろした。彼女は「うん」と頷いた。

「大尼僧になってから、あの子はわたしたちに降りかかる火の粉を一身で受け止めてきた。それだけじゃなくて、権力を振りかざして虐げようとする相手にたった一人で立ち向かってるんです。……踏まれても決してへこたれない、可憐な花、なんですよ。」

ストーブの中で石炭がガラリと崩れる音がした。上に乗ったやかんから湯気が絶えず噴き出ている。

アークはハガキを手に取った。人差し指と中指で挟んで、くるりと翻す。

「カミニ、貴様本当は分かっていたんだな。」

カミニは顔を上げて微笑んだ。

「いいえ、知りませんでした。でも宛名の筆跡を見たら分かっちゃった。それに言ったでしょ?『テラレジア・クロニコ』は尼寺の大ヒットだって。わたし知ってるの、あの子だって、みんながいない時間にこっそり……ね。」

彼女は姿勢を正して向き直り、真剣なまなざしでアークとフェルドを交互に見た。

「アーク・ウエスト・〝テラレジア〟様、フェルド・スター様、エリセアをお救いできるのはあなた方しかいません。どうか、わたしの親友に力をお貸しくださいませ。」

「任せな。テラレジア一の喧嘩屋にウリを掛けたこと、後悔させてやる。」

「悪魔に魂を売った穢れた聖職者は、王の威をもって須く罰する。」

カミニは目にうっすら涙を浮かべて彼らの勇気を讃えていた……と思ったら、すぐにどっと噴き出した。

「きゃー!ホンモノ!どうしようどうしよう、みんなに自慢しーちゃお!」

「このろくでもない『アマ』ちゃんをどうしてくれよう。」

「フェルドさんめっ!確かにわたしは神に身を修める尼ですけど、だからといって、ときめきまで捧げたつもりはございやせん。」

「……もう勝手にしてちょうだい。」

ハーブティーの一杯をすっかり飲み干すと、身体の芯が温まってきたような心地がしてきた。二人はエリセアのところに戻るというので、カミニの部屋を後にすることにした。なお、部屋を出る前にサインをせがまれたので、手近にあったノートにさらりと署名してやったら、「来年の赴任先の尼寺に奉納する」と言っていた。徒に後世の歴史家を悩ませるのはよくない。

カミニは菜園の外まで二人を案内した。道すがら、彼女はこんなことをつぶやいた。

「あの時、あの子がチョキを出してくれて、わたしは本当に助けられた。」

どういうことかとアークは尋ねた。

「うちの代の大尼僧を誰がやるかを決める時に、わたしとエリセアの二人が推薦されて残ったんです。最後は二人の話し合いで決めることにしたんですけど、大尼僧がどんなにつらい役目かは二人ともよく知っていたから、どっちも自分がやるって言って、譲らなかったんです。このままじゃ埒があかないからって……最後は……。誰にも内緒ですよ?」

「そんなんでいいのかよ。」

「いいじゃんか、二段ベッドの上下を決めるよりは、重大だけどさ。」