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EX2-2

首府の中心部からおおよそ十キロメートル、電車で十五分の郊外に、新市街と呼ばれる地区がある。

元々首府は王国時代の王都であって、テラレジアで最も人口の多い都市である。市街を囲んでいた城壁は撤去されたといえども、街路の計画や下水道インフラ、数々の建物は当時の姿を留めている。建国以来、政治・経済の中心地として栄えてきて、それは現在も変わっていないのだが、現代になってそうした歴史の深さが少々窮屈なものになってしまった。現代的なオフィスビルの需要に旧市街は対応することができなかったのだ。

そうした背景があって、首府の郊外に新たにオフィス街を建設しようという動きが始まったのが六十年代の終わり頃。そこから十年ほどで農地ばかりだった平坦な土地の一画は、ガラスと鉄、コンクリートのビルがにょきにょき生えるテラレジア一の最先端な街に変貌を遂げた。それが新市街である。

幹線道路に沿ったグリッド状の道路は幅が広く、街路樹を備えた歩道からは左右に建ち並ぶビル群を見上げる。旧市街の建物の階数がせいぜい五、六階といったところだから、十階以上もあるビルはまさしく天を突くように思われる。ニューヨークの摩天楼には遠く及ばないが、それでも、初めてここを訪れたテラレジア人は誰しも感動を抑えきれないものだ。

そしてそれは、世間知らずの二人組も同じ。

「うおー、でっけえ。あのビルの屋上で立ちションしたらどうなるだろな?」

「きっと地面に落ちる前に雲になる。そんでもって高すぎて身震いする。」

「身震いするのはいつもだろ。」

「あのですねえ、」カノンは口を尖らせた。「下品ですよ、二人とも。」

カノンは二人が高層ビルに感動していたところまでは昔の自分が偲ばれて、微笑ましかったのに。どうしてこう男の人はすぐ下品な方向に発想が移るのか。……ていうか立ちションすると身体が震えるの?

三人は今、とあるビルを正面に立って見上げている。チュロ・グレズノ――この国で最も高いビルの名前。正面に広大な広場を備え、壁面が複雑にセットバックしながらそびえる。この時間帯は夕日をその体に受けて、黄金色に輝いて見える。内部にはテレビ局、ラジオ局、新聞社、出版社、芸能事務所他、メディア業界の多数が入るほか、この敷地自体が大ホールや大型スタジオを備えた収録の場でもある。

このビルのオーナーの名はステファノ・グレズノ。テラレジア公共放送の経営責任者であり、自らも多数のテレビ番組に出演するお茶の間の顔。そして、多数の報道機関にも顔が利く、正真正銘のメディア王。このビルに入る各社は彼の手中にあるも同然、ここはメディア王の城だ。

「ここにあのエロヒゲがいるのかねえ。」

フェルドは最上階を見上げた。ビルの上部には巨大な時計がついていて、そのさらに上に最上階がある。

「用心しろよフェルド。ヤツの力は強大だ。しくじればこっちまで飲まれかねない。編集長のようにはいかないと思え。」

「編集長?」カノンは二人の顔を覗きこんだ。「あの人がどうかしたんですか?」

「いや別に?こっちの話……。」

「編集長、二人のことを敬遠してるっていうか、少し怖がってるような気がします。わたしはお世話になってるんですから、あんまり脅かさないでくださいよ。」

「分かってる。誤解だよ。」

「カノンさあ、」フェルドは彼女にずいと顔を寄せた。「グレズノの時といい、ハゲ親父といい、まさか、そっち系がいいワケ?」

「えっ、と?どういうこと?」

「おやめなさいフェルドくん。」

アークは彼をカノンから引っぺがした。

「カノン、余はお前の相手がどんな馬の骨だろうと、自分で決めたことならそれでいいと思うぞ。」

「お前それ本心で言ってる?」

「気にしない、気にしないぞ。……いや、でもやっぱり親子くらい歳が離れてるのは……。」

「話がさっぱり分からないんですケド。」

冗談はさておき。

「カノンはここまでだ。案内どうも、先に一人で帰っててくれ。」

「はい……。」

チュロ・グレズノへの潜入は二人だけでやるというのは当初から決めていた話だったから、今さら反対することは無い。けれどこうして一人ですごすご引き返すって段になって煮え切らない思いがまた湧いてくる。カノンは自分の心に言い聞かせる、ここで自分がついて行ったってどうしようもないから、二人に任せるしかないんだ。

「グレズノなんてサクッと倒してくるからよ。……だが、一応言っとく。もしヤツを完全に失墜させられなかったら、ヤツは必ず復讐に来る。」

「その時は『テラレジア・クロニコ』は金輪際封印。余とフェルドのことは知らぬ存ぜぬを貫き通せ。分かったな。」

カノンはゆっくり頷いた。かと思えばすぐに首を横に振った。

「ううん、大丈夫ですよ、きっとうまくいく。ずっと前からそんな気がするの。もしもの時は言われた通りにします、だけど、わたしの心は変わりませんから。世間のみんなが二人を悪い人だって言いふらしても、わたしだけは本当のことを知ってます。アークさんとフェルドさんは、立派な人です。」

「カノン……さっきの疑いは撤回する。お前のこと抱きしめてもいい?」

「やっ!ダメですよ……こんな、ところで……!!」

相変わらずこの手の冗談には弱いのだ。二人は笑い合って、カノンはそれでもっと顔を赤くした。

「また明日な、カノン。気を付けて。」

「そちらこそ。あんな下劣なヤツ、コテンパンにしちゃってくださいよ!」

カノンは空中に拳を突き出した。歩き出していた二人はそれを見て、同じように突き返した。


二人はカノンと別れて、格好よく歩き出したはいいが、三十メートルくらい進んで建物の正面玄関の近くまで来てまた歩みを止めてしまった。行く手の先に回転扉付きのセキュリティゲートが見えたのである。

ゲートには警備員が複数名。中へ入っていく人々は、警備員に身分証らしいカードを見せつけて、そうして初めて回転扉をくぐることを許される。そうでなければ、何やら内線らしい電話を繋いで、一言二言会話をしてから改めて入るのを許可されるらしい。どちらにせよ「関係者以外立入禁止」の看板がなくたって、事実はその通りであることを示している。

結論、アークとフェルドはここからは入れない。

「さてどうしたものか。」

アークは無意識に襟元の王珠に指をあてて考え込んでいた。

「お前の力でどうにかならんかね。」

「無理。王の力を催眠術か何かだと勘違いしてないか?」

「……実際、それ以上の代物だけどな。」

警備員と目が合ったので二人はきまり悪く引き返し、道すがらで見つけた敷地の地図が書かれた案内板を眺めた。

「裏手に従業員入口があるぞ。」

「もっと警備が厳しいだろ。それよかスタジオ用の大型荷物搬入路はいけそうじゃねえか?トラックの荷台に潜り込んでさ。」

「楽しそうだ……が、場当たり的にやるものじゃない。非常用の避難口か外階段を使うのが現実的だろうが……」

「中に入って警備員に目を付けられた時、正規のルートで入ってないってのはちとマズいんじゃないの。ただでさえ俺たちは悪名高いんだからな。」

ここ最近のグレズノによる苛烈な報道を目にしていない者はいないだろう。アークとフェルドはすっかり顔も名前も知られている――かなり悪い方向に。それでも身を隠すとか変装だとかをしないのは、二人の矜持に関わるからだった。

「ゲート前の警備員を買収すっか。」

「どこにそんなカネが?。まあ気に病むことはない、待ってればチャンスは向こうから到来するものだ。」

アークは鼻でふふんと笑った。

「お前といると災いばっかり降ってきそうなんだけど。」

こんなことを話しているとやっぱり事件は向こうからやってくるわけで。

二人は広場の向こう側から若い女の声を聴いて、同時に振り向いた。見れば、まだ十代くらいの女の子が男たちに囲まれているではないか。

「誘拐か!」アークは身構えた。「王の前で犯罪に走ろうとは、須く罰する。」

「いいや待て。」フェルドはアークの身体の前に腕を出した。「あんな下手くそな誘拐があるもんか。よーく見てみ。」

女の子は引き気味にぎこちない笑顔を見せている。

「アハハ……みんな、ありがとね……。」

すると彼女を囲む男たちが歓声を上げた。

「メルメルぅー!!」

「今日の生歌も頑張ってね!」

「応援してるっす!」

「メルメル、これ差し入れダス!」

子供みたいにはしゃいでるいい歳した大人たちの姿を見て、二人は顔を見合わせた。

「な?」

アークは無言で頷いた。あれは「追っかけ」というやつではないか?

女の子は突き付けられた箱を仕方なしに受け取って、じわりと後ずさりした。

「じゃあ、もう行かないと……。」

「待って!」男たちが声を揃える。

「もうちょっとお話ししようよぉ!」

「本番の時刻から考えて、スタイリングとリハを含めてもあと三十分は余裕があるはずダス!」

「ごめん、でも行かないと……。」

「見てこれ!おいらがこないだのイベントで撮った写真っす!メルメル史上最高の一枚っす!」

「はいはーい、そこまでー。」

フェルドとアークは女の子と男たちの間に割って入った。

「この子は忙しいから君たちは帰って画面の前で応援してろなー。」

「だ、誰だよお君ら!いつものマネージャーと違うぞお!」

「マネージャーじゃなくて貴様らを引っぺがす担当だ。」

「引っ……!?我々はメルメルFCの幹部ダスよ!」

「ファンクラブ?幹部でもなんでもいいけどよ、おイタが過ぎるとオンエアまでに家に帰れなくなるかもよ?」

男たちは一斉に狼狽えた。フェルドが一歩前に出ると、ぞろぞろと後ろへ下がっていく。

「ほんじゃそういうことで、帰った帰った。」

彼が手を一振りしたら、男たちは蜘蛛の子を散らしたように消えていった。

広場の端にあるベンチで三人は並んで腰かけた。ここからは正面入口を出入りする人々を一挙に観察できる。太陽は既に建物の影に沈んでしまって、規則的に並んだ街灯の明かりとビル群の窓から漏れる無機質な光が、電子機械の中を思わせる。

アークとフェルドは「差し入れ」を頬張った。

「うまいな、このドーナツ。ホントに全部食っちまっていいの?」

「はい。」女の子は頷いた。「ファンの方からのプレゼントは貰っちゃダメって決まりなんです。」

「そうか。では遠慮なく。」

「そのドーナツ屋さん、わたしがコマーシャルに出たやつなんだけど、それ以来ドーナツの差し入れが本当に多くって。油っぽいもの、嫌いなんだけどな。」

「メディアの世界って世知辛いね。」

「そうか、思い出した。」アークはドーナツで口の中をふがふがさせながら言った。「貴様、メルだな。アイドルの。」

「マジ?」フェルドは彼女の顔を覗きこんだ。「ホントだ。『午前零時のシンデレラ』を歌ってる娘だろ。実物を目にしても意外と分からねえもんだな。でもこうして見てみると……かわゆい目元がテレビで見たまんま。」

まじまじと見つめられたメルは恥ずかしくて視線を逸らした。

「今気付いたんですか、てっきり分かってたから助け船を出してくれたのかと思ってた。そういうお二人は、もしかして、『あの人たち』ですよね?」

「そ。多分『その人たち』で合ってる。余はアーク・ウエスト・〝テラレジア〟だ。」

「フェルド・スター。遠慮せず名前で呼んでくれや。」

「やっぱり。テレビでも新聞でもあれだけ言われてたから……『史上最悪の大悪たれ』で、絶対に関わっちゃいけないって。」

「だとしたら、お前はもうアウトだな。」

「ですね。助けられちゃった。」メルはチロッと舌を出した。「ありがとうございました。」

「メル、お前さんよ、売れっ子アイドルならマネージャーはどうしたんだよ?今日みたいな時はマネージャーが出しゃばるものだろ?」

「今日の仕事はマネージャーさんがお休みで。それにうちの事務所ってこのビルに入ってるから、いつもここを通る時は一人なの。」

「それじゃドーナツも押し付けられる一方だわな。」

そう言って彼は最後のドーナツに手をつけた。そこへアークが睨みを効かせてきて、渋々半分に割って差し出してやった。

アークは満足そうに最後のドーナツを食べ切った。一人への差し入れにしては多すぎる量のドーナツが入っていたのを、二人ですっかり平らげてしまったようだ。

「メル、今日は生放送に出演するのか。」

「そうです。今日は『ザ・ベスト100』の日ですから。」

「あの番組か。長すぎだよな、どうせ十位からしか生歌やらないのに百位から発表する必要ある?」

フェルドが不満をこぼすとメルは困った顔して愛想笑いした。

「じゃあこれから出演するのか。」

「そうですよ。」

「そうか……」二人は横目で視線を合わせた。「物は試しで訊くんだが、あのビルに一緒に入れてくれないか。実は中の人物に用事があるんだが、ビルに入るための許可証を忘れてしまって。」

「それは大変。……じゃあその人に連絡を取ってみたら?建物の内線で入れてもらえるように話を通せば……」

「いやー違うんだ。」フェルドがしゃしゃり出て首を横に振る。「かなりプライベートな用事でね。できれは内密にいきたいんだよ。だからメルの関係者ってことでそっと入れたら一番いいのよ。」

メルはしばらく考え込んだ。

「いいわ。」彼女は頷いた。「助けてもらった恩があるし、それに……。でも一応、どこの相手に会いに行くのかだけは教えてよ。」

「ああ、ステファノ・グレズノだ。」

「グレズノっ!」

メルの表情が固まった。

「やはり、メルも知ってるのか。ヤツはどんな男だ?」

「……そりゃあもちろん、スゴイ人よ!」メルはぱっと明るい顔になった。「わたしは『ステロ誕生!』でデビューしたんだけど、グレズノさんにはその頃からお世話になってるもん。わたしがここまでやってこれたのはあの人のおかげでもあるの。」

「へえ、そりゃあ、大したものだ。」

このメルというアイドル、偶然にしてはできすぎているくらい大当たりかもしれない。

「なあ、その話をもう少し詳しく聞かせてくれないか。」

「いいわ。……と言いたいところだけれど、もう楽屋に入らなきゃ。でも大丈夫。出番までは暇があるから、続きはそっちで話さない?」

メルは立ち上がってお尻をポンとはたいた。


チュロ・グレズノは中央の象徴的な高層ビルを中心とした、敷地内にあるいくつもの建物の集合からなる。敷地に入る関係者用ゲートをくぐれば、そこはもうメディア業界のテーマパーク――またの名を「ごった煮」になっている。大型倉庫には大規模なセットが丸ごと保管されているし、大ホールでは今日はコンサートがあるというのでその裏方もせわしなく動いている。テラレジアの俗世間を動かす「物語」は間違いなくここで作り上げられているのだ。

大物アイドルが関係者として紹介してくれたとはいえ、ここまですんなりと内部に潜り込むことができたのに二人は拍子抜けした。二人は変装など全くしていないから、彼らこそ「悪名高きアーク&フェルド」であると一目で見抜けてしまう風体であった。実際、その正体に気付いたであろう、彼らを前にして目を見張る人間は幾人もいたが、だからといって警備の者に取り囲まれることもなかった。当たり前といえば当たり前だ、犯罪行為には一切走っていないのだから……少なくとも「今のところは」ね。

メルが目指すべき『ザ・ベスト100』収録スタジオは本館の低層部にある。スタジオはテラレジア公共放送をはじめ、いくつかの局が共同で利用しているものである。熾烈な視聴率争いを繰り広げている裏番組同士が実は同じスタジオで収録されていたなんて、カノンに教えてやったら派手に驚くだろうと思った。

彼女が言った通り、メルの出番にはまだまだ猶予があるということで、しばらくは楽屋で時間を潰すことになっていた。人気アイドルのメルメルともなれば『ザ・ベスト100』の常連で、段取りはすっかり身体に染みついているから今さら練習なんて必要ないのだとか。

メルは楽屋の個室で鏡の前に向かっていた。部屋に用意されていた衣装もほったらかしにして、黙りこくっている。二人は部屋の中央のテーブルに向かって彼女の背中を眺めていた。鏡に映ったメルの顔はひどく神経質になっているように見えた。こんな状態でもう十五分以上は経っている。

アークは長い沈黙にしびれを切らしてメルに声を掛けた。

「大丈夫か?」

「あっ、はい!」メルは鏡の中の二人と目を合わせた。「ごめんなさい……わたし、ここにくると頭の中ぐちゃぐちゃになっちゃって。もしかして、何か話しかけてました?」

「いいや、別に。ただ、さっきとは様子が違って見えたから。」

「構わねえさ。」フェルドは頷いた。「一発勝負の生歌じゃ、緊張感が違うだろうしな。」

普段の佇まいを見ていると忘れそうになるが、彼女はまだ十七歳、そこらを歩いている芋っぽい女子高生と変わらない年齢なのだから。

「我々のことは気にするな。何なら、少しの間テレビ局見学にでも行ってくる……」

「待って!」メルは椅子をくるりと回して振り返った。「ここにいてください。もう少しだけ。」

メルは何かを求めているようだった。安らぎ、それを与えてくれる何かを。

「あ……ああ。」

「ごめんなさい。」

「いいさ、メルがそう言うなら。」

そこからまた沈黙が始まった。呼び止めたメルは何かを語り出すでもなく、身体を二人に向けたまま置物になってしまった。防音性の壁で囲まれ、廊下の忙しなさなど全く届かない小さな個室に、女の子一人の浅い不規則な呼吸がよく響いた。

アークとフェルドは目を見合わせた。お互いの考えることは全く同じだった。さっきとはまるで別人のようなこの少女はどうしてしまったのか、何がそうさせるのか、いつもこの調子なのか。ハッキリしているのは、核心に切り込んでいかなければ事態は何も進展しないということ。

「メル、話を訊いてもいいだろうか。」

「はい、そうでした、ごめんなさい。……えっと、何でしたっけ。」

「ステファノ・グレズノ……この名の男を知っているんだな。」

瞬間、メルの表情が一段と強張った。それは二人の大方の予想通りであった。間違いなく、彼女とグレズノとの間には何かがあるのだ。

「グレズノさんは、ひどい人よ。」

メルは俯いた。

「ひどい人……わたしを騙して。……ううん、騙したのはわたし。わたしが、みんなを。」

「聞かせてくれ、その話。」アークは王珠に指を触れた。「知っての通り、我々を『世紀の大悪たれ』だとか吹聴しているのはヤツだ。我々はヤツの敵だ。だからメルがここでヤツについて何を言おうと、君の立場が悪くなることは絶対にない。王の名に誓って、そう保証する。」

メルは上目遣いでこちらを見て、弱々しく頷いた。それから彼女はゆっくりと語り始めた。

「グレズノさんと知り合ったのはオーディションの頃です。『ステロ誕生!』の準決勝に進出した時に初めて声を掛けられて、それからその番組で優勝してデビューしたの。あの人の番組や企画にいくつか出させてもらって、ファンクラブも賑わってきた頃、ある日、あの人の部屋に呼び出されたの。そこでわたし、『ステロ誕生!』の真実を聞かされました。あの決勝戦でグレズノさんは視聴者と審査員の票を操作して、不正にわたしを優勝させたんだって。『このことがバレたらお互いにオシマイ、わたしたちは運命共同体だ』って言われたわ。その上で、あの人は局でも権力を持ってるからなんとかすることができるって言われて。だけど『その代わり』だと言われて、わたしはあの人に……。以来、わたしはあの人の前では何も言えなくなっちゃって、ずっと、悪いことをし続けてます。本当にごめんなさい。」

メルは顔を覆ってさめざめと涙を流した。

「みんなには本当にごめんなさいって思ってます。子供の頃から大好きだったオーディション番組をわたしの手で汚してしまったことも、それを隠して純真なアイドルを演じ続けていることも。もういっそ全部おしまいにしちゃいたいわ。わたしなんて、ただの『偶像』に過ぎないんだもん。」

「メル……。」

「よもや、だな。」アークは呟いて立ち上がった。

「ごめんなさい。」メルはしゃくり上げた。「二人の前でこんな風になって、困らせちゃって。」

「いいんだ。とりあえず……衣装に着替えたらどうだ。君はそれでもアイドルなのだから。大丈夫だ、一人にはしない。我々は……あっちで向こうを向いているから。」

アークは壁にかかっていた衣装を渡してやると、フェルドを連れて部屋の隅に移った。そこで二人は顔を突き合わせた。

「話は十分だ。」フェルドは部屋の対角にいるメルに聴こえないくらいの声量で言った。「今すぐあのクソ野郎をぶっ飛ばしに行こう。今のがメルの本心だ、さっきまでのは、アイツに心を呑まれていたんだ。」

「いいや違う。」アークは首を横に振った。「むしろ逆だろう。」

「何?」

「いくら我々がヤツと対立しているとはいえ、自分の身すら危うくなる情報をこうも簡単に暴露するのは現実的に考えてリスクが高すぎる。ましてここはグレズノの居城、壁越しに誰が聞いているとも知れないのに。ひどく動揺している今の状態こそが正気じゃないんだ。」

「じゃあ、ここに来る前までのメルはヤツの現実に罹っていない正気で、今のメルが手管に掛けられた状態だってか。でもいつの間に?俺たちはここに来てからずっと一緒だったが、グレズノ本人には会ってないんだぜ。」

「刷り込み、だよ。」アークは指を掲げた。「カノンの時に言ったよな?他人の現実に呑まれても、一度や二度なら問題じゃないって。『問題』なのがこのパターンなんだよ。他人の現実に呑まれたとて、普通なら相手と距離を取ってしばらくすれば、自然と心が落ち着いてその状態から解放される。ただし、『深く』呑まれた場合はそうではない。繰り返し、繰り返し、強く干渉を受け続けたなら、心の奥底に刷り込まれたヤツの現実が、本人を前にしなくても自然と蘇る。そのトリガーは例えば――ヤツの居城たるこの建物に入った時、とか。おそらく、グレズノはメルに手を出した時、彼女をひどく精神薄弱で無防備な性格に変貌させたのだろう。今のメルはその状態になってる、だから合理的に判断する力を欠き、本来ならリスクの高い行為であるはずの真実を告白してしまった。」

「アーク……お前の話の通りなら、メルはここに来るといつもあの調子になるってこった。じゃあテレビに出演してる時のあの天真爛漫な笑顔は?アイツは本当の感情を押し殺してニコニコ笑っていたってことか?」

「ああ……そうなる。」アークは歯を食いしばった。「こんなになるまで心を削ってきたってことだ。」

「それ以上言わなくていい。クソッ!」フェルドは拳で目の前の壁を叩いた。「アーク!お前の力で何とかならねえのか?お前の現実の中で、メルのつらい思い出を全部忘れさせてやれないのか?」

「ダメだ。余の力は催眠術ではない。人の心は本来自由であり侵すべからざるものだ。計略に掛け、みだりに操ろうというのなら、グレズノと変わらないだろ。」

「だけどよお……。」

黙り込んだ二人にメルがそっと声を掛けた。

「あの……もうこっち向いていいよ。」

振り向くと、メルは衣装を着て立っていた。衣装は今日披露する夏の歌に合わせたもので、テラレジアの夏の海を思わせる鮮やかなブルーが印象的だった。その煌びやかな姿に二人は暫し言葉を失った。

「こりゃ驚いたぜ。似合ってるなあ、本物のメルだ。」

「やあねえ、最初っから本物よ。」

メルはにわかに調子を取り戻して見えた。それがカラ元気であることは分かっていたけれど。

こんな悲しい笑顔は今夜で終わりだ。

「アイドルは、王座に就く者に似ているな。幾万のファンが共にあっても、舞台に立つその瞬間だけはたった一人なのだから。」

「負けんなよ、メル。つらいこと、苦しいことがあっても、乗り越えて笑うんだ。その笑顔一つで救われるヤツらが、お前にはいるだろ。」

「ありがとう、アークさん、フェルドさん。」

「礼は言うな。」アークは目を閉じた。「言わないでくれ。」

メルは彼の様子を不思議に思ったが、何も尋ねなかった。答える代わりに両手でそれぞれ二人の手を取った。

「行ってくるね。また会えますか?」

「そうさな……全部終わったら、『テラレジオ・ポスト』って新聞読んでみな。こっちは……レコードをかければいつでもメルメルに会えるからな。」

「いつでも応援してる。」

「うん……分かった。」

メルは最後にもう一度ぎゅっと手を握ってから、するりと手を離して楽屋を後にした。再び静かになった部屋で二人は立ち尽くしていた。

これからグレズノを成敗しに行く。必ず成功させる。かの男を罰してやれば、グレズノの悪行は広く知れ渡る。その中には、グレズノのメルの関係も含まれるだろう。そうなった時、メルはもう一度立ち上がることができるだろうか。二人にしてやれることは何もない、すべては彼女自身が現実にどう立ち向かうかだ。

アークは自分の手のひらを見つめた。

「ステファノ・グレズノ……天を突くほどの貴様の傲慢、必ず崩してみせる。」