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EX2-1

「ガリバン印刷」を知っているだろうか。

印刷に使う「ガリ版」のことを言ってるんじゃない、「ガリバン」は人の名前で、ガリバンさんがやっている印刷屋だから「ガリバン印刷」。「知っているだろうか」などと大上段に構えてしまったが、知らなくても無理はない、首府にあるとはいえ、その片隅の、太陽通りにある小さな個人経営の印刷屋なので、地元の人間しか知るはずはないのだ。今では数を減らしつつある活版印刷の印刷屋で、昔ながらのやり方でチラシやら製本やらを良心価格で引き受けてくれる。

この店の主人、ガリバンという爺さん、これが絵に描いたような石頭。四角い額の上に白髪がちょっぴり乗っていて、いつも身につけているのはインクの染みついた前掛け。骨ばったしわくちゃの手は、指の先だけはするりと滑らか。何十年も紙をめくり続けてきて指紋がほとんど消えちゃったという。接客の時も顔色一つ変えないで、話を聞いているんだか聞いていないんだか分からないくらいの様子だが、納品する品には間違いがない。生まれも育ちも首府の太陽通りだというので、この食わせ爺、街の人たちからはそれなりに尊敬されているらしいのだ。

ガリバン印刷の名物店員はそれだけじゃない。他に若いのが二人いる。最近になってこの街に住み着いたよそ者らしく、名前はアークとフェルドというのだが、これが、あまいますくに騙されてはいけない、根っからのろくでなし。本当は誰かの下について働くなんてまっぴら御免ってタチの不良なのだが、それでも、この印刷屋でガリバン爺に従って仕事をこなしている。もちろん、何から何まで従順というわけではないけれど。こいつが不思議なのだ。給料だって雀の涙くらいしかない小さな印刷屋で、どうしてこの二人組はぶつくさ言いつつも働き続けているのか。そこには語るに足るお話があるんだとさ。


太陽通りの一番地、一階のガリバン印刷。まだ朝の肌寒さが残る首府特有のくすんだ空気に、威勢の良い言い争いの声が響いている。店の奥には老人一人と青年二人が向き合っていて、その表情はとことん険しい。

「いいか、よく聞けよジジイ!」フェルドは声を荒げた。「人間の三大欲求っての知ってるか?すなわち、メシ食って、エッチして……寝る、だ!いいか、順番が大事なんだぜ。まずはメシに誘う、そのままの流れでやることやったら、最後はぐっすり寝る。こうでなきゃいけない。ところがガリバンの爺さんよお、アンタときたら、それを邪魔しやがった。『寝る』っつー一番大事なところをな!先鋒、中堅、大将、何事も三番目が一番重要だ。その三番目をアンタは不当に奪ったんだ、分かる?」

「分からねえよ。」ガリバンは唸った。「太陽が昇ったら起きろや。早起きは『三』文の得だろが。」

「三文ぽっちが何の役に立つかね。」

「知らねえよ、だが、お前らが払ってねえ家賃の足しにゃなるだろ。いいかクソガキ、それなら国民の三大義務ってのを教えてやるわい。勤労、納税、義務教育だ。働きもしねえ、家賃も入れねえ、いい歳して身も固めねえでお前らお得な三点セットだよ。」

「お役人かっての。なあ、おい、アーク!」

「国民の三大義務か。」アークは頷いた。「そりゃあ否定しないが、余は国王だからその義務は適用範囲外だな。」

それを聞いてガリバンは鼻を鳴らした。

「涼しい顔で立ってるお前が一番のくせ者だ。王だか何だか知らねえが、そうやって夢語りゃ気楽に遊んで暮らせるだろな。言っとくがわしはお前らみてえな口先で『正義まがい』を振りかざす若いのが一番嫌いだ。」

「は?」アークの目から光が消えた。「貴様、それマジに言ってんのか?」

ああ、こりゃあマズいなと思ったのは隣にいたフェルドの方で、それは先ほどまでの自分自身の剣幕がすっかり収まってしまうほどのものだった。場の空気が色を変えたことにガリバンは気付いていなかった。

「あー、爺さん、ちょいタンマ……」

「上等だ!」アークは襟元の王珠に指を添えた。「ガリバン、貴様は王家に唾を吐いた。今すぐ詫びろ、そうすりゃ勘弁してやる。」

「ハッ、冗談じゃねえよ。」

「そのナメた態度、悔い改めさせてやるよ。王の威をもって……」

「三人とも!ちょちょ、ちょっとストップ!」

店の奥から見慣れない声が響いてきたので、三人は一斉に振り向いた。

階段室の扉の陰から印刷所の様子を覗いていたカノンが、ついに身を乗り出して両手の平を前に突き出していた。

「カノンじゃねえか。」ガリバンは拍子抜けした。「お前さん、一体いつからそこにいたんだ?」

「さっきからですよ!」

「どの辺から?」

「えっと、人間の三大義務が、ごはん食べて、寝て、その……アレだってところ。」

「義務じゃなくて欲求な。」フェルドは指折り三つ数えた。「それだとお前、義務を一個果たしてないことになるぞ。」

「うるさいなあ!もう!」

アークは苦笑いした。カノンはいっぱい食べていっぱい寝てるから二つでも十分すぎると思う。

「カノン、ちょうどいいところにおいでなすった。どういうことか説明してもらおうじゃんか。」

「え、わたし?」

「ああそうだ、もとはと言えばお前が発端らしいからな。」

ガリバンも腕を組み、二人に合わせて頷いている。カノンは自分の運命を嘆いた。編集長に下の階の様子を見て来いと言われたので来てみたら、ものすごく間が悪かったかも。

三人は代わる代わる話すので事の次第をすべて把握するのは思いのほか骨が折れる作業だったけれども、カノンはやっとのことで話を整理した。

「つまり――この建物の三階に住んでいるアークさんとフェルドさんは、ガリバンさんが毎朝早朝に印刷機を動かすのでその音と振動に困っていると。ガリバンさんはそれを込みでお部屋の家賃を相場よりずっと安くしてるんだけど、二人はそれを承知していなかったと。それというのも、二人は入居の時にガリバンさんからその話を聞いていなかったからで、ガリバンさんの方はと言うと、二人との仲介をしたわたしが事前に説明を済ませているものだと思っていたから、なんですね。また、それとは別件で、二人の家賃の支払いが滞っているという話をわたしが聞いて、わたしがそれについてガリバンさんと話していた時に、『プー太郎の二人を家賃の代わりに印刷所で働かせたらどうか』って言いました。ええ、記憶にあります、確かに言ったと思います。それがきっかけでガリバンさんも渋々そのつもりになっていたところで、この件に関して初耳だった二人が断固拒否して言い争いになった、と。」

「おお、すごい理解力。さすがカノンだ。」

「そうでしょ、これでも記者ですから。えっへん。」

アークがわざとらしく褒めるので、カノンもわざとらしく威張った。

カノンはここまでの話をメモした手帳をじっと覗き込んだ。仕事柄、大事な話を聞く時はメモを取ってしまう。速記は彼女が短いキャリアの中で身につけた特技だ。

「いやあー、」カノンは間抜けな声を上げた。「でもこれ、わたし悪くないですよね?」

「『悪気』はねえがな。」ガリバンは鼻を鳴らした。「話の中心にお前さんがいるんだわ。」

「ホントですねー。えへ。」

呑気である。

「まあ、ハッキリ言ってこれまでの話はどうでもよくなった。それよりも」アークは再び王珠に触れる。「さっきの言葉は取り消すことだ。」

「取り消さねえよ、『王様ゲーム』野郎が。」

「このジジイ、もはや何を言っても無駄か。」

「ストップストップ!」

カノンは再び後ろ向き駐車の誘導係が最後にするポーズを取った。

「二人とも、一旦上行きましょう、上!あっちで話しましょ!ガリバンさんは、また後で。いいですよねフェルドさん?」

「ああ……その方がよさそうだな。まずはこの馬鹿の頭を冷やさねえと。」

「あ?お前は余計な口を挟むなよ。」

「よーし!レッツラゴー!」


カノンの無理に明るく振る舞う声に、アークは意外にも黙って従った。実のところ、自分からは引き下がれなくなった彼が待っていたのは第三者の仲裁だったのかもしれない。

そういうわけで、三人は二階の事務所にいる。それも、編集長の机の前にいる。

「なんでここに連れてきたんだよ……」

編集長は額に汗をにじませた。

「お願いします編集長、こういう時に頼れるのが編集長しかいなくて……」

「ライカ……。んまあ、仕事中だが、特別聞いてやらんこともない。特別な。」

「なんでこのおっさんちょっと嬉しそうなの?」

ちょっと嬉しそうなおっさんはカノンがメモ帳越しに話すのを聞いていた。ちょっと嬉しそうなおっさんは最後まですっかり聞いたところでうんうん唸った。

「そりゃあ、このろくでなし共が全面的に悪いだろ。」

編集長は人差し指を左右に揺らした。

「そんなあ。もう少し公平にアドバイスくれませんか?」

「俺は社会の規範に則って公平に意見しているんだが。契約内容をよく確認するのは消費者の責任だし、後の件に関しては贔屓目にみても家賃を払わないのが悪い。ただ、ライカの詰めの甘さはご存知の通りだからな。そういうところ、仕事の時もいつも言ってるだろ。」

「はい、スミマセンでした。」

カノンはぺこりと頭を下げた。

「時にライカ、君の住んでる家はどんなものだね。」

「家ですか?」カノンは自らの部屋を思い出した。足の踏み場がないくらいに物が散乱しているが、それらを全部放り出してみる。「四畳半くらいですかね。西向きの窓が一つで、お風呂はありません。」

「なるほど。聞いたか君たち。」編集長は二人の顔を見上げた。「ライカだってこうして自分で部屋を借りて住んでいるんだぞ、なのに君らときたら。家賃を払わないでも追い出されないだけ、爺さんも情があるってものだ。この事務所だってな、大家の爺さんに賃料を払っているんだ。言っとくが君らの家賃なんかよりずっと高いぞ。」

「そうなのか。じゃあジジイはその家賃だけで十分生活できるんじゃ?」

「んまあ、そうかも。」編集長は独居老人の生活を漠然と思い浮かべた。「印刷所の収入もあれば足りるなあ。」

「じゃあこれ以上稼がなくてもいいんじゃない?」

「おい、お前らなあ……」

編集長は大きな大きなため息をついた。

「仕事にしたってそうだぞ。ここにいるライカはな、一年くらい前、ある日突然この事務所に飛び込んできたんだ。『ここで記者の仕事をさせてください』って。ウソみたいだろう。これでも大手新聞社だぞ?しかも事務職ならまだしも記者なんて、大学生が就職戦争を勝ち抜いてやっと入れるところだ。それを『記者じゃなきゃやりません』なんて強情張ってさあ。」

そんなこともあったっけ、カノンは顔が熱くなった。あの頃は家出同然で上京してきて、世間のことなんて何も知らない子供だったな。

「しかし仕事ってのはそういうものだ。それだけ強く望んで、やっとのことで手に入れるものだ。どんな仕事だって社会に必要なものだぞ、機械はネジ一つだって抜けちゃ困るものだろ。それを君らはやりたくないだのとゴネて、いいご身分だ。」

「そういうことも、あるだろうな。」アークは頷いた。「要は夢とか目標だろ?カノンの場合はそれが記者という形を取ったと、そういうことだ。ミソなのは、何を人生の価値と捉えるかだ。余の場合は……少なくとも、印刷屋の仕事ではない。」

編集長はこれ以上言うまいと思った。また嫌な思い出が増えるのはまっぴらだからな。

「結論、住む所に文句があるなら出て行けばいい。家賃を払う気がないなら野宿でもすればいい。……と、言いたいところだが。」

編集長は椅子をくるりと回して背後の窓に向いた。二階からは通りの表がよく見える。

「確かに君らがここから出て行くなら俺としてはこの上なく気分爽快だが、今はそうもいかない。元はと言えば爺さんが早朝に機械を動かすのは上で働く我々に配慮してのことだろうしな。せっかくライカの頭角が現れてきた頃に君らが消えるってのも……アレだ。ライカのためには、君らが必要だからな。」

「編集長……」

「まあ何とか折り合いをつけろよ、その辺は。」

編集長は「分かったらとっとと行った」と呟いた。その言葉で追い払われるように三人は机から離れていった。

「家賃のことは何とかしなきゃとして、印刷機の音は困りましたね。かといってあの値段であんなにいいお家なんて他にないですし……あ、じゃあこういうのはどうですか?家賃は何とかして払ってもらうとして、ここのお家にはわたしが代わりに住みますよ。それで二人はわたしの部屋に住んで……」

「四畳半に男二人は無理があるだろ。」


カノンまでもが仕事に戻ると二人は構ってもらえなくなるので、いよいよ手持無沙汰になって事務所を飛び出した。上の階で燻っていても仕様がない。外に出たところで結局はどこか別な場所で油を売るだけとは分かっていながら、それでも階段を下りることにした。口論の末に別れたばかりのガリバンと鉢合わせたら厄介なことだが、彼はいつも印刷所の奥まったところにある机に向かっているので、階段室から外へ出て行く二人が顔を合わせるはずはなかった。おそらく階段を下りる足音くらいは聴こえていただろうが。

二人はそのまま道路を渡って向かい側のバル「相席屋」に足を運んだ。

ランチタイム前のこの時間帯は言うなればカフェ営業といったところで、コーヒー片手にくつろぐ主婦や老人の姿ばかりである。遅めの朝食とか、心を落ち着かせる至福のひとときだとか、様々に呼び方はあつらえてやることができるが、要は手空きで予定がないからここでダラダラしているだけなのだ。実情はみんな同じだ。

アークとフェルドは揃って店内を見回した。カウンターもテーブルも十分に空きがあって、どこでも好きなところにお座りくださいといった調子だ。その中でも二人はカウンター席の一番奥側に腰掛けた。カウンターの出入口よりさらに奥にあるその二席は穴場である。普通は隠れ家席といえば店の隅にあるテーブル席が思い浮かべられるが、角地に面したこの店において、テーブル席はどこも窓に面して明るく、「すみっこ」という感じがしない。その点、カウンター奥の二席は店の中央近くにありながら実は誰の目にも触れにくく、カウンターの出入口を隔てているために他のどの席とも一番離れていて、忙しく出入りするウエイトレスのことを気にしなければよい所である。おまけに、店奥のジュークボックスの主導権を握ることができる。

席に着く前に二人はジュークボックスの前に立った。やたら年季が入って木枠の縁が擦れているやっこさんは、店主が知り合いから貰い受けた品らしい。

「リクエストは?」

フェルドはポケットを探って小銭を取り出した。

「別に。」

「じゃあ好きな番号言ってみ。」

「……三十二。」

フェルドは機械に顔を近付けてレコードのリストを指でなぞった。それから三十二番で指を止めて唸った。

「……三十二以外で。」

「じゃあ何でもいいよ。」

「あっそう。じゃあ……これ。」

「訊いた意味ないじゃんか。」

フェルドは小銭を放り込んでボタンを押した。リクエストを受け付けたやっこさんはゆっくり動き始めて、二人が席に着く頃にはフラメンコギターの音色を奏で出した。歌詞がないこの曲でも、感情は伝わってくる。これは恋人と別れた寂しい男の歌だ。……なに、大概はこんなことを言っておけばそれっぽく聴こえてくるものさ。

「ジュークボックスって不思議なもんだ。」フェルドは独り言つ。

「何が。」

「あれに金を入れたのは俺だが、曲を聴いてるのはお前も一緒だ。それだけじゃない、ここにいるやつ全員がこの曲を聴くことができる。すると、俺は誰のために曲を入れたんだ?……だがよ、だからといって、『ちぇっ、俺の金でかけた曲にみんな聴き入ってやがる、コソ泥するんじゃねえ』とは思わねえし、『こうなるなら他のやつに小銭を入れさせりゃよかったぜ』とはならねえんだ。ここが不思議なところ。きっと、ジュークボックスの中で回ってるのはレコード盤だけじゃねえのさ。」

「そうかもな。」

回ってきたウエイトレスに二人はコーヒーだけオーダーした。他に軽食をつけてもよかったのだが、「どれがいいか」って話し合うのも面倒だし、食事のためにここへ来たのではないのだから。

間もなく運ばれてきた二杯のエスプレッソはそれぞれの前に並べられた。いつからか角砂糖とシロップは運ばれてこなくなった。二人はいつも何も入れずに飲むことを店員も分かっているからだ。

「アークよお、お前のせいで話が面倒になったぜ。」そう言ってフェルドはカップの縁に口をつけた。「ああも言われちゃお前の方からは絶対引き下がらねえだろ。」

「その気はさらさらないね。他の部分はどうでもいいが、あの台詞だけは撤回させる。」

「分かっちゃいるけど、ねえ。」

「余だけが掲げることのできる矜持だ、世界でただ一人。誰に言われようと取り下げないし、誰彼に理解してもらうつもりもない。」

アークは言い切ってから、「……だが、」と続けた。

「まあ、その、悪いことしたよ、カノンには。」

フェルドは「そうだよな」と頷いた。

「それが分かってりゃよしとするか。」

「だけどさあ、元々『早朝に印刷機回すな』って怒鳴り込んだのはフェルドじゃん?」

「お前も割にキレてたと思うんだけど。」

「もう少し穏便に済ませられた。」

「ジジイの生活習慣と俺の生活習慣は真逆なの。ニワトリとフクロウくらい。」

「フクロウだって昼間は起きてるよ。」

フクロウがどうのと語ることに何の意味もない。二人は揃ってため息をついた。

ジュークボックスの音楽は鳴りやんでいる。他に誰かが曲を入れる様子もないので、ひょっとすると夜の賑やかな頃になるまでだんまりが続くんじゃないだろうか。

「別に家賃を踏み倒そうって気はないんだ。」アークはカップを置いた。「そのためにどこかしらで働くのだって順当なことだと思ってる。それがガリバンのところだって、その気がないわけでもないし、それなら手っ取り早いかなとすら思ってる。ただ……その必要性を感じないってだけなんだ。『まっとうに手に職をつけろ』とかそういう説教が、背中で鳴ってるジュークボックスの音楽くらいにしか思えない。」

フェルドは薄ら笑いをコーヒーの水面に浮かべた。

「全くもって同意だよ、哀しいことにな。お前はド田舎の島で一体どんな生活してたんだ?」

「『何も』。それが答えだ。流刑に処された王家に与えられた土地は、島の外れの、荒地ばかりが広がるところでさ、何もないんだ、百年前から、今でも。だから働いたことなんてないし、その手の社会の圧力に晒されたこともないね。」

「だろうな。生まれてこの方ド田舎中のド田舎で暮らしてきたお前と、こないだまで十年間刑務所暮らしだった俺と、同じらしいや。俺たちは、ガキが社会の仕組みを学ぶって大事な時期を、まるっきりすっ飛ばして今日まで来ちまったんじゃないのかね。」

「かもしれない。」

瞼の裏に浮かぶのは、背の高い草が一面に生えた荒れ野。岸壁の下に真っ黒い大西洋が広がっていて、いつだって海風が強く吹いている。できることなら思い出したくないんだけど、忘れることもできない。

発達心理学なんて何一つ知りはしないが、フェルドの言うことがそれらしいとして、そのことが何の免罪符になるだろうか。事情はどうあれ編集長が言ったような感想を誰もが持つだろうし、それが理不尽だとも思わない。

きっと、世の中は「そういうもの」で一括りにできる仕組みで支配されているんだ。食パンを入れたらトーストが飛び出てくるもの、お金を入れてボタンを押したらジュースが出てくるもの、正しくダイヤルを入れれば遠くの人と話せるもの。「そういうもの」に対して「どうしてそうなる必要があるの?」なんて訊いても仕方がない。

その時、二人の頭に「よお」って声が降ってきた。見れば、太ったコックがリンゴのような頬を丸々輝かせて微笑んでいた。

「アンタら、しけたツラしてどうしたのさ?」

この穴場席の唯一の欠点といえば、厨房が近くて時たまコックに絡まれるということだった。

このコック、名をガストロといって「相席屋」の店主である。バルベクオはじめ、店自慢の味はすべてこの男によって作り出されている。気が良くて仕事の合間に常連と言葉を交わすことも欠かさない。時には自分自身が料理を配膳して客の顔を見に来たりする。つまり、話したがりなのだ。

ガストロは手が空いたと見えて、近場の二人に声を掛けたのだった。

「アンタら、今朝は爺さんと言い争ってたな?」

「まあね。」アークはぶっきらぼうに答えた。そこまで分かってんならわざわざ確認するまでもないだろうと思いつつ。

「爺さんをあんまりいじめちゃなんねえよ?流石に若いのには敵わないからなあ。」

「そんなタマじゃねえだろ、あのジジイは。」

「それもそうだな!アッハッハ!」

ガストロはそれからも「それで何があったよ?」と事情を尋ねた。二人もいつもなら適当にあしらうところ、この時は馬鹿正直に頭から尻まで話をしていた。

「ええ、それじゃアンタらあそこを出てくんか?この街からも出てくんかね?そりゃあ困るよお。街の人らだってようやくアンタらがいるのに馴染んできた頃だってのにい。」

「別にそんなつもりはないが……ていうか、困るのか?」

「困るよお、困る。」ガストロはコック帽を縦に揺らした。「アンタらがやってきてこの街も平和になったもんよ。なんせアンタら、強面だもんねえ、目の届くところで悪さしようなんて考える輩はいないぜ。新聞にも載ってるじゃん、あの小説!」

「なんでえ、人をネズミ捕りのネコちゃんみたいに言いやがってよ。」

「こないだだって、近所の不良にビシッと言ってやったんだろ?その中の一人の親とおれは知り合いなんだけどさ、言ってたぜそいつ、『息子が真面目になった』ってさ。」

「あー……もしかしてあれか。彼らが狭い道でたむろしてタバコを吹かしてたから、文句を言ったら突っかかってきたんだ。」

「ああ、きっとそれだよ!息子が言うには『あんなろくでもない大人にゃなりたくないからおれはまっとうに生きるんだ』だってさ。」

「反面教師じゃねえか。」

「そうか?でも結果オーライじゃんか、アッハッハ!」

ガストロは一人でひとしきり笑って、それからカウンターから身を乗り出して「でもよ」と言いながら微笑んだ。

「この街がよくなったってのはマジな話さ。ウチは人のウワサ話をよく聞く商売さ、その限りじゃ、この辺りの人らみんな、あの新聞読んでるんだぜ。『あいつらって向かいのあの建物の三階に住んでるんだっけ?』『現代の王様?とんでもないろくでなしよねえ』なんて話してっけど、そん時のその人らの顔ときたら、それはそれはニコニコよ。……人の心に残るってのは、簡単なことじゃねえよ。おれもそんな美味いメシが作りたいっていつも思いながらやってきて、もう何年経つか……。その点にかけちゃ、おれはアンタらから学ばなきゃならねえや!」

「さいですか。」

アークとフェルドは『テラレジア・クロニコ』の掲載以来、記事の反響というものは聞き及んでいない。それどころか記事の内容すらカノンに一任しているから、彼らの活躍はほとんど自身の意識の外で伝え広められていることになる。どうやら新王国の書記様はうまく仕事をやっているようだ。それだけでも結構なことだ。

それからガストロはこんなことも語った。

「それにさあ、今さらアンタらがいなくなったら爺さんも寂しいだろ。」

これには二人も耳を疑った。

「は?何言ってんの?」

「いいか、おれはこの街の生まれだけど、おれがガキの頃から爺さんはあそこで印刷屋やってんだ。爺さんの親父さんが開業した印刷所を継いで、この道半世紀以上ってワケよ。テラレジオ・ポストみたいな大手新聞も昔は街ごとに地元の印刷所に刷るのを任せてたらしくて、ガリバン印刷もどうやらそういう印刷所の一つだったらしいな。その名残で今でも二階には分社があるんだけど……ゴメン、何の話だっけ?」

「おい。段取りよく話せよ。」

「悪い悪い、とにかくよ、生まれてこの方太陽通りを見てきた爺さんだからこそ分かるもんがあるんじゃねえかな。アンタらが来てからの、この街の変化ってものがさ。それはきっと悪いものじゃないんだ、ううん、いいものさあ。だから、本当は爺さんもアンタらに期待してんじゃないかねってこと。だってさあ、本当に嫌いなら家賃滞納でさっさと追い出すっしょ?」

「それもそうだが、流石に勝手な解釈が過ぎるんじゃないか。」

「ウソじゃないんだって!」とガストロは顔の前で手を振った。「だってアンタらがここに来る前、通りの表で爺さんに出くわしてさ、そん時に……おっと。」

それきり彼は口をつぐんだ。二人が問いかけると口をすぼめて首を振った。

「これ言うなって言われたんだった。」

「ほとんど喋ってたじゃねえか。」

「ナシナシ、今の。」

「語るに落ちる、というやつだな。」

ガストロはだんまりを決め込んだ。かといって厨房に逃げ帰るのでもなかった。二人はこの話題を諦めるしかないようだ。

やがて三人ともだんまりになって、暫しの膠着状態を破ったのはアークの「わーかった」という気だるそうな掛け声だった。

「もっかい爺さんのところに行ってくる。」

立ち上がった彼につられるようにしてフェルドも立った。

「うんうん、それがいいさ。」

ガストロはカウンターの上に上げられた空のカップを、ソーサーごと二つ同時に持ち上げて、目線は正面の二人を向いて笑った。

「よかったら爺さんを連れてまた来てよ。あの爺ときたら、おれのメシが気に入らないときてんだ、何度言っても『めんどくせえから行かねえ』って言いやがんの。仕事場から徒歩十秒のくせにさ。」

「『めんどくせえ』のは店主なんじゃ?」

「おいおい、これも看板メニューだぜ。」

得意満面の真っ赤な頬はなかなか食えないものだ。


ガリバン印刷の店内は基本的に電気がついていないので、開店中も閉まっているように見えてしまう。頻繁に客が出入りするような仕事ではないから自然とこんな調子になったらしい。その中で、ガリバンは店奥の机で手元の明かりだけを頼りに作業をしている。

二人はわざと店の正面入口ではなく階段室を通じて直接作業場に赴いた。ガリバンはやはり机に向かい、裏口のそばに立つ二人に背中を向けていた。

二人は彼を前にして黙り込んでしまった。ここに来るまでにはどう話をしようか考えていたのだが、「相席屋」からここまでの徒歩十秒はいささか短すぎた。話をまとめるどころか「さてなんて言おうかな」と心の内で唱えている間に目的地に着いてしまったのだ。せめてコーヒーが残っているうちに考えをまとめておけばよかった。

顔を見合わせる。「やっぱり夕方まで待とうか」と目配せする。「夕方」というのはなんとなく決めただけで、そうする正当性は何もない。本当のことを言うと彼に言うべき台詞はもう固まっていて、それは仮に夕方まで寝かせようが、変わることはないと分かりきっていた。

やはり今しかない。

ところが、折が悪いこと、声を発しようとする寸前に先に口を開いたのはガリバンの方だった。

「七時。」

彼は背中でそう言った。

明らかに独り言ではない。けど、何の話?

「そんくらいの時間になりゃ、起きててもいい頃合いだろが。」

続けざまのその言葉で、二人はやっとガリバンが印刷機を動かす時刻の話をしているのだと気が付いた。

七時。相変わらずお早い時間だが、それは彼なりの十分な譲歩らしい。二人はややあって「ああ」と生返事をした。

ガリバンは手元の道具を置き、立ち上がってゆっくりと振り向いた。仏頂面は机上の照明に後ろから照らされて逆光ができあがっている。

彼はずいずい進み出て二人の前に立った。インクの染みた前掛けが身体の正面を覆い尽くしている。

「『正義まがい』のしょうもない若いのがいたのは、俺らの時代の話だ。あの頃に比べりゃ、今の若いのはずっとマシだ。お前さんらはその中でもかなりろくでなしの側にいるが……それでも、脳たりんじゃあねえ。今朝言ったことは、ナシだ。悪かった。」

「ああ、これ謝罪なのか」と、アークは正直にそう思った。最後の部分を聞くまではまるで正反対の意味に取れなくもなくて、本気で迷った。

「いいさ……余も言い過ぎた。この力は、そんなに軽々しく使うものじゃないんだ。」

大人の仲直りは、すごくアンバランスに成り立っている。

ガリバンはフンと鼻を鳴らして、それからこんなことを言った。

「カノンがお前さんらを連れて来た時は、いろいろ疑った。あの娘っ子は田舎っぺで、良くも悪くも馬鹿正直だからな、そこにつけ入られてこの男らに騙されてんじゃねえかと思ったさ。だがどういうわけか、アイツは出会って日の浅いお前さんらを信頼してた。まるでずっと前から縁が深かったみてえにな。それでひとまずはカノンを信じて、お前さんらを置いてやることにしたんだ。常々目を光らせて、悪人の尻尾を出しゃすぐに追っ払うつもりでな。ところがどうだよ、お前さんらが住み着いてみりゃ、カノンだけじゃねえ、この街のやつらに、次々に気に入られてくじゃねえかよ。最近じゃインテリ気取りの坊主頭だってそうらしいや。まるで水と油みたいな性格だと思ってたんだがな。……アーク、フェルド、お前さんら、何か人に取り入る奇術でも使ってるのかよ。」

「使ってないよ。……いや、若干一名は、そうとも言い切れない、けど。まあ気にしないでくれ。」

「とにかく……つまりはよお、今さらになってお前さんらを追い出したんじゃ、俺の方が恨まれるや。」

「ありがたいこって。」

「だが、」とガリバンは語気を強めた。「契約は契約だからな。別に、お前さんらから金を巻き上げずとも、老人一人は今さら飢え死にゃしねえ。だから支払いは待ってやってもいいが、それでも踏み倒しはさせねえぞ。」

「分かってるとも。その件についてなんだが……ここで働くってことで、埋め合わせられないか。できれば最低限暮らせる分の金も払ってくれたらいいのだが。」

「ふむ、」ガリバンは考え込む様子を見せた。「一週間だな。お前さんら二人合わせりゃ、それだけやれば家賃分になるだろ。後の日数は働きゃその分は出してやる。言っとくが、毎日頼む仕事があるわけでもねえんだ。仕事ができた時にゃ、前日に声かけてやるよ。それで構わねえかよ。」

「いいぜ。こっちだって毎日暇じゃあねえからな。」

「カノンにはプー太郎って言われてるが、実際、我々にはやることもある。」

「そうかよ。」

敢えて訊くまい、ガリバンは思った。どうしても知りたきゃ例の新聞記事でも読めばいいってことだろう。

「とりあえず明日来いよ。印刷機はまだ触らせねえが、それ以外でひとまず基本を教える。」

「ああ、分かった。」

「よろしく頼むぜ、親爺。」

話が終わると印刷屋の新しい従業員たちは階段をどたどた駆け上って自分の部屋へと去っていき、後にはガリバン一人が残された。

ガリバンはまた彼の「定位置」に戻る。机上には使い込まれた彼の道具たちに並んで、今月のカレンダーが一つ。無地の用紙に黒のインクで数字が並んでいる。よく見るとそれぞれの文字は紙に押し込まれた跡が見え、これが活版で刷られたこの店の特製カレンダーだと分かる。

近頃は日々が流れて行くのがやけに遅い。かつては紙の上を滑っていくようにとめどなく流れた時間が、この頃は、今日あったこと、感じたこと、その一つ一つを丁寧に拾い上げて、一日という一枚の版を作り上げているようだ。

……こんなの気のせいだ、とも思うのだが、現に、これまではこんな風に日々を感傷的に捉えることなんて無かったじゃないか。

とんだろくでなしを住まわせちまった。新しい前掛けを二つ用意しよう。