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EX1-1

カノンは店内に流れるその音楽に聴き覚えがあった。ゆったりとしたリズムに乗せてピアノの伴奏と弦楽器のメロディが奏でられるのだが、何よりもその曲を特徴づけるのはパーカッションを刻むコンガとマラカスの調子だった。それは遠く海の向こうは南米の音楽で、歌詞はスペイン語の、確かコーヒーがどうたらという内容だったはずなのだが、彼女はそこまでは思い出せなかった。音楽は店の奥のジュークボックスから流れてくる。彼女よりご年配のあのジュークボックスに入っているのだから、きっとカノンが生まれる前のレコードなのだろうが、それがいつなのかは分からない。分からないでもさしたる問題はない。おぼろげな記憶で、思い出そうとしても思い出せない曖昧な感覚が、人生の中で何かめちゃんこ重要な意義を持っていることなんて、そうないのだから。

カノンはバル「相席屋」のテーブル席に座っている。この店は事務所の向かいにあって、日頃から昼食や原稿作業のために足繫く通う場所だが、今日は一人ではなかった。たくさんの小皿料理が並んだテーブルの反対側には、男が二人、皿の食事を品も味わいもなしに次々口に放り込んでいた。その光景は目立つというよりむしろ異様であった。二人の男はこの店に似つかわしくない格好をしているのだ。「似つかわしい」か「似つかわしくない」かを個人が勝手に判断するのは見当違いだし、それを言うならカノンのような田舎から出張ってきて二年と経たないぺーぺーが、首府で大手新聞社の記者をやっていること、その方がよっぽど似つかわしくないのだろうが、それでも彼女はそう感じざるを得なかった。

男の一人、向かって左側に座っている方は、赤いジャケットに雪みたいな真っ白い髪をしていて、右側に座っている方は、ケチャップ一滴が跳ねるのも恐ろしいほどの白い服に、後ろへ撫でつけられた深い色の髪がきっちりと固まっている。何よりも、その襟元に輝く巨大な宝飾が目を惹く。純金らしい金具に嵌った透き通る球状の宝石は、よく見ると無数の平面で構成されていて、そのどれかがこちらへ向けて光を反射させ、全体として常に煌めいて見える。カノンは生まれてこの方、両親の結婚指輪以外の宝飾品を手にしたことがないが、それでもこの男の襟にすんと収まっている宝石が、途方もなく高価な代物であることだけは分かる。それだからこの男たちは「似つかわしくない」のだ。

赤い服の男の名は、フェルド・スター。白い服の男の名は、アーク・ウエスト・〝テラレジア〟。カノンが食卓を共にしている男たちに対して知り得る情報はそれくらい。綴りも分からない。ただし〝テラレジア〟の部分だけは国民全員、間違えようが無いと思う。それがこの国の名前なのだから。

フェルドが肉焼きを頬張りながら顔を上げた。

「しかしよお、あれは傑作だったな?アフロヘアの驚いた、顔。颯爽と現れた俺たちに、まさしくガクゼンって感じだったな。」

「ああ、最高だった。」アークは答えた。「大聖堂の真ん中で天啓でも降りてきてるのかってさ。」

「記者ちゃんもそう思ったろ?あの顔、撮ってないの?」

二人の視線を向けられてカノンはどきっとした。

「すみません……撮ってません……。」身体をもじもじさせながら答える。

「残念だなあ。アフロヘアのビビり顔を知ってるのはこの国で俺たちと、記者ちゃんだけなんだぜ?」

カノンは引きつった笑いを見せた。「アフロヘア」というのは、この国の大統領のこと。比喩でも何でもなくて、本当にアフロヘアだからそう呼ぶのだ。人の仰天した姿をおかずに飯を食べるなんて失礼極まりないことだが、正直なところ、カノンもあれほど驚いた人を見るのは初めてで「面白い」と思わなかったと言えば嘘になる。

「あの……」

「なんだ、記者。」

「わたしの名前、カノン・ライカっていうんですケド……。」

「ん?知ってるけど?ていうかさっき名乗ってたじゃん。」

「はい、そうでした。」

覚えてたなら「記者ちゃん」なんてお尻がむずがゆくなるような呼び方をしないでほしいんだケド。

「お二人のこと、何とお呼びすればいいですか?スターさんに……〝テラレジア〟さん?」

途端にフェルドがブッと噴き出した。

「〝テラレジア〟さんて……アメリカの〝アメリカ〟さんにフランスの〝フランス〟さん、ドイツの〝ジャーマン〟さんか?」

「人の名前で笑ってんじゃないよ。アメリゴ・ヴェスプッチやアナトール・フランスに失礼極まりない。あと正確にはドイツの〝ドイチュラント〟さんな。」

「分かりました!じゃあウエストさん!」

「アークでいいよ。『陛下』でもいいけどさ。」

カノンは黙って頷いた。

「カノンお前今めっちゃ嫌そうな顔したな?俺もフェルドでいいぜ。」

「いえ、そんなこと!……よろしくお願いします、アークさん、フェルドさん。」

互いの呼び方も一度試してみれば案外すんなり馴染むものだ。アークはお近づきの印にとカノンの前に一皿押し出してやった。

「食べろよ、カノン。美味いぞ。」

それは肉汁滴るバルベクオだった。バルベクオというのは英語で言うところの「バーベキュー」であって、牛肉や羊肉を塊ごと串に刺して特製ソースを付けながら直火焼きにしたものだが、どこのバルにも置いてある人気料理で、それだけに、店ごとのこだわりがある。テラレジア人はみんなバルベクオが好きだ。カノンもそうだった。勧められるまま手つかずの串を一本手に取って、先っちょの肉にかぶりついた。やはり「相席屋」のバルベクオはいい。歯ごたえのある肉は絶妙な焼き加減で、焼き付いたソースの辛味と酸味、甘味と塩味、それに僅かな焦げの苦味が加わって、舌で幸福を味わうことを知る。一口食べたらやみつきになって、もう一つ、もう一串、もう一皿と、止まらなくなってしまう。カノンは一心不乱に食らいつき、すぐに一串をすっかり呑み込んでしまった。アークはそれを見て満足そうに頷いた。

「やはりテラレジアの撫子はこうでなくっちゃあ。」

「お、分かるかアーク。ソースと脂に塗れた口元こそ、どんな口紅より艶があるってな。カノン、アンタ気に入ったぜ。」

よく分からないうちに二人の歓心を買ったらしい。串焼き一本で気に入ってもらえるなら、時代が時代ならわたしも王宮に出入りする一員だったかもね。

「なあカノン、お前いくつ?」

「二十歳です。」

「二十歳かあ。」フェルドは声を漏らした。「俺たちの六つ下だな。じゃあ彼氏は?」

「いません……今は。」

苦し紛れの「今は」が口を突く。実際はテラレジア建国以来一度も、カノン・ライカに恋人がいたことはないのに。

「ふむ。カノン、ちょいとそこに立ってみ?」

フェルドはテーブル席の脇の通路を指し示した。カノンは言われた通りにその場に立って、こちらをまじまじと見つめる二人を見下ろした。二人は彼女を頭の先からつま先まで美術品を鑑賞するみたいに眺め回した。やがて顔を見合わせる。

「どうですか、先生?」アークは問いかけた。

「極めて平均的。今回は若さに免じて及第点。スカートの丈がもう少し短ければ◎。」

カノンはそれを聞いてやっと、目の前で繰り広げられる下劣な品評に気付いて、顔を赤くした。

「何のつもりですかッ!」

二人は悪びれる様子もなくにやにやしている。ホイホイと話に乗せられるんじゃなかった。しかも、及第点って、何点なのよ。

カノンは元の席にどっかり座り直した。及第点、及第点、キュウダイテン、と心の中でぶつくさ繰り返す。

フェルドは「いやいや悪かった」と悪びれる様子もなく答えた。

「スーツは似合ってるよ。なあアーク?」

「いいんじゃないか……その、七五三みたいで。」

「いい加減にしてください、二人合わせて千歳飴みたいなファッションしてるくせに。」

これには二人も噴き出すしかなかった。言った後にカノンも笑みがこぼれた。

店のウエイターが空になった皿をいくつか持っていって、ようやくテーブルに隙間ができたのでカノンは取材道具を取り出した。手元にメモ帳と万年筆、携帯用のテープレコーダーはテーブルの中央辺りを陣取る。カセットは前の取材の音声が入ったままのやつを上書きする。録音ボタンを押し込んで、カセットが回り出したのを確認して一人頷いた。

「アークさん、フェルドさん、いろいろお話を伺いたいのですが。何よりもまず、アークさんは、その、王家のご出身なんですね?」

「ああ。余はアーク・ウエスト・〝テラレジア〟。紛れもなく王家の当主だよ。」

テラレジア王家、その存在を知らない者はない。現在テラレジア「共和国」であるこの国は、かつては国王が統治する王国であった。そもそもテラレジア王国はかつて一帯を支配した西ローマ帝国が崩壊した後に勃興した国の一つで、初代テラレジア王が周辺の諸侯を征服して築き上げた。以来、その王の系譜が連綿と続いて今に至るとされる。

「ということは、アークさんはこの国を作った人の、直系の子孫ってことですか。」

「なに当たり前のこと言ってんの。残念ながらそこまで遠いご先祖様とは面識がないが、歴史がそう証明してる。」

「でも、前世紀に王政は終わったんですよね。その時に王家は……」

「一世紀の流刑を言い渡された。つまり、島流し。」

大航海時代にいち早くアメリカ大陸に進出して最大版図を誇ったテラレジア王国が、繁栄に陰りを見せたのは新大陸の覇権をスペインやポルトガルに明け渡した頃。その後は大陸の西端で地域の強国として隣国を影響下に置いてきた。列強の台頭と共に徐々に衰退が進んだ王国に終止符を打ったのは前世紀末、歴史上何度も戦火を交えてきた隣国フェデライトとの最後の戦争に敗れ、敗戦後の混乱によって王政の廃止が決定された。王家は地位を追われ、一族は大西洋の島に一世紀の流刑を言い渡された。それ以来、王なき共和国となったテラレジアは世界の片隅で激動の二十世紀を荒波に揉まれながら耐え抜いてきた。

「こうして話しているだけで涙ちょちょぎれるよ。」

「俺には分からねえな。いま歴史の教科書読み上げてただけだろ。」

「分からなくていいよ別に。なあカノン?」

「れ、歴史の授業ですか?……泣けました、よ。」

主にあくびによる涙だけど。

「それじゃあ、アークさんのご親族はその島に住んでいらっしゃったんですね。」

「ああ、生まれてこの方。一度も島を出ずに生きてきて、そうしてやっと、あれから百年経ったんだ。」

「一世紀の流刑!終わったんですね!」

アークは頷いた。

「こうして百年ぶりに本土の土を踏んでみれば、たまげたよ。誰も王家のことなんか覚えちゃいないんだっての。こっちはどんなにこの日を待ちわびていたことか。しかも王城ときたら、勝手に博物館にされて、午前十時から午後五時まで一般公開だとさ。しかも月曜定休だとさ。」

首府のどこからでも見える崖の上の王城は、かつては王家の居城であったのが、今では歴史博物館となって市内の観光名所として国内外の観光客に親しまれている。カノンは上京したての頃に一度行ったことがあるが、それ以来ご無沙汰である。入場料は高くないけど、崖が高すぎるんだ。

「余が王たる証拠があるぞ。これ。」

アークは自らの襟元で輝く宝飾を手に取った。金の台座に透き通るような宝石が、自然光を七色に反射して煌めいている。両親の結婚指輪以外に貴金属に触れたことのないカノンでさえ、一目見てとんでもなく貴重な代物であることが分かる。

「王家の三宝の一つ、王珠だ。王家の最も重要な宝として三宝があって、王冠、王笏に並ぶものだ。王冠と王笏は月曜日以外いつでも見られるが、王珠は王政廃止の混乱の最中に紛失し、長らく行方不明になっていた。それもそのはず、ずっとうちの納屋にあったんだからな。」

「納屋ァ!?」フェルドが素っ頓狂な声を上げる。

「いいな、今の反応。そういうの欲しかった。」アークはにやけた。

「納屋に宝石……わたしの実家の納屋にもあるかしら。」

「ないと思うぞ、多分。とにかくだな、これが納屋にあるのもそうだし、余が王家の直系の子孫たることは戸籍上も間違いない。その点は疑わなくても大丈夫だ。」

カノンは王珠を見つめていた。その輝きをずっと見ていると引き込まれてしまいそうになる。宝石を「パワーストーン」だとかって霊験あらたかそうに売っているのはよく見るけれど、そんな程度の話じゃない、「魔力」と形容したくなるものが、これには絶対に宿っている。

ずっと見ていたらドボンと落ちてしまいそうだから、カノンは手元のメモ帳に視線を戻した。さっきまでの話をかいつまんで記した筆記体がつらつらと書き連ねてある。

「あの、今度はフェルドさんにお伺いしますが、アークさんとはどういった経緯で行動を共にされているんですか。」

フェルドは両手を頭の後ろに組んで深く腰掛けた。

「んー、成り行き?」

「成り行き?」

そんな曖昧な言葉を記事に書いたら編集長にボツを食らうのが見えている。

「実は俺、いろいろあってしばらく塀の中にいてな。それでつい昨日刑期満了になったんだが、それがちょうど……」

「余が本土に戻った日だったと。」

「そうそう。あてもなくぶらぶらしてたら王城に着いちまって、そうしたらそこで偶然コイツに会ってな。一緒に城に入って、あれこれ見て、そのまま今に至る。」

カノンは唇を噛んだ。こりゃ参った、「成り行き」としか言い表しようがない。

「そういえばさっき、大聖堂で『王政復古』って言ってましたよね。それはつまり、この国を再び王国にするってことですか。」

「まさしく。」アークは答えた。「テラレジアは元々余の国だ。この手に取り戻し、余が王となってあの玉座に就く。王城の午前十時から午後五時までの一般公開はやめる。二十四時間三百六十五日、余の城だ。」

「はあ~、なるほど。」

「カノンお前、すっごいつまんなさそうに返事するな。」

「ごめんなさい!決して悪気はないんですけど、その、コンビニエンスストアを開業するみたいに『王になる』って言われてもどう答えていいか分からなくて……。ええと、ということはフェルドさんも王に?ダブルでキングですか?」

「なに、ベッドのサイズの話?俺はならねえよ、王族じゃないもん。」

「それじゃあ、アークさんの王政復古のお手伝いってことですか。」

「『お手伝い』って言い方は気に食わんが、ざっくばらんに言えばそうだな。『王政復古』って響きが少しだけいいんだ。それに俺が興味あるのは、その過程だ。」

「過程?」

カノンがその言葉を繰り返すと、今度はアークが答える。

「こうして王都に戻ってきて知ったことだが、王のいない百年の間に巷じゃ随分下剋上が流行っているらしい。新聞にも週刊誌にも、書かれているのは王に代わって我が物顔で振る舞う不肖の輩ども。下剋上が最近のモードらしい。余が王座に就くためにはまず、権力を振りかざして余の臣民を虐げるバカ野郎どもを、王の威をもって須く罰してやる。」

アークは王珠に指をあてた。角度が変わった宝石はきらりと輝きを放ち、カノンは周りの空気が一段と張り詰めた気がした。

「そのためには、テラレジア一の喧嘩屋の腕っぷしが必要になることもあるだろう。」

彼の隣でフェルドが自らの拳を叩いた。

「悪いヤツ全員ぶっ倒して、王の座に返り咲く。」

「まあそういうこと。」

二人のかかと笑うこと、実にあっけらかんとしている。カノンは今更ながら、自分がどうしようもないろくでなし二人組に絡んでしまったと理解した。それでも幸か不幸か、カノンもこういう痛快極まる性格が嫌いじゃないのである。いいえ、好きなのだ。

「王政復古ですか。頑張ってください。」

「ああ、お前もな。」

「えっ?」

カノンは急速冷凍で固まった。ここで死んだふりでもすればよかったかもしれない。

「カノン、お前記者だろ、我々の記事を書くんだろ?」

「は……」

「俺たちだって飯食っておしゃべりしたくて店に入ったわけじゃねえからな。結果的に楽しかったからいいけどさ。」

カノンは閉口した。

確かに彼女は取材だと言って二人に声を掛けた。こうしてメモを取って、テープレコーダーも回っている。テラレジア清教の重要な式典であれだけの騒動を起こした二人が明日の朝刊でどう取り上げられるかは、言うまでもない。だからといって、「カノンが」取材したことをテラレジオ・ポストに掲載させてもらえるとは決まっていないのだ。この取材は彼女が独断で思い立ったことだから。ついでに言えば、入社二年目の新人であるカノンがこれまでに記事の企画を持ち込んだことなど一度たりともない。だけどそんなことを目の前の二人が知っているはずはなく、彼らは明日のテラレジオ・ポスト一面見出しが「王家の末裔とテラレジア一の喧嘩屋、颯爽登場」になると思い込んでいる。かもしくは「アフロ大統領、びっくり仰天」か。

「『テラレジア・クロニコ』。」アークは呟いた。「カノン、知ってるか?」

「いえ、知りません。あの、えっと……」

「かつて歴代王の勅令で記された王国の年代記のことだ。建国以来まとめてあるからその量は膨大なものだが、これまで王国に起こった出来事、政治の様子が具に記されている。王政廃止と共にその執筆は打ち切られたのだが……そろそろ再開しようと思ってる。」

「へえー、そうなんですかあ。」

カノンは「白々しい」のお手本みたいな返事をした。

「良かったな、カノン。記事のタイトルはこれで決まりだ。」

……そうなるよね。せいぜい、わたしが王に罰せられる第一号にならないようにしなきゃ。


三人は残った食事を断続的に口にしながら、訊きそびれたことや他愛のない会話を続けていた。二時間の昼休みはあと十五分ばかりを残すところだが、バル「相席屋」とカノンの職場は道路を挟んで向かいにあるから、三十秒もあれば戻れる。記事の掲載許可と、まだ尽きない食事の代金のことはあまり考えないようにする。常に目の前のことに注力すれば、ある程度の結果は得られるものだ。内戦時代の明日のパンに困った時代を思えば、食事を残さず食べるのは何より大切なことだ。四十年前のことなんてカノンは知らないけれど。

カノンは止まったテープレコーダーを鞄にしまい込んだ。その時、鞄の中に一枚の写真が見えて、何の気なしにそれを手に取って眺めた。先刻の大聖堂で撮られたポラロイド写真だ。聖遺物を収めた棺の前に立つ二人の男、驚き眺める参列者たち。カノンは夢中でカメラを向けてシャッターを切った。

「それ、さっきの写真か。見せてくれ。」

アークは手を伸ばした。カノンがテーブル越しに手渡すと、二人揃ってそれを覗き込んでしばらく眺めていた。

「へえー、よく撮れてる。」フェルドが感心した。

「歴史に残る一枚だぞ、これは。どんな報道写真賞だって獲れる。」

「えへへ、ありがとうございます。でもダメですよ、わたしたちの不法侵入の証拠写真ですから。」

「『何人たりとも拒まず』が清教会のモットーじゃねえの?」

「それはそれ、これはこれです。」

そう言いながら彼女は差し出された写真を受け取ってメモ帳に挟み込んだ。代わりにカメラを取り出して手のひらに載せた。組み立て式のカメラは、収納する時は一枚の板状になって持ち運びの都合がよい。

「それ、お前のカメラか。」

「はい、私物です。編集長が『お前は壊すだろ』って、わたし一人の取材の時は社用のカメラを貸してくれないんです。前にわたしが新品のワープロを故障させたの、まだ根に持ってるんだ。わたし、何もしてないのに。」

「何もしてねえってことはねえだろうな、多分。」

「だからこのカメラをいつも持ち歩いてるんです。小さくて使いやすいし。」

「『カノン』で『ライカ』なのに持ってるカメラはポラロイドなんだな。」

「それ何度も言われました。」カノンは口先をつんととんがらせた。「父に言ってくださいよ、名字も名前もこれも、みんな父がくれたんですから。」

「そうか、父君が。」

カノンはカメラの上にそっと手を置いた。

「わたしの父はフリーのカメラマンで、あちこち回っては、新聞や雑誌に企画を持ち込んでました。報道も文化も自然も、手広くやっていたみたいで。そのせいでほとんど家にいないから、母は文句ばっかり言ってましたけどね。それでもたまに帰ってきた時は、取材で撮った写真をうんと見せてくれたんです。旅先の思い出話もたくさん。小さい頃からそういうのをずっと見せられてきて、わたしがカメラに憧れてるって分かってたんでしょうね。わたしの十歳の誕生日に、このカメラをくれたんです。『このカメラはいつでも真実を写すんだ』って。ポラロイドはその場で現像されるから写真を細工することができない、警察の現場検証にも使われる優れモノなんです。これをもらってすごく嬉しかったんですけど、フィルムは子供のお小遣いで買うにはちょっと高くて困りました。それからすぐのことです、父は……いなくなっちゃいました。」

「――『蒸発』ってやつですよね、行方不明になっちゃって。行き先は母も知らなかったから、全くのお手上げ。そのせいで、わたし、このカメラ、ずっと嫌いでした。これを置いていった代わりに父が消えてしまったような、そんな気がして。クローゼットにしまい込んでました。でも最近は思うんですよ、父はきっとどこかで生きてるんじゃないかって。だってあんなにふらっと現れてふらっと消えるんだもん、またいつふらっと帰ってきたって、あの人ならあり得るんだ。」

カノンは上京以来誰彼にも話したことのない身の上話が、するすると口からでてきたことに、自分でも驚いた。途端に辛気臭い空気が居たたまれなくなって、馬鹿に明るい声を上げた。

「もう大昔の話ですよ!むしろわたしの人生、その後の方が大変っていうか!早朝から新聞配達のアルバイトして、昼間は学校で寝て、そのせいでちゃらんぽらんの脳たりんになっちゃってもう、今じゃ上司に怒られまくり!アハハ……。」

「カノン……」フェルドは表情を緩めなかった。

「お前のこと抱きしめてもいい?」

「い、イヤ!さっきは及第点って言ったくせに!」

カノンが大袈裟に仰け反るので二人は大笑いした。

ひとしきり笑ってからアークは微笑んだ。

「じゃあ尚更励まないとな。我々の名が知れて、カノンの記事が国中の民に読まれれば、父君だってきっと気付くはずだ。」

「そう、ですね。頑張ります。」

この後に待っている編集長を説得するという大業に、にわかに希望が湧いてきた。

昼休みの時間はもうすぐ終わる。カノンは手元のメモ帳に番号を書いて、それをちぎってテーブルに置いた。

「これ、事務所の電番です。何かあったら連絡ください。記事の報告も後日お伝えできると思います。大抵は下っ端のわたしが取るんですけど、もし取材で出張ってたら、事務のアイラに伝言を頼んでください。わたしの一個下ですけど、わたしよりもしっかりした子ですから。」

「ああ、ありがとう。」

「それじゃ、わたしは事務所に戻りますので……」

鞄を持って立ち上がるカノンを二人が呼び止めた。

「もう一つ、ものは相談なんだが……この辺りに安い物件を紹介できるところはないだろうか。」

「お引越し、ですか?」

「首府に来たばかりで落ち着ける場所がないんだ。手持ちの金も未来の王室の財産だ、今は無駄遣いできない。できれば安いのがいい。」

「かといって、俺たちが一緒に住むなら二部屋はほしいな。」

カノンは前髪をいじった。物件探しといえば、自分が首府に来た頃を思い出す。

「そうですね……北岸といえど、太陽通りの近くはそれほど安くないんですよ。不動産屋なら案内できるけど……そういえば、一軒だけすぐに紹介できます!家具付き、二部屋、角地で採光は最高……おまけにお値段も破格!」