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第一章

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アメリカ合衆国――世界一の帝国たるこの国の歴史は、偏に開拓の歴史であった。

十七世紀に最初の開拓民が大西洋を越えて穏やかな岸辺に辿り着いた時、そこには文明の息吹とも呼べる何物も未だ存在してはいなかった。広大で過酷、けれども豊富な資源と可能性に満ちた新大陸で彼らは期待に胸を膨らませた。

それから一世紀半の間に東海岸の開拓は進んだが、それも平凡な植民地の一つに過ぎなかった。やがて一七七六年に十三の植民地が本国の手を逃れ「アメリカ合衆国」として独立した時も、それは弱々しい辺境の小国でしかなかった。この国の運命を大きく変えたのは、一八三〇年代にもたらされた革命的な発明品による。

蒸気機関車、けたたましい唸りと共に煙を吐いて大地を駆ける鉄の馬。これまで長い時間をかけて移動していた都市と都市の間をわずかな時間で往来することを可能にした。その利便性が知れ渡るや否や、国中のあちこちでこぞって鉄道の建設が行われた。何千マイルもの長さに線路が敷設され、今まで価値がなかった何万エーカーもの土地が資産になる。止まることなく走り続ける機関車の速度に、馬力に、人々は熱狂した。

急速に国土の開発を推し進めた鉄道を、合衆国ではこう呼ぶ。「アメリカは鉄道を作り、鉄道がアメリカを作った」

一八六九年に開通した最初の大陸横断鉄道は裕福な東海岸と成功の希望に満ちた西部とをわずか数日のうちに往来することを可能にした。西部地域の開拓は加速し、彼らがフロンティアと呼んだ開拓地は西へ西へと進められていく。今日ではその広い領土のどこででも人々の生活の様子を窺うことができる。

しかし、鉄道ばかりが広大な新世界の開拓を進めたのではない。

アメリカそのものを開拓したもう一つの大切な要素がある。

それは最初の開拓民から、今を生きる国民まで。独立を勝ち取った日も、戦いに勝利した日も。国中が黄金に沸いた日も、災禍に打ちひしがれた日も。この厳しくも美しい大地に根差す全ての人々を結び付けた一つの偉大な精神である。旧世界とを隔て、アメリカをアメリカたらしめるものの正体である。

これより語られるのは、一人の男の物語。彼は「黄金」と呼ばれる時代のただ中を蒸気機関車と共に駆け抜け、絶えず時化る世界と向き合い続けた。そしてこれはまた、彼と同じようにアメリカという時代を生きた人々の物語である。




鐵軌の帝國




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あちこちから安堵の息が漏れた。客の応対で長時間神経を擦り減らし続けた局員は安心した拍子に腰を抜かして萎れた植物のようにその場に座り込んでしまった。

部長が向こうから両手を振って客らに呼び掛けた。

「……窓口業務を再開します!」

思わず拍手が巻き起こった。自らの帽子を天井にぶつかるくらい投げる者もいた。電信局再開の一報は外で待つ人々にも伝わって、ちょっとしたお祭り騒ぎだった。そんな雰囲気もつかの間、今度は誰が先かの論争が始まり、局員は対応に追われた。訴訟を起こす声も立ち消えて、会社の存続は保たれたようだった。

ただ一人このことに納得いかなかったのは術士の専務で、面目が潰れたとロバートに詰め寄った。当の本人は誇らしげな顔でいたので、彼が憤った様子で近寄ってくる理由が分からなかった。

「直しただと?貴様がか?」

「はい。」

「貴様、ここの技士だな?」

「そうですが。」

意思がかみ合っていない二人のやり取りを見て部長はさらに肝を冷やした。

「話を詳しく聞こうじゃないか。おい、貴様はこの者の上司か?」

「ええ!そうであります!」

「ついてこい。」

二階へ向かう彼の背中を部長は茫然自失で見つめ、弱々しくロバートの肩に手を置いた。

二階の応接間で二人は専務に向き合って座った。階下ではようやく窓口が平穏を取り戻して業務を再開しようとしているところだった。

「なるほど、ロバート・グレイヒル、するとサクラメント局にいるというグレイヒル将軍の甥は貴様のことか。」

「確かに叔父は陸軍の将校ですが……」

「親戚が誰だろうが関係あるまい。」

専務は腕を組んでカウチにふんぞり返った。口元に手を伸ばして直角の髭を撫でる。

「電信機は非常に繊細なものだ、技士風情が勝手にいじくるなと、この局では教えていないのか?」

「とんでもありません。しかしながら、斯くの如く緊急を要しておりました故……」

「尚更なのだ。」

「お客様の手前、対応にあたっている様子を見せないわけには参りませんで。」

「どうでもいい。素人がいじくって壊されたらどうしてくれるんだ?」

「あり得ません。」

ロバートがきっぱりと答える。それで専務は不機嫌そうに鼻息を漏らした。

「とにかく、局長不在だったのが不幸ではあるが、このような時化の場合は触らずに術士を呼ぶのが道理のはずだが、貴様はそのような教育を受けなかったようだな。サクラメント局員の質がこれでは沽券に関わる。」

「ええ本当に、申し開きも……」

「時化ではありませんよ。」

部長の弁解を遮ってロバートが異議を唱えた。隣で部長が制止しようとするのも構わず、そのまま続けた。

「不具合の原因は電圧の調整機構にあって、時化が直接的な原因ではありませんでした。」

「ほう、それならば機械を整備するのが貴様ら技士の仕事ではないのか?」

「従来の点検項目に入っていないんですよ。電圧調整まわりの機構は電信機の製造会社の領分なので。以前から僕はマカード社製の調整機構は貧弱だと思っていたのですが。」

「よせグレイヒル。」

「……それならば貴様、私が必要ないのに呼んだというわけか、どうだ?」

「いえ、僕はお呼びしていません。不要というより、あの手の不具合は術士の力で直るものではありませんから。」

「そうかそうか。」

専務はしきりに頷いて、部長を睨みつけた。

「分かっているだろうな。」

「……ロバート・グレイヒルは懲戒解雇します!」

「……え?」

ロバートは耳を疑った。

結果的にとはいえ、専務が華麗に登場して問題を解決するという筋書きを妨げてしまったから?そうは言っても時化とは関係ない機械の故障が原因だったのであって、術士の専務に直せるはずがないのは明白だった。その意味では彼が恥を晒すのを防いだのだから、感謝を求めてはいないが、そうあるべきでは。何一つ納得がいかなかった。

専務は専務で「懲戒解雇」と聴いて少し苦い顔をした。目を瞑ってわざとらしく咳払いして、僅かに首を横に振った。部長はびくつきながら発言を修正する。

「……一週間出勤停止?」

もう一度咳払いした。

「……三日?」

「それくらいでいい。」

それから彼は「これきりにしろよ」と呟いて、席を立った。部屋を出て行こうとするのを部長はついて行き、建物を出るところまで見送った。その間ロバートは部屋の床に足を貼り付けられて、電信柱みたいに突っ立っていた。部屋が静かになると扉の陰から彼の同僚の技士が何人か入ってきた。先刻から仕事を怠けて応接間での会話を盗み聞きしていたらしい。

「ロバート、何とか命拾いしたな。」

「俺は間違ってねえと思うぜ。あのヒゲ魔導士ときたらエマソン卿の手前、この街じゃデカい態度できねえんだ。」

「頭にきたってだけの理由で平民を解雇するわけにいかないからな。」

彼らが口々に同情の言葉をかけてくるのを黙って聞いていた。やはりいろいろ間違えたらしい。

部長が部屋に戻ってきた。技士たちを呆れた口調で𠮟りつけ、仕事に戻らせた。それから部屋の灯りを消しながらまだ動かない彼に声を掛ける。

「今日はもう帰っていい。」

「すみません。」

「そう思うのがもう少し早ければな。……お前が正しいか正しくないかで言えば、正しいだろう。だがな、お前は正し過ぎた。正しさだけではどうにもならないこともあるだろう。」

「……はい。」

「あの装置は、点検の頻度を上げさせねばな。」

忙しなく電鍵を叩く音が電信局から響き続けた。


ロバートは業務を続ける同僚を尻目にすごすごと電信局の白い建物を後にした。電信局員の制服と技士用の作業着から身を解いて、底の浅い片手鍋をひっくり返したようなねずみ色の帽子はもう被っていない。今は着慣れた栗色のジャケットで、仕事終わりの従業員らしい少し浅く被ったキャスケット帽が午後の太陽に眩しい。彼の心に反して日はあんなに高い。

電信局の前にもう人だかりはない。大通りに面した建物は一階が商店になっていて、二階は歩道にせり出したテラスつき、大概は二階建てだが、それ以上あるものは上階が住戸になって、窓の奥に時折人影が映る。

目の前の車道を馬車が通った。駅前で歩みを止めて、向こうの瓦斯灯の下で佇んでいた男を乗せるとまた走り出す。そうして駅前通りはまた鉄道を利用する人々が忙しなく行き交うばかりの道に戻った。

ロバートは立ち止まって駅舎の時計塔を見上げた。五線譜のようにびっしりと張り巡らされた電信線の向こう側に大きな時計が見える。すぐそばを背丈の半分はあろうかという大鞄が重い身体をよじらせながらよたよた抜けていった。

一八八五年、カリフォルニア州都サクラメント。セントラルバレーの中ほどにあるこの街は「神の恩寵」の名の通り、天より賜った金に沸いた街である。――「金鉱殺到」、一攫千金を夢見た多くの野心家たちがこの街に集まった。今から三十年ほど前のことだ。以来、ここは西部カリフォルニアの中心地であり続けている。

また一編成、豪快に汽笛を上げて列車が出発した。

この街は西海岸の中でも早期に新たな発明品の息吹を歓迎した。時計塔の三角屋根がトレードマークであるこの駅舎から、今日も大量の列車が東西南北を行き来する。東にあるのは遥かなるシエラネバダ。その向こうに広がる果てしない荒野と平原を越えればいつかは雄大なミシシッピの流れが見えてくる。その向こうが東部だ。ここは大陸横断鉄道の西の起点であり、東部からやって来る開拓者たちの行き着く場所なのだ。蒸気で回る車輪の足音を聞きながら、一人、また一人、この地へ足を踏み入れる。彼らがこの街で最初に目にするのがまさしくここの景色だ。

蒸気機関車は素晴らしい。鋼鉄の体は水と石炭を喰らってどんなに重い物でも軽々と運んでみせる。力持ちでいて、その上勤勉だ、時間に正確である。強かで優秀、この国で誰にも勝る労働者だ。駅舎の隣にある電信局だから、列車の歩みは常に聞こえてくる。時間に丁度よく鳴り響く汽笛によって局員も動いている。初めのうちは厄介で敵わないあの嘶きも慣れればどうということはない。ロバートは機関車が好きだった。

さっきの列車の乗客だろうか、またしても荷物を抱えた人々がぞろぞろと連なって出てきた。めいめいの方向に歩いてゆくか、近くで手空きの辻馬車を見つけて御者に手を挙げる。こんなところに突っ立って変な者に思われては堪らないと、ロバートは前を向いて歩きだした。

呑気だ、業務時間の真っ最中に街をぶらつくのは。出勤時には目にも留めないような、あちこちに散らばる暮らしぶりに気が付く。あのレストランのテラス席は、この時間帯では待ち合わせでもしてるらしい壮年の姿が目につく。ビール片手に賑わう夜や、休日の様子とはかけ離れている。他にも、昼間から暇してるらしい労働者は見かける度に邪推してしまう。それから自分のことを思い出して惨めな感情に浸る。

ロバートはマーケットに寄り道をした。遅い昼飯と今日の晩飯を調達するためである。ところが何を思ってか彼はオレンジを買った。理由は自分でもよく分からない。ただ台に並べられた橙色にどうにも惹かれてしまって、気付けば紙袋にオレンジを詰めて歩いていた。紙一枚隔ててゴツゴツとした感触が心地よい。

オレンジはいい。程よい酸味とほのかな甘みが部屋に詰めてくたびれた脳に活力をもたらしてくれる。穴だらけの皮の表面だって見ていて飽きないし、その裏側のもそもそした繊維質の触感が結構だ。

収穫期になると貨車いっぱいにバラ積みされたオレンジを見ることができる。あれらは東へ運ばれる。カリフォルニアの太陽で育ったオレンジが、ニュージャージーの家庭でまだつやのあるうちにしぼりたてのジュースになる。鉄道ができる前は長く船に揺られ、パナマを越えた先に二度目の船旅によってようやく東海岸に貨物が届いた。今では考えられないことだ。

つまらぬことを考えつつ歩いているうちに、紙袋の一番上にちょこんと置いただけのオレンジがこぼれ落ちた。橙色の球体が転がっていくのを目で追うと、それは石畳の溝に沿って横に流れ、やがて路傍の段差にぶつかって転がるのをやめた。彼の他にもオレンジを見つめる者があった。留まったオレンジは彼の手で拾い上げられた。浮浪児は自分の手ほどある果物を両手で抱え、しゃがみこんだ自分の胸に引き寄せた。薄汚い、穴も空いた服を着ている。それから彼は所々すが入った麦わら帽の内側からじっとロバートを見上げる。

「これはおらのところに転がてきたからおらのものだど。」

そう言う彼は恨めしそうな眼をしている。

この浮浪児はそれを返す気がないらしい。元々予定外に買ったものだし、ロバートとて今さらオレンジ一個に拘るつもりもなかったから、そのまま立ち去ってもよかったのだが。

「ふむ、困った。それは僕が持ち歩いていたものだが。」

浮浪児の目の周りは落ち窪み、瞳が異様に輝いて見える。

「君がそう言うなら仕方ない。――ならばこうしよう。僕もここに紙袋に入ったオレンジを持っている。この紙袋と君のオレンジと交換しよう、これでどうか?」

浮浪児は奇妙な提案にいささか驚いたようで、目を丸く見開いた。ロバートが紙袋を前に差し出してみせると、浮浪児はおそるおそる頷く。彼はオレンジの詰まった紙袋を浮浪児の胸に突き出して、代わりに彼の小さな手からオレンジを受け取った。彼が紙袋の確かな重みを感じながら何も言い出せずにいるうちに、ロバートは立ち上がって家に向かう道を進み始めた。

夢を求めて降り立つ者がいる分、儚く散って尽き果てる者がいる。近頃は浮浪者の姿も珍しくなくなった。あの子供は悪くない。周りの道行く大人に手を差し伸べる義務があるあけでもない。他の多くの者と同じように、彼だって慈善家ではない。せいぜい紙袋にいっぱいのオレンジを渡すことができるくらいだ。それができるならやるべきで、それができたからやった、それだけ。ロバートにとってはそれがエマソン卿と交わした約束のように思えていた。

幸いなことに、このオレンジには傷がついていない。


片手でこねくり回した果物が日差しと彼の体温とですっかり温くなった頃、ロバートは自宅の建物の前に着いた。赤茶けた煉瓦造りのアパートメントは築二十年ほど。この街の人口が急増した頃にあちこちで同じ型の住宅が建てられたから、この辺りの地区などは版画を刷ったみたいに同じ景色ばかりだ。

ロバートは鍵のかかっていない扉にそっと手を掛けてゆっくりレバーを回した。そのまま手前に引いた時、扉はギイと軋んだ。瞬間手を止めたが、それ以上は軋まないとみえて、残りを引いてするりと中へ入り込んだ。戻す時に扉はもう一度軋んで、外の光が入ってこなくなるとそれは元の通りに戻った。

ともかくも、これで知れちゃあいないだろう。そう思ったのもつかの間、一階の内扉が開いてマクドナルド夫人が顔を覗かせた。

「あら坊ちゃん、今日は早いんですねえ。」

「ああ……いろいろとあったんだ。つまりその、電信局で問題が。」

「それはまあ。こんな時間に誰か入ってくるんで、不思議なもんだなって。」

夫人は扉を開けきって敷居に立った。

マクドナルド氏は一階に住んでいる家族だ。夫妻は四十ばかりになる。上階に住んでいるロバートとはしょっちゅう顔を合わせる。特に夫人は一日中家にいるから今日もここにいるのは間違いなかった。こんな時間にすごすご帰ってきた理由を夫人が知る由もないが、変に勘繰られたくなかったので彼はできれば顔を見ずにやり過ごしかった。今となってはどうにもならないので、彼はできるだけ平静を装った。

夫人はロバートが先刻から手にしているオレンジに目を付けた。

「……して坊ちゃん、それどうしたんです?」

「いいだろう。親切な友人が僕にくれたんだ。」

「いいだろう」は余計だったなと口にしてから後悔する。

「今年のオレンジは悪くないね。ただし大きいのはいけない。酸っぱいばかりでちっとも甘くないんですよ。」

「そうか。じゃあこれも甘くないだろうな。」

「煮詰めてしまいなさい、それがいいですよ。」

ロバートは滅多に料理をしない。ポットに湯を沸かす以外はストオブに火を入れないのだ。

「ええ……そうしよう。」

曖昧にそう答えて階段を上がろうとすると、夫人が呼び止めた。

「そうそう坊ちゃん、手紙が届いてましたよ。」

「僕に?」

書簡の類は外の郵便受けに届く。郵便受けは一つしかないから、同じ建物で郵便を仕分ける必要がある。ロバートに手紙が届くのは滅多なことでないから、彼には郵便受けを開ける習慣がなかった。

夫人は玄関先の棚の上に置いてある一通の便箋を彼に寄越した。

「叔父様からですよ。きっと坊ちゃんが無事平穏にやってるか心配なんですよ。」

便箋を見るとその通り、差出人には「ワトキンス・グレイヒル」とあった。

ワトキンス・グレイヒル――グレイヒル将軍と呼んだ方がいいかもしれない。彼は合衆国陸軍の大佐でロバートの叔父だ。多くの国民にとって、彼が合衆国軍を率いてシヴィル・ウォーを勝利に導いたことは記憶に新しい。事実、マクドナルド夫人がロバートを「坊ちゃん」と呼ぶのは彼が将軍の甥であることを知ったからだった。

将軍は夫人の言うように彼を気にかけて便りを送ったわけではないのがロバートには分かった。というのも、ロバートのもとに滅多に手紙が来ないのだから、将軍も滅多に彼に手紙を送っていないことになる。彼は開けて確かめてみたいとも思わなかった。不名誉にも甥が職場から出勤停止処分を食らった、そう聞いたら彼はどう思うだろうか。そんなことを思うとますます気が重かった。

「ありがとう。」

手紙を受け取って早々に部屋へ引き揚げようとする彼の背中に夫人が声をかける。

「叔父様のためにたまには便りをお送りなさい。それがいいですよ。」

返事の代わりにロバートはオレンジを持った左手を掲げた。


この世界には神秘がある。

水が上から下へ流れる。それが当たり前であるように、この世界には水を「下から上へ」流す力が当たり前に存在していた。

時と場所を選ばず、突如として、巻き起こる不可思議な神秘。それを古人は浪の高低になぞらえて「時化」と呼んだ。

「時化」がいつから存在するのか定かではない。聖書にもそのような記述があるから、少なくとも紀元以前から存在する力であることは間違いないようである。いずれにせよ、古代から人々はかがり火が十分に燃料を残したままひとりでに消えるとか、冷めたスープがもう一度温まるとか、窓を閉め切った部屋に風が吹くとかいった現象でその存在を認知してきた。奇蹟だとか主張する者もいたようだが、現代ではインディアンでもなければ心からそう信じてはいないだろう。神がシチューの煮炊きを邪魔する理由がどこにあるだろう?

大抵の場合、時化は大した問題ではなかった。そのために人類の歴史数千年のなかで「時化」が問題にされたことはなかった。冬場に暖炉の火が突然消えてしまったら困りものだが、火口があるならもう一度点火すればいいだけの話だ。他の時化についても同様で、すぐに時化る前の状態に戻すことができた。ところが今世紀に入って状況は変わった。

蒸気機関。英国の稀代の名技士ジェームズ・ワットが実用化した人類最大の発明。今なおその利用は加速度的に増加し続け、今や水蒸気が動かしているのは鉄道や工場機械ではない、世界そのものだ。そんな蒸気機関に唯一にして最大の弱点があった。それが時化だ。

時化に見舞われた蒸気機関は突然にボイラーの温度低下を引き起こす。火室の急速な火力低下を引き起こすこともある。「下がる」方はまだいい。「上がる」方がもっと悪い。ボイラーが熱暴走を起こして火力が下がらなくなった機関は、対処が間に合わなければ火室のが溶解し、巨大な水蒸気爆発を起こす。蒸気機関車はそればかりではない、動輪が時化てブレエキの摩擦が利かなくなると停止に異常な距離を要する。実際、黎明期の鉄道はそのような事故が絶えなかった。さらに厄介なことに、蒸気機関に対して発生する時化は自然界のそれより頻度が高いようだった。技士たちがどんなに頭を捻っても解決策を見出すことはできなかった。日々蒸気機関の需要が高まる世界で、時化という強大な脅威は新技術に暗い影を落とし続けた。

同じことは電信でも起こる。長大に引かれた電信線は必ずと言っていいほどどこかで時化り、通信にノイズをきたす。通信士たちは通信の正確性を保証するため何重にも確認を行い、膨大な時間を浪費する。ロバートら電信技士は電信機の保守・修繕に多大な労力をかけていた。

この世界は時化る、変えようのないことだった。

――もう一つ、この世界には神秘がある。

抗いようのない時化に抗う者がいる。

世界人口の一パーセントにも満たない彼らは特殊な体質で周囲の時化を感じ取り、発生を操ることができた。かつてはイエスの直系の子孫などと祭り上げられたり、自ら嘯いたりすることもあったようだが。彼らは「魔術師」ないし「魔女」と呼ばれた。

魔術師の人口が少ないのは、彼らが純粋な血統を持つからだ。魔術師の両親は魔術師、その両親も魔術師。魔術師でない者の血が混じれば、その子は絶対に術を扱えない。その子孫も同じだ。記録では混血の子はその後数代にわたって純血の魔術師と交わって初めて力を取り戻したという事例がある。それほどに類稀な血統なのだ。

魔術師の歴史の話をしよう。彼らの暮らしは大別して二通りあった。一つは独自の閉鎖社会を作って――つまり森や山中に隠遁する者たち、あるいはその力を背景に社会の有力者として貴族的立場に身を置く者たち。ヨーロッパの歴史を見れば後者の存在を十分に観測できる。英国王室、ブルボン朝、ロマノフ朝、ハプスブルク家、名立たる王家はすべて強力な魔術師の家系だ。エリザベスもヴヰルヘルムも偉大な魔術師、ローマカトリックの教会幹部たちも、日本の天皇という者も魔術師であった。

暗黒時代の魔女狩りという悲劇を超え、近世のヨーロッパ社会において魔術師たちはある種の選民思想を抱いていたようだが、それは自らの血統を守り、子孫に力を引き継ぐという目的のためであった。魔術師ではない他の多くの人々から彼らはごく少数の特異体質者、というまなざしでしか見られてこなかった。その状況が大きく変わるのは、これもまた蒸気機関の台頭だった。

彼らが持つ特異な力が蒸気機関を悩ませる時化に対しても有効であることはすぐに明らかになった。天性の才能をもって機関に発生する狂いを察知し、不具合の発生を未然に防ぐ。新技術が抱えていた脆弱性は克服された。世界で最初に産業革命が起こった英国は国中から魔術師を募った。資本家たちは最高水準の賃金を提示し、これまで片田舎で慎ましく暮らしていた彼らを軒並み引き抜いた、まるで炭鉱から石炭を採掘するように。魔術師はもはや、蒸気機関を動かすために必要な資源の一つだった。英国が国内の魔術師を掘りつくした頃、大陸の国々もその必要性に気付き、必死で自らの領土に住む魔術師の囲い込みを図った。痩せた土地でジャガイモを育てていた農民に爵位を与え、一等地に住まいを用意した。グリム兄弟は『灰かぶり姫』を著したが、小説よりも奇なるメルヒェンがそこにはあった。

かくして社会の形は大きく変わった。――これまで「魔術師」と称してきたが、今では少々品のない言い方である。産業を動かし、国家の原動力たる彼らは名誉ある「術士」と呼ばれるのがふさわしい。それと同時に、術士が皆揃って富裕層となったことで「平民」という言葉はいつしか力を持たぬ人間を指す言葉になっていた。

術士か平民か、たった一つの決定的な違いを前にしては、個人を属性づける他のどの特徴も些末なものだといえるだろう。

ロバートは窓際に据えた作業机の隅にオレンジを置いた。その隣にはここ数日読み直している電信機の取扱書が日差しに晒されている。

彼の部屋の、暖炉がある反対側の壁には大きな本棚がある。孤独の友に買い集めた学術書がきっちり詰め込まれていた。本の並びに規則性はない。空いている場所にしまい続けたら自然と出来上がった、「野生の本棚」である。どこに何があるかはおおよそ見当がつくので困ったことは少ない。こんなに書物を集めて大層なご趣味だと揶揄されようものだが、気ままな独り身の上、彼は他に娯楽を持っていないからこれで良かった。

叔父さんからの手紙は身軽だった。この中には一枚の手紙と、それ以上のものは入っていないようだ。開けるか、開けるまいか、そんな葛藤が彼の脳裏によぎったが、結局は開ける以外にどうすることもできないのは知っている。それでも彼の中の如何ともし難い不安感が封を切ることを躊躇わせるのだった。

ロバートは傍にあった定規を差し込んで器用に開封した。やはりその中には折り畳まれた紙が一枚だけ入っていて、開くと叔父さんの特徴的な傾いた筆跡でびっしり記されていた。冒頭に添える決まりきった文句は読み飛ばして、その先の内容を求めて目を動かす。次第にこれはロバートに不相応な仕事の依頼であることが分かってきた。凡そ次のようなことが書いてあった。

――知り合いの実業家で電力事業を運営している者がいて、ロサンゼルスで実験的に稼働している送電網が不調続きで立ち行かなくなりそうだから電力に関する知識に長けた技士の助力を仰ぎたいという。ロバートは電信技士で電気についての勉強もしていたから話を聞くだけでも協力しないか。

この手紙は届かなかったことにして処分した方が良かった。今からでも綺麗さっぱり記憶を消せるならそうしたい。手紙の要旨くらい便箋に書いておけば初めから開けないまま暖炉にくべることもできただろうに。とにかく、非常識な提案だった。

電力事業は生まれて日の浅い新産業だ。ファラデーという名技士が発動機で電気を作り出してから、電気を利用した発明が多く生み出された。電信や、電球や、電話だ。電力事業は大規模な発電機と電信のような送電網を張り巡らせて、街全体を照らそうという大層な取り組みだ。ナイアガラフォールズで初めて発電設備が設置されて、東海岸のいくつかの街で実験的に事業が行われている。ロサンゼルスは西海岸で初めてそうした街に名を連ねる。

この事業に携わる実業家は言う、「人々が電気の重要さに気付けないのも仕方がない。かのジョージ・ワシントンでさえ蒸気機関で動く世界を予想できなかったのだから。」

非常識な提案だとロバートは思った。彼は電信技士であって、電力事業に携わったことはない。知識が全く通用しないとは言わないが、自分の小手先の技術が通用するものだろうか。「電信も電力も同じようなものだろう」と叔父さんが考えているのなら、それは非常識なことだ。

手紙を机に放り出し、倒れるように椅子に深く座り込んだ。太陽はまだまだ高いところにあって、彼の前にある机の上の雑多なものを照らしている。ロバートはその一つ一つに目をやった。

いくら叔父さんの提案でも、断る。その方が誰にとっても円満なのは間違いない。カリフォルニアにだって優秀な技士がたくさんいるだろう。自分に任せるぐらいなら、高い金を払ってでもそうした人々に託すのがいい。叔父さんにはそれを丁寧に説明しよう。

オレンジが目に入った。この鮮やかな柑橘類は、仕事で下手をして処分を受けた男がいなければここにないはずだった。紙袋に入った残りだって今もまだ市場の棚の上にあっただろう。これは自らの行動が理解されなかったことと、自尊心を満たすためのわずかな善行の結実だ。煮詰めなくていい、食べなくていい、これは酸い、苦い。

ロバートは立ち上がって本棚の前に立った。その左上の方を探ると、一冊を抜き出して表紙に触れた。他より装丁が丁寧で、少し古めかしいこの本。電気回路について記述したもので、図がよく出てくる。幼いながらにその幾何学的なデザインに強烈に惹かれた。これだけは他の本と違う、エマソン卿にいただいたもので、他でもない彼をこの道に導いた本なのだ。

エマソン卿は偉大な術士だ、ここサクラメントで術士と平民との融和に努め、誠実な資産家としてカリフォルニア中にその名が知れ渡る。そんな彼だから、やはりこの社会に貢献することでしか彼の計り知れない恩寵に報いる方法はないのだと思う。

……話を聞く、話を聞くだけでも構わないはずだ。それで何か成果を出せて、世話になった叔父さんの面子が潰れなければ御の字だ。仮にうまくいかなかったとして、報酬を受け取らなければいいだけの話だろう。人は必ずしも善ではないが、精一杯の努力に対してはそれを認めようとするのが自然のはずだ。

ここまで鼓舞しなければ一歩も踏み出せないなんて、こんなに様にならない話があるか。

「困ったな、一日に二度も電信局に行くなんて。」

ロバートは本を棚に戻して振り返り、扉の前の帽子掛けからキャスケット帽を持ち上げた。

電信局は営業している。だって、あの電信機は僕が直したんだ。


息が苦しかった。

身体全体が重苦しいものに包まれたようで、耳が詰まる。辺りは薄暗くて、視線の先からきらきら、光が差し込んでくる。

ここは、水の底だ。

早く上がらなければ溺れてしまう。手足にまとわりつく衣服に抗って泳ごうとするけれど、思うように動けない。ここには流れがある。

死にたくない。こんな暗い川底に身を横たえて、一体誰が見つけてくれる?誰にも知られないまま流されて、広い太平洋で貝のように沈むだけなんて、そんなのは絶対に嫌だ。

誰か、助けて。

水面に人影が見えた。男の人のようだが、顔はよく見えない。彼はこちらに気付いて手を伸ばした。懸命に腕を伸ばすけれど、その手は闇雲に水を掴むのみ。

手を掴まなきゃ。既に冷えた身体は言うことを聞かないけれど、それでも必死に水を押し分ける。それに呼応して彼の手もいっそう前へ突き出される。

掴むんだ、光差すあの手を。彼がこの暗い世界から救い出してくれる――。

――目が覚めたら目の前が白い幕に覆われていて、その向こうから透ける陽光で視界が一面のオレンジ色に見える。だらしなく下がった腕を動かして布団を剥がすと、さっきまで水面が広がっていた場所には見慣れたベッドの天蓋があるだけ。カーテンから差し込む太陽の光にはもう早朝の清らかさが感じられない。

寝てる間に布団を被るからあんな夢を見るのだ。誰にもぶつけようのない苛立たしさと虚しさが胸に広がる。

今は何時だろうか、一日はもうとっくに始まっている。

身支度を整えて階下に降りると、使用人の女性が廊下の端に踵を揃えて待っていた。

「おはようございます、アンジェラさま。御朝食の準備が整っておりますよ。」

「おはようマリエット、お父様は……」

「旦那様は席に着いておられます。」

その使用人はふと、目の前の主人の表情に気付いて不審そうに覗き込んだ。

「アンジェラさま、どうかされましたか?少々顔色が優れないようですが。」

「大丈夫よ。」

「今朝は少し遅くいらっしゃったのと関係がございますか?」

「ううん、何でもない。何でもなくってよ。」

そう言ってアンジェラは廊下の突き当たりにある広間のドアを開けた。

質素なクリーム色の壁紙が貼られた広間は奥の壁に大きな窓があり、そこからは低木で彩られた中庭の様子が窺える。部屋の中央にテーブルがあって、白いクロスがかけられた上には燭台と、二人分の朝食が配膳されていた。その片方に窓を背にしてエマソン卿が着いていた。

「おはようアンジー。」

「おはようございます、お父様。」

アンジェラは彼に促されて席に着いた。

ビル・エマソン――かの『光線卿』と呼ばれた男。強力な術士の名家の当主で、ここサクラメントで大きな力を持つ実業家でもある。術士の資産家は多かれど、カリフォルニアで彼ほどの知名度を持つ者は他にいない。口ひげを蓄え、漆黒の燕尾服がよく似合う紳士であった。

「食事の時間に遅れるというのは感心せんな、どうしたか?」

「陽の光が暖かかったもので、つい……。」

「その割には疲れた顔をしているな。」

「昨日は少し遅くまで起きていたものですから、きっとそれで。」

実際はそこまで遅いわけではなかった。卿は「ふむ」と答えて、「ほどほどにしなさい」と彼女を諫めた。

「アンジェラ、食前の祈術をしなさい。」

彼の呼びかけに応じてアンジェラは頷き、食事を前に両手を組んだ。卿も同じようにしたのを見届けてから、略式の祈術の言葉を唱えた。終わってから卿が「いいだろう」と頷く。

「祈りは主への言葉だが、主だけに心を向けるものではない。術を使うことのない他の動物の命をいただくにつけて、彼らに代わって主に祈りを捧げるものでもあるのだからな。」

「ええ、お父様。」

それから二人はフォークを手に取って食事を始めた。

黙々と続いた食事の中、半分ほど食べ進んだ頃に卿はおもむろに語り出した。

「……この大陸を繋ぐ二つの偉大なものの話は何度もしたな。」

「はい。」

アンジェラは顔を上げた。不審には思わない、卿はしばしば同じ話を繰り返すことがあったからだ。大抵の場合それは彼自身が特に重要と考える、自らの価値観についてであった。

「一つは鉄道だ。大陸横断鉄道が開通してからというもの、都市と都市の距離はますます縮まっている。各地がめざましい発展を遂げている。もちろんサクラメントもな。」

大陸横断鉄道が西部を、この国を変えたことは誰の目にも明らかなことである。今では一日に何百という人が東部からこの地を訪れる。

卿が伝えたかったのは、その次の話だった。

「もう一つは……分かるな。」

卿は勿体つけるように、すぐには答えなかった。アンジェラはコーヒーを口にして、カップを手にしたまま目を閉じた。

「フロンティア・スピリット。」

娘がそう答えるのを聞いて、彼は黙って頷いた。

「西部の開拓者たちを、アメリカ国民を繋げた言葉だ。そして、我がエマソン家が貫き通す精神だ。――サクラメント、この街が黄金に沸いたのはお前が生まれるより十年は前のことだ。だがしかし、我が家系はそれ以前からこの街に根を下ろしていたのだ。もう四十年近く前のことになるか、私がまだ幼い少年だった頃、この街は今よりずっとずっと小さく、木造の小屋が建ち並ぶだけだった。しかし我が父、つまりお前の祖父は、『この街はいずれ西部で一番の大都市になる』と言った。その時の彼の瞳の輝きを、私は覚えている。そして、それは現実となった。彼はあの原野に、今の街の姿を見ていたのかもしれない。術士でありながら故郷を離れ、遠い大陸の地に挑んだ、それはなぜだろうか。」

アンジェラの答えを待つことなく卿は話を続けた。

「それこそフロンティア・スピリットだ。彼は富や名声を求めたのではない、まだ何もない土地に人間が根差す、その最初の一歩となることを至上の歓びとした。今の我が家は、その結果でしかないということだ。そして私は彼の理想を受け継いだ。私がこの街の明主たるのは決して権力を誇示したいがためではない。フロンティア・スピリットをもって、同じ精神を共有する市民がこの街で繁栄することを至上の歓びとしているからなのだ。……アンジェラ・エマソン、我が娘よ、お前もまたそれを常に心に銘じなければならない。」

まるでワインの入った杯を掲げるように、彼はコーヒーのカップを持って腕を上げた。

彼女は彼の話を聞いて内心は辟易していた。エマソン卿がこんな話をする理由は知っている。彼は娘を諭したいのだ。娘の性格が曲がっていて素行が悪いのを非難したいのだ。アンジェラは父と違って術士の社交場に顔を出さないし、彼に連れ立って街の人々に助言を与えることもない。

「――して、」

卿は突然切り出した。

「私はしばらく東海岸へ行くことになった。長くなるだろう。ニュージャージーに別邸を用意した。」

エマソン卿はしばしば出張する。術士として高名な彼は、相応に求められる役割も多かった。

「それほど長くなるのですか。」

「三か月後に大きな会合がある。それの下準備がいろいろと、な。その間、この家とサクラメントのことはお前に任せる。」

「えっ。」

アンジェラの手が止まった。卿が長期の出張に出るにしても、これまでこんな話はなかった。

「大したことではない、街に流れる話題に気を配っておくことだ。毎朝、新聞を読むのと変わらない。私がいつもやっているようにな。それともう一つ……術士としての仕事だ。近く、ロサンゼルスへ行きなさい。」

「はい?」

「聞いただろう、ロサンゼルスで送電網の実験地区が整備された話を。ついに西部にも電気の光が灯るのだ。だが、まだまだ時化に悩まされている。そこで私に相談があったのだ。しかし私は東海岸に行くから、代わりにお前に行ってもらいたいのだ。」

「時化を鎮める?それくらいできますけど、私がいなくなればまた元通りに時化るだけではないですか。それでは私は半永久的にロサンゼルスに滞在せねばならないのですか。」

「そんなことはない。今の状態では送電事業に公益性がないと思われている。しばらくの間時化を抑えて、送電事業が価値あるものだということを投資家たちに気付かせればよいのだ。それに、問題の解決に向けてその事業主の彼は既に手を打ったそうだよ。」

「では、その『解決策』が機能するように助力すればいいと。」

エマソン卿は大きく頷いた。

「これも『近所付き合い』さ。サクラメントのエマソン家として当然のことだ。」

食事の後、アンジェラは部屋に戻ってだらしなく机に向かった。

彼女が活発な青少年なら、エマソン卿の提案は願ってもないことだった。しばらくの間家を好きにしていいとなれば、子は我が物顔で振る舞う。ただしアンジェラの場合は、そんな無邪気なものではない。

彼女がエマソンの名を背負う、それは誰にとっても無益なことである。

サクラメントで有力な術士、長年ここに住む平民でも、「エマソンの娘」と聞けば陰でしかめ面する。果ては家の者――長年使えている使用人でさえ、彼女のことを好ましく思っていないことを彼女自身知っていた。それでも構わない……自分が表に立たない限りは。

性懲りもなく昔の話を説教垂れる父親だから、非常識な命を下せるのだ。彼自身でさえ、娘のことを良く思っていないというのに。

寝覚めが悪かったのが祟って、まどろんできた。廊下では使用人たちが行き来する足音が聞こえる。太陽もすっかり昇った頃に自分は眠りに落ちるなんて。どうせ眠るなら背後のベッドに横たわればいいのに、わざわざ机の上を取り払って突っ伏した。

もう悪い夢は見ないでちょうだい。


予想外に重くなった鞄でドアを小突く。思ったより力が入ったか、ドアは大きな音を立てて閉まった。それから鞄をそばに置いて部屋に鍵をかけた、どうせこうするなら初めから鞄を置けば良かったと思いつつ。

階下に降りてマクドナルド氏の部屋の戸を叩く。しばらく部屋を空けることは以前も伝えたが、改めて挨拶しておこうと思った。

ノックしてまもなく夫妻が姿を現した。大きな鞄を手にしたロバートを見てすぐにこれから発つのだと察した。彼は襟を折った土色のジャケットに、下はカーキのズボンを履いて、ジャケットと同じ色の山高帽からは短く整った髪がわずかに覗いている。技士が着るべき正装として、彼なりに最大限の配慮をした結果だった。

決まりきったやり取りをしてから、氏は彼に尋ねた。

「どれほどの外出になるんだね。」

「さあ。一度サンフランシスコの叔父を訪ねて行きますから。一週間、それ以上はかかるかもしれません。」

「仕事の方はどうなの?」

夫人が心配そうに尋ねた。

「今は休職しています。僕もどうなるか分かりませんが、場合によっては住処をしばらくあちらに移すやもしれません。その時は荷物をまとめに戻ってきます。」

「そう、そうしたら寂しくなるわね。」

「ありがとうございます。」

「将軍――叔父上によろしく頼むよ。」

氏は言った。ロバートは頷いて、握手を交わす。そのあとに夫人が別れのハグをした

世話になった隣人に御礼の挨拶をして、鞄を持ち直したロバートは建物の外へ出た。

サンフランシスコ行の列車の時間まであまり余裕はない。出発直前になってあれも要るか、これも要るかと気になりだして、荷物を詰め直したくなったのが災いした。結局、用があるか分からないものをいくつか足して荷造りは終わった。

そこらで馬車でもつかまればよかったが、手頃な者がいなかったので結局歩きながら探すことにした。こうなるならやはり荷物を軽くしておくべきだった。電信技士に肉体労働は少々厳しいものがあった。

提案を受ける旨を書いて叔父さんに送ったところ、サンフランシスコに来るようにと返信があった。叔父さんと、依頼主もそこに滞在しているらしい。これには狼狽した、ロバートは叔父さんに顔を合わせるつもりがなかった。現実的に考えれば、彼と言葉を交わさぬまま依頼に取り掛かるとは凡そ常識から外れていることなのだが。

ロバートの鞄は二百ヤードくらい行くごとに石畳に足をつけた。既に彼の体力は大きく削られている。この調子で間に合わないことはないが、ただでさえ出発時刻が遅れていることから、精神的にも擦り減っていく。

僅かながら大きさの合わない山高帽が斜めにずれてきて視界の上半分を覆う。長く帽子掛けに掛けられていたものだから、古ぼけた臭いが染みついている。普段は見たくもない局員の制服がこの時は懐かしく思える。今こうして歩いているのも通勤に使う道だが、今日はそれよりもずっと険しい。

前方から風が吹いた。実際はそれほどでもなかったのかもしれないが、その風は荒々しかった。大気が時化たかに感じられた。次の瞬間、彼の視界の上半分が急に開けて青空が映った。

ロバートは辺りを見回す。飛んでいった帽子は彼の横、数歩先のところに表向きで落ちていた。困ったやつだ。近付いて拾い上げようとした時、右から蹄の音が接近した。驚いて直立すると、目の前を馬車が走り抜けていった。御者が邪魔そうに彼を睨みつけていたのが一瞬だったが確かに見えて、不快な気分にさせられた。

改めて帽子を手に取ろうとすると……そこに山高帽はなかった。代わりにあったのは、真ん中をぺしゃっと潰されて薄汚くなった布製品だった。ロバートは「あっ」と声を上げて素早い身のこなしでそれを拾い上げた。

無残である。形を直しても元通りにはならない。過ぎ去った馬車は怒声の届かないところまで行ってしまった。

「これは中折帽?……というより『潰れた紙袋』だ。」

時間がないので『紙袋』を小脇に抱え、彼はまた歩き出した。さあ困ったことに、この帽子はもう使えない。ここから大荷物を抱えて家へ往復する時間も体力も残ってはいない。叔父さんは帽子を被らずにあちこち出歩くのを感心しない。彼の身に起こった悲劇を説明するのも虚しい努力だ。……結局、駅前に帽子屋があるのを思い出して、新しいのを買い求めることに決めた。予想外の出費だが、多少は目を瞑るしかない。このまま列車を逃す方が叔父さんに何と思われるか知れたものでない。

ロバートが駅前の広場にたどり着いて鞄を放り出した時、駅舎の大時計はもうあと僅かな時刻を指していたが、幸いして帽子を買うだけの時間は残っていた。広場の端に見える、いつもは通り過ぎるばかりだった帽子屋の前に立った。赤く塗られた格子状の窓枠の向こうにとりどりの帽子が壁に掛かっているのが見えた。一息ついてから彼は腰を上げて店の戸を開けた。

外の乾いた陽気とは全く異なる空気が店中を満たしているのが肌で感じ取られた。後ろを振り返れば駅前の喧騒がそこにあるのに、隧道を抜けて山の向こうに来たみたいに別世界がここにはあった。カウンターには誰もいない。その奥には外から見えた帽子たちがフックに掛けられて整然と並んでいる。

カウンター上のベルを鳴らしてロバートは店主を呼んだ。しばらくして奥の扉から店主らしき腰の曲がった老人が現れた。

「いらっしゃいませ。」

「この服に合う帽子を探してる。急ぎなんだ。安いので構わないから。」

店主は首を一度くいっと倒した。壁に掛かっているのから選べ、というようだった。ロバートは壁の帽子を眺めた。薄暗い店内では濃淡の細かい違いは判別しにくいが、その中にちょうどさっきまで被っていたような茶色い山高を見つけた。これだ。ロバートはその帽子を指さした。

「それをくれ。」

「どれだい?」

老人はのっそりと動いてロバートの指す帽子を探した。その一挙手一投足の遅いこと、えっちらおっちら、彼は少々苛立った。

「その茶色いのだよ。」

ロバートは振り返って窓の外の時計台を見た。長針は進んでいる。発車まであまり猶予がない。

「ああ、これですかい。ちょっと待ってくだせぇ、包みます。」

「構わないから!そのままくれ。」

「そうは言ったって、みんなこうするもんでさぁ。初めに被るその時まで、大事に扱ってくんなし。」

「それが今なんだよ。」

「そう焦んねえで、いまやりまさぁ。」

ロバートはため息ついて、時計台から視線をそらさずに店主がガサゴソやってるのを聞いた。見ている間も時計は進んでいく。

「へい。」

店主が声を上げた。見ると帽子を袋に詰め終わっている。

「いくらだ?」

「六ドルです、旦那。」

「六ドル?確かに六ドルと言ったか?」

「六は六で。」

「どこにそんなに高い帽子があるんだ。」

「でも、良い帽子ですよ、旦那。……別なのにしますかい?」

「もちろんだ。」

「では包み直しまさぁ。」

店主は一度包んだ箱を開けて中をごそごそやりだした。

「包まなくていい!」

「そう焦んねえで、みんなこうするもんでさぁ。」

ロバートは財布を強く握りしめた。融通の利かない店主を今ここで怒鳴りつけてやりたくなった。大きく息を吸って、それから呆れて息を吐きだした。「分かったよ」と呟き、彼は六ドルをカウンターに叩きつけて店主から箱を奪い取った。

「まいどあり。旦那、良い一日を。」

「君もな!」

ドアを開け出て行くとき、扉の縁に鞄が引っかかり、左右の窓が騒いだ。彼はもう一度大きなため息ついて、鞄を持ち直して店を後にした。

彼が乗る予定の列車はホームであと少しの出発時刻を待っていた。機関車は赤い車体に金の金具が輝き、ダイヤモンド型の煙突からは絶え間なく蒸気を吐き出し続けている。白髭の老練な機関士はボイラーの中を覗き込んで火力が均等に行きわたっているか確認している。若い黒人の機関助士は傍で石炭をかくスコップをいじっている。

ホームでは既に次の列車を待つ客の姿がちらほら見えた。車掌はホームに降り立ち、今まさに発車前の確認を進めている。ロバートは走ってまだ開いている後部の車両に駆け込み、途端に安心して通路に崩れ落ちた。そのうちに車掌はカブースに消えて、しばらくして汽笛が鳴った。いつもは電信局の中から聞く機関車の咆哮も、今日は一段と近くで聞こえる。それもそのはず、ここは巨大な鉄の馬が牽く車の中だ。

ロバートの体が揺られる。列車が走り出した。ピストンの音が早くなっていくと同時に、列車はゆっくりと速度を上げて駅を離れていく。彼もいつまでもこうしてはいられないと、やおら立ち上がって客車内で空いている席を探した。ちょうどよく向かい合った四人掛けの席に誰も座っていないところを見つけて、倒れ込むように腰かけた。

列車がサクラメントを離れていく。西部の都市などどこも代わり映えしないが、サクラメントだけは別だ。四半世紀住み慣れた街で、どこかから帰ってくるたびにこの空気を懐かしく思う。今だけはそれに別れを告げ、僕は旅に出る。

車窓の風景は市街地を抜け、穏やかな田園に変わった。


「黄金時代」と誰かが言った。

その語源はもちろん、荒野の中に見つかった金による。十九世紀の半ば、西部に金鉱が発見された。過酷な砂漠の他には何もないとされた西経百度以西の地域が、途端に大成功を秘めた夢の大地に変わった。一攫千金、その言葉に躍った野心家たちがアメリカ中から、大西洋の向こうから集まってきた。合衆国のフロンティアは西へ西へと突き進んでいく。「金鉱殺到」は人々の記憶に新しいことだ。

今や金鉱の熱狂は収まったかに見える。それでも、夢に浮かれた人々の酔いは醒めるどころかさらに燃え上がるようだった。急激に発展を遂げた合衆国は、あらゆるものが不足していた。木材、ビール、紙、布、衣服、家具、石炭、鉄鋼、牛、レンガ、コーン、装飾品、油、ペン、火薬、船、シルクハット……作れば作るほど製品は売れる。毎日いくつもの会社が設立され、工場が建設された。

彼らの熱をさらに高めたのが鉄道である。鉄道会社はこぞって新たな産業を自分たちの路線に組み込み、利益を上げた。絶え間なく原料を送り込み、製品を市民のもとへ届ける。高い賃金に惹かれて欧州の術士が集まるにつけ、規模はさらなる拡大を続けていった。

黄金、それは金塊のことではない。自らに莫大な利益を生み出し得る数多の製品、それらが野心家にとって黄金であることに違いなかった。合衆国の市場の中で生み出され続ける黄金、この国が世界一の工業国になるまで時間はかからなかった。百年前にはどこまでも平原と荒野ばかりが続いていた小さな国は、誰しも疑いようのない最上の帝国に成り上がった。

「黄金時代」、それは現代の合衆国を表す言葉である。

ロバートは先刻から膝の上に抱えていた箱に目をやった。持ってきたまま満足して、中を開けていなかった。帽子は被らなければ意味がない。しかもここにあるのは「高級品」、薄茶けた紙箱には似合わないくらいの代物だ。彼は箱を開けて、それが取っておきのサンドイッチであるかのように丁寧に包装紙を取った。

車窓からの陽光に照らされ、姿を現したのは店で見たあの山高帽……ではなかった。

「何だこれ?」

出てきたのは山高とは似ても似つかぬ、ベージュの帽子だった。丸くて厚みのあるつばに、被る部分は表面に布を縫い合わせてある。手で軽く小突くと、固い音がした。中に金属が入っている。形状はプロイセン軍のヘルメットにも似ているが、これは別な場所で見たことがある。大英帝国の植民地軍だ。つまりこれは、ピスヘルメットである。その時ロバートは、この帽子が彼が指さした帽子の隣にあったことを思い出した。

馬鹿な。

鉄帽なら高いに決まってる。あの店主、これから仕事に行こうという技士が一体どうしてヘルメットを欲しがると思ったんだ。思えばあんなに長々と包装をしている間、ただの一度もカウンターを振り返らなかった彼も彼である。

叔父さんどころか、恥ずかしくて人前で被れたものではない。衝動的に窓を開けて帽子を放り投げてしまおうとしたが、カウンターに叩きつけた六ドルを思い出して、それを向かいの座席にトスした。

ロバートは肘と膝を突き合わせて、頭を重力に引かれるままだらしなく下げた。仕事もできなければ、たかが帽子の買い物も満足にできない。挙句列車を逃す寸前までいったのだから、自分というものに愛想が尽きる。此度の仕事も始まる前から結果が見透かせるようだ。このままサンフランシスコに着いたら訳もなく太平洋を眺めて、午後の列車でサクラメントにとんぼ返りしよう。それがいい。もっと現実的に考えれば次の駅で列車を降りて反対の列車に乗るべきだが、少なくとも「サンフランシスコには行った」という事実で多少なりとも自分に言い訳ができるかもしれなかった。

ふと、足元の違和感に気付いた。うなだれて視界に入った靴、座席の下の暗闇が、どうにも浅い気がした。よく見ると、影から僅かに黒いものが覗いている。……髪だ、人間だ。ロバートは驚いて飛び上がり、向かいの座席に飛び移った。

「そこで何してる!?」

車両内の乗客が彼に一瞥くれた。彼らからすると、ロバートは一人で突然叫び出した奇人である。

おそるおそる座席の下を覗き込んで、彼は勘付いた。推察するに、あそこにいるのは子供である。そして隠れているあたり、車掌に見つかっては困るのだろう。無賃乗車だ。落ち着きを取り戻し、ロバートは座席下の影に小声で話しかけた。

「出てくるんだ。車掌には黙っておくから。」

無反応だった。彼は再度声をかける。

「サンフランシスコまでずっとそんな窮屈なところに縮こまってるつもりか。」

無反応だった。ついに観念して、ロバートはため息ついた。向こうでの滞在費は叔父さんにいくらか工面してもらえることを祈ろう。

「分かった、君の切符代を払ってやる。いいから出てくるんだ、ネズミさん。」

影が蠢いた。先刻黒いものが見えたところから、ひょっこりと頭が出てきて目が合った。婦女子である。黒髪を左右に分けてお下げの三つ編みにして、肩にのせている。左右の耳の上に花を模した飾りを挿していた。

はじめ、ロバートは彼女が薄暗い座席の下にいるからだと思った。だがそれは、まもなく事実であることが分かった。彼女の肌は浅黒いのだ。黒人、ではない、彼女は――

「インディアンか?」

答える代わりに少女はじっと彼を見つめた。険しい顔である。

早くもロバートは自分の言動に後悔していた。浮浪児が無賃乗車しただけなら寛大な態度を見せてやってもよかった。だが実際にいたのは、インディアンの無賃乗車だった。こうして事態は一層複雑になった。インディアンが列車に乗っているとなれば、逃亡か、列車強盗だ。単独で座席の下に潜っていたとなれば前者しかない。どちらにせよ、これを車掌に報告しないわけにはいかなかった。今や無賃乗車などは問題ではない、これは事件である。こんなことになるのなら、気付かないふりをして乗り過ごした方がお互いにとって幸せだった。

「悪いが、君は君の『座席』に戻るべきだ。」とも言えず、向かいの座席に座って虚ろげに窓の外を見るインディアンの少女を呆れて眺めていることしかできなかった。

まもなく車掌が切符を切りにこの車両へやって来た。向こうの乗客から順番に、切符を手渡している。ものの数分で二人の席までやって来るだろう。

少女は十代の半ばに見えた。インディアンの子供は幼く見えるから、正確な歳は分からない。特徴的な文様をあしらったケエプをかけて、脚と腹部は浅黒い肌が露わになっている。白人の中に紛れる気など微塵も感じられない風貌だ。足には何も履いていない。どうやってここまで歩いてきたのだろうか。どこから来たのだろうか。おそらくは、何か大きな危機から逃げ出してきたに違いない。家族や仲間は今――。

少女を見逃してもいい。座席に隠れさせて、車掌をやり過ごせばいい。ここで肩を持ってやったとして、この先の道行きで彼女は同じことや、窃盗を繰り返すかもしれない。それを監督することはできない。しかし、黙認が果たして良いことなのだろうか。自分が「悪い大人」の一員に加わる前に、「正しい大人」のやり方を見せてやることはできまいか。それが身勝手な自己保身だとしても。

「黙っていろよ。」

ロバートは少女に念を押した。車掌が彼の前にやってきて白いグローブの手を差し伸べた。

「切符を。」

内ポケットから切符を出しながら、平静を装って薄ら笑いを浮かべた。

「やあ、すまないが、ここにいる者が切符を忘れてしまってね。一枚、サンフランシスコまで追加で頼む。」

車掌は彼の分の切符を切り、少女に一瞥くれて制帽の影の眉をひそめた。

「……困るなあお客さん、召使の分も切符買ってくださいよ。」

少女は英語が理解できるようだった。「召使」、その単語を聞いて目の色を変え、車掌に掴みかかろうとした。腰を上げようとしたのをロバートは目で制した。幸いにも、彼女はこの場をやり過ごすための自制心は持ち合わせていた。ロバートは財布から一人分の切符代を出して車掌に差し出した。

「召使ではないよ。……実際、彼女は僕の友人だ。」

車掌は紙幣を受け取り、肩に提げた鞄を探った。

「友人にはもっと品のある格好をさせてはどうか。他のお客様が不快に思います。……ただでさえインディアンだというのに。」

ロバートは苦笑いを浮かべた。再度少女に睨みを利かせる。彼女は車掌に敵意の目を向けていた。

車掌は鞄から切符を出し、切って少女に差し出した。――その時、彼女がもぎ取ろうとするのを手を引っ込めて妨げた。

「……腰につけているものは何だ。」

彼の言葉を聴いて、初めてロバートは少女の腰に目をやった。腰みのを巻いているところ、右の脇にベルトで留められたものが見える。……それは鞘に入ったナイフだった。

「待ってくれ……」

「そこを動くな。次の駅で降りろ。」

車掌は威圧した態度で言った。周囲の乗客は何事かと注目する。「なんでそんなもの持っているんだ」という目でロバートが見ると、彼女は強硬手段一歩手前で最後の確認をするように目を合わせた。どうして今日はこんなことばかり起こるんだ。

あっちでの滞在費はすべて叔父さんに出してもらおう。ロバートは財布の中の紙幣を残らず引っ掴んで車掌の手に押し付けると、その隙に少女の腰からナイフを鞘ごと抜き取って同じく車掌に押し付けた。彼の手にそれらを握らせながら、顔を近付けて小声でこう言った。

「約束する。向こうに着くまで面倒は起こさない。ただサンフランシスコまで行きたいんだ。」

他に武器は持ってない、両手を上に挙げながら再び席に戻った。車掌は押し黙っていた。しばらくすると、帽子を目いっぱい被り直して目線を隠し、ぼそりと言った。

「ずっと見ているぞ。」

すべてを鞄にしまい、何事もなかったかのように業務に戻っていった。

ロバートは脱力して大きく息を吐いた。財布は出かけた時からすっかり軽くなった。

「ま、これも大人のやり方だな。」

少女を見る。悪魔のような形相で彼を睨みつけている。あのナイフは重要なものらしい。

「そんな顔するな。一緒に警察に行くよりマシだろ?――そうだ、これやるよ。」

傍にあった帽子を黒髪の上に被せてやった。

「似合ってるじゃないか、隊長。」

彼女は頭に被せられた帽子を乱暴にとって彼のもとに投げ返した。

「やめろよ、高かったんだ!」

ロバートは座席に転がった帽子を拾い上げて自分の頭に被る。周りの目が気にならないなら案外悪くないかもしれない。

「名前は?」

藪から棒に彼は尋ねた。少女は反応しなかった。

「君の名前だよ、な・ま・え。英語、分かるんだろ?」

それでも答えなかった。彼を無視しようとしている。

「どこから来た、――何しに、――家族は。」

次々に質問を繰り出していく。名前だに答えないのだ、もとより質問の回答が得られるとは思っていなかった。ただ眉をひそめるとか、こちらに目線を向けるとか、何か反応が得られないかと試みた。結果、このインディアンは石のように頑として動かなかった。どうしてもうまくいかないと見て、彼はついに自分勝手に語り出した。

「楽しいかい、車窓の景色は。」

反応がなかった。凡そ、少女は景色を見るというより、彼と顔を合わせたくないがために外に目を向けているのだろう。

「いいよな、鉄道は。移動するのに疲れることはなく、何となく移り変わる景色を見ているだけでいい。そうしているうちに、僕の心の中まであれこれ移ろっていき、いつの間にかどこか見知らぬ場所にたどり着いているんだ。そんな時隣に誰かがいると、その経過を口にしたくなってしまうものだ、まるで日記をつけるようにね。」

列車の揺れるままに僅かに右へ左へ動く少女の黒髪を見た。今はこれ以上尋ねるのも野暮だと、ロバートは観念して彼女を思考の外に追いやった。


けたたましい汽笛がロバートを眠りから呼び覚ました。朝からの重労働で疲れが溜まっていたらしい。もう少し眠っても良かったが、既に覚醒してもう戻れそうにない。

インディアンの娘は相変わらず向かいの座席に座っていた。背中を椅子につけて、動く様子はない。意識ははっきりとしていて、瞼をこするロバートをちらと見た。逃げないのだから、思ったより物分かりはいいかもしれない。単純に、財布に無一文の彼から盗れるものはないと判断しただけかもしれない。

長く鳴っていた汽笛が鳴りやんで、短い汽笛に変わった。

「どの駅まで来たかな。駅をいくつ越えたか?」

少女は不愛想だった。

「もうじき駅だろうか。それにしても汽笛が続くなあ。」

機関車が確認できるだろうかと思って、ロバートは窓から顔を出して進行方向を見た。途端に強い風が彼の頬を吹き付ける。時速五十マイルは出ているだろうか。とても速い。そして妙なことに、駅は視線の先にあった。短い汽笛が鳴り響く。

「停車しないのか?」

列車は駅のホームに近付いていく。すぐに彼にもホームで待つ人々の顔が視認できるほどの距離に迫った。予想外の速度で弾丸のように駆け抜ける列車を誰もが驚きの表情で見つめている。汽笛は短く鳴る。次の瞬間、ロバートは自分の推察の遅さを呪った。すぐさま顔を引っ込め、少女に詰め寄る。

「短い警笛は何回鳴った!?」

彼女は何も口にしない。目の前の男が突然血相を変えて尋ねてくるので、一層警戒したのだろう。

「『短いの』だ!何回鳴ったか!」

「……はち。八回。」

少女は初めて言葉を発した。飾り気のない声で一言だけ、確かにそういった。

「八回か……。」

ロバートは頭を抱えた。駅を通り過ぎたことで周りの乗客もようやく異常を感じ取っていた。徐々に車内がざわつく。彼は娘に顔を近付けて、小声で、しかしはっきりとした調子でこう伝えた。

「これは冗談話じゃない。いいか、この列車は暴走している。時化だ。機関車はしばしば時化るものなんだ。もし術機関士にこの状況がお手上げだったら……」

その時、客車の前方の扉が大きな音を立てて開けられた。そこに車掌が転がり込んできた。彼の姿を見るや否や、乗客たちは声を荒げて口々に何か訴えた。車掌は両手を上下して彼らの勝手を鎮めようとした。

「皆様、落ち着いて。落ち着いてください。状況は私たちの管理下にあります。まもなく事態は収拾しますから、席に座っていてください。」

何人かの乗客はまだ立ち上がったままでいる。二人ははじめ、自分たちの座席でその様子を黙って見ていた。

「そこで、皆様、ご乗車の皆様の中に、聡明なる術士の方がいらっしゃいましたら、お手数ですが前方のお席にご移動をお願いしたく存じます。いらっしゃいますか?」

車内は静まり返った。誰かが返事をするのを待った。すぐに名乗り出る者はいないことが分かった。「当然だ!ここは普通車両だぞ!」とある男が叫ぶ。

ロバートは嫌な予感がして立ち上がった。前を向き、少女にはその場に留まるよう手で制してから、まっすぐに車掌のもとに駆け寄った。車掌はすぐに顔をしかめる。

「お前は……。」

「まさかとは思うがこの機関車、術機関士を乗せていないなんてことはないだろうな?」

「席に戻ってください。」

「答えてくれ、はいか、いいえか。」

「席に戻ってください。」

周りの乗客もロバートに加勢して「答えろ!」と車掌に詰め寄る。

「術機関士はいるのか!」

車掌は答えなかった。ついに黙り込んで彼と目を合わさないように俯いた。

一人の夫人が甲高い声を上げて座席に倒れ込む。それから堰を切ったように車両中が大騒ぎに陥った。

「どいてくれ!」

ロバートは車掌の肩を掴んで押し退け、前方の車両に向かって駆け出した。

駆け抜ける車内はどこも不安一色で染まっている。急に飛び込んでくる見知らぬ男に各々が驚きの視線を向ける。ロバートはついに先頭車両までたどり着いて、炭水車の梯子を駆け上がった。バラ積みされた石炭の山の上に立つと、列車がいよいよ速度を上げて暴走していることが頬を抜ける風によって分かる。「高級帽」はしっかりとした重みがあり、風を受けても頭を離れることはない。前方に次の駅がある村はもう見えている。

石炭の山を下りて運転室に降り立った。狭い室内には前方窓を見ながら機関車を操作する運転台と、中央で燃え盛る炉に石炭をくべる機関助士の席がある。その周りには圧力計やら速度計やらの計器が所狭しと並び、すべてが炉の熱気を帯びている。二人の機関士が突如として現れた男に驚いて目を向けた。運転台に座るのは帽子から白髪のはみ出る老練な男、もう一人は若い黒人の機関助士で、スコップをもって火室の前に立っていた。

「今どうなってる!?」

爆音で鳴り響く機関車の駆動音に負けないよう、ロバートは声を張り上げた。

「……術士か?」

前方に首を戻して、機関士はぼそりと問いかける。

「いいや、陸軍制定の危機対応必携をかじっただけの技士だ。今さっき、最後車まで術士はいないことが分かったばかりだ。」

機関助士はため息をついた。

「なぜ術機関士がいない?」

「経費削減、らしいぜ。」

ロバートは呆れて声も出なかった。

「時化の発生個所が特定できるまで機関車は止めるな、このままサンフランシスコに突っ込ませるわけにはいかない。せめて時速四十マイル以下に落とせないか!」

「言われんでも今やっとるわい!」

機関士は癇癪を起こした。しかし流れる風景が遅くなることはない。

「サンフランシスコに陸軍の出動を要請しよう、軍の強制停車手順だ!」

それを聞いた機関助士は首を横に振る。

「サンフランシスコはそう遠くない!間に合わないよ!」

「近郊で演習をしてる部隊があるはずだ!車掌に電報を打たせよう。」

ロバートは胸ポケットから紙を取り出し、足元に転がる石炭の一片を掴んで字を書いた。

「……若いの、軍人か?」

「いいや。親戚がいるだけだ。乗客を避難させよう。後ろの客車を切り離せるかもしれない。」

機関士の指示に従い、車掌は乗客を後部の客車に避難させた。その間、運転室に留まる三人の男は機関車の各部に操作を加えて時化の発生個所の究明に取り組んだ。車掌の通信を受け、先の駅では早急に消火・救助体制が整えられた。列車は二駅ほどホームを突っ切った。

調査項目のリストを指で弾いて、ロバートは今一度機関士に確認した。

「時化は火室の過熱で間違いないんだな?」

機関士は答える代わりに頷く。

「わしゃ前にもやったことがあるわい。ジェームズ!運転代われ!石炭の調節はわしがやる!」

機関助士は目を丸くする。そうすべきだとロバートも頷く。火室の時化はとびきり厄介だ、これ以上炉内の温度が上昇しないように燃料を絞り、それでいて石炭の供給を止めると時化が火室の床に移って融解を起こす。最適な量を機関士の勘に頼って放り込むという、曲芸のような技術が要求される。黒人の機関助士はおどおどしながらも了解して、運転台の席に腰かけた。ロバートはその後ろに立って前方を見る。どれだけ進んだか定かでないが、サンフランシスコという刻限は着実に近付いている。

車掌が先頭車両まで来てロバートに声をかけた。

「乗客の避難完了!客車の手動ブレエキ作動を確認しました!」

「よくやった!」

彼は炭水車に駆け上がって、そこから車掌を見下ろした。

「客車を切り離してくれ!手動ブレエキで列車を止めるんだ!例え客車が時化ようが、機関車を失った列車がいつまでも進むはずはない!」

車掌は帽子に手をやって頷き、ロバートの視線の先にある連結器のレバーを反対に倒した。重々しい音を立てて結束が外れ、まもなく両者の間は徐々に開き始める。

「お前はこっちに来ないのか?」

車掌は彼を見上げた。

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周りの平民には何一つ感じないが、これで時化は治まったらしい。火室が異常に灼けることはもうない。老人の機関士は彼らに何かに掴まるよう言った。

「ブレエキかけるぜ。ちょい荒っぽいから気をつけな。」

機関士は運転台に戻る。ロバートは運転室の壁の手すりに腕を絡めた。同時に少女を引き寄せ、隣で掴ませて一緒になって屈みこむ。

ブレエキが押し当てられた車輪がけたたましい鳴き声を上げる。全員が前に強く押し付けられる。辺りの空気ごとつんざくような音はしばらく鳴り続ける。ロバートは顔をしかめずにはいられなかった。少女も同じようにしていた。

機関士が何かを叫んだ。まもなく金切り声が止まる。彼が立ち上がって景色を見ると、機関車は先刻と大差ない速度で走り続けていた。

「どうした!」

「ブレエキの効きが悪ぃ!」

「なんだと!」

次の瞬間、二人は駆け出して運転室から身を乗り出し、機関車の車輪を覗き込んだ。反対側では機関助士も同じようにしていた。

彼らが見た時、動輪は、白く輝いていた。目も当てられないほどに、巨大なアーク灯がそこに灯っていた。

「なんてこった、動輪まで時化てやがらぁ!」

ロバートは反射的に首を上げて前方を見た。陸軍の砲兵陣地が迫っている。前方の小さな木立を越えれば機関車は野砲の射程に入り、狙いもつけやすくなる。あそこを越えてはならない。

運転室に振り返ると、インディアンの強き娘はそこにしかと立っていた。何も言わずとも自らの役割を理解していた。すぐさまロバートは彼女を脇に抱きかかえた。抵抗する間も与えず、運転室からいっぱいに身を乗り出して白熱する車輪を見せる。吹き付ける風と機関車の駆動音に負けぬよう、彼女の耳元で声を張り上げた。

「あそこに大きい車輪が見えるか!あれが動輪、機関車を動かしてる車輪だ!こっちに二つ、向こう側にも二つ、全部で四つだ!君がやることは、あの車輪に少しずつ後ろ向きの回転の力を与えて、車両を止めることだ!四つ全部に均等にだぞ!……前を見ろ!木立が見える!あの木立を抜ける前に、止められるか!」

「できない」と答えられたら、彼はこのまま少女を抱えて車両を飛び降りるつもりだった。幸い、軍の衛生兵が近くにいるはずだ。全身骨折は免れないが、機関車と一緒に大爆発するよりはマシだ。

少女は彼の顎を頭で小突いた。「戻れ」という合図だった。彼が運転室の中に戻って手を離すと、彼女は屈みこんで両腕を突き出した。前方、やや外向きで斜め下。その腕が伸びる先は左右の動輪があるべき場所だ。

目を閉じ、両の手に拳を作る。少女は全神経を捧げて車輪の運動を制御にかかった。彼女の額が汗に輝き始めた頃、車両は速度を落として景色の流れが遅くなっていった。それでも木立は近付いてくる。

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ロバートが運転室に戻ると、白髪の機関士は少女の肩を叩いて活躍を労っていた。

「大したもんだぜ嬢ちゃん。機関士の男でもお前さんほど度胸のある奴ぁそういねえぜ。」

彼女は黙ってばつが悪そうな顔をしていた。客車にいた頃の不愛想な様子に戻ったようだ。扉が開く音を聴いて機関士二名は彼に振り返った。

「若造、お前さんもだ。」

「今日はとことん運の悪い日だった。」

「それでも最後にいいことあったじゃねえか。――わしゃトーマスだ。」

「ロバートだ。」

二人は握手を交わす。次いで機関助士がロバートの前に出た。彼とも握手を交わす。

「ジェームズだ。技士と言ったがあんた、何者なんだい?」

「しがない電信技士さ。サクラメントの。」

「まさか。」

ロバートは黙って頷いた。助士は信じられないという表情だった。

「術機関士を乗せてないのはこれきりじゃないのか?」

「よくあるこった。今じゃ運行ダイヤも過密だ、いちいち術機関士を乗せるほど予算も人員も足りてねえんだと。今回ほどの熱暴走なんて、何百、何千回に一回起こるか起こんねえかだからな。」

「杜撰なものだな。願わくばこれをきっかけに鉄道会社も態度を変えると良いが。」

「術士が足りねえなんて、どこも変わらんわい。このアメリカじゃあよ。」

機関士はボイラーが冷めないように石炭をくべて、もう一度ロバートに向き直った。

「さてと、お前さんらはどうするよ。こいつは整備工場行き、別の機関車が客車を回収しに行くはずじゃが……。その前に警察の事故調査が来るだろな。どうするね?」

「そうだな……。」

今日は叔父さんに会って依頼主の紹介を受ける予定であったが、大変な重労働である。列車の高速運行により、時間だけが大して遅れることなく回っている。それよりもこのインディアンの娘のことである。警察の聴取を受ければそのまま拘束されかねない。この娘はおそらく逃亡中の身だから。

そこへ陸軍の騎馬隊が機関車の足元までやってきて、運転室を見上げて声をかけた。

「グレイヒルさんですか!?」

彼は運転室の窓から答えた。

「そうだ、僕だ。」

「グレイヒル大佐がお呼びです。そちらへ案内いたします。」

「分かった。」

車掌に送らせた電信は叔父さんに向けた内容だった。こうして部隊が即応したのも、直接彼に言付けたからだった。

機関士二名が黙って頷く。ロバートはそれを見届けて、少女に首を回した。

「僕は軍に親戚がいる。知り合いだと言えば君も通してくれるだろう。一緒に来るかい?」

他に妙案がなかったからかもしれない、とにかく少女は頷いた。それを見て彼は満足して、機関士に別れを告げて車両を降りた。

兵士の案内に従って彼らは騎馬隊に乗せられて線路脇を進み、やがて市街地に入ったところで手配された馬車に乗り込んだ。兵士の話では、客車に置いて行った荷物は回収して宿泊場所に届けてくれるそうだった。彼は感謝した。

サンフランシスコは湾の対岸、半島の先端に位置する都市である。馬車にしばらく揺られた後、二人は渡し舟に乗せられた。湾内には何艘もの蒸気船が行き交い、次々に港を出入りしている。ここはアメリカ大陸の西の玄関口だ。インディアンの少女は一面に広がる水面に感動を隠しきれていなかった。河よりも広いこの湾の景色を今まで見たことがないらしかった。時間があればサンフランシスコの向こう側で太平洋に沈む夕日を見せてやろうか、彼はそんなことを思った。

短い航海の後、フェリーはサンフランシスコ側の港に停泊した。船を降りて通路を渡ると案内役の兵士はこの先にグレイヒル大佐がお待ちだと言った。彼との対面を前にしてロバートはいよいよ身が引き締まった。

ターミナルビルに入ると、叔父さんは前方に一人で立っていた。

彼は彼の正装である士官服を着ていた。体に合わせて設えられた黒服に、二列の金ボタンが光る。肩と襟の装飾は彼の大佐たる階級を示す絢爛なものだ。

――ワトキンス・グレイヒル大佐。国民はその名を聞けば、シヴィル・ウォーでの彼の戦功を想起する。今から二十年以上前、合衆国はかつてない規模の内乱に見舞われた。その戦いで大統領エイブラハム・リンカーンの下、合衆国軍を指揮して戦乱を平定した功労者、その筆頭が彼なのだ。シヴィル・ウォーは国民の心に深い傷を負わせたが、その中でも彼の存在は希望であった。彼は合衆国の英雄であった。現在は住まいを西部カリフォルニア州に移し、同州の陸軍幹部として日々外国の脅威に目を光らせている。

そして何より、グレイヒル将軍はロバートの叔父で彼の後見人だった。

蓄えた髭の下、唇に僅かな笑みを浮かべて将軍は甥を迎えた。

「久しいな、ロビン。無事で何よりだ。」

「やあ、叔父さん。」

将軍は彼を温かく迎えようとして、すぐにいくつもの不審な点に気付いて差し出した手が止まった。

「……その帽子は何だ。」

ロバートはきまり悪く帽子をさすった。

「ああ、これは、事故で頭部に外傷を負わないように……。これの他に選択肢が無かったんです。」

将軍は首を傾げる。

「他のを用意しなさい。ウエスティングハウス氏にお会いする時はむしろ被らぬ方がいい。それと、こちらの娘さんは?インディアンか?」

「いかにも。しかも術士だ、今日の最大の功労者ですよ。この娘がいなかったら僕たちは今頃列車と共に砕け散ってる。名前は……。君、名前は?」

黙殺した。まるで彼の声が届いていないかのように。

「まあ、何でもいいさ。この通り静かな子ですが、聞き分けはいいですよ。列車の中で知り合ったんだ、故郷の家族に会いに行くって……なあ?」

適当な作り話を黙殺した。将軍はため息をついて首を振った。

「この際、子細は尋ねまい。彼女の働きは分かった。吾輩が訊きたいのは、なぜお前と行動を共にしているかということだ。」

「成り行きで……。」

「成り行き?」

将軍は顔をしかめた。

「叔父さん、この娘に一晩の宿を用意してはくれませんか。何せ僕も助けられた、この『レディ』はもてなされて然るべきだと、僕はそう思います。」

ロバートは将軍の顔色を窺った。彼はしばらく黙っていた。やがて呆れともとれる呻き声を上げて頷いた。

「同じホテルをもう一室手配しよう。それでいいかな?」

将軍の問いかけにも娘は答えなかった。ロバートは代わりに礼を言った。

「ついて来なさい」と将軍は先導した。案内役の兵士とは別れ、三人は用意された馬車に乗り込んだ。車内では誰も何も喋らなかった。人も車も往来激しい街並みの真っただ中を十分も走ると、目的地のホテルの前に馬車は停まった。御者が彼らを降ろす。目の前には複数階を持つ石造りのビルが聳え立っていて、その周りの建物も似たようなものだった。ここがサンフランシスコの中心街であった。

従業員に案内されるまま中へ入ると、内装は外観の重厚な見た目と打って変わり、大理石で彩られた壁床に赤いカーペットが敷かれていた。フロント頭上のシャンデリアは歩くごとにどこかの面がきらめいて光が目に入った。

将軍はフロントで話をつけていた。その隙にロバートは少女に耳打ちした。「頼むから叔父さんの顔に泥を塗ることはするなよ」ということだった。言い終わってまもなく将軍が彼らのところに戻った。

「列車の荷物は夜にでも届くだろう。ウエスティングハウス氏はこの上の部屋でお待ちだ。そして君、我々は今から仕事の話をしてくるから、先に部屋に行っていなさい。疲れただろう、食事は部屋に運ばせるから、ゆっくり体を休めるといい。分かったね。」

将軍が少女に向き直って言うと、彼女は頷いた。今のところは至って素直だった。

ホテルマンが少女を部屋に案内するのを見送った。別れ際、ロバートは彼女の頭に帽子を押し付けた。投げ返す暇を与えず、帽子はそのまま彼女の手の中にあるまま向こうへ行った。それから二人は階段を上がり、会議室の一室の前に立った。

「既に手紙で伝えた通りだ。氏はお前に対して大変結構な興味をお持ちだった。まずは顔を合わせてみようじゃないか。」

将軍は扉をノックした。奥から聞こえる声に招かれ、二人は室内に入った。

広くはない応接間で部屋の中央のテーブルセットの他には壁に据え付けられた灯りがいくつか並んで茶色の壁紙を照らしているくらいだ。一人の男が入口を向いて立っていた。黒いスーツに蝶ネクタイをつけて、将軍と同じ直角の髭を蓄えた男性は、二人に丁寧に挨拶をした。

「わざわざお越しいただけるなんて恐縮です、閣下。彼が名うての技士ですかな。サンフランシスコへようこそ、私はジョージ・ウエスティングハウスだ。」

「お久しぶりです。こちらは甥のロバートです。」

「どうも。」

ロバートは差し出された彼の骨ばった手を取った。

「道中、列車が時化に遭ったと聞いたよ。大事はなかったのかね?」

「火室と動輪が少々。たまたま居合わせた術士の助けを借りて事なきを得ました。」

「動輪か。」

そう呟いて、氏の眉が下がった。

「私のブレエキは乗客を守れなかったか……。」

「『私の』?」

こう聞いた時、ロバートの頭によく知った「ウエスティングハウス」の姓が思い浮かんだ。彼の心中を察したように氏は頷いた。

「ウエスティングハウス・エア・ブレエキは私の発明品だ。今ではどの機関車にも採用されている、標準安全装置だ。」

「そうか、やはりあなたが。」

現在の機関車に標準搭載されている空気ブレエキは蒸気を使って作り出した圧縮空気によって全車両にブレエキをかける。以前の車両ごとの手動ブレエキに比べて格段に制動距離は短くなり、安全性が高まった。革新的なブレエキの登場によって時化に即応できるようになったのだ。もっとも、今朝のように動輪の回転自体が時化るか、圧縮空気そのものが時化た時はさしものブレエキにもなす術がない。氏はそれをよく分かっていた。

驚くロバートを見ながら、続けて彼は言った。

「そして今は、この国の電力事業に取り組んでいる。」

話に聞いていた。東海岸で行われている電力事業競争、それを牽引する人物の一人はジョージ・ウエスティングハウスといった。目の前にいる男性こそが当の本人ではないか。

着席する前に将軍は挨拶をして部屋を出て行った。甥を案内し、氏に軽い挨拶をすれば彼の目的は達されていた。後の専門的な話は専門家同士に任せればよいと考えた。そうして将軍がいなくなってから、二人は改めて席に着いて話を始めた。ホテルマンが部屋に飲み物を運んできた。

用意された紅茶を手に取ってウエスティングハウス氏は香りを嗅いだ。

「コーヒーは好かない。とりわけ西部のものは特に。ドロッとして、苦くて、飲めたものではない。」

「目が醒めますよ。」

「君は飲むのかね?」

「研究の供にはいい。」

氏は首を横に振った。

「電信局の仕事はどうだね。」

「経営陣は何も分かっちゃいない。会社との癒着か知らないが、使えない機械ばかり寄越してくるんです。」

「やはり会社を動かすのは技士の出身でなければならない。」

ロバートは頷いた。

「ロバート、」とウエスティングハウス氏は彼の名を呼ぶ。腰の上で組んだ手のそれぞれの指先がお互いを確かめるように動く。

「大学はどこを?」

「……いいえ、どこにも。」

「では技士の勉強はどこでやっていたのかね。」

「ハイスクールで、専門のところに在学していたので。」

そう答えながら彼は目を逸らした。

いくらか身の上に関する簡単な質問をして、氏はまるでロバートを探っているかのようだった。そうかと思えば、次に彼は核心に迫る問いを投げかけた。

「今の電力事業についてどう思うかな。」

「将来性はありましょう。まだ高い壁がありますが。」

ロバートは自らが知り得る情報をもってして答えた。簡潔な回答だった。それは氏にとって納得がいくものだったようで、彼は頷き、語り始めた。

「これまで電力は僅かな範囲において使用されてきた。機関車の照明だとか、工場の一部機械だとか、いつもその傍には蒸気機関の発電設備があった。だが、これからは違う。ピッツバーグを訪れたことは?私が電力事業を興した街だ。そこは今、夜でも煌々と明かりが灯る眠らずの街になっている。それが電力だ。オハイオ川の流れが電気を生み出し、街中の電球を光らせているのだ。素晴らしいものだよ。私はいずれアメリカ中がそうなると信じている――否、私の電力会社がそうするのだ。」

目の前で声高に語る男の熱意にロバートは敬服して耳を傾けていた。彼の話は続いた。

「それなのに投資家たちときたら!電力を『ピカピカ光るだけのおもちゃ』だの、電線を『物干しにも使えない縄』だのと嘲笑する。哀れなものだ、愚か者たちが蒸気機関車を『走る爆弾』だとか『ロバの方が速い』と嗤っている内に世界が鉄道無しでは動かないようになったことを知らないらしい。電力とは、電球をつけるだけのものではない。機械も、鉄道も電力で動き、いずれは蒸気機関に取って代わるほどの発明になるだろう。分かるかね、最後に笑うのは彼らではない、私たちなんだ。そうだろう?」

一般の者には壮大な夢想家としか思われない彼の発言を、ロバートは黙って頷いた。

電力事業、それは波打ち際で砂城を築き上げるような無謀な取組だと考えられている。その原因は――かつて蒸気機関の前に立ちはだかったように――時化に他ならない。

「焚火は消えるものだ」という諺がある。焚火を起こした場所に限って時化が発生するように、それらしい行動をするからこそ失敗は起きるべくして起きるのだ、という意味である。現在ではこの諺にある程度科学的支持が得られている。焚火は時化やすいものらしい。

統計的に雷雨の日は時化の発生が多い。帆船より蒸気船は時化に見舞われやすい。焚火、雷、蒸気機関……一定以上の力が集積するところに時化は発生しやすいということが、一般に信じられている。大量の熱量を抱えて高速で走る機関車は、時化るべくして時化るのだ。この理論が正しいとすれば、電力が「ごみ」と呼ばれることも頷ける。

人々が電力を使い物にならないと考えるのは、その圧倒的な時化やすさにある。発電の動力源、発電機、送電網、電球、そのどれにおいても日常茶飯事のように時化に遭う。四六時中術士による厳格な管理の下に置かれた発電機は未だ大事故を起こしていないが、放っておけばまず間違いなく暴走機関車のようになる。電球がぺかぺかするのは目に悪く、その部屋に術士がいない限り手の施しようがないし、送電網のどこかが時化て電圧や電流に狂いが生じるのは街の一区画ごとに術士を配置するでもなければ完全にお手上げだった。目下、各電力会社は術士の多く暮らす地域に実験区画を置いて実用性をアピールしているが、平民だけの地域ならば時化の報告件数はさらに跳ね上がるであろうことが容易に想像できる。

かくして、電力は誰の目にも「ごみ」に映った。

しかしウエスティングハウス氏も言う通り、これはかつての蒸気機関に対する風評と酷似している。危険だ無駄だと謗られた蒸気機関が今や世界を動かしていることを思えば、技士たちは電力に対して同じ夢を抱かずにはいられなかった。

ウエスティングハウス氏自らの希望を語ったのち、足元から一枚の紙筒を取り出した。巻かれた紙を広げると、そこにはロサンゼルスの一画の地図が描かれていて、赤い線が道に沿ってあちこちに引かれていた。

「ピッツバーグでの電力事業に一段落した私は、電気の光を届ける次なる地を西部カリフォルニア、ロサンゼルスに選んだ。フロンティア・スピリットを持った西部の諸子ならばきっと、この事業に取り組む価値を分かってくれるはずだとね。見たまえ、この川に発電機が設置してある。送電線が引かれているのはここに示した区画だ。今はまだ狭いがね、すぐに電力の素晴らしさを知った投資家がこぞって出資をしたがるだろう。彼らを魅了するには今一つ、技術が足りないのだ。」

氏は顔を上げてロバートを見据えた。

「ロバート、君に頼みたいことは一つ。この実験区画に赴いて、電力供給の安定化を進めてほしい。我々は時化に負けない強い電力網を築き上げるのだ。」

「『安定化』ですか。」

「そうさ。大切なのは、投資家たちにこの事業が利益を生み出しうるものであることを気付かせること。そのために技士としての君の力を借りたいのだよ。」

彼が黙っていたのを躊躇ととったのか、氏は彼の前に紙切れを差し出した。そこには数字が書いてあった。

「これは手付金だ、君の口座に振り込もう。報酬は……このくらい。結果によってはさらに増額できる。無論、あちらでの滞在費と研究費は別途こちらで負担する。」

紙切れの金額を稼ぐのに、彼はどれだけ電信技士の仕事を続ければよいか。皆目見当もつかないほどだった。

氏はさらにロバートに詰め寄る。

「悪くない提案だろう。さ、君の返事を聞かせてくれ。」

彼の爛々と輝く瞳が肥大していくかのような錯覚を見た。


ロバートはホテルの廊下を歩いていた。大理石の床の上にはカーペットが敷かれ、ガラス窓の突き当りまで続いている。等間隔で続く窓には赤いベルベットのカーテンが波打って、壁に据え付けられたラムプの光によって輝く。

彼の手に骨ばった手の感覚が残っていた。歓喜を表現するかのように彼の握力は強かった。その余韻と共にロバートは自らが受けた仕事の無謀さに頭を悩ませた。

一介の電信技士に話が回ってくる前に、氏はおそらく高名な技士の多くに声をかけたことだろう。そして、その誰もが首を横に振ったのだろう。あれだけの報酬を積まれても、彼らは断るしかなかった。技士なら誰もがそうする。なぜなら氏が依頼したのは「星を掴む話」だからだ。

時化、有史以前から観測されるその現象は工業化を押し進める人類の前に難題として立ちはだかった。そして人類は未だ、その謎を解いてはいない。

欧州の古い時代には錬金術という学問があった。鉄を黄金に変え、柔らかい石を作り出すようなその学問は時化も研究の対象にした。歴史上に残るような多くの学者が時化を研究した。結果、誰一人としてその正体を明らかにすることはできなかった。かつての術士たちがそう語ったように、時化は「神秘」と形容する他ないのかもしれない。

「電力供給を安定化させてほしい」という氏の依頼は、噛み砕いて言えば「時化の発生を止めてほしい」ということだった。ならばその答えは歴史のすべてが証明している。

――そんなことはできない。

勿論、ロバートもそう考えている。それでも彼は断れなかった、なぜなら自分の叔父から紹介された話だからだ。普通の技士ならば自らの評判を落としてでも「いいえ」と答える。そもそも「時化の解決は不可能」ということは技士なら誰でも知っているのだから、これを断っても名誉が傷つくようなものではない。しかし叔父さんは違う。自然のことなど何一つ知らない軍人だ。自分が紹介した人材が役に立たなかったとなれば確実に彼の名声はくすむ。人材が自分の親戚ともなれば尚更だ。だから彼のためにロバートはこの仕事を断ることができなかった。

あの紙切れは明日にでも札束になって口座に振り込まれよう。もしかしたら今にもそうなっているかもしれない。

叔父さんに悪気はない。ウエスティングハウス氏の話を聞いて「甥はその手のことに詳しい」と早合点したのだ。ロバートにだっていい仕事があると善意で紹介したのだ。氏は氏でやっと話を聞いてくれる者が現れた、しかもグレイヒル将軍のお墨付きだと喜んで飛びついた。損をしたのはロバートだけだ。

先刻渡された部屋の鍵に書かれた数字を見ながら、エレベイターの金網に囚われて上の階へ上がる。番号と一致する表札の扉の前に立って部屋に入ると、ロバートは仰向けになってベッドに横たわった。


部屋の扉を叩く音でロバートは目を覚ました。窓の外の景色はもうじき闇に満たされる頃で、下を覗くと並んだ瓦斯灯に横顔を照らされながら人や車が往来していた。

ノックの音はもうしばらく続いた。「今出ます」と声を上げて上着の裾を正してから扉を開けると、昼と変わらぬ格好で叔父さんが立っていた。

「寝ていたのか。」

「はい。今日は目まぐるしく動いていて、今朝自宅のベッドで目覚めたのが先週のことに思える。」

「無理もない。」

将軍は首を振った。

「荷物が届いたそうだ、部屋に運ばせよう。その間に下で夕食を食べよう。」

ロバートは軽く頷いて「鍵を取ってくる」と言って部屋に戻った。それは人型に沈んだリネンの隣に放られていて、彼は拾い上げて部屋の入口に戻った。

「娘はどうしていますか?」

部屋に鍵をかけながらロバートが尋ねる。荷物運びのホテルマンは別な鍵で部屋を開けるはずだ。

「さあ。部屋で食事をしているんじゃないか。」

「面倒を引き受けていただいてすみません。」

「その話はあとにしよう。」

二人は一階のレストランに降りて、用意された席に座った。まもなくワインが運ばれてきてそれに続いて料理が並べられた。鮭のムニエル、豆と野菜のスープ、アボカドのサラダにオリーブオイルドレッシングがけ、デザートはプラムのコンポート。どれも温暖なカリフォルニアで採れる産品だ。

はじめのうち、将軍は何も語り出さないのでロバートは黙っていた。お互い一言も口にしない食事がしばらく続いてから、不意に将軍は沈黙を破った。

「前に会った時と変わらないな。ロビンも髭を伸ばした方がいい。さもなければ青く見えるぞ。」

叔父さんは忙しくとも髭の手入れを丹念にやっているから、いつでも美しく整っていた。それに対してロバートはそもそも髭への拘りが薄かったし、手入れをする暇もないだろうから伸ばしていなかった。作業の邪魔だし、呼吸や食事をする場所の周りに敢えて毛を生やす理由も釈然としない。それでも勝手を言って困らせる必要はないので「そうですね。」と曖昧に答えた。

「ロビン、仕事の話を聞いたぞ。……まさか今の仕事が嫌になってこの話を受けたのではないだろうな。」

「そんなことありません。」

「お前の口から詳しく聞かせてくれ。」

ロバートは自らが電信局で受けた処分について子細を述べた。我ながら馬鹿らしく、羞恥で顔が歪む思いだった。出勤停止に対する反省は述べつつも、あくまで自分に正当性があることを繰り返した。将軍は時折短い相槌を打って、始終聞いていた。

「話はだいたい分かった。」

彼の話が途切れたところで将軍は言った。

「利用客のことを考えれば、お前の判断と行動は正しかったかもしれん。だがなロビン、重役という者は、それまでの職務に対する奉仕と功績から然る立場に重用されているのだ。それに配慮に欠ける言葉をかけたことは恥ずべきだ。相手が術士だからとか、そういった話ではない。企業という組織の統率に関わることだ。『故障への対応』に関してお前からすれば不当な処分に思えるかもしれないが、彼の視線の先はそれだけに留まらない、会社全体を見ていたということだ。それに、事実を述べるにしても伝え方があるだろう。齟齬の原因はお前の言い方にもあったのではないか?」

叔父さんの話に反論の余地はなく、彼はフォークもテーブルに置いて黙ったまま座り込んでいた。まだ完全には納得しておらず、専務は自らの威厳を貶められたことに個人的に怒っただけのように思えるが、それでも叔父さんの論理に非の打ち所はなかった。

将軍は沈んだ調子の彼を見かねてか、話題を変えた。

「ロビンが良くやっていることは周りの者が知っているだろう。この件はこれで終いだ。それで、今度の仕事は上手くやれそうか。」

「はい。家に役に立ちそうな本がいくつかある、そのうち取って来ようと思います。」

ロバートは諦念を悟られないように明るく答えた。

「電力技術の開発に携われるなんて、あまりないことですから。すぐにサクラメントも夜通し明かりが照る街になりますよ。」

将軍は無表情に頷いた。この手の話題はからっきしという風だった。

「話は変わるが」と将軍は声の調子を変えた。低い声で、周りに聞こえるのを憚る様子だった。

「例の娘はどうするつもりなんだ?」

話題は成り行きで連れて来たインディアンの少女のことだった。

「警察には話を通したのか?」

ロバートはゆっくり首を横に振る。

「一人で乗っていたんだろう。どこかから逃げてきた可能性は?」

確実なことは言えないが、その可能性は大いに考えられる。名乗りたがらないのも、目的地をはっきり答えないのもそれらしい。何より、叔父さんには言っていないが彼女は無賃乗車を企てていたのだ。

「この先は彼女の自由にさせますよ。一晩の宿を与えれば、こちらとしては十分でしょう。」

「みすみす逃したと、後から問題になるかもしれん。」

「そうだとしても、機関車を止めてくれた者を警察に突き出すなんてひどい真似は僕にはできない。」

「しかしお前、あれはインディアンの子だぞ。お前がよりにもよってインディアンなど。」

「約束します、この件で何があっても叔父さんには迷惑がかからないようにします。」

果たせるかも分からない約束だった。将軍はまだ何か言いたそうに彼の目を見つめていた。

ロバートは間が悪くなって、今は一刻も早く食事を終えて部屋に引っ込むのがよいと思った。将軍に声をかけて立ち上がってしまってから、最初に申し出るべきことを忘れているのを思い出した。さらに間が悪いことだった。

「あの……叔父さん?」

呼びかけに応じて彼が顔を上げる。

「いろいろあって、列車で財布を失くしてしまって……。」

「荷物は届いただろう。」

「あー、その……そう、列車の外に落としてしまったんです。」

将軍は目を丸くした。

「それで、ウエスティングハウス氏からはロサンゼルスに着くまで資金が入らないので、その……。明日の生活費を、お借りできませんか?」

彼は呆れ返って「返す必要はない」と札を取り出してロバートに差し出した。


コンコンコン。

ロバートは今朝も部屋の扉をノックする音で目を覚ました。薄霧に包まれた街は早くも活動を開始していて、建物の隙間から覗く空は朝焼けの紅色を既に失っている。

ノック音を鳴らす主ははじめ叔父さんかと思ったが、そのはずはない、そもそも叔父さんとはもう会う予定が無かった。ホテルの従業員は不躾に扉を叩き続けたりしない、よって考えられるのは一人だった。

そのうちに、音が金属質の軽く響くものに変わった。ロバートはいい加減起き上がって傍の上着をとって扉を開けた。

インディアンの少女が例の帽子を両手で持って立っていた。どうやらあの音はこの帽子でもってキツツキみたいに扉を突いていたらしい。今朝がた結い直したと見える三つ編みは昨日より整っていて、耳の上の花飾りも映える。

「おはよう。君はとっくの昔に行方を眩ませたかと思ってた。」

「『妙なことするな』って、言ってたくせに。」

「そうは言ったが、無視すると思って。」

「……今からしようか。」

「やめろ。」

「今決めた。」

「やめて『ください』。」

娘は昨日に比べて別人みたいによく喋る。元々はこれくらい喋るのかもしれない。多少なりともロバートに対して心許したなら、適切な意思疎通ができるので良かった。

「朝食が来ない。」

彼女は不満そうに言った。部屋に運ばれるはずの朝食がまだ来ないという。

「そうか、それじゃあまだ寝てるといい。」

「太陽はもう昇ってる。」

ロバートは廊下の振り子時計を見た。時刻は七時三十分を回ろうとしている。食事があってもいい頃だ。

「従業員に伝えてくるよ。自分の部屋で待っててくれ。」

エレベイターに向かおうとして、彼は立ち止まって振り返った。

「……一緒に食べていいか?僕も部屋で食べたい気分なんだ。」

意外にも彼女は顔色一つ変えず了承した。

十分ほどで二人分の朝食がカートで娘の部屋に運ばれてきた。てきぱきとテーブルに並べられ、二人は席に着いた。鮭の燻製焼き、クラムチャウダー、ピーカン・パイ。ポットの中には食後のコーヒーも淹れられていた。

食事を始めた矢先、少女はライ麦パンの匂いをしきりに嗅いだ。やがてこう呟いた。

「このパン、腐ってる。」

「まさか。……ああそうか、もしかしてサワードウを知らないのか?」

彼女は顔を上げてロバートをじっとり睨んだ。

「これはな、サワードウ。酸味のあるパンなんだよ。」

「酸味?それ、要る?」

「いいか、そこにクラムチャウダーがあるだろ?それに浸けて食べるんだよ。サンフランシスコじゃお決まりだ。」

「とうもろこしパンの方がいい。」

そう言いつつも娘は言われた通りにしてパンを頬張った。見ていても食事の作法はなっている娘だった。

「リニヤキワニ。」不意に彼女はその言葉を口にした。

「リニ……何だって?」

「リニヤキワニ。私の名前。」

それが名前だとは思わなかったので、ロバートはしばし反応に戸惑った。

「ロバート。ロバート・グレイヒルだ。もう知ってるだろうけどな。」

彼女は軽く頷く。

「リニ……なあ、良い名前だが呼びにくいから『リニー』でいいか?」

彼の提案に彼女は鋭く睨み返した。

「悪くないだろ?君は『リニー』だ。」

「そう呼ぶな。」

「オッケー、リニー。」

「『ロビン』!」

「ちょっと待て、そう呼ぶな。」

「同じことでしょ。」

「分かったよ、リニ……なんとかさん。」

ロバートが黙ってからもリニーはしばらくヘビのように睨みつけていた。彼が堪らず笑い出した時、リニーは驚いて目を丸くした。

「どうしたものかな、会ったばかりの君と食事をしている方が楽しい。」

リニーは昨夜彼と将軍が廊下で話していたのを知っているから、すぐに将軍と比較して言っているのだと気付いた。将軍の前での彼は肩に力が入っていた。

「あの軍人は、親戚でしょ。」

「彼は僕の叔父だ。子供の頃は彼の家で暮らしていた。一緒に、と言っても叔父さんは軍人だからほとんど家にはいなかったけど。……とにかく、叔父さんは立派な人だよ。」

リニーは言葉をかけなかったので、ロバートがそのまま訊き返した。

「君はどこから来たんだ。サクラメントより東か?ネバダ州か、ユタ州か?」

質問を投げかけた途端、リニーは先刻の調子を失って押し黙った。ロバートは質問を続ける。

「家族はどうしてる。どこかに村があるんだろう。部族は?」

何も答えなかった。

「分かった。じゃあ一つ、君の歳はいくつだ?」

「……十六。」

彼女はぼそりと答える。

「十六か。そうしたら、寄宿学校は……」

「あそこには二度と戻らない!!」

突然リニーはテーブルを叩いた。食器がガチャガチャと音を立てる。

「ごめん。もうこれ以上訊かないよ。」

リニーは俯いた。ロバートにはその瞳の色が見えなかった。

何らかの問題を抱えて寄宿学校を抜け出してきた、だがサンフランシスコに故郷があるはずもなかろう、これはあてもない放浪である――推察するにこういうことだ。寄宿学校はインディアンが社会に出るために読み書きや仕事を習う場所であり、カリフォルニアにも何校かあるが、詳しいことはロバートも知らない。本来ならば然るべき機関に預けて保護すべきだが、当人が望まないことを強要するつもりもなかった。

ロバートは気晴らしに街へ出てみようと持ち掛けた。

「どうせ今日はやることがないんだ。太平洋、見たことないだろう?」

リニーは驚いた。自分が大手を振って通りを歩けるとは思っていなかった。するとロバートは、

「ここじゃメキシコ人も華人もいる。インディアンがいたって大したことじゃないだろう。」

と言った。それで最初は躊躇っていたリニーも終いには頷いた。

「決まりだ。支度して出かけよう。……洋服とか持っていないか?」

「要らない。これでいい。」

リニーは昨日と変わらぬ独特の紋様が織られた布を頭から被って、垂れ下がった端をつまんでひらひらさせた。

「そうだな。正直なところ、僕もこいつが少し気に入っている。」

そう言ってロバートはテーブルの隅でおすまししている硬い帽子を手に取って頭にひょいと被せた。

ロバートは部屋に戻って支度を整えてからリニーの部屋の扉を叩いた。出てきた彼女の見た目は一か所だけ変わっていた。

「ああ、そのナイフ、返してもらったんだな。」

彼女は頷いた。

「その……丸見えで歩くのは良くないな。せめてその腰巻に隠すとかできないか?」

「隠す必要ある?」

「別に、面倒事に巻き込まれたいならそうしてればいいけどさ。」

リニーは大きなため息一つついて、腰に括りつけた鞘入りのナイフを背中の方に隠した。


サンフランシスコはスペイン人が入植し、メキシコ人が統治し、合衆国の領土となって発展を遂げた街である。サンフランシスコ湾岸は海軍が入港する港として整備され、現在でも大規模な軍港が置かれ、西海岸の軍事的要衝として機能している。

カリフォルニアの諸都市の御多分に漏れず、サンフランシスコもまた金鉱の発見によって沸いた都市だ。僅か数千人に満たなかった人口はその後の数年で倍々に膨れ上がった。肥大化した都市は金鉱が枯れた後でも発展を続け、その次にはカネの街として栄えた。ウヱルズとファーゴという男はこの地で金融業を興し、それはやがて合衆国を席巻する巨大な銀行へとのし上がった。

二人はホテルを出て少々歩き、昨日の蒸気船発着港から海岸沿いに市街を歩いた。桟橋では貨物船が異国から品物を積み込んで停泊している。近くでは露店が魚介を使ったスナックを売って、それが所狭しと並んでいる。通りを歩くのはアメリカ人やスペイン人の他に、華人も多い。清朝の弱化に伴って経済的に困窮した者たちが合衆国に流れ着いたのだ。世界最大の人口を抱える清朝は術士も多く生活していて、工業化に伴い圧倒的に術士が不足していた合衆国は彼らを誘致した。かくしてこの地にたどり着いた華人らは今では一画に華人街を形成して身を寄せ合っている。

ロバートは湾内を航行する船や、停泊する船を指さして尋ねられたわけでもないがあれこれ語った。彼女も彼女で黙ってはいたが、熱心に聞いていた。

「あれは帆船。風で走るので、今じゃ古いやつだ。あっちが蒸気船で、真ん中に丸いパドルがついてるから外輪船。あそこに停泊してるのはパドルがないからスクリュー船。スクリュー船は速いぞ。二週間もあればニューヨークからロンドンまで行ける。」

歩いているうちに、二人の鼻先に食欲をそそるツンとしたものが香った。漂ってくる元を探せば、近くの露店からだった。地元民らしい水色の薄い服を着た女性が店の前で買い物をしている。ロバートは店の前に立てられた看板を見てそれが何かを知った。

「タコだよ。メキシコ人の食べ物だ。トウモロコシでできてるんだ……試してみるか?」

リニーが返事をする前に店が空いたので彼は一つ注文した。

「一つくれ。」

「あいよ。」

リンゴのような頬をした店主の男はあっという間に薄焼きの生地に肉と野菜を載せてタコを完成させた。ロバートはちょうど代金を払った。

「熱いよ。」

「ありがとう。」

「ブエノス!」

熱いとは言われていたものの、それは度を超していた。オーブンの中に手を突っ込んだみたいで落としてしまいそうになった。リニーには端を持つように渡したが、一秒でも早く受け取ってほしかった。

「歩きながらじゃ食べられない。あそこで休もう。」

そう言って二人は海を向いた座るのにちょうどよい段差を見つけて腰を下ろした。

岸壁に打ち寄せる波が桶に張った水のようにちゃぷちゃぷと軽い音を立てる。快哉に溢れた通りはすぐ後ろにあるのに、ここに腰かけると不思議と風と波の音ばかりが聴こえるようになった。

汽笛が響く。どこかの船が出航するのだ。

リニーは未だ握っていられないほど熱いタコと格闘を続けていた。ロバートはそれを隣で見て笑って、首を戻して波の向こう、湾の対岸の街よりさらに遠くを見据えた。彼の悩みはこれからの仕事をどう進めるかということだった。時化の発生を防ぐなど不可能だが、ウエスティングハウス氏を納得させるだけの「それらしい」成果が必要だ。成果報酬が半額になろうが最早問題ではなく、ある程度安定化させる、それだけでもいいのだが――。

またどこかの船の汽笛が轟く。我に返ったロバートは近くの桟橋の黒い船に目がついた。彼は船首に掲げられた国旗を見た。

「あれは日本の船だ。」

リニーが振り向いて彼を見た。

「日本だよ。太平洋の向こうにあるアジアの島国さ。最近になって少しずつ見るようになってきた。日本は長いこと他国に閉鎖的だったが、少し前に大きな政変があった。確か、『将軍』の政府が倒れて、今は『天皇』という術士が国を統べているらしい。」

彼女には何のことか分からなかった。分かるのは海の向こうに異人の国があるらしいということだけだった。

そんなことを話しているうち、不意に二人は背中に声をかけられた。

「もし、そこの娘さんは日本人ではあるまいか。」

声の主を見ると、黄色い肌で黒い目をした男であった。髪も鼻の下の髭も真っ黒で、アジア人らしい顔立ちをしていた。黒光りするほどの軍服に金ボタンがついたのを着ている。帽子も同じようなものだった。合衆国軍の制服ではなかった。

「いや、見ての通り彼女はどこぞのインディアンだが。」

リニーは列車の中でロバートにしたように訝しげな目を男に向けた。それでも口の周りにホットソースがだらしなくついていた。

「失敬。先ほど日本の話をしているのが聴こえて。その黒髪が国の女子に見紛うものであったが故。」

男の口ぶりは外国人のようだが、それにしては流暢に英語を喋る。階級の高そうな軍人であるあたり、教養のある者と見えた。

「君は日本人なのか。」

「左様。主が見ていた船に乗って渡来せし者である。」

「そうか。ようこそ合衆国へ。ロバート・グレイヒルだ。こっちはリニー、『ミステリアス』なインディアンだ。」

「某は稲熊・岡田と申す。宜しく……何か彼女の気に障ることをしてしまったか?」

リニーはじとっと睨みつけていた。

「気にするな。不満なのは僕に対してだ。」

「左様か。……不可思議とはこれ如何に。」

「女は秘密があるものさ。」

二人は握手を交わした。気を悪くしたからかタコに手を取られているからか彼女は応じなかった。

稲熊は身体の左脇に提げた刀を正してロバートの隣に腰かけた。それで二人はそれに興味を惹かれた。

「刀か――侍の剣。すると君は侍なんだな。」

「今はもう違う。制式のサーベルはどうにも手に馴染まぬから、自分の刀に戻したのだ。」

刀を持っていても侍でない者がいるものかと、ロバートは思った。

「稲熊は何をしにアメリカまでやって来たんだ?」

すると彼は桟橋の先を指さした。そこには数名の背広を着た男たち――おそらく日本人が乗組員に荷物を運ばせながら何やら話し込んでいる。どうやらあの船の主賓らしかった。

「知っての通り、幕藩体制は今や過去、明治政府は日本の近代化を進めておる。そのために政府は列強の優秀な技士を雇って技術を学ぶ他に、日本人の技士を世界の水準に押し上げるがため、ああして海外に派遣して視察を行っておるのだ。」

「彼らは合衆国の技術を見学しに来たということか。」

「左様。」

「君もそうなんだな。」

稲熊は首を横に振った。

「某は軍人ぞ。機械の話など滅法疎い。共に渡米せし単なる付き人よ。言うなれば、金魚の糞ぞ。」

金魚という魚を彼は知らなかったので、分かったような曖昧な返事をした。

「いい機会じゃないか、外国の土を踏むなんて。英語も良くできることだし、不自由なくやっていける。」

「恐悦。軍の指導に来た英国人から学びしより。」

稲熊はリニーを覗き込んだ。彼は彼女の顔立ちがどことなく日本人らしいので不思議がった。リニーはもうタコを食べ終わって手持無沙汰で、きまり悪そうに湾の対岸へ視線を逸らした。

「貴公らは如何なる関係に?」

だしぬけに稲熊は尋ねた。

「インディアンとは荒野の中に暮らす者と聞き受けていたが。」

「この子が特別なんだ。列車の中で会って、それで今は一緒に行動している――」

ロバートは二人のこれまでの経緯を話した。列車での騒動から今朝のことまで――その間、リニーは同意を求められると小さく頷いて返すのみだった。

すべて聞き終える頃、稲熊は大変興奮していた。

「類稀な才能を持っておるのだな、二人は。」

「この子だけさ。」

「しかし主も技士であろう?我が国の技士たちに紹介したい。」

「よしてくれ。」

ロバートは顔をしかめた。

「して、主は何ゆえサンフランシスコへ?」

「仕事の話を受けに来たのさ。」

次に彼はウエスティングハウス氏との契約について話した。彼の行き詰まりに関しては上手に蓋をして、決して口にしなかった。

「明日、ロサンゼルスに発つんだ。」

「ロサンゼルスの電力事業……」、稲熊はぶつぶつと繰り返した。彼の記憶を辿っていた。いずれ「そうだ!」と手を打った。

「ロサンゼルスの送電実験区画ならば、此度の視察対象に含まれておった筈。」

「そうなのか?」

途端に稲熊は上機嫌になった。

「左様ならば我々はいずれまた会うことになろう。縁なるものは実に不思議だ。」

ロバートは閉口した。余計な観客が増えればますます仕事がやりづらくなるというものだ。思えば旅が始まってから不幸は重なるし頭痛の種は大きくなるし、この仕事はろくなことがなくて、仕事の結末さえも暗示しているかに思えた。

しばらく景色を眺めていた稲熊が立ち上がった。

「そろそろ戻らねば。ロバート、楽しい時間をありがとう。活躍を祈る。リニー嬢も、再び相まみえし時は話を聞かせてほしい。では、さらば。」

そう言い残すと彼は颯爽と人ごみの中に消えていった。二人は立ち上がってしばらく黒い軍服のあったところを見つめていた。

いくらか周辺を歩き回った後に二人はホテルの部屋に戻った。


翌朝のロサンゼルスも建物群の間に霧が立ち込めて、太陽の光を遮られた地上はまだ街灯が必要なくらいに暗かった。

今朝はリニーの部屋に正しく朝食が届けられたが、ロバートは例によって同じ部屋で食べた。場所も顔ぶれも変わらなければ、並ぶ料理も変わり映えしない。朝食には連泊者向けに料理を変えるという妙がないようだ。

ロバートはリニーがパンを手でちぎっているのを見て問いかけた。

「今日のパンは腐ってなかったかい?」

彼女は答える代わりにムッとした。「そうかそうか」とロバートは宥める。

「ところで僕は今日ロサンゼルス行の列車に乗る予定だが……君の分も宿を引き払ってしまうよ。」

リニーは目を背けて目の前の食事に向き合った。ロバートは彼女の今後の予定を尋ねたつもりだが、返答はなかった。それは彼女にも分かっていたのだが、答える内容がなかった。「命を助けられた借り」とは言ったが、二晩の宿と警察に身柄を渡さず自由にしてやったことでそれは帳消し。これ以上はついて行く理由がない。

「君にもやることがあるんだろう。」

リニーは頷く。

「それはやれそうか?」

できるともできないとも言い難くて、彼女は手元のフォークで皿の上に繰り返し円を描いていた。

「いろいろ必要なわけだ、金とか、人とか……他にも。きっと大丈夫だ、君は術士だからな。白人だろうがインディアンだろうが、術士なら働き口はある。何にせよ、生活の基盤が必要だな。もしかしたら君には追手の心配があるのかもしれない、それにしたって誰も知らないくらい遠くに行けばもう安心だろうな。列車に乗って北か……いや、南に……例えばロサンゼルスとか。」

「……私を連れて行こうとしてるの?」

「いいや。」

「そう。」

「ただまあ、行き先が同じになって、偶然、同じ列車に乗り合わせることもあるかもしれないな。そしたら、僕は列車が暴走しても安心だ。」

「やっぱり。」

「いいや。」

息を吐いて、リニーはフォークを皿の縁にかけた。

「私もそうする。」

「そう……いい考えだな。」

この男は、自分が「連れて行ってくれ」なんて頼むはずないのを知って、それでいて誰かの指図を受けるような者でもないのを知っていて、それでこんな歯に物が挟まったような言い方をしているのだとリニーにも分かった。

ホテルを出てから駅前に建ち並ぶ商店でいくつか必要なものを買い揃えて、発車時刻の二十分ほど前に駅のホームにたどり着いた。

サンフランシスコは執着駅で、その中央に立っても最初のホームから最後のホームまでを見渡すことができないくらいだった。どのホームにもひっきりなしに列車が舞い込み、駅から列車の姿が見えなくなることはない。行き先を示す掲示の前には人だかりができていて、それぞれに自分が乗るべき列車が停まるホームを確認している。

「行こう、僕たちの列車はあっちだ。」

ロバートはそう言って向こうを指し示して、雑踏をかき分けて歩いた。リニーはその後ろをついて行った。どこかの列車が発車の汽笛を鳴らした。

二人がホームに着くころ、列車はちょうど入ってきた。機関車は客車を押して後ろに進んで、停車位置を合わせて停まった。手近な車両に乗ろうと乗車の許可が出るのを待っていた時、ホームに立つ人々の中に見知った黒い影を見とめた。影もまもなく二人に気付いて近付いてきた。

「ロバート!やはりここにおったか。」

「稲熊じゃないか。」

昨日と同じ黒い軍服に金のボタンを輝かせ、腰に刀を携えて稲熊はそこにいた。

「どうしたんだ?」

「某も本日ロサンゼルスへ向かうことにしたのだ。行き先は主と同じ水力発電所ぞ。」

「何だって?」

「言ったであろ、ロサンゼルスの発電所は某らの見学場所に含まれておるからな。主とは向こうで再会できるものかと考えておったが、こうして列車まで共にするとは偶然の一致だな。」

「そうか。……しかし技士たちの姿がないようだが?」

「彼らはまだサンフランシスコでやることが残っておる。某のみロサンゼルスへ先行することにしたのだ。」

昨日のロバートの話を聞いて彼は予定を早めたようだった。それは彼がロバートに対して興味を持ったことを示唆していた。

「技士たちを置いて行っていいものなのか?」

「構わぬ。某は技士に非ず、軍人だ。所詮、彼らと共に参っただけの引っ付き虫よ。それで、主と共にロサンゼルスへ赴いてもよろしいか?」

「もちろん。」

「感謝する。改めて宜しくお願い申し上げる、ロバート。そしてリニー嬢。」

二人は固く握手を交わす。続いて稲熊は膝を曲げてリニーに目線を合わせる。彼女はその手を受け取らなかったが、代わりに小さく頷いた。

二人が語っている間に列車のドアは開いた。ホームで荷物を抱えていた客たちは次々に車両の中へ消えていく。見送る者は車窓に顔を近付ける。三人が乗り込もうとした時、もう一人の影が「ロバート、」と呼び止めた。振り向くと、それは将軍だった。

「やあ、叔父さん。わざわざ見送りに来てくださったんですね。」

「そろそろ出発かと思って、予定にはなかったがな。この中で見つけられたのは運が良かった。しかし……君はまだいたのかね。」

将軍はリニーを奇妙なまなざしで眺めた。

「リニーですよ、この子は。」

「そうか、リニー……本人は『違う』と言いたげだが?」

彼女がじとっと睨むのを見て将軍が問いかける。

「確か、そんな感じの名前です。」

ロバートは笑みを浮かべながら彼女の背中をポンポン叩いた。

「ロビン、お前はどこまで彼女を連れ歩くつもりだ?」

「いや、そうではなくて、この子はロサンゼルスに家族がいると言うので、向こうまでは一緒に行くことにしたんですよ。……そうだろ?」

「……はい。」

「であれば即日ロサンゼルス行の切符を用意したものを。」

「お世話になりました。」

リニーがそう言うと将軍は首を横に振った。

「礼には及ばない。」

次に将軍はロバートの反対隣に立っていた稲熊に目をつけた。

「してそちらの方は。お見受けしたところ、日本の軍人であろうか。」

「某は稲熊・岡田と申す。仰る通り、日本陸軍の将校である。」

「稲熊は日本政府が派遣した視察団の一員です。昨日知り合ったところ、ロサンゼルスの水力発電所に赴くというので一緒になったんです。」

「なるほど。吾輩はワトキンス・グレイヒル、ここにいるロバートは吾輩の甥だ。遥々太平洋を越えて合衆国まで、大儀だな。」

そう言って将軍が差し出した手を稲熊が取る。

まもなく発車時刻になろうとしていた。ホームに出ていた車掌は乗車を促す。将軍は去り際に「しっかりやれよ」と告げて、発車を待たず仕事に戻った。三人も急ぎ列車に乗り込み、空いている席を見つけて掛けた。ロバートと稲熊は向かい合って、リニーはロバートの側で座席の反対端に座り込んだ。荷物をしまい込むと、汽笛がけたたましく響いてついに列車はホームを離れる。家族が乗り込んだ列車を見送る人々は、口々に何か言いながら手を振ったり帽子を取って振ったりしている。


市街を抜けてもサンフランシスコ湾を望む景色は見え隠れしながらしばらく続く。線路沿いにはわずかな家屋と農場ばかりが広がるようになって、列車は西海岸の典型的な田園風景の中を進んでいく。

稲熊は田舎道を駆け抜ける列車の車窓をしばらく楽しげに眺めていた。

「外の景色はどうだい?」

戯れにロバートは問いかける。

「天気晴朗。風もなく……見よ、鳥が飛んでおる。さしもの鳥と雖も、機関車の速度に敵うまい。」

「楽しいかい。日本にだって鉄道はあるだろう?」

「左様。しかして日本の鉄道は大英帝国の『輸入品』よ。米国の鉄道は本場だ。」

「鉄道に本場も何もあるもんか。発祥と言ったら英国じゃないか。」

「今ではどの列強も米国の鉄道には及ばぬ。この国こそが鉄軌道の大帝国ではないか。」

「それは君の言う通りだな。」

稲熊はリニーを見た。彼女は座席の端に座って通路越しに反対側の車窓を眺めていた。

「リニー嬢、こちらへ来たまえ。一緒に見ないか。」

反応がなかった。ロバートは彼と目を合わせて肩をすくめた。

「だいたいあの調子さ。放っておいてあげよう。」

「しかし、彼方の窓よりこちらの方がよく見えるぞ。」

「私は景色が見たいんじゃない。」

「左様か。」

「……子供じゃあるまいし。」

「おお、鳥の群れが飛び立った。あの木立にあれほど潜んでおったとは。」

リニーは窓の外を見つめる二人をちらと見た。次の瞬間には振り返った二人に目が合って、ふてくされてそっぽを向いた。

「リニー嬢は何ゆえ旅をしているか。」

「それ、僕も知りたいんだ。ぜひ訊いてみてくれ。」

「……必要な時に話す。」

「『必要な時』?具体的には?」

「必要な時。」

やっぱりだめか、そんな調子でロバートはため息ついた。話すつもりがないわけではないと分かっただけ進展していた。

「気に入ったぞ、リニー嬢。」

稲熊は胸を張った。

「女だてらに一人流浪など、誰にでもできることではあるまいぞ。」

リニーは彼を見た。

「その上、初めての経験で時化た機関車を止めるのだからな。相当な術士だ。」

「あれは言われるままやっただけ。」

「君を列車からつまみ出させなかった僕の機転もあるけどな。」

「知らないし、そんなの。」

「や、ロバートも天晴よ。」

稲熊は目を細めてしきりに頷いた。

列車はサンノゼを過ぎる。ここから線路はサンアンドレアス断層に沿って南へと続き、いずれロサンゼルスへと至る。

巡回の車掌が通路を通った。列車の揺れに姿勢を崩さぬよう、それぞれの座席の角に手を置きながら歩いていく。リニーは何となく怪訝そうに、彼が通る際に頭を引っ込め、それから少しだけロバートの方に近付いた。彼女は車掌というものの横柄なところが気に入らなかった。

稲熊は車窓の景色を眺めるのもやめて、今は刀を小脇に抱えて腕を組み、頭を下げている。帽子は深く被って、目は見えない。ロバートはそれを見て寝ているかとも思ったが、列車の揺れに動じず、体幹をしかと保っているところから察するに、じっとしているだけだ。

「それで稲熊、どうして合衆国に?」

ロバートは尋ねた。聞いていなければそのままでもよかったが、彼はやはり起きていて、顔を上げた。

「話したであろう、技士たちの付き添いだ。」

「そうではなくて。君自身がどうして来ようと思ったかだ。命令にしたって、君に決まった理由なんかあるんだろう?」

いつの間にかリニーも彼を向いて話を聞く体勢だった。

稲熊は唸った。

「一言に表せば某が英語を話すこと能う者であった故だが、それ以上に話せば長いものよ。ロバート、我が国が新しく生まれ変わったことは知っておろう。」

「ああ……新しい政府が樹立されたんだろう。」

「うむ。それが起きる前、某は薩摩という国の藩士であったが、維新の風に吹かれてよりはその身分を失い、明治政府の軍人になった。以来陸軍士官として列強に倣った国軍の形成に関わってきたが……その頃は国が不完全だった。時代の変革に不満を募らせる者共が多くいた。旧時代で支配的な立場にあった者は尚更で、彼らの反乱も起きた。それで……」

彼の言葉が詰まった。ロバートが「それで?」と促すと、稲熊は帽子を被り直した。

「新政府は維新を完遂すると身を引き締め直した。陛下の御意思には、それまでの武士による世から四民平等な世にご変革あそばされるということだった。」

人民の平等という概念は近代に現れて、今ではこの国や他国の憲法にも記されていた。

「某が合衆国に参ったは、術士に頼らぬ工業化の道を探るがため。工業化に術士の手を借りたでは、いずれにせよ彼らの特権的扱いを認めることになる。それは陛下の望むところに非ず。」

「どうも不思議だな。」

「何ゆえに。」

「術士の特権を認めたくないのは分かる、合衆国がそうであるように。欧州貴族出の術士の横暴さときたら、あっちでの勝手がこの国でも通用すると思っているからな。しかしそれはこの国に元々『貴族』という者がいなくて、何より術士の家系の為政者がいないからだ。日本はそうでないはずだ、天皇は世界でも指折りの術士の系譜じゃないか。どうしてその天皇が術士の特権を認めないことに拘るんだ?」

「拘るというより、そうする他ないのだ。武士のほとんどは術士でない。徳川幕府も、ほとんどすべての大名もそうであった。では、我が国で術士はどこにいたと思う?」

「山中の隠れ里とかじゃないのか。欧州だって産業革命が起きる前はそうだった。」

「半分は正しいな。寺社なのだ。」

「すると、聖職者か。」

稲熊は頷く。

「古くから術を使う者は神の御子として神職にあった。無論、それ以外にも農民の中に術士の家系があったのだが、平安時代には力ある寺がそのほとんどを自らの勢力に引き込んだ。以来、術士の大半は僧かその熱心な檀家として仏の道に入り現代まで続いてきた。明治政府が富国強兵に術士を募った時、彼らは信仰を理由に協力を拒んだ。ロバート、この国は術士が不足していると言うが、我が国は合衆国と比べるに及ばず。ほとんどの蒸気機関が日々時化の脅威に晒されながら稼働しておるのだ。」

「深刻だな。」

「術士に頼らぬ工業化の道を、我々は見つけねばならぬ。その答えは、同じく術士に頼らぬ国家を目指すこの国にある。この役目を果たすまで、某に帰る場所はないのだ。」

彼はウエスティングハウス氏のようなことを言う、ロバートは思った。

合衆国は建国の理念に照らして術士の特権を認めてはいない、がそれはもはや建前でしかない。工場を動かし、列車を走らせるには術士の手を借りないわけにはいかず、既に術士と平民の経済格差は埋めがたいものになっている。術士はあちらこちらでふんぞり返っているし、ワシントンの議会だって結局は投票用紙でなく札束で動いている。稲熊の言う術士に頼らぬ工業化は無理な話で、諦めて荷車で品を運ぶか、そうでなければ時化そのものを止めるしかない。ウエスティングハウス氏の言うように。

「それはできないことだ」と言い出せなかった。例え正直に事実を伝えることが温情だとしても、稲熊一人が理解しても意味のないことだ。何よりこれから仕事に向かうロバート自身がそれを口にしてはいけなかった。僅かばかりの矜持も、稲熊から得た信用も、叔父さんの労いもすべてを捨ててしまうことに他ならなかった。ロバートはいくらか相槌を打って、それから黙り込んだ。


ロサンゼルス。北緯三四度、西経一一八度。前世紀にスペイン人によって開拓された都市は現在合衆国の南西の果てである。南カリフォルニア盆地の辺鄙な街は今、鉄道の開通によって全米の注目が集まる都市となった。冒険心に満ち溢れた者にとってはサクラメントもサンフランシスコも今や退屈な土地でしかなく、ロサンゼルスこそが最後に残されたフロンティアであった。鉄道によってこの地に集う野心は膨れ上がり、『黒い金塊』の産出を皮切りに、いずれロサンゼルスを経済と文化の集積する世界都市にのし上げる力となる。今の街にはその影も見えないが、水面下では刻々と未来の躍進に向けた力を蓄えているのだった。

ロバートらはロサンゼルスを訪れて初めにウエスティングハウス・エレクトロニックの宿舎を訪ねた。氏の事前の説明通り、そこには社の担当者が彼を待ち受けていて、用意された宿舎に案内された。使節団として事前に電報を送った稲熊も同様で、リニーは予定に無かったが宿舎の空きをあてがうと提案され、担当者の厚意に甘える形となった。彼女を部屋に留めてロバートと稲熊は早や水力発電所に向かった。

水力発電所は中心街を外れたロサンゼルス川のほとりに位置する。水が豊かな東海岸と異なり、決して流量の多くない川だからさほど大きな発電量ではない。それでも発電機は最新式のものを備え、細部の機器にいたるまで社の技術力を遺憾なく発揮したものが並べられている。これが成功すれば、西海岸の電力事業の独占も易い。実際、氏はそれを目論んでいるらしかった。

二人は最初に川に面した発電機の紹介を受けた。川の一角を削って作られた堰から水が流れ落ちる。その力が水車を回し、回転の力で電力が生み出される。絶え間なく流れ落ちる水の音と、機械式の水車が回る音が辺りの壁に反響する。

社の作業服を着た案内役は水音にかき消されぬよう声を張り上げた。

「これが発電機だ。見ての通り基本的には二十四時間回し続けてる。」

ロバートも負けじと声を張り上げた。

「術士は?」

「あっちに管理室が見えるだろう、あそこに担当の術士がいて、交代して対応にあたるようにしてるんだ。」

案内役が指さす方にはガラス張りでこの空間全体が見渡せる部屋があった。工場の二階にある監視室と同じようだ。

「あっちに行こう、ここじゃ会話できない。」

彼の先導を受け、管理室と呼ばれる部屋に入った。ここにはいくつもの機器が並んでいて、術士の他にも担当の者が何人も、発電状況を逐一確認していた。

「大層な管理がなされておるようだ。」

腕組みしながら稲熊は頷く。

「発電機は蒸気機関以上に偏屈な機械なんだ。それに高価だ。何かあったら本当にタダじゃ済まない。おかげで発電機が時化て壊れたことは一度もない。これがなかったら辺りの街灯も家の電球も点かなくて、夜が真っ暗になってしまう。」

「夜が闇にあらざるとは。」

「岡田さん、今晩街を出歩いてみなさい。瓦斯灯より明るく、アークよりずっと便利な未来の明かりが、この街の夜を照らしているのを見られるだろう。」

案内役は得意気に言った。自らの仕事が光となって都市を照らしているのだ、彼は誇りを持っていた。

「グレイヒルさん、ここには自由に出入りしてよいから、好きなように調査してくれ。必要があればぜひとも協力しよう。」

「ありがとうございます。少々あちらを拝見しても?」

「もちろん。」

ロバートは前に進んで機器を覗き込んだ。そばにいた技士の一人は身体を反らして彼の視界を外れようとした。いくつか並べられた計器は蒸気機関の圧力計のように、発電機の状態を指し示している。ラベルを見ればだいたい何を示しているのか分かった。大概の針は安定して一つの値を示しているが、「電力」と書かれた計器の針は細かに左右に振れていた。

「どうにも、こいつは賑やかだな。電力が安定してないようだけど。」

すると近くにいた技士が声を上げた。

「そりゃそうさ。でも大したことない。」

「もしかしてこれ、時化ているのか?」

「それ以外にどうして電力が振れるのさ。」

「それ以外にって……構わないのか?時化てるのに?」

「問題ないよ、先生。そりゃ、あんまり狂う時は術士の出番だけども、そうでなけりゃ放っておいても構わねえよ。先生、それくらい知ってんでしょ?」

確かに目盛を見れば振れ幅はわずかで、送電に影響を及ぼす程度ではない。ロバートが振り向くと、案内役は肩をすくめた。

計器はまだ揺れている。先刻からずっと、左へ行ったり右へ行ったり、左に戻るかと思えばさらに右へ行ったり忙しない。これは時化を示している。時化というのは、暖炉の火が消えたり、電信が繋がらなくなったり、機関車が過熱して暴走したりすることばかりではなく、このように電力の僅かな変化という規模の小さな時化もあるらしかった。難儀と言われる送電事業、ここまで時化に見舞われやすいのか――否、この程度の時化が発生するのは送電線だけではないとしたら?

不意に、電力計の揺れが止まった。突然静かになったのが奇妙で、ロバートは思わず稲熊と顔を見合わせた。彼も込み入ったことはいざ知らず、いきなり挙動を変えた計器の針に興味を示していた。

電力計に夢中になっている二人は、背後の人影を察することがなかった。正確には人影は針が止まる少し前にこの管理室に入ってきたのだが、彼らは気付いてすらいなかった。やがて案内役が人影に挨拶をして、ようやく二人も新しい訪問者がいることを知った。

振り向いて、向こうの座席の隣に立つ者を見やる。無機質な発電所にそぐわない華やかなシルク地の服を着て、白いハットの下からは輝くブロンドが覗く――ロバートはその女性に見覚えがあった。直感でそう思ったが、それが誰であったか思い出せない。彼女は彼女でこちらを見つめていて、両者はしばらく何も言わないまま目を合わせていた。彼女は目を丸くしてついに言葉を発した。

「ロビン……。あなたはロバート・グレイヒルではなくて?グレイヒル将軍の甥っ子の。」

この女性は自分を知っている。よく分からないが、彼は先刻までの電力計の針みたいに首をカクカクと縦に振った。彼女は帽子を取って彼に歩み寄った。革のブーツがタイルの床を叩いて乾いた音を鳴らす。

「やっぱり。こんなところで会うなんて。何をしているの?」

「見ての通り仕事……。」

「仕事?ここの技士ではないでしょう。」

「それはそうだが、いろいろと。」

目の前にいる、おぼろげに覚えているこの顔の正体がロバートにはどうしても分からなかった。名前は喉まで出かかっていて、あと少しが届かない。ロバートは肩越しに稲熊と目を合わせた。稲熊もまたこの女性は誰ぞという顔で彼を見る。ロバートは顎で指して、女性に名を訊くよう促す。

稲熊は咳払いして尋ねる。

「失礼、レディ。貴女の名は?」

彼女は今まで気付かなかったとでも言うように顔を向けて、それからくるっと彼に向き直る。

「あら、あなたは……。なんでもいいわ、私はアンジェラ――」

「ああ!エマソン卿のお嬢さん!」

ロバートはついに喉につっかえていた言葉が飛び出した。彼女は驚いて、次に目を鋭くした。

「あなたまさか、今更気付いたんじゃないでしょうね。」

「お恥ずかしながら、十五年ぶりだから、無理もないさ。」

「十四年よ。」

「そう、十四年。ただの計算間違い。」

アンジェラは呆れてため息をついた。

アンジェラ・エマソン――どうして気が付かなかったのだろう、思い出してみればブロ確かにブロンドも鳶色の瞳もあの頃と変わらない、その人に違いなかった。

手持無沙汰に、アンジェラは帽子のつばをなぞる。

「ロバート、あなたここで何してるの?」

「変わった仕事を引き受けたので、その出張なんだ。」

「ああ、ウエスティングハウス・エレクトロニックが雇った技士というのは、あなたのことだったんだわ。違って?」

ロバートは黙って頷く。

「その様子だと私のことは聞いていなくてよね。」

「まさしく。」

「私もお仕事でここに来てよ。術士としてロサンゼルスの電力事業に手を貸すために。凡そ、私たちは同じ目的でこの街に来たことになるかしら。」

「どうやらね。氏のやり方は強かで賢い。」

アンジェラも頷く。話題を戻すように首を回して稲熊を見た。

「それで、華人のあなたは?技士ではないようだけど。」

「某は稲熊・岡田と申す。そして日本人だ。」

「アンジェラ、彼は侍だよ。」

「それも違うが……。」

「大した違いはないわ。どうしてここに?」

稲熊は暫し閉口した。

「某は合衆国の技術を視察するための技士使節団に加わってサンフランシスコに上陸したところ、ロバートと出会ったのだ。技士である彼に付いてここに参った次第。」

「そう。あなたは不思議な人を連れ歩くのだわ。」

ロバートはリニーのことが頭に浮かんだ。アンジェラは言い得ているが、勿論彼女はリニーを知らない。

「アンジェラ、君は発電機の時化を止めたかい?君が来てから電力が一定になった。」

背後の機器を親指で指し示し、ロバートが尋ねる。

「何のことか分からなくってよ。でも、発電機に術をかけたかって言うなら、その通りだわ。」

「やはり、電力が安定したのは君の力だったのか。……元に戻せるかい?さっきのがもう一度見たい。」

「元に戻す?」

「そう、君がここに来る前の。」

「来る前のことは知らない、でも元に戻すならしたわ。」

ロバートは電力計を覗き込む。やはり針は止まったまま動かない。

「戻ってないじゃないか。」

「時化てたから私の力で戻したんじゃない。」

「そういうことじゃなくてだな……。」

アンジェラには彼の言うことが今一つ理解できなくて困惑した。

「まあいいさ、きっとまた観察できる。」

案内役に向かってロバートは告げる。

「今日はもう戻ることにする。またよろしく。」

「いつでも。」

彼はそう愛想よく答えた。

「お待ちなさい、ロバート、あなた帰るの?」

「明日からここで調査するんだ。」

「何か言うことなくて?」

「別に?」

途端にアンジェラは不機嫌になって「そう」と素っ気なく答えた。

「……ホテルはどこ?」

「社の宿舎。この近くにある。」

軽く別れを告げて出口に向かった。稲熊は「失礼する」と一礼してその後に続いた。アンジェラは答えず、体の前で手を組んでそれを見送った。


食堂は社員たちでひしめいていた。天井に吊るされたいくつかの電球がテーブルを照らす。酔いどれの男たちの中には上機嫌に歌なんか歌っている者もいる。漂うアルコールの匂い、ここは日暮れのバーと変わりなかった。

「ここの者共は毎日斯様に酒盛りなどしておるのか。」

稲熊は感心とも呆れともつかぬ声を上げた。

「これも福利厚生だろう。」

社員の一人が体勢を崩して倒れかかったのを、リニーはひょいとかわした。酒臭さに鼻をつまんで彼に睨みを利かせている。

部屋の隅に三人の席が準備されていて、ウエイターが間もなく料理を運んできた。仔山羊のステーキ、チリコンカーン、トルティーヤにアボカドのペースト。デザートにウチワサボテンの実、それから頼んでいないのにテキーラとショットグラスが付いてきた。

ロバートは食事に手を付けようとした矢先、稲熊の視線が気になった。こちらの様子を窺っているようで、不思議に思いながらカトラリーを手に取るとすぐに彼も同じようにした。どうやら稲熊は洋食のマナーに不安があったと見えた。

「フォークの使い方に困ることでも?」

「いや、決してそのようなことは。」

「箸……だっけ?よっぽど使いにくいように思うけど。」

「難儀なことはないぞ。」

稲熊はステーキを一切れ口にした。「美味い」と言って味を噛み締める。それを見てロバートも目の前のステーキと向き合う。

三人の料理が大方片付いてからも、周りでは酒盛りが続いていた。むしろ人数が増して騒がしくなっていた。見知った仲ならではの盛り上がりがあるのだろう、部屋の隅のロバートらは蚊帳の外だった。

自分の食事を平らげたリニーはテーブル中央のボトルを手に取った。一周回したり、下から覗き込んだりしている。蓋を開けて中を覗いたところでロバートがそれを取り上げた。

「やめておけよ、インディアンはアルコールに弱いからな。」

「それ飲むの?」

「飲み物だからな。」

「辛そう。」

「それなりにね。」

「その酒は何ぞ?」

今度は稲熊が彼からボトルを受け取る。

「テキーラ。アガヴェって植物の蒸留酒。テキサスじゃみんな飲んでいるらしい。」

「ふむ、」

言うが早いか、稲熊はグラスに注いで一息に飲み干した。目をきつく閉じて喉を流れる感覚を味わう。

「某が家系は酒豪よ。焼酎を飲み競ったりもした。」

「そういうのはあっちの屈強そうな男たちとやるといい。」

そう言いつつ、ロバートは自分のグラスに注いで飲む。リニーはそんな二人を退屈そうに頬杖ついて眺めていた。

続けざまにいくらか飲んでから稲熊がロバートに声をかける。

「あのお嬢さんは如何なる者か。主と見知った仲のようだが。」

「ああ、アンジェラか。」

「知り合いに会ったの。」

リニーも興味を示す。

「彼女はアンジェラ・エマソン。僕と同い年の術士の娘さ。まさかここで会うとはね、それよりもむしろ、僕を覚えていたなんて。」

「術士か。白人の術士は、傲慢だから嫌いだ。」

「それは偏見だよ、エマソン卿は素晴らしい方だ、術士と平民の融和に努めている。彼あってこそ今のサクラメントがある。アンジェラは、エマソン卿の娘なんだ。」

「父親の方は……って、娘はどうなの。」

「彼女は……さあな。そうそう人前に出てこないし。ただ噂じゃあまりいいことを聞かないが。」

「しかしてロバートは会ったことがあるのだろう。」

「もう十四年も前の話さ。あっちだってとっくに忘れたものと思ってた。僕の方はさっきはすぐに思い至らなかっただけで、忘れたことはないが。」

「色恋か?」

稲熊は身を乗り出す。

「まさか。その時は十一だぞ、僕は。覚えてるのはエマソン卿のことさ。普通なら話すらすることがないだろう彼の厚意で、邸宅に招かれたんだ。実を言うと僕が今この仕事をしているのは卿がいてこそなんだ。」

「エマソンという男、俄然気になるぞ。」

「とにかくだ、昔一度会った人に意外な場所で再会した、それだけなんだ。」

ロバートは手に持ったグラスをテーブルに置いた。稲熊は椅子にふんぞり返って腕を組んで、髭に左手を当てた。

「まま、これも縁よ。良きに計らえ、親睦を深めることや如何。かのお嬢さんは某に興味はあらねども、ロバート、主に興味があるようだ。」

「何を馬鹿なこと言っているんだ、酔ってるのか?」

「否。」

「酒豪と言う割に弱いじゃないか。」

「……二人とも酔ってるよ」とリニーはため息が出る。

「僕の話を聞いていなかったのか?僕たちは一度会っただけで、しかも彼女は術士だぞ!」

「左様か、術士か。なら致し方あるまい!」

がははと笑う稲熊、ロバートは何が可笑しいのか全く分からなかった。

「ここまできて知ってる顔に会うなんて。この仕事はどうなってるんだ。」

そう呟いて彼は頭を垂れた。火照った身体から上る温かい空気が襟口から首筋を伝わった。


翌日からロバートは一人で仕事を始めた。送電網の敷かれた区画全域を歩き回り、時化の発生状況について住民に聞き取りを行った。同じ建物にいて、多い時は一晩に数回障害が発生するというのは、蒸気機関の時化よりずっと多い。聞きしに勝るほどの危うさだった。電球の明暗が変化する時は電球そのものの時化。突然切れる時は近くの電線が時化た証拠。ある夫人は電球の熱が強くなってカーテンを焦がしたと言う。時には発電所に近い送電線が時化て、そういう時はほぼ全域が停電する。仕方がないので、文明の明かりを持ってなお各家庭には非常用のオイルラムプが欠かせなかった。

アンジェラもまたこの区画で責務を全うしていた。時化は放っておけば暴走機関車のように悪化するが、その起こり始めは小さい。術士が周囲の乱れを肌で感じて、そんな時そっと手を加えてやると何事もなかったかのように戻る。この「乱れ」という感覚は術士でない者には感じ取れなくて、どうにも理解ができない。彼女は街を歩いている時、頭上の送電線の辺りに「乱れ」を感じたので、解けた綿糸を縒り直すように力をかけてやるとまもなくそれは消えた。一人でこの広い区画のすべてを監視することはできないが、発電所からあらかじめ送電線を伝わせて術を込めておけば、ある程度は未然に防ぐことができた。

そういうわけでアンジェラはこの数日間専ら発電所の管理室に留まっていた。水が流れ落ちる騒々しいのにはすぐに慣れたが、殺風景でコーヒーの他には何もでてこないこの部屋にはうんざりしていた。一方、十二分に街を回ったロバートもまた、調査の対象を発電所に絞ることに決め、この日は二人とも管理室に閉じこもっていた。

ロバートはその手に紙と鉛筆を持ってあっちへ行ったり、こっちへ行ったり。時々計器類を覗き込んで何か書き込んだかと思えば、椅子にどっかり腰を下ろして鉛筆を手の中で転がす。アンジェラはしばらく黙ってそれを眺めていた。退屈な部屋での見世物には悪くなかったが、犬でもないのだからそろそろ会話してもいい頃合いだと思った。

「ねえ不思議な帽子のあなた、コーヒーを淹れてくれない?」

「なぜ。湯沸かし器ならあっちだ。」

ロバートは鉛筆で奥の扉を指す。

「そう。話が早くて助かるわ。」

「一言も淹れるなんて言ってないぞ。」

「あなただってそろそろ口寂しい頃でなくて?」

「まったく。」

「それじゃあよろしくね。」

まるで成立しない会話にロバートはむしろ感心した。彼女は何かしら話があるのだろうと思って、自身も声をかける機会を探っていたところだから渋々了承した。

ほどなくして彼はポットに入ったコーヒーとマグを持って部屋に戻ってきた。マグに黒いコーヒーを注ぎながらロバートは言った。

「次はサンドウイッチがほしいなんて言わないでくれよ。」

「生憎、私サンドウイッチには飽きたのよ。」

「ありがとう」とコーヒーを受け取って彼女は得意気に微笑んだ。近くの椅子を指さして彼に座るように促す。彼は肘を浮かせてコーヒーをこぼさぬように椅子を引いて座る。

「どうして。」

「この街、どこへ行ってもメキシコ人の食べ物しかないんだもの。そこらのレストランで食べられるものと言ったらサンドウイッチしかなくってよ。」

「チリの何が悪いんだ?」

「誰があんなもの。」

「食わず嫌いじゃないか。」

「必要なくってよ。」

アンジェラは口元に寄せたコーヒーに息をかける。逆さまに映った顔が波立つ。

「それ、まだ熱いよ。」

「術士が火傷するはずないでしょう。」

そう言って口をつけたコーヒーは既に適温に冷まされている。術士なのだからコーヒーを冷ますくらい造作もないのだ。「確かにそうだった」とロバートは要らぬ心配をしたことを後悔した。

「……何か言うことはないのかしら、この私に?」

「あー、お父様はお元気ですか。」

アンジェラは「はあ」とわざとらしく息を吐く。

「さあね。彼は今東海岸にいるわ。だから私がこんなところにいるのよ、彼の代わりに。……そちらこそどうなの?叔父様に倣って軍に入隊したのではなくて?」

ロバートは身じろぎした。

「どこからそんな話を。」

「あなた一体自分が誰の甥だと?サクラメントで主要な話は残らずお父様のお耳に届くのよ。」

「だがそれは間違いだ。僕はただの電信技士だよ。」

「らしいわね。この話は私も疑わしいと思っていたわ。今のロバートの方がよっぽどあなたらしくてよ。」

その言葉はどうも褒められているわけではないように思えて、ロバートはコーヒーに浮かんだ顔と向き合った。

「そうさ、ただの電信技士なのにな。叔父さんは何を勘違いしてるんだろう。」

ロバートはアンジェラに仕事を受けるまでの経緯を語った。話し終わるまでに時間はかからなかった。

「時化を止める?それは無理でしょう。」

アンジェラは一番に言った。

「その通りさ。」

すると、向こうに座っていた技士の一人がロバートに声をかけた。ここの主任だった。

「彼のことだから、あり得なくはない。この発電所が完成した時に一度ウエスティングハウス氏に会ったが、情熱と金の塊のような人だ。電力のことも、本当はどれだけ分かっているのだか。今の彼は技士と言うより実業家だ。」

彼の言葉に言い得たところがあって、ロバートは苦い顔をしながら頷いた。

「どうして仕事を受けたの?」

「断れなかったんだ。」

「できないものはできないと説明すればよいでしょう?」

「仕方ないだろう、叔父さんの紹介なんだから。」

「誰の紹介でも関係なくってよ、事実を説明するだけなのだから。」

「叔父さんの名誉も損ねることになる。」

「仕事の成果が得られなかった方が断るよりよっぽど悪いのではなくて。ロバート、何を悩んでいるのかしら?」

実際、彼女の言うことは非の打ち所がない。ロバート自身もそれを分かっていながら場に流されてここまできた。こうまではっきりと自分の瑕疵を指摘されると、彼の立場はなかった。アンジェラと話していると、ロバートは自分に反吐が出る思いだった。

「もう少し効率のいい送電方法を考えて提案する。問題の解決になっちゃいないが、それでよしとしてもらう。報酬は減らされてもいいさ。」

彼は自分に言い聞かせるように呟いた。

「せめて、あの時化でももう一度観察できたらな――」

――それだ。

ロバートは立ち上がって電力計に顔を近付けた。そこには一寸も動かず同じ値を指し示す針だけがあった。理由はもちろん、この部屋に強力な術士がいて、力を使っているからだ。彼は椅子に座って目を丸くしているアンジェラを見下ろして言った。

「最初、君がここに来る前、変電設備が小規模の時化を起こしてて、あそこの電力計は少しだけ左右に振れていたんだ。術をかけるのを止めてくれないか、もう一度あれが見たいんだ。」

アンジェラは眉をひそめ、マグを脇の机に置いた。

「いつだって術を使っているはずないでしょう。言われなくてもかけていなくてよ、今は。」

「すると、君がいるだけでも影響があるのか。」

「どういうこと。」

「……アンジェラ、港の方に行くとロングビーチがあるんだ。太平洋に沈む夕日が綺麗だろう、ヤシの木とか、屋台でドッグも売ってるかもしれない。」

彼女はすぐに目を鋭くする。

「素敵ね、行ってみようかしら。あなたが連れて行ってくれるならね。」

「それじゃ意味がない。」

「人払いしたいならもう少しマシな提案をしなさいな。忘れてかしら、私もお仕事でここへきているのよ。」

やはり彼女の言っていることは正しい、しかしこう融通の利かないところにロバートは閉口した。何のために大儀な仕事を受けた話をしたのだろうか。

二人を見かねて主任の男がロバートに声をかける。

「グレイヒル技士、コロラド川に行ってみては?そこに発電所があるんだ。」

「コロラド川?」

二人は揃って彼の方を向いた。

「アリゾナ準州境にうちの水力発電所がある。将来的にはロサンゼルス全域の電力はコロラド水系から供給する予定なんで、その予行ってもので。しかもそこの電力はまだ一般に供給されてないから、ここより自由に研究できるはずだ。」

「本当か。」

「ええ。必要ならこちらで話を通しておこう。」

州内に他にもうってつけの場所があるなんて。ロバートはにわかに希望が湧いてきて、その手に拳を作った。

「よし、僕はそこに行こう。そこは何という?」

「ニードルズ。その辺りのインディアンの名を取ってモハヴェと言うところ。」

「ありがとう。」

「お待ちなさい。ここでのお仕事はどうするの?」

浮足立つロバートを宥めるようにアンジェラが問う。

「僕の仕事は社の電力事業に力添えすることであって、ロサンゼルスに留まる理由はないんだ。何より、君がいてはここですることがない。」

「あらそう、結構な言い分ね。どうぞご勝手に。」

「そうさせてもらおう。」

ロバートは帽子を被り直して筆記用具を掴む。宿舎に戻って二人に新たな旅の行き先を伝えなければならない。


果てしなく広がる世界最大の海洋に機関車の煤煙が後ろ手を振る。ロサンゼルスを離れた列車は内陸へ向かう。ここから先は荒涼として褐色の土だけが土地を覆う砂漠。鉄道が開通する前、長い長い旅を終えてカリフォルニアの緑を手に入れた者ならばもう二度と訪れまいと誓った地。ロサンゼルスから東に二百マイルも行けば目指すコロラド川が見えてくる。この荒野を続く線路は、コロラド川を越えると東へ続いてサンタフェに至る。そこからオクラホマシティ、セントルイスを通って、やがては終着地イリノイ州シカゴへと続く。今はまだ荒れ果てた土地ばかりを結ぶ道、だがいつまでもそのままではいない。躍進を続ける合衆国で日々成長する都市群、その影で都市を繋ぐ道行もまた重要性を増している。かつて巨大な都市は国の富の象徴であった、今では張り巡らされた鉄道がそれを象徴する。そうであればいずれは、ミシガン湖から太平洋まで続くこの道こそが巨大な帝国の象徴として君臨する日が訪れるかもしれない。

「――左様なれば、かの揺れる針を見たいと?」

稲熊は座席から身を起こして問いかける。

「そうさ。コロラド川沿いの発電施設に行けばそれが見られる。」

「そこまでしなくても、その術士をどこかにやれば済む話じゃないの。」

リニーはロバートの話をうまく理解できていないが、要は術士がいることが問題なんだろうと合点した。

「ダメだった。」

「融通の利かない人。」

「君もな。」

そう言うと彼女は不機嫌になった。ロバートは肩をすくめて笑う。

「あれはそれほどに重大なことであるか。某には風に揺れる草花と等しきようにしか見えなんだ。」

「とても重要な情報源だ、おそらく――時化はいつも起こっているということを示している。」

稲熊の黒い太眉が上がる。

「というと?」

「これは僕の仮説だけどね、電気は時化やすいと言われるが、正確にはそうじゃない。元より世界が絶えず時化ているのを、電気はその影響を受けやすいだけなんだ。波にだって大きいのと小さいのがあるだろう、時化にもひどいのから軽いのまで様々だ。でもおそらくはそれだけじゃないんだ、もっと小規模で誰にも気付かれないような時化もたくさんあって、それはいつも起きているのではないか。海の波は大小あっても決して止むことはない、時化も観測されないだけで常に発生しているものではないかとね。」

「でも」とリニーが声を上げる。

「私は感じない。術士は、時化ているのが感覚で分かる、軽いものでも。もし身の回りが時化たら、術士がそれに気付くはず。」

「それは気付かないんじゃなく、気付かぬうちに君自身がその時化を打ち消す術を使っているからではないかと思うんだ。術士は能力というより体質だ、きっと君たちは考えずにある種の術を使って時化を制御しているんだ。」

「知らない。」

「何にせよ、それを確かめるために君にも協力してもらおうかな。……稲熊、これであの電力計の針の揺れがどれほど重要な意味を持つか分かったろう?」

彼は目をぱちくりさせた。「分かりません」が顔に書いてあった。ロバートは拍子抜けして今度はリニーを見ると、彼女もまた何も分かっていない風で退屈そうにしていた。」

「どうにも某には機械が分からぬ。面目ない。」

「まあいいさ、そのうちに分かってくる。技士の仕事はそういうものだから。」

道のりはまだ長い。ロバートは目を閉じて時間が流れゆくのを待った。

コロラド川。その名の通り荒野の土を含んだ流れは年中赤みを帯びている。源流はコロラド州はデンバー近郊のロッキイマウンテン、下流は隣国メキシコのカリフォルニア湾に注ぐ一四五〇マイルの雄大な河川。蹄鉄にも似た急激な流路のうねりはこの土地の過酷さを象徴しているようである。

カリフォルニア最東の地、ニードルズ。対岸はアリゾナ準州。この地に住まう先住民の名からこの辺りをモハヴェと言う。コロラド川とそれを渡る鉄道、いくらかの開拓者たちの住宅の他に面白いものはない。だが、ここに水力発電所があるならばロバートにとって興味深い発見が得られるかもしれなかった。

ロバートらは駅で場所を訊いた民宿に泊まった。田舎らしい家族経営の小さなところで、奇天烈な三人組に警戒しつつも部屋は気前よく用意してくれた。大柄な夫人は性格も豪快で、稲熊は「肝っ玉かかどん」などと言って大いに感心していた。ロバートは彼女を見て、あれやこれや喋るところは自宅の階下に住むマクドナルド夫人を思い出して似ているとも思った。そんな夫人が大鍋で煮込むベイクドビーンズは街の名物になってもよいほどのものだ。

ロバートと稲熊は民宿の主人に教えられた通りに道を辿って発電施設へ向かう。リニーは最初からついて来られると困るので、民宿に置いてきた。強烈な一家の住む家に置いて行かれるのは彼女にしてみれば少々心細い。ただ単に川沿いを進むだけの道行だったが。道の端には電柱が並んでいて、この先に発電所があることを示している。

果たして発電所はあった。川沿いを削って流れを引き込んでそこに水車を置いて発電している。ロサンゼルスにあるものと方式は同じだが、規模はそれよりも小さかった。辺りは街の外れで低木が茂る荒野が広がる。話によればウエスティングハウス氏は将来的に大きな発電所を作ることを見越してこの辺りの土地を買い込んでいるという。

「初めまして、グレイヒルさん。話にゃ聞いてますよ。あんたみたいな腕のいい技士先生はここにゃいませんよ。なんせうちらは退屈な仕事しかしてませんでねえ。」

青ヒゲの薄汚れた作業服の男が二人を出迎えた。

「この街、見てきたでしょう?何もねえ。それでもこんなところにいるのは、銭稼げりゃそれでいいからよ。」

彼の背中を追いながら二人は目を見合わせて互いに首を振る。ロサンゼルスで働く大層な気概に満ちた電気技士とは随分違った性格のようだ。

「ご覧くだせえ、何もねえ街の唯一の特徴、うちの発電所です。」

紹介された発電機を見るや否や、すぐにロバートは管理施設の計器にかじりつく。そこでは電力を示す針が不規則に揺れていた――確かにあった!

「やったぞ、やっぱりだ!」

二人して喜び頷き合うのを技士の男は奇怪に思った。

「君、これはいつものことか?」

「これって、どれ?」

「電力計だよ。この針の揺れはいつものことなのか?」

「いつもも何も、そりゃあ……いいとこの技士先生ってのはうちらとはちょっと違ってるんですわな。」

多少の皮肉を込めて言ったのも彼には通じなかった。

「記録は残っているのか、これの?」

「記録?」

「そうだよ、いつどれだけ動いたかとか、そういうの……」

「グレイヒルさん、あんた、今日は電柱に鳥が何羽とまってたとか、魚が川面のどこで跳ねたとか、そういうの覚えてるんですかい?」

「別に。それがどうかしたか?」

「うちじゃそういうの記録取ってねんです。」

「仕方ない、しばらくこれを観察させてもらうよ。」

「へえ。やっぱしいいとこの技士先生は違ってるんだわ。」

出て行く男を尻目に彼は持ってきた書類に針の揺れを記録し始めた。針がどちらにどれくらい揺れたかを波のように描いていく。稲熊は隣でそれを覗き込んだ。

「ロバート、主の研究、進むか如何。」

「ああ。これには必ず意味があるんだ。それを見つけるんだ。」

稲熊は彼の帽子の下で青い瞳が輝くのを見た。


その日からロバートは時化の調査を始めた。朝は日の出と共に起き上がって、用意された朝食を食ってから発電所に赴いて時化の調子を記録する。そこからは機器の前に居座って、用を足す以外では動かない。太陽が昇ったころには稲熊が様子を見がてら、昼食を差し入れに来る。少し考え事がしたい時は記録を彼に任せたりして、晩までは置物みたいに発電所に鎮座する。鳥もねぐらに帰った後、ぼちぼちその日の調査を終いにして帰り道にあるレストランに寄り、そこで考えを巡らせる。夜も更けた頃に民宿の部屋に戻って、持ってきた書物と記録とを交互に見て考えたことをあれこれと書き連ねる。そしてまた朝が来る。

稲熊は、彼が日がな機械の針を見つめては紙に難解な英文と記号の集まりを書きつけるのを隣で見ていた。彼が何を調べ、何を考えているのか皆目見当もつかない。斯様に長いこと座っていて尻がむず痒くならないのか心配になるほどだ。実際、稲熊は技士の仕事を知らなかった。自分が日本の技士らと共に海を渡った身でありながら、彼らに対してはこれといった感情を抱いていなかった。軍人である自分とは畑の違う人間――。だが現在、ロバートの執念とも言うべき研究への没頭を前にして、稲熊は感じ入っていた。それに奇妙なことだが、稲熊は彼にどこか自らと似通ったものを感じていた。

かれこれこんな日々が一週間は続いたものだから、リニーは退屈してしまって仕方がなかった。ある日は民宿の主人から言付けをもらって、ロバートに発電所に呼び出された。どうやら術と例の現象との関わりを調べたいそうであれこれ指示を受けて手伝わされた。彼の調査によるところではやはり術士の存在で送電網の小さな時化は治まるようで、術士には知らずのうちに辺りの時化を抑える力を持っているのではないかとのことだった。それは本人の周り、極めて小規模にしか効果を持たないものだった。ロバートはそれ以外にも得意気に語っていたが、理解できなかった。そういう話をするときの彼はきまって、相手が内容を理解しているかどうかは意に介さない様子だった。

あとの日は暇を持て余した。彼には住民に不審がられるといけないから勝手に出歩いてはいけないと釘を刺されていて、外に出ると言ったら民宿の裏庭しかなかった。そこにはどこからやって来たか野良犬がいて、妙に人懐こかった。民宿の子供から聞いた、こいつは「白牙」といって開拓民に可愛がられているらしい。白牙号は名前の割に穏やかで、牙を剥いたりしない。今となっては名付け親が分からないらしかった。表で丸くなっている白牙号の頭をリニーは撫でた。結局はこの名も誰かに押し付けられたのだ。どこから来たのか、何をしに来たのか、おそらくこの野良犬はそんなことを考えてはいないだろう。こうして犬相手に考え込んでしまうのは今の自分に後ろめたいところがあるからだ。ロバートは自分に身の置き場を用意してくれているが、彼には彼の仕事がある。そして、自分には自分の使命がある。いつまでも彼に付いていくわけにはいかない。

自分は、飼い犬ではない。

ロバートは焦っていた。

これだけ調査を続けても何ひとつ収穫が得られなかった。針を観察し続けたことで、ともかくは術士にも観測できない程度で時化が常に起こっているのは間違いないらしかった。そしてこれは送電線だけに起きていることではなく、この世界全体がそのように動いているのを、電力計の針が可視化しただけだという仮説もおそらくは正しかった。ただしその動きは極めて不規則で法則が見出せなかった。完全なる不規則、それも一つの成果だが、それでは問題の解決に繋がらない。

次に彼は街のあちこちの架線から電力を引いてきて電力計を繋いで様子を観察した。どこでも一定の範囲内で左右に振れていた。きっとこれよりも大きく動いたなら、目に見える事象として現れて人間に観測される。氷山が水上に現れているのは全体のわずかな一部で、残る大部分は海中に沈んでいる。時化も同じことのようだ。

一定の範囲を超え停電を引き起こした時、そこで何が起こっているのか。それを調べるには一点に構えるだけでは足りなかった。

街の送電線の配置を確認し、ロバートは実験を計画した。架線十ヤードごとに電力を測る。それを街の架線三マイルほどにわたって続け、計五百箇所余の電力を同時に計測する。半日も待てばどこかは時化るから、その時の電力の動きを記録すればよいというわけだ。早速彼は街の技士にこの計画を伝えた。すると、一笑に帰された。この街の女子供まで皆駆り出してやっと五百人に届くかというところ、しかも彼らは電力のことなど素人でさっぱり分からない。ウエスティングハウス氏にも手紙を送ったが、発明されたばかりの高額な機器である電力計をそんなに用意できるはずはなく、例え合衆国全土から社の電力計をかき集めたってその数には到底届かないと言われた。謝礼金を目当てに協力の意思を示した僅かな技士も、針の値を記録するのが余りに杜撰で実験記録として役立つはずもなかった。彼らは針がわずかに揺れるのは常のことで「これは変化してない」などと言い張るのだ。このように日頃から電力事業に従事している者との認識の違いには大いに苦しめられた。

実験の計画が頓挫し、研究はいよいよ暗礁に乗り上げようとしていた。この日はこれ以上何もする気が起きなくて、ロバートは日が沈む前に民宿に引き下がった。主人に渡された合鍵で玄関の扉を開ける。カウンターの横を通り過ぎ、食堂の隅にある階段を上がれば部屋があるが、そこに向かう前に豪快な夫人に呼び止められた。彼女は外の洗濯物をしまい込もうと両手に抱えていた。

「ああ旦那、早かったね。今日から新しい客が泊まるから、よろしく。二階の奥の部屋だから。」

「ああそう。」

この民宿がどれほど繁盛しているかは知らないが、少なくともこの一週間以上はロバートらの他には宿泊客がいなかった。外からこの街にやって来る者が少ないからだ。

「あなた方といい、うちには変な客ばかり来るねえ。」

「そんなに変かい。」

「ええ変ですとも。若い娘が一人で、サクラメントから。顔はいいけど性格はねえ。あんな子はきっと何かあるよ。」

若い娘、サクラメント――。既に背を向けて階段を上がろうとしていたロバートはくるっと向き直る。

「その娘、ブロンドで、こう白い帽子を被ってはいなかったかい。」

そう尋ねられて、途端に夫人は安心したような呆れたような声で「なんだい」と息を漏らす。

「やっぱり旦那の連れだったんかね、通りで変な娘だと思ったよ。それなら最初からあんたの部屋に通したのに。」

「よしてくれ。ただの知り合いさ……というか僕の部屋は一人用だろう。」

「それじゃあねあんた、あの娘にきちんと教えてくんな。自分の荷物は自分で運ぶもんだって。うちはホテルじゃないんだからさ。」

「それは伝えておくよ。いや、待て、まだ知人と決まったわけじゃ……」

「ロバート。」

彼の言葉を遮って呼ばれる名前、その声の主は知っていた。

二人が見つめる階段の上にはブロンドの女がいた。帽子は取っているから今はそれがよく見える。アンジェラは手すりに手を掛けながらするすると降りてきて、彼は思わず頭を抱えるように帽子に手を置いた。

「変な帽子の技士と軍服の日本人がいるというからまず間違いないと思ったけど、探す手間が省けたわね。」

「どうして君がここに。」

「あなたの仕事の様子を見に来てよ。」

夫人は「ごゆっくり」と残してそそくさと庭先に戻る。

「ロサンゼルスの仕事はどうしたんだ。」

「これだけ長いこといたのよ、もう十分やったでしょう。そちらこそどうなの?解決策は見つかって?」

「それはだな……。」

そこへ要り様の買い出しに出かけていた稲熊が玄関を開けて戻ってきた。アンジェラを見て驚いた。

「これは、エマソン嬢ではないか。何時ここにやってきたのか。」

「あら、あなた……」

「稲熊・岡田と申す。」

「そうね、そんな名前だったわね。相変わらず、ここでも腰に剣を提げているのね。」

「これは洋式の剣に非ず、某の刀よ。」

「知らないけど。そういえばロバート、もう一人連れているのではなくて?」

「ああ、リニーのことか。宿の夫人に聞いたんだな。」

話をすれば影、階下から聞こえる耳慣れない声にリニーは部屋から出て様子を探りに来た。ロバートはそれに気付いて手すり越しに見下ろす彼女を自分のところに呼び寄せた。

「この子はリニヤキワニ。呼びにくいからリニーでいい。いろいろあって僕に同行しているんだ。」

次に彼女にアンジェラを紹介しようとしたが、アンジェラはそれを手で制した。

「ロバート、一体どういうことなの?アジア人に、こともあろうにインディアンまで連れ歩いているなんて。」

リニーはその言いように腹を立てた。リニーが睨みつけても彼女は気にする素振りがない。まるで意識の外にあった。

「何って、仕事だけど。」

「その『仕事』に彼らは必要なの?」

「協力はしてもらっているが……」

「それはアメリカ人ではいけないのかしら。」

のっぴきならないのを察して稲熊は割って入った。

「某は浮草、ロバートに倶したのは某が申してより。」

「あらそう。では日本に帰っては?あなただってこのために合衆国に来たわけではないでしょう、それとも彼と行動を共にしていれば何かいいことがあって?」

彼女の言い方には弱みを突かれた気になって稲熊は閉口した。

「そんな言い方はないだろう。僕から言わせてもらうが、僕の仕事と君と何の関係があるんだ。」

「では質問を変えましょう――あなたに研究資金を提供している社長はこのことを知ってらして?それに、あなたの叔父様は存じていらっしゃるのかしら?」

アンジェラの言う通りだ。氏はロバートの研究のために金銭面の支援をしているのであって、そこに二人の分は本来含まれていない。叔父さんも二人はロサンゼルスに行き着くまでの関わりだと思っているはずだ。何より、事実をありのまま報告していないのが公正でないと彼も自覚していた。それだけに何も言い返せなかった。

アンジェラは自身を敵意のまなざしで見つめるリニーに向き合った。

「あなた、インディアンの娘ならば寄宿学校はどうしたの。インディアンの子は正しく教育を受けなければならないのよ。」

「あんなところもう二度と戻らない!!」

ロバートはいつかも聞いた怒鳴り声だった。

「お前、嫌い。」

そう吐き捨ててリニーは階段を上がって消えていった。扉が激しく閉められる音がした。

「某も、用があるので失礼する。」

ロバートの横をすり抜け稲熊も階段を上がっていく。やがて、ホールは二人だけになった。

「……アンジェラ、どうして君まで。」

「あなたのためよ。」

「君の言葉は正しい、だが、何一つ僕のためにはならないんだよ。」


夕は大層荒れたばかりなのに、こうしてまた四人が同じテーブルにかけているというのだから、ロバートは理解できなかった。

一階の食堂は四角いテーブルに四つの椅子がついたのが三つ並んでいる。扉のない入口で厨房と繋がってて、そこから遠巻きに眺める民宿の家族も殺伐とした四人に首を傾げていた。

稲熊は腕を組み椅子に深く掛けて俯いている、アンジェラは目を閉じて澄ましている、リニーは肘をついて部屋の天井の隅を遠く眺めている。その間でロバートは必死に研究のことを考えて気を紛らわそうとしたが、一つとしてまとまりのある考えは浮かんでこなかった。

最初に沈黙を破ったのはリニーだった。

「こんなに席があって、なぜお前がここにいる。」彼女が睨んでいるのは正面向かいに座るアンジェラだった。

「何かおかしくて?ロバートは私の知り合いなのよ。」

眉一つ動かさずにアンジェラは答える。

「目障りだからあっちに行ってほしいんだけど。」

「私、メイフラワー号の乗組員ではないから、インディアンと食卓を囲むつもりはないのだけれど、あなたに言われて退くのはもっとお断り。」

すると稲熊が俯いたまま「よさぬか」と一言呟く。

またしばらく沈黙が続いた。ロバートは生きた心地がしないで、次は何が起きるか戦慄いていると、民宿の夫人が大皿を抱えてやってきて、それをテーブルのど真ん中にどかっと置いた。茶色くなった葉で包まれて、スパイスが香ばしい。郵便の小包を手のひらほどの大きさにしたようなものが、これでもかと景気よく積み上げられていた。

「あんたがた、いがみ合いは置いといて、これ食べなさいな、タマリ。」

ロバートはこの機に乗じて空気を変えようと奮闘した。

「わあ、美味そうだ。夫人、タマリって何だい。」

「あんたがた知らないのかい?やだねえ。トウモロコシと肉を練ったのを、うんとスパイス効かせて、トウモロコシの皮で包んで蒸し上げるのさ。まあ食べてくんな。それで分かるから。」

そう言いつつ取り皿とカトラリーがそれぞれの前に置かれる。ロバートは真っ先に一つ取って食す。口にした瞬間鼻に通るスパイスの香りが詰め物の具材を引き立てる。外を包むトウモロコシの皮による香りもついていた。

「いいじゃないか、これ。今まで知らなかったよ。」

「気に入ったかい、旦那。ここじゃ都会ほどいいものは出せないけどね、これにかけては一級品なんだ。」

満足げに頷きながらそう言って、夫人は向こうに去ってしまった。途端にロバートはまた心細くなった。今だけは夫人の調子が良くて歯に衣着せぬ物言いを頼りにしたかった。

彼はそっと大皿を引いた。隣のアンジェラの方に近付けた。

「どうだい、これ。なかなかいけるよ。」

「メキシコ人の食べ物じゃないの。好みでなくってよ。」

「そう言わずに……。」

「くどいわ。」

彼は諦めて自分の前の一つを食べるのに専念しようとした、するとリニーが皿を掴んで自分の方に引き寄せる。勢い余って山が崩れ、二、三のタマリがテーブルに転げ落ちた。

「そこまで言うなら食べなくていい。」

リニーは一つを手で鷲掴みにして口へ運ぶ。

「あら、言われなくたって、あなたが食べるものはね。」

「誰の娘だか知らないけど、私はそんなこと気にしない。」

「結構。あなた、口ではいいこと言っているけれど、ちっとも自立していなくてよ。きっとこれまでもそんな風に生きてきたのでしょう。やっぱり寄宿学校に戻ってはいかが?」

「この……クソ女!」

リニーはフォークを乱暴に掴んで逆手に持ち替えた。椅子を蹴って立ち上がる。応じてアンジェラも立ち上がる。まずいな、とロバートが思った刹那、稲熊は腰に挿した刀を取って力強く床を突き鳴らした。板の床全体が揺らぐようだった。

「よせ、娘が喧嘩事など。」

だがそれも二人を止めるには至らなかった。変わらずにらみ合っていた。

カチ。

親指でつばを押して、白刃が顔を覗かせる。これにはロバートもぎょっとして、いよいよ背中の冷や汗が止まらなくなった。

リニーは「邪魔をするな」と吐き捨てつつ、フォークをテーブルに投げ置いて食堂を後にした。それに続いてアンジェラも「野蛮なこと。」と言い残して部屋に消えた。残されたロバートは黙って彼を見ていると、ようやく刀を納めて腰に挿した。

「武士の矜持を捨てた男なれど、敵の居らぬところで刀を抜くとは――堕ちたものよな。」

どう返すべきか戸惑った。以前、刀を見せてくれと頼んだ時、彼は拒んだのを思い出した。きっと何か流儀があるのだと思う。

やがて稲熊も無言のまま立ち上がって、テーブルはロバート一人のものになった。

ほとぼりが冷めた頃に夫人がやって来た。蚊帳の外である彼女を頼りにするのは筋違いとはいえ、調停の責務をたった一人で背負わされたロバートは少々不服に思っていた。

「すまない、僕たちは近々ここを出るよ。いろいろと世話になった。」

「そうかいね、うちも長いこと客が入ったもんで、しばらくは安泰かと思ったんだけどねえ。」

「これは美味しい。いくつかそれぞれの部屋に届けてやってくれないか、悪いな。」

「旦那、人付き合いは苦手そうだねえ。」

「僕はただの技士なんだ。」

ロバートはこれ以上食欲も湧かなかったので一つだけ食べきって終いにした。


翌朝の食事は昨日と対照的で、全員が全員違うテーブルに座って、互いに視界に入れないようにしながら黙って食っていた。宿の者はこれまた不思議がって、厨房の出入口からそっと様子を窺うのだった。

ロバートはもう発電所に行かなかった。昨日夫人に話した通り、ここでの研究は見切りをつけて次の手を打つつもりだった。具体的な案があったわけではないが、ひとまずはロサンゼルスに引き返そうと考えていたのだ。それに、問題を抱えた同行者たちをこれ以上留め置くわけにはいかない。元はと言えば後先考えず自らの仕事に同行させた自分が悪いと彼は思った。

ロバートは稲熊の部屋のドアを叩いた。「僕だ」と一言かけると間もなく彼が出てきた。「少し歩こう」と外に誘い出す。それから宿を出た所に白い犬を撫でるリニーを見かけたので、後で声をかけるつもりだったのを一緒に誘った。二人とも彼が何か言いたげなのを察して何一つ問いかけずに後を追った。

空は晴れあがって、荒野の太陽は眩しい。コロラド川の流れは緩く、水際には上流から運ばれてきた砂が流れ着いて積もっている。その白く輝いているのが、空も相まってカリフォルニアの海岸に似ていた。ロバートは河岸にしゃがみ込んで水面に手を浸けた。水温はほどよく、手のひらに当たる水流が心地よい。

二人は彼の背を眺めていた。手を下向きに振って水を切り、ロバートはやっと言葉を発した。

「僕の住む街、サクラメントにも街と同じ名前の川があるんだ。上流の方はこれくらい澄んでいて、魚を取ったり、泳いだり、遊んだものさ。」

「――僕は幼い頃に後見人の叔父さんの家に引き取られたんだ。両親のことは顔すら知らないが――とにかく、サクラメントの叔父さんの家で育ったんだ。君たちも会ったろう、叔父さん。グレイヒル大佐、シヴィル・ウォーの英雄なんだ。軍人だから家にいることはあまり多くなかったんだけど。」

ロバートは振り返って「つまらない話だと思わないでくれ」と断った。

「そんな調子だから学校でどうなるか、分かるだろう?腫物だった。でも今思えばあれは家庭の事情なんかじゃなくて僕自身に人付き合い上の問題があったんだろう。それでだいたい一人で過ごしてたよ。」

「――十一の時、何の気なしに川の近くを歩いていると、歳の近い女の子が川べりにいるのを見かけたんだ。学校じゃ見かけない顔で、子供だてらにいい服を着ているから術士の子だろうとすぐに見当がついた。野原で一人座っていて、何か楽しいことでもあるのだろうかと思ったけど放っておいたんだ。それを別な日にも同じ場所で見かけて、どうやらあの子のお決まりの遊技場らしいと分かった。それにしても友人を連れていることは一切ないから、それでようやく察した。術士にも僕みたいなのがいるんだなと思った。それからは遠巻きに女の子を眺めることが何度か続いたんだが……」

そこまで話して、石を拾って川に投げた。さほど遠くないところに落ちて小気味よい音を立てる。

「普段通りならその子も気付かないこともなかったのだろうが――その日は確か前に雨が降って水かさが増していたんだ。岸壁には川の流れで土が抉れて不安定なところがある。あんまり川に近付くと危ない、と僕が思った矢先……足元が崩れて女の子は川に落ちてしまった。周りの大人に助けを呼ぼうにも、こんな街外れの閑静なところになかなか人はいない。よく探せばいたかもしれないが、悠長にそうしている余裕はない、流れの深いところでその子は今にも沈もうとしていた。そこで僕は、今考えれば非常に無謀なことだが、一か八か川に飛び込んだ。流れの中で手を伸ばす彼女を掴んで、必死でもがいて何とか下流の岸にたどり着くことができたんだ。女の子の無事を確認して、身体が冷える前に彼女を知っている人を探した。そうして僕はやっと知ったんだ、その子の名はアンジェラ・エマソン。サクラメントで名高い術士の名家の娘だと。」

「そうして知り合ったのだな、彼女と。」

稲熊の問いかけにロバートは頷き返した。

「事情を知ったエマソン卿はいたく感動して、感謝の気持ちにと僕は叔父さんと一緒に卿の邸宅に招かれた。その時のことはよく覚えている。いつも高い塀と門を見るばかりだった広大な敷地の中に初めて入ったこと。サクラメントのどの家よりも大きくて、庭も見事な彫刻が並んでいた。ここだけがどこか遠い国のようだった。その中でも僕が一番感銘を受けたのは、噴水でも特注品の馬車でもホールの肖像画でもない、書斎の本棚だった。天井まで続く棚がいくつも並んでいて、そこに大小の本が隙間なく並べられている。当時のサクラメントは開拓者の街で、まだ公共図書館なんかなかったんだ。僕は釘付けになったようにその前から動かなくなって、いくつか読んでもよいかと卿に尋ねた。彼も子供だてらに本に興味を示すなんて、見どころのある子だとお思いになったのだろう、いくつでも持ち帰ってよいと仰った。気が付けば僕は本棚をひっくり返す勢いで漁り出して、気付けば日が暮れていた。最後にエマソン卿はこう尋ねた、『勉強は好きか』と。答えは決まってる、友達がいない分勉強だけが取り柄だったから。後日、エマソン卿から手紙が来て『学費を援助するのでニュージャージーの名門校に進学しないか』と誘いを受けたんだ。言わずもがな僕はその厚意を受けて、向こうの寮に移り住むことにした。そのハイスクールの在学がなければ今のように技士にはなっていないだろう。つまり、今僕がここにいるのはすべてエマソン卿のおかげなんだ。ひいてはそのきっかけになったのは……」

「あの女を助けたから、ね。」

「邸宅を訪れた日にいくらか言葉を交わしただけで、それ以来会っていなかったんだ。アンジェラも川に近付くのはやめるよう言われたのだろう、同じ場所に姿を現すこともなくなった。それで僕も流石に忘れたものだと思っていたのだけどね。もちろん、僕がサクラメントに戻ってからは何度か『エマソン家のお嬢さん』の噂話を耳にすることはあった。どれもいい話ではなかった、父親と違って娘は傲慢だとか、平民を見下しているとか――噂で他人を判断するつもりはないが、昔の彼女とは違っているようだってことはよく分かった。」

「それは事実だったと。」

リニーは昨日の出来事を反芻してか、目つきが鋭かった。ロバートは肯定も否定もせず黙って、足元の砂をつま先で削った。平らな浜に落ち窪んだところができる。

「大事なのは、彼があって今の僕があるということ。彼に助けられたことは一つの大きな約束だったんだ、今度は自分自身が人を助けられるような仕事をするという強い意志を持った。これまでそれらしいことは一つとしてやって来られなかったけれど、今度こそ巡ってきた機会だ。僕はこの仕事を成功させて、合衆国を文明の灯火で照らしてみせたい。」

淡々として気取らないで、それでいて心だけは芯を持って固いのがその瞳から見て取れた。

ロバートは帽子のつばを指でなぞった。高い買い物も今ではようやくこの頭に馴染んできたようだ。稲熊は背を正して彼に問いかけた。

「次は如何にぞする。」

「ここを離れる。もっと時化の強いところに行くつもりだ。そこで調べてみたいことがある。」

「場所によりて時化に強きと弱きがあるのか。」

「そうだ。時化は起きやすい地域がある程度存在することが分かっている。例えば太平洋の島、ハワイがそうだ。」

「ハワイか、合衆国に渡る際寄港せし島ぞ。」

「ハワイ王カメハメハは強力な術士だったが、彼はどういうわけか島の火山が噴火する時が分かった。噴火が始まる少し前から辺りの『乱れ』を感じたという。それは時化の増加として島民たちにも分かる形で現れた。つまり島での時化の発生は火山の噴火と関連しているらしく、代々の言い伝えにもそうあった。こうした話は何もハワイに限ったものではない、ヴァイキングからインカに至るまで、時化と自然現象を関連付けた記録が残されている。ここから推察するに、時化とは地球の活動の一部であって、その根源は地底に隠されているであろうと現代の技士の間では信じられている。」

「だから、目指すべきは……」とロバートはそこで言うのをやめて、指で下を指し示した。

「ではその場所に心当たりがあるのだな?」

「合衆国にもいくつか候補はある。だけどどれも遠くて、僕も行ったことはない。何にせよ長い旅になるだろうから、僕は一人で……」

「ある。」

不意にリニーが言った。ロバートは聞き間違いかと目を丸くして彼女を見た、稲熊もそうした。

「アリゾナの北部、グランドキャニオンの近く、大地に大きな穴が空いていて、私たちは『大地のへそ』と呼んでいる。私は行ったことないけど部族で近付いたことのある者は、昼も夜も乱れ、草も根付かない場所だと言っていた。それは屍者の国の入口だって、信じられてるの。今の話を聞いて納得した、そこではきっと、年中時化が起こっているはず。」

ロバートはリニーに近付いて両肩に手を置いた。

「それはどこにあるんだ?」

三つ編みの黒髪が揺れる。

「大体の場所しか分からないけど、地元では有名だと思う。大昔にスペイン人の探検隊もインディアンの話を聞いて訪れたと云うから。」

ロバートは頷いて手を離した。顎に手をやってしばし考え込む。

「調べてみよう。良い情報をありがとう、僕はそこに行こうと思う。」

「あの辺りは厳しい土地だよ。町という町もないし、安全とは言い難い。」

「デッド・ランドか。構うものか、しかし準備は必要だな。」

その時稲熊が両手を組んだ。脚を広げて堂々と立っている。

「某も参ろうぞ。」

「待て、これは僕一人で行く。これまでの仕事とは違うんだ。」

「某が居るでは不満か?それとも某は心もとないか?」

「そういうわけじゃないけど……」

「では構わぬな。」

彼の口ひげの下の口角が上がる。ロバートは彼の意思が確かなのを見て取った。二人は互いに頷いた。

「リニー嬢はどうか。」

稲熊は彼女も当然来るものと思って訊いた。ところがリニーは目を逸らして何か言いたげな様子でしばらくもじもじしていた。やがて、

「私は、いい。」

と言った。

「アリゾナには行きたくない。」

「道案内をしてくれるではないのか。」

リニーは「詳しく知らないから」と首を横に振った。ロバートはそれを見て頷く。

「構わないさ、君にはもう十分助けられた。今暫し身を寄せる場所が必要ならサクラメントの僕の家がある。下の階の住人には話を通しておくよ。そうでなければ叔父さんのところに居られないか掛け合ってみるし、それ以外に新天地を目指すなら君がしたいようにすればいいさ。」

それでも彼女は首を振る。

「あの辺りには居留地があって、故郷が近い。私はまだ故郷の土を踏むことができないの。」

「ふむ、のっぴきならぬ事情を抱えておるのだな。致し方あるまい。」

「今決めることはない。叔父さんに事情を伝えたり、研究をするために氏を説得する必要だから、考える時間はまだあるよ。」

「某も使節団に話を通さねばならぬ。」

「ありがとう。」

リニーはそう呟いた。めいめいにこれからのことを考えながら頷いて、それからは河岸を離れて民宿に戻ることにした。


リニーの情報をもとにロバートは地図や街の人に話を聞いて「大地のへそ」の所在を突き止めた。スペイン語で「大きな穴」を意味する名前の地形は確かにあった。フラッグスタッフ北の四十~五十マイル行ったところに最寄りの開拓地があって、そこへ行けば情報が得られそうだ。

彼はすぐさま手紙を出した。一通はウエスティングハウス氏へ、研究を続けさせてもらえるように申し入れた。もう一通はグレイヒル将軍へ、自分が今どこにいて、誰といるのか、置かれた状況と、これからの展望。それらをすべて書いた。サンフランシスコでは適当にはぐらかしたことの謝罪も添えて。最後にこの仕事への意志を綴って結びにした。早いうちに便りが返ってきた。高額な研究資金を氏はこれまで通り負担してくれることになった。しかしこれだけやるからにはきっと成果を出すようにと釘を刺すような言葉も並んでいた。ともかく、彼がロバートの熱意を理解して協力を厭わないのは好ましいことだった。将軍からも手紙が届いた。奇妙なことに小包と一緒だった。書くときはあれだけさらさらと筆が進んだのに、いざ返信の封を切るとなると彼は怖気づいてしまって、届いた郵便を半日ほど部屋の机に放っておいて、日が西に傾く頃ようやく手紙を読む心づもりになった。サクラメントではじまりに受け取った手紙と同じ文字で、本文にはこう書いてあった。


前略

事情は全てわかつた。己の責務を全うせよ。連れや種々のことはお前に任せるから勝手なやうにしなさい。死の土地は危険多きにつき己が身は己で守らねばならない。吾輩の拳銃を渡すから役立てなさい。使ひ方は知つているだらう。悩み迷ひは銃を抜く前に整へよ、引き金を引く時に考へてはいけない。

草々

陸軍大佐 ワトキンス・グレイヒル

追伸 その拳銃は「平和をもたらす者」といふ名なり。


包み紙を破くとそれは小箱で、その中を開けると、黒い四・五インチの銃身を持った回転式拳銃が革のホルスターと共に納められていた。弾丸はシリンダーに四回入る分が同梱されていた。

ロバートは慎重に銃を取り上げる。木製の銃床は曲線を描き、ガラガラヘビが鎌首をもたげるように漆黒の銃身が伸びる。金属の確かな重みが両手に加わる。彼はこの銃を知っていた。右手に銃を構える。照準の先、窓の外に向かいの家の屋根が見える。この照準を覗く光景にも彼は見覚えがあった。

ホルスターをきつく腰に巻きつけて拳銃をしまい込む。上着を着れば完全に隠れて遠目には分からない。それから弾薬箱を懐にしまい込んで、ロバートは外へ出た。裏手の方に回っていけば街の外れはすぐそこにある。そこから河岸に降りて流れを下る方に数分歩くと、辺りはもう低木が茂る原風景だけになった。

辺りを物色すると、どこからか流れ着いたか、古びた木の板が打ち棄てられていた。これ見よがしに転がる板を拾い上げた時、不意に後ろから声をかけられて思わず彼は板を落とした。

「そんな物騒なものを持ってどこへ行くつもり?」

「アンジェラ!」

振り返ると彼女がそこに立っていた。ロバートはそんなもの気にしていなかったかのように板に背を向ける。アンジェラは彼に近付いて目の前で立ち止まった。彼女が上着の裾を引っ張ると、ホルスターに入った拳銃が顔を覗かせた。

「叔父様がお送りになったのでしょう。」

「ああ。」

板を手ごろな石で挟み込んで立ち上げる。ロバートはそこから二十フィートほど距離を取って向き合った。両足を軽く開いて腰に手を当てる。拳銃を取り出して懐から出した弾丸を一発だけ装填し、シリンダーを閉じる。両手で銃を構えて照準を木の板に合わせ、撃鉄を起こす。再び照準を合わせ、呼吸を整えて、引き金を引く。

荒野に響く銃声、反動は大きくない、想定の範囲内だ。

「お見事。」

向こうの木陰でアンジェラが言った。脆い板は割れ、地面に吹き飛んでいた。

「どうも。」

「あなたが入隊したという話、否定していたけれど、本当なの?」

「根も葉もない、軍人になんかなっちゃいないよ、僕は。」

ロバートは薬莢を手の内にしまって銃をホルスターに戻した。

「本当に行くの?」

アンジェラは木に寄りかかっている。

「知っていたのか。」

「宿の主人に話していたでしょう、グランドキャニオンの……穴がどうとかって、熱心に話すものだから耳を傾けてしまってよ。どうせ研究のことだろうと思って。」

「大地に空いた巨大な穴だ、そこでもっと時化が観測できる。」

「もうよいのではなくて?」

「どういう意味だ。」

「口を開けば時化々々ってそればっかり。あなたはよくやっているかもしれないけど、それでもできないこともあるのよ。今度の旅はますます資金が要る、そうしたらもう後には引き返せなくなるのではなくて。だから、もうよいでしょう、サクラメントにお帰りなさい。」

アンジェラは毅然として言い放った。それでも頭ごなしに否定したいがために言っているのではなかった。

「君の言うことは正しいと思う……それでも僕は行くよ。」

「なぜ。」

「人に頼まれたからとか、親戚の紹介だからとか、そういう理由じゃない。僕がそうしたいと望んでいるから。僕はこの生き方しか知らないんだ。」

呆れられてもよかった、ロバートはやっと自分の言いたいことが言えたようで胸が晴れあがった。コロラド川は穏やかで、通り抜ける風は透き通っている。

「もう止めないから、好きにすればよくってよ。」

「うん。」

「私も行くわ。」

「は?」

彼女があんまりけろっとしてこぼすものだから、耳を疑った。

「自分が言ってることを分かってるのか?」

「行くって言っているのよ。」

「ここに来たような感覚で来られる場所じゃあないぞ。気候だって厳しいし、何があるか分かったものじゃない。」

「そんな場所に、あなたは行くのでしょう。」

「そうだ、僕は行く。だが、君みたいな――」

「その続き、言ってごらんなさい。」

君みたいな名家の令嬢には相応しくない、そう言えばきっとアンジェラは怒る。家柄を理由にとやかく言われることがどんなに疎ましいか、ロバートにも分かる。

「――品の良い女性には似合わないよ。」

「リンゴみたいに顔を赤くして言うことでもなくってよ。」

「そんなことない!」

「言ってみただけ。」

「この……」

まんまと一杯食わされてむしろ顔に血が上る感覚がした。それを見てアンジェラは唇に微笑みを浮かべた。彼女は木に寄りかかっていたところから立ち上がり、スカートの尻の部分を手で払った。ロバートは近付いて言った。

「これは僕の仕事なんだからな、僕の言うことには従うんだぞ。」

「頼もしいこと。」

「冗談じゃない、きっとだぞ。」

「ええ。」

川沿いの道を行くと、腰に提げた鉄の塊が重みを感じさせた。


その夜のことだった。ロバートは自分の部屋のベッドに靴を履いたまま横になって、脇の机に置いたラムプに横顔を照らされながら天井を見つめて、これからの行く先に思いを巡らせていた。帽子はラムプの隣にあり、半円の伸びた影を机に映し出す。

コツコツと扉を叩く音がした。「今行く」と言いながら起き上がってすたすた扉まで歩いていって、半開きにして訪問者を確認した。立っていたのはリニーだった。目を細くして暗い中で彼の顔を見上げていた。

「どうかしたか。」

「ねえ……あの女も行くって、本当?」

「アンジェラのことか?僕の仕事に?――ああ、どういうわけかね。」

「了承したの、なんで?」

「逆に、積極的に断る理由があるでもない。それに言い出したら強情だからな、彼女は。」

リニーは呆れてため息が出た。ロバートは少々不愉快だった。

「ロバートが私を連れて来た理由、分かった。同行者にこだわりがないんだ。」

「どういう意味だそれ。」

「私も行く。」

ロバートは固まった。少ししてから彼女の言葉の意味を理解して訊き返した。

「本当に心が決まったのか?」

「二度は言わない。」

「その口ぶりだと、彼女が行くと決めたから張り合って君も決めたように思えるんだが、もしそうなら、本当にそれでいいのかということなんだけど。」

「うるさい。行くと言ったら行く。」

「二度言ってるじゃないか。」

彼は頭を抱えた。三人揃ったとなると、先日の晩餐のようになるのが目に見える。行程でお互いの関係にひどく気を遣うのはもう御免だ。彼は技士で、調停者ではない。今さらながら全員断っておけばよかったと思い直すが、それももう遅かった。

どうにもならなくて、ロバートは肩を落とした。

「こないだみたいなのは困るよ。」

「私は何もしてない。勝手なのはあっち。」

「そういうところなんだよ」と、その言葉は喉元で押しとどめた。

明くる朝に彼らは長期間滞在した宿の家族に別れを告げた。


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