「長い――とても長い、話になるんだよ。原稿用紙何枚になるだろうか――いや、『話す』んだから、原稿用紙何枚ってのはおかしいんだけど――でもこの場合は合ってるのかな。一から了まで、一度に分かってもらえなくてもいい、何度でも、繰り返せばいいと思うんだ。子供の頃、九九を覚える時、そうやって勉強しただろう?とにかく、変に肩ひじ張らずに訊いてほしいんだ、ほら、そこに座って。」
大統領がそう言うと、アークの背後に「椅子」が現れた。それは正確には椅子とは言い難い、膝の高さくらいの白い箱でしかなかったのだが、彼はそれを「座らせるために」存在させたのだから、椅子と呼んで差し支えないものだ。
アークは椅子に腰かけた。すると目の前の男と目線の高さが等しくなった。大統領はこんもりと盛った髪をひょいと頷かせた。
「大統領……」
「『ローガン』。ローガン・モルド。それが僕の名前。」
そう言われても、アークは名前で呼ぶ気がしなかった。彼には「大統領」という呼び方が至極自然に思われた。
「まず、ここはどこなのかハッキリさせてくれよ。辺り一面深い霧に包まれたみたいに真っ白だが、どうやらこれで、視界は澄み切っているらしい。どうにも宙に浮かんでるみたいで落ち着かない。」
「キミは僕と話をしたいんだから、ここには僕とキミ以外のものは何も要らないじゃないか。ここはねえ、僕がキミに見せている現実だよ。キミはほら、他人が見ている現実を自分のものとして触れることができていたよね。僕は今それを使って、キミの認識する現実をすべて僕の色に塗りつぶしてしまったというワケだ。そしてさっきまでキミがいた世界もまた、すべて僕が見せていたものなんだ。劇場の舞台仕掛けと同じだよ、さっきまでは世界丸ごとを舞台にして一つの演劇をしていたんだ。今は幕間、次の舞台仕掛けを用意していないからこんな風に何もない空間が広がっちゃってるんだ。そしてこれはキミ一人が見ている現実なんだよ。つまりはね、こういうことだ。舞台の主演であり唯一の観客はアーク、キミで、演出はすべて僕。他の登場人物はすべて僕が作り出した虚像だ。……正確には、僕たち二人も夢の中にいるから実際の肉体ではなく、意識でしかないんだけどさ。」
「なかなか要領を得ないな、貴様の話は。」
「習うより慣れよ、理屈よりも感覚で理解してくしかないよ。」
アークは一際大きくため息をついた。目の前の男は、説明の仕方がどうというより、ただただ話していて体力を吸い取られるタイプの人間に違いない。
「どうしてこんなことになっちゃったのか、だよね。キミに話さなければならないのは。これが長い話なんだ。はじめに言っておくよ、これは弁明じゃない、懺悔だ。僕から、キミたちへ。だからといって、すべてを話したところで許しなど求めるつもりは微塵もないよ。」
大統領は黙り込んで、それから、話を再開するまでには随分時間がかかった。彼はどこか眠りこけているかのようで、こうして座ったまま意識を失っているんじゃないか、サングラスの奥は目を瞑っているんじゃないか、そう思えた。こうしている間にも実は何年もの月日が過ぎていたとして、不思議ではないくらいに。それを立証する材料になり得るものはこの現実に存在しない。デジタル時計も、空腹や眠気といった感覚も。
「そもそも――僕は大統領であって、キミもそう呼んでいるけれど、それは本当なのかってこと。サングラスに、アフロ、口髭、チャラチャラした格好……こんなナリで大統領だって、ふざけてるとしか思えない。しかしだね、人を見た目で判断するのはよくないことだ。僕は、本当にテラレジア共和国の大統領だ、憲法に定めるところの、大統領府の長、ロディヤ・ハイルモンドというかわいくて有能な秘書もいた、紛れもない大統領なんだよ。そして、かねてよりキミの王政復古を決して認めてこなかった、最大の敵。そんなテラレジア共和国大統領ローガン・モルドは、クソ忌々しい『オーダー』の一員でもある。」
「オーダー……。」アークは言葉を繰り返した。たかが単語一つに並々ならぬ因縁じみたものを感じている自分がいた。
「オーダーってさ、結局なんなのかな。英語で『注文』『命令』『秩序』とか、そういう意味の言葉だけど、額面通りに受け取ると少し違ってるかもしれない。他の言葉で形容するならば、『秘密結社』『圧力団体』とも違う、『テロリスト』、実態はそうかもしれない、『シンジケート』、は少し意味が広すぎる。まあ、ヒーローモノに出てくる『世界征服を企む悪の組織』が一番近いのかもしれないね。テラレジア共和国、フェデライト共和国の両国に拠点を置いていて、組織の規模や構成員の人数なんてのは僕ですら正確に分からないんだけれど、末端の末端まで含めたら千人は超えるだろうかね。そんな巨大な組織が、現在は両国の中枢に根を張り巡らせて、国政を意のままに操っている。現に構成員が大統領になってるくらいだからね。僕はオーダーの成り立ちについて深くは知らない。分かるのは、オーダーはテラレジアという国家そのものに対して随分因縁が深いらしいんだ。とりわけ、王家とは歴史的に深く対立してきた。この地を治めるテラレジア王国に対して、オーダーはその家臣や諸侯の領主、フェデライト王国に魔の手を伸ばし、一泡吹かせようと策を弄してきたみたいだよ。百年前に王国がフェデライトとの戦争に敗れ、王政が廃止されたのもすべてはオーダーの差し金だったらしいんだ。オーダーの完全な勝利、以降は共和政権の中枢に巣食い、この国を影で操ってきた。ファシストとの内戦や、ソ連やキューバのシンパによる邪魔が入ったりもしたけれど、この百年間オーダーは体制を崩されてはいない。とにかくさ、これで分かったろう、この国にはオーダーって腐れ野郎共がいて、王家が大大大っ嫌いだから、キミたちを滅ぼそうとしてるってこと。」
「伝えたいことは、だいたい分かったよ。貴様はここではオバケみたいに出たり消えたりするふざけたナリの男でしかないが、真実の世界では大統領として君臨しているんだ。それで、大統領は、我が王国の支配を目論むクソ野郎共の一員でもある。……それなのに貴様はオーダーを心底忌避しているみたいだな。」
「うん。理由は、嫌いだから。」
大統領は飄々と答えた。
「子供たちにはよくある話だろう?信仰の「し」の字も分からないまま、信心深い親に無理くり礼拝に出かけさせられて、聞きたくもない説教を聞かされるってやつが。僕はその子供の気持ちがよくわかるようだよ。人間は『になる』じゃなくて『である』なんだ。生まれながらの性質が、思った以上にその人を縛りつけているものさ。僕の言いたいこと、分かる?」
「嫌味か、それ?」
大統領はうんうん頷いた。
「僕の語り口に慣れてきたところで、そろそろ『こっちの話』と参ろうか。『この夜』につながるための、とっても長い話。ほとんどは僕の経験した話になるけれど、いくらかは直接経験でないことも含まれている。なぜそれを知っているかというと、この繰り返す現実を作る中で、僕がキミたち――フェルドくんや、カノンちゃん、プリンセス、そしてアーク、キミが聞かせてくれた話を織り交ぜているからだ。まあ、ゆっくり聞いておくれよ。おいしいエスプレッソなんか、傍らに置いたりしてね。」
大統領は舞台の垂幕を上げるように、ゆっくりと、一息ついて、やがって長い物語を聞かせた。
ローガン・モルド――確かにそれは僕の本名なんだけど、「本当の名前」ではないのかもしれないね。こういう風に考えたことはある?生まれながらに「偽りの家族」によって与えられた名は、本当に自分の名前だと言えるのだろうかって。今更こんなこと考えても無駄だけどね。とにかく、僕は売上が落ちたらすぐ暖簾を変えるお店なんかとは違うから、この名前をすっかり自分のものだと思ってるよ。
テラレジア人の子供がすなわちテラレジア清教徒として育つように、僕は生まれながらに「オーダー」の一員だった。親が構成員だったのさ。……オーダーはとかく不思議な組織だ。組織は影の如く決して実態が掴めないのに、一人一人の構成員は確かにそこにいる存在として観測できる。何百年と続いていた組織だから次世代を育てるやり方も確立されているんだろう、僕はそうした者の一人として生まれてからこれまでやってきたというワケ。疑念とか不審というものは、一度も感じたことは無かったね。水たまりに生まれた魚は大海を恋しがったりしない、果てしなく続く水平線なんてものを知らないからだ。僕はオーダーとして与えられた大義も、使命も、当然のものとして受け取っていたよ。……ああそうだ、言っておくけどね、この頃の僕は、今みたいなふざけたナリはしていなくて、純朴な少年そのものだったさあ。
他の構成員と同じように、僕も閣僚なり政治家なりになってこの国の中枢に食い込むことが求められていた。そのためにはもちろん、大学に行って、国家試験を受けて、とにかく勉強しなきゃいけないでしょ。下手に裏金積むようなマネをすると足跡が付くからって、こればかりは実力で何とかしなきゃいけないことになってたんだ。結果、ローガン・モルドは政治家の道を歩むことになった。僕には人々の前に立って、彼らを惹きつけるのが向いているとオーダーは判断したみたいだ。人を惹きつける……こう聞けばピンとくるだろう、僕は相手を自分の現実の中に引き込んで、手っ取り早く「友達」を増やしていったんだよ。これも一つの才能だよね。僕が与党の新進気鋭として、少しは名が売れてきた頃、一人の男に出会ったんだ。その男は僕の人生を根幹から粉々に砕いて、火をつけて、灰の山からもう一度僕を作った、そんなヤツだよ。
その日、僕は王城を訪れていたんだ。特に理由は無かったよ。仕事場、つまり与党の党本部が首府の旧市街にあって、ちょうど王城のお膝元って位置だ。城のことは毎日見上げながら生活していたんだけれど、どういうわけかその日は上まで行ってみようって思ったんだよ。僕は王城の丘の上に立って、眼下の街を見渡した。風が強い日だった。装飾付きの積み木を並べたみたいな市街に、べったり広がるフロアカーペットみたいな農場。遠くに見える山々は地面が出っ張ってるというより、大空の端に切れ込みを入れたように僕には見えたよ。かつての王様は毎日この景色を見ていたんだろうか、そうして、僕はこの国の広さについて何の気は無しに考えを巡らせていた。
不意に響いた「パシャリ」って音で我に返った。振り返って見れば、そこにカメラを構えてニヤニヤ笑ってる男がいるじゃんか。カメラのフィルムが入るような、小さなポケットがいくつもついたベストを着て、地味だけど運動しやすそうな下半身の装備、五分分けの明るい茶髪に、何より天体望遠鏡みたいなごついカメラ。――パパラッチ!はじめはそう思った。職業柄、そういうのには神経を尖らせているからね。だけれども、こんな悪戯っぽい顔で笑うパパラッチがいるだろうか、というか王城の前で風に吹かれる僕の姿が何のスキャンダルになるだろうか。だけれども油断はならない、僕が男と対峙して、そのニヤニヤ顔を睨み返してやったら、そいつはこう言った。
「お前史上ベストショットだろうぜ。」ってさ。何言ってんだよコイツは。でもね、後で現像した写真を見せてもらったら、それはもう、文句なしに、僕史上一番写りのいい一枚だったよ。
それが、僕とアイツのはじめての出会いだったんだ。
……ああ。……あーあ。話すのやめたくなっちゃった。ここでやめていいかい?僕はもうすこぶるつらくなってきた。いい思い出話みたいに語りやがって、ちっともそんなことはないんだ。今でも思うよ、このうすのろの政治家が、あの日、変な気を起こして王城に登ったりなんてしなければよかったのに!だけどこれは僕が作り出した現実じゃない、本当に起こったことで、戻ることも、全部無しにすることも、叶わないんだからね。
話を続けるよ。それだけが僕にできることだから。
僕は言った、「僕は、その大層なカメラに収められるほど立派でも悪名高くもない、平凡な男だよ。」
「俺は自分で撮りたいものしか撮らないんだ。」
「カメラマンにしては随分、調子がいいじゃないか。それともあれかい、写真に芸術性がどうのだとか言い出す、そういう写真家なのかい。」
「はは、そんなものじゃないさ、ただの気まぐれなカメラマンだぜ。今、そこにお前が立っていたから、撮ろうと思った。それだけさ。」
いよいよ頓珍漢だ。
「大将、何をやってる人なんだい。」
「一応これでも、演台に立つような身分の男なんだけどもね。なにせ、下っ端の下っ端だ、知らなくても不思議はないよ。」
「へえ政治家かい。所属は?」
僕は所属している今の与党の名を言った。そして、世話になっている派閥の先生の名前も。
「そうかそうか、あそこは、確か……あ、いや、実はほとんど知らないんだ。報道カメラマンをやっている手前、何か知った口を利こうとしたが、やっぱりダメだったや。」
自らの落ち度をすぐさま暴露するとは、コイツは、やはりバカなのかもしれない。僕は「不真面目なカメラマンだね」って言ったら、そいつは笑い出した。
「そうさな、俺はテラレジア一の不真面目なカメラマンらしいや。」
そうして男は、自らの名を名乗った。カリス・ライカ。……勿体ぶらずにこの時点で言っておくね、カリスは、カノンちゃんのパパなんだ。
僕は自分の名前を告げて、それから二言三言交わした。
「明日もここで黄昏ているかい、不真面目な政治家さん。」
いけしゃあしゃあと人を不真面目呼ばわりなど、失礼極まりないじゃないか。僕は今日たまたまこの丘に登っていただけなのに、何かひどい勘違いをされているようだ。だからといって僕はその誤解を訂正する気にもならなかったし、実際、平日の昼間からこんなところで風を浴びていたら「不真面目」のレッテルも何ひとつ言い返せないものだ。
「そうだからって、どうなるんだい。」
「明日の同じ時間に来たら、面白い写真を見せてやるよ。」
バカだな、コイツは。僕はもう確信した。今さっき出会ったばかりの僕が、この言葉通りに明日もここにいるかなんて分からない。それなのに、カリスは明日のこの時間にはここにいるだろう、来るかも分からない男に写真を見せてやるために。
僕は呆れてその場を去った。逃げるみたいだった。カリスはその後も残って王城の写真をパシャパシャやっているらしい音が聴こえた。
次の日、奇跡的に僕は同じ時間に手空きになった。昨日の男には義理も未練もないけれど、僕は、アイツの存在が歯の奥に挟まった食べカスみたいに気になったから、やはり王城へ行くことにしたんだ。
王城の丘の麓に、駐車場がある。そこから城まで続く散策路を行こうとした時、僕は道の傍に立つ男に声を掛けられたんだ。
「よっ、大統領。」
「カリス。」その人だった。昨日と同じポケットの多いベストを着て、カメラもしっかり首に提げている。
「『大統領』って何だい。」
「お前さん、政治家だろう?だったら『大将』より『大統領』じゃないか。」
「僕は大統領じゃないし、それだと飲み会の席でおだてられているみたいだよ。納得いかない。」
「そうかい、でもゆくゆくは大統領だろ。じゃあ……ローガン、お前、どこ行くつもり?」
「どこも何も、王城だよ。君が来いって言ったんじゃないか。」
「え?あんな上まで登るのか?くたびれっからやだよ。それより、向こうのバルはどうだい。あそこの店はいいんだ、芋揚げ一つとっても美味だ、至高だぜ。それとも大統領閣下は庶民のバルはお気に召さないか?」
「バルは、大好きだよ。」
僕たちは、王城の麓の土産物屋なんかな並ぶ通りにある一軒のバルに入った。まだまだ就業時間中だ、この時間からバルにいるってのは、地元の老人やマダムたちばっかり。僕たちは入り口に近いカウンターの二席に陣取った。暑い日差しは遮られ、それでいて外からの風が心地よい席だ。
まだ仕事中なんだから、僕はお酒を頼まなかった。例の写真とやらを見たら帰ってやる。どうせ大したことない写真に決まっている、もうホントにどうしてここへ来てしまったのか、自分でも呆れていたよ。ところが、カリスは一向に写真を見せなかった。取り出す素振りさえ見せない。別に自ら進んで見たいわけではないけれど、それが目的だったのだから、こう焦らされちゃ堪らない。僕はそのことを口にした。
「まあそうせこせこしなさんな、まずは一杯。」
「僕は遠慮するよ。」
「いいや、バルに来たら誰もが一杯注文しなければならない。コーヒーはダメだ、ミルクも、オレンジジュースもダメ。酒だよ、酒。まずはワインを一杯、どう?でなけりゃ写真も見せるものか。」
まともな人間なら呆れてすたすた去っていってしまったと思うよ、だから僕はまともな人間ではなかったみたいだ。僕は渋々同じものを頼んだ。今思えば、あの一杯こそ、蛇にそそのかされて禁断の果実を口にしたイヴみたいな、自分自身を根本から変えてしまうものだったんだろうね。でもさ、僕は楽園を追放されたって後悔はなかったよ。
乾杯を済ませて、しばらく、僕はカウンターの向こうの酒瓶の棚を眺めていた。これでも写真を取り出さなかったらどうしよう、そう思ったけど、そんなことはなかった。きっとカリスは、僕が一刻も早く写真が見たくてうずうずしてるんだと、早合点していたんじゃないかな。というよりは、実のところ彼の方が見せたくてたまらなかったんだろうよ。
縁が擦り切れてよれた写真には、一人の女性が、三つくらいの小さな娘を抱いて笑っているのが写っていた。僕は名も知らぬ母娘の笑顔を黙って眺め続けていた。ふと顔を上げると、カリスはまた例のニヤニヤ顔を向けていた。
「カノンです。ママのオルセーネです。パパは……誰だと思う?」
「君だろ。」
「いやー、やっぱし分かる?似るんだなー親子って。」
「いいや、普通に考えて、これは自分の家族の写真だろう。そうでなかったら、君は、人妻と他所の娘の写真を懐にしまっている、狂人ってことになるよねえ。」
「ハハ、そりゃそうだな!」
やっぱり僕はまともな人間ではなかった。知り合ったばかりの人間を呼びつけ、あまつさえ仕事時間中の飲酒まで強要して、目的がただの家族自慢だなんて頓珍漢のおたんこなすに違いない。それなのに、僕はなぜか怒り出すことができなかったんだ。なんだか、その写真に満足してしまって、「良かった良かった」と仁王立ちで頷きたくなった。
カリスは写真を手元で眺めながら、ニコニコしていたよ。僕はその横顔を見ていた。
「俺はフリーの報道カメラマンでさ、普段はあちこち行って写真を撮って、記事を書いては出版社の編集に送り付けてちまちま金を貰ってんだ。何でも書くんだよ、政治も社会も、文化も自然も、食も紀行も。俺はこの国の隅から隅まで見たいんだ。いい国だよ、テラレジアは。ちっぽけな国だってみんな言うけれど、この俺が一生かけたって見尽くせないほどの素敵なものが溢れてる。ローガンは、どうだ?」
「いいことだよ。僕も、老後は国を一周するつもりだよ。どんなに田舎でも、行ける限りね。」
不思議に思われるかもしれないけれど、僕は、オーダーの一員でありながら、テラレジアという国家そのものに対しては人並み以上の愛国心とも言うべきものを備えているんだ。何もかもを、愛しているんだ。
「いいぜ、老後と言わず、今からでも……なんて言うがな、実際は大変だ。あちこち出かけてばっかりで、記事になるまでは原稿料も払われないもんだからいつも旅費は自腹の腹積もりだ。そうこうしてると、グリム県の家に帰るのが難しくなってくる。今じゃ一年の内に家にいない時の方が長いぜ?実はな、この写真、擦り切れてるから分かると思うけど、かなり前のものなんだ。今じゃ家内はこの写真より横に長くなったし、カノンは小学校の……何年生だっけ?あれ?……ハハ、ご覧の有様でございますよ。テラレジア一不真面目なパパでございます、わたくしめは。」
僕は返す言葉が見つからなかった。
「ローガン、家族いる?恋人とか?」
「いないよ。」
オーダーが結婚相手を見つけるのは少々苦労するんだ。みんながみんな家族ぐるみのオーダーというワケでも無かったりして、普通の奥さんを持ってる人もたくさんいる。僕の場合は、深いこと考えずに生活していたら相手がいないままこの歳になっていた、そんな感じだった。
「ハハ、そうだろうと思った。」
「息を吐くように人を小馬鹿にするなあ。」
「見た目がねえ、パッとしないんだな。俺ほどの腕のカメラマンじゃなきゃ見合い写真も満足に撮れたもんじゃない。思い切って髪型変えてみるのはどう?それもいいと思うぜ。」
「余計なお世話だよ。」
「いいさいいさ。だけどさ、守るものがあるってのも、いいぜ。」
「君は守れているの?」
「ヘヘ、キツいことおっしゃる。」
僕は、やっとカリスに一矢報いた気になった。でも、思った以上にその言葉が刺さっているみたいで僕はばつが悪い思いをした。
店に入る段では「軽く一杯」だなんて言っていたが、その通りに本当に一杯で切り上げてしまった。僕はもちろん午後の仕事があったし、カリスの方も何かあったんだと思う。
既に空になったグラスを見つめていたカリスが顔を上げた。
「来週末になったらまたここに来いよ。今度は夜で。そうしたら、またいい写真を見せてやる。安心しろよ、今度のはあちこち取材に行って撮ってきたものだから。」
「君の奥さんや娘ちゃんの写真は無いのかい。」
「なんだ、コイツう。うちのカワイ子ちゃんたちが気に入ったか?あるに決まってんだろ、見せてやるよ。」
僕はその台詞を言った時には見たいわけでも見たくないわけでもなかったんだけど、カリスがそう言うからには、やはり見たい気がしてきたんだ。
「俺の宝物を見せられて良かったよ。……親父、おあいそ!」
カリスがカウンターの向こう側で常連と談笑していた店主を呼びつけると、その太った店主はのそのそと僕たちの向かい側にやってきた。
「安酒一杯だ、俺が払うよ」って言ってカリスは財布の中を探った。小銭入れを見てから、次に紙幣を探って一番大きいお札を出した。
「親父、大きいのでいい?」
「めんどくせえなあ。」
「ちぇっ、釣銭に厳しいぜ、こういうとこはさ。」
今でもそうだけど、こういう個人のバルは店主が会計を面倒くさがるのがいけないよねえ。だいたいこういうところは、代金とその端数をチップとしてテーブルの上に置いて、そのまま帰るものなんだし。
仕方がないから僕は財布を出して、二人分の酒代を小銭で払った。
「悪いね、大統領。」
「僕はお金のやり取りには特段厳しいんだぞ。ツケにしておくからな。」
「へいへい。」
カリスにちっとも悪びれる様子はなかったよ。
その次に会う時だったよ。僕はアイツをあっと言わせたい衝動に駆られたんだ。アイツといると僕もいつもの僕ではいられない気がして、ここは一つ、始終自分のペースに持ち込んでやるために、アイツを驚かせようと思った。それでねえ、今のナリをしてみたんだ。初めてパーマというものをかけに行ってね。最初は今ほどのアフロヘアじゃなかったんだぜ、髪も短かったから、表面が毛玉になったセーターみたいにモコモコしただけでさ。それで、スーツを脱ぎ捨てサングラスをかけて例のバルに行ってみたのさ。時間は少し遅く、カリスの後に来るようにして。
意を決してバルの中に足を踏み入れる。もういい時間になっていたから空席を探すのが大変なくらい賑わっていて、こうなると、客が一人入ってきたくらいではもう誰も見向きなんかしないよねえ。カリスの姿も見つけられなくて、僕一人、世界から取り残されたような気になって。なんだか、大の大人が泣きじゃくってしまいそうな気になってきましたよ。まったく、バカです。どうしようもないヤツです。店の入口で泣き出されたらそれこそ営業妨害じゃないか。そんな時、背後からいつもの声がしてきたんだ。
「よっ、大統領。」
僕は振り返った。なんと、タッチの差でカリスの方が遅かったんだ。カリスは、頭のてっぺんから順番に僕の身体を一通り眺めまわして、それから目線を戻した。
「なに突っ立ってんだよ。入ろうぜ。」
僕はもう、勝てないと思ったね。カリスは、ノーリアクション、そうではなかったんだ。一通り眺めてしまって、その一瞬で見た目が変わった僕を新しい僕として受け入れたんだよ。こうなったら僕も、一時の余興でやめにするわけにはいかない。僕はそれからずっと、その格好でいることに決めた。政治家としては凡そ何か大切なものが欠落していると言えるかもしれない、でもね、僕は僕の「力」を使っていつでも「友達」を作れるんだから、見てくれの良し悪しなどは問題ではないのさ。オーダーも、僕が忠実に仕事をこなしている間は何も文句のつけようが無いんだからさあ。
とにかく、それから僕とカリスの交友が始まったんだ。カリスは僕をあちこちに連れ出した、もっと正確に言えば「振り回した」のだけれども。「取材」について行くこともあったよ。国境沿いの森の奥で伝説の未確認生物をカメラに捉えるだとか、百年に一度開かれる幻の祭りを見物に行くだとか、とにかく体を張った取材が多かったなあ。その度に二人してどえらい目に遭わされてきたよ。もちろん、社会の大スクープを捉えるって取材もあった。完全にカリスの趣味としか思えない取材が多々あって、それらはうまく記事になって原稿料が入る時もあれば、そうでない時も。特にアイツがご執心だったのはかつてのテラレジア王国の足跡を辿る取材で、あちこちの珍しい史跡やら収蔵品やらをわざわざ訪ねて行って写真に収めていた。僕の知らないことばかりだったなあ、何よりさあ、楽しかったんだよ。二人でどこへでも飛び込んでいっては、バカやって、最高の一枚を掴み取りに行く。アイツの言った通り、この国には一生かけても見られないほどたくさんのものがあるって身をもって分かった。何にも代え難い興奮だった。
そうしているうちに僕の心にも新しい光が差してきたんだ。世界の広さを知る度に、これまでの自分の了見のせまさを知る。そうしているとね、これまでの僕の人生のすべてにおいて中心であった、オーダーというものの存在自体に対して、確かな疑問を抱くようになっていたんだ。オーダーの存在があったから、僕はこの人生を「選ばされている」。政治家だって、思えば自分でなりたいと思ったことなんかないのにさ。なーんで僕、こんなことしてんだろ。僕という人間が認識する現実は、大きく歪められていたんだって、そう思えてきてしまった。デッサンが狂ったイラストを見たことがある?腕の長さや、指の開き方を描き間違えたような絵。はじめは何とも思わないのに、一度おかしな部分に気付いてしまうと、もう何度見たってそのおかしさに目がいって、それまでのようには見えなくなってしまう。僕の世界は、まさにそんな風になっていった。
オーダー――一人の人間の人生を生まれながらに支配し、目的のための操り人形にしてしまうような組織。邪悪だよ、ホント。
この気持ちは、誰にも話したことが無かった。オーダーの面々は元より、カリスにだって、そんな結社が存在すること自体隠しているんだからさ。僕一人、胸の中にしまっていた思いは、自分でも気が付かないままにどんどん大きくなって僕の胸を内側から破ろうとしていたんだ。
それで、ここからは、僕たちが知り合ってしばらく経ってからの話だ。そこそこの時間が、僕たちの身の回りに変化をもたらした。まず、僕は政治家としての仕事が一段と忙しくなった。前の年に僕が国会議員に初当選して、議会に僕の座席を持った。政治家ってさ、思ってるより忙しいんだ。よっぽど、議場にいる時間の方が座ってるだけでいいから楽なんだぜ。そんなわけで、僕はカリスについてあちこち出かける機会が減ってしまった。
アイツの方はというと、取材に国中駆け回っているのは相変わらずとして、その他に、あまり景気の良くないことも感じ取れた。以前に比べて明らかに仕事が減っていたんだ。もちろん自分からそんなことは言わないけどね、アイツの取材が記事になった時は僕も欠かさずチェックしていたから、掲載が減っているってのはすぐに分かってしまうんだ。業界全体がフリーの記者に執筆を頼むことが減ったんだろうね。その中で、カリスみたいなユニークなことばっかりやってるヤツは、ウケが悪くなっていたみたい。かくなる上は僕の事務所で報道官として雇おうかと考えたこともあった。でもさ、違うんだよ。アイツが僕のために働くなんてありえない、みっともないことだと、そう思えるんだ。それにね、例えその仕事がひと月の半分だけだったとしても、僕がカリス・ライカという自由な翼を持った生き物を、鳥かごの中に入れてしまうのは、違う。違うんだ。こんな提案は僕の喉から出る前に、すぐに呑み込んでうんちと一緒に出してしまったさ。フフ、下品だね。
カリスと顔を合わせる機会も減ってしまった。でもアイツの声はことあるごとに聴いていたんだ。不意に、ホテルかどこかから電話を寄越してくることがあった。常に動き回っているから普段は全く連絡がつかないので、こうして話ができるのはアイツの方から掛けてきた時だけだもんね。
その日も、真昼間、僕の事務所に電話を掛けてきた。これは大変な迷惑だよ、アイツと長電話している間、事務所の電話線が塞がってしまうんだから、これが困る。電話番号だけ聞いて、別な電話からこっちがかけ直してやる必要があった。
電話口でもあのニヤニヤ笑いが想像できる声で、カリスは言う。
「――それでな、俺はこないだの原稿料でカノンのやつに買ってやったんだ、ポラロイド。出たばっかりの新しいカメラだよ、知ってるか?写真を撮ると、その場でカメラから写真が現像されて出てくんのよ。前からアイツ、俺の部屋のカメラに興味津々だったからさ。今に、父親よりいい写真を撮ってくるようになるぜ、あれは。」
「そりゃ、良かったじゃないか。」
僕はまだ一度もライカ家を訪れたことは無かった。南部のグリム県は遠かったからね。奥さんの地元なんだそうだ。その町で取材していた時に偶然出会って、一目で惚れてしまったとか。奥さんの方も同じで、こりゃ運命だって、すぐさま結婚しちゃったらしい。アイツらしいよ。その惚気話は何度も聴かされたから耳にタコができているんだ。
「んでな、一番面白いのは、『カノン』で『ライカ』なのに、持ってるカメラはポラロイドだぜ。全然違ってやんの、ハハハ。」
「君がつけた名前だろうが。」
「ま、そうなんだけどさ。」
こんなガサツで無神経親父でも、家族を愛し、家族に愛されているんだから、大変結構なことでございます。
「そんなこんなでさ、親父サマが出血大赤字の大サービスよ!こりゃ、しばらく、安酒だって呑めやしないかな。」
そう言ってカリスはかかかと笑った。
僕もそんなにバカじゃあないんだ、至って真面目な調子でこう返した。
「それで、今度の取材にはいくら必要なんだい。」
「ん?ああ、いや、そんなに。」はぐらかしている。
「ハッキリしろってよ。」
「んー……そうだな、十万くらい。」
「分かった。いつもの口座に振り込んでおくよ。」
「悪いね……大統領。」気まずそうな声、僕が嫌いな声。
この頃、カリスの取材費や家の生活費について、いくらか僕が援助するようになっていた。二人で方々へ出かけていた頃からアイツの分まで僕が払うことはよくあって、その度にアイツは僕を「大統領」などと呼んで変なおだて方して煙に巻いていたんだ。僕は呆れたけど、本気で取り立ててやろうと思ったことは無い。だって僕は生まれてこの方お金が無くて困ったことはないんだもん。いつだって必要なお金はオーダーが寄越してくれた。出処の分からない謎に満ちたお金をね。
時を経るにつれ、カリスの仕事が減るにつれ、援助の機会は増えていた。誓って言うけれど、僕はアイツをかわいそうだとか、僕が助けてやろうなどと思ってやったんじゃない。アイツが僕に与えてくれたもののいくらかを、僕も返してやりたいと思っただけなんだ。
「前も言っただろう、」僕は言った。
「まどろっこしい言い方なんかするんじゃないよ。君と僕の間柄じゃないか、少しも遠慮や後ろめたさなんて感じることは無いさ。必要なら必要だとハッキリ言えばいい。それよりもね、君が曖昧にはぐらかすことで、君が家族共々路頭に迷ったり、前みたいに、急場しのぎに大事な商売道具を質に入れるようなことがあったら、その方がいけないだろう。そんなパパの姿は、カノンちゃんだって見たくないはずだよ。」
「ヘヘ、キツいことおっしゃる。」
何もキツいことを言ったつもりは無いのだけれど。
「僕のところに出版社の知り合いがいてね、よければ、君のことを紹介して一緒に仕事ができたらいいかと思うんだけど。」
「いいや、それは本当にいい。俺もプロフェッショナルだからなあ、仕事には俺のやり方ってのがあるんだよ。」
その意気だ、と思った。僕が知っているカリス・ライカはこんなヤツなんだ。
「ところで君はここ最近、一体全体何をしているんだい。熱心に取材に出かけているようだけど。」
「ああ!聞いて驚くなよ……いや、やっぱやめた。電話で話したってつまらない。それよりも、久しぶりにどうだ、一緒に来ないか?俺はこの間すごい人に出会ったんだぜ、お前もきっと驚くよ。ぜひ一度会わせたいんだ。お前の大きく育った髪にあやかってだな……」
何を言ってるんだ。
「僕の頭はそう霊験あらたかなものじゃないぞ。しかしな、それは無理な話だよ。向こう三か月は手帳がびっしり、何日も予定を空けられることはないよ。会ってほしい人っていうなら、少しばかりは都合をつけることができるかもしれないが……それほど重要な人物なのかい?」
カリスは答えなかった。僕が訊き返すと、「うんにゃ」と返事になってない返事をした。
「いいや無理しなくていい。VIPとか、そういう類ではないからな。……ある意味とびっきりのVIPではあるけどさ。まあ忘れてくれ、機会があればそのうち、な。」
ああ、僕はこの時、仕事を全部放っぽりだしてアイツに会いに行けば良かったんだ。
カリスはあんなことを言っていたけれど、やっぱり僕はアイツのやってることが気になった。僕の見立てでは、アイツは何か興味をそそられるものを見つけて、それについて深く掘り下げて取材しているってところだった。僕はどうしてもそれを確認しなければならない気がした。カリス・ライカという困った男は、常に動き回っているのでこちらから連絡を取ろうとしてもなかなか一筋縄に行かない。まるでふらふら動く的に矢を射るみたいなものだよ。そこで僕は知り合いの人捜しが得意な者に頼んで、このところのアイツの動向を調べてもらうことにしたんだ。それが、それが……どんなに愚かな行為かも知らずに。
「……おい、大統領。」
アークは大統領に声を掛けた。
「まだ話の途中だってのに物言わぬ樫の木みたいになっちまって、どうしたんだ。」
彼は答えない。黒いサングラスに阻まれて、その目がどこを見ているのか確認しようがない。
「その後どうなったんだよ。カリスのことを調べさせて……」
「結末は、キミも知ってるだろう。」
今度はアークの動きが止まった。
「まさか……。」
大統領は頷いた。
「それからひと月も経たずに、すべては起こった。今から十年――いや、もうすぐ十一年前になる。」
アークは歯を食いしばった。「カリス……」届かないその名を呼びかける。
「詳しく話してくれ。何があったんだ。それを聞かなきゃ、貴様を殴ることも慰めることもできない。」
「ああ、話すさ、話すとも。」
大統領は再び口を開いた。
「僕は人捜しが得意な知り合いに頼んだ、と言ったね。だが、思い出してよ、僕が何者で、どんな知り合いがいるだろうかって。知り合いってのは……オーダーの一員だ。別に悪だくみがしたかったワケじゃないんだよ、ただ単に僕の身の回りにはオーダーの構成員がたくさんいて、日常的に頼み事や頼まれ事をし合っていただけなんだ。ともかく、知り合いはカリスの動向を調べた。そうして驚愕の事実を得て……『あのオーダー』が発令された。」
「ふざけるな!」アークは叫んだ。勢いよく立ち上がっていた。「貴様のせいでカリスが……カリスが殺されたってのか!!」
「そうさ、僕がやった。」
「親友だろ……お前の、相棒だろ!!」
「そうだよ!!」大統領は力を込めた手を震わせる。「こんなことになるなんて、思ってもみなかったんだ……僕にとって、『僕たち』にとって、一番大切な相手を失うことになるなんて。」
アークは力を失って座り込んだ。目の前で打ち震えているこの男は、意図せずして相棒を葬ったのか。
「……教えろよ、なぜオーダーが発令されたんだ。カリスについて調べた男は何を知ったんだ?カリスは、何を調べていたんだ?」
大統領はやがて顔を上げた。
「それは、キミの方がよく知ってるだろう。」
「何?」
「僕は随分話した、そろそろ選手交代だ。今度はキミが話しておくれよ、キミとカリスのこと。そうすればキミにも分かるはずだ、それが答えだってことが。」
「答え……」彼はそう呟いて、やがて目を見開いた。
「まさか、それが答えか!?『僕とカリスが出会ったこと』が!」
「そうだね。」大統領は再び頷く。「だからキミは話さなければならない。すべてはたった一本の線の上で起きた出来事。キミが話すことは僕の話の続きであり、キミがそれを話終えたなら、僕はその続きを話そう。フェルドくんや、カノンちゃん、プリンセスにもつながる、長い長い直線の上を進もう。」
語るに落ちる。アークにはそれしかなかった。
僕はアーク・ウエスト・〝テラレジア〟。テラレジア王家の直系の子孫。『ウエスト』は王位を失って大『西』洋の島に流された時につけられた名字で、〝テラレジア〟は在位の王が持つ唯一無二の姓だから、本名にはついてないんだが……って、こんな話をしても今さらか。とにかく、生まれは本土の西にある島で、生まれてこの方、一年くらい前までずっと島から出たことがなかった。
島とは言うけど、別に絶海の孤島ってワケじゃないんだ。本土からフェリーで二時間もしないくらいで着いて、そこそこ広いし、本土に近い島の東側には街もある。流刑と言ったって無人島に流されたら死んじゃうもんな、そこら辺は百年前当時でもそれなりに人がいる島を選んだんだろうよ。ところが、王に与えられた土地ってのは街から遠く離れていて、島の西側の、岸壁に面した崖っぷちの土地。近くに集落もないし、一年中海風がひどいし、とにかく、最悪なんだ。そんなところに建ってる掘立ての民家、そこが僕の実家だ。
兄弟はない、両親と三人暮らし。親父が王家の子孫で、お袋はド田舎のさらにド田舎に嫁がされた不幸な島の娘。日常的に関わっている人間といえば、これだけ。学校は籍だけ置いて行ってなかったんだ、遠いし、級友とは仲良くなれないし。島のすみっこに住んでる王家の血筋を引く一家ってのは、悪い意味で有名だったもんな。そんなこんなで、勉強は家ですべて済ませてた。
ここまで聞いて分かるだろうけど、ちっとも楽しい暮らしじゃなかったんだ。その上、家族関係が最悪だった。両親は生きてるのに死んでるようなヤツらだった。自分たちの身の回りで必要最低限のことだけをやって、それ以上は何もしない、どこか魂が抜けたみたいな感じだった。それもすべて、自らの家系のせいだったんだ。
親父たちはとにかく、自らの生まれを呪っていた。それも憎むというより、最初っから諦めきってる感じだ。王家の末裔として生まれて、そのせいで島の者からは浮いていて、そんな人生が彼らから生気を奪い取ってしまった。そしてそいつらは、自分の息子にも『ゾンビ』になるように強要した。いつ何時も「お前はうちに生まれたんだからどうしようもない」ってな具合で、何をやっても認めてはくれなかった。僕が納屋から王室ゆかりの品を引っ張り出してこようものなら、とんでもない間違いをしでかしたかのように怒鳴った。そんなに嫌なら全部崖の下に投げ捨てちゃえばよかったのにさ、とはいえ歴史ある宝を、自分の手で処分することもできない意気地なしだったんだろうよ。
よく崖っぷちに立って海を眺めてた。冬の大西洋ってどんな色をしてるか知ってる?青じゃないんだ、灰色。泥をぶちまけたような色で、それがザーザー哭いてる。僕の生活もまさにそんな感じだったんだ。
さて、ここまでの話は同情してほしくて言ったんじゃない。この後の話に前置きが必要だったからなんだ。僕の人生の半分以上がモノクロームだったってこと。そしてそれに色を塗ってくれる人が現れたのは、十六になる頃。今から十一年前だ。
うちの周りは農業をするにもちと厳しい環境なもんで、背の高い雑草が生い茂ったのがしばらく続いてるんだけど、その中の砂利道を見慣れない男が歩いている。つまり、カリスその人だ。観光客がこんな辺鄙なところまでくるはずないし、そもそもうちの辺りは他に家がないから滅多に人が通ることなんてないんだよ。当然の権利として僕は警戒していたのだが、男は向こうから歩いてきて、僕に向かって手を挙げた。こうなれば逃げるわけにもいくまい。僕は未開の原始人じゃないからな。
「なあ、ちょっと!」
その日も風があったので、カリスは大袈裟な声で呼びかけた。
「道を教えてくれないか?」
教えるも何も、最寄りの集落からうちまでは一本道で、どこが目的地にしたって来た道を引き返す必要があるのは明白だ。
「ここから先は何もないよ。」
僕は不審の目を向けていたと思う。するとカリスは明るい茶髪の頭を掻いた。
「何い?おっかしいなあ、さっきの村で聞いたらこっちの道だって言われたんだけどなあ。」
「はあ。」
大方、向こうの村に住んでるおばばが間違えたってところだろう。
「何を探してるの。」
「この辺りにテラレジア王の子孫の家があるって聞いたんだよ。」
驚くべきことに、この男は道を間違ってなかったんだ。この男はうちを探していた。
「お前さん、知らないか?」
「まあ、一応。」僕はすぐには正体を明かさなかった。だってそうだろ、明らかに不審な男だ。これまでにうちが王家の家系だからといって訪ねてきた人間はいないんだ。
「そうか!じゃ、どっちかね?」
「行ってどうするんだよ。」
「どうするって、そりゃ取材よ。」
「『取材』?」
「見ての通り俺、報道カメラマンなんだよ。」カリスは肩に提げたカメラを掲げた。「この国のいろんなもんを取材して回ってんだ。国中回ってたくさんのものを見たけど、まさか、ここへきてかつての王家の情報をゲットできるとはねえ!ていうかむしろ、そんなおいしいネタが手つかずだったとは、とんだ不覚!」
間違いない、コイツは怪しい男だ。だけどその時僕は、完全に悪い気もしなかった。彼が言う「国中回ってたくさんのものを見た」ってところに、どこか興味を引かれていたんだ。
「王家の末裔って、どんなもんだと思う?」
僕はぶっきらぼうに尋ねた。冷やかしに来たつもりなら、やはりここで追い返しとく方がいい。
カリスは唸って空を仰いだ。
「それが何とも言えないな。俺はここのところ王家についていろいろ調べたんだ。王は島流しにされたといっても、財産のすべてを失って全くの無一文になったワケじゃないらしい。だから基本的な生活はできてたはずなんだが、ここの人の話を聞く限りじゃ、デカい家ってワケでもないらしい。案外、つましく暮らしてるのかもな。」
これは正解だ。冴えてるな、コイツ。
「だが、地位は失っても度量は健在だと思うぜ。王の威厳っていうか、カリスマっていうか、そういうのはそうそう失われるもんじゃないさ。きっと一目見て、『ああ、この方が王様だ』って、理屈じゃなく直感で分かるだろうよ。何せ俺もテラレジアの臣民だからな!」
やっぱダメだ、コイツ。
僕は彼に回れ右させようと思ったが、カリスは話を戻して「道を教えてくれ」と請う。困ったよ、本当のことを言ったら食いついてきそうだし、かと言って土地勘のないヤツにウソを教えて延々と迷わせるのも忍びない。
「王家って言ったって、アンタが期待してるようなものじゃないと思うんだけど。」
「そりゃお前、この目で見てみるまで分からんさ。それで、どっちに行けばいいんだよ?」
僕は半ば諦めていた。この男にはうちの惨状を見せて幻想を打ち砕いてやるしかない。両親はこの男が訪ねてきたことでまた気分を害するだろう、面倒なことこの上ないが、どうしようもない。
僕は首を捻って後ろを示した。
「おお、そっちか!……でもお前さん、さっき『この先は何もない』って言ってなかったかね?」
「ないよ、王家の子孫の家以外はね。」
「なあんだ、そういうことかよ。」
カリスは礼を言って、意気揚々と歩き出した。僕とすれ違いかけて、不意に足が止まる。
「……あれ?お前、向こうから来たよな?」
「ああ。」
「この先には?」
「一軒家しかないよ。」
「住んでるのは?」
「……王家の子孫。」
カリスは目ん玉ひん剝いて僕をじろじろ見た。思わずこっちが仰け反ってしまうくらいに。やがて彼は僕の肩を激しく叩いた。
「痛えっ!」
「なあんだお前ぇ!それならそうと先に言えよお!とんだ食わせ者だな、アハハ!」
カリスは僕の肩をバシバシ叩いた。もうめちゃくちゃだ、コイツ。
それからはもちろん、カリスは僕を捕まえて強引に連行した。その足でうちに向かっていたのだが、僕はそれを何とか止めて、代わりに僕がよく海を眺めている岸壁に連れて行った。ここからはみすぼらしい一軒家も見えるし、他に人が来る心配もない。僕はそこでカリスに両親とは会わないでほしいと言った。その理由はだらだらと説明した。こういう身の上話はとにかく話をまとめにくいんだ。話してるそばから「あー」とか「その」とかがどんどん挟まってくる。カリスは岩の上に座り込んで、腕組みして僕の話を聞いていた。
「……そういうわけで、とにかく、うちに来るのは勘弁してほしいんだ。特にカリスみたいな『熱心』なのは、もう、ゲロゲロって感じだから。何か珍しいものが見たいんなら持って来てやるからさ。納屋にいろいろあるんだよ、『テラレジア・クロニコ』の写本とか、王家の宝とかさ……持ち出したのがバレたらまた怒られるだろうけど。」
カリスは黙っていたよ。さっきまでは時々訊き返したりしてたんだけど、急に悪いものでも食べたみたいになっちゃった。それでいて唐突にこんなことを言う。
「……それでアーク、お前はどうなんだ?」
「どうって、何が?」
「お前も親父さんみたいに思ってんのか?自分がこのうちに生まれて、どう思ってる?」
僕は答えに詰まった。そんなの、分かるわけないだろ。僕がこの家に生まれてずっと生きてきたのは変えようのない事実で、そうでなかった場合の人生なんて分かりようもないんだから、知らない。それ以上も以下もない。
「……時々、思うんだよ。親父はそんなに自分の生まれがイヤなら、なんで結婚して子供なんかこさえたんだろうって。これまで散々イヤな思いをしてきたんなら、せめて自分の代でオシマイにしようって考えなかったのかね。どうして息子にまで同じ思いをさせようとする?……僕は、生まれてくる必要があったのか?」
我ながら、ニヒリズムに染まってら。こんな歯の浮くような台詞を、その日に出会った素性の知れないおっさんに言って聞かせるなんてね。
カリスは、やっぱり何も言わなかった。その代わりに、どこからか写真を取り出してきてそれを僕に突き付けるんだ。僕は受け取ってそれを見た。そこには女の子とその母親らしい女性が写っていて、二人とも笑顔で……言うには及ぶまい、カノンとオルセーネさんだったよ。
「……それ、家内と娘。娘は今年十になるんだ。」
「はあ。……かわいらしいね。」なんか社交辞令で言わなきゃダメな気がした。「え、だから、何?」
「見せたかった、それだけ。」
「?ああ、そっか。」
僕は写真を返した。いよいよ意味不明だ。
「二人は、俺にとって命より大事なもんだ。そりゃ、俺はこうやって外を出歩いてばっかりで、ろくに家にも帰らないし、実入りも悪いから苦労ばっかりかけてるが、それでも、俺は家族を守るんだ。それだけ大事に思ってる。……家族って、そういうもんじゃないのかよ。」
「千差万別、ピンキリだよ。『うちはうち、よそはよそ』とも言うかな。とりあえず、アンタんとこの娘ちゃんは幸せだよ。」
カリスはがばっと立ち上がった。僕の目の前に回り込んで、そのまま両肩を掴んできた。
「アーク!」
人が海に向かって「バカヤロー」って叫ぶ時くらいの声を陸にいる僕に向けて放ってくる。
「お前はスゴいヤツだよ!だってよ、王様だぜ?そんなん、なりたくたってなれるもんじゃねえよ!お前のご先祖様は、この国を統べる王だったってんだからな。その血を引いてるお前がスゴくないワケがない!今にお前はビッグになって、ゆくゆくはこの国を変えるような男になるぜ!この俺が保証する!だいたいなあ、俺は一目見た時から思ってたんだよ、コイツはタダ者じゃねえな、ってさ!」
オーブンに顔を近付けたみたいだった。鼻の先がチリチリするくらい熱かった。マジに。なんて男だよ、コイツは。
「……ウソつけ。」
僕は呟いた。カリスは視線を逸らして頭を掻いた。
「能ある鷹は爪を隠すってヤツ?お前、覇気を隠すのが巧妙なんだよ。」
そうしてカリスはニヤリと笑った。
「アーク、こんなところでくすぶってんなよ。この国は広いんだぜ、いくら歩いてもすべてを知ることはできないんだ。それがお前さんの国なんだよ。人生一度きりなんだ、なんでもかんでもかじってナンボのもんだろうが。何なら俺が連れ回してやってもいいくらいだ。」
「ハハ、楽しそうだ。でも無理だよ、うちは金がないからね。それに我が家は百年間の流刑の最中で、どうやらこの島を出ちゃいけないらしい。親父はいつも言ってる。」
「なんじゃそりゃあ?もう誰も覚えちゃいないだろ、そんなの。……だが、金がないってのは仕方ない、俺もそうだ。」
カリスは僕から手を離して、しばらく考え込んでいたが、「おし」と手を打った。
「アーク、俺は近いうちにまた来る。そんで、その時には俺が撮った写真をうんと見せて、全部聞かせてやる。お前が大人になって一人でここを出られるまでは、俺がこの国を見せてやる。」
「マジ?」
僕は正直、その言葉に興奮を隠せなかった。外の世界、僕はそれを知りたかった。
「大マジだ。……だが、条件が一つ。」
カリスは指を立てた。
「何?」
今度は指でこっちを指す。
「お前は自分の生まれのことでうじうじ考えるのをやめろ。これからはむしろ逆、誇りを持てよ。今の性格で王様が務まるかよ。アーク――お前は王になれ。」
何から何までめちゃくちゃな男は、最後にとんでもない無理難題をふっかけてきた。王になれだと?この田舎のガキに?ばかげてる。
いいだろう、やってやろうじゃんか。余はアーク・ウエスト・〝テラレジア〟だ。
さすらいのカメラマンとの奇妙な交友が始まった。
約束通り、カリスはまた僕のところにやって来た。今度はたくさんの写真を持って。彼はその一つ一つを見せながら、これは写真で見るよりずっと壮大だったとか、この時はマジに大変だったとか、様々なエピソードを語った。時には家族写真を手に一人娘がどんなに愛らしいかを熱弁した。カリスは二人を家に残して僕のところに来てくれているのだから、少し悪い気もしたけどね。それから彼が何より多く語ったのは、相棒の男と一緒に数々の体当たり取材を敢行したこと。これはもちろん、大統領、ローガンのことだ。ローガンとの思い出を語っている時のカリスときたら、とにかく楽しそうで、「あの時は大喧嘩して困った困った」などと言いつつ、表情は笑っている。僕には親友はおろか、友人と呼べる相手すらいなかったから、その気持ちは分からなかった。それでも彼の顔を見ていたら、それがかけがえなく、素晴らしいものであることは分かったんだ。
ただ、ローガンとの近況を訊いた時だけはその表情が曇った。忙しくてなかなか会えていないらしいが、それだけではなかった。その時はよく分からなかったけど、さっきの話を聞いて分かったよ。カリスはきっと、ローガンに借金を繰り返す自分が不甲斐なくて、昔のような関係が失われてしまうのを恐れていたんだろう。やっと分かったよ、あの頃のカリスは、かなり無理をして僕に会いに来てくれていたんだ。
カリスが土産話を持って来てくれる代わりに、僕は家から様々な品を持ち出して来て彼に見せてやった。僕は物心ついた時から家中にそういうものがあったので特に何とも感じていなかったけれど、やっぱりとてつもなく珍しいものには間違いなかったんだ。カリスはどれも熱心に調べていた。特に文献の類は片っ端から目を通していた。彼がこのところ進めている王家についての取材で、これ以上ない歴史資料だったろうな。
正直に言って、カリスがどうして僕にここまでよくしてくれるのか、分かってなかった。僕がすこぶるネクラなことを言ったせいで、心配してくれたのかもしれない、根っからいい人だったんだ。僕は彼と何度も話すうちに、恥ずかしいけど――しょうもなしの親父に代わってカリスを父親みたいに思い始めてた。
そんな矢先だ、カリスが死んだのは。いや、殺されたのは。
アークは深くため息をついた。過去の思い出話を、今となっては空虚な交流を、こんなに長たらしく語ってしまった。大統領にそそのかされるままに、いいや、途中からは自発的に、喋り始めたら口がだらしなく、締まらなくなってしまった。これはきっとこの現実のせいだ。真っ白な中に二人ぼっち、向かい合って座って、時間の経過を認識する手がかりは何もない。こうなってきたら、長話を止めるものなんて何もない。時計が時刻を刻むから、僕たちは話にブレーキをかけることができるんだ。
「本題に戻ろうぜ。」アークは虚ろに座り込んでいる大統領に呼び掛けた。
「よくよく考えたら、こんなに長く話す必要なんてまったく無かったじゃないか。僕が長々と喋ったことは、つまり、『僕はカリスと出会った』という一つの事実だけであり、この場の説明をつけるにはそれだけで本当によかったんだ。それと、貴様が話した、『オーダーの者にカリスの動向を探らせた』こと、そして『オーダーはテラレジア王家を仇とする』という事実、この三つだけあればそれ以上要らない。なあ、そうだろ?」
大統領はアフロヘアを縦に揺らした。
「僕が頼み事をしたオーダーの諜報員は、カリスが王家について調べ回っているという事実を得た。そしてそれを『王政復古に向けた謀略』と判断した。それによって、オーダーは引き金を引くに至ったんだ。」
「『謀略』?」アークはその言葉が引っかかった。「待てよ、謀略って何だ?カリスがやってたのはド田舎のシケたツラしたクソガキと仲良くするってだけで、それを『王政復古に向けた謀略』だって言うのはいくらなんでも無理があるよな。そんなひどい理由で殺されなきゃならなかったのかよ!」
「ひどい理由なのは間違いないね。けど、それだけじゃないんだよ。カリスは王家について調べて回っていただろう。それはキミのもとを訪ねることだけでは無かったんだ。そこら辺、聞いていなかったかい。」
「王家にまつわる史跡をめぐった話は聞いたが、それだってただの観光じゃんか。どこに謀略の要素があるんだよ。」
「違うさ。それだけじゃないんだって。キミ言ってたろう、実家にある王家の文献をカリスに見せたって。それは王の系譜を辿る者にとってはマル秘情報の山さ。文献を紐解いていけば、現代で王の系譜を継ぐ者にも辿り着くことができたんじゃないかなあ。一人いるだろう、そういう子が、キミの近くにも。」
「エリセアか!?」アークは目を見開いた。「そうか、カリスはうちのカビ臭い史料を漁って、王家の血を引く人物に繋がる手がかりを得ていたんだな。それで、たどり着いたってのか、エリセアに。……いいや、アイツはあの頃十二ばかりのちんちくりんだったんだから――その家族、メノブロード家に。」
「そうさ。……ええと、今のキミはどこまで思い出してるのかな。プリンセスは王家の遠戚にあたるメノブロード家の娘ちゃんで、そのお姉さんはフェルドくんの親友、つまりあの二人は同郷の幼馴染で……」
「だが、フェルドはその姉貴と、同じく親友の男、二人を殺した容疑で十年間ムショに入れられてた……だな。思い出しちゃいるんだけど、肝心なところが分かってない。食い違ってるんだ。元々エリセアは『自分は孤児で清教会に引き取られた』って言っていたし、フェルドとダチの間に何があったってんだ。本人は『記憶が曖昧だ』って言ってるが、それは単なる錯乱のせいなのか?そしてカリスはメノブロード家とどんな関わりがあったっていうんだ?曖昧なんだよ、何もかも、大事なところが。エロ本の袋とじだってもう少し肝心なところを見せてくれるだろうが。」
「フフ、キミの喩えは面白いね。」
「適当抜かすな。」
「焦ることはないよ。さっきも言っただろう、すべては一直線につながったことなんだから、ゆっくり追っていけばいい。幸い、ここにいるうちは時間がたっぷりあるんだから。それにさ、アークくん。曖昧で引っかかることと言えば、もう一つあるだろう。」
大統領は人差し指をするりと掲げた。
「何だよ。」
「キミは常々『島では一人で暮らしてきた』と言っていたよねえ。さっきの話を聞く限りでは、辺鄙な一軒家、家族との不和、友達がいない、それをもって『一人ぼっちだった』と言うこともできるかもしれない。だが、そうじゃない。キミは本当に『一人ぼっちだった』はずだ。そしてキミは今、自分は『テラレジア王家当主』だと名乗っている。とすると不思議なんだよ。おや、キミの親父さんやお袋さんはどうしたんだろう。十一年前、キミが十六歳の時には確かにご両親がいた。けれども今はいないと言う。そのどちらも事実だとすれば、キミには空白の十年間がある。『アーク・ウエスト・〝テラレジア〟はどうやって生きてきたのか?』ということだよ。」
アークは愕然とした……が、それは自分でも説明つかない自らの空白を突き付けられたからではない。むしろ、その事実をまざまざと見せつけられたことで、ある考えに至ったからだった。
「曖昧?……そうだ、曖昧と言えば曖昧だ。自分でも、自分のことが、曖昧なんだ。だが、それでふと思ったことがある。憶測に過ぎないことではあるけれども、その考えは、一応筋は通っているんだ。僕の人生の空白について、僕自身曖昧である。それからフェルドは、自分が親友二人を殺したということについて、その夜の記憶は曖昧だ。それにエリセア。メノブロードという姓で、家族の記憶もハッキリしているのに、それ以前は孤児だと言っていた、その曖昧!曖昧、曖昧、曖昧、みんな同じだ、同じなんだ。これが偶然ってことあるか?……かき消されたんだ、誰かに、認識を!ハハ、突拍子もない話だって思うか?でもさ、一つだけあるだろ、方法がよ。人の認識を歪め、記憶すら曖昧にさせる――現実に呑まれるって、やり方が!」
そうしてアークは改めて目の前の男を睨む。
「こっから先は当てずっぽうの博打だ、間違ってたら悪い。だが、限りなくクロなんで言わせてもらう。すべての元凶は……貴様だな、ローガン・モルド!証拠は一つ――今もこうして僕たちを貴様の現実の中に取り込んでいることだ!」
「……結構だ。」
大統領は指で丸を作った。「ピンポーン」って効果音くらい、この現実にも取り付けておくべきだったね。
「結構だよ、アークくん。それだけ思いつけば十分だ。この先の話は単なる答え合わせになる。勿体ぶるのもよくないし、そろそろ話の続きといこうか。長い長い話を『みたび』聞かされる身を思うと、ちょっとは申し訳ない気持ちもしてくるんだけれど、これが本当に最後だ。点と点がつながる、一直線に。前置きが長くなったけど、要はそういう話ってこと。」
僕は例の知り合いがまとめた報告を読んだ。カリス・ライカは大西洋の島に何度も出向いて、百年前に王が流されたという土地を訪問している。その他にも各地をめぐって取材をしているらしいが、極めつけは、北部の小都市で王家の血を引く一家に接触したということ。すなわちメノブロード家だ。
カリスはキミの実家にあった文献をもとに王家に縁がある者を探し出した。カリスとメノブロード家の父親――つまりプリンセスのパパとはすぐに意気投合したようだ。執念く追い続けた甲斐があったってものだ、カリスは喜んだだろう。メノブロードのパパはパパで、自分を王家の末裔と見とめてくれたカリスを信頼した。そうして、俄然調子づいたみたいだ。メノブロードのパパは元々、自分がわずかながら王家の血を引いていることをささやかな誇りとしていたのだけれど、カリスと出会ったことでその心に火がついたみたいだ。自分は王になれる、こんなつましい暮らしじゃなくて、華やかな宮廷の暮らしが得られるんじゃないか、そんなやさしい夢を見たんだ。そしてそれは、オーダーが『王政復古に向けた謀略』と捉えるには十分なものだった。
オーダーの諜報員は報告を僕だけでなく本部にも回した。まもなく、彼らを警戒したオーダーは『処分』のオーダーを発令したんだ。標的はメノブロード家。パパだけでなく、一家全員。血は絶やさなければならないんだからね。そして、それを扇動したカリスも。オーダーの動きはとにかく早く、周到だった。僕なんかが付け入る隙は無かった。カリスには連絡もつかない。僕にできたことといえば、「Xデー」の情報を入手して、同じ日に現地へ赴くことだけだった。作戦決行前にみんなを逃がす、そのわずかな希望に懸けて。失敗すればもちろん僕だってタダじゃ済まないことだ。
オーダーの実行部隊は少数精鋭で迅速に目標を達成する。その日の作戦は人が寝静まる夜に一家丸ごと抹殺するという単純なものだ。……だが実際は、手際のいいオーダーにしては珍しく、しくじった。四人家族の両親は難なく討ち取ったが、娘二人はそうはいかなかった。長女は逃げ出し、次女――プリンセスに至っては家に居なかったんだ。どうして作戦はうまくいかなかったんだろう。どうやら、一家の周りにオーダーの影を目ざとく察知した勘のいいヤツがいたようだ。
だが依然として実行部隊は優秀だ。彼らはすぐに逃走した長女の追跡、次女の捜索に入った。僕の方はというと、それでにわかに希望が湧いてきたんだ。それまでは指を咥えて見ていることしかできなかったけれど、作戦が崩れた今、娘ちゃんたちだけなら助けられるかもしれない。今となってはオーダーなんてクソくらえだ、あんな人でなし共に罪のない子供たちが殺されていいもんか。僕もオーダーの実行部隊に協力するフリをして長女を追いかけた。
逃げる長女は一人きりじゃなかった。親友の男の子が一緒だったんだ。なるほど、オーダーの影に気付いたのはこの幼馴染か。だがこのままでは二人とも殺されてしまう。なんとか、僕だけ追いついて、二人を匿わなければ……。
だけど、ダメだった。僕はいつもぐずでのろまで、肝心な時にしくじるうすのろなんだ。実行部隊の一人が追いつく方が早かった。夜の街に銃声が二発、少年少女の命はせまっ苦しい路地裏でぽろりとこぼれ落ちてしまった。
運動不足のおっさんがぜえぜえしながら追いついたその場所は、常軌を逸していた。倒れている三人分の人影、手を繋いだ男の子と女の子――そして、実行部隊!?
ぐったりと倒れる隊員の上には、何かがのしかかっていた。そいつが隊員の男をメッタ打ちにしているんだ。僕ははじめ、それが小さめの熊か何かだと思った。熊なんてのは、山道を走っている時に遠巻きにちらっと見たことがあるくらいなもんだけどさ、その時のそいつの獰猛さときたら、きっとそうに違いないって直感したんだ。
ところが、こんな街中に熊が出るはずもない。隊員に馬乗りになっているのは人間だった。それも、少年。明るい茶髪をバサッとさせた男の子。僕はその光景を信じられなかった。少年は、隊員を一方的に殴り続けていた。喧嘩なんてものじゃない、限りなく一方的な、狩りだ。隊員にもう意識はなさそうだった。仮にも軍隊式の戦闘訓練を積んだ屈強な戦闘員の男が、タダのガキにされるがままだって?信じられない。でもそれが現実。
少年はやがて、路地の真ん中に立っている僕に気が付いた。ゆっくりを顔を起こして、それだけで獲物を射殺すような視線を向けた。頬にはあり得ないくらいの血が飛び散っていて、あれは一体誰のものだ?僕は一気に血の気が引くのを感じたよ。
こりゃあ、マズいことになった。
すぐに近くの隊員が駆けつけてくる。この不可解な状況を見て驚くだろうが、さりとて、すぐに次の行動に移るだろう。すなわち、現場に居合わせたからには仕方がないと、この少年を殺す。またしても、僕の前で罪のない子供が殺される。
あの二人はもう助からない。だが今ならまだ、少年だけは匿うことができるぞ。……いやダメだ、隊員の一人を倒した犯人の説明がつかない。それに倒された隊員は確かにこの男の子を見ているんだ。だから今さら助けることはできないんだ。
また一人、ゲロ以下のクソ共のせいで命を奪われる……。
僕は頭を抱えて後ずさった。……と、その時、僕のかかとに何かが当たった。振り返って見ると、それは拳銃。実行部隊が二人を撃ち殺すのに使った凶器そのものさ。まだ、少しだけ辺りには硝煙の臭いがした。そんな折に、銃を見下ろしていた僕は思いついた、思いついてしまったんだ。おそらくはたった一つしかない、目の前の勇敢な少年を救う手立てが。
僕はすぐさま彼に駆け寄って、膝をつき、彼の両肩に手を置いた。人間と呼ぶにはあまりに凶暴な目つき、これが目の前で親友を殺された者の目だ。激しい怒り、憎悪。だが、感情が表に出尽くしている、その向こう側は、空っぽだ。これなら簡単だ。
僕は彼の目を見つめて、決して逸らさなかった。そうして、小さく息をついた。これで十分だ。少年は丸っと僕の現実で包み込まれた。次に正気に戻る時は、僕が言ったことしか覚えていないだろう。
「忘れるんだ、キミが見たものは全部。そこに倒れている二人は、キミが殺した。キミは大切な親友を殺したんだ。」
彼はピクリともしなかった。仕上げに、僕は転がっていた拳銃を拾い上げて、彼の手に握らせてやった。これも難なく受け入れ、彼は両手で銃を握りしめていた。
そうだ、これでいい。
まもなく実行部隊の残りがやって来た。目の前の惨状について、僕は今しがた作り上げた嘘っぱちを語って聞かせた。よくよく考えれば無理のある話だけれど、彼らは切羽詰まっていたからね。ぐずぐずしていると発砲音で通報を受けた警察が来てしまう。彼らはみんな僕の言う通りにしたよ。結局、彼らは意識を失った仲間だけを抱えてとんずらこいた。
去り際に、僕はもう一度彼と顔を合わせた。半分は、しっかりと現実に呑まれているか確認するため。もう半分は、無事にクソ野郎の仲間入りを果たした僕が最後の謝罪をするため。
少年は、これから警察に確保される。駆け付けたお巡りさんにだって、すぐに状況は読めるだろう。彼は殺人罪で牢にブチ込まれる。いくら未成年とはいえ、罪のない親友を二人も、しかも法律違反の銃で。証言台では事件の夜をほとんど覚えていないと供述するだろう、なんて邪悪なのだと、裁判官は思うかもしれない。
十年、十年は放り込まれる。だがそれがいい。十年もの間、オーダーは塀の中の彼に手出しできない。そして十年あれば、僕は有力な政治家となってオーダーの中枢に食い込むこともできる。彼がシャバに出てくる頃には、オーダーの発令を自由に操るだけの権力を手にしているだろう。そうなったら、最低のクズ共には彼に指一本触れさせるものか。だからこれでいいんだ。
「キミの名前は。」
「フェルド・スター……。」
「フェルドくん。僕はローガン・モルド。キミから大切な親友を奪い、あまつさえキミを牢屋にブチ込む最低最悪のクズな男だよ。」
「はあ。」
「申し訳ないが、キミは僕のことも忘れる。だけど、僕は絶対にキミを忘れない。今度会う時は、絶対にキミを守ってみせる。絶対、絶対にだ。」
こういう時、僕はいつも情けなく声が震える。
「守る?……そうだ、エリセア。アイツのところに行かねえと。」
それを聞いて僕はハッとした。エリセア、僕は例の報告書を隅から隅まで読んでいたから、それがメノブロード家の次女ちゃんのことだとすぐに分かったよ。
そうか、この子が助けたんだ。立派だ、立派だぞ。
「エリセア、あの子はどこにいるんだい!?大丈夫、僕が必ず助けるから!」
「五番通り、酒屋の裏のパティオに、俺たちのたまり場があって、そこの物置小屋に隠れてろって。俺が戻って来るまでは何があってもそこを動くなって言ってある。」
よかった、もう一人の娘ちゃんは無事だ。僕は誰一人助けられなかったけれど、その子だけは助けてみせる。フェルドくんのためにも、絶対にそうしなきゃいけないんだ。
僕は彼を置いてその場を立ち去った。そうしてすぐに言われた通りの場所に行って、物置小屋の隅でうずくまっている小さな女の子を見つけた。僕を見上げたその目は怯えていたよ――僕の力を使うのは容易いことだった。
メノブロード家は一家心中、二人の殺害はのちにフェルドくんの犯行で判決が確定した。僕の問題は、たった一人生き残った小さなプリンセスをどうするかってことだった。民間の養護施設は足がつく、何より僕が見知らぬ女の子を預けたとオーダーにバレたら一巻の終わりだ、ここはもっと、オーダーの手が届きにくくて、治外法権が効くようなところ……そうだ、バロン大聖堂の尼寺がいい。孤児が尼になるってのは現代でもままある話なのだし、何よりあそこは清教会の権力が強く、閉鎖的で地元警察もほとんど手を出さない。尼になれば名字を棄てられるってのも都合がいい。そういうわけで、エリセア自身自分が元々孤児だったと信じさせて、彼女を尼寺に預けたんだ。その時のエリセアが十二歳、尼寺を出るのは二十二の頃だから、ちょうど十年から十一年後。そうなれば彼女のことも僕が守ってやれる。
さて、血塗られた夜を越えてから、僕はあらゆる手立てを尽くしてカリスと接触しようとした。カリスは少し前から全くの音沙汰無しになっていた。カリスって男はあれでいて結構切れるヤツで、自分のことを嗅ぎまわっているヤツがいることに早くから気付いていたのかもしれない。そうでなくとも、メノブロード一家の不審な死を知ったなら、勘のいいアイツなら殺気立ったことだろう。僕に連絡がないのもその一環らしかった。少なくとも死んでいないことは確かだ。そうなればオーダーから報告が上がって来るんだからね。というかオーダー自身、僕の身の回りを探っているようで、カリスに対して攻めあぐねているのが見え見えだった。
なんとかして僕が先にアイツとつながらなければ。行方を捜すと言ったって、アイツの家に連絡するのはダメだ。今はかろうじて執行対象から外れているカリスの奥さんや娘ちゃんが、僕のヘマで標的に加わるなんてことがあったら自分を呪っても呪いきれない。そもそもカリスは普段から家族にすら行き先を伝えないのが常だし、第一、僕は二人と面識がないんだから。
僕がぐずぐずしているうちに、事態はさらに進行する。オーダーは暴走機関車になった。ついに島流しのテラレジア本家までもが標的になったんだ。アークくんたちにしてみればとんだとばっちりだが、オーダーとしては頃合いを見計らって王族は途絶えさせておきたかった、それが今になったということなんだ。
もちろん僕だって黙ったいたワケじゃないが……まあ、今さら何を言っても無駄か。結局僕は止めることができなかったんだからね。それでも僕はかろうじて、カリスを海外に高飛びさせる手筈だけは整えておくことができた。テラレジアとフェデライトを離れてしまえば、ヤツらにも手出しはできない。テラレジア王家から離れて大人しくしていれば、そのうちオーダーの警戒も緩くなるはずなんだ。あとは、本人と連絡がつけばいい。一番肝心なところでありながら、こればかりは僕からはどうすることもできなかった。ただ、待った。その時が来るのを待ったんだ。その間にもオーダーの作戦準備は着々と進んでいった。
果たして、その時はやって来たんだ。静かな夜だった、僕の家の、電話のベルが鳴った。この時間に仕事関係の連絡が来ることは滅多にない、オーダーは機密事項の連絡に電話を使わない、そうなれば相手は決まっている。僕は受話器を上げた。
「もしもし!?」
「よっ、大統領。俺だ。まだ起きてたかよ。……良かった、良かったぜ。」
「カリス!お前だな!?今、どこにいる!?」
「まあそう慌てなさんな。しばらく連絡しなかったのは悪かったよ。積もる話をしたいのは山々だが、手短に話すぜ。使える小銭が限られてるんでな。」
「その公衆電話の番号を教えろ、どこかに書いてあるだろ。すぐにこっちから掛け直す。」
「いいんだ。そんなに長い話じゃねえ。どちらにせよ、この小銭が切れるまでの間に俺は話を切り上げにゃならないんだからな。しばらく連絡しなかったのは、こっちでちょっとした厄介に巻き込まれてさ……」
僕はアイツの言葉を遮った。
「カリス、聞いてくれ。」早口でまくしたてる。「あの家族は死んだ、心中じゃない、殺されたんだ、王家を憎んでる連中の手によって。連中は次の標的を島の本家に定めていて、カリス、お前のことも狙ってる。分かるか、殺されるちゃうんだよ、お前。今さらどうしようもない、止められない……クソッ!……カリス、許してくれ、こうなってしまったのは……」
「知ってるさ。俺は分かってる、全部。流石大統領閣下、お前に説明する手間が省けて何よりだな。ハハ。」
「なあカリス、南米に行こう。手筈は僕が整えた。絶対にうまくいく、間違いない。向こうにだって楽しいものはきっとある、僕たちだってこれが今生の別れってワケじゃないさ。だから、そうしよう。君だけは何としてでも……」
「ローガン、ローガン。」カリスは何度も僕の名前を呼んだ。「だから落ち着けって。どうして電話を掛けたヤツより受けたヤツの方がたくさん喋ってるんだよ。いいから少しは俺の話も聞いてくれや。」
僕の口がぱくりと閉じた。カリスはほっとしたように息をついた。
「ローガンさ、お前に借りてた金、いくらくらいになるっけ。取材先の些細な飲み食いの分まで含めたら、俺の方じゃもう数えきれないんだ。悪いね。うちの中で、俺の部屋にある物は全部お前にやる。カメラとか、旅先の『土産物』とか、売ればそこそこの小金にはなるだろうよ。間違ってもケチな質屋になんか出すんじゃねえぞ?それでも俺が借りた分には到底足りないだろうが……頼む、アイツらからは何も取り立てないでやってくれ。遊び回る親父に振り回されて、苦労ばっかりさせられてきたあわれな母子なんだよ。」
「僕がそんなことするワケないだろ。第一、僕は『貸した』んじゃない、『返した』だけなんだよ。」
「それと、ついでと言っちゃ難だが……アイツらのこと、頼まれてくれねえかな。自慢じゃないが家内はいい女だ、ちと気が強いけどな。カノンは、俺より立派になるぜ。子煩悩じゃなく、マジにそう思うんだ。誰にだってアイツらをやるつもりは毛頭ないが、お前以外に任せられる相手はいない。」
「あんまりバカ言ってると怒るぞ。あの二人のパパは、世界中でお前一人しかいないだろう。」
カリスは僕の返事なんか聞いちゃいないって感じだった。答えてる時間が無かったんだ。
「あと、もう一つ。最後になるが、これが一番大事なことだ。……ローガン、お前とはいろいろやったよな。俺が何を言い出しても、お前はぶつくさ言いながらついて来てくれた。傍から見れば俺はお前をいいように振り回してただけかもしれないが、俺はこれで頼りにしてたんだ。認めるよ、俺はお前がいなきゃここまでやれてない。……あれからもう何年になるかな。あの日、王城の丘で、お前と会ったのは、間違いなく俺の人生で最大のファインプレーだった。なんでだろうな、不思議なんだ。例え、俺が何度あの一日を繰り返したとしても、俺は必ずあの丘に行くし、お前もそうするだろう、そんな気がするんだ。……ローガン、本当は直接言うべきなんだが、次にいつ会えるか分からないから、ここで言わせてくれ。俺は――」
「聞きたくない!どうかしてるぞ、今日のお前!いいから僕の言う通りにしろよ!」
カリスはフフッって、寂しく笑った。
「お前は政治家にしちゃ心が弱いところがある。そんなんじゃ大物にはなれないぜ。俺はお前を初めて見た時にピーンと直感したんだ、コイツはビッグになる、ってな。」
「……ウソつけ。」
「ハハ、能ある鷹は……何とやらだ。ローガン、お前は大統領になれ。」
「もうたくさんだ。」僕は言われたそばから情けない声を上げた。「お前の世迷い言は聞き飽きた。頼むよ、僕の願いも聞いてくれ。お前はいつだって見切り発車のイノシシ野郎で、僕の言うことなんかちいっとも聞いてくれやしなかったじゃんか。少しくらいはいいだろう、なあ。せめて教えてくれ、カリス、お前は今どこにいるんだ。」
カリスはすぐに答えなかった。僕は電話が切れちゃったのかって、マジに焦った。何度も名前を叫んだ。そうしてアイツは最後に住所を言ったんだ。それは王が流されたというあの島のものだった。
本土の港からフェリーで二時間、漁民や農民たちが暮らすのどかな島。僕はただならぬ顔つきでその島に上陸したんだ。
カリスがこの場所を訪れた理由、それは決まっている、王家の末裔という一家を救い出すためしかない。だから僕はオーダーの作戦計画に記されていた、島外れの一軒家がある場所へ急いだんだ。
キミの故郷は、そうだねえ、僕の目には「寂しい場所」に映ったよ。人っ気がなくて、遥か崖下で波はザパザパ打ち付けていて、止まない風は背の高い草をざわつかせている。大西洋に沈む夕日を眺めるにはいいロケーションかもしれないが、それだけだ。
結果はまあ、言うまでもないね。僕は「またしても」手遅れだった。一軒家の前には兵員輸送用のトラックが停まっていて、オーダーの実行部隊は既に突入した後だった。僕は一面の草むらの中に潜んで遠巻きに様子を窺った。中にいた家族はもう殺されてしまったろうか。カリスはどこにいる?
僕は草むらに隠れながらにじり寄った。部隊は今、建物から出てきて辺りをうろついている。彼らは分散して念入りに草むらを見回している。明らかに何か探している風だった。察するに……標的が逃げ出したか?
その時、僕は自分の周りの草むらのおかしなところに気が付いた。いくらかの草は一方向にぐったりと倒れ込む形になっていて、葉っぱに土がついているものもある。それが一直線に、奥まで続いているんだ。これが獣道というやつか?いいや、今しがた通りましたって風だ。僕は身を屈めてゆっくりとそこを辿った。
身を屈めているってのに、何度か倒れそうになった。足元がゼリーでできてるみたいにグラついたんだ。草っぱらが揺れるみたいに、胸の内のざわめきがどんどん大きくなっていく。どんな障害物競争だって、こんなに苦しいコースはないはずだ。
最低の予感がした。それは直感ではなく、現場の観察と推論から成り立っているもので、限りなく正しいことなんだ。
這いつくばった雑草の先に、誰かが匍匐状態になっているのを見つけた。僕がその人影を見間違えるはずはなかった。長年連れ添った、心の友の姿を。
「カリス!」
「ローガン、お前……」
良かった、生きていた!
「バカお前、なんで来たんだよ……」
「当たり前だろ!来ないはずないじゃんか!」
僕はアイツが掲げた手を掴んで、そのままくるりと身体の向きを変えてやった。
露わになったお腹の側は、お馴染みの衣装がべったり汚れてしまっていた。僕は最初、それは泥だと思った。だけどそれは僕がそう思い込もうとしていただけなんだよね。カリスは顔中汗びっしょりで、それでいて頬はいやに青白かった。
「カリス……まさか、ケガしてるのか?」
僕の方も血の気が引いた。
「ハハ、平気だ、こんなん。」
先日目にした、フェルドくんの二人の親友の姿が脳裏によぎった。
「……ローガン、本当に、お前、なんだな。ああ、良かった。」
「そうだ、僕だよ。だから少し静かにしていてくれ。」
僕は応急処置とは呼べそうもないおままごとをしたよ。
カリスは「そういうのはいいから、聞いてくれ」と僕の手首を掴んだ。
「放せったら。」
「いいんだ、聞いてくれ。お前に頼みがあるんだ。お前にゃ頼りっぱなしだが、これが最後だからな。いいか、ここより岸壁伝いに南に行ったところに、昔使ってた井戸の跡がある。そこに行くと、きりっとした目つきの子供が隠れて俺を待っているんだ。そいつはテラレジアの王子様なんだぜ。いいヤツだ、ずっとお前に会わせてやりたかったんだよ。こんな形になったのは残念賞だが……。後生だ、そいつをヤツらから守ってやってくれ。助けてやってくれ。危険なことだってのは分かってる、だけど今となっちゃ、お前にしか頼めないんだ。」
「大丈夫だ、助かる。必ずだ。」
僕の手が真っ赤に染まっている。アイツの体温で濡れている。
「なあ……二人で一緒にいろんな景色を見たよな。お前がいてくれたからあれだけバカやれたんだ。楽しかったよ、一つも後悔はないぜ。……アイツはさ、まだ島の外の世界を知らないんだ。そういう景色を、アイツにも見せてやりたいんだよ。頼むよ、なあ。」
それは、僕にとっても難しいことだった。だけど断るはずなかった。
「……任せろ、約束する。」
「ああ……ありがとう。愛してるぜ、ローガン。」
僕はもう、手に力が入らなかった。
「僕もだよ。」
草むらの向こうから音がした。部隊がすぐそこまで迫ってるんだ。
カリスは空を見上げたまま、次第に呼吸も浅くなっていく。それなのに、その最後の息吹がやけに大きく強く感じられて、それだけでヤツらに気付かれてしまうんじゃないかって思ったくらいだ。
「……ローガン?」
「何だい?」
「やっぱも一つ頼んでいいかな?さっきは平気だとか言っちまったけど……本当は痛いしつらいんだ。助けてくれ。」
こういう時、普段からサングラスをしてるってのは便利なんだよね。
僕はもう立ち上がっていた。隊員は僕に気付いて、面食らって駆け寄る。
「モルドさんですか?なぜあなたがここに?……!それは!」
彼は僕の足元で倒れている男を見つけて銃を構えた。
「……貸しなよ。」
「は?」
「その手に持ってるものを貸してくれ。」
マスクとゴーグルで顔を覆った隊員の顔は分からないが、彼は釈然としないままにサイレンサー付きの自動小銃を差し出した。
一発、それだけで十分。
「キミたちは肝心なところで詰めが甘いんじゃないか。内戦時代を経験してない若者ってのはこういう時に弱いよねえ。」
「申し訳ございません……。」
僕は小銃の安全装置を入れ直して突き返してやった。
「これは処理しておきなよ。現場は……雨風が洗い流してくれるだろうね。家はそのままにしておきなよ、他の手がかりを探しておかなくちゃ。それで、状況は。」
「標的D、すなわち、一家の息子が発見されていません。突入直前に建物を脱出した模様、現在捜索中です。」
「馬鹿なのかキミたちは。子供のかくれんぼに付き合うつもりなのかい?潜伏場所は既にこの男から聞きだした。それより、作戦に参加している全員をここに集めてくれるかい。」
「全員ですか?」
「全員と言ったら全員だ、分からないのかなあ。急げよ。」
「はっ。」
そうして実行部隊の全員を僕の前に並べさせた。これは僕にとってちょっとした賭けになるが、こうするより他はなかった。結果は、大成功だよ。彼らは全員僕の現実にかかった。
「作戦は滞りなく遂行された。死体は現場で処理、それと、この場に僕はいなかった。そうだよね?」
「イエス、サー。」
「報告書は今晩中に仕上げなよ。」
万が一にも正気に戻られてもらっちゃ困るんだ。
簡単なものだよね、ホント。
大統領は語るのをやめた。口の端から笑いが漏れた。その笑いが示す感情は、大統領自身でも説明することができなかったけれど。
代わりに大きく口を開いたのはアークだった。
「ああ……そうだったよ。」アークは目を閉じて頷いた。「僕は崖のずっと遠くの方から、それを見ていたんだ。家に押し入る完全武装の男たち、僕の両親を助け出そうとしたカリスは撃たれたんだ。全部、見ていたんだよ。ローガン、貴様というヤツは、とんでもないことを『忘れさせてくれた』なあ。」
「今でも昨日のことのように思い出せるよ。」
「その後、貴様は隠れ場所に現れたんだ。」
「そうさ、僕はキミと初めて出会った。カリスが最後まで気にかけていた少年、命を懸けて守ろうとした人間、心を寄せ続けた男……それがどんなヤツなのか、僕は確認しないではいられなかった。第一印象は――なるほどこれが王家の子孫か、でも普通のガキと大差ないね、って感じかな。だけど一つだけ特別だったのは、キミは僕を前にしても逃げたり、怒りに任せて向かってきたりしなかった。ちょうど今みたいに向き合ってさ、見つめ合っていた。キミは『覚悟』、そういうものを滾々と湛える強い瞳を一心に向けていたのさ。どうしてだろう、それで僕は、キミを信じられる気がしたのさ。」
「だが貴様は、その力を僕にも使った。」
「ああ、そうだよ。」大統領は肩をすくめた。「一度始めた計画は、最後までやり遂げねばならない。」
「僕はキミに今日のできごとの一切を忘れさせた。鉛玉を撃ち込まれ、まるっきりひっくり返された家のことも特に気にしないようにさせたよ。オーダーの連中を嘘で丸め込んだ今、ヤツらが再びこの島にやってくることはないだろう。これまで通りここで暮らしていけば安泰だ。だがそれじゃあ、カリスとの約束を果たせていない。この子にテラレジアのすべてを見せてあげなければならない、そのためにはほとぼりが冷めるまでの時間が必要だったし、万が一生存がバレた時には、僕に抹殺のオーダーを握りつぶせるほどの権力が必要だ。何かいい手立てはないものか……。そこで僕はキミの中に眠るある認識に気が付いたんだ。王家の末裔であるキミは、王家に百年の流刑が言い渡されたこと、その刑期が残り十年くらいであることを知っていた。普通なら『バカバカしい、今すぐにでも島を出てってやる』と思うんだろうけどさ、すごく幼い頃からその知識を持っていたキミは、心のどこかで『この流刑が終わったら本土に行ける』と希望を抱き続けているようだった。この認識は、使えるぞ。僕はそう思った。僕はキミの中にあるその考えを、とてつもなく強いものにしてやった。『十年間は島を出られない』そういう『呪い』をかけたんだ。」
「『呪い』だと……?」
「考えてみればさあ、ヘンな話じゃんよ。アークくん、キミは王政廃止から百年の節目に首府に舞い戻ってきた。それは確かにこの上なく印象的なニュースではある。とはいえ、実際のところ、百年目を待つ必要なんかなかったじゃないか。昔こそテラレジア王の動向は新政府によって逐一報告がなされていた。でもそういうしち面倒なことはあっという間に廃れてしまうもので、今は誰も王家の子孫のことなんか気にかけちゃいないじゃないか。十六歳の少年ともなれば威勢よく家出することもできなくはないさ。……けれども!キミは待ち続けた。既にして虚仮なる刑罰が終わるその時を、十代二十代の盛りを投げうってまで。こんなの呪いでしかないだろう?……それも全部、僕がかけた力によるものなんだ。僕はキミの現実をこう操作した。『キミは悲惨な事件の一切を忘れ、両親のことは思い出さず、うち廃れた一軒家で平凡に暮らし続ける。誰とも交わらず、誰の気にも留められないように行動し続け、ただ一人隠遁する――百年の流刑が終わり、本土の土を踏むことが許されるその日まで。』」
「もうこれ以上聞きたくないって感じかな」大統領は呆れた風に首を振った。
「ひどいよな、あんまりだよな、全部僕がやったんだ。でもこれが一番いい方法だったんだよ。事実、その後僕は死に物狂いで頑張ったんだ。この身をオーダーに捧げ続け、この国で最高の政治家として、大統領にまで上り詰めた。僕はやったんだよ!すべてはアークくんや、フェルドくん、カノンちゃん、プリンセス……そして、キミたちを僕に託したカリスのためさ。僕は最低最悪のクズ野郎だけど、少なくともウソつきにだけはならなかった。怒ってくれていいよ、別に僕は赦されるためにやったんじゃないからね。」
「分かったよ、言いたいことは。」
アークは吐き捨てるように言った。
コイツの話し方は妙に突っかかってくる。魚の小骨が喉につっかえるみたいだ。懺悔したいのか、相手を煽って怒らせたいのか、絶望でも与えてやりたいのか、寂しさを分かち合ってほしいのか、勇気を自慢したいのか、よくできたねと褒めてもらいたいのか。手で回すとパタパタ絵が変わるおもちゃより忙しない。
「もういいよ、もういい。ローガン貴様は、本当に手に余る男だ。貴様がいたからカリスは仕事をやっていくことができて、僕はアイツと出会うことができた。だが貴様がいたからカリスは殺されるハメになった、でも貴様のおかげで僕はこうして生きている。だけど貴様は僕の進む道に立ちはだかる一番大きな壁だ。大貧民ってのは、自分が革命を起こせる手札を持っていると、必然的に相手も革命が使える可能性が増すものだが……だからといってここまで引っ掻き回されるゲームもないだろ。」
「自分でも、うんざりしてるところだよ。」
大統領はもうお手上げ。
「だけどさあ、おまけにもう一つだけやらかしたんだよ、僕は。十一年前、あれだけ『忘れるものか』と胸に刻み込んだはずのキミたちのことを、僕は一時だけ忘れてしまっていたんだ。そしてその一瞬が命取りだった。……あの日のことさ、チェフル大聖堂で聖遺物の御開帳式典が開催された時のこと。僕も参列した式典の最中にキミは颯爽と現れ、自らの正体を大暴露した。それにあろうことか、あの場には僕にとって因縁深い四人が全員揃っていたってんだからねえ。こりゃ、悪夢のミルフィーユかと思ったよ。もし僕が、アークくんの『呪い』が解ける日を間違いなく覚えていたら、フェルドくんの釈放される日を覚えていたなら、オーダーに察知される前にキミたちと接触し、匿うことができただろう。いや、必ずそうするつもりだったんだよ。ところが……もう、本当にどうしようもないヤツ!肝心の当日になって、そのことは僕の頭からすっかり抜け落ちていたんだ。大馬鹿野郎だよ、僕は。」
「どっちみち僕は王政復古を目指すつもりでいた。」
「それだよ、それ!」大統領は突然指を突き付けた。「その考え!意志!それこそが最大の『呪い』なんだ。」
「はあ?何言ってんだ。」
「分かんないかなあ」と大統領はアフロヘアを掻きむしる。
「僕はキミの中にあった『王家として流刑を全うしようとする気持ち』をハチャメチャに強めることで島に閉じ込める手段とした。だけどその考えは一方で王家としての責任とか自尊心に直結するものでもあった。つまり僕は、後者をもハチャメチャに強めてしまったんだ。言ってること分かる?『王政復古しよう』というキミの尋常ならざる堅い意志はさ、僕が作ったものなんだ。『呪い』なんだよ。」
「は……?」
アークは同じ言葉を繰り返す。さっきほどの余裕が無い。
「ごめんよ、本当に。」
「寝言言ってんじゃねえよ……」
「寝言じゃない。……確かに真実の世界の僕は寝てるけどさ。」
アークは前のめりに立ち上がって大統領のシャツの胸ぐらをつかんだ。
「僕の意志は僕のものだ!!デタラメ言うのも大概にしろよ!!」
こんなに顔を近付けているのに、サングラスの向こう側は絶対に見えなかった。コイツの目が文字通りの節穴なんだって言われても信じられるくらいだ。
大統領は落ち着き払って「信じられないのも無理ないよ」と諭した。
「意志というものは、目の前の状況に対する認識があって成立するものなんだぜ。それを僕は……キミの現実をいじくってしまったんだから、つまりは意志も歪んだってことさ。」
「黙れ!!」
「アーク!お前は最初っから僕の手の中で踊ってるだけなんだよ!!」
大統領はアークの手首を掴んだ。既に掴む力が弱まっている彼の右手をシャツの襟から引き剥がす。
「ウソだ……。」
アークは一人でに後ずさる。大統領は立ち上がって肩に手を伸ばす。
「分かったろ、これでもう。……もういいじゃないか、王家なんて。フェルドくんとキミは、本当に最高のコンビだ。僕はキミたちを見てると、無性に昔の自分たちを思い出して、思わず顔が赤くなっちゃうくらいなんだぜ。カノンちゃんは本当に立派に育った。奥さん似の美人さんだけど、性格はめっぽうカリスに似たよ、な?あの子はキミのことを本当に尊敬しているし、フェルドくんとは……結構いい感じだって思わない?彼ほど強くて根の優しい男だったら、カリスも認めると思うんだな。プリンセス……ううん、エリセアちゃん、強くなったよ。お姉さんにピッタリくっついてた頃から見違えたねえ。あの子はね、王としてのキミではなく、ただアークという男を心から愛しているんだよ、そのことはキミも分かってるはずだ。僕にとって大切な子供たちが、偶然――ホントに偶然なんだぜ?出会って、仲良くなったことは、僕にとってもこの上なく嬉しいよ。いつまでもこのままでいてほしい、それが僕にとっての幸せだ。……ねえ、どんな世界で暮らしたい?僕が何でも叶えてあげるよ。どんなにかやさしい夢を見ようか……。全部、キミが王になる夢を諦めてさえくれれば、実現することなんだよお。頼むよお。」
大統領はしきりに彼の肩をさすった。こんな時に情けない声が出るのは、悔しさを通り越して呆れさえする。これは償いだ。ローガン・モルドという男が罪なき者から幸せを奪ってしまったことに対して、それらを取り戻すことはできないけれど、せめてもの補償のつもりなのだ。
アークは今、自らの記憶に一点の曇りもない。その完全な記憶を辿った時、未だかつて、これほど手の届くところに幸福が横たわっていることがあったろうか。福の神が泣きながら自分の肩をさすっていることなんて、これから先の世にあるだろうか。親友たちは作り物に過ぎないといえど、その立ち振る舞いは『本物』でしかない。
すべては手に入る、たった一つの意地っぱりを卒業すれば。
「僕は――」