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EX5-2

寝ぐせのついた前髪を手ぐしで整えてみる。本当は前髪どころでなくて、顔も、スーツも、それはもう野良犬にもみくしゃにされたみたいな恰好なんだろうけど、今のわたしにはその方がよっぽど似合っていると、カノンは思う。

急に起き上がったから頭が痛い。脳みそだけ濡れた枕の上に置いてきたみたい。今すぐ戻って頭にカポッとはめ直さなきゃ。そうしたら髪を整えるのがやり直しになるけど。

バカなこと考えてないで、ここで何をすべきか考えなければ。ここは実家のダイニングテーブルで、隣に座っているのがエリセア、向かいに座っているのがカノンの母、オルセーネ・ライカ。二人は初対面、だから、紹介しなきゃ。

「えーと、こちら、エリセアさん。」

エリセアはオルセーネに深々と頭を下げた。

「お初にお目にかかります、奥様。不躾ながら、突然の訪問をお許しください。カノンさんには大変お世話になっております。」

彼女も礼を返した。

「カノンの母です。娘がご迷惑をおかけしていなければよいのですが。」

「エリセアさんはアークさんとお付き合いしてるの。」

エリセアは隣で眉をひそめた。

「尼様も男とつるんだりするのかね。」

「交際というわけではありませんが、確かに、個人的に親交はあります。」

オルセーネはますます分からない。昨日の来客を見て、娘は平然と二股を掛けているのかと思ったが、こうなれば、男も男の方で二股を掛けているということだろうか。などと思いを巡らせていたが、当の本人は口をきゅっと結んでおどおどしているから呆れてものも言えない。

代わりにオルセーネはエリセアに顔を向けた。

「尼様はどうしてうちにおいでなさったんですか。」

「主にはカノンさんに会うためです。これといってお伝えする用件があったわけではないのですが……」隣の席をちらと見る。「今は来て然るべきだったと思っております。」

「そうでございますか。左様なら娘は何なりとお預けします。」

「感謝申し上げます。それと、奥様、わたくしは未だ修行中の身にして半人前の尼でございますから、どうぞ気兼ねなく。その方がわたくしも光栄ですから。」

「ええ、そうですか。」

オルセーネは渋々頷く。

「カノンさん」エリセアは身体を回して彼女に向いた。「よかったら、話を聞かせてくれませんか。」

「はい……歩きながら話しませんか?」自分の部屋を見られるのが恥ずかしいから。

「いいですね。わたくしもカノンさんが生まれ育った場所に興味があります。」

「ああ、それなら……」とオルセーネは台所の戸棚を開けて、空のビンをテーブルの上に置いた。

「カノン、どうせ外に行くんなら油買って来な。それとじゃがいもと玉ねぎ。」

「えっ」カノンは身構えた。「パシリ?わたし街まで出て行くつもりじゃないんだけど。エリセアさんも一緒なのにさあ。」

「あーたの腹に入るもんなんだからいいでしょ。尼様も、今日はうちで食べて行くでしょう。」

エリセアは微笑んだ。

「お世話になります、奥様。さ、カノンさん、行きましょう。」

「うう……メイク直してきます。」

「近所の買い物になんで化粧が要るのさ。八百屋の女将はあーたのおしめだって見たことあるよ。」

「それとこれとは関係ないでしょ!」


カノンの実家は街外れにある。ただでさえ田舎町の、そこからさらに外れたところでポツンと一軒建っている。買い手なしで長い間放っておかれていたのを、両親が結婚した時に安く買い取ったというわけだ。都会暮らしの人間には風情を感じるかもしれないが、実際には不便なことこの上ない。

そんな家だから、おつかい一つ出るのにも市街までしばらく農道を歩く。昔は毎日のように自転車ですっ飛ばしていたこの道を、またこうして歩く日が来ようとは。何も変わっていない、自分以外は。

「話をしよう」と家を出てきた割には、二人ともしばらく静かだった。こういう時に軽妙に語り出す笑い話の引き出しが、二人とも乏しかっただけなのだ。それでも、買い物袋に油ビンを入れたカノンはやっとのことで言葉をかけた。

「すみません……その、母はああいう人なんです。」

「別に、わたくしは二言、三言、会話をしただけで相手の評価を決めつけてしまうことはしませんよ。その上で、カノンさんのお母様はよい人だと思いましたけど。」

「ああいいですよ全然、わたしも苦手ですから。」

「本当のことですよ。」

カノンは返す言葉がなくて、また二人の間に沈黙が流れた。前に会った時はこんなに会話が続かない相手じゃなかったのに、今日は状況が状況だからだ。

「あの、どうしてここが……?」宙に浮いた質問。

「あの人ですよ。」

エリセアは不機嫌そうにぼそりと答えた。

「アークさん?」

どうやらそれで正解らしかった。

「また突然知らない街の住所だけ言われて、友人に仕事を預けてなんとか来てみれば、当の本人はもう出立したって言うんですから、勝手が過ぎるでしょう。しかも、こうしてカノンさんだけ残して。」

「知りませんでした、わたし。」

「やることなすこと全部自分に都合のいい、ホントろくでなしです。呼び出された理由も何も聞かされていませんけれど、訪れてみてやっとその目的が分かりました。」

エリセアは何かを確信しているようだが、カノンにはそれが分からなかった。ただ、そのすぐ後に彼女が言うには、

「もしカノンさんがあの二人と仲違いするようなことがあったら、必ず連絡してくださいね。わたくしは必ずあなたの味方をしますから。」

ということだった。話の筋は見えないけど、カノンは胸が熱くなった。


舗装されていない道を歩き続けて、やっと市街が見えてきた。この辺りの住人は広くまばらに住んでいるので、市街もそれほど大きくはない。この街では間に合わせることができない買い物もあって、そういう時はバスで隣町まで足を伸ばす必要がある。あくびがでるくらい退屈な街。

二人はマーケットに近いところまで来て、カノンは道の真ん中で立ち止まった。そうして通りの向こうを指す。

「ここまっすぐ行ったらお店があります。」

「なるほど。」

カノンは空きビンを取り出した。

「エリセアさん、その、これに『油ください』って買って来てもらえません?」

「それは構いませんけど、カノンさんはどちらへ?」

「わたしは、えっと……その辺で油売ってますから。」

「それなら向こうの店まで買いに行く必要ありませんね。」

「ホントだ、アハハ……。」ぎこちない笑い。

エリセアは不自然に思ってカノンの顔を覗き込んだ。

「何か事情がおありですか。」

「いえその、お店の人はわたしのこと知ってるので、別に嫌いってんじゃないんですけど……あんまり気乗りしなくて。」

「自分を知っている人に会いたくないと。」

「わたし、わがままですね。すみません。」

カノンは向き直って歩き出そうとすると、エリセアは手を重ねて制止した。

「分かったわ。おつかいはわたくしに任せて。カノンさんは向こうで待っていてください。」

「エリセアさん……ありがとうございます!」

エリセアは荷物を受け取って、鞄を小脇に抱えて通りを歩き出した。

ああは言ったものの、カノンも頼んだ責任があるのでまかせっきりにしてしまうことはできなかった。それで申し訳なさげに、エリセアが歩く十歩後ろくらいをひょこひょこついていった。彼女が店に入ると、通りの反対側からそれを眺めていた。これじゃまるで子供のはじめてのおつかいを見守る親みたい。ハラハラドキドキしているのはむしろ見守るこっちの方。

エリセア子ちゃんはしっかりおつかいを済ませてカノンのところに戻ってきた。言われた通りの品があるのを確認して、二人は頷き合った。

「大丈夫でしたか……?」カノンは尋ねた。大丈夫に決まってると分かっていたけれども。

「『見ない尼だ』と言われました。今時分、遍路の旅に出る尼なんていませんからね。『お代は結構です』と言われましたが、なんとか話をつけて払ってきました。」

「ひええ。助かります、買い物に行ったのに財布の中身が減ってなかったら母にヘンに思われちゃいますから。」

「ですね。帰りましょう。」

二人はまた並んで歩きだした。何もしないまま、外出の目的を達成したカノンの背中を午後の風が押す。しかし、確かに、本当の目的は他のことにあったはずだ。ここへきて間に合わせのジョークなんて話しても何の意味もない。だからまずは、正直な感想から打ち明けることにした。

「ぐちゃぐちゃです。わたし、もうどうしていいか分かんない。」

「うん。」

「関係ない上につまらない話からしてもいいですか?」

「どうぞ。」

「……いや、やっぱりつまんないからやめよう。ごめんなさい。」

エリセアはゆっくりと口を開いて「カノンさん」と呼びかけた。

「わたくしは尼です。尼は信者の告白を聴くのが役目の一つです。それが神において正しいかを裁くのではない、神の名において許しを与えるのでもない、解決策の説法を説くのでもありません。ただ、聴くだけ。それがどんな話でも、最後まで聴くだけです。じゃあどうしてそんなことするのでしょう。それならベッドの上でテディベアに話しかけるのと一緒では?――そうではないようです。わたくしの先輩が仰っていたところによれば、目の前の相手に対して、どんなに拙くてもいい、とりとめがなくてもいい、自分の思いを、自分の言葉で発すること、それが大切なのだそうです。そうすることで初めて自分自身の気持ちに向き合えるということもあるそうなのです。だからその手助けをするのが神に身を修める者の役割なのだそうです。それからね、これはあなたの友人として、あなたの思いを全部聞かせてほしい。わたくしはそう思うわ。」

「エリセアさん。」カノンは瞳をうるませた。「あの二人がいない時は本物の尼さんなんですね。」

「知りませんよ、あんなの!」

こっちが、カノンのよく知る「エリセア」である。

カノンはやっと笑いが戻ってきた。それほど元気に満ち溢れたものではないが、少しは気分が明るくなってきた。

「さっきはすみません、おつかい任せちゃって。みなさんいい人ですよ……わたしの方が口下手なだけで。」

「無理することないですよ。わたくしもよく言われます。」

「みなさんわたしのことを小さい頃からよく知ってるから、むしろそれで気が重いというか……。その点太陽通りのみなさんはいいです、上京してからのわたししか知らないから、『編集長にいつも怒られてる子』って感じで……えへへ。あのね、エリセアさん。父の話は前にしましたよね、カメラをくれた話。父と母がどうやって結婚したか分かります?いわゆる、駆け落ちってヤツらしいです。元々この街に住んでいた母が、取材のためにふらっと現れた父と、お互い一目惚れして、そのまま勢いで……って。あ、父から聞いた話なので多少は脚色されてるかもしれませんけどね。」

「運命的、ですね。」

「エリセアさんがそれ言う?」

「わたくしのことはどうでもいいでしょう。」

逃げるように話の続きを促した。

「当然、母の実家は猛反対です。よそ者の風来坊みたいなのに娘を取られてなるものかーって。大喧嘩の末に『もう二度と帰らない』と啖呵を切って、家を飛び出したそうです。母はそのまま父について首府にでもどこでも出て行きたかったみたいなんですけど、父はこの街がすごく気に入ったようで、それに親子関係がこんなにこじれたままじゃいけないと思ったのか、今の家を手に入れて住むことに決めました。ライカ家、ささやかなマイホームで新しい人生の幕開けです。なんちゃって。」

「すると、この街にはカノンさんの祖父母のお宅もあるんですね。」

「ええ、ありますよ。おじいちゃんとおばあちゃんには何度も会ってます。母は親子の確執も、自分の娘に罪はないと思ったのか、わたしに時々向こうへ顔を出すよう言いつけたんです。それでも母はかつて宣言した通り、決して実家には帰らず、街で顔を合わせても絶対に言葉を交わすことはありませんでした。きっと今でもそうです。……なんですけど、ご存知の通り、父はわたしが十歳の時に失踪してしまって。元々家計が厳しかったうちは、ついに一文の収入も入らなくなりました。母は一人で働きながらわたしを育てていかなければならなくなりました。……ここまでの話を聞いたら、なんとなく分かってもらえます?ただでさえ小さな街だから、みなさん、この経緯を全部知ってるんですよ。」

「さぞお辛かったでしょう、お母様も、カノンさんも。」

「母はいろんな仕事をやってましたよ。店番とか、お針子とか、季節によっては畑仕事のお手伝いとか。わたしも少し手伝ってました。小学生の放課後の日課がチラシ折りって、意味分からなさすぎでしょ?だからね、ガリバン印刷でアークさんとフェルドさんがそういう仕事をさせられてるのを見ると、昔のわたしが懐かしくなって笑えてきちゃうんですよ……二人には嫌な顔されるけど。ともかく、こんな生活をするくらいなら現実的に考えて、実家に戻って、これまでのこと全部謝って仲直りして、一緒に暮らした方が賢明だと思いますよね。けれども母はそうしなかった、そうしたら、父の帰ってくる場所が無くなってしまうからです。この点はわたしも同じ気持ちでした。あの頃のわたしたちを、街の人はどう思っていたんでしょうね。」

二人は市街を抜け、また舗装のない道を歩いていた。そばをトラックが通ると、茶色い土煙が視界を覆った。

カノンは少し休んでからまた次のように語り出した。

「さて、こんな家庭で暮らしたカノンちゃんはどんな子に育ったでしょうか。母親思いのそれはそれはやさしい子で、勉学によく励み、みんなから愛される人気者に……全部ブブーです。母とは言い争いばかりで、授業では居眠りし、クラスでは印象のうっすい子に育ってしまいましたよ。わたしがこの街を出たいと思うようになりました。うんざりだったんですよ、微妙に哀れむような街の人の目も、わたしの父を『妻子を捨てた悪い男』と決めかかってくるのも、地元が大っ嫌いなくせに結局は地元にしがみついている母も。わたしはいつか必ずこの街を出て行ってやろうと思って、新聞配達のアルバイトを始めました。そこそこ楽しかったですよ、誰もいない街を自転車で駆けて、家々に新聞を投げ込んでいくの。ここはわたしだけの世界だって思えてくるの。……それでもって、授業中は爆睡。成績はひどいもんでした、先生から『女じゃなけりゃ殴りたいくらい』って何度も言われたな。そしてこういう悪目立ちする生徒は友達もできないんです。こうしてなんやかやあってギリギリ卒業できたわたしは、前々から宣言していた通り、アルバイトで稼いだお金を持ってこの身一つで上京したのです。これが、カノン・ライカの半生です。」

「言った通りつまらない話だったでしょ?」そう付け足そうとカノンが振り向いたら、エリセアはこちらを見て微笑んでいた。

「カノンさんはガッツがありますね。」

「へ?」

「以前から思ってましたよ、カノンさんは可憐な外見に反して、芯の強いところがあると。だからあの二人のそばにも居られるんですね。いいこと、あのろくでなし二人組に付き合えるには、わたくしたちくらい強くなければいけないわ。」

「そう、ですよね!アハハ!」

二人して笑い合う。きっと今頃どこかでは二人してくしゃみしている。

ひとしきり笑ってからカノンは目尻でちぎれた涙を拭った。

「でもでも、エリセアさん。わたしがこの話をしたのは、単に生い立ちを知ってほしかったからじゃないんですよ。むしろここまでが前座で、本当に言いたかったのはここからなんです。」

「そうでしたか。聞きましょう。」

「街を出て行ったわたしは、それきり実家には帰りませんでした。一応生存報告だけはしなきゃと思って、仕事を見つけて落ち着いたことを手紙で書いて送りました。そうしたら母は返事をくれて、家族の写真と、ちょっとした額の現金を送ってきたんです。ヘンですよね、あれだけ反対して毎度毎度言い争いしてたのに、いざ出て行ってみればヘソクリを送って寄越すなんて。出て行く日に手渡しするのが恥ずかしかったんでしょ、お母さんらしいや。でもそれを受け取った日の夜、わたしはどうしても涙が止まりませんでした。それに昨日だってね、わたしが二人を連れて帰ってきたら、母は結婚相手を連れてきたんだと勘違いしたみたいで。それでも言ったのは『好きにしなさい』って一言だけ。やっぱりあの人はおかしいですよ、自分がそうしたからって、世の中の娘はみんな親を捨てて駆け落ちするものだと思ってるんだ。そんなことを昨晩ベッドの上で考えていたら……もう……ねえ。」

カノンは目元を手で覆った。

「わたしはとんだ親不孝の不良娘だけど、やっぱりお母さんが大好き。」

立ち止まるカノンの背中にエリセアはそっと手を添えた。肉親の愛に心を震わすのにはちょっとだだっ広すぎる農地の真ん中で、二人はしばらく寄り添っていた。

どれくらい経ったか、カノンはまた元気になってひょっこり顔を上げた。「よっこいしょ」と小声でつぶやいて鞄を持ち直す。

「お母さんに、パパ。アークさんとフェルドさん、編集長や職場のみなさん、ガリバンのおじいさん……それからそれから、エリセアさん。みんなわたしにやさしいの。何もかも捨ててきたつもりでいたけれど、大切なものは増えていく一方だなあ。」

「行きましょう。」カノンは歩き出した。「父がいなくなった時、わたしはまだ小さな子供だった。だけど今は違う、なにもできない非力な女の子じゃない。大切な人たちのために、わたしにもできることがある……ですよね?」

「ええ。わたくしもお供します。あのろくでなしを連れ戻したら、一緒に喝を入れてやりましょう。」

エリセアはにわかに微笑む。

「そして、五人でご飯を食べましょ。」

カノンは微笑み返した。