海の上の世界は想像していたよりずっと窮屈だった。
ワンナイトクルーズの招待券がペアを前提としていた通り、船室はツインベッドがあって、小さめであるにも関わらず、部屋の床面積の半分くらいを占めているのではないかと思われた。カノンとエリセアとが座っているワインレッドの掛け布団はどうにも落ち着きが無くてぎらついて見えるし、ご丁寧に壁にまで同じ植物模様がだらだらと描かれているからたまったものじゃない。窓といえばいかにも船らしい、小さい丸窓がポツンと一つ、おまけに高い所にあってこれじゃあ覗き窓というより「覗かれ窓」に思える。
タイタニックという豪華客船は今から七十年くらい前に氷山にぶつかって沈んだらしいのだが、あれもこんな船だったのかしら。乗客のほとんどは冷たい海に沈んでしまったと聞くが、同じことが今夜起こったらどうしよう。あの覗かれ窓がミシリと割れて、海水がドバッと入り込んでくる。正面の小さい扉を押し開けて廊下に出ることができればいいが、廊下でも同じように水浸しになっていたら?水かさが三十センチメートルもあれば扉を開けるのはかなりしんどいらしいから、わたしの場合はその半分くらいでもうギブアップかもしれない。こうなったら最後、この狭い部屋が水槽となって、自分は水葬と相成るわけだ。
なんて、くだらない妄想。真夏のテラレジア沿海に氷山なんてあるわけがないでしょう。一度悪い気持ちに支配されると、悪い方向にばかり気が回って仕舞いには意味のない妄想まで始めてしまう。カノンは今、自分で始めた打ち明け話の続きを、早く語らなければいけない状況にあった。その上でさっきみたいな妄想に沈んでいたのだから、ホントにどうしようもない。幸いなのは、傾聴するエリセアは、彼女のことをぐずとかのろまとか思わないで、どんなことでも真正面から受け止めてくれるという安心感があったことだ。
「近頃、世界がおかしな風に見えるんです。『おかしな風』って言っても分かんないと思うんですけど、こっちとしても説明しづらくて、それは万華鏡を覗いた時に見える光景に、いちいち説明をつけてらんないのと同じようなことなんです。本当だったらその場に存在しないようなものが見えるんです。幻覚、とも言えるんでしょうけど、それよりはすごく現実的だと言うか。わたしはそれに触れることができるし、あったかいとか冷たいとか、固いとか柔らかいとか、そういうことも感じるんですよ。その『見えるもの』は具体的な物体である時もあれば、得体の知れない、もっと抽象的な感覚でしか名状しがたいものだったりもします。本当なんです。誓ってそういうクスリなんか、やってませんから。」
「――その見えないものが見えることに関して、それ自体おかしなことなんですが、もっとおかしなのは、『わたしはそれに気付かない時もある』ことなんです。冷静に考えなくたっておかしいなって分かるはずなのに、それに気付くまでにちょっと時間がかかることもあるんです。そこに至るまでわたしはごく自然に目の前の『おかしな光景』を受け入れちゃってるんですね。これが、すっごくこわいんです。そんなことが続くと、実はわたしが見逃してきた『おかしな光景』はもっといっぱいあったんじゃないか、一つ気付く間に九十九は素通りしてきてしまったんじゃないか、そう思えてくるんです。そして、もっとこわいのは、わたしの疑念はたぶん当たってるんです。今になっておぼろげに残る記憶、つい最近思い出した記憶、その中でわたしは、『おかしな風』に巻き込まれていたっぽいんです。」
カノンは膝の上で両手をきゅっと丸めて握りしめている。エリセアはその横顔に問いかける。
「いつ頃から自覚があるんですか、その、見えるようになったことについて。」
「分かりません。今言ったみたいに『思い返せばあの時も』っていう経験があるので、厳密にいつからかは言い切れないんです。強く意識しだしたのはここ最近なんですけど。……でも、一つの境目は、アークさんとフェルドさん、に会った頃から、だと思うんです。あの、決して二人のせいだって言いたいんじゃないですよ?この症状の意味するところが何であれ、二人は絶対に悪いことなんかしません。そう……なんですけど、この件は二人とまったくの無関係ってのでもないと思うんです。というのも、二人も多分同じようなものが見えてるはずなんですよ。確証はないですけど、思い当たるフシがいくつもあって……。二人は時々わたしには理解できない会話をしてるんです、同じ場にいるわたしにも何のことだかさっぱり分からない話題を。今にして思えば、その時二人は目の前の『おかしな世界』に気付いていて、わたし一人が気付かずにのほほんとしてたんじゃないかって。その時の二人は鬼気迫るといいますか、いつも鋭い目をしてました。そこから察するに『おかしな世界』に気付けるか気付けないかというのは、ものすっごく大事なことみたいです。そんな状況で、ぼんやりしてたわたし……バカみたい、ですよねえ。」
並んでベッドに座るエリセアは、カノンとの隙間を埋めた。そうして彼女の背中に手を置いた。尼が信徒の告白を聴く時はこんな風にはしないけれど、今は尼としてではなく、友人として話を聴いているのだから、必然こうするべきだと思った。
カノンは「すみません」と言って笑った。自分は女だしそっちの気もないけれど、やはり美人がすぐ隣に座って、手を添えられると、気恥ずかしくなるものだ。
「二人には話しましたか。」
彼女は答える代わりに首を振った。
「どうしても言い出せなくって。わたしだけのけ者にされて口惜しいってのも、ちょっとはありますよ。でも、二人はやさしいから、言わないなりに何か理由があったと思うんです。そこで不用意に口に出したら、要らない心配かけちゃうんじゃないかって。それ以上に、このことがきっかけで、二人がわたしの身を案じて距離を置くようになっちゃったらって、そう思うと……こわくて、こわくって。」
もう、限界。
エリセアはカノンに飛びついてぎゅっと抱きしめた。その動きの素早いこと、カノンは自分の身に起きたことが理解できなくて、仕事人にやられたかと思った。
くたびれるまで抱擁してようやく解放したエリセアは、彼女の両肩に手を置いた。
「よく、一人でガマンしてきたわね。それから、わたくしに話してくださってありがとう。」
「い、いえ……」感謝されることをしたつもりはないけれど。
「もう心配しなくて大丈夫。あとはわたくしがろくでなし二人をひっ捕まえてとっちめておきますからね。」
「ど、どうも……?」お仕置きを頼んだつもりはないけれど。
二人は並んで座りながら上体を捻ってまっすぐに向き合った。
「いいですか、カノンさん。尼としての経験から言います。言葉にしにくい悩みでも、頑張って言葉として伝えようとするからこそ、その方の中で整理がつくこともあります。ですから、しばらくは何も言わずにあなたの話を聴いていました。それで、ここからはちゃんとわたくしが説明しますから。第一に、カノンさん、あなたはおかしくなんかありません。カノンさんが『おかしな風』と言うそれらは、わたくしにも見えます。そして、カノンさんの言う通りあの二人にも。確かにそれはちょっと変わったことですけれど、決してあなただけではないし、おかしくなったのでもないのです。カノンさんにも見えるように、いや、気付けるようになったことを知らず、説明を欠いていたのはあの二人の怠慢です。そのことでわたくしは二人に怒っているのです。立派です、カノンさんは。」
そう言ってエリセアはこの現実についてのややこしい説明を始めた。いくらかは自分の経験から、ほとんどはアークから聞いた話をそのまま。彼女には生まれつき他人の現実を垣間見る力があったので、それが自分に特有の事象だとは知りつつも、基本的にはごく普通の世界の一部として受け取っていたのでカノンほどの衝撃はなかった。それだけに、彼女はアークから聞いた話をすんなりと飲みこむことができた。一方でカノンにとっては分からないことだらけではあったが、例によってメモ帳に書き散らしながらふむふむと聞いた。もはや職業病の域だが、こういう時は案外侮れない。
カノンは終いまで聞いてペンのキャップを締めた。この話、むしろ二人から聞かないで正解だった。アークとフェルドはぐちゃぐちゃ喋るので話がいつもややこしくなるのだ。エリセアの方は、説法を聞いているみたいでめっぽういい。
「つまりアークさんとフェルドさんはこの力で戦ってるんですねえ。すごいなあ。」
カノンは今やすっかり感心している。
「さじ加減で毒にも薬にも、というところでしょうか。」
「うーん。」
カノンは手帳を額につけて考え込む。
「どうかしました?」
「これ、どうやって記事に書こうかなあ。」
「書くのですか。」
「記者の仕事に出し惜しみは要りませんから。これを世間に伝えずして、どうして記者が務まりましょうか。」
「ますますフィクションらしくなりますね。あの記事、読者のほとんどは創作だと思っているようですよ。」
「……フフ。」さっきから落ち込んだり感心したりニヤついたり忙しい。
カノンは足元の鞄からカメラを取り出して組み立てた。平べったい板があっという間にレンズとファインダーを備えたカメラらしい見た目に変わるのがよくできている。
「わたしのカメラがそんな風に役に立っていたんですね。今度からはいつでも替えのフィルムを持ち歩くようにします。……本当に、父はいいものをくれました。」
パパが最後のプレゼントをくれた日から、もう十年以上が過ぎた。このカメラも歳を取ったが、おかげさまで大切な人たちとめぐり合わせてくれた。そして、その人たちもまた、このカメラに新しい役目を与えてくれた。
「カメラだけじゃありませんよ。」エリセアはカノンの名前を呼んだ。
「あなたも、二人の助けになっているはずです。」
「そうですか?いじられてばっかりなんですケド……。」
「甘えているんでしょう。本当にどうしようもない人たちです。もともとダメなのが、あなたがいなかったらもっとダメになっていますよ。」
「そういうものですか?」
「そういうものです。分かったら――、」エリセアは立ち上がってスカートの裾を正した。「行きましょう。」
カノンは彼女を見上げた。疑問の表情を向ける。
「決まっているでしょう。」エリセアは目を鋭くする。「カノンさんをほったらかしたこと、灸を据えてやらねばなりません。」
「ダメですよ!」
カノンは立ち上がった。
アークとフェルドは二人を船室に押し込め、自分たちが戻って来るまで絶対に出ないようにと言い付けて部屋を後にした。この船内では誰が敵か、どこに敵がいるか分からない。向こうがカノンとエリセアに対してまでも容赦ない連中だと分かっている以上、二人にとっても最も安全なのは、こうして鍵のかかった部屋で夜を明かすことだ。
「今回だけは抑えてください。その方がアークさんとフェルドさんのためでもあるんですから。」
「そうは思いませんね。」
エリセアは軽く突っぱねて、カノンの手の内にあるカメラを指し示した。
「それ、ここにあるままでいいのですか?」
「あ、そうだ……。」
いつもはお守り代わりに二人に託していたのが、今日は渡しそびれた。というより、貸してくれと言われなかった。
「そのカメラは本来あなたのものです。そして今のカノンさんなら、もっとうまく使うことができるはずです。」
「そう、かもしれませんけど、でも……。」
「カノンさん。」
エリセアは彼女のカメラを持つ手を包み込むように握った。
「男というものは、とかく女に一歩引けと言い付けます。そういう時、女がすべきことは二つに一つです。一つは言葉通りに、後ろで慎ましくしていること。もう一つは、かえって前に進み出ること。実は後者が正解の時もあるのです。なんてったって、男の半分は虚栄でできていますからね。これを見極められるのがいい女というものです。今日の場合が、それよ。」
「分かるんですか……?」
「どうしてか、ね。縁浅からぬ気がするのです。」
これは立派だ。いつの日かこの人の御頭にティアラを戴くことがあれば、王国は安泰だ。ビザンツ帝国のユスティニアヌスという皇帝の妻にテオドラという者がいたが、そのような感じだ。
「わたしも、一緒に戦います。」
「それでこそですよ。いいこと、世の中の七割くらいは男が動かしている、表向きにはそう思われますが、世の中の精神においては、七割くらいを女が動かしているのです。」
扉をそっと開くか、力強く開け放つかで少々悩んだが、実際のところ、廊下で監視やら何やらが待ち受けているということはなかった。おそらくまったくのノーマークということはないのであろうが、堂々としている分にはかえって安全とも言えた。
船室ばかりが並ぶまっすぐな廊下には人影がない。上のデッキに上がって雑踏の中に足を踏み入れれば襲われることもまずあるまい。
カノンは部屋を出てきたことで、気持ちもいくらか晴れやかになってきた。それはすぐそばを歩く仲間に信頼を置いているからでもある。
「恋愛相談もできるんですねえ。」
「結局のところ、恋愛も広く言えば人の精神にまつわる問題ですから、自らはそれを忌避する聖職者であっても、相談に乗ってあげることはできます。」
自分を棚に上げて白々しい尼である。
「そうじゃなくて、エリセアさんが、ですよ。」
「あれは、友人の話の受け売りです。」彼女は頬を赤らめた。
「へー。その人は尼じゃないんですか?」
「いいえ、尼ですよ。無論、本人に交際経験はありませんが、困った者でしてね、恋愛小説を読むのが趣味なのです。」