テラレジオ・ポスト首府分社の事務員の名はアイラ。前任の事務員の仕事を引き継いだ新入社員、十九歳。机は窓側の列の扉に一番近いところ。他と違ってワープロが置いてない席だからすぐに分かる。業務は書類の管理、経理、電話応対、コーヒー淹れ、受付嬢、彼女以外は無頓着なので事務所の清掃もよくやる……とにかく記事を書く以外は何でも。
右隣はカノン・ライカの机。アイラの一つ上の先輩にあたり、記者としては一番の若手。この事務所の女性社員はこの二人。カノンと言えば、散らかった机でボーっとしているか、記事の書き直しを食らっているかのどちらか。編集長にはよく怒られる。取材に行くのに社員証を忘れることがある。アイラのことを「アイラちゃん」って名前で呼んで、入社したての頃は先輩風を吹かせようって頑張っている風だったけれど、この頃はめっきり消沈した。どっちの方が要領よく仕事をこなしているかって考えたら、まあそうなると思う。
そんなカノンは秋口に二人の男と知り合った。アークとフェルドといって、今は事務所の上の階に住んでいるのだが、これがろくでなしのプー太郎。アークは王家の末裔だというので自ら王政復古を声高に唱えている。しようもない口先だけかと思ったら、この間はたった二人でメディア業界の闇を暴いてしまったのだから、侮れない。カノンはそんな二人の活躍を連載記事にまとめている。ノン・フィクションであることは間違いないのだが、内容の突拍子の無さと、元々小説を連載していた欄に掲載しているものだから、世間の人々からはフィクションの小説だと思われている。
アークとフェルドはしょっちゅう下の階におりてくる。タダでコーヒーを啜りながらタダで朝刊を読むのが目的なのだが、どういうわけか編集長もあまり強く抗議しないから、そのまま応接用のソファで一時間くらい居座ったりする。そこから一番席が近いアイラは絡まれる。とんだ災厄。災いを呼び寄せた元凶たるカノンは「コラ」と諫めつつ、自分が一番雑談に花を咲かせている。ここにおいてろくでなしが三人に増える。
「花」といえば、アイラにはささやかな楽しみが一つある。事務所の窓の外側には花を飾るためのウィンドウボックスがある。そこに植物を植え、毎朝出社一番に手入れをしているのだ。元々ウィンドウボックスには何も飾っていなかったのだが、彼女たっての希望で管理を任されることになった。窓辺の植物はいい。窓の外の景色を華やかにしてくれるし、街に対しても開かれている感じがする。何より、仕事に出かける気概を生み出してくれる存在だ。
ところが、先日その植物に「災厄」が降りかかって。
ある朝、編集長が驚いた様子で窓の外を見ていた。何事かと思えば、「上から何かが降ってきた」という。
すぐさま、事情聴取。上階に住む二人を連行してきたら、真実はすぐに明らかになった。ふたりは悪びれた様子でこう供述した。
「……歯磨きしながら部屋を歩き回ることってあるだろ?天気がよかったからさ、二人して窓際に立って朝の景色を眺めながらシャカシャカやっていたわけ。」
「そろそろ頃合いかと思って辺りを見回したらば、ちょうどいいところに昨夜の水が入ったコップがあったんだ。くちゅくちゅ……ってするだろ?んで、窓際に立ってるわけだろ?そしたらまあ……ぺっ、てするよな。でも悪気は無かったんだぜ、ただ真下にその……植物があっただけで。」
ちぇっ。アイラは心の中で舌打ちした。植物が白い泡で濡れているのを見た時におおかた察しはついたけど。わざわざ尋問らしいことをしたのも阿保らしい。これ以上時間を費やす前に仕事に戻って――。
「ひどい!」
カノンが声を上げた。
「ちゃんと謝ってください!」
「悪かったよ、マジにわざとじゃないんだって……」
「わたしにじゃなくて!」カノンは隣のアイラを指さした。
二人はたじろいだ。アイラも驚いてカノンの横顔を見た。いつも怒られる側の彼女が、事務所でこんなに怒ったのははじめてだ。
「あのお花は、アイラちゃんが大事に育ててるものなんですよ!」
「そうか、アイラが……。すまない。」
「先輩……」アイラはカノンを宥めた。「構いません。お二人も、お気になさらず。」
「悪かったな、ホントに。」
「アイラちゃんがそう言ってもわたしは許しませんよ。」カノンは肩を震わせた。「お花はねえ、呼吸だけじゃなくて、光合成をして酸素を作り出してるんですよ。呼吸しかしてない二人よりずっと偉いんですよ。」
先輩、それは言い過ぎでは?
「アイラちゃんはわたしたちが取材に出てる間も、ずっと事務所でお仕事してるんです。わたしたちのために。そんなアイラちゃんにとってこのお花がどれだけ大事なものか分かってますか。……わたしは公園でサボれるけど、アイラちゃんはできないの!……足りないじゃん、緑が!!」
先輩、サボるのはダメ。
「アークさんも、フェルドさんも、大事なものがあるでしょ。人間、誰だって大事な物があるんです。アイラちゃんにとって、それはこのお花なの。アイラちゃんのお友達は……お花なんですよ!!」
先輩、私にだって人間の友達はいます。
「もう大丈夫ですよ。」アイラはカノンの肩に手をやった。「先輩が怒るの下手なこと、よく分かりましたから。もうやらないようにしてもらえればそれでいいです。」
カノンはそれでもしばらくむすっとしていたが、ついに「今度やったら三階の雨戸を釘で打ち付けますからね」と吐き捨てて、やっといつもの調子にもどってくれた。
「二人も植物を育ててみればいいんですよ、どうせ枯らすでしょうけど。」
「雨戸を打ち付けられたらもやししか育てられんだろが。」
「もやしをバカにしないでくださいよ。給料日前のわたしの友達です。」
「先輩……もう少し計画的にお金を使いましょう。」
二人を釈放してからも、カノンは「お花が枯れないか」と何度も尋ねた。歯磨き粉は口に入れても問題ない代物なのだから、その程度で枯れるはずないと教えてやったら、やっと安心した様子だった。
一階のガリバン印刷。ひとしきりの説教を受けたアークとフェルドは観念して、大人しく印刷所の手伝いに精を出すことにした。ガリバンは仕事に現れた二人を段ボールいっぱいの印刷物と共に迎えた。
ガリバンは腕を組んで立って、相変わらずの愛想無しで、あごをくいと動かして二人に段ボールを示した。
「新しい事業を始める。」
「はあそうですか」と二人は生返事。
「配達だ。仕上がったモンを指定の場所まで配送する。」
「これを?」
ガリバンは頷いた。
「でもさあ……」フェルドが大儀そうに声を上げた。「どうやって持っていくの?俺たち、車の運転しないぜ?」
「安心しろや。そんなお前らのために、ひとまずは歩いて行ける範囲限定のサービスだ。台車もほれ、ここに。」
外の石畳を転がすには心もとない車輪の台車が一つだけ。
アークは頭を抱えた。
「親爺、マジに言ってる?」
「こっちゃ穀潰し二人も雇ってんだ、事業を多角化せにゃならん。」
「頑固親爺のくせにそういうとこ結構柔軟なんだね。」
「こっちは薄給でこき使われてる上に家賃まで二重搾取を受けてるのだが?」
「口が減らねえガキだな。」
何を言っても無駄そうなので、二人はほとんど同時にため息をついた。
「まあいいや、枯れ親爺に睨まれながら働くよりかはマシだな。」
二人はガリバン印刷の店を出た。段ボールを満載した台車は、太陽通りの石畳を走らせるのもまともに立ち行かない。配達表を見れば、目指す先は坂を上った先にあるというではないか。これは一筋縄にはいかない。
代わる代わる台車を押しながら、堅実に歩みを進めていった。山一つ乗り越えるほどの苦労をして、やっと太陽通りの一番地の建物前を通過することができた。
頭の上には、今朝のウィンドウボックスがある。垂れ下がった葉の緑が一階の庇の赤い瓦屋根との対比で鮮やかだ。確かに、こうして見るとアイラの判断はもっともらしかった。もともと太陽通りの入口にあって通りの顔みたいな建物だから、多少の「おめかし」は必要だ。
フェルドが二階の窓を見上げていると、アークは「先にぺってしたのはフェルドだ」と呟いた。
「コンマ数秒の違いで争うんじゃねえよ。」
「アイラには悪いことをした。」
「ああ……でもさ、俺には分からねえんだ、ウィンドウボックスってのが。」
「何が?」
台車がガラガラと音を立てて石畳を蹴る。
「きれいなのは認める。けどよ、ああやって窓の外にだらんと飾るのはわざとらしいんじゃないかね。内側に置いておくべきだと思うんだよな、大切に育ててるものなら尚更さ。秘すれば花、って言うじゃん。」
「いいや、大切にしてるからこそ、ウィンドウボックスに飾るんだ。美しく咲き誇る花なら、外の者にも見えるように飾るべきだろよ。」
「そりゃつまり、見せびらかしたいってこと?」
「そういう言い方は、違うんだよな。」アークは唸った。「自信があること、誇りを持っていること、それ自体を見せるためというか。箱にしまい込むよりその方が、大切にされている感じがする。」
「分からないね。」フェルドは首を振る。「アイラちゃんもそうだっていうわけ?」
「あの子がそう考えているかは知らないし、ウィンドウボックスに花を飾る家庭すべてがそうだとは言ってないよ。フェルドの言う通り、世の中には、窓の内側に植物を飾っている家庭だってたくさんあるだろうしさ。結局のところ、その植物の得手不得手だ。」
町内をガラガラいわせて回った配送屋は昼には仕事を終え、帰路についていた。最初は帰り道もガラガラ響かせていたのだが、荷物がないのだから台車を畳んで持ち運べばよいことに気が付いて、それから歩く速さも元の通りになった。これから先もこの仕事をやらされるなら、台車の改良は喫緊の課題である。
通りの端に、花屋の屋台があった。花屋の屋台も簡易な装置には違いないが、車輪は大きく、しっかりゴムを履いている。ガリバン印刷の配送屋はそこいらの花屋にも劣る。何といっても男ばかりの印刷屋には「花」がないからだ。
花屋の主人は二人に気さくに声を掛けた。
「おう、そこにいるのは王様じゃないの。」
「ああ、花屋。ご苦労。」
二人はちょうど、寄り道もせずに印刷屋にまっすぐ帰るのは癪に障ると思っていた頃なので、喜んで立ち話に応じた。
「ろくでなしの二人組が今日は街中をガラガラいわせてるって向こうで奥様方がウワサしてたよ。何してんだい。」
「仕事だよ。ちょっとした配達。」
フェルドは台車を足元に置いて、スケートボードよろしく片足を乗せて転がした。
「ちょうど良かった。花屋、花を見繕ってくれないか。」
「喜んで。何がいい?」
「適当でいいよ、窓辺に飾れそうなのをいくつか。」
「あいあい。」
主人は屋台の奥に引っ込んでいった。花々の山が連なって、ここからでは主人の姿はよく見えない。
「何はともあれ、この頃は扱いも良くなったよな。」
アークは手前のシクラメンに顔を近付けて、フェルドに呼び掛けた。
「カノンの話?」
「そう。」アークは二本の指で緑の葉をつまんだ。「事務所でのアイツ、知り合ったばかりの頃は何というか、見てられなかった。カノンに対するアイラの態度だって、今とは違ったろ。」
「ハゲ親父がいびってたからだろ。上のヤツがナメた態度でいるとさ、知らず知らずに周りもそういう空気に染まってくんだ。だから『ドリーミィ』でシメてやったんだろ。」
「まあね。」アークは姿勢を元に戻す。「けど、その先はアイツ自身の頑張り次第だった。自分で自分の周りの環境を変えていくのは。しばらく事務所に顔を出して様子を観察してたんだけど、今日のことがあって、やっと確信が持てたんだ。カノンは、大丈夫だ。」
「大丈夫」その言葉を繰り返した。フェルドはそれを見て噴き出した。
「お前って見かけによらずおせっかいおばさんだよな。」
「なんだよそれ。アレだよアレ……臣民を気にかけるのは君主の義務。」
花屋の主人は自慢のチョイスで花々を抱えて屋台の奥からひょっこり顔を出した。
ろくでなしの二人組ときたら、本当に困りもの。業務時間中だというのに、今朝の事件に懲りずにまた事務所にやってきた、それもあんなに大きな花束を抱えて。それを何の屈託もなく差し出してくる、カノンにではなくて、アイラに。
「ほら、アイラ。今朝は本当にすまなかった。お詫びにこれをやる。」
「あの植物の代わりっていうんじゃないけどさ、こいつらも仲間に入れてやってくれ、な?」
アイラはすっかりどぎまぎしてしまった。職場の真ん中で花束なんて渡されたらそうなるに決まってる。先輩方の視線がつらい。それを受け取るにはひとまず立ち上がって、両手で抱えるしかなかった。
「あの、えっと……」
「わあ、すごーい!」
カノンは無邪気に感動している。
「ああ……でもこれ、切り花だから土には植えられないですね。」
「え、そうなの?」
「知らずに買ってきたの!?」
「花屋の主人に『適当に』って言ったらこうなった。」
「ダメじゃないですか、鉢植えを買ってこなきゃあ……」
アイラは三人の会話を聞きながら、花の芳香に酔っていたが、不意にふふっと笑った。
「……ダメですね、確かに。職場には飾れないからこれは……先輩にあげます。」
アイラは花束を丸ごとカノンに預けた。彼女は両手でそれを受け取って、さっきまでのアイラみたいにどぎまぎした。
「私の家は花瓶の空きがなくて……お二方、それでもいいですか?」
今しがた花束がリレーされていくのを見ていたアークとフェルドはきょとんとしていた。けれども花束がカノンの胸いっぱいに咲き誇っているのを見たら、それでいい気がした。
「どどどうしよう、わたしの家汚いし、そもそもわたしにはこんなの似合わないし……」
「いいえ、先輩に似合ってます。」
「ないよ、全然!わたしなんて二酸化炭素吐いてるだけだし!お花以下!」
「カノン先輩、」アイラは彼女の名前を呼んだ。「植物は、花開くから美しいんじゃありません。美しいから、花開くんですよ。」
カノンは花束を抱きしめた。この匂いはすっかり酔ってしまえる。
事務所の玄関扉が開いた。編集長が外回りから帰って来たのだが、目の前の光景を把握しきれずに額から汗をにじませた。
それから突然、堰を切ったように飛び出してカノンの前に立った。
「ライカ……君、辞めるのか?まだ、早いだろう……。今の仕事は、どうするんだ?代わりの者もいない、せめて、子供ができるまででいいから、もう少し……。」
「あの……編集長?何のことですか?わたし、辞めませんけど?」
「え?」
額に汗が光る。フェルドはわざとらしく咳払いした。
「なあおっさん……コトブキ退社じゃあ、ねえんだわ。」
「お二方が、今朝のお詫びといって、私に贈ってくださったんですよ。」
それから編集長の顔はもう、華麗に七変化して、、最後には虚無を湛えた目に変わってカノンの肩を叩いた。
「……仕事に、戻りなさい。」
彼は肩を落として自分の机に戻っていった。勢いよく放り捨てた鞄もそのまま。この一時で十歳くらいは老けた気がする。
カノンは身体を二人に向けた。彼女が動く度に包装紙がカサカサいう。この調子だと今日は家に帰るまでに街中にカサカサが響くことになりそう。
「ねえ二人とも、元はと言えばわたしが貰ったものじゃないんですけど、でも、ありがとうございます。なんだかしばらく頑張れそうです。」
「良かった。しっかりやれよ。」
「はい!」
「いいこった。」フェルドは頷いた。「……しかしだね、お花ってのは随分、高級なものなんだなあ。」
「うむ。まさかあれほどとは。……カノン、物は相談なんだが――もやしの美味い食べ方知ってる?」
「まさか……。」カノンは引きつった笑顔から、すぐに自信満々の笑みに変わった。「えへ、そういうことならお任せください!」