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第二章

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青空に煙を吐き散らして機関車が走る。先刻、発車の鐘を鳴らして駅を発った列車。力強く回る動輪は旅行者で満席の客車を引いて、コロラド川に架かる鉄道橋の上を進んでいく。まもなく橋を渡り終えて、対岸のアリゾナ準州の土地に入る。

中西部の大砂漠は今だ合衆国の領土でありながら、州ではない。開拓が進んでおらず、自治権を行使できる社会が未発達な地域は準州とされ、正式な州とは区別されている。アリゾナ準州もそうした領土の一つである。しかし全国が発展を遂げる中で、このような開拓地にも市民が集まりつつある、年々フロンティアは狭まってきた。この大砂漠も連邦議会に承認されて合衆国の州になる――そんな日は決して遠くなかろう。

四人分の沈黙を乗せて列車は走る。四人は向かい合った座席に座っているというのに、誰も正面を向かずに首を回している。外を、床を、座席の手すりを、そこに何があると言うでもないのに見つめて、そのくせ頭では周りの席の者が何か言い出すのではないかと神経を尖らせている。実際以上に長く感じられる道行だった。

稲熊は腰のベルトに刀の鞘を紐で括って、自由に動くように吊るしている。彼が座っている時、それは座面に立てかけられるように斜めにぶら下がる。その状態のまま、稲熊は腕を組んで俯きがちに目を固く閉じていた。眠くはない、彼は未だ列車に揺られるのに不慣れで、こうしていても客車がガタゴト揺れるのでは落ち着かなかった。それでも誰一人口を開かぬまま長くこうしていると次第に夢とも現ともつかなくなって、身体が小刻みに揺られる度に心に生々しく刻まれた記憶の数々が思い起こされるのだった。


岡田稲熊は最後の武士であった。

安政二年、稲熊は薩摩藩の岡田家の次男として生まれた。彼の誕生より遡ること二年、嘉永六年のこと、合衆国海軍提督マシュー・ペリイはサスケハンナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマスの四隻の艦隊で浦賀沖に来航。日本国内ではこれを「黒船」と呼んで大きな衝撃を受けた。後に「幕末」と呼ばれる時代がこの時既に幕を開けていた。

稲熊の父は代々続く岡田家の当主で薩摩の藩士でありながら、先見の明に優れた男であった。列強の圧力を前に、国内の変革の必要性を早期に感じていた。文久三年、英国人斬殺事件をきっかけに勃発した薩英戦争で、藩が敗北を喫したことによってそれは明らかなものとなった。以来、薩摩藩は英国との関係を築き、倒幕に向けた動きを活発化させていく。岡田もそれに同調した。

慶応三年、大政奉還がなされ、江戸幕府は二百年の治世を終える。ここに新政府が樹立され、明治という新たな時代が到来する。その後に起こった戊辰戦争という幕府軍と新政府軍の戦闘は、少年であった稲熊に強烈な印象を与えた。岡田家に生まれ、父や兄からは「武士であること」を教えられた。しかし、新たな時代において武士という価値観が古臭く黴の生えたものであることを、この戦争は彼に実感させたのだ。

稲熊が十八になる年、彼は父の言いつけで故郷鹿児島を離れ新政府軍に入隊した。そこで彼は下士官となって近代的な軍の建設を目の当たりにする。かつては農民であった者までもが銃を手にし、制服を着て隊列を成す。そこに武士の誉れというものはなかった、国民による軍隊だけがあった。

彼はまた、そこで新政府の中心人物らと対面する機会にも恵まれた。忠君報国、その精神を彼らから学び取った。中でも同郷の西郷先生には感銘を受け、彼のその巨躯に抱いた精神に敬服した。

西郷先生は「この国には内乱の種が未だ燻っており、国を起こすには団結を呼び起こす敵が必要だ」と主張していたのを覚えている。稲熊には政治が分からない、しかしその後に先生が新政府を去って行ったのには衝撃を受けて、彼は難しい立場の中に居ったのであろうと心中察した。それでも豪傑たる先生のことだから、いずれは職を復帰してくださると信じていた。

稲熊が軍人となって数年が過ぎた。薩摩の有力な士族たる彼は入隊当時から期待の目を向けられていたが、その通りに、熱心な姿勢は評価され立場も高まっていった。その内に故郷から手紙が届くようになる。それまで滅多に送られてこなかった手紙は、だんだんとその頻度を増していた。そこには決まって「故郷に帰れ」と書いてあった。今は忙しく、そう簡単に帰郷できる身ではないことをしばらく前に返答したものの、催促の手紙は絶えることがなかった。いよいよ稲熊は只事ではない理由があるのだと確信した。時を同じくして、軍内にはきな臭い噂が広まりつつあった。

――薩摩の士族が反乱を企てている。

それを初めて聞いた時は馬鹿らしくて一笑に帰した。故郷の士族らのことはよく知っていた。知己だって多くいる。決してそのような輩はいないと、噂する部下を見つけては正していた。ところが当初は疑惑に過ぎなかったものが、事が運ぶにつれて信憑性を増していく。軍がいよいよ開戦の準備に違いない行動をとり始めた時、稲熊は初めて故郷からの手紙の真意を理解した。

帰郷を促す手紙は、暗に「蜂起に参戦せよ」と命じていたのではないか。

――まさか、そんなはずはあるまい。

廃刀令による士族の反発は稲熊も量り知るところで、彼とて士官になった当初は自らの刀を廃し、西洋かぶれのサーベルを身に着けるのに抵抗があった。しかし父君に限って政府に反旗を翻すことを企てるはずがない。よしんば周りの者でそれを主張するのがあれば、彼が押しとどめるに違いない。だから、こんなのは自分の悪い想像でしかない。だがその想像を超えるほどに事実は悪かった。反乱の首魁はかの西郷先生であって、彼の私塾生が先生を担ぎ上げていることを稲熊は知った。

やがて、稲熊の隊は熊本に移された。

熊本鎮台には乃木希典という左眼を悪くした将校が居て、稲熊は彼の下について行動を共にした。野木は軍人として大変優秀で、部下にも篤く慕われる男であった。彼は稲熊について知って、ある時彼に声をかけた。

「岡田君の国は鹿児島だと聞いたが、本当かね。」

「はい。」

乃木は「そうか」と呟いて、「何にせよ厳しいことだ」と告げる。

「乃木閣下、西郷先生は何ゆえこのようなことをお考えになったか。小生は先生にお会いしたこともありますが、大変に聡明で情に篤いお方であられました。」

その答えを乃木が知る由もないことは分かっていたが、稲熊は我慢ならなくて問いを投げずにはいられなかった。自分の中で渦巻く感情をどこかで表出せねばならなかった。

「その、情の篤いが故に、やむにやまれず、退くに退けずもあるのだろう。」

乃木はどこか遠くを見つめている風でそう語った。

九州が雪に見舞われた二月の日、鎮台は薩摩士族が挙兵したとの報を受けた。稲熊は乃木と共に連隊を率いて鎮台の籠城する熊本城へ向かったが、途中の植木という町で薩軍に遭遇した。

稲熊にとっては初の実戦であった。銃口の先にいる人間が誰であるかは関係ない、考えないようにしていた。連隊は一度は敵を撃退したものの、次第に数に押されて戦況は苦しくなった。夜になる頃には乃木は撤退を決め、その過程で稲熊は混戦に巻き込まれて森に逃れた。

寒く、暗い冬の野山。立ち込める硝煙の臭いに姿は見えないが、人の気配はあちらこちらに感じられる気がする。敵か味方かもよく分からない、じっくりと窺っている間も無い。すぐにでもここを抜けて隊に戻らねばならなかった。

草をかき分けるうち、傍に人の気配を感じ取った。視線の先の茂みの向こう、人の影がある。向こうもすぐにこちらに気付いた。影からは敵味方判別がつかない。今からでは弾を込め直して狙うこともできるはずがない。稲熊は銃剣を構えてにじり寄った。次第に相手の姿が見えてくる、あれは士族の格好だ、薩軍である。向こうもこちらの制服に気付いているだろう。最早白兵戦は避けられない。お互いに武器を持って三間の距離まで肉薄した。

月明が稲熊の顔を照らす。相手方の顔は見えないが、こちらは既に姿を把握されただろう。状況は不利だ。これ以上近付かずに敵の出方を待ち構えようとした時、不意に声が上がった。

「……主は岡田の稲熊でないか。」

驚いた。こちらの素性を正確に言い当てる。稲熊は一層警戒して肩がこわばった。相手が自分の知らぬ者より、知る者の方が恐ろしい話だ。男は彼の動揺ぶりを見て自らの問いかけが正しかったことを知った。やがて男は闇の中から月明の下に姿を現した。

「おいは虎之助じゃ。覚えておるか?」

その男の名を稲熊は知っていた。岡田家の近くにあった片切家の倅である。歳が近く、かつては稲熊とも親交の深い者だった。確かに、目の前の男にはその面影があった。

「虎之助。」

稲熊は銃を持つ手がだらしなく下がった。思わぬ旧友との再会は喜ばしかった。しかしすぐに思い直した。虎之助もまた、急に顔を険しくした。

「稲熊、主は何を……?岡田どんの隊に居るではなかったのか……?」

――兄だ。その言葉を聞くと稲熊は目を見開き、銃を地に落として虎之助の肩を掴んだ。

「兄者はこの戦に加わっておるのか!?」

虎之助ははじめ、何故このような質問をするのか分からなかった。やがて少しずつ状況を飲み込んでいって、銃床を固く握った。

「主、まさか国に帰らなかったのか。」

「兄者はどこに居る。父君は何をしておる?」

「官軍に居残っておったのだな、主ぁ!」

「何ゆえ斯様な無益な争事を!」

「ええい離せ!」

虎之助は稲熊の手を払いのけ、突き飛ばす。尻もちをついた彼の鼻先に刀の切先が突き付けられる。虎之介は銃を捨て腰の刀を抜いていた。小刻みに震える切先は薄明を反射して白く輝く。

「国に帰らず官軍に魂を売った上、あまつさえ同郷の輩に銃を向けるか。国を裏切りおって!」

「西郷先生は……」

「黙れ!西郷どんは主に『先生』と呼ばれる筋合いなどないわ!」

怒りに満ちた虎之助の表情からは殺気があふれ出して煙の如く立ち昇って見えるかのようだった。

「稲熊、友として最後の情けだ。ここで腹を切れ。自省の言葉だけは持ち帰ってやろうぞ。」

それから彼は介錯を務めようと刀を構え直す。稲熊がいつまでも動かずに小さくなっているのを見て「どうした」と声をかける。虎之助は彼の腰を見た。そこに軍刀はなくて、あの西洋かぶれが携えられていた。

「なるほど、刀も持たず、武士の誇りまで捨ててか。それでは腹も裂きにくかろう。安心しろ、おいが主を斬る。」

稲熊は自分の目の前で振り上げられる刀をまじまじと見つめた。あれが振り下ろされれば自分は死ぬのだろう。死ねばどうなるのかは分からない。

「言い残すことは。」

答えは無かった。稲熊の口は何かを訴えようと震えるように動いてはいるが、そこからは遺言も、弁明も、何一つ語るべき言葉は見つからなかった。虎之助は諦めたような顔をして、柄を握る手に力を込める。

終わりが来る。もう二度と国に帰れぬのなら、故郷の友を殺さねばならぬのなら、自らがここで終わるのがいい。

これで――。

「ぐっ!!」

闇の森に呻き声が伝わる。声の主は――自分ではない。稲熊は驚いて彼を見上げた。彼の帯のところには、さっきまでなかった銃剣が突き立って腹を貫いていた。

稲熊は立ち上がる。力なく振り下ろされる刀を躱した。虎之助の目はちかちかして焦点が定まらない。ついに稲熊は彼から目を背けて木立の中を駆け出した。

誰かが、誰かが虎之助の腹に銃剣を刺した。

「稲熊ぁぁぁ!」

怒号がこだまする。背中に降りかかる呪声を払って、走った。この先がどこへ向かうとも分からない。静かな場所、そう、静かな場所に行きたかった。誰の声もしない、辺りに広がる血は見えなくて、むせ返る硝煙の臭いも消えた場所。そこにたどり着いたならこの身を横たえて休みたい。そのままいつまでも起きなくたってよいから。そんなところへ、早く――。

相変わらず、稲熊は兵営の中に居た。戦いは続いている。先日は熊本城の包囲を蹴散らし、官軍の勝利は確実なものに近付いている。

あれ以来変わったことは特にない。強いて挙げるなら、稲熊は敵を討つことに何も思わなくなった。

乃木とはいくつもの戦場を共にした。彼の指揮で官軍は勝利を重ねたが、彼はまた、植木の初戦で敵の奇襲を受け、連隊旗を奪われたことを深く悔いているようだった。

ある時稲熊が彼のもとを訪れると、乃木は軍刀を手にして床に座していた。腹に巻いたさらしを露わにして、稲熊は彼のやらんとすることをすぐに理解した。

「閣下、おやめください!」

稲熊は駆け寄って乃木の手首を掴んだ。

「岡田君、許せ。植木での失態の責任は偏に私にある。慙愧に耐え難いことだ。」

「しかし閣下、自刃などなりませぬ。閣下には戦を導いていただかねばなりませんから。」

「止めないでくれ、私は君たちを捨て置いて逃げたのだ。」

「あれは退却の道中で襲撃を受けて……」

その瞬間に稲熊は山中での邂逅の記憶が呼び起こされた。虎之助の鬼の形相と彼の言葉が頭の中を何遍も巡る。

自刃。

乃木閣下は自らの行いを真剣に悔いている。自分はどうか、虎之助の勧めを拒んだ。そして――あの銃剣を突き立てたのは誰か、今になってやっと分かった。

「……どうしてもと閣下が仰るならば、小生もお供致します。」

乃木は稲熊と目を見合わせた。彼の白く濁った左眼もまるで稲熊の心を直接見定めているかのようだった。

「岡田君のような優秀な男を道連れにしたでは恥の上塗りだ。」

稲熊は手を離した。強く握られた乃木の手首には赤く跡が残っていた。彼は軍刀を置き、再び制服を羽織った。

稲熊は、乃木のその言葉に安心と失望とを抱いた。

西南戦争と呼ばれた戦いは西郷先生の自決によって幕を閉じた。多くの血が流れた。それ以降士族による反乱は起きなかった。稲熊は故郷に帰っていない。虎之助が生きていようと生きていまいと自らの汚名は変わらない、帰る場所はない。確かなのは今まで一度も手紙が送られてこないことだけだ。

結局、自分は何一つ理解できていなかった。慕っていた西郷先生の胸中も、兄者や父君や同郷の士族らも、乃木閣下によって知らしめられた自らの弱さも。

このような過ちは二度と犯してはなるまい。稲熊は支給された軍用サーベルではなく、自身の刀をきまって帯刀するようになった。

明治十八年、転機が訪れる。稲熊に渡米の話が持ちかけられた。

日本は富国強兵を掲げた工業化の最中にあって、鉄道も建設が進んでいた。相次いで工場が建てられ、産業品が国内でも生産されるようになっている。術士を求める声も日増しに高まっていた。ところが諸外国に比べ術士の雇用は思うように進んでいなかった。原因は日本の術士のほとんどが神仏に仕える身であることにある。多くの術士を抱え込む巨大な宗派などは、明治維新の中にあっても旧来の存立基盤を保とうとした。それ故に「蒸気機関の安定化」という職務を拒む。高給をちらつかせても意味はない、僧侶は資本という俗世間の価値観とは無縁なのだ。日本の工場や鉄道は時化を理由に度々操業停止を余儀なくされていた。

政府はこの事態を重く受け止めていて、早急に解決を図る必要があった。支出が膨らむ政府の財政では海外の術士を高額で雇い入れる余裕はなく、願うことには術士に頼らない工業化を成し遂げたかった。そこで目をつけたのはアメリカ合衆国だった。合衆国は元々旧大陸を抜け出した平民たちによって興された国だ。産業革命を利用し富を築いた欧州の術士たちは特権的階級を謳歌し、新大陸に渡る理由はなかった。それ故に合衆国の術士は少なかった。その上シヴィル・ウォー後に大躍進を遂げ、世界一の工業国となったかの国は尚更術士が不足する状況に陥っている。日本に似た問題を抱えている列強、それを理由に政府は合衆国に術士不足を解決する糸口を見出した。

稲熊は政府の中心人物の一人である大隈重信に召喚を受けた。彼はこの度企画された技士使節団の渡米がいかに重要な行為であるかを述べ、稲熊に同行を提案した。

「岡田君は英国人の将校に学んだから英語も堪能であろう、見聞を広めるよい機会ではないかな。」

「小生にできることがありますか。」

「君は同行して自由にやればいい。必要なことは向こうで領事館に連絡を取ればよい。」

「何ゆえ小生を推薦するのですか。」

「幾らかの者から同じように君を推す声があったんだ。それで、どうだろうね?」

稲熊は二つ返事で了解した。行きたいわけでも行きたくないわけでもない、無関心だ。ただ、日本という国に未練がないので、いっそ遠い異国の地に居座ってそのまま行方をくらますのも悪くはないかもしれない。

ほどなくして、技士たちが渡米する船が手配された。彼らに同船し、稲熊は甲板に上がって港を見た。見送る者はいない、これは一人の旅だ。船が蒸気を上げて徐々に埠頭を離れていく。戻る場所もなければ行く先も知らない、アメリカというまだ見ぬ土地へ向けて、稲熊を乗せた船は出航する。


「――稲熊、起きてくれ、そろそろ降りる駅だぞ。」

肩に手を置いて揺り動かされるので稲熊は目を覚ました。凝った首を上げるとロバートが覗き込んでいる。

「かたじけない、眠りこけておったか。今は何処ぞ。」

「窓の外を見ても分からないさ。どこも荒野しかない。」

彼が言う通りで、車窓は列車に乗った頃とほとんど変わらない、茶色の大地にくすんだ深緑の低木が立ち並んでいるばかり。凡その時刻と太陽の位置を鑑みて、東に向かっていることだけは分かる。

「そろそろ列車を降りるぞ。」

ロバートはもう一度言った。それで稲熊は目を擦って帽子を被り直した。

「列車で寝過ごしかけるなんて、困った人ね。」

「君のことも僕が起こしたがな。」

「失敬ね、その少し前には起きていてよ。」

「そうだったかもな。」

二人が言い合っているのを起き抜けで聴きながら稲熊が口ひげに手をやる。真実がどっちかは大したことでない。

列車が速度を落とす。市街地が見えてきて、駅のホームが目の前に来て列車は完全に止まった。ロバートは荷物を持ち上げながら「降りよう」と声をかける。調査のためにあれこれを揃えた彼の荷物はまた一段と増えていた。

フラッグスタッフ――西海岸以東、アルバカーキ以西で最大の都市。サンタフェから西海岸まで鉄道が通ったことで、この街も発展しつつある。この辺りはコロラド高原といって、海抜五千フィートから一万フィートにもなる高原である。高山気候よろしく昼夜の寒暖差は激しく、雨は少ない過酷な大地。それでも冒険家たちは集まりここに住みたがる。彼らを惹きつけるものは、途方もなく長い年月を経て作り上げられた大自然が織り成す神秘の絶景。計り知れない規模の数々の風景を前にしては、インディアンがそうするように大地の精霊たる意志の存在を感じ、傅かずにはいられない。

フラッグスタッフから先は手配した馬車を使って北へ移動する。目指すヒルバレーはコロラド川流域、グランドキャニオンのほど近くにある小さな街である。標識を頼りに土が固められた馬車道を進む。照り付ける日差しは厳しく、幌の内側も気温が上がる。馬の体力には気を遣って、まめに休息を取らせてやることが肝心だ。急いではいけない、宿場というものは大抵等間隔に設置してある。その日目指す宿場を決めたならそれ以上は進まないこと。かつての移動を繰り返して生きるインディアンの部族は、荒野で生きる術を知っていた。現代文明に生きる者だとしても、この過酷な自然環境の前には定石に従う他ない。

宿場というのは馬を留め置く囲いと雨風の凌げる小屋があるばかりの粗末な場所で、管理者のない無人である場所も多い。炊事場はあるが食料と水は自前のもので間に合わせる必要がある。

一行には馬車の持ち主で案内人の男がいたから炊事は彼に任せていた。というよりはできなかった。ロバートにとって自宅のキッチンは専らコーヒーの湯沸かしに使う場所で、自炊などはたまにする方が余計に金がかかるというもので、おかげで料理はてんで駄目だった。多くの使用人を抱えるアンジェラも、年中軍人をやっていておまけに異国の勝手が分からない稲熊も説明するまでもない。そこでリニーが立ち上がった。

既に日が落ち、昼間の熱を失った荒野は地面から底冷えしていく。一行は小屋の近くに馬車を置いて野外の炊事場を囲んで座っていた。中央には火を起こして、その上では水の張った鍋を吊るして湯を沸かしている。

リニーは馬車の食糧庫から紙に包まれた四角い物体を取ってきた。紙を解くと黒っぽく、何かが押し固められた物体が、包まれていた時の外見通りに四角くなっていた。きょとんと眺めている三人を見て、案内の男が説明しようとするのをリニーは手で遮った。

「ぺミカン。」

一言発したそれは物体の名前らしかった。リニーはそれを料理用ナイフで削って切れ端をそれぞれに配った。

「干し肉と野菜を脂で固めたもの。食べ物。」

「それは、そうだろうな。」

「差し詰め移動に便利な保存食、であるか。」

「食べて。」

三人は互いに顔を見合わせた。少なくとも原料におかしなところはないし、こう見えて食えば意外に美味かもしれない。示し合わせるでもなく、彼らは同時に口に放り込んだ。

全員が黙り込む。飴玉のように暫く口の中で転がしていた。

「何というか、塩気があって、脂っぽくて、その……」

「不味いわね。」

「いいや不味いことはないぞ、ただちょっと……食べたことが無くて『風変わり』だ。」

「取り繕うのはおやめなさい。不味くて食べられたものでなくってよ。」

「解したぞ」と稲熊が膝を叩く。

「乾パンでは口が乾くから、此と食べ合わせよ、ということだな。」

彼はリニーに答えを仰ぐ。彼女が答えるより早く、ついに堪えきれなくなって男は笑い出した。あんまり大きな声で笑うので澄んだ夜空によく響いた。

「お前たち、このお嬢ちゃんに騙されてるぜ。そりゃあ、ぺミカンはそのまま食ったって美味かねえのよ。」

男が大口開けて笑うのを呆気に取られていた三人は代わってリニーを見つめた。表情を変えず澄ましていた彼女は急ににやりと不敵な笑みを浮かべて、手に持ったぺミカンを鍋の上に掲げて手を離した。湯に沈んだ塊は、すぐに油脂が溶け出して浮かびあがある。それからリニーはさも当然のように匙を取り出して鍋をかき混ぜ始めた。

「ぺミカンってのは元々インディアンの食い物さ。干し肉やら何やらを脂で固めてな、何年も保存できる優れ物だ。食う時はこうやって、鍋に溶かしてスープにすんのよ。」

種明かしをされればあっけないもので、たちまち合点がいった。

「お嬢ちゃんはこの辺りの居留地かい?」

リニーは鍋の縁を匙で叩いて、首だけ回して男に振り返る。

「向こうの村の。幼い頃に母からいろいろ習った。」

「それじゃお前さんの方が詳しいかもな。」

男は納得して頷く。

鍋に少しの香辛料を加えるとスープが香り立って食欲をそそる。干し肉は水分を含んで、元々のぺミカンのサイズより大きくなって見える。乾燥した空気に湯気立つスープを眺めていると、心まで温まるようで安らぎを与えてくれる。

リニーは人数分のカップにスープを匙で救って注ぎ入れた。押し固められた具は元々小さく刻まれていて、飲み物を飲むようにそのまま口に運べる。これがなかなかに美味く、一緒に食えば乾パンの無味で固いのも愛しく思えてくるほどだ。殺風景な荒野のただ中でこうまで美味い飯にありつけるとは思ってもみなかった。稲熊も「出汁がきいておる」などと言って啜っている。

ただ一人、アンジェラは騙されたのに立腹なのもあって、何を差し出しても突っぱねた。

「要らないわ、そんなもの。」

「そうは言っても、こんな場所で行き倒れたら誰も助けてくれないぞ。」

「食べないわよ、インディアンの物なんて。」

「お前の分は、ない。」

リニーは鍋に残ったのをかき混ぜながら吐き捨てた。

「女のくせに、料理もできないなんて。」

「できないんじゃない、やる必要が無いのよ。だいたいが湯を沸かしただけでは『料理』とは呼ばないのではなくて?」

先日のようにひどくなるのを嫌ってロバートが早々に割り込んだ。今夜の宿に部屋割りはない、こんな場所で喧嘩別れしたら命に関わる。

「落ち着けって。僕に付いてきたんだから僕の言うことは聞けよ。リニー、彼女の分もよそってくれ。」

彼女はもう少し何か言いたげな表情をしていたが、一つカップを持って鍋の底の一滴まで注いだ。液面が縁まで届いて揺らせばこぼれそうになる。ロバートはそれを受け取ってそっとアンジェラの前まで持って行く。

「明日も早いんだ、これを食ったら寝よう。」

そう言っても彼女は顔を背けて受け取らなかった。ロバートは早く渡してしまいたかった。持った場所が悪くて、スープがいっぱいに注がれたカップは思いの外熱かったのだ。

「痛っ。」

手を持ち換えようとした拍子にスープをこぼして、縁を伝ったのが彼の手にかかった。思わず顔が歪む。するとすぐにアンジェラは向き直ってカップに手を掛けた。ロバートは熱が奪われるのを感じた。たちまちカップは何も入っていないかのような常温に戻っていた。

「火傷するわよ。」

アンジェラは彼の手からカップを取り上げた。ロバートが熱くなった手を咥えていると、彼女は代わりに足元の石を拾い上げて彼に押し付けた。氷のように冷たい、不自然に冷えた石は手の痛みを和らげてくれる。

「便利なものだな、術は。」

「我が家の術はこんな手品に使うべきものではなくってよ。」

「分かってるよ。」

両手でカップを抱えてアンジェラはスープを啜り始めた。何かを口に出そうとして言い淀んだ。ロバートは冷たい石を握り直して空を仰ぐ。天頂から地平の先まで、世界の半分を瞬く星が占める。

火が弱くなる頃に炊事場に広げたものを畳んで全員小屋の中に引っ込んで、まもなくラムプを消して眠りに就いた。


最初の宿場の夜からさらに二日が経って、日が傾きだした頃に四人を乗せた馬車は街にたどり着いた。

ヒルバレー、アリゾナの北にある開拓地。砂漠の中にある他の街と変わらない佇まいだが、グランドキャニオンの訪問者にとって玄関口となる印象深い場所。

街の名前が書かれた看板の横を通り過ぎれば街道の左右に住宅が並ぶ光景を目にすることができる。木の板を張り合わせて作った簡素な建物群は、砂混じりの風に吹きつけられて表面が風化している。どんなに古くとも建てられて十数年しか経っていないであろうに、この土地の気候の厳しさを物語る。商店と思しき木造家屋には正面にテラスが張り出して、歓談する男たちが訪問者の馬車を横目に見る。

目の前を枯草の球が転がっていった。御者席の男はロバートに問いかける。

「どこに行くかね。」

「そうだな……荷物を置きたいから長期で寝泊まりさせてくれる宿か、その前にこの辺りの地形に詳しい人に話を聞いておきたいが。」

「宿までなら案内できるぜ。この辺りに詳しいって言ったら、アープさんだな。」

「アープさん?」

「この街の保安官さ……。いい人だぜ、そう、いい人。」

男がその名を呼ぶ様子はどこか含みを持っている。

「ま、宿まで連れてくさ。だがな、悪く言うつもりはねえがお嬢ちゃんは歓迎されねえかもな。」

「なぜ。」

リニーは問う。

「なぜってそりゃあ、インディアンだからよ。この街の者は気がいいが、インディアンにだけは別な。」

「そうだとしても一緒に連れていくよ。」

馬車は一軒の家屋の前で停まった。外を覗くと二階建ての建物があって、看板に「宿」の文字がある。ここが宿ということだった。

「ここで待ってっから、話つけてきな。」

男に促されて四人は地に降り立った。何時間も馬車で揺られていると足の感覚が痺れて妙なことになる。階段を上って正面の窓から中を覗くとカウンターの奥に人が見えた。あちらも家の前で止まった馬車に気付いていて、既にこちらを窺っていた。

扉を開けると、ドアベルが音を奏でる。

「しばらく泊めてもらいたいのだが。」

宿屋の主人は仏頂面で見るからに愛想の悪そうな男だった。入ってきた四人を舐めるように見回して、あまりに嫌そうな顔をした。

「あんた方、どこのもん。」

「僕はサクラメントの電信技士で……。」

「そんなこたどうでもいいんだ、あんた『方』が何者かってことなんだよ。」

敵意さえ感じる男の応対に不満を持ちつつもロバートは辛抱して答えた。

「わけあってあるところを目指している。この街の近くで……」

「そんならさっさと行った方がいいよ。」

「待て、僕たちはしばらくここに留まりたいんだ。」

「あんな、あんた方がどうしたもこうしたも知らねえが、これだけは言える。インディアンの娘っ子連れてる奴にゃ部屋は貸せねえよ。」

「なぜだ?」

彼が詰め寄ると、主人は「なんでも何もあるかい」と不満を露わにした。

「この街にインディアンの居場所はねえんだ。」

「彼女は悪いことなんかしないぞ。」

「関係ないね。少なくとも、宿は別なとこを探しな。……それも無駄足だろうけど。」

ロバートは何一つ分からずまだ訊きたいことが山のようにあるが、これ以上の議論は無駄だと踏んで宿を後にした。

非常に後味の悪いものだった。案内人の男は外で煙草をふかしながら、出てくるロバートらを見てやはり、という表情を向けた。ロバートは肩をすくめた。

「一体どうなっているんだ、この街は。」

「この街が、っていうより、この辺りがな。」

「どういうことなんだ。」

彼は同じ質問を案内人にも投げかけた。

「そりゃ、俺ぁ高い銭もらってこの仕事受けたから何も言いやしねえけどよ、この辺りは、何てったってフロンティアの最前線だぜ、なあ。それも、インディアンの居留地が近くにある。そういうことだろ。」

まだ完全には理解していなかった。言わんとすることは分かっているが……。リニーは歓迎されていないのをよく理解して、俯きがちに近くの地面を眺めている。

そこへ蹄音を響かせて馬に乗った男が駆けてきた。


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「保安官事務所で話を聞こう。ついてきなさい。」

アープは再び馬に跨った。ロバートが御者の方に振り返ると、彼は両手を挙げた。どうやら行ってこいということらしく、彼は頷いてアープが操る馬に続いた。

保安官事務所はこの街で数少ない煉瓦造りの建物で、正面は大きなガラスを張って通りが目につきやすく、扉の上の看板には気取った文字で「ヒルバレー保安官事務所」と書かれている。

「気に入ったか?本官が一筆したためたのだ。よいだろう、え?」

ロバートがちらりと看板を見上げただけなのにアープは随分得意気になって扉の前で立ち止まってしまった。

中に入ると木製の家具が一通りそろえてあって、中央の奥に保安官の机が鎮座している。その前には茶色い革張りのカウチがあるが、そこかしこに穴が空いていて黄ばんだ詰物が顔を覗かせる。

アープは机の脇の帽子掛けに保安官の帽子を掛ける。

「まずは武器を渡してもらおうか。」

手を差し出すアープに言われるがまま、ロバートは弾が入っていない拳銃を差し出した。稲熊も刀を抜き取って手渡す。リニーが黙っているとアープは人差し指をくいっと曲げて彼女の腰のナイフを指すので、仕方なしにリニーは差し出した。

「これで全部かね?娘さんは?」

「なくってよ。」

アンジェラがぶっきらぼうに答える。それでもアープが疑念の目でまじまじと眺めるので、彼女はなおさら怪訝そうに睨み返した。

「よかろう、今は持っていないらしい。」

「ええ。」

「ではそこにかけたまえ。そっちのカウチは本官の場所だからな。」

アープが金庫に武器をしまいに行く間に四人は革の破けたカウチに座った。全員が並んで座るとかなり余裕が無かったので、お互いに目配せして場所の取り合いをしていた。

「や、この刀、金庫に入らないぞ。どうしてくれようか、二つに折り畳んでだな……」

金庫の前でぶつぶつやっているアープを見て稲熊は呆れた様子で「あの保安官は何をしておるか。」と呟いた。

リニーが横から肘掛けに座って、三人が座面に落ち着いた頃にアープも戻ってきた。稲熊の刀は金庫に立てかけてあった。彼は懐から葉巻を取り出して、机の縁でマッチを擦った。

「改めて、本官の名はワイアット・アープだ。ここヒルバレーの保安官をしている。」

火のついた葉巻を咥え、それを持ち替えて口の右側で噛む。

「僕はロバート・グレイヒル、サクラメントで電信技士をしている者だ。こちらは僕に同行している人たちだ――。アープ保安官、少々お話を伺いたいのですが。」

「大変結構!言葉で語り合うことができる者はな。そうでなければ?――拳銃で語り合うのだ。」

ロバートは一人で事の経緯を語った。ウエスティングハウス・エレクトロニックに仕事の依頼を受けたことから、「大きな穴」と呼ばれる地形で時化の調査をするために向かう途中であることまでを。アープはしきりにふんふん鼻を鳴らしながら相槌を打つので、ロバートは何度も彼が話を聞いているのか否か判然としなくて困り果てた。

「ホヨ・グランデ!」、アープが威勢よく声を上げた。

「スペイン人の探検家が名付けた、意味は『大きな穴』。いかにも、この近くにあるぞ。本官も一度出向いたことがある。何しろ直径半マイルはあろうかという巨大な穴が大地に大口を開けているのだからな。太陽が照らせど底の見えぬ不気味な深淵、周りの焦げ臭い枯草、辺りに響く不気味な音、時化が成すそれらの現象からこの辺りのインディアンは地底の世界に繋がっている穴だと言い伝える。本当に、この世界の神秘だ。……なぜ一度しか行ったことがないか?――穴以外に何も無いからだ。なにぶん本官は保安官ワイアット・アープ、職務はこの街の平和を守ることであるからな!」

「本当にあるんだな。しかもよく時化る。」

「研究は進みそうかしら?」

「これ以上ないさ。」

ロバートがそう言って頷くと同時にアープは一人で笑っていたのを真顔に戻って彼を見た。

「おい、待ちなさい。技士君、本当に行くつもりか?今の本官の話を聞いてかね?」

「あなたがワイアット・アープさんであるという話?」

「違う、違う」と彼は首を横に振る。

「あれは過酷な場所だ。そもそも、ヒルバレーから不毛な荒野に馬を走らせてたっぷり二、三時間はかかる場所だ。行ったとしても時化てばかりで満足に焚火もできないだろう。」

「それでも行かなければならないんだ。」

すると彼はまたも首を横に振る。

「違うのだ。見た所、君はかなりの抜け作のようだからな、それだけでは本官も止めはせんのだ。さらに問題なのは、しばらくこの近くにアパッチが出没していることなのだ。」

アパッチとはインディアンの一部族で、このアメリカ南西部に暮らす狩猟民族である。

「卑劣なインディアンの一味が度々行商人を襲っている。もう何人もやられた。」

「解した、街の者がインディアンを毛嫌う理由はそれか。」

稲熊の言葉にアープが頷く。

「しかしそれとこの子とは関係がないじゃないか。」

「その通り、だが、街の保安官として皆の不安を取り除くのは本官の使命であるからして。」

リニーは窓の外を見た。ここに来るまでは通行人や通り沿いの家々からの視線が厳しかったが、今頃は野次馬も消えて通りは静けさを取り戻していた。

「邪悪な言い伝えにより『大きな穴』はインディアンも訪れぬと聞くが、その一味がどうかは知らない。しかし出くわせば命はない。君が如何に抜け作だろうと、むざむざ死にに行かせるのは本官の流儀に反する。」

アープは「脅しではないぞ」と念を押す。ロバートは黙り込んだが、あまり経たない前に「それでも、」と決意を語った。

「行くよ。少なくとも僕はね。それが契約だから。」

すかさずアンジェラが「お待ちなさい」と声を上げた。

「いつから私を置いて行くことになって?――行くわ。」

「右に同じ。」

稲熊は腕を組む。

「……この街に私の居場所がないなら、他に選択肢はない、でしょう。」

リニーまでそう言うのでアープはとうとう呆れてものも言えなかった。サーカスの興行なんかよりよっぽど変な連中だ。

「もういいよ勝手にしたまえ。行き方だけは教えてやるから、馬でもなんでも自分たちで用意しなさい。」

「ありがとう、保安官。……それとついでに、今夜だけでも宿を貸してくれるところを探したいのだが……。」

「ふむ、インディアンのお嬢さん以外は簡単に見つかるが……。ならばこうしよう!君はこの保安官ワイアット・アープの事務所に泊まることを許そう!」

彼は高らかに笑い出す。途端にリニーの表情が凍って、ロバートは慌てて申し入れた。

「えーと、では僕もここに泊まっていいか?彼女は僕の同行者だから――もちろん荷物は宿に置くよ。」

「技士君も望むか。さぞ光栄なことだろう?」

「はい、保安官……。二人はそれでいい?」

アンジェラと稲熊が揃って肩をすくめる。

「良かった、な、リニー?」

リニーは石のように固まっている。

「そうだよな?」

「……感謝します。」

アープは満足して髭をさすった。

「では――向こうの留置所のベッドを使ってくれ。ああ、安全のために夜は鉄格子の鍵をかけさせてもらうからな、勘弁してくれ。手洗いで本官を起こすんじゃないぞ?房に便所がついているからな。」

リニーはついに堪えきれなくなって聞こえよがしに言った。

「……そんなことだろうと思った。これなら納屋の方がマシ。」

「贅沢は言えないよな……。」

「さすがに同情するわ。」

「無念。」


次の日の朝、太陽が東の空にあってまだ熱を持っていない時間から四人は街を出た。茶色い馬に跨っての旅路である。四人にはそれぞれ乗馬の心得があったが、この街で飼われている荒馬には少々悩まされ、乗りこなすのに時間が必要だった。

保安官アープは街を離れることができなかったが、「大きな穴」に至る道の説明を与えた。まずは街道をいくらか進む。すると細切れの板で作った古ぼけた看板に「大きな穴」の方角を示したものが立っている。そこからは街道を外れて方位磁針を頼りに荒野を駆けていくのだ。辺りにはいくつか奇岩が立っていて、それらの見え方を参考にして道が正しいのを確かめることができる。

四人はだいたい一列になって乾いた砂ばかりの地を進んだ。太陽は昇り、遮るもの一つなく注ぐ日差しが辺りを熱する。走り通した馬は休息を訴えて、彼らは近くの岩陰で暫し足を止めた。

馬を降りて腰かけ、各々の水筒に口をつけながら景色を眺める。視界にはいくつかの奇岩が青空と対照的に赤く聳え立っていた。

「あの奇岩は如何にしてあの場に立ったのか。」

稲熊は岩の一つを見据えて首を傾げた。

「キノコのように生えてきたんじゃない、元からあったんだ。この大地が長い時間をかけて削られていく中で、あの部分だけ周りより硬いから浸食されずに残ったんだ。」

ロバートの説明にアンジェラは目を丸くする。

「それじゃあ、この一帯も昔はあの高さまで地面が上がっていたというの?」

「そうだろう。」

「まさか。」

「遠い昔のことだ。」

暫くは大自然が作る景色を堪能していた。

全員が遠くの奇岩を眺めている、その瞬間のことだった、向こうに停めていた馬の一頭が突然悲鳴を上げて暴れ出した。周りの三頭も驚いて逃げ出すように方々へ散っていく。そのうちに暴れていた馬が大きな音と共に首から血を噴き出して倒れた。音は向こうの岩場から聴こえた、銃声だった。

「伏せろ!」

ロバートは咄嗟にそう叫んで姿勢を低くした。

銃を持った何者かが馬を撃ち殺した。先に移動手段を潰して逃げ道を失くそうという魂胆だ。敵の数は見えないが、少なくとも集団であろう。問題はその目的だ。野盗なら獲物を見る目がないと言ってやりたい。そうでなければ――。ロバートはホルスターの銃を抜こうとして息を呑んだ。

弾を込めていない。

敵はすぐに現れた。十騎余りの騎兵がそれぞれにライフルを手にして走り来る。次第にはっきりと見えてくるその姿は――黒い髪、褐色の肌、砂混じりの風に吹き晒して着慣れた服……インディアンに違いなかった。

インディアンの集団はたちまち四人を囲い込んだ。一人の若い男が片言な英語で話しかけた。

「動くな。」

四人は両手を挙げて座り込み、銃口を差し向けられるままに一塊になって縮こまる。

「仲間は。」

「いない。」

「嘘をつくなよ。」

「本当だ、馬はあれしかいなかっただろう。」

男はなおも疑り深く尋問した。周辺を偵察していたと見える数名が合流して漸く仲間がいないことを確信した様子だった。

インディアンの戦士たちは順番に馬を降りた。彼らの中には首領たる男が一人いるのが分かった。赤いバンダナを巻いた男は戦士たちを従えて少し遠巻きに四人を見据えていた。

彼は通訳の男に何か語った。通訳はそれを聞いて頷いて、再び英語で彼らに話しかけた。

「あのお方はアパッチの偉大な戦士、ジェロニモだ。彼の問いには正直に答えよ。」

「この辺りで行商を襲っているというインディアンは君たちのことか。」

「質問は受け付けない。」

いくつもの銃口を向けられている上に、話がどこまで通じる相手かも分からなくて、ロバートはただ言われるままに従うしかなかった。背中に汗が伝うような感覚がした。

男はジェロニモというインディアンの言葉を伝えた。

「お前たちをすぐに殺さなかった理由は一つのみ。そこに娘を連れていたから、どのようなつもりか気になった、それだけだ。」

異様な沈黙が流れる。答え次第ではすぐにでも殺すのだろう。

「彼女は僕の同行者だ。この旅でずっと行動を共にしているんだ。」

彼の説明にリニーも黙って頷く。通訳は彼の言葉をジェロニモに伝える。ジェロニモの反応は薄く、何も言わないのでまたしても風の音ばかりが鳴る。アンジェラは小声でロバートに「何か策があって?」と囁いた。力なく首を横に振ってそれに答えた。

「僕たちは君たちの仲間をどうこうしようというつもりはない。その手の連中とも無関係だ。今持っているものならいくらでもくれてやるし、要求があるなら聞こう。」

そのように語るロバートを通訳はしっかり聞いていたはずだった。しかし彼は一行にそれを訳そうとはしなかった。あくまであちらからの質問以外は伝えるつもりがないようで、ロバートはいよいよ二進も三進もいかなくなった。

不意にリニーは何かを口にした。初めは上手く聞き取れなくて、三人が彼女の方を振り向くとリニーは言った。

「自分のことは自分で説明する。アパッチとはいくらか話ができるから。」

「およしなさい、話して聞くような相手ではなくってよ。」

「そうだ、ここは彼らの言うことに従おう。」

制止も聞かず、リニーはジェロニモに対して直接話しかけた。英語とは異なる響きを持った言語は確かにインディアンたちに伝わっていた。ジェロニモも黙って耳を傾けた。

リニーは自分らの素性を話してから、インディアンの一団の目的を探ろうとした。彼らはリニーに対しては丁寧に応対した。それでむしろ彼らの白人に対する憎悪が際立つのだった。

インディアン同士の会話が行われるのを三人は黙って眺めていた。やがて話は終わり、ジェロニモたちは仲間内でぶつぶつ言い合っている。

「あなた、何を話したの?」

アンジェラはリニーに尋ねた。銃を持った相手と交渉するのはかつてない経験で彼女も心労を抱えていた。

「ここにいる人たちは悪い者じゃないと。……少し、噓をついた。あなたは、そうじゃないのにね。」

「余計なお世話よ。」

「冗談を言えればリニー嬢もまだ平気と見える。」

やがて、ジェロニモらの間でも話がついたようだった。通訳係は声を上げた。

「リニヤキワニは我々が保護する。お前たちはここで死ぬがよい。」

「何だと?!」

「勘違いしているようだが、我々が略奪するのは生きるために必要だからだ。我々が戦う目的は白人への復讐、それだけだ。」

一団は一斉に銃を構える。リニーは慌てて彼らの言葉で何かをまくし立てている。ところがジェロニモの決定は揺るがず、一切聞く耳をもたない。

多くの銃口を向けられた稲熊はさっと腰に手を添えた。

「辛抱堪らぬ。ロバート、アンジェラ、何れも死する道なればせめて軍人らしく一矢報いてもよかろう。」

「あなた、馬鹿げたこと考えているでしょう、その刀でどうしようというの?」

「一人、二人は斬れようぞ。」

「それをしてどうなる。」

「一花咲かせて散るのが大和魂持つ者の道。」

アンジェラは「くだらない」と斬り捨てて、通訳のインディアンを指さしながら語った。

「私はあなたたちと死ぬのは御免よ。そこの通訳、今から言うことをあなたの主人に一言一句間違えずに伝えなさい。私はアンジェラ・エマソン、強力な術士の家系で、サクラメントのエマソン家といえば知らない者はいないほどの富豪の娘なのよ。お分かりかしら、ここにいる者とは格が違っていてよ。その気になればあなた方に手を貸すこともできるの。だからね、他の者は殺しても構わないけれど、私のことはどうするのが賢いか、それは明らかでしょう。」

途端にリニーが目の色を変えた。

「クソ女!」

周りの銃口もお構いなしに彼女にとびかかろうとした時、ロバートがついに立ち上がった。

「やめろ!」

驚いて手を止めた二人を引き離す。

「全員いい加減に大人しくしろ!これは僕の仕事なんだ、黙って僕の言うことを聞くはずだったよな!?」

いつの間にかすべての銃口は立ち上がったロバートに向けられていた。彼はジェロニモの目をまっすぐ見据えた。彼の目は黒く、輝いていて、それでいて冷たかった。

「僕はロバート・グレイヒル、保安官でも軍人でもない、サクラメントの電信技士だ。ここに来た目的はこの先にある『大きな穴』に赴いて、そこで調査をすること。それさえできたなら他のことには一切興味がない。彼らは僕の同行者だ。頼んでもいないのに勝手について来て、言うことを聞かないわ目の前で喧嘩するわ、仕事の邪魔だったらありゃしない。それでも、僕がこの仕事を引き受けなかったら彼らは殺し屋が蔓延る過酷な地に足を踏み入れることもなかったんだよ。分かるか、全部僕が招いたことだ。君たちは何の復讐のつもりか知らないがそちらの勝手な都合で僕たちを殺すのなら、その前に勝手な都合で彼らを連れて来た僕に、落とし前をつけさせてくれたっていいだろう。」

リニーは正しく伝えてくれただろうか。一瞥もくれることはなかった。今、目の前の男から視線を逸らしたらきっと願いを聞き入れてくれることはないだろうから。

何人かの戦士は答えを求めるようにジェロニモを仰ぎ見た。先刻までは射撃の合図を待っていただけの男たちが、今では別な指示を持っている。やがて、ジェロニモの固く結ばれた口がゆっくりと開いた。

「戯れに尋ねよう。『大地のへそ』は我々でも近付かないような忌むべき地だ。お前はそこで何をしようというのか。」

「時化だ。常に時化ると聞くその土地で、僕は技士として調べたいことがある。」

「精霊の悪戯に何を知ることがあろうか。」

「言っても理解できないだろう。精霊の悪戯でも何でもいいが、僕は技士として自分自身が納得できるようにそれを調べたいんだ。」

ジェロニモの返事はなかった。インディアンは時化を精霊が起こす悪戯だと信じている、それを貶めるような言葉は不敬か。それとも『大地のへそ』と呼ぶ地に足を踏み入れること自体が禁忌か。そうだとしてもこの場を退くことが許されぬのなら、残された道は突き進むしか残っていない。

突然にジェロニモは前に進み出た。ロバートの目の前まで迫ってギロリと彼の青い目を覗き込んだ。息が吹きかかるほどの距離で彼は「良かろう」と言った。

「『大地のへそ』に行くことを認めよう。この方角へひたすら直進すれば大穴はある。」

ジェロニモが右手を掲げて示した方角はアープに教えられたものと一致している。彼は噓をついてはいない。

「感謝する、ジェロニモ……」

「ただし、試練を与える。」

そう言って彼は乾いた棒切れを取り出した。

「お前が走り出すと同時にこの木に火をつけ、これが燃え尽きたら我はお前を殺すために後を追う。我が追いつくまでに『大地のへそ』にたどり着いたなら、お前と、共にいる者は見逃そう。もしもそうでなければ――お前はその場で我に殺され、ここにいる者も撃つ。」

ロバートは徐々に脚の力が抜けていくのを感じた。

アパッチの戦士の試練を聞いたことがある。酷暑の荒野の中を走り続ける、休憩も、水分を摂ることも許されない。落伍者には厳しい罰が待っているのみ。そうして幾つもの試練を乗り越えるうちに身体は引き締まり、素足は岩のように固くなる。目つきは猛獣のように鋭くなり、最強の戦士が鍛え上げられる。ジェロニモや、ここにいる戦士たちもおそらくそのような鍛錬をこなした者たちだろう。白人との数的不利な戦いの中にあって誰一人として音を上げることがないのはそのためだ。彼が今一介の技士風情に課しているのは自らが潜り抜けてきた試練の一つであろうか。

生唾を飲みこんでロバートはジェロニモの腰に視線を落とした。そこにはナイフがあって、この勝負を断れば今すぐに突き殺されるのだろう。ここではない荒野のどこかで刺されたってそれは同じことだが。アンジェラや稲熊が不憫でならない。自分の命を他人に預けて、赤土の上に座り込んでいるだけなんて。

――不憫?どの立場でものを考えているんだ?

「穴までは何マイルあるんだ。」

「質問は受けないと言ったはずだ。受けるか、受けぬか、答えはそれだけだ。」

浅くなった呼吸を、整える。

「やろう。」


太陽が照り付ける地に即席の焚火が組まれる。アパッチの男たちがそこに火を起こしている間、ロバートは岩陰で靴を履き直していた。そこへ隣り合うようにして三人も座った。

「馬鹿ね、残忍なインディアンが約束を守ると思っていて?」

アンジェラは遠くを見つめて呆れた調子で言ったが、内心では不安がっていた。

「彼は戦士だ。その、誇りとやらに賭けるしかない。君こそ、あんな三文芝居が通用するとでも?彼が怒って、逆に君以外を解放すると考えたのか。」

「あら、勘違いよ、私は思った通りのことを言っただけなんだから。」

「だったらもう少し上品な言い方をしたらどうだ。」

「失礼ね。……ロバートこそこんな勝負を引き受けるなんて、貧乏くじにもほどがあってよ。」

返事はない。それは本人が一番案じていることだ。

「ロバート、行けるのか?ただでさえ厳しいこの気候、追い殺されぬでも倒れるやもしれぬ。代わりになるかは分からぬが、某が……」

「これは僕に持ち掛けられた勝負だ。これでも、昔は毎日のように走らされたものだ。」

「それっていつ?」

リニーの問いかけには答えず、彼は立ち上がって足首を回した。

「すまないが、今ここで謝罪の言葉を尽くす時間がない。いくらでも恨んでくれて構わないから、後で何でも思うように言ってくれ。」

「地獄で会ったら言ってあげるわ。」

「某は軍人になりし日より、心は決まっている。」

「そういうのやめてよ。」

瀬戸際を前にして妙に調子がいい彼らのことをリニーは納得できなかった。

「私がもう一度頼んでみるから。その方がまだ……」

「その言葉は取っておいてほしい。もしかしたら僕の心意気に免じて彼らは二人を見逃してくれるかもしれないから。」

それじゃあロバートは助からない。それを口にするのをを制するように彼はリニーの肩に手を置いて小さく首を横に振った。

ジェロニモはロバートに近付いた。低く響く声で呼びかける。

「用意ができた。」

方位磁針を取り出して手のひらに載せてみる。針が示す向きを確認して、穴のある方角をもう一度確かめる。直径半マイルもあるような穴だ、前後不覚にでもならない限り見逃すはずもない。

ジェロニモは焚火の前に立った。太陽の下で炎はよく見えないが、揺らめく陽炎に彼の影は照らされて薄がかっている。薪の爆ぜる音が聴こえる。そこで棒切れを手にし、彼は言う。

「火が点いたら走り出せ。」

見たところ、棒切れはロウソクほど長く燃えたりはしないが、それでも十五分やそこいらは燃え尽きずに残っていそうだ。追手の速度は未知数だが、予め大きな差は作れる。

「行くぞ。」

そう告げ、戦士たちが見守る中、ジェロニモは棒を火に近付け――その中に落とした!

衝撃のあまりロバートは目を見開いた。

「何だと!?ちょっと待ってくれ!」

「火は点いた。試練は始まっているぞ。」

「棒の一端に火を点けるのじゃなかったのか……!?それじゃあ棒は……五分も経たずに灰になってしまうじゃないか!」

棒切れは焚火の中で表面全体に炎が広がり、表面が急激に黒くなっていく。

「何か、自分に都合のいいように解釈していたようだな。世界はお前の思い通りには動かないぞ。……走らぬのなら、今ここで殺してもよい。」

「クソッ!」

ロバートは一目散に駆け出した。三人の顔を確認している間も無かった。無慈悲な砂を蹴って土埃を上げながら荒れた大地を駆けた。

――計算が狂った。奴が走り出すまでにどれだけの差を作れるか分からない。既に開始地点は丘の向こうに見えなくなっていた、ここから先はどれだけ進んだかも分からない。目的地に近付いているのかも分からない。

焦って体力を消耗してしまった、足取りが鈍くなっている気がする。追手はもう出発しているだろうか。すぐにでも後ろの地平線からあのバンダナが覗くのではないかと思うと腰が抜けてしまいそうになる。

息が上がってきた。顎がだらしなく突き出る。目の焦点は合わなくて、いよいよどこまで進んだか分からない。

アンジェラ、稲熊、リニー――彼らには悪いことをした。つまらないことに巻き込んでしまって、むざむざ命を失うなんて。ロバートの仕事を多少でも認めてここについて来たというのなら、最後に失望を与えて終わるのは忍びないことだ。でも今更気にするほどでもない、これまでも繰り返してきたことだから――。

全身が渇きを訴えている。惰性で脚を回し続けていなければすぐにでも倒れてしまいそうだ。次第に足元の地面が柔らかくなってきて、まるで寝床の上を走っているようだ。終いには遠くの奇岩がバッファローのように動き出してぐるぐる回り始めた。

振り向けばジェロニモが目の前にいるかもしれない。ナイフを構えていつ跳びかかろうかと狙っている。どうせ何もない荒野で野ざらしにされるのなら少し先で死のうが、歩みを止めてここで死を待っていようが変わりはないだろう。これ以上は無駄なあがきだ、だって今でも倒れそうなくらいに辛いのだ。

こんな仕事、受けなければよかった。


「グレイヒル!そこに直れ!」

聞き慣れた、聞き飽きた上級生の声がする。

ここはどこだ。今までコロラド高原のただ中にいたはずなのに――そうだ、忘れもしない、寮の手洗場だ。この手洗場は談話室から遠いところにあって、用を足すだけならわざわざここまで来る必要はないのだ。

色褪せたタイル張りの上に窓ガラスの破片が散乱している。

ガラスの破片の上に座る時というのは、最初は厳しいものだが、じっとしていればそのうち痛みが和らいでくるのだ。ただしそれは先輩方も分かっていることだから、あからさまに体勢を崩そうと小突いたり蹴ったりする。そうなれば新しく刺さった片に血を伝わせながら、また痛みに小慣れるまで堪える。

食事の時間も油断ならない、口の中が切れて痛いからといって食べるのにもたついているとまたしても目をつけられる。翌日の訓練で倒れたくないなら、水で喉の奥に流し込むでもして一息に食ってしまうしかない。

日中も大して変わらない、泥沼に浸かって下着まで汚れて重くなった制服を身にまといながら、運動場を駆ける。教官がよしと言うまで止まってはいけない。膝を着けば拳が飛んで、教官は怒鳴りつける――。

「止まるな!グレイヒル!」


瞼を上げれば、今しがた見えていた運動場はどこにもなかった。

ここはどこか。その答えは分かっている。ここはアリゾナの北、コロラド高原。訓練場ではないし、寮でもない。教官はいない、上級生はいない。

自分はロバート・グレイヒル。アパッチとの勝負の最中にあって、目指す地へとひたすらに走り続けている。勝負には命が懸かっていて、それは同行する者たちの分も背負っている。辛いことはないさ、一式を詰めた背嚢を背負い、生傷だらけの脚で走らされたあの運動場より楽なものだ。

ロバートは後ろを振り向いた。豆粒のような大きさの人間が見える――来た、ジェロニモだ。こちらへただまっすぐ、一定の速度で追い続けている。このままの調子ではいずれ追いつかれよう。

目的地は未だ見えず、ふらふらしているうちに方向が逸れたかもしれない。先刻見た奇岩の風景から方角を確認し直す必要がある。もう随分走っているから、決して近付いていないことはないのだ。そして一つ気付いたことがある。

さっきはルールの穴を突かれて見事に騙された。それと同じことを仕返せばよい。「目的地にたどり着く前に追いつかれたら殺される」とは言った。しかし「無抵抗に殺されねばならない」とも「追手を足止めしてはならない」とも言われてはいない。ジェロニモはロバートを殺すために追っているのだ、ならば逆に殺し返されようと文句は言えまい。

ロバートは自らの足取りに合わせて腰に提げた拳銃が揺れるのを感じた。銃は上着の下に隠しておいた、ヒルバレーでは要らぬ誤解を与えてしまったが、これでよかった。叔父さんは自分を守るための力を授けてくれた、ナイフ一本で迫る刺客から身を守ることができる。問題は、おそらく遠巻きに仲間の戦士が勝負を監督していて、何らかの異常があればすぐに開始地点にとんぼ返りして仲間に伝えるであろうということだ。そうすれば勝負は無効になり、二人の命はない。

やれるだろうか、一人で。こちらに味方するような要素は、アパッチの戦士たちはジェロニモを首領として尊敬しているということくらい。

追手は随分近付いてきている。歩みを止めれば三十秒そこそこで追いつかれそうな距離まで肉薄している。勝負をかけるならこれ以上は引き延ばせない。ロバートは向こうで大地が段状に小高くなっているのを見つけて、麓まで来て岩の崖をよじ登った。高所を取ればこちらのものだ、彼が登ってくる隙に撃つことができる。

ホルスターから拳銃を抜き、装填口を開く。ポケットに入れておいた弾丸を六発取り出し、シリンダーを回しながら一発ずつ込めていく。ジェロニモは近付いてきている。立ち止まってこちらを見下ろすロバートを不審がっているようだ。慌てる必要はない、射撃に焦りは禁物だから。装填が終わったら撃鉄を上げていつでも撃てるようにしておく。

ジェロニモは崖の麓までたどり着いた。ロバートは崖下の彼に銃口を向けた。

「動くな。岩に手を掛けたらすぐに撃つぞ。」

ジェロニモは銃を向けられても怯える様子は少しもなくて、肝の据わったところは流石戦士であった。ロバートはともすれば逆に気圧されてしまいそうだった。

「悪いが『追手を殺すな』とは言われてないぞ。それともこれは不正だと仲間を呼びつけるかい。あなたのような首領を失っては彼らも……」

「お前の勝利だ。」

彼は歯切れよく言い放ってナイフをしまった。

「何だと?まだ勝負は終わっていないじゃないか。」

「今、終わった。」

どうやら彼は本当にロバートを殺す気がなくなったらしい。

「なぜだ。僕はまだ目的地に着いちゃいない。」

「背後を見よ。」

ジェロニモがそう言えど、ロバートは照準から目を逸らすことができなかった。後ろを向けばすぐにでも彼が登ってくるかもしれない、一瞬でも目を離したならば高速でナイフが飛んでくるかもしれない。それでロバートはしばらく固まったように動かなかった。

背後から音が聴こえてくるのに気が付いた。低くて長い音――老鯨の嘶きよりずっと重苦しい――遥か地底より響く音のような。風が冷たい。厳しい日差しが照り付けるのに、顔から首筋を通り抜けていく風が涼しく感じる。ロバートは警戒のために振り向けなかった、当人もそのように考えていたが、本当は、後ろにあるものを確認したくなかったのかもしれない。彼の後ろでは今、冥府に通じる扉から悪魔がこちらへ手を伸ばしている、そう言われても信じられる。

照準を向ける視界の端に、妙な植物が映り込んだ。黒い、葉が黒い枯草。枯れ草などではなく、これは地獄の植物か。足元のを踏みつけてみて、それは表面が炭化した植物だと分かってきた。

これ以上じっとしてはいられなかった。ロバートは意を決して振り向いた。

そこには何も無かった――「闇」があった――闇のように暗く、深い大穴が見渡す限り、赤茶けた大地にぽっかり口を開けているのだった。

「あった、本当にあったんだ……。『大きな穴』だ。」

「今日も屍者の声が聴こえる。」

いつの間にかジェロニモは崖を登ってきて、ロバートの隣に立っていた。

「この音は風が穴に当たって唸るのか?これほど荒れているのは自然の風じゃないな。間違いない、時化だ。たどり着いたんだ、やっと――」

次の瞬間、ロバートは目の前を闇に包まれ身体を地に伏せた。


目を開けて最初に見えたのは星空だった。

横たわった身体の上に毛皮がかけられている。顔の左側に焚火の灯りを感じた。やおら上体を起こしてそちらを見やると、見慣れた三人組が火を囲んで座っていた。彼らはロバートに気が付いた。

「気が付いたのね。」

「三人とも、無事だったんだ。良かった――」

立ち上がって駆け寄ろうとしたロバートはよろめいて、支えようとした稲熊にのしかかるようにほとんど全体重を預けた。

「まだ動かないで。ロバート、疲労で倒れて、彼が介抱してくれていたの。」

彼――ジェロニモが。そういえば穴を見つけた後、意識を失って倒れたのだった。その時の記憶が曖昧になっている。本当に穴はあったんだろうか――そう思った時、彼の耳にまたしても地底よりの音が飛び込んだ。目を凝らせば、向こうの真っ暗闇は「大きな穴」そのものだ。今はその近くで野営をしていたのだった。

「彼らは、アパッチはどうしたんだ?」

「向こうの焚火が見えなくて?今日はここで泊まるんですって。」

見れば、遠くの岩陰にもう一つ焚火があって、そこに人影がいくつもあった。あれはインディアンらしかった。

「私たちにはもう手を出さないって。水も食糧も貰ったし。」

「当然よ。私たちは殺されかけたのだから。馬だって連れ戻して来てくれなかったら、向こうにある洞穴の骸骨みたいにここで行き倒れだわ。」

「すまない、みんな。今更言っても遅いが、僕が軽率だった。」

「別にあなたを責めるつもりで言ったのではなくてよ。それに、もう謝ることはないでしょう。」

「左様。某が初めて顔を見し時より素晴らしき男だ、主は。」

「何はともあれ、私はあなたたちが生きててよかったと思う。」

今度こそ、人を裏切らずに済んだんだ。ロバートは目頭が熱くなるのを抑えられなかった。

「……それで、ロバートはいつ稲熊から離れるの?」

「まさか、そういう嗜好ではなくってよ……ね。」

「よさぬか。」

「ああ、すまない。」

体の調子が落ち着いてからは無性に腹が減ってきて、ロバートは持ってきたとうもろこしパンとアパッチに与えられた干し肉を貪った。その後は沸かした湯を飲んで体を温めた。

「まさか思い出したくもない記憶に勇気づけられるとは思わなんだ。」

ロバートは独り言のように、だがしっかり三人に聞こえるように呟いた。リニーは訝しんで尋ねた。

「それって昼間に言っていた『昔は毎日のように走らされた』という話と関係あるの。」

彼は無言で頷いた。

「もう六年も前のことになるな。」

六年、それを聞いてアンジェラには思い当たることがあった。

「ねえロバート、あなたが入隊したというのは根も葉もない噂だと言っていたけれど、私にはそれほど単純なものには思えないわ。全くの事実無根ならそんな話上がってくるものかしら?」

「嘘だよ。入隊というのは、正式に陸海軍に配属されることを言うんだ。だからそれは嘘だ。」

見上げた夜空には数え切れぬ星が輝いている。この地の影響か、その光はしきりに瞬いて見える。

「ニューヨーク州にあるウエスト・ポイント陸軍士官学校って知ってるか。そこに在籍していたんだ。一年だけ。」

「や、ウエスト・ポイントとな。数々の名将を輩出せし名門ではないか。ロバート、主は軍人であったか、やはりな。そういえば叔父上も将校であった……」

「だから違うんだ。中退したんだよ。」

「どうして?」

「簡単に言えば、僕は向いてなかった。今もこの通り電信技士をしているような男だからな。叔父さんは喜んでくれたのに、申し訳ないことをした。僕を見込んでニュージャージーの中等学校に進学させてくれたエマソン卿にも悪いことしたよ。」

「いいのよ、お父様は人に恩を着せるのが趣味なんだから。」

アンジェラはどこか辟易したように肩をすくめた。

「そんな言い方してはいけないよ。」

「士官学校は叔父様の勧めで入ったの?」

「いいや。実際、そんなことは一切なかった。僕が決めたんだ。幼い頃から叔父さんに面倒を見てもらっていたから、軍人になって跡を継げば孝行になると思ったんだ。それに士官学校ならそれまでの学問も続けられたから。……今思えば叔父さんに変な期待を持たせるくらいなら、最初から総合大学に進学していればよかったよ。」

「軍人」というのは、成り損ないに使う言葉ではない。

「とにかく、走っているうちにその時のことが思い出されてきて、図らずも走り続ける気力が湧いてきたんだ。」

四人とも黙り込んだ。ロバートはつまらぬ話をしたことを詫びようかとも思ったが、かえって惨めになるので押し黙った。重い空気を吹き飛ばすように炎が激しく燃え上がって、火柱が座っている彼らの顔の高さまで上がった。すかさずアンジェラが手をかざすと炎は元に戻った。

「いけないわ、術をかけておかないとすぐに暴れ出すんだから。さっきから気味の悪い音も聴こえてくるし、私ここ嫌いだわ。」

「アンジェラ、恐れておるか。主も女子よ。……だそうだ、ロバート。」

「僕にどうしろって。」

アンジェラはため息をついて、顔の前で手を払った。すると炎は再び燃え上がり、ロバートと稲熊の顔の前まで立ち昇る。二人は驚いて後ろに手をついた。

「髭が燃える!」

「何するんだ!」

「知らないわ。時化ただけでしょう?」

「今さっき君が術をかけてたじゃないか!」

「魔女……!」

「いかにも、私は魔女だけど?」

アンジェラは膝を抱えて澄ましている。ロバートが稲熊を睨みつけると、彼は平静を装って帽子を被り直しているところだった。

三人が騒いでいる間もリニーは暴れる炎を黙って眺めていた。どこか物憂げな目をしているのは瞼が重いからと見えてロバートは「そろそろ寝ようか」と声をかけた。すると彼女は、

「この焚火はもう少しだけ続くはず。」

ぽつりと言った。

「どうかしたのか。」

その問いかけを言い終わるかというところでリニーは切り出した。

「私の話を伝えておこうと思って。……なんで、あの日列車に乗っていたかって話。」

ロバートが知ろうと欲していた話題だった。彼女自身が話す心づもりになったのならば、提案への答えは決まっていた。

「大方の想像通り、私はインディアン寄宿学校を抜け出してきたの。」

文明より隔絶された深い闇の荒地で、リニーは時折呼吸を置きながら在りし日の記憶を語った。


リニヤキワニはホピの術士の娘である。

彼女はアリゾナのインディアン居留地に暮らす部族の酋長の家系である。インディアンの術士は伝統的にその力をもって占いや祭祀を担う立場にあり、部族の中で重職に就いていることが多い。彼女の母もそのような者の一人であり、リニヤキワニは幼い頃から母が祭祀を執り行う姿を見てきた。

部族は古くからアメリカ南西部の地で農業、牧畜、狩猟採集をして暮らしてきた。合衆国政府による居留地への強制移住政策は彼らの生活を一変し、先祖代々の土地という大切な財産を奪うものであった。不満はあったが、結局部族は白人に土地を明け渡すことになった。居留地の村に生まれ育ったリニヤキワニはそれ以前の様子を知らない。酋長の家系に生まれた彼女を皆は敬い、丁寧に接した、自らの白人への恨みを彼女に吹き込む者はいなかった。

ある祭祀の後に母が語った言葉をリニヤキワニは覚えている。先刻、皆が囲んで踊った炎と向き合いながら、その明かりに頬を照らされた母は言っていた、「白人も同じ人間であるから、いつかはお互いを理解することができる」。優しい母の黒い瞳が潤むのが彼女の目に焼き付いたように残っていた。

インディアン寄宿学校、その話が初めて部族のもとに舞い込んだのは、リニヤキワニが十四の年であった。インディアンの少年少女を救済する、という目的で部族の未成年者を通わせる全寮制の学校については、先行して開校した他の部族の話をよく聞いていた。大人たちの間には根強い不安があった。彼女の母も、遠い地に行くことになる娘を心配していた。部族を挙げて反対運動を起こそうかとの話も持ち上がった頃、リニヤキワニは決心した。自らが率先して「寄宿学校に入学する」と宣言したのだった。その根底には心に刻まれたあの夜の母の言葉があった。酋長の娘の決定に部族の他の子供や大人たちも納得した。かくしてリニヤキワニはカリフォルニア州のインディアン寄宿学校に入学する次第となった。

寄宿学校の敷地は広く、校舎も寮も巨大で村の土壁の家とは比べようもなかった。リニヤキワニが入ったのは術士のみの学級で、施設も本校舎から遠く離れていた。部族には他に術士の子供がいなかったので学級に知り合いはおらず、他の数人の級友は他部族の子であった。誰も勝手が分からない状況の中ではじめは重い空気だったが、すぐにそれも打ち解けていった。

寄宿学校の勉強は英語の読み書き、計算、白人の歴史、家庭科、聖書など、多岐にわたる。加えて術士の学級では術の使い方を習う時間もあった。工業化に伴って術士が求められる中、インディアンの術士でさえ工場の制御を任されることがあった。学校の生徒にもそのような力が求められていたのである。

授業は英語で行われる。野を駆け暮らしてきたリニヤキワニにとって学校の勉強は難しかった。それと同時に新しいことを知るのが楽しくもあった。友人との日常会話ですら英語で話さなければならないのは骨が折れた。教師の前でうっかり母語を話してしまうと怒られて、罰として校舎の掃除を課されることもある。友人がそのような罰を受けた時、リニヤキワニは颯爽と教師の前に進み出て母語を話した。友人と一緒に床の掃除をしながら笑い合った。村での暮らしには代え難いが、こんな生活も悪くないと、そう思った。

そのような思いは幻想であったとリニヤキワニはある日思い知らされる。

寄宿学校での生活も一年が経過した頃のことである。午後の陽気に誘われてリニヤキワニは校庭に出た。校庭をまっすぐ突っ切って東側、木立を隔てた向こうに本校舎があるのを知っていた。本校舎に入ることはできず、木立に近付くのも固く禁じられていたことだから、彼女は向こうの様子を全く知らなかった。本校舎では術士でないインディアンたちが学んでいるはずである。部族の友人たちもそこにいるだろう。その日、リニヤキワニは冒険心が勝って木立に分け入ることにした。

制服のスカートをたくし上げながら行けば、すぐに叢の中に鉄柵が立っているのが見えてきて、それ以上先には進めなくなった。柵の向こうにはわずかに本校舎の校庭が見えるのみ。すぐにつまらなくなって、しかし引き返す前にもう少し柵に沿って歩いてみることにした。すると静かだった木立に人の声が聞こえてきた。

男の叱りつける声、主はそう遠くない場所にいる。視界には柵の向こうに菜園が見えてきた。

怒鳴っていたのは白人の教官だ、叱っている相手は数人のインディアンの男子生徒だった。遠くからでも威圧されるような剣幕で、あのように怒る教官は彼女の学級にはいなかった。生徒たちは俯きがちに立って、教官の前に並んでいた。何があったか知らないが、そこまで怒鳴る必要はないはずだ。だが見つかってはいけないと、リニヤキワニは身をかがめて様子を窺った。

教官は黒っぽくて長いものを携帯していた。ここからでは判然としない、次の瞬間、目を疑うような光景を目撃した。男はそれで生徒を叩いたのである。苦痛の表情を浮かべる生徒、教官はそれを見てまた叩く。彼が持っているのは鞭だ。同じように全員が罰を受けるのを見て、リニヤキワニは歯を食いしばった。

一通りの指導を終えて、教官は何かを言いつけてその場を去った。生徒たちは渋々菜園内に散っていく。リニヤキワニはその中に見知った顔を見つけた。部族の幼馴染である。彼女は何度か合図を送って名前を呼んだ。いずれ彼は柵の向こうの彼女に気が付いて、周囲を見回してから駆け寄った。

「リニヤキワニ!こんなところで何をしている――いや、今はいい、顔が見られて嬉しい。」

彼は柵を掴む彼女の手を握った。

「うん……。」

口笛を吹いて他の生徒たちを呼び集める。たちまちその場にいた全員が柵際に集まった。幾人かは叩かれたところを赤くしていた。

「大丈夫……?」

「あの教官!菜園で使うこてが一つ足りなかったんだ、それで誰かが盗んだと言い張って……叩かれるのは今日二回目だ。」

「いつも、ああするの?」

「ああ。やることなすこと遅いと難癖つけてきては好き放題やってくる。この間はつい部族の言葉が口を突いて出たら、口に石鹸を突っ込んできやがった。『汚い口を洗ってやる』と抜かしたんだ。リニヤキワニ、ずっと会ってなかったから心配だった。そっちはどうだ?聞くところじゃ、女子教室でも殴られた者がいるっていうじゃないか。」

知らなかった。体罰など、あんなに激しい折檻をリニヤキワニは見たことないのだから。

例えインディアンでも術士には利用価値がある。だが平民はそうではない。白人に対して従順になるよう厳しく指導され、従わなければ罰を受ける。彼らは他にも教官に受けた指導という名の暴力を詳らかに語った。寄宿学校、それは若いインディアンを白人に従うよう「教育」する場であった。

話をするうちに生徒たちの口から恐るべき計画が語られた。憎しみを募らせた彼らは大規模な反乱、そして脱走を企てていた。既に多くの者がこれに賛同しているという。

リニヤキワニはそれはいけないと声を荒げた。

「校内の白人を倒したとしても、敵はそれだけじゃない。白人の軍隊には勝てるはずがない。そうなれば捕まって牢獄に入れられるか、殺されてしまうかもしれない。それだけじゃないわ、このことが原因で故郷の村だってどうなるか知れない。」

「俺たちは部族の誇りに懸けてこのまま白人に虐げられているわけにはいかないんだ。例えどうなろうと、戦わねばならないときはある。リニヤキワニ、君には止めてほしいんじゃない。」

「いけない、いけないわ。」

「精霊は我々と共にある。リニヤキワニ、君の力があればひょっとすれば、上手くいくかもしれない。」

彼女は柵の向こうの顔とそれぞれ目を合わせた。もはや考えを変えさせることはできない。そうさせる資格もない、ずっとぬるま湯に浸かってきた彼女には。

反乱は必ず失敗する。友人たちは皆殺される。故郷にいるその家族も無事では済まない。村は滅亡する。

リニヤキワニは母の瞳を思い出した。

最初に寄宿学校へ入ると言い出したのは紛れもない自分である。あの日の言葉を純粋に信じていた自分の愚かな決定が皆を地獄に連れ込んだ。自分のせいで部族は滅びの道を辿る。万に一つ、救う手立てがあるとしたら……

リニヤキワニは柵に頭を打ちつけた。上目遣いで向こうの顔を見据えて彼女は言った。

「私が一人で行く。私は術士で、家族は酋長だから白人も簡単には手を出さないはず。隔離された術士の教室から脱走者が出たって、あなたたちには知らないことだから責められる謂れもないわ。」

「何言ってるんだ、君一人で何をするんだ。」

「だったら、あなたたちは寄せ集まって何をしようというの。」

「君が出ていったとして、俺たちには今まで通りこの校舎で屈辱の生活を続けろというのか?」

「約束する、私が必ずみんなを救うから。私がみんなのために戦う間、みんなは私のためにここで戦っていてほしい。」

「認められるか……」

「精霊は、私と共にある。」

その日の夜、リニヤキワニは寝具の下から隠し持っていたナイフを取り出した。先祖伝来の祭祀用のナイフである。制服を脱ぎ捨て、着慣れた服に着替えた彼女は夜の帳に飛び出していった。その闇が明ける方角は知らない。


地平線から太陽が顔を覗かせる。遮るもの無き不毛の大地には、どこもかしこも平等に朝が訪れる。昨日の熱を失って冷え切った地表もこれから再び今日の熱を蓄えて火照る。

ロバートは一番に起きて、夜を過ごした洞穴の入口に座って眼前の「大きな穴」を眺めていた。

「大きな穴」。この地を初めて訪れたスペインの探検家はこの奇妙な地形をそう名付けた。この地域に住むインディアンの言葉では「大地のへそ」とも言う。碗状に窪んだ大地のその中心部に、直径半マイルはあろうかという巨大な穴が口を開けている。垂直な穴の奥には昼間でも陽光が差すことはなく、いつでも闇に包まれた深淵は底無しの様相を呈している。この地をさらに特徴づけるのは何と言っても異常な時化である。あちこちの方角から不自然に吹きすさぶ風は穴との作用で辺りに重低音を響かせる。それはあたかも地底より響く屍者の怨嗟の声のようである。付近に根を張った植物も時化によってたちまち生気を失い、乾いた葉はやがて炭化していく。まさに死の土地である。

これまでに穴を訪れた者は少なく、その成り立ちについては不明な点が多い。ここだけに分布した非常に柔らかい地層が削られたか、近くに在るグランドキャニオンのように何らかによる強い浸食作用を受けたか。メキシコには地球外から降ってきた岩石によって作られた巨大な窪地があって、それと同じだと指摘する者もいる。また、その強い時化については穴で繋がった地球内部よりの神秘的な力が引き起こしているとも言われる。いずれにせよ、この奇妙な大地で最も奇妙な光景、それが「大きな穴」である。

いつの間にか、アンジェラが起き出してきてロバートの隣で立っていた。彼は手にしたカップを揺らして問いかける。

「コーヒー、飲むか?生憎冷たいけどね。火を起こして昨日みたいになったら困るから。」

彼女はカップの中の液体を一瞥した。

「嘘。それコーヒーじゃなくってよ。麦の焦がしたやつでしょう。」

「この砂漠ではコーヒーも貴重なんだ。飲まないならいいさ。」

「失礼ね、私がいつ飲まないって言ったかしら。」

「そうか、そうか。」

水で淹れた代用コーヒーをちびちびやりながら二人はもうしばらく景色を眺めていた。

「本当にここでお仕事をするの?」

「もちろん。何とか結果を残さきゃ契約が破棄になる。僕には今回の研究費はとてもじゃないが払いきれない。丁度いい寝床も見つかったことだし、ひとまずここに物資を担ぎこんでこの辺りを研究所にしようと思う。数日に一回補給に来てくれると助かるんだが……」

「そう。それは私以外に任せなさい。」

「なんで。」

ここまで散々勝手を言ってついて来た割には素っ気ない返事だったのでロバートは多少面食らった。

「なんでって、私がいたら研究にならないのでしょう。ロサンゼルスではあんなに厄介者にしてくれたじゃない。」

「そういえば確かにそうだ。」

「あなたって本当に仕様のない人ね。……お気をつけなさい、インディアンの脅威がなくなったとて、ここは依然危険な土地に変わりないのだから。」

「ああ。」

そこへ稲隈が現れてロバートの背中に声をかけた。

「や、ロバート、調子は如何か。」

「平気さ。久々にいい汗をかいた。」

それを聞いて稲熊は思わず笑った。

「よかろう。……して、リニー嬢は何処へ。寝床には姿が見えぬ故。」

「そうなんだ。用を足しに行ったかと思ったんだが、一向に戻ってこない。」

「探しに行きましょう。昨日の今日のことだから。」

昨夜、燻る焚火を前に身の上を語り終えたリニーはすぐに寝床へ行ってしまった。結局、誰も何も言わぬまま就寝した。

「向こうで野営しているアパッチが何か知っているかもしれない。」

二人はカップを置いて立ち上がる。

アパッチの戦士たちは大岩の陰で装備品の手入れを行っていた。幾人かは周囲の偵察に向かっているのか、不在であった。ロバートが集団に声をかけると通訳の男が立ち上がって近付いてきた。そこでリニーのことを尋ねると、男は奥を指し示した。そこにはジェロニモと数人の戦士に、隣にはリニーが座って話をしていた。彼らもこちらに気が付いて、ロバートは彼女と目が合った。

皆は一つの輪になって大岩の陰に集った。ロバートらが何かを尋ねる前にリニーは口を開いた。どうやら朝からジェロニモと話していたようである。

「私は決めた。しばらく、この人たちと行動を共にしようと思っている。彼らは隠れ里に同胞を匿っていて、私もそこに行ってみようと思う。」

リニーは昨晩の話をジェロニモらにも語った。すると彼はこの提案を持ちかけたのだ。

「自分が飛び出してきた目的を達成するための手段を私は知らない。それを考える時間が必要なの。ロバートは仕事に忙しいだろうし、その間、ずっと一緒にいるわけにもいかないでしょ。……あと、彼らが連れ戻してくれた私たちの馬も一頭減ってしまったしね。ここまで助けられてきたのに、勝手を言ってごめん。」

突拍子もない提案だった。いつかどこかで彼女と離れる時が来るのも当然のことだと理解してはいた、ただ、それが今この場になるとは予想だにしていなかっただけで。

「これが最後でもないんだろう?」

彼女は明言することを避けた。

「ジェロニモ、君たちも納得しているんだな。」

「しばし、これより東に向かう。いつでも、この娘には望むようにしてやろう。」

彼の言葉を通訳が伝える。

「僕は当分ここで研究をしている。もし彼女が戻って来るつもりになったのなら、その時はここに連れてきてくれるんだな。」

ジェロニモは何も言わず、頷いた。

「リニー嬢、気負うなよ。主の仕事は大きく、困難に違いなき故。」

リニーはうんと頷いて、ジェロニモに従って立ち上がった。

出発の準備を進める一団を三人は遠巻きに見つめた。髪型を整える彼女を眺めながらアンジェラは問いかける。

「本当によくって?彼らは情け容赦なく行商を襲うような輩よ、それと行動を共にするということは……。」

「それは彼女だって分かっているはずだ。それでも決めたことなら僕には止められない。」

「あの子が求める答えは、彼らの居るところにはないと思うわ。」

「僕のところにいたってそれは同じだ、違うか?」

インディアンの戦士たちが荒野を駆けて行く。燃え上がる地に土煙を上げつつ駆けて行く。その中でただ一騎、二人乗りの馬は少女を後ろに乗せる。太陽が昇り沈み、同じような一日が繰り返される高原で、少女は明日を探して駆けて行く。


向かいの酒場が開いて客が集まってくる声でやっと目が覚めた。

宿のベッドは体を動かせば軋むほどの粗末な作りで、リネンも黄ばんで真ん中の生地が薄くなっている有様なのに、これでも眠ってしまえば朝まで目覚めない。家を出てから厄介な夢を見なくなったのにつけても、なんだか本当に悪いのは自室のベッドだと思えてこないでもない。

白い帽子を被って部屋の外に出る。朝食はもう終わってしまっただろう。とうもろこしパンは喉につかえるし、沸かしたミルクの古くなったのは香りが悪くてとても食の進むものではないが、それでも食わねば贅沢は言っていられない。

念のため、稲熊の部屋の扉を叩いてみて、反応がないことを確認する。彼はいつもの「鍛練」を済ませて、今頃は馬車に補給を積んで『大きな穴』まで行くところだろうか。いずれにせよ、この時間ならば屋外にいるはずだ。

宿の裏手、井戸の汲上風車の足元に稲熊はいた。軍服の上を脱ぎ、腹部にさらしを巻いた上半身を露わにして、柱の傍で刀を構えていた。近付くアンジェラをちらりと見て、すぐに向き直って刀で空を切る。

「あまり近付くでないぞ。抜きし刀の間合いに入るな、それが誰であれ。」

「言われなくても」と彼女は稲熊の斜め後ろに立って遠巻きに眺めた。

屋根より高い風車は乾いた風で勢いよく回る。やがて、稲熊は畳んだ軍服の上に置いた鞘を拾い上げて刀を納める。

「鍛練は欠かさぬ、其は合衆国に来ても同じ。刀を修めたらば、死するその時まで手放してはならぬ。」

「あなたにとってのそれって、何?」

アンジェラは納刀されて稲熊の手の内にある刀を指さした。

「証ぞ、初心忘れぬがための。」

「――昔の日本では、刀を持つことは武士という一部の身分の者にしか許されていなかった。武士の家系に生まれた某は物心付きし頃より刀を振ることを習った、そして『武士』という生き方も。畢竟、刀とは武士の生き方の象徴也。時代は変わったが、結局某は此を手放せなかった。」

「その家柄に生まれたからそれらしく振る舞うっていうの?納得できないわ。」

「分からずともよい。」

稲熊は畳んだ軍服を身に着け始める。

「生き方なんて自分で決めるものよ。誰かや何かに強いられるなんて嫌。だいたい、其々を持っているからこのように振る舞わなければならない、というのがおかしくてよ。」

彼は敢えて何も答えずにいた。目の前のアメリカ人の娘には分かるまい、まして、自分の辿ってきた過去を知らぬ者に……。ところがアンジェラも構わずに続けた。

「あなた、インディアンに囲まれた時に何か言っていてよね。あの時は、そんなに後ろ向きな理由でそれを握ってはいなかったと思うけれど。」

彼のボタンを留める手が止まる。もう一度彼女の鳶色の瞳を見据えた。

「術は術、黒魔術も術、違うのはそれが誰かを助けるものか、傷つけるものかというだけ。稲熊、刀も刀――違うのは物ではなくて、それを持つ……」

アンジェラは言い淀んだ。たちまち顔を逸らして「無駄なことを言ったわね」と呟いた。貝のように口を閉ざしてそれ以上は言わなかったので、稲熊はやがて着衣の手を動かした。

制服を着込んだ稲熊はいつもの装いに戻った。今日はロバートのところまで補給に赴く日だったから、手配した馬車の待つところへ向かった。

「彼の調子はどうなの。」

「頭を悩ませている、いつものことよ。……たまには主も顔を出しては如何。」

「術士が行ったら研究の邪魔になるそうよ。」

「彼も日がな研究しておるではあるまい、話し相手になるくらいよかろう。」

「荒野の孤独に誰かを慰みにしようというなら、私じゃ役不足よ。」

二人は馬車の前まで来た。荷台には水と食糧の他に電信線の巻いた束のようなものや、外側が金属の機械、中身の知れない箱やらが丁寧に並べてある。稲熊は御者の隣に上ってアンジェラを見下ろした。

「ロバートも主を気にかけておった。何か申すことは。」

「『会いたければそちらからおいでなさい』。」

「しかと受け取った。」

御者が鞭を一振り、馬列は走り出し、いくつもの蹄が土を跳ね上げる。稲熊が手を挙げるのに応えてアンジェラは懐からハンケチを取り出して振り返した。

ヒルバレーの街は既に動き出している。どこへ向かうとも知れない人々が右へ左へ往来していて、時折街道の中心を馬車が走り抜けていく。朝から何も口にしていないアンジェラの胃袋も盛んに働き出して、早めの昼食を摂る必要に迫られた。

街でまともな昼食が出るところと言えば宿の向かいの酒場くらいのもので、それ以外に手頃な食料が得られる行商も今日は留守だった。アンジェラは酒場が気に入らない。昼間から酒を飲んで騒いでいる連中で店がいっぱいだからだ。彼らはろくでなしに違いないが、残念なことに住民の多くは「ろくでなし」らしかった。

アンジェラは酒場の前に立った。店の入口、両開きのゲエトの向こうには多くの人が見えて、カウンターに向かって口々に言い合っている。円形のテーブルにはこれまた賑やか――騒々しく料理を囲んでいる。奥からは能天気なオルガンとヴァイオリンの調べが響く。今一度この中に入るべきか悩んでいると、店先のテラスから声をかけられた。

「心配要らない、みんな気のいい連中さ。」

声の主は保安官アープだった。店先の椅子にかけて片足を柱にかけ、椅子を傾けて気楽に通りを眺めている。口には火のついた葉巻を咥えている。

「『入るべきか、入らぬべきか、それが問題だ。』技士君の連れさん、腹ごなしなら是非ともここを薦めよう。ソルトポークは定番だが、注目すべきは付け合わせのハーブだ。店の裏の菜園で採れたものを使っているのだ。」

「それは大変魅力的ね。」

「よければ一杯奢ろう。歓迎の意味で。」

「……コーヒーにしてくれるかしら。」

アンジェラは早いところ諦めがついて、アープに従って酒場のゲエトを開いた。

二人は入って左隅のテーブルについた。客たちはアンジェラを一目見てすぐに誰かが分かった。今では「サクラメントの技士とその連れ」は街中に知れ渡っていて、通りを歩いていても珍しいものを見るように視線が集まる。

「『大きな穴』は見てきただろう。見事に何もないところだった、違うか?」

二人分のマグを並べながらアープは問う。

「彼――ロバートはどこか喜んでいたけれど。」

「技士君の仕事は進んでいるか?」

「どうかしら。私は専門家でないから、彼のやることは何とも。」

店主が金属のポットをテーブルクロスの中央の模様に重ねる。アープはそれを二つのマグに注いだ。内側を黒い液体が満たして、それぞれの顔を映す。

「砂糖は要るか?」

「いただくわ。」

アンジェラは押して寄越された砂糖瓶の蓋をつまんで、匙で二杯の砂糖を入れる。

「慣れればよいところだろう、この街は。誰だって居たいだけ居ればよい、それがヒルバレーだ。」

「全然。ひどく退屈。食べ物はいつも一緒だし、人だって、毎日こうして飲んで騒いでの繰り返し。理解し難いわ。ご存じないでしょうけど、私はサクラメントでは有名な家の出身なのよ。保安官さん、あなたはそうは思わないのでしょうね。」

「ポーカーに同じ勝負は二度とない。酒、葉巻、賭け事、それがあれば夜毎違う楽しみが得られるものがこの街には揃っている。」

「随分見上げた保安官さんでいらっしゃること。」

「それこそがこの街の平和である。本官はその平和のために今日も戦っているのだ。」

アープが自慢げに髭をさするのを見る彼女の目は白けている。

「かつてトゥームストーンという街で、本官はOK牧場に待ち伏せる悪辣なる一味と銃撃戦を繰り広げた!我々保安官らによって悪は断たれ、平和は守られたのだ!」

彼は高らかに笑う。アープは卓越した射撃の腕前と尊大な自信とを併せ持つ男だった。

「どうにも分からないわ、ここの人達がこれだけ不便で危険の多い場所に暮らし続ける理由が。ここでなければならないことがあって?」

「理由はそれぞれ抱えているだろう、だが共通しているのは、生き方の問題だ。」

演奏家たちの奏でる曲が終わった。続いてゆったりとしたヴァイオリンの入りから始まって落ち着いた音楽に切り替わる。談笑する客も先ほどとはどこか調子を変えたように見えてくる。アープは砂糖のない真っ黒のコーヒーを口につけ、テーブルに肘をついた体勢のまま語る。

「フロンティア・スピリット。まだ何もない土地に文明の息吹をもたらすことを至上の歓びとした、開拓者の精神がアメリカを育んだのだ。」

「――プリマスに最初の開拓民が上陸した時、広大な土地にはまだ何もなかった。長く危険な航海の末にたどり着いた土地も、過酷な自然が待ち受ける大時化の海のような場所だった。そこに開拓民は自分たちの生きる街を自分たちで築き上げた、その時からアメリカの歴史は始まった。アメリカの歴史は開拓の歴史、フロンティアを拡大する中で育まれたアメリカの精神、それがフロンティア・スピリットだ。手つかずの大地であればいい、過酷な地であればなおいい、何もないところに道を切り拓き、進み続ける意志の力こそが合衆国を作り上げたのだ。分かるかね、この街の者は熾烈な地『にも関わらず』暮らすのではない、熾烈な地『だからこそ』生きるのだ。この国で最もアメリカ的な行為が営まれる、フロンティアの最前線でな。」

アープは背もたれに腕を掛けて葉巻を咥える。コーヒーはもう十分らしい。

「私は開拓民ではないし、お父様のようにまだ小さかった西部の街で資産を築き上げた実業家でもないわ。『アメリカ的行為』がここで昼間から酔いしれることならば、私は生粋のアメリカ人ではないようね。」

「そうではない、フロンティア・スピリットは生き方の問題だ。原初の荒野で風に吹かれて湧き興った熱情が、古い因習や価値観を打ち払おうとする、そのような意志を持った生き方のことだ。これは開拓地に暮らす者だけが持つのではない。現にシヴィル・ウォーの災禍から合衆国を救ったのはこの精神だ。」

「シヴィル・ウォーが何か?私、当時は新聞が読めるような歳ではなくて。」

「そうだろう、そうだろう」なんて勿体ぶった言い方をしてアープは噛んでいる葉巻を持ち替える。彼とて二十余年前は少年であったが、合衆国軍に加わった兄たちに憧れて入隊を志したものだった。

「合衆国が戦乱の渦中にあり、社会が分断と混乱を極めていた時、それを再びまとめ上げたのはリンカーン大統領の傑出した指導力だった。彼の精神こそがそれだ。大統領の熱意と、それに共感した国民がフロンティア・スピリットを共有したからこそ災厄は終息した。蒸気機関車が時化るように、人の心もまた時化るものだ。それでも再び心をつないだのは、この国の民が持つ開拓者の精神だった。」

アンジェラは薫り高いコーヒーに合わない葉巻の煙に顔をしかめた。

フロンティア・スピリット、彼がその言葉を唱える度、アンジェラは歯が浮く思いをした。それはエマソン卿が幾度となく語った言葉だ。彼がそれを語り聞かせるのは、不肖の娘をやんわり諭すため。崇高な精神を持たない娘を糾弾する時に決まって聞かせるのがその話だった。アンジェラは有難そうな御託を並べて説教を受けるのが嫌いだ――先刻は自分も同じことをしでかしたが。

店主が料理を運んできた。テーブル中央のとうもろこしパンはいつもの如く、塩漬け豚を焼いたものはソースにわずかに混じる果物の香りがよい。菜園で採れたという付け合わせのハーブは確かにみずみずしく見える。

「なに、技士君の連れさんもいずれこの街の良さがわかる。帰る頃にはまだいたいと思えるはずだ。……そうだ、ホテルが退屈ならここで働いてはどうか。」

「何ですって?」

アンジェラは手に取りかけたカトラリーを落とした。

「なあマスター?」

「この娘を?……大歓迎さ、ちょうどウエイターに空きが出たんだ。流れ者の男に付いて行っちまった。」

「随分お気楽なウエイターだったのね。」

「ふむ、技士君の話を聞く限りでは君もよっぽど突拍子のない性格をしていそうだがね。安心したまえ、安全な職場環境は保安官ワイアット・アープが保証する。」

アープは店主の肩に手をポンと置いて、二人揃ってにこにこして彼女に向く。

「話を聞いていなかったのかしら?私は術士で、サクラメントじゃ有名な家の者なの。一流の術士がちんけな酒場で配膳の仕事などするはずないでしょう。」

「誰だって関係ないよ。店を見てごらんよ、この街に居るなら街の一員、それだけさ。」

店主はにこやかに語る。次第に周りにいた客たちはこちらの様子に気付いて見守り始める。アープは唐突に立ち上がってカウンターの前の客を掃きながらそこを行ったり来たりする。

「……さて、ここにカリフォルニアからいらした素敵な娘さんがいる。彼女がこの店のウエイターをやってくれるのなら、保安官の名においてここにいる皆にご馳走してやってもよいのだが……」

客たちは一斉に歓声を上げる。アープはそれを手で抑えてさらに続ける。

「娘さんはまだ決めかねているようだ。誰か、彼女の背中を押す言葉をかけてやれる者はいないか?」

すると今度は一斉にアンジェラを向いてがやがや喚きたてる。一人一人が何を言っているかなどまるで聞き取れない。

「冗談じゃないわ、この……」

「我が街の新たな仲間に乾杯!」


ジェロニモ率いるアパッチの戦士たちが『大きな穴』を離れて一週間、一団は東に向かい、隠れ里に舞い戻った。隠れ里はニューメキシコとの州境に近い居留地の中にあって、地下水が豊富な優良地であった。

隠れ里には女、子供など合わせて四十人ほどが伝統的な住まいに身を寄せ合っていて、その多くはアパッチであるが、僅かに周辺の他部族も含む。彼らは皆、ジェロニモを慕い彼についた者たちだ。戦士たちが狩猟や白人から略奪したものを持ち込み、それを分け合って生活していた。

リニーはジェロニモが頼りにする一家に預けられてそこで幾日か過ごした。たいていの場合、インディアンの家長は女性である。男は狩りに出るから、家を守るのは女の仕事であった。ここでも年配の母親が一人で一家を切り盛りしていた。彼女は非常に丁寧に接してくれ、リニーも彼女を手伝いながら故郷を思った。ここの民は戦うことによって集落を守っている。彼女は自分の集落があることを当たり前に思ってきたが、酋長である両親はどれだけの苦労の上にあれを守っていたか。自分の行動でその努力が失われていないのを願うことしかできない。

家の者に寄宿学校に通っていたことを話すと、大いに同情された。里には半ば強制的に我が子を入学させられた者もいて、インディアンの尊厳を踏みにじる教育についてはよく知られていた。彼らは術士の子供の処遇については知らなくて、リニーは自らの体験を語ることはなかった。目の前で暴行を受けていた幼馴染にも語ることはできなかった、ここで語れるはずがない、「自分はのびのび暮らしていました」ということは。結局、彼女は架空の被害であたかも心的外傷を負ったかのようにして黙り通した。

隠れ里での生活は悪くなかった。部族の生活は懐かしく、学校生活で鈍った部族の勘ともいうべき感覚がすぐに呼び覚まされてきた。それと同時に早くも焦りを覚え始めていた。学校脱走の本来の目的が達成される目途は立たないからだ。これではロバートらの下からアパッチの集落へと、場所を変えたに過ぎない。

集落の者は優しいが、答えを求めるべき相手ではない。一つの答えを示すのはやはり一人しかいないと、リニーは戦士たちが戻るのを待った。

果たして戦士たちは二日後に戻った。様々な食糧を抱えている、英字の焼き印がされた箱などがあるのは、紛れもなく白人の貨物を奪った証拠だ。

戦利品の仕分けを監督するジェロニモに、リニーはそろりと近付いていった。彼は気付いて、近くの地面を叩いて隣に座るよう示した。

「リニヤキワニか。」

「よくぞ御無事で。」とリニーはその場で戦士長に敬意を表する。

「ここでの生活はどうだ。何か困りごとがあればあの家の者に伝えるがよい。案ずるな、皆はお前を受け入れたのだからここはお前の村でもある、いつまでも、居たいだけ居ればよい。」

「はい、おかげさまで。」

「それとも、どこぞへ発つというのなら申してみろ。生まれ故郷でも、あの白人のもとでも、我らが連れて行こう。」

「あなた様のご厚意に感謝申し上げます。私はお願いをしに参ったのではありません、ただ、話がしたくて。」

空は暮れ泥み、人々は家から出てきて焚火に集まり出している。戦士たちが戻ってくれば村を挙げて祝うのが決まりだ。木の楽器を叩いて鳴らし、火の回りで踊る。二人は遠巻きにそれを眺めながら、空になった箱の前に座り込んで横並びになる。

「ジェロニモ、あなた様はなぜ戦うのですか?」

「お前が何でもってそれを問うのかは知らないが……それが我の『生き方』そのものだからだ。」

「部族を脅かす白人に抵抗することが、ですか。」

ジェロニモは紅く燃える西の空を見上げる。「違うな」と返した。

「かつて、我も一度は白人を信じた、そして奴らの計略に嵌った。我の居らぬ間に夜襲を受けた集落は焼き尽くされ、皆殺された。その中には妻と、幼い子供もいた。白人が我の家族を同胞を殺した。人間が同じ人間を殺戮した。我らがやっているのも、それと同じことだ。」

「復讐、ですか。……私は決してあなた方の生き方を否定するのではありませんが、しかし――街道を行く商人や駅馬車は同胞を殺した白人とは違う者ではあることは、あなた様も知っておられるのではないですか。」

淡々とその言葉を口にしながらも、リニーは彼の気分を害してしなわないかとこの上なく恐れていた。不安に反して彼の目は穏やかさを失ってはいなかった。それどころかジェロニモは彼女に同意した。

「言っただろう、それは我の生き方ではないと。街道の白人から略奪するのは復讐のためではない、それが『生き方』だからだ。アパッチの戦士は山を駆け、獣を狩って暮らしてきた。それは白人が侵入する以前よりの我らの生き方で、当然我らもそうせねばならない。例え白人に脅かされ獣少なき不毛な居留地に押し込められようと、我がアパッチの戦士である限り決して生き方を変えることはない。地を駆け、獲物を狩るのみ。」

ジェロニモにとって狩猟は生のための神聖な儀式である。そのための獲物は選ばない、獣であろうが、人間であろうが。バッファローの群れを撃つように家族を殺された彼にとっては、すべての生き物の命の価値に何も違いはなかった。

「それでも、」とリニーはさらに言葉を返す。

「ロバートを、彼らを見逃すほどにはあなた様は理解のある方ではありませんか。ただの獲物ならば言い分は聞かない。」

「お前を連れていなければ言葉を発する間もなく射殺していただろう。あの白人の強い意志を聞いてしまった後では、試さぬわけにもいかなくなった。」

「私がいたから……。確かに彼は試練を乗り越えましたが、あなた様はそれほど彼に認めるところがあるとお考えですか。」

「それは、奴と共にいたお前の方が知っているのではないのか。」

「どう、でしょうか。」

リニーは目を細めた。焚火の明かりが散乱して輝く。

列車事故以来、ロバートとは「一緒にいて良い」と言われたからついて来た。あてもなく学校を抜け出して、迫る追手から逃れて転がり込むにはちょうど良かったからそうした。おそらく、彼は他の白人より寛容で、それは彼自身の性格によるところだろう。初めは「利用してやろう」という心づもりもあったのだが――コロラド川で「共に行く」と高らかに宣言したのは何故だろう。

「どうやら、お前にとっての白人の認識は我のそれとは大きく異なるようだな。」

黙り込んだリニーにジェロニモが語りかけた。

「分からない。私自身は白人の横暴をこの肌に感じたことはない。学校でも、友人たちが身体を腫らしているその隣の校舎で……。なぜ彼らは私を責めてくれなかったんだろう。お前が『学校に行く』と言わなければこんな目に遭わなかったと。私は卑怯だ、自分だけ平穏のうちに暮らしていたことを黙っていた。今だって彼らは痛みと屈辱に必死で耐え抜いているのに、私がそうさせたのに。部族の誇りある最期を迎えさせてやることが、こんな私にできるせめてもの償いだったのかもしれない。」

「過去を憂いて何になろうか。」

「――酋長の家の者が特別な刃を持つ部族の話を聞いたことがある。そこに伝わる話では、それは祭祀に使われるもので、邪を払い進むべき道を切り拓く特別な力の込められた刃らしい。」

リニーは顔を上げて腰に手を触れた。彼女の腰に差したナイフは村を出る時に母親から託されたものである。没収されまいと寮では常に隠してきたが、そこを出る時には何より大切なものなので一番に手に取った。家宝というより、これがないとどこか落ち着かない気さえする。

「リニヤキワニ、それを持つならばお前も邪を払う力を持っているに違いない。お前はお前の方法で道を切り拓くがよい。」

リニーはナイフを抜いた。金属を多く含む特別な石を割り削って作られた刃は、先を焚火の明かりに透かすと独特の輝きを放つ。彼女はこれが好きだった。見ていると不思議と明るい気持ちにさせられるようで、それは今も褪せない。

ナイフをしまってリニーは再びジェロニモに向かった。

「ありがとうございます、ジェロニモ。里の皆を導くあなた様は素晴らしい、私も私のやり方で同胞に導きを示そうと思います。それができるのは、ここではない別の場所です。白人から私の仲間を救う方法は、やはり白人の中にしかないと私は思います。」

「そうするがいい、我はお前の考えを尊重する。ただし、いついかなる時も誇りを忘れぬようにしろ。誇りとは、戦う意志の中にあること。」

「戦士ジェロニモ……私に誇りというものを教えていただきたいのです。」

「ふむ。繰り返すが、誇りとは戦う意志の中にある。それを教えるにはお前に戦の試練を与えねばならない。女のお前には途轍もない苦になろう。」

「構いません。これから先、私が向かう困難を乗り越えるための力が必要なのです。」

ジェロニモは黙った。目の前の娘のためにできる限りのことはしてやるつもりでいたが、本人の望み通りにさせることが本当によいのか躊躇った。リニーが「お願いします」と再度請うのを聞いて初めて彼は彼女と目を合わせた。

――自分が手心を加えることがどうしてこの娘のためになろうか。

やがて、ジェロニモはゆっくりと頷いた。

「明日の朝は早いぞ、リニヤキワニ。」

名前を呼ばれ彼女は歯切れよく返事をした。


「大きな穴」での調査が長引くにつれ、研究が頓挫していることがいよいよ明白になってきた。穴の周辺でつないだ電気回路は異常な時化を示し、ロサンゼルスやコロラド川よりずっと激しい時化は遠路遥々やってきたことに値するほどの研究価値があった。だがそれすらも特別な周期性や法則性を見出すことはできず、他の地に比べて「大きいだけ」だと認めざるを得なかった。時には激し過ぎる時化故に実験器具そのものを破壊され、持ち込んだ予備も次々に消費されていった。未使用器具や生活必需品を時化から守るためにはかなり離れたキャンプ地に避難させておく他ないので、移動には大変な手間がかかった。

成果のないままに研究費が尽きるのを恐れたロバートは方針を切り替え、時化そのものの研究から、時化による電力系統への影響を抑える研究に舵を切った。時化るのは仕方ないとして、電力計の振れは今現在の周辺の時化を示す高性能な測定器だと気付いた彼は、これを利用して送電線への影響を抑えることを目指した。彼が仕事を請け負った当初に目指していたのは間違いなくこの方針だったのだが、ロサンゼルスで見たあの電力計の振れが彼の中の研究者精神、あるいは単なる好奇心というべきものを特別刺激して、それについて調べずにはいられなくなったのである。

送電線を隣り合わせて二本引いて、片方は測定線として好き勝手に時化させる。そちらの電力変化を測定してもう片方の本線に流す電力を調整すれば、本線は常に一定の電力を送り続けることができる。電信技士として日頃目にしている街中の電信線の束を見て思いついた方法だ。結果、初めは上手くいっているように見えた。しかしこの方法で何マイルも送電線を引けば、必ず各地で時化の状況は異なってくる、この方法では発電所と家庭で別々に発生する時化に対応できない。そしてこれは、常に暴走の危険と隣り合わせにある発電機を時化から守れる方法ではなかった。

彼の研究は行き詰まった。大した成果も挙げられず。

彼が寝泊まりする洞穴の奥まったところに、二体の人骨が転がっている。もう随分昔の遺体で、先住民か、この地を訪れた探検家が命を落としたのだ。白くなった骨以外のすべては長年の風と時化がどこかへ散らせてしまったので分からない。穴を掘って埋めてやるのが情というものかもしれないが、辺りの土地は乾燥して固いので掘り返すのも難しく、名の知れぬ遺骨にそこまでの義理はないのでロバートは毎晩仲良く同じ洞穴で眠っていた。人里離れた秘境にたった一人、成果がでなければ行き倒れてここで永久に眠る、その時はよろしくな、なんて気軽に声をかけてやりたい気分だ。ある時、補給に来た稲熊にそのような話をしたら、気味悪がられるかと思いきや本気で心配されてしまって閉口した。アンジェラからの言付けでは「会いたいから街に戻ってきてほしい」ということらしかったので、彼女の紅みがかった唇から発せられる嫌味も懐かしくなって次の補給の時には一旦引き上げることに決めた。

人に会うとなると水筒の銀面にうっすら映る無精髭の面も突然気になりだすもので、ヒルバレーに戻ったら一番に床屋に行こうと決めた。

夕暮れ時にヒルバレーに戻った。街は来た時と変わらぬ表情をして、人は出歩き荷車は通り抜ける。ロバートは稲熊と酒場で落ち合うことにして先に馬車を降りた。通りの床屋の主人ときたら坊主頭で、散髪の腕には不安を感じないこともないが、逆に髭剃りにかけては申し分ないように思えた。

すっきりした顎で心なしか風も爽やかに通り抜ける。日も暮れて人家から漏れ出る明かりが道を歩く頼りになる。ホテルに部屋を取っておこうと思ったのに、建物の前まで来たら向かいから声をかけられた。

「や、技士君。その帽子を見紛うまい、技士君。」

声の主の胸につけた保安官バッヂが輝く。アープだ、通りの向かいにある酒場のテラスに椅子を置いて座って、片足を柱にかけて椅子を傾けつつ葉巻を吹かしている。

アープはロバートを見つけて帽子を掲げる。ロバートはそれに従って彼の前まで近付いていった。

「街に戻っていたのかね。」

「ええ、さっき。長いことあっちに居て息が詰まったもので。」

「大穴が空いているのに『詰まった』と?よろしい、中に入ろう、連れさんも待っているぞ。」

「しかし先に部屋を取ろうと……」

「あんなホテル、毎日閑古鳥が鳴いているさ。荷物がないなら後から行ったって変わりはしないだろう、な?」

返事を待たずにアープは酒場のゲエトをくぐり、あたたかい光と陽気な喧騒に溢れた店内に入っていく。引き返せなくなってロバートもついて行った。

「さあさ諸君、カウンターを空けてくれ。我らが技士君の凱旋だぞ!マスター、彼に一杯。どうか演奏を続けてくれ、底抜けに明るいのがいい。さあ技士君、ここに。」

誰かが言い出すでもなく拍手が巻き起こる。この時間から他の客たちはすっかり出来上がっているらしく、火照った頬でにこにこしながらロバートを迎えた。当然、彼らの素性をロバートは知らない。

「いらっしゃい。」

ロバートは決まり悪く店の正面のカウンターに向かって、ウエイターに出されたグラスを受け取った。ショットにアープがウヰスキーを注いで、ロバートは彼と目を見合わせて呷った。鼻を抜ける芳しい香りの中に、彼は先刻のウエイターの声に覚えがあって、すぐに顔を上げて正面を見た。

「アンジェラ?」

カウンターの向こうには彼女が鼻先を紅くして目を細めて立っていた。

「おかえりなさい。私に会いに来たって、案外素直ね。」

「いや、それを言うなら君が会いたいだとか言っていたから……」

「は?」

「え?」

彼は自分の見間違いかと未だ信じていなかったが、そこにいるのは彼の知っているアンジェラ・エマソンで間違いない。服装は来た時と変わらなくて、天井から吊るされたラムプの光でブロンドが明るく照らされている。

「ここで何をしているんだ?」

「アンジェラはこの酒場のウエイターよ。」

いつの間にか稲熊がロバートの反対隣にいた。彼もグラスを受け取って酒を注ぐ。

「そりゃ一体、どういう……風の吹き回し?」

「そこにいる保安官さんに強引に使われたのよ。本当に引き受けたのは自分でもどうかしてたと思うけれど……やってみれば案外気楽なものだったりして。毎日こうして飲んでばかりの人達だけれど、退屈はしなくてよ。……ねえ保安官さん、もちろん彼の分はあなたの奢りですわね?」

「是非もない!……と、今なんと言ったか?」

彼が前言を撤回する間も与えずにアンジェラは「決まり。」と微笑んだ。

「そういうことだから、ロビン、今日はお勘定を気にしないでいいそうよ。」

困惑するアープをよそに無邪気に笑う彼女を眺めながらロバートは今一つ状況が掴めない風でぼんやりしていた。

アープは早くも何杯目か分からないウヰスキーをグラスに注ぐ。両隣を固める二人の圧に呑まれてロバートも続けて何杯か呷った。

「仕事はどうかね、技士君。彼の地には何か面白いことがおありか?」

「いいえ、恥ずかしながら頓挫したところです。」

「それは良かった!」と、彼は返答の内容を一切気にしていなかった。

「良くない。」

「あれこれ思い悩んではいけない、この酒に似合うまい。それよりも技士君!聞いたぞ、ジェロニモを打ち負かしたとな!」

周りから拍手が巻き起こる。ロバートは驚いてカウンター越しのアンジェラに小声で問うた。

「君が話したのか。」

「そうよ。」

「某はこの目でしかと見た!銃を持つ戦士たちに臆さず名乗りを上げるロバートをな。勇猛果敢の士、ここにあり!」

稲熊も調子に乗って声高に語り、店内が一段と盛り上がるものだから、ロバートはすぐにでも店を飛び出してしまいたくなった。

「僕たちは見逃されただけだ。彼らを倒したわけじゃないんだ。」

「それでも、そうさせたのはあなたの力でしょう。」

「アンジェラ、本当のことを言えよ。」

「間違ったことは言ってなくてよ。」

「本官は初めに見し時より気付いていたぞ!この男、ただ者ではない!」

店内がまたも熱狂する。彼らは空元気で騒ぎたいだけの連中なのだと、いい加減ロバートにも分かっていた。少々脚色をしてあの日のことを語ってやると、彼らは大いに喜んだ。

夜は深まる、音楽と共に酔いは回っていく。客たちはあちらこちら席を移動しながら飲んで騒いでを繰り返し、中には隣の顔すら分からなくなっている者もいた。あれだけばつが悪そうにしていたロバートも酒が入って次第に口数が多くなっていた。

「――あの時は女の子の素性なんて知らなかったんだよ。様子を見てたのも、ちょっとした……興味だ、そう!そしたら川に落ちて……今でも無謀なことをしたと思ってる、でも手遅れになる方がもっと嫌だろう?」

「いかにも、技士君!素晴らしいことだ!本官がカンザスのダッジ・シティにいた頃の経験から聞かせてやろう。当時、本官はその街で保安官を務めていてな――」

アープは自らの武勇伝を得意気に語り出す、しかし周りにいる者は皆酔い潰れているかへべれけでまともに話を聞いてなどいない。本人も語る内容は支離滅裂で先ほどまでの話題とは何の脈絡もない話だった。

ロバートはカウンターに項垂れた。アープは今やそっぽを向いてあちらの客たちに語っている。稲熊は向こうのテーブルで壁に背中を預けて目を閉じている。騒がしい店内で彼は暫し一人になって空のショットグラスを握り直した。

「ロビン、はい、お水。」

水の入ったコップを目の前に置かれる。さっきまで向こうでグラスを片付けていたアンジェラが彼の目の前にいた。ロバートはそれを受け取って一口飲む。喉が鳴る、口の端から水が零れて髭を剃りたての顎に伝った。

「ゆっくりお飲みなさいよ。」

そう言われつつも彼は一息に飲み干してしまったので、アンジェラはそっと注ぎ直した。

「エマソン卿が今の僕を見たら何て言うだろうな。」

だしぬけにロバートは問いかけた。問いかけたというよりは自分に言い聞かせるようにして。

「そもそもエマソン卿は僕を覚えてくださっているのかな。」

「さあ。でも人の名前は忘れない方よ。」

「忘れててくれた方が都合がいいなあ。この役立たずを見たら失望するに違いないからさ。」

「およしなさい。あなたの夢を壊すようで悪いけれど、お父様が他人に押しつけがましい『施し』をするのは自己満足のためなのよ。だから彼の期待に沿えなかったと気に病むことはないわ。」

「そんな風に言っちゃいけないよ。サクラメントの人は誰でも君の御父上を尊敬している。偉大な成功者というだけでなく、人格者だからだ。」

「人格者……ええ、そうでしょうね。」と、アンジェラは店の隅に目をやって答えた。

「……いろいろ悪あがきしたが、今度ばかりは本当に駄目みたいだ。」

ロバートは手の中のショットグラスを回して眺めた。上にあるラムプの光を散乱させて、大小の光の粒が手のひらで踊る。

「ロビンがそう言うのなら、違いないのでしょうね。私はそんな風には……」

アンジェラは息を吐いた。その時、ロバートはふと気が付いて顔を上げた。頬が火照って、瞳が潤んでいるのを感じる。きっと今は酷い顔をしている。

「君はさっきから僕を『ロビン』と呼ぶね。叔父さんみたいだ。」

「昔はそう呼ばれていたじゃないの。私だってそう呼んだわ。」

「そうだったかな。」

「何かご不満でも?」

ロバートは首を横に振る。

「けど、君と僕は数えるくらいしか会ってないだろう。」

「お話ししたのは私の家に招いた時だけね。」

「よくもまあそれで、ロサンゼルスで僕に気付けたなあ。」

「そんなに嫌だった?」

「違う、違う。逆だ、むしろ。」

またも濡れ犬のように首をぶんぶん振る。

東海岸の学校に進学して、それまでの僅かな交友関係は一切途切れてしまった。電信局員の仕事に就いてからも旧知の仲には会わなかった。金鉱殺到が落ち着いても年毎に増え続けるサクラメントの人口は、人と人とのつながりを希釈していくようだ。そんな中、昔の顔見知りに思いがけない再会を果たすのだから、この仕事も不思議な力を持っているように感じる。

不意にアンジェラが「お腹空いてなくて?」と尋ねてきた。その言い方は何かを期待しているようで、彼は曖昧に肯定した。

「リンゴを貰ったから昼間にアップルパイを焼いてみたの。一切れ残したのを後で食べようと思っていたけれど、折角あなたが来たからご馳走するわ。」

アンジェラは屈んでカウンターの下に消えた。次に出てきた時には皿に一切れのパイを手にしていた。ふっくら焼き上がったパイ生地にてらてらと光るリンゴのフィリングが眩しい。ロバートは目の前に置かれたそれを見て目を輝かせた。

「君が焼いたのか?」

「勿論。」

「本当に?一人で?」

「……何が言いたくって?そりゃあ、少し、だけ、マスターに手伝ってもらったけれど。」

そうだろうなと思った。それでも料理の練習をしているのだから、進歩していることだ。彼がフォークを手に取ったらアンジェラは「お待ちなさい」と制した。

「冷たいままじゃ残念でしょう、今温め直すから。」

そう言って彼女は皿を自分の手元まで引き寄せる。背筋を張ってパイに手をかざす、暫しそのままの姿勢でパイを包むように手首を回す。まるでパイの周りに見えない半球があtって、それを撫で回すかのように。段々と香ばしい香りがしてきた。再びロバートに差し出されたアップルパイは焼き立てに等しく、温かな熱気を放っていた。

扇形のパイの先をフォークで切り取って口に運ぶ。さっくりとした生地にリンゴはどこかみずみずしさを感じられて舌の上でとろけだす。しばらく味わったことのなかった甘味に身体全体が喜びの声を上げている。

「美味い。しかも焼き立て同然だ。どうやったらそんな術が使えるんだ?」

「誰にでもできることではなくってよ、固形物を満遍なく温めるのはね。アップルパイの冷たいところを感じながら、草花をそっと揺り動かすように優しく術をかけてやるのよ。やりすぎると口に入れられない熱さになってしまうわ。」

言わんとするところは分かるが、それでも想像がつかない。

「魔術だな、やっぱり。」と呟いてもう一口食べた。

術士は術でもって時化を黙らせる。反対に、術でもって薪に火をつけることができる。それは人為的に時化を起こしているということ。術と時化とは、そこに人間の意志が介在するか否かの違いだけで、原理は全く等しいものなのだ。

「術ってどうやって使うんだ?」

そんな頓珍漢なことを訊いた。アンジェラは指をくるくる回しながら抽象的な概念を言葉に言い表そうと思案する。

「『時化』という呼び名はやっぱり正しいのよ。この空間は絶えずさざめき波立つような『乱れ』がある。そういうの、平民には感じられないそうね。術士が術を使う時はその波をこう――感覚で掴んで、波立ちを大きくさせるような、そんな感じ。」

「今もこの酒場に波立つ『乱れ』がある?」

「ええ。いつだって、どこだってよ。この場にはいないけれど、他の術士がいればまた変わってくるわ。『乱れ』の仕方がどこか変わって、近くまで寄ればお互いが術士だって、すぐに分かるのだから。」

「近くって、どれくらい?」

「時と場合によるけれど――ちょうど、あなたと私くらいの距離ならね。」

ロバートはカウンターの席に座り、その向かい側、正面にアンジェラは立っている。

「不思議なものだな。」

理解できない感覚だが、この話題も少し参考になった。彼女が言う「乱れ」、どこででも絶えず発生しているというそれを表しているのが電力計の針の振れではないのか。当初の仮説通り、平民には観測し得ないごく小規模な時化をあの針は視覚的に示してくれている。これまで術士の感覚という曖昧模糊なものに頼るしかなかった空間の「乱れ」を定量的に扱うことができるのだ。それだけで学会に表彰されるべき画期的な発見である、そうではある。しかし莫大な研究費を受け取ったこの仕事の成果としては到底認められない。

その先の成果が欲しい。

「また、お仕事のことを考えているでしょう。」

パイを平らげた皿の上でフォークをいじる彼の手からそれらを取り上げて、アンジェラは覗き込む。

「仕事というか、僕の性格なんだ。」

「別に止めるつもりはなくってよ。でもね……」

彼女は彼の背後を指さす。振り向くと、いつの間にかそこがダンスホールに変わっていた。陽気な音楽に合わせて男と女は軽やかな足取りでひらひらと舞い踊る。確かにこの場では込み入った研究について思いを巡らせるのは場違いだろう。

「技士君!踊らないのか?」

いつの間にかアープがロバートの隣に戻ってきていて、上機嫌に声を掛けた。

「あのねえ保安官さん……」代わりにアンジェラが返事をする。

「彼の頭は今それどころでないそうよ。」

「何も遠慮することはあるまい。」

「そういう意味ではなくてよね……」

難しく考えていても仕方がないか。

「よし、踊ろう。」

ロバートは立ち上がった。アープは喜び、手を叩く。彼は再びカウンターに振り返って素敵なウエイターに声を掛けた。

「ご一緒に踊りませんか?」

「これはまた随分、吹っ切れたわね。ロビン、あなたって人が時々分からないわ。」

「僕は僕だ。」

アンジェラはカウンターを回り込んでホールの側に出てくると、彼の前に立ってスカートを広げて一礼した。

「よろしくお願い致します。」

調子のいいことを言っておきながら、ロバートは暫く踊りというものを嗜んでおらず――というより、しっかり取り組んだことなどあっただろうか――彼女の手を握ったはいいが、人形みたいに暫くそのままでいた。

「いかんな、そのように仰々しいものでは。」

そう言ってアープは首を横に振ると、次にブーツで床をドンドンと踏み鳴らした。それで楽団は演奏を止めて、打って変わって曲調を拍の速く激しいものに替えた。ホールにはたちまち明るいステップが鳴り響き、床板は音を立てて軋み、うるさいまでに賑やかな空気が酒場を包んだ。踊る男女と周りで手を叩く者たち、二人もいつの間にやら流れの中に巻き込まれてホールの中心に押し出されていた。足取りは流れの向くまま、音楽に合わせるまま。特別な作法なんか何も無くて、自由な歓楽がそこにあるのみ。

目が回るくらいぐるぐると踊りに明け暮れて、足元も怪しくなってきた。組んだ手を離さないまま、二人は息がかかるくらいに顔を近付けた。

「ねえロビン、あなたも昔のように私を呼んだら?」

「さあ……何だったかな。」

「うそ。覚えているくせに。」

「忘れたよ。」

アンジェラは困ったように少しだけ微笑んで、それ以上は何も言わなかった。二人は手を強く握り直して、すっかりくたびれるまで踊った。

翌朝は頭痛と共に目覚めた。いつの間にやらアンジェラが取っておいてくれたホテルの一室で眠ったが、酷い二日酔いに悩まされて休めた気はしなかった。階下で真水を得ようとよたよた歩いていると、廊下に出た所で躓いて体勢を崩した。身体を打ちつけてはいないが思いの外大きな音が鳴ったので、案の定他の部屋の睡眠を害してしまった。斜向かいの扉からアンジェラが顔を覗かせた。

「やあ、おはよう。邪魔してすまない。」

「いいえ……大丈夫?」

「大したことないよ。少しばかり水を貰いに行こうと思って。」

アンジェラは部屋から出てきた。白い寝間着で――わざわざ寝間着を持って来ていたのか――髪を下ろしているところがなんだか子供の頃の面影を感じさせた。

二人は一階の長椅子に掛ける。台所から水を汲んできて口につけた。

「その様子じゃ昨日のことも覚えていないのではなくて?お仕事のこととか、考えていたようだけれど。」

「いや、全部覚えてるよ。」

彼は額に手をやった。

「うそ。」

「覚えてるってば、……アンジー。」

アンジェラは目を丸くした。ロバートは気分悪そうに顔を覆って目を見合わせないようにしていた。やがて彼女が「もう一杯持ってこようか」と立ち上がるのを肩に手を置いて制した。

「君の術士の力をもって協力してほしいことがある、一緒に来てくれないか。難しいことではないんだ、術士としてのその感覚に問いたいことがある。……もしも酒場の仕事に手が空くならば、お願いしたいんだけど。」

「ロビン、私は酒場のウエイターをやるためにこの街に来たのではなくてよ。あなたに、ついて来たのよ。」

アンジェラは上機嫌に答えた。


補給品を積み込んだ幌馬車を出して、何時間も蹄音と車輪の回る音を聴き続ければ、見慣れた大穴は目の前に現れる。相も変わらず吹きすさぶ風に重苦しい唸りをあげて、空に向かって大きな口を開けている。これが「それ」なりの出迎えだというなら大したものだ。ロバートは最早この土地の異常な性質を気にかけてもいなかったが、久しぶりに訪れたアンジェラはすぐに言い表しようのない不快感に襲われた。

ロバートは車を研究室の前につけた。研究室とは言っても屋根も壁もなく開放的で、砂混じりの風を凌げるように四方に衝立をこしらえた上に日除けの布を張っただけの区画である。テントは時化で破壊される可能性が否定できないとして、結局寝泊まりは向こうの洞穴でするから設置を見送っていた。生活で出てきた塵が辺りに散乱しているのはまだよいとして、用足しを向こうの石で囲った穴に済ませているという、あまりの住環境の劣悪さにアンジェラは閉口した。もとよりロバートは自宅の環境も快適とは言い難いところがあって、住まいに無頓着なのはいつものことだった。

空き箱で組んだ机椅子の隣に実験設備がある。中央の金属でできた箱からは回路の線が伸びていて、電線はそのまま部屋の外に出てそこら一帯に回してある。都市の街灯よろしく地面に掘立てた木の柱に電球の括りつけられたのが並んでいて、今は昼だが夜になれば結構な明るさになりそうだ。彼はこの電球がしょっちゅう時化で破壊されるのだと言って肩をすくめた。

ロバートはつま先で足元の缶を示した。油の入れ物のような銀色の缶は大きく、中は液体で満たされて重い。

「これが電池。中に液体が入っていて、それが回路を動かしてる。」

「慎重に運べよと言われたものだな。」

稲熊は最初の補給でそれを運んだ時のことを覚えていた。

「中の液体が混ざってはいけないんだ。それに、人が触ると危険だから。」

「斯様に面妖なものを運んでおったとは。」

「文明の明かりを灯すものさ、」

電池を回路に繋ぐと、衝立の上の電球が光り出した。太陽の下でも見える眩い光が目の中に飛び込んでくる。見れば電球のフィラメントは明滅を繰り返しているのが分かった。強力な時化によって光の強さが絶えず変わり、不安定なのだ。「夜はこれがすこぶる目に悪いから大人しく寝床へ引き揚げるのさ」とロバートは苦笑いした。机の上にある電力計の針はぶりぶり揺れている。激しく時化る「大きな穴」の本領だ。

「アンジー、こっちに来て。」

彼は手をこまねいて部屋の向こう隅ですんとしていたアンジェラを呼びつけた。自分の椅子をずらして隣に座る場所を設けて、そこに彼女をかけさせると悠長に回路のあれこれを指し示した。

「こっちが測定線で、こっちの電力計が示しているのはこの回路の値。それでそっちは本線の電力計だが、今は測定線の時化を参考に電力量を調整してるから、見かけ上は時化ていないように見えるだろう。電信機の自動打電機の仕組みを使っている――株式市場のチッカーに使われるようなものだ。測定線の電力が変化するとそれをもとに自動で本線に流れる電力を調整するようになっている。言うなれば、波が押した分だけこちらは引き、引いた分だけこちらは押す――そんな要領で電力を無理やり安定させている。」

「あなたの言っていること、何一つ分からないのだけれど。」

「大したことじゃない、それよりも……どうだ?」

「どうって?」

「術士としてだよ、この機械の前に座ってみて、何か変わったことを感じないか?」

「分からないわ。」

「分からない?」

アンジェラは目を閉じた。視覚の情報を断って、身体の感覚を頼りにする。

「そもそもがこの穴の周りは目まぐるしく『乱れて』いて、気持ちが悪いくらいなのよ。意味のない波の連続、海面をずっと見つめているみたい。あまり集中して感じていると気が滅入ってしまうわ。今も同じ、ずっと乱れていてそれが普通だから、むしろ何も特異なことは無くってよ。」

「そうか……。もういいよ。」

アンジェラが目を開ける。ロバートは帽子に手をやって空を仰いだ。進展はないまま、研究再開もどこかお先が知れているように感じる。街を歩いている間に考えたことはいくつかあるが、それもまた収穫無しに終わるまいかと不安で、かえって実行するつもりになれない。そのようなことを考えている折に、隣に座るアンジェラが呟いた。

「ここの若草はこんなに青かったのね。」

彼女は足元を見つめていた。ロバートが立ち上がって彼女の肩越しに同じ場所へ視線を向けると、電池に寄り添って雑草が生えていた。研究室の立地には平坦で植物のないところを選んだが、多少の存在はやむを得ない。

「研究室を置くうちに芽吹きおったか。主ももう長いこと研究を続けておる故。」

稲熊も腕組み見下ろして感心する。

「ねえロビン、この缶が葉っぱを踏んでるわ。かわいそうだからどかしてちょうだい。」

「何の問題が?」

「あなたには優しさってものがなくて?」

彼女がため息をつく。電池を置いたところに植物が生えていただけでそこまでがっかりされるものかと、彼にはよく分からなかった。

瞬間、その草が奇妙なのに気付く。

「なぜそいつは青いんだ?」

「だから、私がそれを言ったじゃない。ここの植物はどれも焦げたベーコンみたいなのに。」

ロバートは地面に伏せて雑草に顔を近付けた。あんまり素早く動くので二人はぎょっとした。植物は青い葉を伸ばし、触るとパリパリと乾燥した表皮の奥に水分の存在も感じ取れた。

「『なぜ』こいつが青いんだってことだよ。」

二人は這いつくばって彼を珍奇なものを見る目で眺めていた。

「主がここに衝立を置いて久しいからであろう。」

「それは違う。衝立を置いたって時化る、その証拠に向こうの植物は穴との間に研究室を隔てているが、見ての通り黒いだろう。だからこいつがまだ青い理由は『時化ていないから』それ以外にない。」

「左様、言われてみれば。」

「何かが、この植物を時化から守ったのか?」

三人は一斉に首を回して回路を見た。

調整回路は本線の電力量を調整して一定に保つ、それは電力の乱れを調律していると言える。術士は周囲の「乱れ」を感じ取ってそれを調律することができる。術も時化も原理は同じもの。――昨日の一切れのアップルパイを、アンジーはどうやって温めた?

技士の頭に突拍子もない考えが浮かんだ。馬鹿げているが、思いついたからには試さずにいられるものか。気が付いた時にはロバートは跳ね起きて研究室を駆け出していた。彼が急に黙り込んだかと思えば一目散に駆け出していくので残された二人は呆気にとられて顔を見合わせた。後を追いかけようにももう見えなくなって、探そうにも行く先知れず、ひとまずは部屋に残って帰還を待つ他なかった。

果たしてロバートは帰ってきた。両手に何か持っていた。白くごつごつした塊、それは――。

「が、骸骨!」

アンジェラは息を飲んだ。彼は背中の骨やら何やらをいっぱいに抱えて、それをばらばらと足元に置いて並べた。

「それは洞穴の遺骨ではないか!」

「そうさ。ここしばらく毎晩目にしていたから、もう顔馴染みさ――顔はないけどね。」

息を切らしながらどこか嬉し気に語るので、二人は顔が引きつった。ロバートはお構いなしに骨を並べ替えて、積み木で遊ぶ幼児だ。

「それで何しようっていうのよ!?」

「決まってるだろう、実験だよ。」

「まるで黒魔術師ね。というより黒技士。」

「ロバート、亡骸を斯様に扱うのは罰当たりぞ。」

「終わったら手厚く弔ってやるさ。死してなお人の役に立てるんだ、光栄だろう。」

「ロビン……あなたって本当に……。稲熊、私今かなり後悔しているわ。」

「右に同じく、インディアンに筒を向けられども悔いること無かりし某だが。」

二人は頭を抱えた。

呆然と立ち尽くす二人の前で、積み上がった箱を漁る狂気の技士。彼は銅線を取り出してまた骨の前に戻った。

「一度は僕もこいつらと共に行き倒れを覚悟したが……この通り生きている。それどころかこの異常な土地にいて僕の体は至って健常だ。どうして僕の無精髭が燃え出したり、目が光り輝いたりしなかったのだろうね?」

「そんな話、ここでなくとも、世界中のどこでだって聞いたことがなくってよ。人の身体は時化ないものよ。」

「そうだ、動物の身体は時化ない。だがこの遺骨はどうだ?洞穴で見つけた時、服も、髪の毛も、この骨以外はすべて時化てどこかへ消え去ってしまっていた。それはなぜだ?」

「死すれば土に還る、自然の理也。」

「その通りだ、生きているうちはそうならないのに、死体は時化る。つまり、生きている人間には自らの体が時化るのを防ぐ何らかの力が備わっているということなんだよ。」

手を動かすのは止めずに彼は語る。二人は話の要旨が見えてこないままでいた。

「ダーウヰンという男が『進化論』という説を唱えている。それによれば生物は生きていくために体の機能が変化していくそうだ。これは進化論を唱える学者の間でにわかに信じられている仮説だが、人間が元々持っていた体の時化を防ぐ機能を、進化の過程で意のままに操れるような人間が誕生した。それが術士の起こりだそうだ。術士というのは純血の術士の間にのみ生まれる特殊な遺伝だ、メンデルの遺伝学によればこれこそ術士はその体質に依りて術が使えるということの、動かぬ証拠じゃないか。」

「ロバート……すまないが某には英語が分からぬ。」

「今更とぼけたこと言うなよ。要するに術士だろうが平民だろうが自分の体を時化から防ぐ機能が備わってるということだ。じゃあ問題になるのは『それは身体のどこの機能か』だろう?」

稲熊は腕を組んで曖昧に頷いた。

「それについてはフランスに興味深い事例がある。ある高名な術士の男が不幸にも車に轢かれてしまった。命だけは助かったが、大怪我を負い二度と起き上がれぬ体になってしまった。床に伏せて生活のすべてを家族や使用人の手に頼っていたが、そのうちにあることが発覚した。その術士は、『術が使えなくなっていた』そうだ。理由は分からず、治療の甲斐なく男は死んでしまった。この件についてこれ以上調べられることはなかったが、僕が思うに、彼は術を使うために必要な体の部位を致命的に負傷したんだ。」

「怪我をして術が使えない体になったって?じゃあそれはどこなの?」

「さあ。男の詳しい負傷については記述がない。警察の実況見分によれば、男は興奮した馬に蹴られ倒れ込んだところを車輪が胴体を轢いたと。」

思わずアンジェラは二の腕に手を回して顔をしかめた。「痛々しい話ね」と呟く。

「ところで、あなたはどこでそんな話を聞いたの?」

「中等学校の恩師がね、僕に目をかけてくれてその手の『興味深い』話をたくさん聞かせてくれた。電信技士の仕事だって退屈だけど、資料を漁る時間がたくさん取れるのはいいことだ。」

骨格は標本のような細工に仕上がっている。ロバートは銅線を持ってそれを骨に沿わせ、くるくる回したりしてあれこれ試す。

「而してその事件だけでは術を操る部位が特定できぬ。他に似通った事例はあらざるか。」

「アンジー、聞いたことあるかい?」

すぐにアンジェラは首を横に振った。

「術が使えなくなるだなんて今初めて聞いてよ。傷痍軍人だって、結核患者だって、歳を取って痴呆になっても術は使えるのよ。」

「分からぬな。」

「ある意味それが答えかもしれない。他に事例がないということは、普通なら傷つければ死に至る部位こそが術の使用に関わる部位だと考えるべきだ。フランスの術士が生きていたのは至極幸運だったんだ。」

「実況見分では頭部をひどく傷つけてはいないようね。」

「心の臓か。」

ロバートは「それはないな」と肩をすくめる。

「心臓が止まっては生きていられないさ。」

「うむ、されば何処ぞ。」

「そろそろ分かるだろう、僕が今持っているものは何だ?」

彼はそれを持ち上げた。形の同じ骨が連なって、二フィート程度の棒を形作るそれは――。

「背骨?」

「これが折れ曲がるほどの怪我をすれば人はまず生きていられないものさ。身体の軸とも言うべき、背骨は誰にだってある。術士にも平民にも、獣や鳥や魚にも。これがある限り――正確には、これに備わったある機能がある限り、生物の体は時化から守られるんだろう。」

おもむろに、彼は背骨に銅線を巻き始めた。何度か巻き方をやり直しながら、斜めに巻き付けていく。アンジェラは目の前で行われる常軌を逸した行動に半ば慣れてきた自分に辟易しつつ、座り込む彼に尋ねた。

「そろそろ教えなさいな。あなた、それで一体何をしようというの?」

「話の続きがあるんだ。知ってるか、人間の体にも回路が備わってる。こんな銅の線でできた電球を照らすような回路じゃあないが、体を動かすために重要なものが。それは全身に通っているが、最も束になってるのは……背骨の内側なんだ。」

「その回路が時化を防いでおると言うのだな?」

ちらりと顔を上げ、ロバートは満足気に頷いた。

「そこの青い草は時化から守られていた、その原因があるとすれば、置いてある僕の実験器具のどれかだろう。そして可能性が最もあり得るのは回路だ。」

「何となく、分かってきてよ。その骨に巻き付けた銅線で、人間の体の回路と同じことをして時化を防ごうというつもりでなくて?」

「君は物分かりがいいな。」

「あまり嬉しくないわ。」

「さあできたぞ。」

そう言って彼が掲げたものは、コイルのような渦巻に白い骨が見え隠れして、ところどころ突起が銅線の間から突き出ている、いかにも禍々しい杖だった。伝説に伝わるような黒魔術士ならこのような杖を持っていたかもしれない。

机の上に銅線巻きの骨を置いて、本線の回路を遮断する。あれこれと回路をいじった後に骨は回路に取り込まれた。

「これを見てくれ。今、本線には何もせず電力を供給しているからこの通り電力計の針は揺れている。一方測定線を使った電力調整機を骨の方に繋いだから、電源を引けば骨に流れる電力は測定線の揺れに従って増減する。ここまでの仮説が正しかったなら、電池をこの骨に繋いだ瞬間、本線の電力計の針は止まるはずだ。そしてアンジーが感じる『乱れ』は無くなるはず。」

二人は理屈を理解することを放棄して目の前の機械を夢中で覗き込んだ。「さてどうなるかな」と呟き、ロバートは電池を繋ぐ。骨の回路に電力が供給されるのが確認できた。

しばらく沈黙が流れた。

「成功、したか?」

自分では判断がつかず、稲熊は興奮気味に問いかける。

「どうかしら……何か変わったようには感じないわ。」

アンジェラは首を傾げる。電力計の針も、心なしか振れが小さくなったように思えるが、気のせいだと言えば気のせいに思える。

また、失敗か。ロバートは気を落としただろうか、何か言葉をかけてやろうと顔を覗くと、彼は思いの外平穏な表情をしていた。これも想定内なのだ。

「まだ、足りないものがあるんだ。」

彼は言った。

「稲熊、アンジーが術を使う時どうしていた?」

そう問われて彼は顎に手をやり考えた。そして顔の前に手をかざす。

「こう、掌を向けて……」

「違う、別なところだよ。アンジーは、自分がそうする時どうやっている?」

「まずは感覚を研ぎ澄ませて……」

「違う、もっと単純な話なんだ。いつものようにやってごらん。」

釈然としないまま、アンジェラは術を使う時の動きをやってみせる。心を落ち着けて、背筋を伸ばし、対象の位置を確認する――するとロバートは「それだ!」と指さし、彼女の背後に回って両肩に手を置いた。

「そうさ、背中だ。リニーが機関車を止める時もやっていた、術士は力を使うときに必ず背筋を張るんだ。」

「左様!姿勢を正しておった。」

「言われてみれば確かに。何気なくやっているから気付かなくてよ。こうしないとうまくいかないのだわ。」

「背筋を張らねばならない理由があるんだ。そして術士の力はどこから発せられる?」

三人は再び机の上の骨に目をやる。

「これは置いてあるだけじゃ駄目なんだ。こいつの正しい使い方は……」

ロバートは骨の一方を持つ。ゆっくりとそれを起こし、頭上に突き上げて天に掲げる。まっすぐに伸びた杖は午後の太陽を二つに割る。

電力計の針はピタリと止まっていた。


その日からとんとん拍子に研究は進みだした。

骨を使って作った杖は確かに周囲の時化を止めた。その現象の原理を理解するのを兼ねて、ロバートはさらなる杖の改良に着手した。銅線の組み方をいじっては試してを繰り返し、一日のほとんどを実験と記録に費やした。杖の材質そのものを変えてみるのも試した。人間の身体の回路によらず、遺骨に電気回路を取り付けたもので効果があったのだから、他のものでも効力を発揮する可能性はある。そういうわけでヒルバレーには「棒状の物」を集める要請が出て、街中からありとあらゆる棒が実験材料にされた。物干しの支柱、酒場で空けられたガラス瓶、壊れた馬車の部品、農具、鹿の角、看板のⅠの字まで駆り出されて、しばらくヒルバレーの街から細長い小物が消えた。そのどれもに銅線を通して試して、全く効果がないことが分かるとロバートは肩を落とした。遺骨でしか時化を抑える効果が無いのだとすれば、これを公表すると世界中で墓荒らしが始まってしまう。いよいよ試す物もなくなってきた時に、彼は稲熊の腰に携えた棒状の物体を見つけた。稲熊の必死の抵抗も虚しく実験材料にされた刀は、驚くことに遺骨で作った杖のように良い性能を示した。機械部品の一部を転用して作った金属棒では性能が悪かったから、材質は鍛鉄がよろしいということになって、鍛鉄の棒をいくつも取り寄せた。

試作品は杖の効力が測定線と相互に干渉し合い、測定線が時化を感知できなくなってすぐに効果がなくなるという問題もあった。これについては難儀したが、ロバートが杖を持ってうろうろ歩き回っている時にアンジェラが気付いたことで、杖の鉛直方向にはほとんどその効力がないらしいと分かったので、杖の上端に測定機を取り付けたら解決された。

ロバートは来る日も来る日も研究に没頭した。身の回りのことを手伝ってくれる二人がいなければ食事も忘れて荒野の骸になってしまったかもしれないくらいに。太陽が沈んだ後も研究室に煌々と明かりが灯る。充実感と生の実感が、空っぽの荒野で彼の心を満たしている。

研究を続ける日々、ある朝方に稲熊が遠くの足音を聴いた。段々と近付いて来るいくつもの土を蹴る響き。この何もない穴で出くわす人間はこれまでただの一人もいないかった。ロバートは腰の拳銃に弾を込めて足音響く方角を窺った。

馬に跨った戦士たち、それはジェロニモの一団で、その中には勿論リニーもいた。ロバートはすぐに出て行こうとしたが稲熊に止められた。初対面の一件を思えば、まだ完全に気を許してはいけないと警戒してのことだった。

一団は研究室の外で止まり一斉に馬を降りた。リニーはジェロニモと共に前に進み出て、衝立の向こうを探ろうとした。

「ロバート、そこにいる?」

今は電球をつけているから、中に彼がいるのは明らかだった。敵意がないと見えて、ロバートは二人と目配せをして自分だけが一団の前に姿を現した。

「やあ、戻ってきたんだね。」

ジェロニモとも目を合わせた。口を固く結んで不愛想な顔だった。

「……仕事は、どう?」

「順調さ。聞けば君も驚くよ。そっちは?」

「彼らには、よくしてもらった。それで……」

彼女は少々口ごもって、それから顔を上げた。

「彼らとは別な道を行くことにしたの。カリフォルニアに、戻ろうかなって。だから……」

ロバートの顔がぱあっと明るくなった。

「戻ってきてくれるんだな!」

リニーにとって彼の喜びようがあまりにも意外で、反射的に小さく頷いた。

「よかった、良い報せだ。聞いたか二人とも。」

後ろを振り返って問いかける彼の言葉に二人も研究室から姿を現す。リニーはその登場に驚いた。

「こっちの研究も大詰めだ、ここでの調査が終わったら一緒に戻ろう。」

ジェロニモは彼の前に立った。

「リニヤキワニは我らの盟友で誇り高き戦士だ。この娘を侮辱的に扱うことは我らが許さぬ。」

「当たり前だ、この子は僕たちの友人だ。無事に連れてきてくれたことは感謝する。……君たちはまた戻るんだな?」

彼は頷く。ロバートは人差し指を立てながら「一つだけ言っておく」と付け加えた。

「君たちがどう生きようと僕の知ったことじゃない、だが僕は君たちのやることが正しいとは毫も思っていないからな。」

戦士の何人かは表情を険しくした。ジェロニモは後ろ手にそれを諫める。

「あまり合衆国軍を侮らない方がいい。あなたのような強い戦士が討ち取られるのでは惜しいから。」

「……もう二度と会うことはなかろう。」

アパッチがそれぞれの馬に跨る。リニーはロバートの隣に立ってそれを見送った。最後に彼女はジェロニモに聞こえるように、

「我が師よ、ご武運を。」

と言った。彼は手綱を取って馬を振り向かせる。

「リニヤキワニとその同胞よ、精霊が導きを与えるように。」

戦士たちは太陽を追いかけて走る。その背中に数十人の同胞たちの命運を背負い、行く先は誰も知らない。

ロバートらは研究室に戻った。四人も詰め込まれると手狭に感じられる、この窮屈さが良かった。ロバートは入ってすぐに研究の成果を見せてやろうと実験器具の置いてある方へ案内した。

「おやめなさい、その子に聞かせたって分からなくてよ。」

「なんでだ?」

呆れて止めにかかったアンジェラに対して彼は眉をひそめた。

「理由は今言ったでしょ。」

「そんなに難しい話じゃあないぞ。君たちだって理解できただろう。」

「できてないわ。」

「同じく。」

「大いなる発見なのに。リニーは聞きたいだろ、側線回路による時化の測定と、『逆位相』の電界発生による抑制効果、学会で一度に二つ賞が獲れるような内容と言っても過言じゃない。」

「えっと、私は、聞かなくていいかな……。」

リニーもそう言うのでいよいよロバートは閉口した。アンジェラがそれ見たことかと得意気に息を吐いた。

「外に鉄の棒が見えるであろ。ロバートはあれで時化を止めるというのだ。」

我が刀より思いついたことよ、と稲熊はどこか自信ありげに語る。

「……はて、リニー嬢、逞しくなったのではないか。」

リニーの体つきを見て稲熊は言った。実際その通りで、彼女の体躯は以前よりも引き締まっていた。

「ジェロニモに教えを乞うた。部族の誇りを学ぶために。」

「本当か?あんな砂漠を馬のように駆ける男に?」

「心が強くなければ、私のやろうとしていることは成し遂げられないから。」

稲熊は感心して彼女の肩をぼんと叩いた。

「精神を鍛えるがために鍛練を積んだのだな!天晴だ!」

「今の君なら僕より走れそうだ。」

「随分と熱血ですこと。」

部屋の隅で座っているアンジェラが呟く。

「アンジェラ、そう冷やかすものに非ざるぞ。」

稲熊の言葉には答えず、彼女は小さくリニーの名を呼んだ。

「あなたが戻ってきたら言おうと思っていたのだけれど、何だったかしら。」

「なに、それ。」

彼女は横を向いたまま「ああ、そうだった」とわざとらしく言う。

「前に、あなたに厳しいこと言ったわね、あれは、ごめんなさい。」

その場にいた誰もが驚いていた。

「前にあなた、自分の身の上の話をしたわね。あんな過去を抱えていただなんて、知らなかった。本当は知られたくないことだったかもしれないけれど……あなたは話した。それでね、あなたは話して、私は心が動いたから、僅かばかり協力するわ。私にできることがあれば言ってちょうだい。」

リニーはそれに答えて、笑顔になった。

「私もひどいこと言ったから、ごめんなさい。ありがとうございます、エマソン嬢。」

「……アンジェラとお呼びなさい。」

ロバートはこれを聞いてふっと微笑んだ、それから誇らしげに自らの「研究成果」をリニーに語り聞かせた。そのほとんどが彼女に理解できなかった。

四人分の温もりが集まった研究室は、昼間には暑すぎて、夜を迎えるには騒々しすぎた。生活必需品を補充するためにヒルバレーとの間を往復する幌馬車があって、夜を越す洞穴は間に合わせの調度品で豊かになっていく。酒場のマスターや街の人々から差し入れがあったりもして、乾いたパンと干し肉だけの食事も減った。

研究にはロバートだけでなくて三人も協力した。彼の言う通りに用紙に記録をつけたり、部品の組み立てを手伝ったりと、暇を持て余すことの方が少ない。衝立と日除けばかりの粗雑な部屋は他愛のない会話で満たされたが、彼の研究の邪魔にはならなかった。むしろ捗っていた。独りだと幾度となく手を止めてはぼんやりと物思いに耽っていたが、今はそのようなことがない。研究が結実しないまま砂漠のただ中で骸になるかもしれないなんてもう思わない。ここにはおしゃべりな助手が三人も居て、彼らに揉まれながら自分にはやるべきことが見えているから。この情熱にかけては空を駆けるあの灼熱にも負けない。

時化を鎮める杖の研究は続いた。従来型はそれを中心にわずか数歩の範囲にしか十分な効果は得られず、実用に値しない。そこで効果範囲を拡げるための思考錯誤が続けられた。配線を変え、棒を増やしたり付け替えたり、手を変え品を変え改良を続けるうちに、いつしか杖は大小の金属棒が縦横に組み合わせられた奇妙な構造に変わってゆき、それはまるで鉄の樹――何かの生物の骨格のようにも見えた。


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時化を防ぐ杖の発明に成功したロバートは、その後少しの実験をもって『大きな穴』での調査研究の一切を終了する運びとなった。

問題となったのはその撤収作業である。巨大な杖は馬車の荷台に到底収まらない。結局は構造を分解することでなんとか持ち帰れるようになった。その他にも、数度に分けて持ち込んだ機材は運びきれるものではなかったので、会社に返却する必要があるものだけは片付けて、架線の支柱などは近場で仕入れたものなのでその場に放置してきた。実験室はほぼそのまま野晒しにされていて、事情を知らぬ者がここを訪れたら人の痕跡に驚くことだろう。

画期的な発見の源泉になった遺骨については、ロバートは試料として持ち帰ることを主張したが、周りの非難の嵐に負けてついに埋葬した。地獄へ通じると云われた穴の傍らで静かに眠る二体の遺骨、人類の進歩に貢献したのだから、その御霊はきっと天国へ昇ったに違いない。

こうして四人揃ってヒルバレーに戻ってくるのは初めにここを訪れて以来のことである。街はその時と同じくゆったりと、かつ騒がしい時間が流れている。通りには乾いた風が吹き抜けて、汲上井戸の風車は回る。色褪せたテラスの床板を踏みしめて家の主は流れゆく人の姿を観察している。

「また例の穴に赴くことがあれば、この街を訪れるのかしら。」

アンジェラはそれとなく呟いた。ロバートが「名残惜しいかい。」と尋ねると、素っ気なく「別に。」と答えてから、小さな声で、

「たまに来るくらいなら、悪くないわ。」

と言った。

世話になった人に挨拶に行こうとなって、酒場を訪れた。人気者のウエイターの再登場に沸いた店内も束の間、彼女がこの街を去ると聞いて男たちは一斉に肩を落とした。技士の仕事が結実したと聞いて、何かも分からず店内は再び沸いた。いつでも調子が良くて、それが憎めない。店主はアンジェラに「みんなを楽しませてくれたお礼」と言って、日々の給料分くらいの心付けをくれた。次に来た時には一杯奢るとたくさんの人に言われた。

酒場に保安官アープはいなかった。まだ保安官事務所にいると聞いて、一行は次にそこへ向かった。

果たして彼は建物の前にいた。入り口の壁に寄りかかって穏やかな日差しを浴びていた。ロバートらを見止めると帽子を持ってわずかに浮かせてみせた。

彼らが目の前に来て止まると、アープは壁から立ち上がった。

「技士君たちではないか、しばらく姿が見えぬと思えば揃い踏みで。や、この保安官ワイアット・アープに用とは、よもや非常事態ではあるまい?」

「いいえ、別れを言いに来たんだ。仕事がうまくいったので。」

それを聞くとアープは白い歯を見せた。

「でかしたな、技士君。」

「お世話になりました。」

「別れは要らない、誰であろうと来る者拒まず、去る者追わず。それがこの街のルールだ。」

「いずれまた、調査の続きでここに来るかもしれません。その時は――」

アープは彼の言葉を遮って「さあな」と言う。

「本官がここにいるとは限らない。ヒルバレーが退屈な街になったその時は、新しい冒険の待つ場所へ旅立つさ。危険であればなおよい、行く先は風だけが知っているさ。」

四人は別れを言ってその場を去ろうとした。去り際にアープはロバートの腰のホルスターを指さした。

「手入れを忘れるなよ、銃は女と同じ、放っておけばへそ曲がりになる。……君の持ってるのは、上等だからな。」

ロバートは手を挙げた。アープもまた帽子を上げる。

「達者でな、フロンティア・スピリットを持つ者たちよ。」

馬車を出す、変わり映えしないこの街に後塵の他は何を残そうか。昨日も今日も知らぬ者たちがくぐっていくこの門があれば、明日の来訪者のための道標は何も要らない。

ヒルバレーを発ってあまりしないうちに、街道の向こう側に白い幌をかけた一台の車が見えてきた。いずれすれ違うと思っていたそれは、一向に近付く気配がない、立ち止まっていた。奇妙に思って近付いて行けば、さらに奇妙なことが分かってきた。馬は行き倒れて、荷物はあちらこちらに散乱している。流石に不審に思って、周囲を警戒しながら慎重に近付いた。

車の後ろに何かが見える。それは――人の頭。顔が帽子に隠されている。ロバートは馬車を停めさせて飛び降り、前方の動かなくなった車に近付いた。

陰では男が倒れて動かなくなっていた。数か所を撃たれて血を流しており、辺りは拡がった血を乾いた砂が吸い取って赤黒く染みを作っていた。男は既に体温を失っている。それだけではなくて、近くにはもう二人の死体も転がっている。全員撃たれていた。

後から彼を追いかけてきた者たちが惨状を見て息を飲んだ。

「野盗だ。」

ロバートは呟いた。

荷台を確認すると、この馬車はおそらく個人の所有物であろう、様々な物品の箱が乱暴に散らかされ、いくつかは持ち去られたように見える。男たちは行商で、街から街へ渡り歩いて物々交換のように品物をやり取りしていたのだろうか。

全ては終わった後だ。ロバートは今更できることがないと分かると立ち上がった。

「保安官に知らせよう、一度ヒルバレーに戻る。」

リニーは口元を覆った。

「私、知ってる。このやり方は……」

「ロバート、彼方を見よ!」

稲熊が遠くを示した。街道から逸れた小高い丘の稜線に並んで十騎余りの手勢……インディアン、その首領は、ジェロニモだった。向こうはこちらに気付いていて、手に手にライフルを担いでじっと見下ろす。

「お前たちがやったのか。」

ロバートは言う、小さい声で、その言葉が届くことはない。

「気を付けて、彼らを刺激する前にここを去りましょう。」

彼らは馬車の陰に身を隠す。しかしロバートだけは微動だにせず、アパッチの騎兵を頑として睨んでいた。

稲熊が袖を掴んで引き込もうとする、彼はそれを振りほどいて拳を握りしめた。

「こんなやり方、僕は認めない!」

その叫びは虚しく大空に吸い込まれていく。騎馬隊は順に稜線の向こう側へ消えていく。一騎、また一騎、最後にジェロニモも消え、後には血生臭い馬車と立ち尽くした技士だけが残った。


一行はアリゾナの荒野を南に進み、鉄道駅のあるフラッグスタッフへと帰還した。行きと同じ行程、静かな旅である。蹄が刻む調子に合わせて車輪はカラカラと絶え間なく回る。途中で小雨に見舞われもしたが、幌にかかる雨粒も楽しげに響いた。

フラッグスタッフで足を止めた一行は、各々の細々した用事を済ませた。実験器具やその他の品は大型郵便で社に返却、費用の勘定をつけた。既に東海岸に戻ったウエスティングハウス氏には報告の電報を打ち、もう少し詳しい話は手紙にして送った。近日中に詳しい成果を報告するために、ロサンゼルスか、どこかの発電所で実証を行うことになるだろう。うまくすれば、社だけでなく多くの資本家の注目を集めてさらなる研究を進められるかもしれない、ロバートはそのようなことを考えては心を躍らせた。

アンジェラは実家に電報を送った。連絡を取るのは久しぶりのことである。コロラド川流域で「アリゾナ方面へ行く」と最後の電報があってからそれきり音沙汰がなく、その時のエマソン邸の衝撃といったら並大抵のものではなかった。後にエマソン卿が東海岸から舞い戻ってこの話を聞き及んだ時にはきっと慌てただろうか。不肖の娘に腹も立たないほど呆れたか。彼に未だ父親として振る舞うつもりがあるならばそうするはずだ。

実際、返信は意外なものだった。エマソン卿はまたもサクラメントを離れてニューヨークへ向かったらしい。もとより出張から戻ったのも言わば一時帰宅というもので、また東海岸に赴く用事があった。今、実家に帰っても家長はいない、彼の説教が少し遠のいたのは気楽なようであり、一方では拍子抜けという感覚もあった。

市街から北に目を移すと聳えるハンフリイズ山はアリゾナの帽子ともいえる、コロラド高原の頂である。駅からはそれがよく見えて、頂点には白い被り物を確認できた。

出立の朝、木造平屋建の質素な駅舎に四人は身を寄せていた。高原の朝は冷える、まだ到着してすらいない列車をホームで待つには体が堪えるのだ。朝一番の列車で西に向かう者は、彼らの他に数人のみ。もう一人、外套に身を包んだ男が窓口の前にやってきて、欠伸をする駅員から切符を買おうとしている。

ロバートは来た時と同じ大きな鞄一つを体の前に置き、隣に座る皆に今後の予定を問うた。

「私はサクラメントの家に帰るわ。お父様は今いらっしゃらないそうよ、丁度いいわ。」

天辺が平らな白帽子を被りながらアンジェラは笑う。

「某が同船した日本の技士団はシカゴに居るそうだ。彼らに合流してもう暫し此の国の見聞を広めることになろう。本当はこれより東に向かいすぐにでも合流してもよかったが、一度サンフランシスコの知己を訪ねることにした。」

「ロビンと別れるのが名残惜しいのね。」

「何を言う!」

稲熊は大袈裟に身じろぎする。

「また合衆国に来たなら連絡してくれよ。」

「ああ。……そうだ、ロバート、主は日本で働くつもりはないか?」

「何だって?」

「御雇外国人と言うてな、高い能力を持ちし技士や教授は我が国で重用される。主のような若く野心的な技士は喜んで迎える。研究だってできようぞ。」

「僕はアメリカから出たことがないんだ。」

「よき国ぞ、日本は。気候はよく、飯も美味い。人もみな情に溢れている。何より活気がある。サクラメントではないが、『桜』はあるぞ。」

稲熊は両手を広げた。そういえば彼から祖国の話を聞いたことが無かったなとロバートは思った。

「日本語は話せない。」

「案ずるな、某が居るではないか。」

不意にアンジェラがロバートの腕を掴んだ。

「いけないわ。稲熊、彼を唆して引き抜こうとはいい度胸ね。覚えておきなさい、ロビンを見出したのは私よ!」

「それを言うなら、君じゃなくて君の御父上だろ?」

「いいえ、私よ!」

「あー、じゃあこういうことか、川の底に沈んでいた僕の才能を、君が潜って拾い上げたとでも?」

アンジェラはすっかり気を悪くして掴んでいる彼の腕をつねった。稲熊が「誘ってみただけだ」と言って大声で笑うと、リニーもそばでくすっとした。

「リニー、君は?」

自分の腕のさっきまで掴まれていたところをさすりながらロバートが問う。

「私に力を貸してくれる政治家か、有力な人を見つけたい。そのためにはまず、仕事を見つけないと。」

「ふむ、僕はいつでも協力する。アンジーはサクラメントで有名な家の者だし、その手の知り合いも多いはずだよ、そうだな?」

「……あまり期待しないでちょうだい。私の名前でできることは少なくてよ。」

「いいの、それでも。」とリニーは頷く。

列車が駅のホームへ入ってきた。かき鳴らすブレエキの音と共に巨体は止まり、煙突は真上に煤煙を上げる。まもなくいくつかの扉が開いて乗客が降りてきた。代わりにホームに座っていた何人かの人々は立ち上がって、扉の中へ消えていく。

「一度、ロサンゼルスに渡って社の担当者とやり取りするつもりだ。みんなはそれぞれの目的地に直行してもいいんだが……」

「野暮なこと言ったらいけないわ。」

「共に参ろう。」

「最後まで一緒に行くよ。」

そう言うと思っていたから、ロバートは何も答えなかった。

「さあ、僕たちも行こうか。」

掛け声と共に四人は列車へ乗り込む。まもなく長い汽笛が響いた。


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