学生時代、僕は写真部をやっていた。
中高一貫校に通っていたのだが、前期三年、つまり中学生にあたる間は卓球部として活動していたのを、三年生の大会が終わって一区切りがついた頃に写真部に転向した。何か強い理由があったわけではないのだけれど、強いて言うなら「卓球はもういいかな」と思ったこと、そして写真撮影という行為に有意義なものを見出していたからだと思う。
その当時としても、今思っても、学生時代というのはとかく怒涛のうちに過ぎていったと感じる。いくつもの行事やらテストやら、他愛のない教室での時間を過ごしたはずなのに、そのどれもあっという間に過ぎ去っていったように思われる。僕はこのことに焦りに似たものを感じた。人生に二度とないこの時間がこんなにもあっけなく溶けていってよいものだろうか、それは止めようのないことには違いないが、せめて指先一本でも抗えないだろうか――。
そうして思いついたのが「写真」だった。一度過ぎてしまえば二度と訪れることのない一瞬を、一枚の画像の中に閉じ込めてやる。そうすればそれを後になって見返した時、懐かしむくらいのことはできるじゃないか。漠然と過去の記憶を思い起こすことは難しいが、その光景を写した写真が一枚でもあればずっと簡単になる。写真というのは、過去の呼び水だと思う。
大方はそんな経緯で、僕は漫然と入部した写真部に対しても自分なりの矜持というかやりがいは感じていたのだけれど、部員の仲間を含め、周囲ではそこまで深く理解してくれていた人はいないと思う。何を隠そう、わが校の写真部は所謂「帰宅部」筆頭だったからだ。放課後に活動することはほとんど無くて、部員もそれを承知で入っていて、「放課後はすぐ帰りたい人向け」の部活だったのだ。僕はそのことに不満も何もなかったし、自分だって半・帰宅部として放課後を謳歌していたから何も言い返せないのだが、でもやっぱりやる気がないヤツ扱いされるのはちょっぴりだけ不服だった。
短編『写真部』はそういった僕自身の経験ももとにしている。フィクションであり登場人物は皆架空の存在なのだが、主人公ほか部員たちの写真撮影にかける思いなんかは自分と通じるところがある。
この短編集に収録されている作品はすべて主な語り手となる主人公の内面にフォーカスしたものである。過去の短編ではどちらかというと主人公とその周辺にいる一人ないし複数人との関係性に主眼を置いていたが、今回はより語り手自身に迫っている。少ない文字数で必要な内容を描き切るには、登場人物同士に冗長な会話を繰り広げさせるよりは、一人に多くを語ってもらった方が分かりやすいなと思った。
各作品に登場する主人公たちについて読者はどう感じただろうか。偏屈なやつらだと思っただろうか。確かにフィクションらしく、大仰でわざとらしい、キャラクタリスティックな性格をしているが、実際、各人が抱える葛藤とか悩みというものは極めて「普通」だと僕は思う。つまり、彼らは物事をやたらめったら大袈裟に捉えている「普通の人」だと思う。
『写真部』はこの短編集のメインとなる作品。理由は単に一番分量が多いからというのもあるが、前述のようなこともあって、雨宿拾遺の作品として看板を掲げさせるにはおあつらえ向きだった。シローは親友二人の幸せを願える優しい人間だ、そして二人をかけがえのないものとして頼りにしている。同じように、啓二や美沙希も、彼のことを頼りに思っていることだろう。この多感な時期の人間関係はその後の人生の一生に渡って多大な影響を及ぼすものだ。だから彼らは幸せだと思う。
『枕問答』は結婚式の夜に枕を並べて横になる新婚夫婦の会話劇。こうした台詞のみで繰り広げられる話は書いている自分も隣で会話を聞いているみたいで楽しい。舞台をベッドの上に限定し場面の変化を一切無くしたことでト書きがない、より臨場感のある味わいになった。実際、結婚式を挙げたその日の夜に夫婦は何を思って床に就くのだろうか。
『迷宮団地とのんちゃん』もある意味では限定された世界での話。公営団地というものは、子供の頃住んでいた家の近所にもあって通ったし、大人になってからも様々な土地の団地を覗く機会があったのだが、やはり異質な世界だ。社会の縮図とも言えるし、村をそのままコンパクトにまとめた感じもする。そんな「狭い世界」の中で異質な存在である主人公とのんちゃん。のんちゃんから見て「ぼく」はいつも怒っていたが、のんちゃんがうどんを啜っている間だけは穏やかにそれを見ていた。「ぼく」はうどんを食べている間の自分のことが好きなのだとのんちゃんは信じていたから、度々「ぼく」を誘っていた。無邪気だと思うし、ある意味ではそれも正しいと言える。彼女は立派である。
『花束を持って』は滑稽なオチのある話。短編作家といえば僕はオー・ヘンリーの作品が好きだ。『賢者の贈り物』『最後の一葉』が有名だろうが、オチのある小話(向こう風に言えばパンチラインか)も多く書いている。この作品もそれらを念頭に置いている。花があるだけで人の気持ちは豊かになってくると僕は信じている。
『水無月』は語り手を女の子にした作品。僕の知り合いの女性に息を吐くように嘘をつく人がいる。あとで嘘がバレて追い込まれることもあるだろうに、それでもやめないのはまさしくあれが虚言癖かと思う。それほどでないにしても、女の子って自分の中にフィクションじみた「設定」みたいなものを持っているような気がする。勝手な偏見ですまない。
『写真部のそれから』は『写真部』の後日談としておまけ程度に書いたものだ。別な作品の後日談として描いた作品は短編『カンニング』と『五月闇』があるが、執筆に至った心情としては似たようなものだ。この登場人物たちをここでおしまいにしてしまうとちょっと勿体ないから続きも書いた、ただそれだけ。後の作品を先に読んだっていいし、全く別の作品として読んでもらっても一向に構わない。タイトルになっている「それから」といえば漱石の有名な小説が思い浮かぶが、大して関連はない。
自分にとって短編小説は心のダムみたいなものだ。しばらく別なことをしているうちに堰き止められていたぼんやりとした構想とか、日々の中で蓄積されていく感情、そういったものたちをある時一気に放流して、数編を連続的に執筆してしまう。気が済んだらまた堰を止めてしまって、また別な活動に戻るのだ。そういったことの、繰り返し。