駅前を発ったバスがおれの住む地区を通り越して、見慣れない住宅街へおれたちを運んだ。まだ小さい子供だった頃、おれの世界は自宅と小学校を結んだ線の上と、その周りに広がる極めて狭い範囲で収まっていた。隣の小学校区なんて、どこか別の国のように思われた。だけど実際は、おれの世界と「別の国」とはそう遠くない地続きの空間上にあって、それは言うなれば受験期にはあれほど遠かった三月が今、あっけなく訪れてしまっているのと同じことだ。
「男子高校生が二人で、デパートのアクセサリー店で買い物なんてさ、ヘンな光景だったろうな?今さら思い出して、恥ずかしくなってきたよ。」
隣を歩いている啓二がくすりと笑った。おれは啓二が頬を赤らめている様子を想像して、思わず笑みがこぼれる。実際のあいつは、小奇麗な店員の女性にも堂々と接していた。
「むしろ、今の方がヘンな気分だよ。」おれは黒いジャンパーのファスナーをいじった。「やっぱり今からでも、お前が一人で買ったってことにできないかな。」
「それは、ダメだ。」啓二はきっぱりと言った。「二人で半分ずつ出し合って、ちょうど美沙希がおれたちにくれたのと同じくらいの金額だ。おれ一人で買ったっていうんじゃ、つり合わないよ。だいたいさ、ネックレスがいいんじゃないかなんて言い出したのは、シロー、お前だ。」
あいつの言う通りだった。おれはデパートにいた時の軽率な自分を呪った。
先週の卒業式の日に、美沙希はおれたちにサプライズを用意していた。「お世話になった二人に感謝と、これからもよろしくの気持ち」と言ってあいつが差し出した大きめの箱に入っていたのは、なんと新品の黒いスニーカーだった。それもバーゲンなんかで売っているのではない、きちんとしたブランド品だ。おれの靴のサイズを知っていることも驚きだった。美沙希は一足先に推薦入試で第一志望に合格していたから、おれたちが二次試験の猛勉強をしている最中にアルバイトを始めていて、最初の給料で買ったんだって。「大学生は足元からオシャレしないとモテないぞ」って、美沙希はおれに言った。余計なお世話だよ。プレゼントと一緒にご丁寧にピンクの便せんに入った手紙まで用意されていた。その日の夜におれはベッドに寝転んで、心臓が爆発しちゃうんじゃないかってくらいの鼓動を感じながら手紙を開いた。そこには美沙希の整った字で正直な想いが綴られていたのだけれど、はっきり言っておれには刺激が強すぎた。何度もその文面を読み返して、最後に手紙を鼻に近付けて、そっと息を吸い込んでみた。紙の匂いがした。
このサプライズは啓二も予期していなかったようで、おれたちはその日のうちにお返しを贈ろうって頷き合った。そうして今日、啓二と一緒に平日のデパートへ繰り出したのだ。思えば二次試験が終わったその日以来、おれはある種の「燃え尽き」状態になって、日がな家にこもってぼんやりとしていた。合格発表は今週末、結果如何では後期試験が待ち構えているわけだが、多分受かっているはずだ。そういう心の余裕もあってか、何にもやる気が起きないままでいた。受験勉強をしていた頃は何かを我慢するにつけ「受験が終わったら……!」を枕詞にしていたものだが、その待ちに待った状況が訪れたのに、何一つ手を出していない。実を言うと、美沙希や他の妄想を使った例の行為にも及んでいない。このまま抜け殻みたいな人間として生きていくのかと焦りにも似た思いが浮かんできた頃、美沙希のサプライズがあって、途端におれはおれの世界と向き合う生気が湧いてきた。美沙希は、女神様が現世に降臨した姿なんじゃないかと思う。
おれがいつまでも決断を渋っていたので、啓二は言葉を続けた。
「仮に、お前の言う通りにしたところでさ、あいつにバレないと思うか?」
おれは首を横に振った。
おれたちは美沙希へのお返しを見繕うのに、漠然と「デパートが良い」と考えたのだが、品目まで明確に決めていたわけではなかった。衣料品なら、色やスタイルの好みくらいは啓二にも分かるけれども、美沙希のクローゼットの中身までは把握していない。化粧品ともなると完全に専門外だ。そもそもおれたちは、自分自身のスタイリングにすら無関心なのだから。雑貨といってもピンとこないし、実用的すぎるものはかえって使いづらいし、あちこち練り歩いているうちに、おれはアクセサリー店に目を付けた。ネックレスなら既に持っている服にも合わせやすい。何より、目立つところに装飾品をつけていれば「彼氏に貰ったの」って自慢ができて、間男が寄り付くのを未然に防げる。啓二と美沙希の間に浮気なんて万に一つもないけれど、別々の大学に進学するのだから、そういう面倒事は避けるに越したことはない。おれはだいたいそんなことを話した。啓二は乗り気で頷いて、ネックレスなら美沙希も持っていないし、サプライズにはうってつけだろうと賛成した。結局、おれたちは廉価な貴金属のネックレスを一つ買った。
「シロー、おれだって恥ずかしくないわけじゃないんだ。だってさ、こんなプレゼントは一度も渡したことないんだから。」
ネックレスは今、啓二の提げた紙袋の中にある。サプライズ感を高めるために、饅頭の紙袋に入れてカムフラージュすることにした。饅頭の紙袋があって、その中にアクセサリー店の紙袋があって、包みがあって、宝飾品のケースがあって、それを開けるとやっとプレゼントが入っている。とびきり不器用なマトリョーシカだ。
「分かったよ。その代わり、プレゼントの発案はお前ってことにしておいてくれよ。頼む。」
「二人でデパートを歩いてたら不意に思いついたってことにする。お前は本当に用心深いというか、何というか、だな。」啓二は目を細めた。
おれたちは静かな住宅街の中を歩く。この辺りは土地勘がないので、おれはどこをどう辿って来たかもう覚えていない。啓二の家には何度か遊びに行ったことがあるが、美沙希の家は初めてだ。二人は幼馴染で小学生の頃から付き合ってると聞けば、無意識に互いの自宅が隣同士なのかと思い込んでしまうが、実際は母校の小学校を挟んで反対方向だからそれなりに距離があるらしいのだ。
その時、おれは、ほとんど唐突に、啓二に打ち明けたいことが浮かんだ。何の脈絡もないし、今の状況を思えばむしろここで伝えるべきではないのかもしれない。だけど、どういうわけか「今しかない」と思って、完全なる無意識のままにおれは啓二に呼び掛けていた。
「怒らないで聞いてほしいんだ。」
「いいや、怒るよ。場合によってはね。」これは、啓二流の冗談だ。
「文化祭の後にさ、おれ、星野さんに告白したろ?それでフラれたろ?」
啓二は頷いた。このことは当時、啓二と美沙希には事後報告的に話した。告白しようと思ったのもすべておれの唐突な思いつきだったので、悠長に恋愛相談教室なんて開いてられなかったのだ。
「あの時は話さなかったけど、何て言ってフラれたと思う?」
啓二は「うーん、何だろう。」と呟いた。元よりクイズをするつもりはなかったので、おれはすぐに話を続けた。
「『誰かさんの代わりなんてやーよ』って言われた。つまりさ、星野さんが思うには、おれは本当は美沙希のことが好きなんだろってことだ。」
啓二はしばらく黙っていた。
「それは、言わなくて正解だったよ。美沙希、そういうの気に病むだろうから。」
「ああ。」おれは頷いた。「おれもそう思ったから、このことはまだ誰にも言ってなかったんだ。別に構いやしない、それでおれも星野さんへの想いはすっぱり切れたんだから。おれが言いたいのは、星野さんの言うこともあながち間違いじゃないってことなんだ。おれは、美沙希が好きだよ。友達としてももちろんだけど、異性としても、な。あいつに顔を覗きこまれると、ドキッとする自分がいる。」
おれは一時黙り込んだ。隣は見なかった。ここで啓二と目を合わせたら、返答を求めてるみたいで、それは最低なことだ。おれには続きの言葉を考える時間がほしかっただけなのだから。
「信じてほしいんだけど、おれはお前のことが妬ましいのでも、その立ち位置を奪ってやりたいのでもないんだ。むしろこのままがいいんだ、ずっと。おれなんかには過ぎた友達が二人いて、二人ともやさしくしてくれたらそれでいい。だって考えてもみろ、もしあいつがどこかの知らない男と付き合いだして、これまで通りに話したり、遊んだりできなくなったら、その方がずっと嫌だよ。でもさ、そんな風に考えた時に気付いたんだ。おれの『好き』とは結局、自分にとって都合よくしてくれる女子を、自分の身の回りに置いておきたいっていう、エゴイズムに過ぎないんだ。星野さんは、そういうのをそれとなく見抜いていたんじゃないかな。」おれは息をついた。「なあ啓二、お前ら二人は、おれの恋愛の理想だ。ずっと、いつかはこんな風に誰かを愛せたらいいなって思ってきた。」
そんなに高尚なものじゃないぞ、と啓二は少し笑った。おれは真顔で続けた。
「だけど、ダメだな。おれは一生を懸けても純粋な愛の在り方になんか一歩も近付けやしなくて、こそこそと、『都合のいい相手』を手元に置いておこうと浅ましい真似を続けるんだ。……啓二のこと、ちょっぴりだけ羨ましく思うことはあるけれど、美沙希の心をそんな風に使い捨てるくらいなら、おれは真っ暗な部屋の中に自分一人を閉じ込めることにする。」
おれはもうすっかり萎んでいた。昼下がりの住宅街は静かだ。些か静かすぎた。おれは言いたい放題言い切った自分を呪った。「今しかない」とは、ムードをぶち壊すのに最上の機会だったというわけだ。
啓二はまだ黙っていた。「今日はもう帰ろうか」なんてやさしさを見せてくれたら、おれは今度こそプレゼントをあいつ一人のものにして立ち去るつもりでいた。
やがて啓二は「シローの言う通りだ」と言った。その時点では、あいつがおれの言葉のどの部分に対して賛同したのか分からなかった。すると啓二はこう語った。
「おれの頭の中にはな、いつだって筋書きがあるんだ。その中でおれの周りにいる人たちはそれぞれその人自身を演じるように配役されている。シローはシロー役、美沙希は美沙希役……ってさ。そこには台本があって、登場人物が語るべき台詞があらかじめ用意されている。おれはずっとそういう風に生きてきた気がするんだ。そしてこれまでのところ、お前と美沙希は、最もおれの中の筋書きに近い形でおれに接してくれた。お前たちと深く付き合ってきたのは、それが理由だと思うんだ。」
「おれが出てくる夢って見る?」啓二は問いかけたので、おれは曖昧に返事した。実際はしばしば見る。「おれはしょっちゅう見るよ、お前たちの夢。大概は学校にいるんだけど、時たまとびきり変な状況に置かれるんだよな、アレ。その中に出てくるお前や美沙希ってのはもちろん現実の存在でなくて、おれの思考の中にいる存在だから、当然、おれの思考通りに動いて喋る。夢が予期せぬ急展開を迎えようと、結局はおれの深層心理が描く光景なんだから、同じだよ。そうして目覚めた朝、俺は激しい不安に襲われる。胸の内に冷汗を流しながら学校へ行って、お前に会う。自分の意志で考え、自分の言葉を喋るシローを前にして、おれはこの上なく安堵するんだ。良かった、この世界はおれの筋書き通りにはできていない。おれはまだ、おれの大切な人たちを都合のいい『着ぐるみ』にさせちまったわけじゃないんだ、って。おかしな話だろ?でも本気だ。」
「少し話は違ってるかもだけど、シローの言ってること、おれにも分かる気がするんだ。人は誰しもエゴイズムってものを抱えてる。確かにそれは道徳的とは言えないかもしれないが、だからといってきれいさっぱり取り除けるわけでもない。だから結局、みんな上手いことやっていけるように頑張るしかないんじゃないのかな。」
「それって、開き直り?」
「そう、開き直りだな。ダメかな?」
「ダメじゃない。」
この男は悪人ではない。おれの大事な親友だ。
啓二はふと立ち止まった。曰く、目的地に到着したそうだ。顔を上げてみると、そこには洋風の戸建住宅が一軒。このおしゃれな家が美沙希の自宅らしい。おれが突っ立って口を開けていると、啓二は「いいだろ?」と自分のものみたいに微笑んだ。
「これはな、美沙希のお父さんの趣味なんだ。」
「意外だ。お父さんって時代劇を観るんじゃなかったの?」
「それとこれとは別なんだって。美沙希のカメラだってお父さんの影響だからな。」
時代劇を観る人が和の精神に生きる人間である必要はないのだ。
「あいつって実はハイソなのかな?」
「はは、それは……どうかな。」曖昧に笑った。
門のインターホンを鳴らしたら美沙希が答えた。今日の午後におれたちが来ることは事前に伝えてあったので、向こうも待っていたのだろう。
案内されるままアプローチを抜けると、玄関の前まで来たところでひとりでに扉が開いた。中から美沙希がひょっこり顔を出した。
「いらっしゃい。」
私服姿の美沙希を見るのは久しぶりだ。この半年以上、学年全体が受験ムードに包まれていたので、外で遊ぶのもご無沙汰だったのだ。
「美沙希。立派な家だなあ、ここ。」
「そうお?お父さんが聞いたら喜ぶだろなあ。」
美沙希のお父さん、いつか会ってみたい。きっといい人だ。
啓二は不意に紙袋を美沙希に突き出した。
「ほら、お土産だ。」
「あー、金のまんじゅう!好きなんだー、あたし。」
おれは心の準備ができていなかったので狼狽えたが、外面では饅頭にしか見えないのだった。
「ちょっとしたオマケつきだよ。」啓二はにやける。
カムフラージュなんて、思いついたときは名案だと思ったのだが、中を覗き込めばあっという間に異物に気付いてしまうわけで。美沙希の手が一瞬止まって、それから一直線に手を突っ込んで白い包みを取り出した。きょとんとした目でこちらを交互に見つめた。手に持ったサイズ感と、ブランドの紙袋から中身は凡そ想像できてしまうわけで。美沙希はするすると包みを開けて、黒いケースを両手でそっと持った。肩をこわばらせながら、僅かに開いた隙間から鍵穴を覗くみたいに中を覗き込んだ。すぐに閉じた。
「う・そ!?」
「卒業おめでとう。いや、入学おめでとう、かな?こないだ立派なもの貰っちゃったからな、そのお返し。」
「いいのに、別に……!」
「いいや、こっちからも何かあげたかったんだよ。おれたちにしては悪くないチョイスだろ?」
おれは黙っていた。言いたいことは啓二が全部言ってくれたから、それ以上は必要がない。初めて見る美沙希の顔が見られたから、それで満足だ――。
一瞬、何が起きたか分からなかった。目の前にいた美沙希が視界から消えた、そう思ったら、もっと目の前にいた。美沙希はおれたちの間に飛び込んで、磁石がくっついたみたいにひしと抱きしめていた。これは、女神様どころじゃないな。
美沙希がおれたちを放してくれるには随分時間がかかった。実際の時間がどうこうではなくて、おれにとっての時間だ。それからは早速そのネックレスをつけたがって、おれは啓二につけてやるように促した。本当のところ、おれはネックレスのつけ方なんて知らないのだ。きっと啓二も同じだろうけど。果たしてそのアクセサリーは然るべきところに収まった。最後には美沙希の首元で小さな金属が特別な輝きを放ってそこにあった。すべては玄関先での出来事。
「ごめんごめん」美沙希は上機嫌で笑った。「ここじゃ寒いもんね、上がって上がって。」
美沙希が玄関扉を開ける。啓二は地面に置いてあった紙袋を拾い上げて前に進んだ。おれは、一歩後ろに下がった。
「悪いんだけど、おれはもう帰るよ。」
「えっ?もう帰っちゃうの?」
「少し上がっていけよ、シロー。ま、おれの家じゃないけどさ。」
元々は美沙希の家で遊んでいく前提で話していたので、啓二は些か疑問に思ったろう。けれどさっきまでの会話があるから、おれの心情を汲んでくれていた。美沙希はおれが二人に気兼ねしていると思ったのか、粘り強く説得を試みた。
「帰らなきゃならないんだ。引っ越しの準備もあるし……。」これは完全な嘘だ。引っ越しの準備なんて何一つ手につけてないし、それ以前に合格発表がされてないのに。でもこの言葉があって、美沙希もやっと引き下がってくれた。
「わざわざ来てくれてありがと。また何かの時に来てよ。」
「どうかな、女の子の家は、おれにはちょっと刺激が強すぎる。」
「何よそれ。なはは。」
これはまるっきり冗談でもない。玄関を開けた時からほんのり美沙希の制服と同じ香りが漂ってきて、もうお腹いっぱいなのだ。
「引っ越す日が決まったら教えてね。見送りに行くから。」
おれは首を横に振った。
「いや、できればここで見送ってほしいんだ。」
「なんで?お見送りさせてよ。」
「いいんだ、本当に。気持ちだけ受け取るよ。」
まだ承服しない美沙希の肩に、啓二がそっと手を置いた。あのやさしい親友はすべてを分かってくれている。もう一人の親友も、その手のぬくもりだけで納得してくれたみたいだ。
「プレゼント、ありがとう。ずっと大切にするね。シローも頑張って。」
「こちらこそありがとう。しっかりやれよ、な。」
「シロー、向こうに着いたら連絡をくれ。必ずな。」
「手紙を書くよ、二人に。少し長くなっても、よろしくな。」
おれは一歩、また一歩、距離を取った。寄り添ってこちらを見つめる二人の、ずっと遠くが見える。
「シロー、道は分かるか?」
「大丈夫だよ。」
三月の風吹く道を、歩いていく。