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1999東京

曇天。私は東京駅のホームに降り立った。さっきまで「のぞみ」号の角が丸い窓に降りつけていた小雨は、今しがた車体とホーム屋根との間を仰ぎ見てみれば、雪混じりの重苦しい水氷に変わっていた。

一九九九年一月某日、東京。新年の慌ただしさも未だ静まらないこの都市に、私は身を捨てるつもりで立っていた。このようなことで命を捨てるのもあり得ない話ではあるが、その時の私の心境としては、一切の誇張なく、その覚悟であった。


一九九〇年代、元号にして平成二年から十一年までを、我が国の戦後史として回顧するならば、蓋し「前代未聞」に翻弄された時代と言える。前年に先帝陛下が崩御なされ、平成という元号と共に迎えた新しい時代の幕開けは、歴史的な大不況と共にあった。いくつもの大災害と世間を震撼させる事件を経て、必ずしも楽観できない将来に不安を抱えながら、人々は移ろいゆく世間の中をもがくように生きていたものと思う。

それは私についても同様であった。私はこの時代に二十代の盛りを過ごし、今に至る人生観や一家言というものの少なくない部分を形成した。そんな私にとってこの年代で最も動乱を迎えた年――そればかりか、半生を通して片手に数えられるような怒涛の年と言っても差し支えないのは、一九九九年である。事実、私は今でも一と、九が三つ並ぶその数列だけで感傷のようなものを覚える程である。ここに、私がその年の春を迎えるまでに辿った自らの足跡と、その影で誰にも語ることはなかった甘たるくも苦々しい記憶についてを記す。一部には定かでない記述もあろうが、それは自身の記憶違いなどによるものではない。もしあったとすれば、私の心のかき乱れた部分が、今さらになってしたためたこの文章にすら影を落としたということである。

私の名は神之目満爾という。子供の頃から視力が良くなく、常に眼鏡をかけている。髪色は黒く、前髪は少しばかり眉にかかるくらい。それ以上記すことは、ない。

その年に私は三十を手前にして、世事にも若者とは言えぬ年齢で、自らが中年に向けて確実に歩みを進めていることを嫌でも感じないではいられなかった。

生まれは都原市の近くにある中辻という町である。珍しいことはない大都市圏の周辺自治体らしいものであるが、少なくとも私にとってはよい故郷である。そんな小さな町に他にはない特徴が一つだけある。他でもない、私自身に関わることである。

都原市に本社を置く大手企業、「神之目不動産」。その創業家であり明治時代から現在に至るまで代々経営を続けている神之目家の在地は中辻町である。都原鉄道中辻線終点の中辻駅から正面の丘上に広大な敷地を持った邸宅が見える。それが神之目家の邸宅であって、私の実家である。私は、神之目不動産現会長の息子だ。言ってしまえば「御曹司」というものか。

私自身はこの生まれを別段恵まれているとか疎ましいとか思ったことはない。他の人々が自らの生まれた環境に何ら特別な思いを抱かぬのと同様に、私はこれを生来の環境として受け容れてきた。そして、いずれ家名を負う者として当然の矜持を持っていた。

かくして私は大学を卒業してすぐに神之目不動産に入社した。会長の息子とて一介の新入社員として始める心づもりでいたが、当時の上司にしても会長令息を監督する立場にあるのは心休まらなかっただろう。私はすぐに昇進を繰り返し、気付けば二十代にして役員会議の末席を汚す者になっていた。

随分話が遠回りしたが、冒頭のように私が東京の地に降り立ったのは、神之目不動産としてのある仕事によるためであったのだ。

この年の一月、私は都原の本社を離れ東京に赴任した。役員であった私がとある事業に携わるためである。

東京都千代田区、御幸《みゆき》町。皇居に隣接し、東京駅にもほど近いこの地区は古くから将軍のお膝元として大名屋敷・武家屋敷が置かれていた。明治から大正、昭和にかけていわば日本の中心として栄えたこの地区はまさしく我が国の発展を牽引してきた。現在では公的機関からオフィスビルまで主要な建物がひしめく地区になっている。

しかしながら、御幸町は近年になって少々の問題を抱えていた。それというのも、歴史あるが故の地区の「老齢化」という問題だった。早くから栄えた地区は、老いるのも先んじている。最も古い建物では東京大空襲を乗り越えた昭和初期のビルがあるくらいだ。これは現代の需要に応えられるものではなかった。また、都は防災の観点から地区の建物の密集を問題視していた。

手狭になった御幸町を改造しようという構想は八〇年代の後半に議論がなされるようになった。御幸町再開発計画。我が社ではこの頃に計画が行われていたようだが、バブル景気に伴う地価の上昇とその後の不況のあおりを受けて一時は計画が止まっていた。しかし、日本の中心という高い需要から再開発の必要性は主張され続け、九〇年代に計画はにわかに再始動した。計画を主導したのは最大の土地・建物を所有する神之目不動産である。

段階的に工事も始まり、順調に思われた計画に暗雲が立ち込めたのは前年のことである。込み入った話などはここでしても面白くないであろうし、私が勝手なことを述べるのは愚かなのでここでは差し控えるが(ある程度の内容は社の記録が残っているはずだ)、簡単に言えば広大な再開発地区の中で権利者の意見に齟齬が生まれたことにある。加えて、不況の中で参入を断念する業者が現れ、計画に見直しが必要になっていた。一大事業の頓挫は本社としても看過できるものではなく、それどころか、当時は社運がかかっていたと言っても差し支えないほどかもしれない。難局を切り抜けるべく本社は東京へ人材を送ることを決定した。事業の推進役として、その中心に立ったのは私だった。

私を指名したのは他でもない会長、つまり私の父である。会長が事業に実子を送り込むとなれば、それは内外に対して大きな意味を持っていた。本事業にかける熱意の強さについての意思表示だ。加えてこの指名は私にとっても大義があった。

親の七光り、とは、ありふれた言葉である。これは単なる私の劣等感ではなく、事実、最年少で役員会議の末席に座る男の実力を疑問視する空気はあった。私にはそれが感じられた。それを切り払う手段は一つ、実力を証明するだけだ。今、会長は私に挑戦を課した。言い換えるならそれは、息子に名誉を得る機会を与えるという、優しさでもあった。

私は何としてもこの事業を成功に導かねばならない。そう運命づけられていた。

社用車の後部座席から眺める路面は雨に濡れててらてらと輝いていた。この大通りの先が御幸町、我が社の東京支社も御幸町にある。工事が本格的に始まれば社屋は完全に新しくなる。社内で挨拶をして、自分の机を確認したらその日は近くのホテルに引っ込んだ。スイートルームとは馬鹿に広くて落ち着かないもので、以前出張で泊まったシングルの一室の方が私の性には合っているのだが、そのような選択はできない。上に立つ者は相応の振る舞いを怠ってはならない、それが部下のためというもの。スイートルームはまさしくこの私に「付きもの」というわけだ。


ここまで書いて、一度筆を置いた(正確には、キーを打つ手を止めた)。私は書き物をするのは慣れていないので、如何ともし難い。それが自らの過去の話となれば尚更である。かくして私の大きな仕事が始まったわけだが、これより先、仕事の子細については長々とした説明を省く。仕事の一切について詳細を記すのは現役を退いてから有り余る時間を費やせばよい。それよりも、私はもう一つ記すべきことがある。むしろそちらのためにこの筆を執ったと言えるのだから。

一九九九年と言えば、覚えている方もいるかもしれない。とある結婚の話題である。それは毎年何十万と受理される婚姻届の一枚に過ぎないものだが、私たちにとっては、そればかりか社会にとっても、大きな事件であった。

それは、私が我が妻、末広時子と結婚した年でもある。

初めに言っておくが、私はここで手前味噌な惚気話を聞かせようというのではない。なぜならそのようなものは存在しないからだ。それどころか、私がここで述べるのは、とある別な女性との間柄についてである。


それを語る前にはまず、ある方との親交について述べる必要がある。東京に赴いて一番にしたことと言えば計画に関わっている各社の代表のもとを訪れることだった。仕事の第一は信頼、これは多様な主体と関わるこの業界においては当然の意識であって、良好な関係を築くには挨拶一つ欠いてはならない。そして、この場合は私から訪ね行くのが道理である。新年からチームに神之目不動産会長の子息が加わったという話は十分に流布されていて、どこでも歓迎を受けたものだ。有難いことである。

特に私に目をかけてくださった方に、万堂《ばんどう》氏があった。彼は知っての通り建設業大手の万堂建設の社長であられた方だが、万堂建設は再開発計画に初期から携わっていて、主要なビルの建設を担うことになっていた。

万堂氏は、歳は私の父より上である。髪は薄め。穏やかで、恰幅がよく、私服も実に活動的なものであるから知らぬ者の目には「近所の気の良いおじさん」と映るだろう。私はあらゆる面で彼に助けられた。私が神之目不動産次期会長であるから、とかそのような打算的な考えでなく、一人の若者に対して語るように、彼は接した。今にして思えば、私の仕事に対する態度のいくらかは彼から学んだと言える。

あまり経たないうちに、私は万堂氏の自邸に招かれた。個人的な付き合いとして、ということであった。断る理由はなかった。

ある夜、私は田中さんを運転手に三鷹にある氏の邸宅に伺った。余談だが、田中さんというのは実家の使用人の一人で、私の運転手であり、付き添いの方だった。東京に滞在する間も何かと身の回りのことを頼める者が必要だろうと、実家の計らいで一緒にこっちに来ていた。使用人といえど、私とは親子ほどに歳が離れていて、子供の頃からもう二十年近く実家に仕えているので私はその頃の名残で親しみを込めて「田中さん」と呼ぶのである。

氏の邸宅は、それは立派だった。この狭苦しい東京にこれほどの広い敷地と優雅な住宅があるものかと感動した。古くからこの土地を持っていたらしい。車寄から案内を受け、奥の座敷に通された。氏はそこで私を待ち受けていた。見慣れない和服姿だった。

「やあ、満爾くん、よく来てくださった。」

調子のよい声で氏が言う。私たちは握手を交わして、用意された座布団に腰掛けた。座敷からは縁側の先に日本庭園が広がっていて、灯篭を模したライトに仄かに照らされた植木がシルエットを浮かび上がらせていた。

私たちはいくらか言葉を交わした。近況についてとか、そのようなことである。私は当たり障りのないようなことばかりしか語らなかった。その内に、障子を隔てた廊下から女性の声がした。万堂氏が一言答えると、「失礼します」と言って、障子が開け放たれた。

向こう側に座っていたのは若い娘さんであった。歳は二十代の前半くらい、軽くウェーブがかかった髪を肩に掛かるくらいの長さで下ろしている。足元まであるスカートを身につけた様子からは、この家の使用人ではないようだった。彼女はこちらを見て一礼した。

「入りなさい。」

氏の招きに従ってやおら立ち上がった彼女は、私たち二人の間で、私たちを横から見る位置に控えた。

「満爾くんが折角来てくれたのだから、ぜひとも紹介したいと思ってね。こちらは僕の末娘だ。『幸い』の一文字で『みゆき』という。幸、この方は神之目満爾くんだ。神之目不動産の会長さんの御子息なのだよ。」

私が彼女の方を向いて一礼すると、幸さんもそれに応えた。

「父よりお話は伺っております。父の会社共々、大変お世話になっております。」

「いいえ、こちらこそ、御父上には格別のご高配を賜り、感謝しております。」

などと私が答えると、万堂氏は「堅苦しいのはなしにして」と顔の前で手を振った。

「満爾くんは、歳はいくつだったかな。」

「今は二十九です。」

「そうか。幸は……えっと、いくつだったか。」

「もう、お父さんたら。二十四です。」幸さんは氏の方を向いて眉尻が下がりながら言った。

「そうだったそうだった。まあ僕はこの通り、今の若い者のことなど分からないが、そこは満爾くんの方が通じるだろうね。」

氏がそう言うと、幸さんはなおも困ったような顔をして、少しはにかんだ。

幸さんが私に言った。

「もうすぐお食事をご用意致しますから、お待ちください。」

彼女は再び礼をして、それから座敷を後にした。障子の向こうにその姿がすっかり見えなくなる頃に私は氏に向き直った。

「素敵な娘さんですね。」

氏は満足そうに頷いた。

「いやはや、僕が言うのも難だが、器量もよいだろう。あれは家内に似たんだ。」

その後に、万堂氏はこうも言った。

「末娘ともなると、親がしてやれることはあまり多くない。ただ願うことは、よい家庭に入って幸せであることだ。そう思って『幸』と名付けたんだ。それしかないね。」

そう語る氏の表情の穏やかなこと、いつか私に娘ができるようなことがあれば、同じように想うのだろうかと、そんなことが心の隅に浮かんでいた。

まもなく食事が運ばれてきた。その折にまた幸さんは戻ってきた。同じように控えていて、今度は私たち二人のそばに代わる代わる近寄って、酌をするのだった。

万堂氏はお酒が入ると饒舌になる方であった。彼が語る様々な話を私は熱心に聞いていたものだが、次第に家族のことや個人的な趣味についてもお話しになった。その場に居るのだから当然、幸さんに関わる話もするわけで、多くの時間を割いて語った。彼女は某有名私立大を出て、今は実家に住まいながら氏の手伝いなどをしているらしい。兄はそれぞれに社会で立派な活躍をし、姉は皆嫁いで実家を離れたので、今となってはたった一人傍にいる末娘を氏は大変かわいがっている様子だった。他にも、幸さんが幼い頃、氏は激務に追われて始終家を空けることもしょっちゅうであり、そんな生活を続けていたところ、彼女に父親でなく「たまに来るおじさん」だと思われていたなどという笑い話もあった。幸さんときたら、頬を赤らめていた。

万堂氏が用を足しに席を立った。先ほどまで大笑いしていた室内がしんと静まり返った。私は手持無沙汰になってしばらく床柱の模様などぼんやりと眺めていた。

不意に、幸さんに声を掛けられた。

「お疲れですか。」

私は即座に向き直って、彼女の瞳と目が合った。「いいえ」などと答えたが、どうにもその瞳がぼんやり見えてきて、私も酔いが回っていた。

「お水はいかがですか。」

彼女がそう言うので、私ははいと答えた。彼女は手元にあった銀の水差しを取った。私が持ち上げかけたグラスを白い指がさっと受け取って、水を注いだ。冷えた水が注がれたグラスを呷る。下品に喉が鳴った。

「今日はありがとうございました。」

幸さんは水差しの表面に結露したのを布巾で拭いながら、そっと口にした。

「父はいつも神之目様の話をしています。ですから、こうしてお会いすることができて光栄です。」

私は「恐悦です」と答えた。

「御幸町、生まれ変わるんですってね。ささやかながら応援しております。」

幸さんは微笑んだ。口角が上がり、ほんのり紅く、つやつやした頬が際立っていた。その時私は今日初めて彼女の口から「みゆき」の名が発せられるのを聞いた。

私が再開発計画を任された地区、御幸町。万堂氏のご令嬢、幸さん。勿論これは偶然の一致に他ならない。だが、そこからの数ヵ月、「みゆき」という名を何千、何万と見聞きし、口にする、その度に、私はこの気丈な娘さんの顔を頭の隅に浮かべることとなるのであった。


その日のことは以上である。私はあまり遅くならないうちに田中さんの運転で部屋に引っ込んだ。

私も勘の冴えない男ではない。言葉にしない他人の思いを汲み取れぬ者ではない。最初に察しがついていたし、会食の席で彼女に酌をさせていたところから確信に変わった。

万堂氏はご令嬢を、幸さんを私に紹介しようとしたのである。縁談として。

もとより私には強く断る理由などなかった。他に縁談があったわけでもなし、私自身に妻帯を拒否するつもりがあったわけでもなし。事実、これまでにもそれらしい話はいくつかあった。大抵は仕事の付き合いを通じての関わりだったが、いずれも時局だとかあれこれの理由によって正式な縁談になる前に立ち消えていた。

白状しよう、私はこの時点において、心の中に、もしこの縁談が正式に持ち上がったならば、受けようというつもりがあった。それは社運をかけた再開発計画において今後とも世話になると決まっていた万堂建設社長の願いだからか。有耶無耶にしているうちに自らが三十の大台に登ろうとしていたという仄かな焦りからか。それともロマンチックに、彼女の瞳に惚れ込んだからか。そのどれも違っていたように思う。だけれども、私の胸中には確かにこの女性を妻にしようかという気持ちが湧いていたのだ。

しかしこんなことは、私一人で合点がいっても仕方がない。大切にしなければならないのは幸さんご本人のお気持ちである。彼女にそのつもりが無いとして、彼女の方から断ることは難しいのだから、その時は私がこの話を無しにしてしまうのが道理であろう。私は彼女の心の内を確認する必要があった。

その機会はほどなくして訪れた。私は再び万堂氏のご自宅に参上することになった。今度は日中で、個人的な打ち合わせがあったためである。

その時は前回の座敷ではなく、革張りのソファが並べられた応接間に通された。洋室ではあるが建物の構造は日本家屋のそれであるから、それは和洋室というものだった。奥の壁には掛け軸が掛かっていた。

私が一人で腰掛けて待っていると、幸さんが盆を持って入ってきた。先日とは異なる青いドレスを着て、薄く口紅を差して、私と目が合うとどこか緊張した素振りでさりげなく湯呑みを差し出した。湯呑みは一つであった。

「申し訳ございませんが、父は急な電話が入りまして、もうしばらくお待ちください。」

指摘するのも野暮だ。氏が遅れることで私と幸さんとが話す時間を作ってくださったということだろう。あるいは本当に電話があって遅れているのかもしれないが、実際に、彼女は茶を置いた後も盆を胸の辺りに抱えて部屋の隅に控えたままでいる。おそらく氏から私の応対をするようにとか、言い付けられているのだろう。

彼女は押し黙っていた。このまま時間いっぱい石のようにしているのも仕方がない。私は極めて落ち着いた口調で、

「そのまま立っているのもくたびれるでしょう、差し支えなければ、お父様がいらっしゃるまでこちらに座って、話でもしませんか。」

などと問いかけた。幸さんは嬉しいやら困っているやら判然としない表情で、それでも「失礼します」と言って私の正面のソファに浅く腰掛けた。座面に座った跡すら残したくないというくらいの、控えめな座り方である。

「先日はありがとうございました。」私は言った。

「いいえ、こちらこそ……」

彼女は伏し目がちに答えた。何やら恥じらいがあるようで、先日の夜とはどこか別人のような振る舞いである。それきり会話が途切れてしまった。

次は何を話そうかと私が呑気に考えていると、「あの……」と弱々しい呼びかけがあった。間を置いてから、幸さんはこのように問いかける。

「神之目様は、休日は、何をなされるんですか。」

「そうですね」私は自然に答える。「これといって芸のあることはしませんが、天気の良い日などは車を走らせたりします。」

「運転なさるんですか。」

「ええ。大抵は日帰りですが。」

「どなたか、ご一緒に?」

「いえ、決まって一人です。山道や海沿いを走って、誰もいない景色を眺めるのです。」

なんだか下手なインタビューのようだった。

「そちらは、何かなさいますか。」

社交辞令らいく尋ね返すと、彼女は少々まごついた様子で、

「時たま写真を撮りに出かけることがあります。」

と答えた。控えめに顔の前に両手を掲げ、カメラを持つ仕草をするのがそれらしかった。

「気に入った風景を見つけてカメラに収めるんです。家族旅行の時は、いつも私が撮影係です。」

私は頷いた。

「いいですね。よいカメラをお持ちなのですか。」

「大層なものじゃなくて、デジタルカメラです。下手なものですから、その場で確認できて撮り直しが利くのがいいんです。」

そう言いながら彼女は笑った。こないだと同じ微笑である。

二人の会話はそんな調子だった。そのうちに万堂氏がいらっしゃって、幸さんは部屋を後にした。実際のところは分からないが、少なくとも氏の期待を裏切らないようには話せたはずだ。

私が帰る段になって幸さんは見送りに立っていた。車に乗り込もうとした折、彼女が私を呼んだ。

「お仕事、応援しております。」

私は目を合わせて、黙って頷いた。車に乗り込み、深々とお辞儀をする彼女を置いて車は走り出した。髪が風に揺れていた。

健気な言葉だ。先日の夜に聞いた言葉と同じだ。本当に応援してくださっているのだ。私はその時に殆ど馬鹿馬鹿しいことをいたって真面目に考えていた。

彼女は私を支えてくれる、献身的に、慈愛で、それが人道的な行いであるというように。そうして私の方には仕事に対する熱意があれば、それでよいのではないか。夫婦の愛情とかいうものは、そうやって生まれるのだ。結婚しよう、そう思った。


私の中にそうした気持ちが生まれてから、身の回りが大きく進んだわけではなかった。私も仕事に精を出していたし、氏のご自宅に上がる機会はそうあるわけではなかったからだ。その代わり、連絡先を受け取った。ある折に万堂氏の前で幸さんのことを口にしたら、彼は是非とも話してやってほしいと仰って、彼女の携帯電話番号を教えてくださった。その数日後の晩に私は電話をかけてみた。幸さんは氏が私に番号を教えたことを聞いていて、連絡を待っていたそうだ。すぐにかけなかったのは悪かったと思った。電話口で聞く声はどこか違っているように思える。先日と違っていたことは、彼女は思っていたよりも自分のことをはきはきと喋る方であった。

長電話することはなかった。学生ではないから、通話料金が惜しいというのではない。電話口は会話が弾みにくく、不意に二人とも黙ってしまうのだ。頻度も多くはなかった。二人のうちで圧倒的に多忙を極めているのは私で、当然、私の方から空いた時間に電話を掛けるのだが、その頃は午後八時、九時に退勤するというようなことが当たり前になっていた。部屋に戻ってからも身の回りの作業をこなしていると、手が空くのは日付が変わる頃だったりした。二人の時間が合うことの方が珍しかったのである。それでもたまに声を交わせば幸さんは私の身体の心配などをし、最後には必ず「応援しております」と添えた。


この頃になると私は、初めの頃は週末には実家に帰っていたものが、億劫になって特段の用事がない時には休日も東京で過ごすようになっていた。私と幸さんとの関係について、実家の方も聞き及んでいたようである。向こうから何か便りがくることはなかった。万堂建設のご令嬢であれば家柄も申し分なく、問題はなかろうというのがあちらの考えだったろう。今の仕事が一段落したら改めて正式な縁談として持ち上がると、大方そう考えていた。そのようなわけで、今や私たちは両家に半ば公認の下、自然な関係を続けていた。

三月になっていた。寒さの中にどこか薄らいでいくような気配を感じる日頃、私は遂にあの時を迎える。それは、私がとある仕事のために帝国テレビ本社を訪れた日のことだ。

御幸町再開発計画はその規模と立地からかねてより外部の注目を集め、世間でも再開発計画としては異例と言えるほど関心が高かった。そのため計画については外部に向けた発信も力を入れて取り組まれた。私はその広告塔となることを自ら買って出た。神之目不動産による計画だ、その名を持つ会長の息子が立つのがもっともらしいことだ。ある程度は、そのために私が選ばれたわけでもあるのだから。そうした理由からこの日も帝テレの情報番組での取材が予定されていた。

港区に位置する帝国テレビ本社の地下駐車場で私は車を降りた。予定されている時刻には十分に早い。この日も運転をお任せしていた田中さんは傍に立って、車のトランクを示した。

「あちらはいかがなさいましょう。」

そこには荷物があった。今回の取材は計画を外部にアピールする良い機会だと考えていたので、分かりやすい説明ができるような資料と、計画時に製作された建築模型を持ち込んでいた。

「スタジオに運び入れてください。先に行って撮影スタジオを確認しましょう。田中さんもついてきてください。」

「承知しました。」

私は田中さんを連れ立って局のエレベーターを上がった。

取材には計画に携わる一人、高橋氏にもご一緒していただくことになっていた。私自身、メディアに露見する経験は殆ど無かったため、場慣れしていてメディア関係者に顔が広い氏の助力を仰げたことは心強かった。

私たちは一室で合流し、そのままスタジオまで案内していただくことになった。いかにもテレビ局らしい、B2判の番宣ポスターが貼られた廊下を三人で進んでいく。

不意に、前を歩く高橋氏が手を挙げた。前方にはこちらへ向かってくる一団がいて、その先頭にいる男性もまた彼に呼応するように手を挙げた。

「や、カントク、お久しぶり。」陽気に声を掛ける高橋氏。

「あれ、高橋さん。こんなところでお会いするなんて。」と、前の男性。

「いやね、今日は取材受ける側なんです。知ってるでしょ、御幸町の再開発。……とそうだ、ご紹介します、こちら、神之目不動産会長さんの御子息、神之目満爾くん。」

氏が私を示すので、一歩前に出た。

「満爾くん、こちらは是清さん、ディレクターだよ。ほら、こないだの土曜のドラマ、分かるでしょ。あの監督。」

狼狽した。正直なところ、私はあまりテレビを観ない。ニュースはつけるし流行りの映画などは見ることもあるが、毎週放送のドラマともなると追いきれないのだ。幸い、その作品は昼休みの歓談で話題に上ったことがあって知っていた。

私は「よろしくお願いします」と挨拶した。監督の方は「この方があの……」と感心した様子でいる。つまるところこの一団は番組制作陣なのかと、私は合点しかけた。

高橋氏は気立てよく「カントクは売れっ子だからね」などと言っていたが、彼はそのうちに監督の隣に立っている女性に目を移して、わざとらしいくらいに目を丸くして驚いてみせた。

「カントク!もしかして、この娘は……!」

数名の人々と共に立っていたその女性。目の端で捉えていたが、その時に初めて私はこの目でしかと見た。

「こちら、ヒロイン役の末広時子ちゃんです。」

ちらと見た限りでは、ウエストの辺りまであろうかという艶やかな長髪は、この空間を照らす明かりのせいか、黒い中にほんの僅かな蒼が見えるようだ。ルネサンスの彫像のように整った目鼻と、肘を伸ばして身体の前で組んだ両手は雪のように白く、爪は指の先に光り輝く貝殻でもつけているみたいだった。

末広時子。テレビを観ない私でも知っている。何年か前に十代で鮮烈なデビューを飾り、一世を風靡した女優。それ以前の芸歴は真っ白、全くの新人だった。それからというもの数々の作品に出演し、賞を受賞し、今なお一線で活躍し続ける時代のヒロイン――。人は皆そう讃える。

女優とは、かくあるものか。私は直感した。

彼女と目が合った。長い睫毛の下の凛とした瞳は、不思議なことだが、それを目にした時に美しさと共にどこか懐かしさを感じたのを覚えている。

私はその瞳を見て随分長いこと硬直していたように思われたが、実際は一秒にも満たなかったのかもしれない。隣で高橋氏は子どものように「本物の時子ちゃんだ!」とはしゃぐ。彼女はその時には私から視線を外して笑顔で握手の申し出を受けていた。

「ほら、満爾くんも、こんな機会またとないよ!?」

氏が興奮気味に私に振り返った。そう言われると私も彼女の前に立った。「話題のドラマ、拝見しました」などと気の利いたことの一つも言えたらよかったものだが、嘘をついても仕方がない。

「はじめまして。」

それだけいってよそよそしく頭を下げた。私が手を差し出さずに突っ立っていたので、彼女も背筋をピンと伸ばして、

「はじめまして。」

と答えた。

これが私と末広時子との、初めての会話の一切である。

高橋氏と監督は暫し立ち話をしたが、その間私は何度か彼女に目を向けた。ちら、ちらと視線が合ったが、その時も顔色を変えるようなことは無かった。

やがて一団は別れてそれぞれの方へ進みだした。

断言できるが、この時点で時子(今だからこのように書くが、当時の私が大女優を乱暴に呼び捨てできるべくもなかった)に対して特別な感情を抱いたわけではない。あるとすればそれは、高橋氏の言う通り、珍しい経験をしたものだとか、そういうところだ。一言交わしたばかりではまるで自慢話にもならない。だから、この時点ではまだ、私の運命は「それまで通りの道」を進んでいたであろう。だが、時子との関わりはこれだけではなかった。私は今でも考える、その経験が無かったら、今日の私の人生はどうだったろうかということを。

テレビ局側の都合で、取材予定時刻より遅れて始まることになった。思わぬ暇ができてしまったが、話す内容の再確認にはちょうど良かった。その時、高橋氏は別用があって、田中さんは荷物を運んだ後に戻ってしまわれたから、私は一人で手持無沙汰になって、フロアにあるという休憩室で時間を潰すことにした。スタジオは妙に空間が広くて、周りには設営をしているスタッフがいるので落ち着かなかったのだ。

休憩室は廊下の突き当りの開けたところで、白い小テーブルがいくつかと、窓際に据えられたカウンターが数席。奥には吸い殻入れがあって、そこで何人かが一服している。私は壁際の自販機で缶コーヒーを買い、カウンターに座って窓の外をぼんやりと眺めながら頭の中では取材のリハーサルのようなことをしていた。

背後で自販機に硬貨を入れる音がして、すぐ後に飲み物が落ちた。外の景色に合わせていた焦点を窓ガラスの鏡面に移した。私の背後で揺れるその長い髪に覚えがあった。

回転椅子を回して振り返ると、缶を手にした時子が立ってこちらに顔を向けていた。

「こんにちは。」

そう言われると、私は殆ど反射的に、会釈を返した。

「お隣、空いてますか。」

「どうぞ。」

時子は右隣の席に座った。私は一瞥もくれずに彼女が缶を開けてそれを口にするのを聞いていた。

「神之目……満爾さん?」

確かめるように私の名を呼ぶ。

「神之目不動産といったら、やっぱり、都原のご出身ですか。」

「ええ。実家はその近くの中辻という町にあります。」

「都原なら、何度か行ったことあります。ほらあの、駅前にある、大きくてとげとげした……」

「白いオブジェですか。」

「そう、それ。」

都原駅前広場にある巨大なオブジェは誰某という芸術家の作品で、都原駅のランドマークだった。時子はその形を手振りで作って、私が当てると大きく頷いた。大女優と言えど、その振る舞いは平凡な娘さんである。

「東京にはよくいらっしゃるんですか。」

「そう多くありません。今は出向で東京支社に勤めていますが、普段は都原の本社です。」

「そうなんですね。東京は、どうですか。」

随分曖昧なことを訊かれたもので、時子はそのすぐ後に「人が多くて、嫌じゃありませんか」と付け加えた。

「確かに人は多いです」と私は答えた。

「道行く人は顔も名前も知らず、そんな中に紛れているとどこか独りきりになったような思いもします。ですがこうも思う、私の知らぬ彼らもまた、この街のどこかで日々を戦っている、私と同じように。それが不思議と心強いようにも思われるのです。」

随分饒舌になったのを、時子は「分かります」と答えた。見れば、カウンターの上で握りしめた缶を見つめる横顔が綻んでいた。

「私の出身は東北です。名前を言っても誰もピンとこないような、片田舎。おのぼりさんなんです、私。だから、今でこそみなさんは画面の内に知っているけれど、『私』を知っている人はこの街にはいないんです。」時子は一時言葉を留めた。「あの辺りは冬になると雪に閉ざされますが、そうでなくても、あの家は……」

私は横目に時子の顔を見つめていた。どこか懐かしい瞳をした顔が手を伸ばせば触れられる距離にある。

「そろそろ、行きますね。」

その一声に私はやけにハッとさせられた気分になって、咄嗟に頷くことしかできなかった。

「こっちでのお仕事はいつまで?」

彼女は立ち上がってスカートを整えた。

「当分はこちらでしょう。新年度に入ってからも。」

「そうですか。お邪魔してすみませんでした。」

「いえ。」

またの機会に――だなんて刹那に思い浮かんだが、そんなものがあるはずもない。それに続く言葉は出てこなかった。

「私の話したこと、内緒でお願いします。プライベートなので。」

私は去り際に一言「ありがとうございました。」と言った。すると彼女はにこやかにこう返すのだった。

「私、がんばりますから、満爾さんも。」

時子はそれきり振り返らずに去った。ほどなくして私も用意ができたので自分の仕事に戻った。

この日の話にはちょっとした続きがある。私が幸さんと電話を繋いだ折に、末広時子と顔を合わせたことを話してみたのだ。同世代の芸能人ならきっと知っているだろうと思ったのだが、彼女の驚きときたら予想を遥かに上回っていて、第一声の「えーっ!」という甲高い声には驚かされた。

「時子ちゃん!羨ましいです、私、ずっとファンなんですよ。」

通りで食いつきがよいと思った。

「ナマで見る時子ちゃんはいかがでしたか。」

「どうと言われると、とても感じの良い人でした。」

「そうでしょう。時子ちゃんはデビューした頃の役柄からクールビューティーな印象に思われがちですけど、本当は明るくて気さくな性格なんですよ。」

確かに近寄り難いというような雰囲気は無かった。しかしながら一方で友人のように和気藹々と話せるかというと、そうでもないように思える。これは、私の異性交遊が少ないせいかもしれないが。

「時子ちゃんは私と同い年なんです。しかも、生まれ月も一緒なんですよ。私のちょっとした自慢です。」

「そういうわけでしょうか、彼女を見た時、どことなく幸さんに似ているところがあると思いました。」

容姿は似つかない。私がそう感じたのは初めて顔を合わせた時の印象。何か周りの空気が瞬時に色を変えたような、奇妙な錯覚に見舞われたところである。

幸さんは「嬉しいです、お世辞でも。」と言って、暫し静かになった。

「恥ずかしながら私はテレビをあまり観ないもので、彼女の出演作なども殆ど見たことがありませんでした。」

「まあ、勿体ないです。ぜひご覧になってください。恋愛ドラマは女の子向けかもしれませんけど、それ以外にも、幅広いジャンルに出演されてますよ。」

「探してみます。」

「時子ちゃんは私が大学生になった年にデビューしたんですけれど、それまでの経歴はまっさら。ご出身も明らかになっていないんです。謎多き女性って感じで、それもまた魅力です。」

幸さんは得意気に語る。その時ようやく、彼女が去り際に「内緒」と言った意味を分かりかけてきた。であれば次なる疑問はなぜあの時私に打ち明けたのかということである。

「どんなことをお話しましたか。」

私は「あまり話せる場ではなかったのです」と嘘をついた。

「次にお会いした時は、ぜひサインをいただくといいですよ。」

「その時は『幸さんへ』と添えてもらうことにしますよ。」

「本当ですか!」と幸さんの声が一段と高くなる。電話の向こうで喜ぶ顔が目に浮かんだ。

このようにして、私と時子が初めて出会った幕は以上である。私はあの日を昨日のことのように鮮明に思い出せる。


この辺りで一度仕事のことを述べねばならない。

はっきり言って苦しかった。この時点で計画の見通しは不透明だった。御幸町再開発は規模が大きいだけに、区画ごとに段階的な開発を行っていく計画であったが、その中途が行き詰まっている様子だった。

とある業者が今の計画ではどうしても受注できないと言い張った。不況のあおりを受けてこの数年はどこも苦しい経営を強いられている。これはお互い様だ。ただでさえ相次ぐ事業撤退の中で、踏ん張ってくださっている方々にしわ寄せがいっていることは心苦しい。だがこちらとしても譲れない一線はあって、来る日も来る日も平行線を辿る会議には気が滅入った。

計画そのものを疑問視する声も根強かった。なぜここまでの費用をかけて御幸町の再開発を行うのか。「御幸町は落ち目だ」と、面と向かって言われたこともある。

新宿に東京都庁舎が竣工したのが一九九〇年。バブルの最盛期に生まれた「バブルの塔」。それから新宿副都心の開発が進んだ。東京の人口増加に伴って西部に住宅地が相次いで建設された。東京都の発展の中心は山手線の西側にあった。千代田区御幸町は今や賑わいも少なく、地区そのものが老齢化した過去の街。この一帯に未来はないと考える者が多かった。

そして何より、事業へ十分な理解と協力が得られなかったのは、私自身の力不足、そして私が背負う名のためでもあった。

この時代の我が社の評判はお世辞にも良いとは言えなかった。はっきり言おう、悪かった。これもやはり、元を辿ればバブル崩壊に端緒がある。

不動産バブルの時代、地価は天井知らずだった。神之目不動産は不動産業である。元々全国に多数の不動産を持っていたし、開発と発展によって利益を得るのが企業の本分であった。それはかの時代でも同じ。誰もがそうするように我が社も利潤を追求した。

バブル崩壊、全ての風向きが変わった。同様に不動産売買で利益を上げていた大手証券会社が次々に不良債権を抱えて倒れる中、神之目不動産は厳しい状況に置かれながらも荒波を乗り切った。乗り切ったからこそ、問題だった。土地ころがしでがめつく稼いだ挙句、崩壊後は殻に籠って知らん顔をしていると、謂れのない謗りを受けた。買った土地の地価が暴落した顧客からは激しい言葉をぶつけられることもあったという。不景気の中で新卒採用枠を減らせば貧乏性と因縁をつけられ、未だ変わらず業界一位の座を圧倒していると、天上の御座にふんぞり返っていると皮肉られる。「神之目不動産は不幸を売る会社」、幾度となくそう呼ばれてきた。

だからこそ、この再開発に懸けているところがあった。我々の活動が都市の将来、国の将来のために役に立つことであると、証明する機会だった。簡単で儲けがあるからやるのではない。困難だが価値があるからこそ取り組むのだ。だがこれにも私の名が暗い影を落とした。

確かに、当時の私は青く、未熟であった。何かと至らぬ点はあったし、今ならもっと上手くやれると思うことも、それが精一杯であった。だが世間はそれを大目に見てくれるほどお人よしではない。一人の社会人に対する評価は常に厳格である。「神之目会長の息子とは名ばかりではないか」、「この仕事だって贔屓目に選任されたのではないか」言葉にしなくたってそれくらいはひしひしと伝わってくるものだ。

私は殆ど孤独であった。一つの袋小路にあたってしまったようだ。会長に課された挑戦も、とてもこなせないと思えた。身の回りにいる人々がかけてくれる、心優しい言葉ですら重荷になった。こんな時、私は胸が苦しくなる。比喩ではなく、現実として。

その日も夜遅くにオフィスを出た。帰り道では難しいことは何も考えないように努力する。オフィス近くに用意した仮住まいに戻り、着の身着のまま、眼鏡を投げ捨てるように机に置くとベッドに突っ伏した。廃人である。

遠くから聴こえる話し声で目を覚ました。テレビだ。手元に固い感触がある。どういうわけかベッドの上にリモコンが放ってあって、倒れ込んだ時にスイッチを入れてしまったらしい。

何時だろう。きっと一時間と経っていないはずだ。せめてシャワーくらいは浴びてから寝よう。頭痛がする。考え事ができない。今に動き出そうと気持ちだけが急いていたとき、耳に流れ込んでくる話し声の中に覚えのある響きを聞いた。

すぐに跳ね起きた。ベッドから転げ落ちるようにして縁に頭を預け、ぼやけた光を放っているテレビに、目を凝らす。

湾曲した光の面に映し出されたものに私は美を見た。

おそらくは再放送だろう、ゲスト一人を招いて詳しく話を聞くトーク番組、ゆったりとした初老の司会と若いアナウンサー、対面するゲストは――あの大女優だった。

小さなブラウン管の中で、等身大よりずっと小さい。司会の言葉に和やかに耳を傾けながら、子守歌のような、厳かな調子で、温かい声で、自分の言葉を紡ぎ出している。時折冗談など織り交ぜて場を賑わせて、すんと黙った時には見ているこっちまで空気が張り詰める。

私が出会ったのが本物だとしたら、これはカメラの前の作り物か?いや、違う。これも本物だ。これが本来の姿だ。大衆を歓喜させ、感動させ、ため息つかせてしまうような姿こそ。これがプロフェッショナルだ。彼女は頭のてっぺんからつま先まで女優なのだ。

私は発作的に目の前の画素の集合体が愛しくなってきた。私は今やテレビの角を掴みかかって、画面にかじりついていた。

決して高望みはしない。もう一度だけ、私に語りかけてくれないか。私の目を見て、名前を呼んでくれたなら、私はその先ずっとつましく暮らすことができよう。たった一度きりでよいのだ、どんなに短くとも、その一瞬を永遠のように味わえたなら――。


「もしもし……満爾さん?」

「すみません、こんな夜分に……幸さん。」

「いいえ、私もちょうど夜更かしをしてましたから。」

これは嘘だ。枕元の着信音に呼ばれて重い瞼で携帯電話を耳に押し当てている姿が目に浮かぶ。

私は大馬鹿だ。早くも発作的に電話をかけてしまったことを後悔していた。今すぐにでも切って携帯を投げ捨ててしまいたかった。

「それよりも、どうかなさったんですか。」

「どうということはないんです。本当です。邪魔してしまってすみません。」

「いいんです、むしろ嬉しいです。何か、お話ししていただけますか。」

とろけるような声で、それを聞いているのは苦しかった。

「やはりまた今度にしましょう。明日もあるので今日は寝ます。」

「うん、分かりました。」

一言で切ってしまおうとした私を「満爾さん」と甘ったるい声が呼び止める。

「私にはお仕事のことは分かりませんけれど、満爾さんはご立派にお勤めなさっていると思います。全て、うまくいくと信じてます。私、いつも応援しております。」

「ありがとうございます。」

「おやすみなさい。」

「はい、おやすみなさい。」

番組はもう別なものに切り替わっていた。


情けない夜を過ごしてから、私もただではいなかった。仕事に対する気概というか張り合いのようなものを取り戻した。相変わらず困難な状況が一日にして改善したわけではないが、少なくともそれらと向き合うだけの覇気を失っていなかった。田中さんや私の周辺で私を良く知る者は「あの頃(の私)は随分気苦労していたのが見て取れた」と語るが、私の中のささやかな変化に気付いていたかは定かではない。

変化といえばもう一つある。毎晩、帰宅後にテレビを観るようになったことである。観るものはもちろん末広時子の出演する番組である。連続のドラマなどは流石に腰を据えて鑑賞する時間はない。ちょうどあの頃といえば帝テレの金曜夜に彼女がレギュラーで出演している娯楽番組があった。ゴールデンだったので放送時間に帰宅していないことも多くて、わざわざレコーダーを導入して毎週録画していた。あれは時子がレギュラー出演というだけで出番が多いわけではなかったのだが、私は欠かさずに観た。こう言ってしまうのもいかがなものかと思うが、やはり女優は、演技をしている方がいい。輝いている。バラエティは、他の出演者に合わせているように見えて、面白くない。それでも私にとっては十分だった。帝テレ本社で出くわした是清監督という方の手がけた作品で、時子が出演するのを観てみたが、鑑賞中から、彼女に会った日の記憶を思い出してしまって、いかんせん集中できなかった。白状すると、私は末広時子という女優に夢中になっていたのだ。


三月下旬の日曜日。私は前々からこの日を必ず全休にすると決めていた。幸さんと二人で出かける予定を立てていたのである。

二度目にお会いした時に私がドライブが趣味だと言った時から幸さんは興味を持たれていて、私としてもやぶさかではなかったが、いざ出かけようにも主に私の忙しいのもあってなかなか予定が合わなかった。そうこうしているうちに桜前線が北上してきて、ちょうど休みも取れそうだったのでお花見でもしませんかとお誘いした次第である。東京であれば桜の名所は千鳥ヶ淵とか、上野恩賜公園とか、神宮外苑とか数多くあるが、かねてよりドライブをしようと言っていたのもあるし、どうせなら少し足を伸ばして他に見物客のいない静かな場所に行こうと話し合っていた。

その日の朝、私は自らの車を運転して幸さんを迎えに上がった。私の車はここ数ヵ月実家のガレージで眠っていたのを、この日のために田中さんに持って来ていただいた。

ホンダ、NSX――私が初めて自分で買った車。私も年頃の子どもの頃は御多分に漏れずモータースポーツに熱を上げていて、ホンダの活躍は日本人として熱狂するものがあった。そんな同社が一九九〇年に発売した衝撃のスポーツカー、それがNSX。戦闘機のような形状の車体は全アルミ製、最高出力二八〇馬力の三リッターⅤ6エンジン……とまあ、これ以上この場で説明しても仕方がないが、その性能もさることながら、驚くべきは値段であった。ともかく、発表された当初から私はどうにかしてこれを手に入れようと心に決めていた。そうして実際にそのようにした。

春の日差しに輝く白い車体、乗り慣れた運転席、ただ一つ違うのは、助手席が空席でないこと。この車に誰かを乗せるのはこれがまるっきり初めてだった。

私の隣に座っている幸さんはほんのり桜色がかった白地に花柄のドレスを身に纏い、緩くウェーブのかかった髪の一部を編んだりしている。小さな手提げの鞄の他に、トランクにしまった籠はきっとピクニックセットのようなものだ。はじめのうちは慣れない他人の車に緊張した面持ちでいたが、次第に表情もほぐれてきた。今は車窓の街並みを眺めている。

不意にカメラのシャッター音がして、横目に見ると幸さんがデジタルカメラを持ってこちらにはにかんでいた。

「私を撮っても仕方ないでしょう。」

そう言うと、彼女は画面で撮った写真を確認しながら、

「いいんです。残しておきたいから。」

と笑った。

花見をする場所は桜の名所でなくていい。立派な桜の木が一本でもあれば、二人にはそれで十分だ。そんな場所はどこにでもありふれている。ここは日本だ。

ドライブをするのなら開通して新しい東京湾アクアラインを通ってみたいと思った。風の塔と、海ほたる。自分が東京湾の真下と真上とを車で走っているというのは奇妙な感覚だ。木更津に渡ってあてもなく房総半島を回ったりして、そうしてやっと勝浦の辺りに太平洋を望む公園で大層な桜が咲いているのを見つけ、車を停めた。

私たちは桜並木の遊歩道を歩いた。時折、花びらが視界をはらりと舞う。これだけの桜なのだ、きっと地元では名所に違いない。私たちの他にも高齢のご夫婦とか子どもを連れた家族などが一面の桜色を楽しんでいる。

私がピクニックの籠を持って歩いていると、隣の幸さんはカメラを構えて公園の景色を撮り、地面の草花にも心を寄せ、かと思えば次にはこちらに振り向いてシャッターを切ったりする。その度に私はどのような顔をしてよいか困った。

「幸さんの写真も撮りましょうか。」私は思い立って声を掛けた。

「いえ、私はお構いなく。」幸さんは早口になる。

「残しておきたいんです。」

「それじゃあ……」

差し出されたカメラを受け取る。フィルムが無い分、電池の重みがある。

「使ったことありますか?」

「……教えてください。」

幸さんは「分かりました」と答えてもう一度カメラを持って私の隣に立ってそれを構えてみせた。すぐ横にお互いの顔がある。この日の彼女はきっと、他所の車に乗るというので香水を抑えていたと思う。そういう気遣いのある人だ。

「このボタンを押して、ピントを合わせます。それから、シャッターを切るんです。簡単でしょう?」

そこで私はカメラを受け取って、言われた通りにやってみた。すると画面に目の前の誰もいない野原が写っていた。

「だいたい分かりました。」

「それじゃあ、お願いします。」

幸さんは桜並木の一本の前に立った。ちょうど頭の高さくらいのところに満開の枝があって、一緒に写真に収めることができそうだった。私は習った通りにカメラを構えた。体の前で鞄を手に持ってすましている彼女をパシャリと撮った。

途端に幸さんは噴き出した。

「ふふ、恥ずかしいです。」

そう言って、さっさと私からカメラを取り上げてしまった。私はカメラを向けられている時にずっとそう思っていたというのに。

それからは幸さんはカメラをしまい、私の隣で歩調を合わせていた。写真を撮ってからというものどこか上機嫌で、私は黙っていたが、そのうち鼻歌まで歌い始めた。あれは『だんご三兄弟』だった。『だんご三兄弟』というのは当時流行っていた曲で、元々はNHKの教育番組の楽曲だったのが、凡そ教育番組に最も縁遠い私でも知っているほどの社会現象になっていた。どうして流行ったのか詳しいことは知らないが、特徴的なタンゴの旋律はよく耳に残るのだ。

やっぱり、この人と結婚しよう。そう決意に似た思いが湧いてきた。私は平凡な家庭の生まれではないから、妻になる人には大変な思いを強いるかもしれない。家族にも、友人にも、会う機会は減って、そうなったらこの人は私一人の存在を頼みに生きるだろう、だから私はこの人を守ってやらなければならない。隣に寄り添うこの人を守る、それが私がこれから生きる理由なのだと。

海が見える広場にピクニックシートを広げる。桜と海の共演は良かった。そこで幸さんが持ち込んだ軽食を摂った。だんごもあった。そういうことかと合点した。一段落してから、お互い会話もなくなって、二人で黙って水平線を望んでいた。――完璧だ、あとはきっとうまくいく。

私の右肩に重みがかかった。彼女が首を傾けて、ゆったりともたれかかっていた。肩まである、ゆるくウェーブのかかった髪が、私の肩に流れる。

「満爾さん、」

お互いの間を伝わる柔らかい体温。

「大好きです。」

私は右腕を後ろに回して彼女の肩を抱いた。


新年度に入っても私の仕事場は東京であった。すっかり暖かくなって、出向時に持ってきた真冬用の防寒具は必要なくなっていた。どうにか夏服が必要になる前にはこの仕事をまとめてしまいたいと考えていた。実際、その希望も生まれていた。

様々な方々のご助力によって、計画も着実に前へ漕ぎだしていた。この前に書いたように、当時は決して各人に余裕のある社会情勢ではなかったが、それでも私がこの計画の意義を強く訴え、それを理解していただけたのには、我々が四年前に経験した例の災害の存在が大きい。それは、私自身、重要な経験であった。

一九九五年一月十七日、兵庫県南部地震。後に阪神・淡路大震災と呼ばれる最大規模の地震災害が発生した。明石海峡を震源とするマグニチュード七・三の地震により、兵庫県をはじめ近畿地方に大きな被害を出した。

近畿地方で我が社が関わる建築物も多数被害を受けたが、当の神戸支社では被害状況の報告が遅れていた。社員が被災し、業務がままならない状況にあったからだ。基本的なライフラインは寸断され、電話線も繋がらない。本社は状況確認と対応にあたる人材を派遣することを決め、当時私は今の役職になる前だったが、多少無理を通してそれに同行した。一兵卒として扱ってもらって構わなかったし、そうあるべきだったが、現場の者には応対に気苦労をかけてしまったと思う。それでも未曽有の事態に自分自身が動かねばならないと、そう思い居ても立っても居られない状態であった。

震災発生の数日後に私たちは神戸に入った。その時の街の状況をよく覚えている。ひび割れて波打った路面、崩壊した高速道路、そこら中に散乱したまま放置された瓦礫。かつて出張で訪れたこともある美しい港町は、そこに見る影もなかった。

神戸支社からそう遠くないところにある神戸市役所も倒壊していた。鉄骨コンクリート造の堅牢なビルまでもが倒壊するというのは、それまでの災害でもあまり見ないことだった。

自らの住む場所を失った人々は避難所に身を寄せていた。早朝に発生した地震では朝食を作っていたキッチンや暖房器具から火災が発生し、多くの木造住宅が焼失したのだ。一月のことだ、避難所は寒かった。それからすぐに、我が社は企業として被災地に義援金と支援物資を贈ることを決めた。

かの災害が日本社会全体にそうしたように、私も大きな衝撃を受けた。そして次に思ったのは、同様の災害が日本全国のどこでも起こり得るということである――それは、東京でも。

一九二三年に帝都東京は関東大震災に見舞われた。十万人とも言われる犠牲者を出し、その教訓として建物の耐震化・不燃化、そして帝都復興計画がなされた。それから七十年以上が経っている、明日、同じことが起きないと誰が言えるだろうか。日本では一九七八年に発生した宮城県沖地震を受けて一九八一年に建築基準法が改正され、建築物に求められる耐震基準が高まった。実際、この新しい基準に基づいて設計されたビルは阪神・淡路大震災でも高い耐震性能を発揮した。だが、これで十分なのだろうか。

御幸町は東京の中心だ、日本の中心だ。災害に見舞われ、破壊されて、その歩みを止めるようなことがあってはならない。そのためには、この街を造り変える必要がある。それぞれの建物を新しくするのではいけない、雑多になった市街を丸ごと。再開発の意義はここにある。私たちは利益のためだけに計画するのではない、いつだって見据えるのは未来の街なのだ。

こういった考えは、多くの方々の理解に繋がった。かくして一頓挫していた計画は前に進みだしたのだ。

私は出勤時と、退勤時と、一日に二度御幸町を歩く。左右を高層ビルに挟まれ、向こうに見えるのが皇居の濠、首都高速都心環状線、あれは日本橋の真上を通る。足を伸ばせば東京駅の駅舎が前に見える。空襲で焼失する前の丸の内駅舎はドーム型の屋根が特徴的だったと云われている。

私は自宅に戻り、鞄をテーブルの足元に置いた。今日は金曜日、だとすると「あれ」の放送日である。毎回録画をして、欠かさず見ているが、先月の幸さんとのドライブがあってからは、どこか後ろめたいような気もしていた。

毎週テレビをつけるのは、一視聴者として女優の末広時子を見るためだけである。それはこれまでと何一つ変わっていない。にも関わらず、そうしている時の私は妙に居心地が悪かった。私は何か別な感情を持って画面の中の彼女に目を向けているのだろうか?一つ確かなことは、時子を見ていると決まってあの日の記憶が蘇ることだ。

自分でも判然としない現状になんとか説明を試みるのだが、一向に答えは出ないまま、それでもレコーダーに残った映像を消化せねばならないという義務感と、習慣とが、私の身体をリピート再生させる。

もう一度会えばすっきりするのかもしれない。私がどこか特別視しているあの日の経験も、傍から見れば単なる世間話に過ぎなかったと気付けるだろう。

――などと、勿体ぶった理由をつけて、結局はもう一度話したがっているじゃないか。私はスーツを脱いでニュース番組をつけようとテレビのリモコンを取った。

思わず身じろぎするほど驚いた。つけた画面に時子が映っていたのだ。人の考えが読めるテレビでも買ったのかと肝が冷えたが、何のことはない、偶然ニュースに彼女が取り上げられていただけだ。見ていくとこういうことだった。

週刊誌発の、所謂恋愛スクープ。末広時子と、某有名俳優が一緒にいるところが撮影された。二人は交際関係にあるのだろうか……。

大したことないと、ため息をつく。思い出した。末広時子は恋多き女優。これまでにも業界関係者などと交際関係にあるのではないかということが取り沙汰されてきた。それも一度ではなく。私はそんなことを小耳に挟む度に有名人は恋愛までつぶさに見られて大変なものだと他人事に息をついていたものである。

なんだ、そうか。

私は従前とは打って変わって、落ち着いていた。何か悪いものに憑りつかれていたようだ。今夜はまだ更けていないから、幸さんに電話をかけてみようか。この件はそのうち彼女にも笑い話として聞かせてやれると思う、夕食を共にした後の、歓談のテーブルなどで。

画面ではいくつものマイクとカメラが時子に向けられている。

「彼とはどういったご関係なんですか?」

「みなさんのご想像するような関係ではありません。」

「きっかけはお二人がご共演された作品ですか?」

「ノーコメントです。」

「今後のご予定は?」

「そのような関係ではありませんから。」

多少冷静さを欠いている。流石にこれだけの囲みに詰め寄られては仕方あるまい。歳不相応に落ち着いた方ではあるが、彼女とて若い娘さんだ、ああ寄って集って詰めかけるものではないだろうに。

マネージャーらしき人物に遮られ、去り際の時子に記者が質問を投げかける。

「何かコメントは!?」

「……『稲つけば』。」

振り向きざま、いつになく振り乱した黒髪から覗いた、潤んだ瞳。映像のノイズではないその揺らぎに私は釘付けになった。

稲つけば。

私はその五文字の響きに思い当たるものがあった……あってしまった。


稲つけばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ


万葉集――我が国最古の歌集。全二十巻あるうちの、第十四巻に収録されているのは主に東歌と呼ばれる歌の群である。東歌、つまり東の歌。当時の都平城京からずっと東、今の静岡県にあたる駿河より東の国々で詠まれた和歌のことだ。万葉集に収録された多くの歌が都の歌人たちによって詠まれたのとは対照的に、東歌は詠み人知らず、東国に住む庶民たちによって詠まれた和歌であり、この歌も同じであった。


稲をつくので荒れる私の手を、今夜もお屋敷の若様が取ってお嘆きになるでしょう


これは農作業に就く女性の歌である。「殿の若子」がこの場合誰を指しているか、それは考えるまでもなかった。

時子は私を覚えている。


助手席に彼女が座っている。肩身を狭くして、緊張した調子でいる。ウェーブのかかった髪がしっとりと濡れていて、もう入浴を済ませただろう。

車を公園脇の路肩、一本の街灯の下に停めた。住宅街の中に開かれた公園は灯りに所々が照らされて、どこにも人影はない。今更こんなところに停めたのは悪かったと思った。いくら家の近所とはいえ、こうも人気のないところは危なっかしい。だからといって「やましいつもりはありません」などと言うのもおかしかった。

「それで、お話って何ですか、満爾さん。」

弱い声で助手席の彼女が言った。

私は幸さんを呼び出した。「どうしても直接伝えたいことがある」と言って、万堂氏の邸宅に迎えに上がって、そのまま少しだけ車を走らせたのだった。

「何でも、言ってください。」

窓から入ってくる街灯の灯りと、正面で照るヘッドライトの他に何もない車内は暗い。辛うじてお互いの顔が確認できるくらいだ。急に呼び出されたというのに、それでも幸さんはしっかり外出できる恰好に揃っていた。

私は前を見たまま、ハンドルの上に右手を置いて言った。

「あなたとは、お付き合いできません。」

「え……?」

「今日を限りに別の道を行きましょう。勝手なことだとお思いでしょうが、全て私が悪いのです。」

幸さんは顔をこちらに向けて詰め寄った。

「どうしてですか。私が何かお気に障るようなことをしたなら言ってください。決してそのようなことはしませんから。至らぬ点があれば、なんでも仰ってください。」

「違います。全て私が悪いのです。」

「どうしてですか。」

「――あなたの他に愛した人がいるのです。」

彼女が息を呑むのが聴こえた。そうして、吐き出す息の中に、ゆっくりと言葉を添える。

「お付き合い……されてるんですか。」

私は首を横に振った。

「どのような方ですか。いつお会いしたんですか。不躾ですが、聞かずにはいられません。」

「一度、会って、少々話しただけなのです。あなたもよく知っている方です。」

彼女は暫し黙り込んで、考えものをしていた。

「私があなたに他の女性の話をしたのは、ただの一度きりです。」

幸さんはまもなくそれに気付いた。目を丸くして私を凝視する。

「……でも、一度お会いしたきりなのでしょう?」

「ですが私はあの方のことばかりを考えているのです。こんな不実な私は、幸さんとお付き合いすることはできません。」

すると「なーんだ」って幸さんは妙に明るい声を上げた。声は少し震えている。

「満爾さんが時子ちゃんのことが好きだって、私、気にしませんよ。だって女優さんですもん。あなたにも気に入っていただけて私、嬉しいですよ。」

「あの方も私のことが好きなのです。」

無理な微笑みが消えた。

「どうして……」

「今は確実にそう言えるのです。」

「で、でも!ご存知ですか、あの方はいろいろな方と交際されていたんです。俳優さんとか、ミュージシャンとか、プロデューサーとか。満爾さん、立派な方ですから、だから……」

「幸さんの仰りたいことは分かります。もしかしたら、あなたの言う通り、私が神之目だからかもしれない。ですがもしそうだとしても……私はあの人が好きなのです。」

「――幸さんのような献身的で素晴らしい女性は他に居ません。私がこの仕事をやっている間、度々お話を聞いてくださった方はあなただけです。もしも結婚したならば、きっとあなたはずっと傍らで支えてくださるでしょう。だからこれは私が悪いのです。時子さんは常に人々の前に立って何一つ瑕疵のない姿を披露している、それがたまらなく美しい。ですがそれと同時に、自分の姿に迷い、自分自身に問いかけながら必死に戦ってもいる。今なら言える――あの人は、私と同じなのです。」

「――私は神之目の家の者だ、将来に平凡などあるはずがない。だからこそ非凡なる私の隣に立つ者は、私と同じように自分の世界を戦い、その姿をもって、私に勇気を与えてくれるひとがいい。」

目頭が熱くなった。記憶に残る限りでは初めて、人の前で涙を流してしまいそうだった。

幸さんはしばらく何も言わなかった。私は一度だって彼女に目を向けることができずに俯いていた。それからどれくらい経ったか、彼女は、

「分かりました。」

と言った。涙ぐんだ声。

「仕方ないです。だって――私が時子ちゃんに敵うはずないじゃない。」

幸さんは目に涙を浮かべてはにかんでいた。

「このお詫びは何でもします。あなたにも、あなたのご家庭にも。」

私は彼女の方に向いて頭を下げた。幸さんは鼻をすすりながら涙を拭って「いいんです、顔を上げてください」と言った。

刹那、彼女が顔を近付けて私に唇を寄せた。私の頬に涙が一滴落ちた。それから彼女は悪戯っぽく笑って、

「これで十分。」

と言った。

「さようなら、満爾さん。」

車を降りて、家の方角に駆け出していく。私は長いこと運転席に座っていて、道端に夜のジョギングに出ている男性を見かけて、まもなく車を発進させた。


それからの仕事は実に上手くいった。御幸町の再開発計画は完全なものになり、本格的な工事がその年の夏から始まった。非常に息の長い事業であるから、一年や二年でなるものではない。都心の新たなランドマークとなる超高層ビルが完成し、神之目不動産東京支社も建て替えられ、二十年の時を経て全ての事業が完了するのである。一つの街を生まれ変わらせるというのは、困難だが、それ故に高い価値を秘めているものだ。

万堂建設と我が社との関係も何一つ変わったことは無かった。私は事業協力を白紙にされることまで覚悟していたが、万堂氏は朗らかに笑って、私が大切なビジネスパートナーだと言うようであった。幸さんのことだ、万堂氏には私に悪いことがないように報告したのだろう。確証はないが、彼女はそういう人だ。

六月になって私は殆どの仕事を終え、本社に戻る日が決まった。本社の社員は凱旋のように待っている。恥ずかしいと思わないでもないが、それ以上に光栄だ。


夜、小雨が降りしきる御幸町。初めて来た日もこの街はか細い雨が降っていた。あの頃と違うのは、この雨は冷たくない。

歩道の真ん中に、一人の女性が立っている。行き交う人々は見向きもせず、傘を差して俯きがちに脇をすり抜けていく。女性は一棟のビルを見上げていた。明かりがついたビル、何かそこに大切なものがあるように。

「時子。」

女性は横から名前を呼ぶ声に振り向いた。持っていた傘がはらりと落ちて、足元に紺色の花が咲く。

私は傘も持たずに歩み寄って、真新しい雨に濡れる彼女の手を取った。水滴のついたレンズ越しに懐かしい瞳が光る。

「満爾さん。」

そっと抱き寄せ、私は歌を寄せる。


柵越しに麦食む駒のはつはつに相見し子らしあやに愛しも


一九九九年、動乱の日々は続いていく。




少しだけ、後日談を載せておく。

私は一度だけ幸さんに再会した。

仕事で万堂建設の本社を訪れた時のこと、廊下で出会った彼女はスーツを着ていた。はにかみ笑顔は変わらない。ゆるくクセのかかった髪は肩にかからないくらいに短くなって、胸のバッジに記された名字は私の知らないものだった。

あれから万堂建設に入社し、父や兄たちの指導を受け、現在では大企業を支えるかけがえのない社員の一人になっていた。

長話をできるような場でなくて、昔のことなどはお互い語ろうともしなかったが、ただ一つ「ご家族はお元気ですか」と問われたので私は「家内と子供は元気にやっております」と答えた。