『純恋歌』、湘南乃風が2006年にリリースした楽曲である。拙いながらも恋人を純粋に想う『俺』の素直な心を綴った歌である。その人気もさることながら、この歌を聴くものをおしなべて悩ませる一つの疑問がある。
『おいしいパスタ』とは何か?
『俺』が彼女に一目惚れするきっかけとなったおいしいパスタとはいったい何パスタなのだろうか?
今まで目を閉じれば億千の人々がこの疑問を抱いては、自らの好きなパスタを語りつくすだけだった不毛な議論に、今宵ついに終止符を打とうではないか。はじめに言っておくが、、『俺』はしっかり歌詞の中に『おいしいパスタ』にたどり着くためのヒントを残している。当たり前だ、惚れるきっかけとなったパスタだ、その味を忘れるわけがない。したがって『おいしいパスタ』というあいまいな情報のみで口を閉ざすわけがないのだ。ただ、一度歌を聴いただけでは分からぬように、巧妙にその答えをおぼろな月のようにぼやかしたのである。
この記事をすべて読んだとき、おいしいパスタと二人を見る我々の目は大きく変わるに違いない。今までバカップルだと思っていたそこのあなたもどうか思い直してほしい。
なお、今回も著作権の都合上歌詞の全文を引用することはできないので、各自歌詞カードとCDを持って参照してください。
「解釈の自由」、第二回は『純恋歌』に秘められたパスタの謎を追う。
まずは『おいしいパスタ』に関わる歌の序盤のストーリーを追う。
春のことである、主人公である『俺』は大親友とその彼女、そして彼女の連れである『お前』とホームパーティをする。ここが誰の家かは分からないが、少なくとも『お前』の家ではないことのみが分かる。そこで『お前』は件の『おいしいパスタ』を作る。それを食べた『俺』は家庭的な女がタイプだったので、その味によって一目惚れする。勘違いしやすいが、この時点で『一目惚れ』したのだから、『一目惚れ』したのはパスタの味に対してである(じゃあ「一口惚れ」だろと思うかもしれないが、この場合「一目惚れ」は単なる慣用表現である)。それと同時に『一目惚れ』するようなパスタを作った『お前』にも惹かれる。
ここで分かるパスタの情報は「おいしい」「家庭的な味(一流レストランでないと作れない味ではない)」であること。以上。以降、パスタについて直接的な記述はない。
手詰まりである。
普通の人ならここから好きなパスタ論争が始まってしまうが、ご安心を、しっかり答えにたどり着いてみせよう。
ではまずはパスタのことを忘れましょう。
情報がないからには、これ以上パスタについて考えることは無駄だ。案ずることはない。パスタ以外にもこの曲は情報不足である。よってその他の背景についても迫る必要があり、それを一つ一つ明かしていけば答えは見えてくるのだから。
まず、我々はパスタに夢中になるあまりその直後の重大なヒントを見逃している。それはこの部分。
大貧民負けてマジ切れ それ見て笑って楽しいねって 優しい笑顔にまた癒されて ベタ惚れ
この部分を「トランプゲームの大貧民(大富豪)で負けてマジ切れした誰か(おそらく『俺』か)を見て『お前』が笑って『楽しいね』と言ったので、その笑顔に癒されて改めて『俺』は『お前』にベタ惚れした」と解釈する者は多いだろう。はっきり言わせてもらおう。
何を根拠にそう思った?
改めて考えてほしい、大貧民で負けてマジ切れした男に対して笑って『楽しいね』とはずいぶん肝の据わった女ではないか?普通は場が白けるし、そもそもカードゲームごときでマジになるようなやつと一緒にトランプはしないだろう、賢い者なら。
したがってこれは、トランプではない。
さらには、この部分の歌詞をこう解釈してしまうことでもう一つの重大な可能性を見落としてしまっている。それは「舞台が日本ではない可能性」だ。
知っての通りトランプゲームの大貧民(大富豪)は日本発祥のゲームである。派生形は海外に多くあるが、それほどポピュラーでない。そのため『大貧民』をトランプゲームと解釈することで、我々は無意識にこの歌の舞台を日本に絞り込んでしまっている。まずはそのバイアスを捨て去らなければならない。
ここで改めて『おいしいパスタ』が『家庭的』であることを思い出す。ほら、舞台がイタリアである可能性が見えてきた。
しかし残念、イタリアでもない。
ただ、いい線いってる。
パスタを家庭的と感じるのだから、『俺』がイタリア系の人物であるということが言えるのだ。
それでは明かそう、『純恋歌』の舞台は――
アメリカ、ニューヨークである。
なぜそう言えるのだろう、その理由も歌詞の中にちゃんとある。ただしこれには、イタリア系アメリカ人の暗い歴史を知る必要がある。
アメリカ独立以前から他の欧州移民と同様、イタリア人も移民としてアメリカに渡っていた。彼らは都市部にイタリア人コミュニティを作り、それらは「リトル・イタリー」と呼ばれた。現在でもそれらは存在する。ロサンゼルス、シカゴ、サンフランシスコ……マンハッタン。
だが残念なことに彼らの多くは経済的に貧しかった。イギリス系、フランス系といった他の白人移民に比べて歴史に裏打ちされた強い経済基盤を持っていなかったことが理由である。それにより白人でありながら差別的な扱いを受けることもあったという。「マカロニ」これは彼らを蔑んだ呼称である。
大貧民負けてマジ切れ
これは夢を見てアメリカに渡りながら、成功を掴むことができなかっら『俺』の境遇そのものである。しかしそれに対して『お前』はどうしただろう。
それ見て笑って楽しいねって
笑ったのである。どこの誰が見ても不幸としか思えないその境遇ですら「楽しい」と笑いに変えて生きていけるような芯の強い女性、その優しい笑顔に癒されてベタ惚れしない男がどこにいようか。
ここで疑問に思うだろう、なぜ先ほど舞台がニューヨーク、マンハッタンであると断言できたのかである。これにもしっかり答えが残っている。
前述のイタリア移民の話は、だいたい独立後から戦間期の頃までの話である。その上でこの先を読み解いていけば時代は戦間期のニューヨークであることがしっかり分かる。キーワードは『おぼろな月』『桜並木』『パチンコ屋』。
前節でキーワードに『おぼろな月』『桜並木』『パチンコ屋』を挙げた。この一つ一つについて考えてこの舞台が戦間期のニューヨークである根拠を見つけよう。
『おぼろな月』とは霧や雲が薄くかかってかすんだ月のことである。春の季語である。ニューヨークは大陸東岸に位置するため日本と同じ温暖湿潤気候(Cfa)であるから、春の夜におぼろ月が見えることもあるかもしれない。だがおそらくそうではない。
この時代のニューヨークは世界を代表する工業地帯である。資源の眠るアメリカ大陸にあって働き手も多く、遠く大西洋のかなたに欧州を望む。アメリカ北東部は超大な工業生産を誇り、まさしく黄金の時代であった。工場からは休みなく煤煙が上がり、走る車は排気を吐き散らす。そんな街で夜の空を見上げれば、分かるだろう。よどんだ大気が月をおぼろげにかすませるのだ。
目を閉じても億千の星が見えたのではない、目を閉じなければ億千の星は見えなかった。
『桜並木』とは何だろうか。ニューヨークに桜並木があるもんか、この歌の舞台は日本じゃい!と思うかもしれない。甘い。これこそニューヨークの証である。
お尋ねするが、我々はどこか場所を指し示すときにそこにある象徴的な事物を述べはしないだろうか。渋谷駅と言うより「ハチ公前」と言うし、新橋駅と言うより「SL広場」と言うし、日本武道館と言うより「タマネギ」と言う。つまり、この歌の『桜並木』はニューヨークの人なら誰もがあれだと思うような象徴的なシンボルなのである。
ニューヨークに桜並木はあるんですか?――あります。
ハドソン川のほとり、リバーサイドドライブとウェスト122ndストリートの交差するところ、「サクラパーク」という公園がある。その名の遠りここの並木は春になると美しい桜の花を咲かせる。この桜は1912年に日本が友好の証としてアメリカに贈った桜の木の一部で、他にもワシントンD.C.にも植えられている。逆に言えばこれくらいしかないから、『桜並木』とはおそらくここのことだろうか。または、マンハッタンのお隣、ハドソン川の向かいのニュージャージー州には「ブランチブルックパーク」というこれまた桜の名所があり、こちらは結構広い。こちらでは日本の花見のようなこともするらしいから、出逢った場所と呼ぶにふさわしい思い出が作れそうだ。閑話休題。
最後の謎は『パチンコ屋』である。当然ながら、パチンコは日本独自のギャンブルである(海外では韓国に似たようなものがあるのみ)。よってこれまでの説を揺るがしかねないキーワードだが、これも理由が考えられる。
「日本風に翻訳し直した説」である。
パチンコと言えば「玉を買って台を回し、獲得した玉を景品に変えてそれを換金する」というのが一般的な流れ。実はこれと類似するものが当時のニューヨークにあった。パンチボードである。ゲームシステムはくじのようなものでパチンコと一切類似しないが、買った場合直接金銭を得られるわけではなかった。景品を得るのである。そしてそれをバーテンに渡してこっそり換金してもらう。これが当時大流行し多くの酒場で行われていた。
おそらく『パチンコ屋』はこれを表している。パンチボードは日本人に馴染みがない。しかしここで「酒場」という単語を用いるとヤケ酒しているような誤った印象を与えてしまう。かといって「ギャンブル」と訳すと、規制逃れの賭け事であったパンチボードが身も蓋もない。悩んだ末に、日本人に馴染みがあって、同じ利益享受システムを採用し、心情的に同じ役割を果たしうる『パチンコ屋』という単語を用いたのだ。
ともかくもこれで時、処がはっきりした。いよいよ本題に迫るべきだ。
『俺』の正体が分かったところで『おいしいパスタ』の正体は分からないではないか。焦らないでほしい、我々は一歩一歩確実に答えに近付いている。
ニューヨーク、イタリア系アメリカ人。この単語を聴けば洋画好きなら思い浮かべる有名シリーズがあるだろう。
フランシス・フォード・コッポラ監督、『ゴッドファーザー』シリーズ。ニューヨークの摩天楼の影で暗躍するイタリアンマフィアの一族を描いた作品だ。この作品自体は少々時代が合わないが、むしろこの作品が描かれた背景が重要である。
主人公ヴィトー・コルレオーネのモデルには様々なマフィアの名が挙げられるが、その中にフランク・コステロという男がいる。カリスマ的な指導力で「暗黒街の首相」とも呼ばれた。……別に彼が『俺』のモデルだと言いたいわけではない。現に歌詞にもあるとおり『俺』はバカな男(自称)である。ただ、『俺』の正体を紐解くに鍵となる。
『ゴッドファーザー』然り、当時のイタリア系アメリカ人然り、前述の通り白人でありながら差別的な扱いを受けた屈辱というものが根底にある。また『パチンコ屋』のもととなったパンチカードはこうしたマフィアが経営していた。このようなことからも、『俺』がニューヨークでイタリア人社会に与する者として、カタギながらも、イタリアンマフィアと遠からぬ位置に置かれていたことは想像に難くない。であれば、『俺』は彼らとルーツを同じくする可能性が高い。
ニューヨークのイタリア系アメリカ人の出身とは?
創作の人物だがヴィトー・コルレオーネはシチリア。フランク・コステロは南部カラブリア州(「長靴」ことイタリア半島のつまさきに位置する)。そう、彼らの出身はシチリアや南部イタリアである。
『俺』はイタリア南部の出身である。
いよいよ答え合わせだ。『俺』はイタリア南部の出身であった、そして彼が『家庭的』と感じるのだから、『おいしいパスタ』はイタリア南部伝統の家庭料理である。そこから導かれる答えとは――
パスタ・カンツィオヴァ・エ・ムディカ(アンチョビとパンくずのパスタ)
うん、これしかない。
注意せねばならぬことが二つ。ここはニューヨークであるから、南イタリア特有の新鮮な魚介や野菜をふんだんに使った料理は作れない。。次いで、『俺』や『お前』は貧しいので贅沢なチーズなどは使えるはずがない。保存がきく食材で、労働者に親しまれた味、とくればこれしかない。
パスタ・カンツィオヴァ・エ・ムディカはシチリア伝統のパスタだ。その名の通りアンチョビとパンくずの他に、オリーブオイル、トマトソース、唐辛子、ニンニクなどを用いる。アンチョビはもともと保存食として作られたもの、パンくずはチーズを買えない農民が編み出した粉チーズのような味わいを生み出すトッピング。そして何より、「おいしい」。
これこそ『おいしいパスタ』に違いない。うん、絶対。
『おいしいパスタ』はパスタ・カンツィオヴァ・エ・ムディカである(断言)
いつだったか、『純恋歌』を「頭悪いヤツの歌」と酷評しているのを聞いたことがある。もし同様に思っている人がいたら、悔い改めた方がいい。なぜならばこの歌は故郷を離れ戦う男の、逆境にも抗って純粋な愛を求めた歌であり、そして何よりもそれを独特のレトリックを用いて我々日本人に親しみやすく描いた傑作であるから。
眠らぬ街に、星空はない。それでも目を閉じればパスタのパンくずのように億千の星が見える。その中でも一番光るのは、『お前』と――アンチョビ。
以上、今回、『純恋歌』の『おいしいパスタ』を解釈した。こんなんあるわけないだろ?いやいや、我々に赦されたものは、そう、
解釈の自由!
流石に今回は自らの引き出しの中から考えるのはキツかったので、多くの文献を参考にしました。しかしながら例によって本記事の資料的価値を堕とすために参考文献は敢えて記しません。すべてはこちらの妄想というスタンスでよろしくお願いします。た・だ・し、パスタについて気になった方のためにレシピの載ったサイトを紹介します。
それでは、アリーヴェデルチ《さよならだ》!