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第一回『ボヘミアン・ラプソディ』 ~『ボヘミアン・ラプソディ』に隠されたフレディの真意とは?~

人もすなる作品解釈といふものを、雨宿もしてみむとてするなり。

世の中に創作物というものは数多くあります。文学、演劇、楽曲、芸術、映画、etc。そのすべてに共通していること、それは、「作品の解釈は受け取り手の自由」ということです。もちろん作る側は何かしらメッセージを込めてそれを世に出しているわけで、「作者の考える作品解釈」というものはあるわけですが、なにもそれを受け取る人すべてがそう解釈する必要はないわけです(人によっては「俺の作品はそんなんじゃない!」て怒っちゃうかもしれませんが、仕方ないことだと僕は思います)。


そう、解釈の自由!


というわけでこのシリーズでは誰もがよく知るアノ作品やソノ作品の解釈を、よく見直してみましょう。そして逆に感心しちゃうほど斜め上な雨宿拾遺物語的解釈をしてみませんか?

もう分かりましたね、合言葉は、解釈の自由。

※注意 これはネタです。まじめに作品の解釈を求めている方は、ただちにブラウザバックしましょうね。


『ボヘミアン・ラプソディ』

やってまいりました解釈の自由、記念すべき第一回は「ボヘミアン・ラプソディ」。「ボヘミアン・ラプソディ」といえばもはや説明もいらない、イギリスの世界的ロックバンド「クイーン」の代表曲だ(といっても代表曲が多すぎてもうわけわかんない)。「クイーン」とそのボーカル、フレディ・マーキュリーを題材とした伝記映画のタイトルにもなっている。この映画は2018年に公開され、当時の反響はものすごいもので、CDショップに行けばクイーン、音楽配信サービスを見ればクイーン、カラオケの履歴を見ればクイーンと、もうどこへ行ってもクイーンボンバー。クイーンを知らなかった人も、名前だけ知ってた人も、ファンだった人も、みんなクイーンが好きになっただろう。悪いことは言わないので見よう。

そんな大人気な曲で斜め上な解釈をしようなどと、神ならぬ、女王こそも恐れぬ行為だが、この曲を選んだのにもちゃんと理由はあります。それはこの楽曲が深い考察に値する奥深さを秘めているから。ちょっと調べるだけでも十人十色の解釈があり、さらには読み解くうえでいくつか参考文献をあたらねばならぬほど、いかにフレディの文学的教養が深かったかがよく分かる。

なお、著作権の関係上ここでは歌詞原文を引用することはできないので、こちらで翻訳したほぼ直訳の日本語歌詞を参照する。「ここの訳はこうじゃねえだろ!」という論争は一旦置いといて、他にもGoogle先生で対訳を調べたりしながら見てほしいんだな。


まずはさらっと斜め読み

「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞は実に唐突。そしてオペラ調の曲風通り、ストーリー性を持っている。

まず最初が『これは現実?それともただの幻?』いや知らねえよ。それから『ママ、人を殺したんだ』ときて『ママ、死にたくない 時々生まれてこなければ良かったと思う』とくる。そんでもって『ガリレオ フィガロ マニフィコ』『神に誓って!』『ベルゼブブが僕に悪魔をよこした』ときて、『どちらにせよ風は吹くんだから』と終わる。

うーん、分かんね!

とも言ってられないので、一般的な解釈を見てみよう。まず『人を殺したんだ』と言われて「誰を?」という疑問が生まれる。具体的に誰がその解釈をしてたかというのは割愛するが、ここからすでに意見が分かれている。実際に男を殺したんだ(原文歌詞では"a man"となっている)、これは自殺だ、「自分自身」という存在を殺した(新しい自分になった)という意見等々。とにかく何らかの「殺し」を犯した彼は罪の意識に苛まれ、神話的な問答を繰り返したのちに、もうぜんぶどーでもいいやっていう諦めに到達する。何にせよ、ポイントとなるのは「主人公は誰か?」という問い。これによってすべての解釈が構築されていく。単にのこの曲の中での主人公なのか?曲を作ったフレディその人なのか?それとも何かの作品をオマージュしているのだろうか?謎を解くカギは自分自身が「主人公」になってみることだ。


私はボヘミアン

前段で述べた通り、この曲の「主人公」がどんな人となりか知るためにとことん感情移入する。まず曲名の「ボヘミアン・ラプソディ」は「ボヘミアの狂詩曲」という意味だ。「ボヘミア」は中欧のボヘミア(ベーメン)地方のことで、さまざまな訳し方ができるが、ここでは「ボヘミアニズムな人」という意味だろうか。ボヘミアニズムとは自由気ままな生き方のことで、遊牧民族のジプシーがボヘミア地方に多かったことに由来する。マイナスなニュアンスが含まれることもある。

ともかく、「ボヘミアン」は自由奔放な主人公のことを指していると思われる。つまり「自由気ままな主人公の、叙事的な歌」ということか。では何がどう気ままなのか。

初っ端の歌詞は『これは現実?それともただの幻?地滑りに捕まったように現実からは逃れられない』とある。我々はいつこのような言い回しをするだろうか?それは「現実に何かとんでもなく受け入れ難いことが起きてしまった時」である。だから今この時主人公である我々に天変地異が起こったのだろう。

目を開いて空を見上げよう 僕はただの哀れな男だ 同情は要らない 今までだって気ままに生きてきたから いいことも悪いこともある どちらにせよ風は吹くんだから 僕には悩むことなんてないんだ

どうだろう、どんな印象を受けるだろうか。あなたはどんな時にこんな気持ちになるだろうか。おそらくは天変地異を前にして、自暴自棄というか、すべてが投げやりになっているように思える。少なくとも言葉通りの気ままとは少し意味が違うように思えてくるはずだ。

ママ、人を殺したんだ 頭に銃口を向け 引き金を引いたら、死んだ

原文の歌詞を読むに、たった今殺したようだ。前段の歌詞から考えても今目の前でそうなっていることが推測できる。この段は疑問が多い。前述の「誰を殺したのか?」という問い、「なぜ殺したのか?」「そもそも本当に殺したのか?」。しかしながら抽象的に「殺した」という意味にしては随分詳細に述べているではないか。ここはやはり誰かを「殺した」のだ、銃を使って。

ママ、人生は始まったばかり だけど何もかも投げ捨ててしまった

「殺した」ことによって主人公の人生が台無しになったということでいいと思う。注目したいのは『人生は始まったばかり』というフレーズ。こう言うということは、めちゃくちゃ若いわけでもなさそうだ(子供は「まだ若いのに」なんて言わないから)。ということで主人公は大人である。「大人なのに『ママ』ってマザコンかよ?」と思われるかもしれないが、これも実の母親なのだろうか?『ママ』は「すべてを打ち明けられる、大切な存在」という読み方ができそうだ。

ここから先はすこし長いが一息にまとめる。

ママ、泣かせるつもりは無かった 明日の今頃僕が戻らなくても 変わらず生き続けて 何事もなかったかのように 遅すぎた僕の番がきた 体中が震えて ずっと痛んでいる さようなら、みんな 僕は行かなきゃ みんなを置いて真実と向き合うよ ママ、死にたくない 時々生まれてこなければ良かったと思う

『ママ』を悲しませてしまったことに対する後悔、自らに迫る何かにおびえている様子、『みんな』への別れ。『みんな』とは誰なのだろうか?言葉通りと捉えるなら主人公の周囲にいた人々、おそらくは彼を好意的に思っている人々のことだろうか。そして最後に『ママ』に正直な気持ちを訴える。


さて、そろそろ分かったのではないか。先刻自分自身が「主人公」になってみることを説いて、ここまで主人公の立場に立ってこの歌を読んできたと思う。これによって歌詞を深く理解できたと共に、ある感情が湧きおこってはいないだろうか。それは「共感」。だから言ったのだ、そろそろ分かっただろうと。フレディが誰に向けてこの曲を書いたのか。


「ボヘミアン・ラプソディ」はオタクバレしたオタクの心のソング

結論を言おう、「ボヘミアン・ラプソディ」はオタクバレしたオタクの心のソングである。令和の御代になってオタクもすっかり市民権を得た今日この頃だが、それでも知り合いや家族を前にして自らの趣味を公言するのは憚られるものである。岩戸の奥に隠してきた自らのオタクも、ある瞬間に知られてしまうことがある。そんな時、例え相手はドン引きしなくたって、バレたという事実で自分の心が痛むのである。やけに抒情的になって、存在を消してしまいたくもなるし、生まれてこなきゃよかったとさえ思う。愛するコンテンツ、ママに向けて心を打ち明ける。「ボヘミアン・ラプソディ」とはそういう歌なのだ。


それでは今一度歌詞を見直していこう。

これは現実?それともただの幻?

受け入れ難いが、オタクバレしたのは事実である。

僕はただの哀れな男だ 同情は要らない 今までだって気ままに生きてきたから

これは言葉通りだ。自分は哀れだ、世の中にはオタクを公言してなお楽しく生きている人だってごまんといるのに。同情なんて要らない。趣味に生きてきたこれまでの人生は世間から見れば『気まま』そのものであるのは間違いないから。

ママ、人を殺したんだ 頭に銃口を向け 引き金を引いたら、死んだ

もうオタクとしては生きられないから、自分を殺したんだ。「殺す」儀式として、確かに自分は自分を撃ったのだ、頭の中で。自分が銃を持って、バン!てやる妄想、誰だってするさ、オタクなら。

ママ、泣かせるつもりは無かった 明日の今頃僕が戻らなくても 変わらず生き続けて 何事もなかったかのように

ママ(愛するコンテンツのこと。殊にオタクは推しを母親と思い込む性質があるから、そこから取ったのだろう)、オタクでなくなった自分がこのコンテンツに戻ってこなかったとしても、変わらず繁栄し続けてほしい。ファンが一人減ったくらい、何事もなかったかのように。

さようなら、みんな 僕は行かなきゃ みんなを置いて真実と向き合うよ

オフ会で出会ったみんな、さようなら。僕はここを離れなければいけない。

ママ、死にたくない 時々生まれてこなければ良かったと思う

ママ、本当はオタクとしての自分は死にたくない。こうなるならばむしろ沼にはまらなければ良かった。


ああ、どうしてこれを聴いて涙を流さずにいられようか。それでも、残酷ながら、この先の歌詞も読み解かねばなるまい。オタク各位はハンカチをもって聴くように。

一人の男の小さな影が見える 傲慢で臆病なスカラムーシュ ファンダンゴを踊りませんか? 雷鳴と稲妻 すごくすごく恐ろしい ガリレオ ガリレオ ガリレオ ガリレオ  ガリレオ フィガロ マニフィコ

傲慢で臆病なスカラムーシュよ、君は知り合いや家族を前に非オタを装っていた自分と同じ道化だ、一緒に踊らないか?雷のような世間の目がすごく怖いんだ。地動説を唱え、異端審問にかけられても地球は回っていると信じたガリレオ、家来でありながら伯爵を出し抜いたフィガロ、あなたがたは偉大だ!(マニフィコ)

※スカラムーシュ……イタリアの仮面即興劇、コメディア・デラルテの登場人物。道化。

※ファンダンゴ……スペインのカップルダンス。「フィガロの結婚」でも踊られる。

※ガリレオ……ガリレオ・ガリレイ。地動説を唱え、教会の異端審問にかけられる。

※フィガロ……モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」の登場人物。

自由になりたいんだ 僕を行かせて! 神に誓って!ダメだ お前を逃がさない 彼を行かせて (中略) ダメダメダメ……

ここは読んだだけでは理解しにくいが対話形式になっている。この世の運命を司る神は彼を赦さなかったが、彼は自由になることを望んでいる。あまりの衝撃に壮大なスケールでものを考えているらしい。切羽詰まった時になにかと物事を大きく考えすぎることがあるだろう、それを表現しているとみえる。この先の内容でもそれが続く。ちなみに途中ででてくる『ベルゼブブ』はキリスト教の悪魔。「蠅の王」とも呼ばれ、巨大な蠅の姿で描かれる。オタクバレしたことに関して「誰が悪い」とかは存在しないわけだから、あえて言うならこの世の悪そのものである悪魔の仕業と言う他にない。

僕に石を投げ 僕の目に唾を吐きかけるつもりか 僕を愛して 見殺しにするつもりか ああそんなことしないでくれ 逃げなきゃ 今すぐここから逃げなきゃ

最初の部分はどちらも聖書の引用。『あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』などにあるように、聖書では「憎む」という意味で「石を投げる」という行為が数多く登場する。また『唾を吐きかける』行為は侮辱でもあるが、古くからまじないの意味もある。聖書ではイエスが盲人の目に唾をつけると、盲人の視力が回復した。日本の「眉唾」と似たようなものか。ここでは対比構造として後者の説が有力か。そんなこんなでやり場のない理不尽な思いが渦巻いているのが読み取れる。

たいしたことない 誰にでもわかる たいしたことない、たいしたことないんだ僕には どちらにせよ風は吹くんだから

これはもう説明不要である。人間こうまでくるともうなにもかもどうでもよくなってしまうものだ。


フレディのメッセージとは?

さて、ここまでの内容で「ボヘミアン・ラプソディ」がオタクバレしたオタクの心のソングであることは十二分に分かっていただけたと思う。ではこの歌からフレディは何を我々に残してくれたのだろうか?

それもまた歌詞の中に込められている。『どちらにせよ風は吹くんだから』。気ままに生きてきたボヘミアン(=オタク)は、これからも気ままに生きていけばよいのではないか。これまでの「気まま」とは少しか意味が異なるかもしれないが。好きなものは好きと言いたい、だって我々は"Somebody To Love"を見つけ"I Was Born To Love You"だった。そういう意味では"We Are The Champion"だし、むしろ"We Will Rock You"なのである。


以上、今回はクイーンの名曲、「ボヘミアン・ラプソディ」を解釈した。こんなんあるわけないだろ?いやいや、我々に赦されたものは、そう、

解釈の自由!


余談

余談だが、こんな斜め上な解釈も、あながち間違ってるとも言えないのである。

この曲の解釈にこんなものがある。厳格なゾロアスター教徒の家系に生まれたフレディがゲイであったことから、家族の期待には沿えなかったが、これまでの自分を殺し、真の自分として生きていくことを歌った曲である、というのだ。「オタクバレしてオタクでいられなくなる」というのは逆かもしれないが、自己と周囲の視線との間ではさみうちになる葛藤と言う点では共通している……だろうか?


参考文献

ここに参考文献をあげるが、ほとんどはちょっとの調べものと筆者の脳内の引き出しから書いているので参考文献は少ない。というのも万が一にもこの文章を参考にしてしまう人がいないように、文章の資料的価値を落とすためでもある。気になった事象については自分でも調べてみてほしいんだな。

  • 『ボヘミアン・ラプソディ』 - クイーン
  • 『ヨハネによる福音書』 8章7節ほか
  • 『マルコによる福音書』 8章23節ほか