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モーニングファイターズ

世界には朝食の目玉焼きに醤油をかける者とソースをかける者がいる。それらは決して相容れないものだ。些細な衝突から始まった彼らの争いはいつしか世界を二分する大戦争に発展していた。双方は死力を尽くして敵の殲滅にあたったが、ソース派にとって戦況は決して芳しくはなく、数で勝る醤油派が終始優勢に進んでいた。皆の目的はただ一つ。自分たちの朝食を守り、敵を速やかに打ち砕くこと。皆の合言葉はただ一つ。


奴らを、速攻撃破《ブレイクファスト》せよ。


マセドワーヌ森。東西南北数十キロに及ぶこの森はソース軍、醤油軍双方が入り乱れて激戦を繰り広げている地域である。その森の一画で一人の兵士が彷徨い歩いていた。名はバタール。ソース軍の一兵士として戦っていたが、彼の所属する中隊は明朝の戦いで壊滅し、彼一人が逃れた。

「まずった、本隊はかなり後方まで撤退しただろうし、とするとこの辺りは敵の領域だ。何としても帰還しないと。」

遠くではかすかに銃声が響いている。コンパスを無くしたバタールは次にどこへ向かうべきか途方に暮れていた。その時だった。近くの茂みで何かが動く音がした。こんなことは一度や二度ではなかったから、バタールは野生動物だろうかと考えたが、それでも放浪を続け疲労が溜まった彼は何に対しても神経質にならざるを得なかった。

「そこにいるのは何者だ!?」

しばらくして、両手を上げてゆっくり立ち上がる者があった。バタールとは違う軍服。間違いなく醤油軍の兵士であった。今は無抵抗の姿勢を見せているが、銃はしっかり背負っていた。なおも銃口を向けたまま、バタールはおそるおそる尋ねた。

「……独りか?」

「お前こそそうだろう。」

「質問に答えろ。」

「ああ、そうだ。」

その言葉に嘘はないと見えた。二人が静止したまま少し時が流れた。というのも、バタールにはこれ以上の問答が思いつかなかったからである。えーっと、次は何を言えばいいんだろう……。彼の頭はそれでいっぱいだった。本隊からはぐれて一人いたところに同じような境遇の敵に出くわすという異常なシチュエーションは、容易に彼のキャパを超えた。

うーん、えっと、何話そうかな。あー、えーっと、ダメだ思いつかない。

「……何かほかに言うことはないのか?」

「うるさいなあ今考えてるんだよ!」

こと仕事に関して、彼は生粋の指示待ち族であった。ふとバタールは、その兵士の脚についた生々しい傷に気がついた。

「……怪我してるのか?」

兵士は何も答えなかった。ただ黙ってその脚に目をやっていた。バタールはやっと銃口を下ろし、思いついたことを言った。

「応急処置ならできるぞ。」

「……本当か?」

バタールが何も答えないので、またしても時が流れた。バタールは思いつくまま口にしてしまったものの、彼に応急処置を施すことが正しいのかと悩み始めていた。このやりとりをただ聞いている人がいたら、その人はまるで二人が月と地球で交信しているようだと思ったことだろう。


「はい、応急処置終わり。」

傷が浅かったため処置は簡単なもので済んだ。

「……フォカッチャだ。」

その兵士はぼそりと言った。

「え?……ああ、名前か。俺はバタール。」

「そうか。バタール、感謝する。まさかソース軍に助けられるとはな。」

「あんたこそ、敵に治療を受けるなんて、不安じゃないのか?」

「……たしかにな。」

治療が終わった脚をズボンで隠し、フォカッチャは言った。

「お前はどうしたんだ?」

「ん、まあ、所属の中隊がやられちゃってね。生き残りさ。」

「そうか、それは、残念だったな。」

同じ地域にいる以上、その中隊を壊滅させたのはフォカッチャの部隊である可能性もあったが、今はそれを考えようとはしなかった。

「ま、俺も脚がこのザマで本隊からはぐれちまった。……これからどうするつもりだ?」

「んー、どこかの部隊と合流したいけど、方向が分からなくて。それにこの辺は敵味方入り乱れてるから迂闊に動けないし。」

フォカッチャは空を見上げた。

「やめときな。もうすぐ日暮れだ。夜になったらいよいよ敵も味方も分からなくなるぞ。俺は脚が落ち着くまでここを動けないし、ここで夜を明かすべきだ。」

幸いこの辺りで今日一日戦闘はなかった。他に手立てがないので、二人は近くにちょうどいいくぼ地を見つけ、そこをキャンプ地とした。


一段落ついて、二人は糧食を摂ることにした。

「バタール、お前メシ持ってるか?」

「なんだ、持ってないの?分けてやるよ、少しだけな。」

長引く戦争により、糧食の質も悪化の一途をたどっていた。バタールに支給されたのは原料のよく分からない缶詰が一つだった。フォカッチャはそれを覗き込んだ。

「何だこれは。……よく見たら表面にかかってるのはソースじゃんか。やっぱ要らねえ!仕方ない、自分の食うか……。」

「いや持ってるのかよ!」

「無かったら分けてやろうかと思って訊いただけだ。まったく、ソース派ってのはいつもこうなのか?」

フォカッチャは自前の糧食を取り出した。やはり銀一色の缶詰だった。

「こんなのは政府のプロパガンダさ。ソース派だって必ずしもソースが好きな人だけじゃないからね。三食にソースを混ぜて否が応でもソース派にさせるのさ。」

「このご時世、醤油かソースかどちらかを選ぶしかないってことか。」

フォカッチャは遠くを見つめた。

二人は素手で糧食を頬張った。外側は同じでも、味はまったく違う。内容物に大差はないのだろうが、これでもかと塗ったくられた調味料がそうさせるのだ。

「どうにも理解できんなあ、ソース派は。そもそもソースをかける食べ物って、朝食にはなり得ないんじゃないか?」

「そんなこと誰が決めたんだよ。ソースをかける食べ物を考えてみろよ、焼きそば、お好み焼き、カツ……。どれも卵が合うものばかりじゃないか。だから目玉焼きにソースをかけることは至極当然なんだ。」

「それはもともとソースをかける食べ物があって、それに卵が付随してるだけだろ。目玉焼き単体に合うって証拠にはならないんじゃないのか?」

「じゃあ醤油派、お前らはどうなんだ。目玉焼きの表面はつるつるしてるから、醤油はほとんど表面を流れていくだけじゃないか。それホントに醤油かけてるって言えるのか?!」

「味はするんだからいいだろ。何よりソース派はな、少数派なのよ。」

「そんなこと、そんなこと知ってるよ……。」

バタールはソースのついた手を握りしめた。

「それでも、手前の目玉焼きには手前の好きなものかけたって、いいじゃないか!俺にはソースしか、無いんだよう……。」

「ソースか……」

それきりフォカッチャは何も言わなかった。


夜になって、二人は濡れた衣服を乾かすために焚き火を起こした。両軍は時折火炎放射器を使うので火の手が上がることは珍しくなかったし、ここはくぼ地なので遠くから見えにくいだろうということだった。仮にこれが誤った判断だったとしても、二人にとっては濡れた衣服のまま一晩を過ごす方が堪えられなかった。

人は焚き火を前にすると何かを語らずにはいられないようである。爆ぜる炎を見ているうちにバタールは仲間との野営の時を思い出していた。大概の話題は故郷のことである。逆に言えば、終日一緒に行動していたから、それくらいしか互いの話せる内容がなかった。

「フォカッチャは、残してきた人とかいないのかい?」

「いた気もするけど、忘れちまったよ。」

フォカッチャはそっけなく答えた。

「昔ね、俺にも恋人がいたんだよ。昔から仲良かったんだけどね。なにかと気が合うんだけど、たった一つ。その娘、醤油派だったんだ。」

「じゃあそいつとは……」

「戦争が始まってから別れたよ。その後俺はソース軍に入隊し、今に至る、と。でもときどき思うんだ、俺の味とあの娘の味、どっちを選べば良かったんだろうって。」

バタールはうつむいた。戦時下の人々は、必ず醤油かソースかどちらかを選ばざるを得ない。そして彼らはともに暮らすことはできないのだ。

「自分が選んだ道は間違いだったと思ってるのか?」

フォカッチャはバタールの方を向いて尋ねた。

「分からないよ。分からない。」

「さっきお前が俺に言った言葉、それは嘘だったのか?お前は確かに言った、『手前の目玉焼きには手前の好きなものをかけたい』と。それは本心か?」

「ああ本心だよ。本の心だよ!醤油かける奴の気持ちなんか分かんないよ!」

バタールは吐き捨てるように言った。それからまた落ち着いた調子で続けた。

「でも思い出したんだ、目玉焼きにかけるものは違ったけどさ、俺もあの娘も、目玉焼きの隣のスクランブルエッグは、大好きだったんだよ……」

涙、不意に見せたバタール。フォカッチャはそれよりも驚くことがあった。

「なんで卵料理が二つあるんだよ……。」


朝がやってきた。度重なる疲労が二人を知らぬ間に眠りに誘っていた。誰にも見つからなかったのは幸運であった。旅立つ支度を整えて、フォカッチャは言った。

「バタール、お前仲間と合流するんだろ?よく聞け。ここから十数キロ東に進んだところにソース軍の陣地がある。俺がそこまで連れてってやるよ。」

「いいのか?でもソース軍に見つかったら……」

「そんなヘマしねえよ。近くまで行ったらそこでお別れだ。そしたらもう貸し借りナシな。」

返事は聞かず、フォカッチャは歩いていった。バタールはその後をついていく。

二時間ほど歩き通したころ、昨晩まで中断していた戦闘が再開したようだった。昨日よりも近くで銃声が聞こえる。

「だいぶ近づいてきた証拠だな。昼を過ぎる頃には近くまで行けるはずだ。」

フォカッチャはちらと横のバタールを見て言った。

「なあフォカッチャ、なんで俺たちは戦ってるんだろう。」

バタールが突然言ったので、フォカッチャは乾いたパンのようにその言葉を飲み込むのに少し時間がかかった。

「なんだいきなり。でもまあそうだな、人間は争わずにはいられないんじゃないかな。結局この戦争は醤油かソースかの争いってだけで、それがなくても俺たちは何かの理由をつけて戦うはずさ。」

「じゃあフォカッチャ、目玉焼きは半熟気味とかた焼きだったらどっちがいい?」

「それは半熟かなぁ。でも白身はしっかり固まってる方がいいかも。」

それを聞いてバタールは笑った。

「少なくとも目玉焼きの焼き加減に関しては、俺たちが戦う必要はないみたいだな。」

「そうか。それはいい。」

二人は高らかに笑った。それからすぐにバタールは深刻そうな顔に戻り、急に立ち止まった。

「どうした?」

「今、分かったんだ。」

「何をだよ?」

フォカッチャは覗き込むようにバタールを見た。

「俺たちは……実は目玉焼きが好きではないんじゃないか?」

「は?」

「俺は、目玉焼きが大好物ではない!もちろん嫌いではないし、好きか嫌いかで聞かれたら好きと答える、でもそれに命かけるほど好きじゃあないぞ!お前もそうだろ?」

その声は怒りがこもっていた。少し考えてからフォカッチャは呟いた。

「……確かに、大好物ではない。なんつーか、目玉焼きって、フライパンに卵割っただけじゃん。言っちゃ悪いけどそれだけじゃん。それを大好物って言うと、なんかやっすい奴だと思われそうで……」

「やっぱりそうじゃないか。やっぱり……。」

それきり押し黙っているフォカッチャをよそに、バタールの話は続いた。

「そんなもののために俺たちは戦ってるのか!?そりゃ目玉焼きにかけるのはソースだ、それは譲れない。でも、目玉焼きという料理そのものは正直どうだっていい!朝食に食べる頻度だって決して高くない。そんなものに命をかけて戦う理由がどこにある!俺は、超ショックだぜ!」

「もういい分かった。」

「良くない!お前もなんか言えよ!そこまで好きでもないものに命かける必要があるか!?」

「もういい、もういいから静かにしろ。」

フォカッチャはバタールの口を塞ぎ押し倒した。

その時だった。すぐ近くで銃声が響いた。それを聞いてバタールもようやく状況を理解した。

「すぐ近くで両軍がおっぱじめやがった。バレないうちに早くここを移動しよう。」

みるみるうちにあちらこちらで銃撃戦が始まる。今、二人は両軍の部隊の真ん中にいるようだった。二人は這って進んだ。

「でもま、良かったじゃないか。あっちがソース軍だ。これで合流できる。この死地を突破できればな。」

「あ、ああ……。」

未だバタールは理解が追いついていなかったが、それでもこの旅の終着点が近いことは分かった。

「それじゃ、ここいらでお別れかな。短かったが……と、ちょっと動くな。」

二人のすぐ近くに着弾する弾があった。明らかに、何者かがこちらを狙っていた。

「醤油軍のやつらだな。俺がなんとかする。」

「なんとかするって、迂闊に動いたら両軍に狙われるぞ?」

「俺が引き付けるから、合図をしたらすぐに飛び出せ。分かったな?」

「人の話を聞けったら。ここで動くのは危険だって。」

「お前だって人の話を聞かないだろ。」

引き止めようとするバタールを振り切り、フォカッチャは戦闘体制に入った。

「ま、気にすんな。俺の敵はもともとどっちもなのよ。」

「待てよ、どういう意味だ?」

やっと準備を整えたバタールにフォカッチャは微笑んだ。

「お前の言葉、効いたぜ。俺は本当はな、ケチャップ派なのよ。」

え?ケチャップ?目玉焼きにケチャップ?スクランブルエッグやオムレツにケチャップは普通だ。でも目玉焼きにケチャップは無いだろう。ありえねえ。

瞬間、バタールの頭に駆け巡った様々な思いは、フォカッチャの力強い一言にかき消された。

「行け!!」

無我夢中だった。ただ生きるため、バタールは走った。後になって覚えていたのは、フォカッチャの目玉焼きのように輝く瞳だけであった。


二人のその後は知られていない。戦争はさらに激化し、数多の命が失われていった。これはその戦いの、ほんの一コマでしかない。

願わくはこの戦いに、夜明けと休息(ブレイク)が訪れんことを……。