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水無月

自分の歳を数えることは忘れてしまいました。わたしには二十歳の兄がいますから、少なくともそれよりは若いのだと思いますが、それも信用ならないことです。

白状すると、わたしは普通の人間ではないのです。わたしは、くらげ。人間の形をしたくらげです。「くらげ」というのは紛れもなく、海の中をふわふわ漂っているあの生き物のことです。わたしはこの通り、黒い髪をして、骨が透き通ったみたいな白い肌をしていますが、これはかりそめの姿です。本当はあの生き物と同じようにさらさらした無数の腕を持ち、立派なかさに、触れ得ないような透き通る清廉さを持っているのです。本当ですよ、できれば見せてあげたいくらいなんですけどね。

わたしの名前は水無月です。六月生まれなのでも、餅の上に小豆が無作法に載せられた格好悪い和菓子が由来なのでもありません。ほら、くらげって漢字で「海月」と書くでしょう、だけどわたしは陸の上で暮らしているから「水無月」なのです。

わたしは今、人間の家庭で暮らしています。落ち着いた住宅街に、広くはないが狭くもない一戸建てのお家があって、二階の六畳間がわたしの部屋です。ここは東向きですから、朝は太陽の光が閉じたカーテンの隙間から差し込んできまして、わたしの目を覚まします。だけど、朝日と共に目が覚めるなんていい子ちゃんらしくて気に入らないので、わたしはいじわるをしまして、カーテンは開けてあげません。わたしを含め、誰にでも平等に光をもたらす太陽さん、そういう八方美人みたいな方とわたしは仲良くできないんです。それでもすぐにわたしはしびれを切らしてしまって、やっぱりカーテンをさっと畳んでしまうのです。

リビングに下りましたら、食卓にお父さんと、台所にお母さんがいました。お父さんが出かけていないということは、わたしは割に早く目が覚めたようです。

わたし、さっき、自分がくらげだとは言いましたけれど、お父さんとお母さんはちゃんといるんですよ。それも普通の人間です。偽物の両親というわけでもなくて、わたしはきちんとこの夫婦のもとに生まれた子供なのです。ただし、実はくらげだった。ただそれだけの話なのです。

わたしは黙ってお父さんのはす向かいの席に着きます。お父さんは、何も言いません。お母さんも黙っています。だからわたしも黙ります。お父さんの顔を覗いてみました。すると彼は目尻にしわの寄った目でじろりとこっちを見返します。依然、何かを口にすることはないのですが、それでも、その瞳は口以上に心を物語っておりまして。「なんでこんなに早く起きてきたんだ」と、そういった視線です。お父さんはコーヒーを飲んでいました。お仕事に出かける前に一杯のコーヒーを飲み干すのが彼の日課なのです。コーヒーは、おそろしいです。あんなにいい薫りがして、液面なんか鏡みたいにつやつやしているのに、どうしてあんなに苦いのかしら。わたしは口にした瞬間、ぺっ、してしまいたくなります。甘いコーヒーだってあるにはあるのですが、その方がわざとらしくて、もっと嫌いです。

しばらくしてお母さんが台所からお皿を持ってきてわたしの前に置きました。載っているのは食パンのトーストです。きつね色の焦げ目がついているのが、いかにもって感じでがっかりしました。わたしは悔しくて、バターナイフを引っ掴み、ピーナッツクリームを表面にすっかり塗ってしまいます。きつね色が完全に覆い尽くされて、いい気味ねって思ったんですが、そういえば、きつね色はトーストの裏側にもあることを思い出して、わたしは芸のない芝居を二度も見せられた気分です。辟易しながら裏面との戦いに取り組みだしたとき、お母さんがわたしを止めました。

「いくら塗れば気が済むのよ。クリームを無駄遣いするんじゃないの。」

「無駄遣い?」わたしは反論しました。「わたしは無駄遣いなんかしていないじゃない。いつだってわたしは、慎ましく、倹約家よ。ここ一年の間に何かをほしがったことがある?ほしがりません、勝つまでは。考えてもみてよ、今に日本は中国か、ロシアか、アメリカだかと戦争になるわ、物も満足に手に入らなくなって、そうしたらわたしみたいな質素な人間が生き残るのよ。」

「そんな時はあんたみたいなひょろひょろした人間が一番に倒れるわよ。」

お母さんの言うことももっともです。本当に戦争になって、この家の真上に爆弾が落ちてきたらどうしよう。わたしは住むところが無くなって、一家離散になったら最後、もう二度とお父さんやお母さんの顔は見られないのです。一生そんなことにはなってほしくないです。

わたしはトーストをお皿に置きました。先にピーナッツクリームを塗った面を下にしたので、白いお皿にはクリームがべとっと付いてしまいました。正直に言って、わたしはもうこのトーストを食べたいとは思っていませんでした。もしかしたら目の前に置かれたから反射的に腹に入れようとしていただけで、本当は最初からトーストなんて食べたくなかったのかも。

お父さんはそんなわたしを見ていましたが、やがてぼそりと言いました。

「どうせ学校に行きもしないのだから、こんなに早く起き出して朝飯を食べようとしてることが無駄だろう。」

学校、お父さんはまだそんな風に考えているのね。わたしは学校に行く必要はないのです。なぜかって、それは、くらげだからです。海の中に学校へ通うくらげがいるかしら?めだかじゃあるまいし、ねえ。

いいえ、そんなわたしでも、昔は学校に通っていたんです。小学校なんか六年間皆勤賞でした。先生には頭がいいって褒められたし、たくさんの友達に囲まれて勉強に遊びに励んでいました。わたしが本当はくらげだってこと、誰にもバレませんでした。

「仕方ないじゃないの、」わたしは言いました。「日の光がわたしにも平等に降り注ぐんだから、その期待に応えてあげるしかないわ。」

「何が『期待に応える』だ。」

お父さんは冷たく吐き捨てます。畢竟、この人はわたしに学校へ行ってほしいのでしょう。だったら正直にそう言ったらいいじゃない、そうすればわたしだって親の顔に免じて少しくらいは考えてあげないこともないのにね。しかしお父さんは意地っ張りなので、わたしもいじわるをします。

「いいのよ、学校になんか行ったって、行かなくたって、女の子はね。結局はどこかの男の人のところにお嫁に行ってさ、そうしたら一日中家に閉じこもるだけ。だったら今のところは何をしていたって同じことじゃないの。」

「引きこもってるだけの女が結婚だけはまっとうにできると思っている、その自信がどこから湧いてくるのか全く見当がつかないのだが。」

そうは言ったって、わたしでも結婚くらいはできますし、そうしたら良妻賢母としてうまくやっていけると思っています。わたしは器量も悪くないし、スタイルだって細身、おっぱいは無いけど、人に見初められるくらいの愛嬌は持っています。それになんてったって、本当はさらさらと透き通るあの生き物なんだからね。

わたしはトーストの真ん中を指で押してみました。もう冷めてしまったトーストは表面だけぱりっとして、内側は味気ない食パンそのものです。

お母さんはため息をつきました。

「もし母さんと父さんが今日、事故に遭って死んじゃったら、そうでなくとも、ずっと入院ってことになったりしたら、あんた、明日からどうやって生きていくつもり?あんたは家のことすらまともにできないじゃないの。」

「そうしたら、わたしも死ぬわよ。だってそうじゃない?お父さんもお母さんもいなくなっちゃったら、わたしも一緒に死ぬのが筋ってものでしょ。」

お母さんはまたため息をつきました。これでもかとつきました。今更改まってどういうことでしょう。クリームを無駄に塗りたくったことについては、今では反省しています。謝るつもりだってあるにはあったんですが、「ごめんなさい」の前に「ピーナッツクリームを両面に塗りこめて無駄遣いしてしまって」と丁寧な説明文を付加するのが歯が浮くほどの思いがしたので、やめておきました。

「奈月、」お父さんは言いました。「お前はいったい何が気に入らないんだ?」

「えっと、『何の』何が気に入らないって?」

「全部だよ。親のことも、学校のことも、世の中のことも。お前はいつも何かが気に入らないって風に反抗的な態度を取っているが、実際、何が嫌でそんな風に構えてるんだ?」

わたしは黙りこんでしまいました。さて困りました。お父さんの言いたいことは分かりますが、事実、わたしは何も「気に入らないものなんてない」のです。確かに、見るだけで吐きそうになるほど嫌なことは世の中にたくさんあるけれど、そういうのは全部ゴキブリと同じです。わたしの見えないところで勝手にやっていてくだされば構わないのであって、不俱戴天の仇では決してないんだから。だから質問の答えは「特にない」なのですが、お父さんはそれで納得しないでしょう。

かわいそうなお父さん。朝っぱらの、お仕事に行く前からこんなに不愉快な思いをして。そうまでして働くのは、やはりこの不細工な娘を養うお金を稼ぐためなのです。わたしだったらとてもじゃないけど堪え難いですが、この人は我慢して出かけなければなりません。せめてわたしがこんな朝早くから起き出してこなければ不幸なめぐり合わせも無かったろうに。わたしにもこの人の血が半分流れているというのは不思議なことです。わたしがこのお母さんのお腹から産まれてきたというのはなんとなく納得がいくことなのです。お母さんとは髪の質感も、脇から覗く耳の形も似ていますから。だけれどもこのがっしりとした男性と血がつながっているというのは、不可解です。せめて、この人のおちんちんから精液がわっと出てくるところを見たら「なるほど、これがわたしのもとか」と思えるのかもしれませんが、「お父さん、見せて」とは口が裂けても言えません。ところで、精液って噴水みたいにぷしゃっと出てくるんでしょうか。死ぬ前に一度見てみたいです。ソッチ系のビデオを観ればいいだろうって、お思いになりました?分かってませんね。「わたし、死ぬまでにオーロラが見てみたいのよ」って言う人に、ノルウェーのオーロラの資料映像を見せたらそれで満足すると思いますか?

などとわたしがお馬鹿な思考をめぐらせていたら随分時間が経っていたようで、ついにお父さんは回答を求めるのを諦めてしまったようでした。

その時なぜか、わたしは昔お父さんに肩車をしてもらった時の光景を思い出しました。あの頃のお父さんは娘を自分の肩に乗せるのがお気に入りだったようですが、わたしもそうされるのが大好きでした。いろんな場所でしてもらったのを覚えていますが、一番覚えているのは、水族館に行った時のことです。休日の水族館は大変な人出で、小さなわたしには満足に水槽を眺めることさえ叶いませんでした。そこでお父さんがわたしを肩に乗せてくれて、そうして初めて人々の頭上から水槽のガラス面を見ることができました。その向こうにいたのは、くらげでした。

わたしはそれを思い出して不思議と気分が明るくなってきました。そうしてにわかに笑顔になってお父さんに声を掛けました。

「ねえお父さん、肩車してよ、ね?」

「はあ?」

お父さんは急に怪訝そうな顔をしまして、後に続いた言葉は「馬鹿言え」それだけでした。おかしいな、肩車は射精を見せるのと同じくらい恥ずかしいことだったのかしら。

その時、わたしの背後で扉が開きました。賢二さんでした。

「おはよう。」

賢二さんはお父さんとお母さんに挨拶をしました。二人も同じように返します。それから彼はわたしの方にも顔を向けまして、

「おはよう、奈月。」

と言いました。

賢二さんはこの家のもう一人の家族です。一応はわたしの兄として、両親も、賢二さん自身も振る舞っていますが、本当は違います。賢二さんはわたしの両親の実の子ではなくて、わたしとは血がつながっていないのです。三人ともわたしにはバレていないつもりでいますが、わたしはこの通り、ちゃあんと気付いています。けれど、口には出さないの。三人がわたしをうまく誤魔化せていると思ってるなら、それでいいのです。

そういうわけで、わたしが内心「賢二さん」と呼んでいるこの方も、普通の人間です。そして彼もまた、わたしが本当はくらげであることに気付いていません。こうしているとこの世界で隠し事が上手なのはわたし以外にいないんじゃないかって、そんな気さえしてきます。

「おはよう。」

わたしは平生を装って答えます。

賢二さんは今、少し遠くの大学に通っていますから、普段はこの家を離れて一人で生活しているんですが、今は夏休みだっていうので帰省しているのです。大学生の夏休みがこんなに長いだなんて知らなかった、もしかしたら嘘をついているのかもしれませんが、そのことについてお父さんもお母さんも何も言わないので、どうやら真実らしいです。

何年か前、賢二さんは学校に通っていませんでした。カーテンを閉め切った部屋に閉じこもりになって、わたしや両親ともほとんど顔を合わせないでいました。その頃のわたしは元気に学校に通っていましたから、もやしみたいな賢二さんを腫れ物と思って過ごしていたのですが、大学進学を機に彼は全く変貌しました。こなれた服装で髪も短くなって、その上茶色っぽく染めたりして、わたしは文字通り別な人になってしまったのかと驚きました。今では毎日大学なりサークルなりアルバイトなりで忙しくしているそうです。

賢二さんはお父さんに向かって「よかった、まだ出かけてなかった」と言いました。

「父さん、今日はもう一台の車を借りていい?」

「構わんが、何に使うんだ。」

「晴れて免許も取れたことだし、ドライブに行こうと思って。」

賢二さんは今年、自動車の免許を取りました。久しぶりにわたしに連絡をくれた時、免許証の写真を送って見せてくれたのですが、真正面を向いて真面目くさった顔、その目鼻立ちを見た時、どこか昔の賢二さんの姿が偲ばれました。どうやら別な人に変わったわけではないようです。

お父さんは「そうか」と頷きました。

「いいけど、お前以外は運転するなよ。家族じゃないと自動車保険が効かないんだ。」

「違うよ。ちょっくら奈月を連れ出してやろうと思って、二人でさ。」

「あいつなんか連れ出してどうするんだ。」

「ヒマをしてる妹を連れだしたって構うまい、ねえ?」

当たり前のこととはいえ、一応言っておきます。わたしはこの場にいるんですよ。それでも彼らが当事者のわたしを関係なしに話し続けるのは、わたしが「横槍恐怖症」だと知っているからでした。

わたしは人と人が話しているところに横から口を挟むのが大の苦手です。これは生まれてこの方ずっとです。彼らが和気藹々と話している、そこにわたしが少しでも挟まったら、その瞬間、わたしはミンチにされてぐずぐずのゼリーになってしまうのではないか。そんな恐怖が襲ってくるのです。それは例え家族といえども同じで、晩御飯の時間、お父さんとお母さんがわたしのことで小さな口論になっている時、わたしはできるだけ小さくなってその場をやり過ごします。せめて賢二さんがいてくれたら……。そういうわけで、両親や賢二さんの方もわたしを無視して話すクセがついているのでした。

「そうよ。」お母さんは賢二さんに同意しました。「この子もう半年はまともな外出してないんだから、多少強引にでも連れ回してやってよ。」

わたしが最後に「まともな外出」をしたのはいつ、何のためだったか。そんなこと覚えているはずがありません。お母さんはどうでもいいことを随分鮮明に覚えているものね。そういえば、わたしが家の中で探し物をしている時も、お母さんに訊いたらピタリと在処を言い当てるのでした。

「キーは玄関にあるから勝手に使え。」

お父さんはそう言い残して仕事に出かけてしまいました。

賢二さんはわたしに顔を向けました。

「ということで、奈月、俺とドライブに行こう。」

誠に自分勝手なお誘いです。でも断る理由はありません。

身支度と言っても、わたしは特にやることがありません。わたしはお小遣いが支給されないので服を買えないし、そもそも出かけないのだから必要ないのです。あんまり着古していると見かねたお母さんが買って来てくれるのだけれど、それも特にこだわりがありません。だからわたしはこの時もさしあたり、今日の気温に合っているかだけを評価基準にして服装を選びました。細かい花柄のワンピースは、自分自身悪くない選択だとは思うんですが、中に着る下着の色は要注意です。改めて気付いたけれど、ブラジャーもろくに持っていないんですね、わたし。

わたしは車の助手席に乗りました。当然、車に乗るのも久しぶりなのですが、シートベルトってこんなに窮屈だったかしら。これじゃあ軽い拘束具じゃない、と考えて、そういう目的の代物だったことを思い出しました。運転席の賢二さんは座席の位置やら何やらを調節しています。

「最近の調子はどうだ?」賢二さんが尋ねます。

「何が?」

「それなりにうまくやってっか?」賢二さんはミラーを動かします。

「うーん……。」

「いいさいいさ。」

わたしは賢二さんの前ではひどく口下手です。そりゃあそうよね、だって賢二さんは本当は赤の他人なんだから。わたしには唯一と言っていい、男の人の知り合いなのです。はきはき話せなくったって、仕方ないよね。

「それで、どこに行くの?」

「くらげ。くらげ見に行こう。奈月、好きだったろ?」

「くらげって、まさか……。」

「そう、水族館。しばらく行かないうちにいろいろ新しくなったんだって、知らなかったっしょ?」

水族館、わたしたちが何度も行った場所です。

わたしはくらげが好きだって、どうして賢二さんはそう思ったんでしょう。事実、わたしはくらげが好きだなんて言ったことはないのです。ただ、思い当たることといえば、その水族館には円形の水槽があって、そこをたくさんのくらげがくるくる回っているのですが、わたしはきまってそれを食い入るように眺めていたのです。賢二さんや両親はそれを見てわたしの好みを推察していたのかもしれません。

でもわたしは、あの水族館には行きたくありませんでした。この現代社会において若者に広く利用されるSNS、その中で繰り広げられる苛烈ないいね競争の中で、水族館が一つの的となっていることをわたしは知っています。畢竟、現代の水族館にはわたしと同じくらいの年頃の男女が大挙して押し寄せ、大量の写真を撮影している。わたしはいざその光景を目の前にしたら、その場でぶっ倒れる自信があります。ああいった人々と分かり合うくらいなら、イソギンチャクと意思疎通する方がまだ簡単だと思うのです。わたしが小さい頃に通った水族館には、そんな群集はいなかった。だから行きたくないのです。

「今のくらげ展示はな、昔よりずっとすごいと思うよ。薄暗い中にぼんやりとした色とりどりの明かりがさ、幻想的っていうか、何ていうか。」

賢二さんには申し訳ないんだけど、少し黙っていてほしかった。それこそわたしが最も行きたくない理由なのですから。こうしてわたしを水族館に連れ出そうとするのがお父さんやお母さんだったら、わたしは全力で抵抗したのですが、そこはやはり、賢二さんだからできませんでした。これを拒んだら後で両親に何と言われるか分からないし、何より賢二さんに嫌われてしまいます。そうはなりたくなかったのです。

車は海へ向けて、水族館へ向けて、走り続けます。わたしに運転の得手不得手は分かりかねますが、賢二さんのそれは小慣れた印象がありました。窓を開け、鼻歌なんか歌って、いかにもいい気持ちって感じ。わたしを連れ出して賢二さんはご機嫌のようです。

「良かったねえ、」わたしは賢二さんに語りかけました。「一緒にドライブに行ってくれる女の子がいて。」

賢二さんは「はは」と笑いました。

「馬鹿にしていやがるなあ?」

わたしも「ふふん」と笑います。

「俺だってな、まったくいないってワケじゃないんだって。」

「……え?」

わたしの顔から一瞬で笑みが吹き飛んでしまいました。横顔の賢二さんはにこにこしています。

「え……いるの?」

「父さんと母さんにはまだ内緒だぞ。」

彼はこくりと頷きました。

「もう三か月くらいかな。」

「ドライブ……も?」

「行ったよ。レンタカーで、ちょっとだけ。本当言うと、奈月には紹介したかったんだ。」

「え、嫌……。」思わず口を突いて出ました。

「無理にとは言わないよ。奈月がどんなやつかってことも、ほとんど話してないからさ。ただ『妹がいる』って言ったら、そいつ『会ってみたい』ってしつこくてねえ。」

「えと、じゃあ、付き合ってる人がいるのにこうして出かけてるわけ?」

「彼女がいたら妹とドライブするのがダメってことはないだろ?」

「じゃあ、アレ?わたしと水族館に行こうってのは、いずれその人と行く時のための……予習?」

「まあ、そういう側面もないことはないわな。大丈夫だって、お金は全部俺が払うからさ、ちょっとした人助けだと思って、な?」

呆れた。呆れました。今のわたしは詐欺にまんまと乗せられた、というより、まるで無自覚のままに凶悪犯罪の片棒を担がされた気分です。賢二さんはへらへら笑っています。その首根っこ掴んで揺すってやったら、きっとハンドル操作を誤ってその辺に突っ込んで、二人ともオダブツでしょう。わたしは今すぐそうしてやりたかったのですが、もしも、車が突っ込んでいった先に無関係の市民が歩いていたら?死に損なってどちらかだけ生き残ってしまったら?忌々しいことに、わたしはあのシートベルトとかいう拘束具を律儀に装着したままでいたのでした。結局、この恐ろしい衝動はコンマ二秒でどこかへ消えました。

それからわたしは貝みたいに黙り込んで決して口を利きませんでした。賢二さんは二、三言葉を掛けてきたのですが、わたしはさも聴こえないかのように窓の外だけ眺めていたので、ついぞ会話は成立しませんでした。そのうちに、車は目的地に辿り着きました。

この街の海辺には大規模な海浜公園があって、水族館はその中にある施設です。海岸に面したロケーションで、少し岬状になった土地に建てられています。駐車場に車を停めて、わたしはちょっとだけ乱暴に車のドアを閉じました。そこからやたら広い正面広場をずんずん進みます。賢二さんが少し後ろから追いかけてくる、その足音がします。こうなったらわたしは、彼の策略に乗って水族館の中には入ってやりましょう。ですがノンストップで順路を駆け抜けて、史上最速で水族館を抜け出してやろうと思いました。賢二さんがそれについて来なかったら、その時はその時です。海風が運ぶ潮の香りも、それにたなびく髪も、本当にうんざりしました。

ところが、わたしの企みは初めっからうまくいきませんでした。正面入口のガラス戸の前に立ったわたしたちが見たのは、「本日休館」の看板でした。

「はあ~」賢二さんは間抜けな声を上げました。「通りで人いないワケだ。駐車場、ガラガラだったし。」

彼の言う通りです。わたしは周りの様子にまるで気を配っていなかったのですが、いくら平日とはいえ、人気の娯楽施設がこんなに閑散としているはずはないのです。

わたしは後ろを振り返って賢二さんを見ました。彼もこっちを見て途方に暮れた顔をしています。

急に虚しくなってきてしまいました。空は抜けに抜け、広場は遮るもの何もなく、これはじめじめとふてくされるには最悪のロケーションです。そのことがわたしの虚しさを加速させるのでした。結局、わたしはぬか喜びさせられて、無駄に連れ回されただけなんですね。

わたしは賢二さんを置いて歩き出しました。どこでもいいからここを離れたかったのです。広場から脇道に逸れるとそのまま海岸に続いていまして、海水浴場の砂浜に出ます。今は海水浴の季節も終わってしまって犬の散歩くらいしか人影がない、そんな寂しい砂浜をわたしは歩き続けました。砂浜の厚かましいこと、足を取られるわ、砂は靴の中に入ってくるわ、そのことも虚しさを加速させます。

後ろからは相変わらず、砂を踏む一人分の足音が聞こえてきます。

「奈月、ちょっと待てって!」

待つわけがない。

「ちゃんと説明しなかったのは悪かった、休館日を調べとかなかったのも悪かったって。でもくらげは本当だって!奈月にくらげ見せてやりたかったのは本当!」

小さな親切、大きなお世話。

「あいつには会わなくてもいいから!無理に引きあわせたりしないから!」

わたしはどこまでも歩き続けるつもりでいたのですが、靴に砂は入るし、足元がおぼつかなくなってきて、ついに転んでしまいました。そういえばわたしは体力がちょっぴりしかないのでした。ゆるいワンピースなんか着ているから、下着の中まで砂まみれになって、もう最悪です。

賢二さんがわたしに駆け寄ってきました。きっとその時のわたしは相当ひどい顔をしていたと思います。わたしは体勢を起こしまして、海を向いて砂浜の上に体育座りになりました。この座り方も、随分久しぶりな気がします。賢二さんも隣で同じようにしました。

この砂浜は昔も来たことがあります。水族館へ行った帰りに家族でゆっくりここを歩きました。あの頃のお父さんは、わたしを肩車しても余るくらいの大きな肩でした。あの頃のお母さんは、顔にシワがなくて、肌のハリもよくて、誰より美人でした。わたしはいつも、お兄ちゃんの背中を追いかけていました。今はどうでしょう。わたしは何もしないで閉じこもっては、好き勝手言ってお父さんやお母さんに苦労をかけています。今だって変な意地を張ってお兄ちゃんを困らせています。それでもどうしようもないんです、わたしは人間の世界に紛れ込んでしまったくらげなのですから。世の中の何もかも嫌気が差して、普通の人間と同じように生きていくことができないのです。人間の世界はぐにゃぐにゃの軟体動物が生きていくにはつらいのです。

もういっそ、海に流されてしまいたい。お父さんもお母さんもさっさと愛想を尽かして、わたしを放り出してほしい、そうしてほしいのです。お兄ちゃんがわたしの首根っこを掴んで砂の上に転がして、一人だけ車で帰ってしまったらば、あとはわたしはこの波にさらわれて海に戻っていくだけなのですが。元よりくらげなんだから、そうすべきです。大好きな家族にもう二度と会えなくなるのはわたしにとって死ぬよりつらいことですが、親不孝な娘への天罰としてはまっとうなように思われます。

けれども、そうはならないでしょう。昔のわたしは自分の正体を自分自身にすら隠して騙して生きてこられたのだから、両親はわたしがあの頃みたいに戻ってくれるって信じているのです。お兄ちゃんは、昔はあれだけ閉じこもっていた自分が今では彼女ができるくらいになったんだから、わたしもきっと立ち直るだろうって、希望を抱いているのです。彼らの憂き身を思うとわたしはわんわん泣き出してしまいそうになるのですが、わたしに何の大義名分があってそんなことが許されるでしょうか。すべては、わたしがくらげなせいです。

「あっ、くらげ。」

お兄ちゃんが不意に声を上げました。

くらげと言ったって、こんな砂浜のどこにくらげがいるのでしょう。それでも彼は立ち上がって近寄っていくので、わたしもやおら立ち上がってそれについて行きました。

「奈月、ほら、くらげ。」

そこに転がっていたのは薄汚れてふやけた物体でした。これが本当にくらげなのかしら。

「こっちがかさの部分だ。触ってみ。」

そう言って彼はそのでろでろをつつきます。わたしはおそるおそる真似してその物体をつついてみました。見たまんま、ぶよぶよして、腑抜けた感じで、これは痰壺の中に入っていても違和感ないでしょう。

気持ち悪い。そのうちにわたしは変な笑いがこみあげてきて、ついに堪えきれなくなってしまいました。

「わたし、くらげ嫌い。」

お兄ちゃんは「そっか」と笑いました。

「腹減ったな、帰ろうか。」

「うん。」

わたしはくらげをつまんで立ち上がり、波打ち際に放り投げてやりました。

流されるだけ、流されてしまえばいい。