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花束を持って

この俺が、花束を抱えて、休日の街を歩いていた。

花束を抱えた男が歩いているなんて、変な話じゃあないか。今日が卒業式や結婚式、祭りの祝い事の日なら不思議はないんだが、なんでもない休日なのだからむず痒くなるのだ。だけど、これは俺自身なんだから仕方がない。どうしてこんなことになったかと言えば、それは花束を買う心づもりになったから、もっと言えば、花屋の店先を通ったから、そういうことになるだろうよ。

もちろん俺だって、何の理由もなく花束を抱えていたわけじゃないさ、普段から花を手にして街を歩く頓珍漢でもない。それらしい理由はあった、今から恋人とデートだってんだ、こうすれば少しは言い訳が立つってものだが、それでもやっぱり変な話なのには変わりがないけれど。恋人の名前、芽理衣って言うんだが、俺の一つ年下で、すごくかわいいってほどではないかもしれないがな、お調子者だ。これ以上は説明したって仕方がないが、今日はそいつと会う予定なんだ。デートに行くって聞けばそれはそれはうきうき気分でいると思うだろう、ところがね、俺はさっきまで憂鬱だったのさ。アホな話だ、今日のデートに向けて芽理衣と打ち合わせの電話をしていた時、ちょっとした口論になっちまったんだ。ケンカってのは、原因それ自体はそこまで重要じゃなくて、売り言葉に買い言葉で、その先の台詞がまずかったことの方が多い。その晩も、一口に言いきってしまえばそういうことだったのさ。電話を切ってから「あーあ、しくじったなあ」なんて思ったけど、俺も男だ、すぐさま詫びの電話を入れるだなんてプライドが許さねえ、そんなわけで、今日に至るまでアイツとは口を利いていなかったのさ。自分でもアホだなあって思うけど、物事はタイミングが肝心なんだよ。

この通り、今朝になっても俺は憂鬱だった。俺の気分に引っ張られたみたいに、今日はバス会社もスト、信じられないね。待ち合わせの駅まで歩くしかなかったのさ。

そこに、花屋があるのは知っていたんだ。通り沿いに、バスの窓からいつも見ていたんだから、店構えにはしっかり見覚えがあった。花屋っていうと、どこも同じような店構えをしているものだ。つまりは、正面がガラス張りで、店先には鉢植えに立派な花が咲いたのがこれでもかと並べられていて、店の奥のガラス戸で閉じられた棚の中にはこれまたたくさんの花が種類ごとに収まっているんだ。床屋だってサテンだって本屋だって、こんな見てくれの店は他にない、誰がどう見てもここが花屋だって一発で分かっちまう。おれはそこを通りかかった時、「そうか、花か」と思って、どうしてか足を止めちまったんだ。世の中大概の男がそうであるように、俺だって花を買った経験なんてほとんど無かったさ。ばあちゃんの彼岸参りに花を買いに行ったことはあるけれど、花束にもTPOってのがあると聞く、そのシーズンには墓参り用の花束がズラッと並んでいるものだから、その中の一つを適当に選んで買うだけで良かったんだ。だから、そんなのは「花を買った」内に入るのか怪しいところだな。

店先の花を眺めながら俺はふと思っちまったんだ「花束、面白いな」って。俺が今日、両腕に花束を抱えて待ち合わせ場所に現れる。すると芽理衣、どんな顔するかな。驚くか、噴き出すか、呆れるか、そのどれかだと思うんだけど、一つ言えることは、花束が一つあるだけで、平凡な待ち合わせじゃ決して抱かない感情が湧いてくるだろうよってな。これは、面白い。芽理衣には、アイツの誕生日だって、何かの記念日だって、花を買ってやったことは一度もない。だからこそ、だよ。「サプライズ」なんて言ったら俗っぽくて冷めちまうが、これも一つの酔狂。そうしたらな、ちょうど店の奥から店員さんが現れたんだ。

花屋の店員さんといえば、やっぱり物静かそうな女の人だ。その人もそんな感じ。店先に突っ立ってる俺に「何かお探しですか」と尋ねた。それで俺は答えた。「花束を買いたいんだ。これから恋人に会いに行くんで、渡してやろうと思って。」そうしたら店員さん、にっこり笑いまして、「彼女さんのイメージに合わせてお作りしますよ」と言ってくれた。向こうがあんまり恥ずかしそうに言うんだから、俺も自分の立場を改めて考えてみて、堪らなくなってきた。それでも男たるもの、ここで退くわけにはいかねえさ。両腕で空を抱えてみせて「これくらいのサイズのを、明るい感じの色で。」って言ってやった。

店員さんは店内のガラス戸の中にある花をひょいひょい拾い上げていって、やがて一つの大きな花束を作ってみせた。茎の長さを園芸用のハサミで切り揃えてやってから、最後にピンク色の包装紙で綺麗に包んで、花束の完成。見事なものだ。俺はすっかり感心しちまって、会計を見た時には腰を抜かしそうになっちまった。花束って、高級イタ飯くらい高いんだな。

花束を持って街を歩いてみたら、明らかにいつもと違っていたのは、通る人みんながこっちに視線を向けてじいっと眺めてくるってことさ。男も女も、子供もおじいちゃんおばあちゃんも、みんなね。若い女ときたら、いつもは俺みたいなガラの悪い大男には決して目を合わすまいとするのに、今日だけは全然違ってる。そうしているうちに、俺もだんだん調子が良くなってきちまったみたいだ。足取り軽く、待ち合わせの駅までの道をずんずん歩いた。

一の坂の辺りで、通りの向こうから小さい女の子を連れたお母さんが歩いてきた。しっかり手をつないで、横に並んで歩調を合わせていたんだが、女の子が急に前へ飛び出した。もちろん、花束を抱えた俺をめがけてさ。お母さんは子供に引っ張られて、二人はたちまち俺の前までやってきた。女の子が花束の包装紙に手を触れる。お母さんはばつが悪そうに「すみません」と言って子供を引っ張っていこうとするんだけど、その子、俺の足元で動かなくなっちまって、俺も調子が良かったから、その場にしゃがんで女の子に花束の花を見せてやったんだ。

子供って、罪はないが、全くもって容赦のない生き物だよな。その女の子はお母さんを見上げて「ママこれほしい」って言うんだ。そうなった時のお母さんの気持ち、察するに余りある。もう顔から火が出てるんじゃないかってくらい真っ赤にして「マーちゃん!」って、おそらくその子の名前を叫ぶ。だけどそんなお母さんの気持ちなんて意に介さず、子供は自らの欲求を必死で訴える。周りを歩く人は何事かと視線を向けるし、お母さんはもっと顔を赤くするし、見ている俺の方が居たたまれなくなったよ。それで俺は女の子の頭をちょいちょいと撫でてやってさ、さすがに花束の全部はあげられないけど、その中から一番大きな花を一本、さっと抜き取ってその子のちいちゃい手に握らせてやった。女の子の視線は手に持った花に釘付け。俺は満足して立ち上がって、それ以上の言葉は要るまいね、ゆでだこみたいに赤くなったお母さんに軽く手を挙げて、それから俺の進む道に戻ったんだ。その時の大きな花は、疎い俺にだって分かる、太陽みたいなヒマワリさ。

変わったことは続くものだな。二子橋のところで、向こうから俺と歳の近そうな兄ちゃんがやってきた。きっちりかっちりスーツを着て、俺みたいなのとはてんでタイプが違うんだが、その人は俺の花束を見て、ハッとしたように声を掛けてきた。「なんだい」って尋ね返したら、花束のうちの一本を指さして「これは何という花か」と俺に訊くんだ。それはピンク色の花びらで、他と比べるとそんなに大きくない一本なんだが、あいにく、俺には名前が分からなかった。俺が首を横に振ってしまうと、兄ちゃんは肩を落とす。曰く、その花は先日亡くなったおばあちゃんが好きだった花で、一目見た時にそれを思い出したんだって。おばあちゃんは好んで飾っていたけれど、名前が分からなかったとさ。俺もおばあちゃん子だったからさ、兄ちゃんの気持ちが痛いほど分かるんだ。亡くなった人を弔うってのはさ、無機質な墓石の前でするよりは、生前を偲ばせる思い出の品を傍に置くのがいいよな。俺はその兄ちゃんの力になってやりたいと思ったけど、どうにもならなくて歯痒い。だけどいいことを思いついたんだ。俺はそのピンクの一本を抜き取って兄ちゃんに渡してやって、こう言った。「それを持って、名前を知っている人を探しなよ」って。その人は、はじめは少し戸惑っていたけれど、花を見ているうちに勇気が湧いてきたようだ。思い出の花を胸に抱えて意気揚々と歩き出したんだ。去り行く背中に俺は心の中で呼びかけた、おばあちゃんによろしくってさ。

三本神社の鳥居の前では、メガネのおじいちゃんに声を掛けられた。神社の石段から立ち上がって、俺の花束に釘付けになっている。レンズの奥の瞳が見つめるところを見れば、それはどうやら一本の花に向けられているようだった。俺は「何か珍しいものでもあるのかい」って訊いてやった。そうしたらおじいちゃん、目の色を変えてさ、「珍しいも何もあったもんじゃない」って声を裏返すんだ。その人が言うには「自分は植物の研究を続けて気付けば半世紀以上も経った枯れじじいだが、この一本は初めて見た」ってことなんだ。それは八重咲きの白い花で、俺には申し訳ないけど希少なものには見えなかった。だってそうだろ、花屋で売ってるってことは、園芸のビニールハウスで育てられた花だってことだ。深山幽谷に咲くのでも、絶海の孤島に咲くのでもない、園芸品種の花に初めて見るも何もないだろうに。ところがおじいちゃん、そんな話じゃないと訴える。曰く「この花は長年見てきたが、この一本だけは普通と違っている。花の裏にある何とか(聞いたけど俺には分からない)ってところが普通のとは違う作りになっている。もしかしたら噂にしか聞いていなかった万が一、億が一に生まれる稀有な特徴かもしれない」だってさ。きっとそれなりにすごいことなんだろうけど、それが芽理衣に渡す花束のうちで、どれだけ重要だろうかね。「ああはいそうですか」と聞き流そうとしたんだけど、おじいちゃんは俺の手を掴んで止めた。その一本を是非とも研究室で調べたいと言うんだ。代わりに家の庭に咲いているどんな花でもやるから、それを調べさせてくれってさ。悪いけど、俺はこれからデートの待ち合わせだ、寄り道なんかしていたら遅刻してしまう。俺はそう言って断ったんだけど、おじいちゃんはやっぱり食い下がる。その時に俺は、その人のメガネの奥にある目を見たのさ。半世紀以上、すごく長い年月だ。俺の今までの人生の、二倍以上はある。それだけの人生を一つのことに捧げてきて、それでも今日初めて新しい発見があったんだろうよ。世界ってのは、広いね。しわくちゃになるまで生きたおじいちゃんでも、すべてを知ることは無いんだ。俺はその神秘に殉じて、その一本をその人に差し出してやった、代わりの花は要らない。偉大なる科学の進歩?そんな大層なものじゃないね。俺はただ、そのおじいちゃんの熱意ってものにあてられちまったのよ。

不思議なことはそればかりじゃなかった。それから先の道でも、俺は通りすがりの様々な人に花束を見つけられ、その度に声を掛けられた。ドレスを着たマダムだとか、若い新婚夫婦だとか、花も恥じらう女学生だとか、犬を散歩させるおばあちゃんだとかにね。みんなそれぞれ、俺の花束のうちの一本を見て、それに縁の深いような話をする。そうすると俺は、最後にはそれを花束から抜き取ってその人に渡してやっていた。普段ならこれほどたくさんの人に話しかけられることも、俺が話を聞くことも、ほんのちょっとの気遣いをくれてやることも、あり得ないんだが、今日に限っては違った。すべての理由を一口に言うならば、俺が花束を抱えて歩いていたから、そういうことになるだろうさ。

十伍元町、いよいよ駅の近くになって、俺の花束はもう花束ではなくなっていた。今や、だぼだぼに余った包装紙の内にあるのは一本の赤いバラだけ。いつの間にこんなことになったのやら、もちろんその理由は俺自身が一番よく分かっているけれど、すべては成り行きというやつだ。これじゃあまりに不格好が過ぎるが、それでも、俺が芽理衣の前に花を持って現れたことなんて一度もないんだから、何もないのとは大違い。そう思って俺はこの一本を握り直した。

駅前通りで、路地の影から声を掛けられた。「それ持ってどこ行くつもりよ」。見れば女が一人、壁にもたれかかってこっちを見ている。明るく染めた髪を下ろして、ヒョウ柄の羽織とミニスカート、不相応に高いヒールの靴が目立つ。俺は質問に答えてやる義理もなかったんだが、一応、「駅で待っている恋人に会いに行く」って言ってやった。そうしたらその女、やっぱりねって顔して、フッとせせら笑った。「赤いバラ一本、いかにもって感じ。あんたみたいなのを見ると嫌気が差す」と言う。俺は言葉の節々に納得行かなかった。花束を抱えていていろいろな人に話しかけられたけど、こんな言葉を吐かれるのは初めてだ。そうでなくとも、通りすがりの男に毒を吐く時点で薄気味悪いし、そもそもこれはバラ一本じゃなくて、元々は大きな花束だったんだし。俺は無視してさっさと行ってしまおうとしたんだが、困ったことにこの女、後ろをついて来る。冗談じゃない。あれこれあって、約束の時間はもう過ぎちまったんだ、その上に、ケンカしたばかりの恋人が、別な女を連れて待ち合わせに現れた?これは、どう考えても破滅だ。俺は立ち止まって振り返り、その女に向かって何のつもりだって問いかけた。

「そのバラを受け取る彼女さんのツラを見物してやろうと思って」女は言う。「幸せいっぱい、ってなカップルは気に食わないわ。花は美しくてもね、枯れるものよ。」こいつが俺に突っかかってくる理由は一つ、俺がこの花を抱えているからだ。この女は花を持った男、それも赤いバラ一本を、それに何か因縁があると見える。それで俺は「何がそんなに気に食わないんだよ」と言った。

「アタシにもねえ、昔、そんな男がいたわ。デートに赤いバラを持ってくるようなヤツがね。最初は驚かされたわ。だってロマンチックじゃんね、そんなの?でも、アタシもバカねえ、そんなので熱を上げて、品もなくはしゃいだりして。花なんて抱えると、人はいやに上機嫌になって、大それたこともしてしまうものね。結局そいつ、アタシに飽いて別な女のところに行っちゃった。きっとその女にも赤いバラを渡してるんでしょうね。」

女はそのうちに自らの顔を覆った。それで俺には分かったんだ、ああ、こいつは相当、その男にくるってたんだってのがさ。芽理衣は俺のこと、どれくらい好きかは分からないけれど、こんな風にはさせまいと思った。俺は目の前で泣いている女の、ヒョウ柄の羽織の胸ポケットに、バラの花一本差してやった。「花は枯れるだろうけどさ、それで終わりじゃない。また新しく咲かせるんだ。誰に言われるでもなく、自分自身のために、美しい花をね。」この胸に差したバラみたいに、その女の心にも美しい花が咲いている、そんな気がしたんだ。

女は顔を上げた。「いいの、これ……?」俺は頷いた。「いいさ。『いつか』や『また』があったら、今度はもっと大きな花束を抱えて、俺はアイツに会いに行くんだ。」そいつはバラの花を手に取って眺めて、それから俺の方を向いた。「ありがとね。アンタと、彼女さん、うまくいくことを願ってるわ。きっと、そうなるでしょうね。」

とうとう無くなっちまった、俺の花束。今この手にあるのは、ピンク色の大仰な包装紙だけ。これだけ抱えていても、何のお笑いにもなりゃしない。いっそ捨ててしまおうとも思ったけれど、この包装紙もあの立派な花束の内の一部だと思うと、一思いにゴミ箱に突っ込んでしまうのが忍びなく思えた。こんなダサいなりでも、アイツに会いに行こう。そうしてでっかい包装紙を広げて見せたら、どんな顔するだろうな。

ところが、それすらもさせてもらえなくて。駅前のいつもの待ち合わせ場所に芽理衣の姿は無かった。待ち合わせの時はいっつも同じ場所だから、間違えようがない。僅かな希望に懸けて駅前の広場全部を歩き回ってみたけれど、どこにもアイツはいなかった。そりゃ仕方ないよ、待ち合わせの時間、とっくに過ぎてるもん。あれだけケンカして乱暴に電話を切って、その上当日の待ち合わせ時間になっても現れないとなれば、誰だって愛想が尽きる。今から電話したって手遅れだろうしな。諦めてさっさと逃げ帰るべきなのに、俺はそれすらも踏ん切りつかなくて、来ない人を待って駅前の広場に立ち尽くしていた。周りの男ときたら、それはそれはうきうき気分なのが目に見えるのに、俺一人は憂鬱だった。

帰ろう。やっと決意した時、遠くから聞き慣れた声が俺を呼んだ。芽理衣だ!

だけど俺は急にアイツに顔を向けるのがこわくなってしまった。だってそうだろう、のっぴきならない事情を抱えていて、気晴らしに抱えていた花束は今じゃ一枚のべろっとした包装紙。こんな姿で恋人とどう顔を合わせろっていうのさ。その声が息を切らしながら近付いてきても、俺はずっと俯いたままでいた。やがて俺の目の前で声が止まった時、荒い息のアイツに俺はピンク色の紙を突き出した。

「ほら、これ。お前にあげようと思ってたんだ。だけど、抱えてるうちに、どこか行っちゃった。だから、今は……」

「包装紙!ちょうどほしかったのよ!」芽理衣は黄色い声を上げた。俺が驚いて顔を上げると、芽理衣は瞳をきらきら輝かせていた。

「今日は不思議な日よ。来る途中に小さな女の子に会ってね、その子が持っていたお花をわたしにくれたの。そうしたら今日は、道行く人みんな手に手に花を持っていて、わたしを見て、それをくれるって言うの。そんなことが何度もあって、ここに来るまでにほら見て、こんなに立派な花束になっちゃった。抱えるのが大変ったらありゃしないわ。」