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枕問答

○……ねえ、進くん。

◆なんだい。

○ええと、その……

◆しりとりの続きならまた今度。今日はもう、たくさん疲れたからね。

○違うってば。……その、あれよ。質問、なんだけど。

◆答えにくいやつ?

○分からない。でもあたしは、今、訊かなきゃいけない気がして。今日を逃したらきっとあたしはずっとこれを胸に抱えたまんま先送りにし続けて、いつか、進くんの墓石に向かってこの質問をすることになると思う。

◆麻里ちゃんの方が長生きする前提なんだ。まあ、その方がいいかな。して、その質問とはいったい何?

○あたしを選んだこと、後悔してない?あたしには分からないのよ。進くんはどうしてあたしと……ねえ?

◆驚いたな、いやまったく。

○何が?

◆世の中の新婚夫婦というものは、結婚式のその日の夜に、枕を並べて、こういう質問をするものなの?

○知らないわよ。多分、違うと思うけど。

◆後悔、というものは「後から悔やむ」と書くのであって、今はまだ、「後から」って言えるほど時間が経ってないんだから、後悔というのは違うんじゃないかな。それに麻里ちゃんは「選んだ」と言ったけど、選ぶってのはいくつかの選択肢があって成立するものだから、この場合、選択肢は結婚相手に選ぶ他の女性のことを言っているんだろうけど、それなら、「選ぶ」は相応しい表現じゃなかったよ。

○めんどくさいなあ、国語の授業じゃないのよ。はっきりしてよ。……いいえ、今のは言い過ぎた。そうじゃなくてね、あたしが言いたいのは、昔のことを思えば、の話なの。

◆昔のこと?

○ほら、今日さ……正確にはもう「昨日」だけど、披露宴の途中で、中学の頃の同級生があたしたちのところに来たじゃない。それでほら、真衣子、分かる?同じクラスで、いつもあたしと一緒にいた。

◆ああ、あのピンクのドレスの、だっけ?

○そう。あの子、あたしに言ったじゃない。「あの頃のアレは大好きの裏返しだったワケね」って。あたしね、その瞬間、全部思い出したの。勿論、この二年の間、進くんとの昔の記憶を忘れたことはないけれど、特に話題にすることも無かったから、自分でも気付かないうちに心の引き出しの奥の方にしまっちゃってたんだわ。ううん、どちらかといえば、棚の後ろに落としちゃったものをずーっと放っておいた感じかな。とにかくよ、そうやってあたしが都合よく見えないところに追いやってたものを、あの子が全部ひっくり返して見せつけてきたの。つまりは、その……あたしがあの頃、進くんに相当ひどいことをしてたってこと。あたし、その時黙り込んだよね。何も言えなくて、愛想笑いも返せなくて。やられた、って思った。あたしがいつか訊こうと思ってたこと、いつか訊かなきゃいけなかったこと、この日まで先送りにしてたから、どうしようもないタイミングで第三者に言われちゃった。真衣子にそんなつもり無かったのは分かるけど、あたし、喉元にこう、ナイフをガッと突き付けられたような気持ちになって。テーブルの向こうに置いてあったウエディングケーキ用の馬鹿に長いケーキナイフが、とっても素敵な道具に見えたんだわ。

◆そうか、あの時、麻里ちゃんはそんないたたまれない思いをしてたんだ。気付かなかったよ。

○いいえ、同情してほしいんじゃないの。自分は被害者じゃないんだからさ。それで、あたしが黙り込んだままちょっと空気が悪くなった時に、進くん、代わりに言ったよね。「昔は昔だから」って。言ってくれたよね、ね?

◆そうだった、気もする。いや、はぐらかすことないな、ああ言ったよ。

○その場はそれで丸く収まったけど、その瞬間からあたし、ずっと奥にしまってた思いが一気に噴き出してきちゃって、本当言うと、その後の記憶が曖昧なの。職場の人とか、大学時代の友達と、他にもたくさん話したと思うんだけど、何一つはっきりと覚えてることはないのよ。ただ、あたしの頭の中にあったのは、一つのことだけ。真衣子の言葉で思い出させられた、昔の記憶。まるで、新婦席が磔の台にでもなったみたいだった。ねえ、あたし、大丈夫だったかな。

◆そんな風には見えなかったけどな。隣にいて、顔をあまり見ていなかったせいかもしれないけど。でも、人との接し方はいつもの麻里ちゃんだと思った。

○それはそれでショックね。あたしってば、この期に及んでうわべを取り繕うのだけは上手いってことだもん。

◆そう悪く思うことないよ。今日の主役は麻里ちゃんだったんだから、塞ぎ込んでしまってもみんなが困る。それだから、みんなのためにそうしていたと思えば悪いことでもないと思うけどね、僕は。ただ、全部終わってお義父さんたちとも別れた後、僕と二人きりになってからは、それらしく見えたな。朝から大忙しで疲れたのか、慣れない食事が胃にきてるのかなって、僕は思っていたけれど。

○確かにそうだった。それくらいからは記憶もはっきりしてるの。あたしも少し気丈になってきて、頭の中でぐるぐる回り続けていることを、このままにしておいちゃダメだって、ちゃんと訊かないとって思えてきた。それで家について、着替えてシャワーを浴びて、横になって、今に至るというわけ。それでさ、最初の質問に戻るけど、進くんは、どう思ってるの、あの頃のあたし、今のあたし。どうして昔自分にひどいことをした人と結婚したの?本当はこの結婚は、自分を貶めた女に対する壮大な復讐劇の一幕だったりするの?

◆質問が増えてるよ。何からどう答えていけばいいやら困ってるけど、真っ先に一つ、最後の質問だけは、自信を持って違うと答えるからね。僕は復讐に半生を捧げるほど執念深いやつじゃないから。どうだろう、ひとまずは安心してくれただろうか。

○……かえって、そうであったらあたしも納得できたと思うんだけど、違うのね。それじゃあなおのこと、他の質問に対する疑念を深めたわ。

◆そうだなあ。正直なところ、こんな質問を、しかも今日という日に限ってされたものだから、どう答えていいか、言葉の一つ一つにも迷っている。だって、ここで伝え方を間違えたら、突然の離婚で全部終わりになるかもしれないと思うと、怖いんだよ。

○そんなことないっての。むしろ、それを案じてるのはあたしの方なんだから。

◆うん。じゃあ、質問を質問で返すので悪いんだけど、逆に、訊かせてほしいことがあるんだ。これは僕も長いこと不思議に思っていて、ついぞ訊けた試しがないことなんだよ。つまりは、麻里ちゃんの方こそ、どうして僕と結婚しようと思ったのかってこと。それこそ、さっき言った「選ぶ」という立場にあったのは麻里ちゃんの方だと思うし、昔はあれほど嫌っていたはずの男を選ぶのこそ不思議に思えるんだけど、どうかな。真衣子さんみたいな感想が出るのも、もっともらしいことだよ。

○えー。

◆そんなめんどくさそうな声を出さないでよ。こっちだって、今日を逃したら二人揃って天国に着くまでは訊けないと思うからさ。

○違う、違うの。そういうつもりの「えー」じゃなくて、あたしも、答え方に困るからよ。あたしが思うに、よ、結婚の理由って一つじゃないでしょ。箇条書きのリストで表せるようなものでもなくて、覗く度に色が変わる、万華鏡みたいなものなの。だから下手に言葉にしてしまうと答えが一意に決まってしまうのが、嫌なの。だからこればっかりははっきりした答えはできない。だけどね、進くん、今のあたしは、進くんのこと嫌いじゃないよ。確かにあの頃は進くんのこと、嫌いだったよ。真衣子が言うみたいに大好きの裏返しじゃあない、絶対。それでも、あの頃と今とじゃあたしは違うのよ。「何が」って訊かれると困るけど、物事の考え方とか、価値観とか、いろいろ。あの頃のあたしはね、はっきり言ってクズ、くしゃくしゃに丸めてポイってしたくなるほどのクズ。特に不自由もない環境でぬるま湯に浸かってね、だから人の苦労なんて知りもしなかったんだ。目についた相手を笑いものにして愉悦に浸っても、何も咎められることが無かった。それがさ、世の中そんなに甘くないって気付いたのは大人になってからなの。仕事も生活も、何もかも自分で保っていかなくちゃならなくなった時、自分の不甲斐なさを思い知らされたんだわ。子供の頃は周りにいた人たちになんとなくちやほやされていい気になっていたけど、こうして一人きりに放り出されてみると、自分じゃ何にもできない。基本、何もないのよ、あたしには。夜、一人の部屋に帰って、テレビもつけずにぼんやりしていると昔のことが思い出されてくるのね。あの頃、あたしたちが散々いびり倒していたあの男の子は、それでも負けずに学校に来て自分の為すことを為すだけの強さがあった。きっと今頃は、あたしなんかよりずっと立派になってるだろうなあ――。そうしたらさ、たまたまその男の子に、会っちゃった。あたしの思ってた通りよ。いい学校出て、立派な仕事に就いて、相変わらず冴えない顔はしてるけどさ……ごめん、冗談。とにかく、すっかり見違えてた。あたしの持ってないものを全部持ってる。彼と話してたらね、おかしな話よ、あたしも頑張らなきゃなって思えてきて。そりゃ、今さら真面目にやったところでやれることはたかが知れてるだろうけど、それよりも、少なくとも卑屈に腐ってる場合じゃないなって思い直してさ。……きっと、人って、いつまでもその人のままじゃないんだね。顔や、名前や、根っこの部分にあるものは変わらないとしても、その先に伸びてる枝や葉はいつだって変わり得るものよ。毎年花を咲かせる桜の木だって、木は同じでも、咲く花は違ってるんだから。どうしようもないクズが、打ちのめされて、それでもまた前を向けるようになるの。何度だって変われるよ、人は。ねえ、聞いてる?寝てないよね?

◆失敬な、起きてるよ。

○ああよかった。二度とこんなこと言わないから。しかし分からないもんよね、人生は。あたしには過ぎた男の人が、こうして枕を並べて隣に寝てたりするの。

◆いや、全くその通り。

○さ、あたしの話はこれでおしまい。そろそろ答えを聞かせてよ。

◆うーん、本当を言うとね、僕はずっと戸惑っていたんだ。自分はこの人と一緒にいてよいものだろうかと。今の話を聞けば、それももっともなことだと思えるだろうけど、無論、その頃は麻里ちゃんの気持ちなんて知らなかったんだから無理もない。僕は非常に悩んでいた。今から二年前になるね、街でたまたま麻里ちゃんと出会ったのは。きっと、麻里ちゃんがそうだったように、僕も、その瞬間いろいろなことが思い出された。昔のことがね。誤解のないように言っておくけれど、僕だって、あの頃の麻里ちゃんは嫌いだったよ。ひどい目に遭わせてくる女の子を好きになっちゃうほど、マゾヒストな男ではないんだから。だから実際に、あの時もどぎまぎしたよ。化粧もしてずっと大人っぽくなった表情の奥にあの頃の悪意に満ちた目つきを思い出して、これはまた、何かとんでもないことをしでかされはしないだろうかと。ところがそれは杞憂だった。麻里ちゃんは人が変わったみたいだった。丸くなったというか、人が薄くなってしまった、そんな風で。詳しく話を聞けば、凡そさっき話してくれた通りのことが分かってきた。ありていに言えば、この人は人生に疲れたのだろう、下手をすれば、この人はこのままふらっと誰もいないどこか遠くへ消えてしまうんじゃないだろうか、誇張ではなくそう思ったんだよ、その時は。昔馴染みの何とやらだ、何かをしてやるでなくとも、少なくともこの人をこの世界に引き留めてやらなきゃいけない、そう使命じみたものを感じてね、連絡先を交換したわけだ。それから定期的に顔を合わせるようになって、出かけたりして、どちらかが言い出すまでもなく、あれは世間的には交際関係というやつだったのだと思うんだけど、そうしている間にも、麻里ちゃんと別れて一人帰り道を歩いていると、自分の中にぼんやりとした不安が浮かんできた。僕自身は、こうしていることに満足を覚えているが、それは麻里ちゃんにとってはどうだろうって。あの頃の麻里ちゃんを見ていると、しきりに昔の自分のことが思い出されたんだ。情けなくて、弱気で、自らを取り巻く世界に対してどことなく逃げ腰でいた自分がさ。そんな状況を変えるものは、それさえあれば、なんだって良かったりもするものだ。畢竟、打ちひしがれているこの人の気晴らしになるものは実はなんでもよくて、自分でなくても、もっと適任はいるだろうって不安が。仮にも僕は以前この人に最も嫌われていた人間であったし、このままだと、いつかこの人がすっかり立ち直ったら、自分のそれまでの愚かさに絶望してそれこそ別な世界へ旅立っていってしまうんじゃないかと、本気で思っていた。僕は凡そ、人の弱みに漬け込む悪漢だ。その一方で、僕のもう片方の心には「婚姻」の二文字が気の迷いのように浮かんできたりもする。もうどうしていいか分からなかったんだ、僕には。でもね麻里ちゃん、そう難しく考えることも、無かったんだよ。ねえ、いつか僕が一世一代の思いで「どうして自分を目の敵にするのか」って尋ねた時、麻里ちゃん、何て答えたか覚えてる?」

○えっと……ごめん、本当におぼえてない。ごめん。

◆いや、いいんだ。言った本人にとっては大したことない言葉の一つが、相手にとって何にも代え難い質量を持つことはよくあるから。そのときねえ、麻里ちゃんは「あたしの目の前にいるから」って言ったんだよ。

○うあー、言ったかも。本当にどうしようもない、今さら何を言っても遅いけど。

◆「目の前にいるから」これを聞いた時、敵わないなと思った。「目の前」というのは、麻里ちゃんのすぐ前の座席に僕がいたからというだけじゃなくて、社会の中で「たまたま」自分の目の前にいたからだと、そういう意味なんだ。だから敵わない。僕に何か悪い所があって、それが嫌われていたのだとしたら、誠実さはどうあれ、理屈としては十分だよ。だけどそうじゃなかったんだ。「たまたま」同じ学校の同じクラスにその男がいて、その時目の前にいたから嫌った。これは、真理だ。考えてもみてよ、普通、身の回りにいない人間を、好きになったり、嫌いになったりはしないだろう。好き嫌いの起こる原因の根本は、相手が自分の目の前にいるからだ。僕はその言葉を聞いてから、諦念ではないけれど、「まあこんなものか」と納得できてしまって、何につけても麻里ちゃんたちのされるがままだった。いいかい、これは十数年来で麻里ちゃんにばつが悪い思いをさせようとして言ったんじゃないんだ。この言葉が、今になって別な角度から別な意味合いを持って思えたから、敢えて昔の話をしたんだよ。

○それは、どういうことなの。

◆つまり、あれから随分時間が経って、もう一度僕の目の前に麻里ちゃんがいた、そういう話なんだ。話を繰り返す、僕はずっと悩んでいた。今の麻里ちゃんの隣にいるのが本当に自分でいいのかって。でもそれは悩むべきことなんかじゃなかったんだ。人を嫌いになる理由は目の前にいたから、それだけで十分なんだ。だったら、その逆だって同じだろう。この人を同じ世界に引き留めてやれる人間は他にもいる、だけど今、自分はこの人の目の前にいる。「たまたま」でも偶然の仕業でもなんでもいい、今目の前にいるのだから、その事実さえ大事にすれば、難しい理屈を述べることも、感情に訴えかけてそれらしく思わせることも必要ないはずだ。僕の肩の荷はすうっと降りて、それからやっと、前に進む覚悟ができたんだ。長い話になったけれど、言いたかったのはこれだ。だけどこれを一言で「目の前にいたから結婚した」なんて言ったら、今ここで離婚を宣言されるんじゃないかと気が気でなかったから、これほど長い前置きをして話したんだ。だいたい、分かってくれたかい。同じ内容を一言一句違わず話せる自信はないから、もう言わないよ。しかし人生は分からないものだね、かつて嫌いな人に言われた言葉が、時を経てその人とつながる勇気をくれたりもするんだ。

○……。

◆まさか、寝てしまった?

○起きてる。

◆ああよかった。なんだか一人芝居みたいになってすごく心細かったんだ。……さて、することがなくなった。キスでもしようか?

○今日はしたからもういい。今度からはいちいち訊かなくていいから。

◆ああ、そう。

○……。

◆……。

○……。

◆……いよいよ眠れなくなった。しりとりでもしよう。僕が最初ね。「しりとり」。

○離婚。

◆ウソだろ?

○バカね、冗談よ。あたしの負け、もう寝ましょ。

◆や、今のは昔の麻里ちゃんだった。