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写真部

写真は、いやらしいものだ。

目の前にある情景を無理くり四角いフレームの中に閉じ込める。三次元から、二次元への強制的な写像。押しつけがましい。さらに悪いことには、それでいて、事実をありのまま写したかのような精彩さを保っているのだから、見る者は「ああ、これだねえ」なんて小さなフレームの中の出来事をさも体験したかのように語り出す。フレームの中に入りきらなかった様々な現実は、誰の目にもつかないまま、気付かれないままひた隠しにされる。

肖像、これはもっといけない。被写体の姿かたちだけでなく、人間性までも、撮影者の意のままに、決まりきったあつらえ向きの様子で押し付けられる。醜い。許し難い悪。これはある種の暴力だ。写真が暴力なら写真家は悪人だ。静かな森の中で、狩人が、枝にとまる無垢の鳥に銃口を向け、引き金を引く。カメラのレンズを向けるということは、凡そこういうことなのだろう。そこに横たわる、もう飛ぶことはない、やがて死にゆく小さな生き物を見てしめしめ成功したぞとほくそ笑んでいる。いや、狩人はそれほど悪い者ではないかもしれない、だから、写真家の方が恐ろしい。

おれは、そうした悪人の一人なのだ。


それは市立美術館のある展示室の中での出来事だ。

展示室は白い壁を間接照明でほんのりと照らされて、そこには人の背丈を優に超える衝立が並び、それらは部屋の一周を一筆書きに巡る動線を描いて立っている。衝立には鋲で留められた額縁があって、そこに大判の写真を入れて飾られている。縦向き、横向き、黒い額縁、木肌の茶色い額縁、おそらくは偽物であろうが、表面が光沢を帯びたメッキらしい額縁、とまあいろいろあるわけだが、その額縁の多いこと、衝立のすべてに上から下まで整然と並んでいる。作品目録に振ってある通し番号ではナンバー二百くらいまであったから、数えてはいないけれど、きっとそうなのだろう。それぞれの額縁には写真が入れてある。一枚一枚違う写真で、被写体も、構図も、同じものはない。そのそれぞれをいちいち述べていく労力も無駄なのだが、例を挙げれば、それっぽいメッセージ性を持たせたくて撮られただろう、ぼかしの入った橋。旅の一幕だろうか、花畑と佇む少女。大空を泳ぐ無数の鯉のぼり。こんな具合である。まるで統一感のない展示空間だが、一つだけ全ての作品に共通する点がある。撮影者は市内の高校生、それも写真部員だということだ。だってこれは、市内高校写真部のコンクールなのだから。

こんなことを自らも写真部員であるおれが言ったらおかしなやつだと思われるだろうが、おれは土台、写真というものを信じていなかった。より正確に言えば、写真などというものは、こうして額縁に入れられてそれらしく展示されるべき代物ではないと思っている。そりゃあ、どっしり構えて写真を撮るのには、それ相応の道具が要ります。技術も、深い洞察も必要でしょう。でも写真は絵画ではない。彫刻でも、プロダクトでも、モニュメントでもない。ただその場に写真家という生き物がいて、パチリと一枚、正確には何百枚のうちの一枚なのだろうが、シャッターを切っただけだ。これはおれにもできるし、ともすれば野良猫にもできることだ。おれは、写真の芸術性というものを信じてなかったのだ。

中学生の頃は卓球部だった。それまでの経験は無かったが、なんとなく運動部の方がよいと思ったからそれを選んだ。情熱、そう呼ばれるものが無かったでもないが、大した結果を残すこともなく、すっかりやり終えて、もう卓球はいいや、そう思った。それで高校生になって入ったのが写真部。何の脈絡もありません。さっきの通り、写真に対する前向きでひたむきな思いなどは微塵もない。敢えて言うならこれも、今度は文化部がいいなと思って、ちょうど、家に父の持っていた一眼レフカメラがあったのでそいつを使ってやろうと思い立った、そういうことだったと思う。「と思う」なんて曖昧な言い方をするのは、これだけが理由のすべてだとは言い切る自信がないからだ。

そういった経緯で、写真部の自分。つまり、この場にもおれの作品がある。おびただしい数の、誰某という高校生が撮った写真、その中の一枚がおれの提出した写真だ。事実、おれが今立っているのは、他でもない、自分の写真の前だった。

桜並木、校門の内側から撮った、登校してくる生徒たち。少し袖が長いのはきっと新入生。題名は「春」。いやらしい、最高に馬鹿じゃあないか。この写真の舞台裏はといえば、写真コンクールに出すことをすっかり忘れていて、何一つ用意できなかった格好のつかない男が、間に合わせにその日の朝に校門へ飛び出て一枚パチリとやっただけだ。なんてあっけない。それでも、そのことを知っているのは同じ部活の仲間の啓二と美沙希、それだけ。こうして作品群の中に紛れてしまえば、どうしてなかなか、この稚拙さはバレないものである。どこの誰かは存じ上げませんが、中途半端に力んで、ご愁傷様。あなたの作品の隣にあるのは馬鹿が撮った間に合わせの一枚です。いいや、もしかすると、他にもそんな作品がいっぱいあるのかもしれない。だからおれの一枚だって、適当であることがバレないんだ。そう考えれば実に都合がいい。

おれの隣に立った男がいた。背が高い、百八十の後半はあって、視界が少し暗くなった気がした。

「その写真ですか。」男は言った。おれは話しかけられるとも思っていなくて、顔を上げていやにおどおどした。顎にひょろ長い髭を生やした男で、体格もその髭そっくり、袖口が擦り切れた薄茶のパーカーを一枚着ている。

「嫌ですねえ、急に話しかけたのは私だが、そんなに怯えなくてもよろしいじゃありませんか。決して、怪しい者ではありません。」

よく聞けば、かなり深みのある声をしている。

「どなたですか。」悪意はない、おれは単にこういうとき口下手なんだ。

「私は、名は大竹って者ですが。いいや、名前を言われても、困るだけですね。今のは少しだけ驕りです。ただまあ、そうだな、写真家、でございますよ。」

大竹、と名乗る男は、まだおれがぽかんとしているのを見てまごついている様子だった。そっちから話しかけてきたくせに、そんな態度を取られるとこちらも困る。

「それで、君が気に入ったのは、この写真ですか。」

大竹はおれの写真を指した。そうか、この男はおれがこの写真をいたく気に入って、食い入るように眺め続けていると思ったのか。

「これは僕が撮ったんです。」

言ってから、しまったと思った。大竹は「ほう」と言ってその写真をじっくり眺め出したのだ。これはいけない。大竹がどれほどの写真家かは知らないが、写真家だと大見得切って言えるような男に対しておれは自らの稚拙な一枚をおっぴろげにしてみせてしまった。別に、腕がないとか下手くそだとか言われるのは構わない。それは自覚している。嫌なのは、おれに自尊心があって、この一枚に絶対的な自負を抱いていると思われることだ。そうなりゃ、おれはどうしようもない。これだったら先刻の通り、下手な一枚にいたく感動して釘付けになっている設定の方が良かったな。大竹は額縁に顔を近付けたり、上体を後ろに反らして遠くから眺めてみたり、いろいろ繰り返して次のように言った。

「ふふ。いや、この笑いは、悪く思わないでください。私は今、羨ましいと思ったんですよ。こういう一枚は、私には撮れない。直感的で、何というか、ストレート剛速球。こうして意地汚く悪行を積み重ねてきた者には、もう二度と、こんな一枚は撮れません。ですから、これは干からびた中年の世迷い言だと思ってください、どうかそうしてください。君の写真は、どうも、欲がない。水が上から下へ流れる、それに身を任せたまま撮った一枚、そのように思える。いいえ、悪いことではないのかもしれません。ですが、写真としては物足りない、そう言えるでしょうねえ。」

不本意だ。おれは何の情熱も抱いていない。だからこそ、それを言いあてられてしまったみたいで口惜しい。途端に何か言い返してやりたくなった。

「じゃあ、写真家のあなたはきっと、欲深いですね。」

大竹は苦々しく笑った。

「そうなのです。本当なら私にはカメラ以外は何物も、食事の箸でさえ持たせてはならない。いいえ、本当はカメラこそ持たせてはならぬ人間なのです。」

「それじゃあ意味がないでしょう。」

「そうですね。やっぱり私は写真家なのです。……失敬しました。あなたはやさしい、きっといい写真が撮れますよ。」

それ以上は何も言わずに大竹はおれの目の前から姿を消した。全く分からない、ひょろ長の自称写真家ときたら、言いたいだけ言って、帰りやがった。他には誰にも話しかける様子はないじゃないか。なんだかおれだけ、貧乏くじを掴まされたみたいだ。

大竹の立っていた空間を呆然と見つめるおれに次に声を掛けてきたのは、見知った二人だった。

「シロー、どうした?」

啓二。おれの友達。一番よく話すし、遊ぶ。

「今の人、知り合い?」

美沙希。おれの友達。異性交遊の少ないおれとしては、消極的に数えた時に一番仲がいい女子。

二人は俺と同じ写真部で、今日はこうして、自分たちが出展したコンクールの展示を見に来ているのだ。

「別に大したことないよ」へらへら笑顔でそう言った。大したことである。見ず知らずの男にわけの分からないまま言いたい放題言われて逃げられたんだ。これが異常事態でなくて何か。でもこの話を事細かに二人に話したところで、この俺の胸を突かれたような思いは伝わらないのだから、言っても仕方ない。

「少し話しただけなんだ。写真家だって、言ってたけど。」

「へえ、名前は?」

「大竹……下の名前は分からない。」

「大竹……」啓二は呟いた。でもその場の誰もピンとくる様子は無かった。

「何を話したの」と美沙希が問う。「だから、大したことは無いんだ」と繰り返した。本当はあの男の言葉を、一言一句違わず返すこともできただろうが、それはしなかった。それじゃまるでおれがありがたがって拝聴したみたいだ。それでも、人との会話を「大したことない」で終わらせるのは実に不自然で、美沙希は「ははん、旦那、何か深いことを言われたのでございましょ?」と眉を鋭くして笑った。美沙希はことあるごとにこんな喋り方になる。相手の男子を「旦那」って呼ぶから、おれは「旦那モード」と呼んでいる。

「そろそろ帰ろうか?」

啓二は言った。携帯を開いてみれば、ここへ来てからもう一時間は経っている。美術館ってのは時間の進み方が外とは違うみたいだ。だけど足の疲れだけはここへ来てからの時間を律儀に覚えているみたいで、おれも美沙希も、こくりと頷いて出口に向かった。

俺たちは美術館の外に出て正面広場を歩いた。美術館は建物それ自体が象徴的なつくりをしているものだ。この市立美術館だって、壁の表面を自然の石造りっぽく見せて、それでいていくつもの矩形が積み重なった外観をしている。子供の積み木を乱雑に組み上げたみたいだ。出っ張ってるところを押して引っ込めたくなる。そんな馬鹿げたことを考えているおれを意に介さず、二人は少し前をてくてく歩いている。

啓二と美沙希は付き合っている。曰く、小学生の頃から続いているそうだ。つまりおれが二人と知り合った中学の頃にはもう既にこの関係にあったということになるが、今思えばそれらしい言動はあるのだけれど、その当時は入学以来半年間、本人たちの口から聞かされるまで、全く気付かなかった。これはおれが鈍男なんじゃない、二人の関係があまりに自然で、昔馴染みが仲良くしているようにしか見えないからだ。高校生となった今だってその様子は変わらない。仲のいい友達、みたいにして話している姿はある意味じゃ堂々としてるとも言えるが、別段深く恋愛感情を意識しているようにも見えないのだ。周りに冷やかされればまんざらでもない顔してはにかんだりするけれども、次の瞬間にはけろっとしている。お互いが他の異性と仲良さげに話していても、嫉妬だなんて卑しい感情は抱かないのだろう。二人が付き合ってるのを知らないで啓二が他の女子に告白された時なんか美沙希はのほほんとして、そのことをお笑い種にするおれをデリカシーがないとたしなめた。

周りの男子は啓二に「アレは済ませたか」と下世話な話題を振る。当の本人はのらりくらり躱すけれど、傍で聞いてるおれは正直そいつらをぶん殴ってやりたい。世の中に交際関係の形はいくつもあるけれど、この二人においては、そのどれとも違っている。自然である。日本語には他にいい言葉がないから「恋人」と形容しているだけであって、二人のそれを前にすれば、俗世のどんな男女関係だって、醜悪で奇怪なものにしか見えてこない。おれは生まれてこの方彼女という存在がいたことはないけれど、いつだって恋愛の理想は啓二と美沙希、この二人だ。

馬鹿だなあ、おれは石畳の隙間から生えている雑草を蹴った。すぐにそれらしく考え込むのが悪い癖だ。こんな話、本人たちには聞かせられたものじゃない。おれは少々の歩調の遅れを取り戻して、すっかり平生を決め込むことにした。二人と他愛のない会話をしてバスを待つ。こうすると自分も真人間にしか見えない。それでも、バスに乗り込んで沈黙がおれたちを包むようになると、またしても深刻なベールがおれを包んで、大竹という男にかけられた言葉を繰り返し繰り返し暗唱させてしまうのである。


写真部は、基本浮草だ。

人数はそれなりに多くいる。男子より女子の方が多め。昔の校舎が今は部室棟になって、そこの一室が活動場所。ところが、基本何もしない。活動は火曜と木曜の週二回と定まっているけれど、それすら集まらない。わざわざ集まってやるほどのことが無いのだ。写真撮影は主に個人活動、年に数回コンクールに写真を出す、ときどき校内展示をやる。あとは文化祭。これじゃあ週二回も集まる必要なんかない。それぞれのイベントが直前に迫ったら必要なことをやればいい。早い話が、写真部は帰宅部だ。

そんな半・帰宅部にも大事な活動がある。学校行事の写真撮影を行うことだ。なんてことはない全校集会の表彰式から、球技大会、校内合唱コンクール、文化祭と、行事は様々あるが、そんな折にカメラを持ってあちらこちらへ走り回るのがおれたちの仕事。一応大きな行事の時はプロの写真屋さんを雇っているのだから、アマチュア以下のみそっかすには出る幕がないのかもしれない。だけどこれ以上写真部の存在意義を減らしたらそれこそ、部活動としてのアイデンティティが損なわれる。それよりも単純に、おれはこの業務的な活動を愛しているところがあった。

写真と一口に言っても、何を撮るか、何で撮るか、分野は千差万別だ。カメラを持っていて、撮りたいものがある。それで写真撮影は成立する。それは同じ部活に所属するおれたちにも当てはまることで、それぞれの専門が違った。啓二は元はと言えば撮り鉄。父親の影響ともいえる趣味で、カメラだってそのために手に入れたものらしい。話を聞く限りかなりハードだ。まだ太陽の登らないうちに起きて、始発で出かけては、田舎の小さな駅で降りる。そこから事前に目星をつけた撮影地点に張り込んで、お目当ての列車が来るまで何時間でも待ち続けるのだそうだ。雪景色が映えるんだって、真冬に敢行することもあるとか。それはもう写真撮影というより修行のようだが、「キツいのなんの」と話す啓二はそのようには見えない。美沙希は打って変わって風景全般。日常の中で見つけた小さな一コマ、撮影旅行で撮った壮大な一枚、もみじの一枚を撮って作品にしていたこともある。そこには美沙希なりの美学があり、純真なのだと思う。「そんな高尚なものじゃございませんよ」と「旦那モード」の美沙希は言うけれど。

おれには二人みたいな我慢強さも美学もない。ただ、人を撮るのは気に入っていた。ポートレートではなく、活動しているみんなの姿を。おれが学校行事の撮影係を愛していたというのもこのためだ。普段は活動してるんだかしてないんだか分からない帰宅部もどきの者が、この日だけは偉そうに大きなカメラ提げて校内を忙しく駆け回る。そうしてまん丸いレンズをみんなに向けて、特別な一日の中で特別な時間を過ごす少年少女たちを捉える。やはり、写真というものに芸術性はない。ただこうして日々の記録を付けて、これからずっと先に、少しでも鮮明に在りし日を思い出せるような、そんな呼び水を集める。馬鹿に改まって言えば、この日ばかりは自分が「写真部」でいられた。

ところが、そううまくいかないこともあって。

これは初夏の球技大会の日のこと。球技大会はその名の通り、一日かけて、チーム競技の球技をみんなやる。バレー、バスケ、ドッジボールはもちろんのこと、サッカー、ハンドボール、午後にやるソフトボールなんかは花形。おれは出場登録はそこそこに、例の如くカメラを持って、思わぬ方向からとんでくるボールには警戒しつつ、自分の学年を中心に揃いのクラスTシャツを着たみんなをパシャパシャやっていた。空は気持ちよく晴れて、これは写真を撮るのに良かった。

写真部員は目立つように左腕に腕章をつけているからすぐに見分けられるのだが、そうでなくても、同級生や他の知り合いはおれが写真部であることを知っているので、「おいこっち撮れよ」なんて調子で元気にピースサインなど向けてくる。開会式から一時間くらい立って、体育館もグラウンドも熱気に包まれる頃にはおれもいつになく調子付いて、気の向くまま、あっちでパチリ、こっちでパチリ、普段はほとんど言葉を交わさないようなちょっとした顔馴染みにだって、合図を送ってこっちへ振り向かせようとする。素面のおれなら凡そ考えつかないことだ、きっと熱に浮かされているのだ。

グラウンドではサッカーの試合が続いている。うちの学年の試合をしているコートでは、学級の別なく活発な声援が飛び交っているようだ。白黒のボールがあっちへこっちへ行く様子を見てきゃーきゃー声を上げるというのは、冷静に考えればおかしな話ですが。おれは持っているカメラを胸元まで下げて、次の被写体を探していた。ここからごった返す観客席を望遠レンズで捉えてみるのも悪くない。圧縮効果、というやつでより人が密集して見えるのがよいのだ。そのうちに、そばを通る女子が目についた。同じクラスの星野さんだ。いつも長い髪を下ろしているのを、今日は編み込みにして後ろで団子にしている。それほど仲がいいというわけではないが、今日のおれはどこかネジが抜けているので、「星野さん!」てひょうきんな声を上げてカメラを向けた。

「こっち見て、こっち。」

星野さんははにかみ笑いして、ぷいっとそっぽを向いて顔を手で隠した。

「やーよ、シローくん。」

「なんでさ、はいチーズ。」おれはファインダーを覗き込んだ。

「ダメ、ダメ、あたし。」

「なんでえ?」間抜けな声だが、これは純粋な疑問。

「なんでって、あたし太ったからあ。」

星野さんは尚もカメラを向けるおれから顔を背ける。太ったから撮られたくないとのことだが、おれは、先刻星野さんが他の女子たちに混ざって笑顔で写真を撮られていたのを知っている。不可解なことだ。おれはその一言で醒めてしまって、「そうか」と言ってカメラを下ろした。すると星野さんは安堵したようにもとに立ち返って、「じゃーね」って手を振って向こうの女子集団に混ざりに行った。結局、おれは一枚たりともシャッターを切ることがなかった。

こんなことはさして珍しくもない。経験上、女子の一定数はカメラを向けられると恥ずかしがるのを知っている。ことに被写体が一人だけとなると、途端に逃げるように画角の外へそそくさ消えてしまうのもいる。これは撮影する側からすればひどく興醒めする。おれみたいなのは、普段は女子に対して雄弁でも開けっ広げでも何でもない、むしろ真逆だ。言葉の間に「えと」「あの」が増えて、そうしてお決まりのへらへらをする。だから、女子にカメラを向けるおれは、おれの中でも最上級に社交的で快活なものなのだが、こうも逃げられてしまうと、一気にしょげる。いつものおれに戻って、またへらへら。これは非常に間が悪い。

周りからすれば、おれはカメラを持って一人、所在なさげに佇んでいたと見えた。そのうちに、神木たち三人組が向こうから寄ってきて、おれににやにやと嫌な味のする笑い顔を見せてきた。

「どうだ、盗撮は?」ひどい言いがかり。今は写真部の腕章をつけているのだ。むしろ、普段よりも大義名分を手にしていると言っていい。おれは怪訝な顔して「うるせーや」とぶっきらぼうに吐き捨てた。

「星野の写真撮れたか?どれ、見せてみろ。」

「撮ってないよ。」

「いいや、またまたあ。ずるいぞシロー。写真部の特権だな。お前、そのために写真部やってるんじゃねえの?」

「どういう意味だよそれは。」

「隠さなくたっていいのに。」

神木たちの言い方は一向に要領を得ない。おれはもう一度「どういう意味だ」って繰り返したら、神木は「だからあ」とお得意のニヤニヤ顔。

「シローくんはそうやって、写真部の立場を利用して、女子の写真を集めているわけだ。そうして夜な夜な、ベッドで、使うわけですな。」

おれはすっとんきょうな声を上げた。

「馬鹿言え、お前らなあ、写真部を、一体なんだと思ってんだ。学校行事で撮った写真は、顧問の柴センにだって提出するんだ、そんないかがわしいのを撮るわけないだろうが。欲にまみれて写真を撮る者があるかっての。」

おれの饒舌な反論にあいつらは笑い声で応えて、それからまた歩いて行ってしまった。

非常に気分を害した。誓っておれは潔癖だったのである。

人間の自然な情動がある。男と女の間のそれだって、当然のものである。確かにおれだって、その時分、男が自らの慰みに身の回りの異性、ことに同級生の女子などを心の内にはけ口にすることがままあると知っている。心苦しいことだが、おれだって事に及んで知っている者の顔を、身体を、想像したことはあるのだ。だが、神にでも何にでも誓って、当人が写った写真を見ながらなどはしたことがない。想像の内に留めるのと、写真とでは、まるで違う。例えデータの集合体であったとしても、自らの脳が一目見てその人だと認識する写真という媒体、それを使ってするとは、悪魔にも劣る見下げた行為だと思う。まして、おれ自身が撮影した写真でそのような行為に及ぶのは、考えだってしなかったことだ。おぞましい。至極当然のように鬼畜に成り下がる、そういった者と同じ空間にいるのすら堪えられない気がした。だが、その時にもう、おれは後戻りできなくなっていたのだ。

一度聞いてしまった話は、忘れられない。この耳を引きちぎっても、頭の奥まで入り込んでしまったから、取り出せない。おれは途端に、今自分がこの手に握っている黒い機械が人道に反する兵器のように思えてきた。おれがグラウンドのへりをとぼとぼ歩いていたところ、声を掛けられた。啓二だ。うちのクラスのTシャツを着て、腕章をつけて、カメラを提げている。それは今のおれの格好とほとんど同じだった。

「あっついな、今日は。」

啓二はおれに語りかけた。カメラのストラップを提げたうなじのところに汗が滲んでいる。

「ああ。」

「さっきまで体育館にいたんだ。うちのクラスのチームがやってて、みんなで応援してたんだ。」

「撮れたか。」

「やっぱり屋内は明るさの調節が厳しい。後で体育館の二階から撮りに行ってみないか。」

「そうだな。」

これは、あまり会話になっていない。するとそこへ、少し離れたところから俺たちの名前を呼ぶ者があった。美沙希だった。

「啓二、シロー、こっち!」

カメラを向けながら手を振って振り向かせようとしている。おれたちはそれらしいポーズもしないまま、目線だけやってしばらく立っていた。そのうちに啓二は「よし、お返しだ。」と美沙希にカメラを向けて一枚撮った。二人してカメラを向け合って、少し変だ。おれはやらなかった。美沙希は写真を撮り終わったと見えて、ひょこひょことおれたちの前まで近付いた。いつもは後ろで結んで下げている髪を、団子にしている。今日は団子が流行っているらしい。こういう特別な日には、クラスの女子は髪型を示し合わせるものなのだ。

「あっついね、今日は。」

二人して同じことを言っている。おれは笑みがこぼれた。

「シロー、撮ってる?」

「まあ……いや、あんまり。」

「ああ、ちょっと砂被ってるね。拭いた方がいいよ。レンズ拭き持ってる?」

レンズ拭きの布はカメラのケースに入っているのだが、教室に置いてきた。おれの様子を見て察したようで、美沙希はポケットから薄ピンクのを出して手渡してきた。

「グラウンドは砂埃が舞ってるからね。午後はちゃんと持ってきなよ。レンズもね、撮らない時はこまめにキャップを被せた方がいいよ。」

「ああ、そうだな。」

美沙希の言う通り、おれのカメラは細かい砂埃を浴びて、黒いボディが少々黄ばんで見えるほど。気付くと掃除してやりたくなるけれど、美沙希に借りたものでやるのは忍びないからレンズだけ拭いてすぐさまキャップを閉めた。おれが「ありがとう」と布を返すと、美沙希は手を出して「ん、三百円。」と言った。高いよ。おれは一度ポケットに手を突っ込んで、小銭を掴んだフリをして美沙希の手にポンと置いてやった。美沙希の手はいつもおれのよりちょっとだけあったかい。それでやっと満足して、「まいどあり」と微笑んだ。

「啓二、委員会の仕事は?」

「お、そろそろだな。行かなきゃ。」

啓二は大会の運営委員をやっていた。球技大会の運営委員は忙しいと聞いている。啓二に至っては写真部の活動とダブルで追われているから、大変だ。

「お前たちも気が向いたら本部テントに来るといいよ。ここだけの話、あそこにはクーラーボックスが置いてある。」

「え、ホント?行く行く。」この暑さだ、美沙希の感激した声も頷ける。

「本当は先生用だけどな。それじゃ、またあとで。」

そう言って啓二は本部テントに向かって足早に歩いていった。そのあとで二人残されて、おれは何を言うでもなく、美沙希の顔を見た。頬が火照っている。今すぐにでも本部テントに遊びに行った方がいいんじゃないか。おれが言い出したら、素直について来ると思う。でもその提案をするより先に美沙希が「そうだそうだ」と思い出したように話を切り出した。

「ちょいと旦那、あてくしの頼まれごとを引き受けてくりゃしませんか?」

「ん、何。」

「昼休みになったら、みんなのメモリーカード集めてくれる?全員分じゃなくていいや、うちの学年分。女子の分はあたしがやるから、男子の分お願い。」

頼まれごととは写真部の仕事か。美沙希は部長である。それでもって、おれが副部長。美沙希が部長になったのは、顧問の柴センに真面目なところを買われていて、やりませんかと直接提案されたからだ。副部長の方は誰でも良かったのだが、女子が部長だから男子の方がいいだろうってことで、こうなりゃ誰だって、組み合わせとして一番「それらしい」啓二が推薦されたのだが、そうしたら啓二は「こういうのはお前が良い」っておれを指名した。これは単なる押し付けではなかった。付き合ってる二人が部長と副部長になったら、周りは二人の間に水を差すまいとして、そっとしておきたがる。そうしたら美沙希の方でも周りに頼みづらくなって、一人で抱えることになってしまうだろうから、こういう時はおれじゃない方がいいんだって、後になっておれに説明してくれた。なるほど、うまい考えだ。こういうことに一瞬で気が回るから、啓二はよくできている。一番手っ取り早かったからシローに頼んじまった、と笑って謝られたけれど、全く悪い気はしない。啓二がいいと思ったのだから、この選択も間違っちゃいない。

おれは美沙希の頼みに「お安い御用だけど、」と答えた。

「メモリーカードを回収しちゃったら、午後の撮影に困るんじゃないか?」

メモリーカードが挿さってないデジタルカメラは、フィルムの入ってないフィルムカメラと同じだ。

「それがねえ、今年は閉会式で、即席のスライドショーを上映するんだって。だから午前のうちに撮った写真は先に取り込んでおきたいんだってさ。だからあたしが昼休みのうちにみんなのメモリーカードからデータをコピーして、それで午後の試合が始まる前に返すの。」

「全員分移してたら時間かかるんじゃないか。弁当はどうするんだよ。」

「あたしは部室で、かなあ。作業しながらでも食べられるし。シローはカード集めてきてくれるだけでいいから。啓二は委員会で忙しいから頼めないんだ、お願い。」

「ああ、分かったよ。」

「ありがと。じゃ、部室まで届けに来てね。」

ちょうど会話が途切れた時、美沙希は女子数名に呼ばれてそっちへ引かれていった。また一人になったおれは再びカメラの電源を入れて、撮影を再開した。けれども、誰かを撮るでもなく、コートで繰り広げられる試合の模様をなんとなく写真に収めるだけだった。


昼休み。全員が一度教室に引っ込んで、三々五々になってぼちぼち弁当の包みを広げた頃、おれは言われた通り、男子の写真部員を探してメモリーカードを回収して回った。昼休みってのはだいたい、集まるメンバーと場所とが固定化している。写真部の面々とはよく話すので、各々がどの場所にいるかは知っていたから、通い慣れたスーパーで買い物をする感覚に近い。

おれは集めたメモリーカードをケースにしまって部室棟へ向かった。カードケースの他に、自分のカメラと、もう一つだけ荷物を抱えて。部室棟は人の気配が無い。静寂の中に、向こうの校舎から談笑の声が、全員分集まった一塊の音になって響いている。写真部室は二階にあって、明かりのついていない廊下の突き当たって左側にある。扉のガラス窓から中を覗くと、部室に一台ある共用パソコンに美沙希が向かっているのが見えた。それ以外は誰もいない。明かりもつけずに作業している。これだけでも十分に異様なのに、その上美沙希は例のTシャツ姿だ。これじゃあ、禅の茶室の真ん中に、人の背丈のクリスマスツリーを飾ったみたい。おれが覗き魔よろしく扉の外からじっと見つめているのに美沙希は気付かない。おれの方も、そのまま黙って入ればいいのに、わざわざ仰々しく扉を叩いてみせた。立て付けの悪くなった引き戸は触れただけでガタガタ鳴る。

「お届け物でーす。」配達屋のつもりである。馬鹿馬鹿しい。

「あ」って言って美沙希は立ち上がり、扉を開けて出迎えた。

「はいこれ、メモリーカード。」

「いやー、悪いねえ、旦那。」

「悪いねえ、旦那。」これは、悪くない響きだと思う。この労いを聴くためだったら、メモリーカードの数枚と言わず、百枚でも、集めてこようと思える。

「返すのはあたしがやっとくから。」美沙希はケースを受け取った。

おれは、黙って立っていた。美沙希の方もそうしていた。向こうは、おれが、届け物を渡したならそのまま校舎に戻っていくと思ってたんだろう。だから不思議に思っている。おれの方は、困っている。扉を叩いて配達屋の真似事などしてしまったばっかりに、部屋の入口の前に人が立っていて、それ以上踏み入ることができない。途方に暮れた。美沙希の方から何か言ってくれればこの状況が崩れるのに、頑として動かない。おれはとうとう折れた。メモリーカードのケースと反対の手に持っていた、弁当の包みを胸の高さに掲げた。

「食っていって、いい?」

「お弁当、持ってきたの?」

おれが頷く。美沙希はそれでおれの意図を察した。

「いいのに。あたしは一人でも構わないってえ。気にしないでよ、それにここ、掃除しないから埃っぽいしね。」

「でも、ダメじゃないだろ。」

「そりゃ、もちろん。……悪いねえ、旦那、何もないところですが、お上がりくださいまし。」

美沙希は横に避けて道を空けた。「悪いねえ、旦那。」二回聞けた、これで、満足。

写真部室は教室の半分、それより小さい。部室棟に改修する時に壁を増やしたからだ。「それより小さい」というのは写真部だけ。それにはわけがある。部室にあるのは、共用パソコンとプリンター、共用カメラ、メモリーカード、長机と椅子、プリントした過去の作品群、書類の類、本棚にはかなり古いらしい写真関係の雑誌。柴センが顧問になる前からあったらしいから、今や出処が不明。そうして、廊下側の一画にあるのが暗室。写真部が他の部室よりさらに狭い理由。重々しい金属の扉一枚の他は、開口部が全くない作りをしている。フィルムカメラが主流の時代には使うこともあったのだろうが、現像まで自分でやってしまうほどのマニアがこの部室を使っていたかは疑問だ。当然、今は全く使われていない。

おれは作業に戻る美沙希を正面に見る席に座って、机にカメラと弁当の包みを置いた。

「ちゃっちゃと終わらせちゃうからね。」美沙希は画面に向き直った。

おれはいそいそと弁当を広げた。こうなるに決まっていた。部室で美沙希の作業に付き合って昼休みを過ごす、そう考えたまではいいものの、パソコンの作業は一人でやるものだし、それをやっている間は視線を画面に向けたままなのだから、もう一人の出る幕はまるでない。こうやって置物みたいに相手を見守る他は何もできない。勝手に弁当を食べ出すなどしたら、これはもっと馬鹿だ。おれは、全くと言っていいほど、いる意味のない人間だ。

美沙希の弁当箱は開いてあるけれど、ほとんど箸を付けた形跡がない。作業しながら食べられるとは言ったが、それほど片手間な作業でもなかったらしい。おれも、弁当には手を付けないで、苦し紛れに水筒だけちびちびやって、作業を見守っていた。お酒を月見で一杯、そんな感じ。誰がどう見てもアホでしょう、これは。

昼休みも残り十五分を切ったところ、美沙希は急に両腕掲げて「はい、終わり!」と一声上げた。

「お疲れさん。」

「あーお腹空いた!ごはん、ごはん!」くるりと椅子を回して弁当に向かう。助かった、これでおれも食べ始められる。見栄は一人前に張れても、やはり腹は減るものだ。二人してそれぞれの弁当に向かった。

「試合、どうだった?」美沙希は問いかける。

「ダメだ、全然。六組のやつら、強かった。ずるいよな、あっちはバスケの『プロ』が三人もいるんだ。こっちのおままごとなんか敵わない。」

「でも頑張ってたじゃん。」

そりゃそうだ、美沙希だって試合を見て、結果を知ってて訊いたんだ。やけに卑屈になって自己弁護したのがすっかり裏目に出てしまう。

「卓球が種目にあればよかったのにねえ。」

「卓球?あんなのダメだ。」

「でも球技でしょ。そうしたらシロー、優勝だ。」

「無理無理、卓球にも『プロ』がいるだろ、こっちはリタイア組。これで歯が立たなかったら、なまじ未経験者より立場が悪い。」

「そう?案外いけるかもよ。」

ダメなのは分かっている。三年間やっても大して強くなれなかったんだから。部活内でも負けてばっかり。後輩相手でも負けるって分かってたから、うまいこと試合でぶつからないように躱してきたんだ。そんな腰抜け野郎に勝てるわけがない。美沙希も啓二も、そこんところ知らないのだ。これ以上卑屈を言っても仕方ないから、おれは押し黙った。

黙々と飯を食っていたら、午前中のことが思い出されてきた。星野さんに避けられたこと、他の女子にも。神木たちのニヤニヤ。すると、あの時とは違う考えが浮かんできた。星野さんは「太ったから撮られたくない」と笑っていたけれど、それは嘘だ。他の女子も恥ずかしがるけれど、それだけが理由じゃない。重要なのは「誰に撮られるか」ということ。おれが撮ろうとすると避ける。じゃあ他は?プロの写真屋さん、美沙希、啓二……。そのそれぞれのケースを覚えているわけじゃないけれど、他の人だとよくて、おれだとダメな時がある。おれが嫌われているんだと考えることもできるが、そういうわけでもないだろう。だとすると理由は他にある。そこでまた、神木たちが出しゃばってくる。男の中でままある行為、それを女子が知っていたとしたら?カメラを向けられることを躊躇う理由が、自らを写した写真の行く末を案じているからだとしたら……?おれのカメラを避けた女子はみんな、そう思っているのだろうか。

考えたくない。おれはさっきまであれほど腹を空かせていたのも忘れて、箸を置いてしまった。そうして手持ち無沙汰になった両腕を机にどかっと乗せた。美沙希は知らん顔して食べ続けている。

机の上にカメラがあった。おれのカメラ、貴重品だから常に持ち歩いている。美沙希は真っ先にデータを取り込んで、すぐにメモリーカードを返してくれた。だからこのカメラは写真を撮れる。

おれの意志の弱いこと、この時ふと、自らの胸中に湧きあがった欲求を抑えることができなかった。こんな薄弱な意志でどうにも失敗ばかり繰り返しているのを、まるで学ばない。それでも、他のどんな失敗を差し置いても、この欲求だけは、抑えるべきだった。そうすれば愚かなこの身の、過ちの連鎖だけは防げたことだろうに。

おれは、カメラをひょいと持ち上げた。キャップを外して、電源を入れて、自分の正面にカメラを構えた。そこでファインダー越しに美沙希を見た。美沙希はおれの様子に気が付いて、顔を上げ、にこりと微笑んで動きを止めた。

パチリ。

おれはすぐさま画面に視線を移した。何のことは無い、ファインダー越しの風景が画素の集まりになって映っているだけである。

「お前は、嫌がらないんだ。」おれは画面の美沙希に話しかけた。

「どうして?」本物の美沙希。

「女子に、カメラを向けると、逃げられる。」

「ええ?そうかなあ。」

美沙希は覚えがないらしい。女子だからか。だとすると、先刻の説が補強されてしまった。

「誰とか?」

「誰って、そりゃあ、いろいろだけど。」

「今日は?」

「いろいろ。……星野さんとか。」

美沙希は途端に笑い出した。

「あんれまあ、いとしの光ちゃんに逃げられちゃったわけ。」

「光ちゃん」は星野さんの名前。美沙希は、おれが星野さんのことが好きだと思っている。美沙希だけじゃなくて、啓二や、いくらかの男子も。これについて否定も肯定もできない。星野さんはあんな雰囲気だから男子に人気があって、おれもよく思っている。だけど、いかにもゾッコンって感じで沙汰にされてしまうとなんだか違うのだ。それでも美沙希に「お似合いだと思うよ」なんて言われた日には、少し舞い上がる。情けない男。

「女の子はねえ、別に、シローのこと嫌いなわけじゃないんだよ。そういうものなんだって。」

男子の慰みに使われるのが嫌だから?そんな質問は意気地なしにはできない。

「でも、お前はそうじゃないんだ。」

「そりゃあ、写真部ですし。」

そうだ。美沙希は調子がよいから、例のごとく「旦那モード」で、いろんな男子と仲がいい。写メにも笑顔で写る。すると、美沙希の写真をたくさんの男子が持っていて、そいつらは……。馬鹿な。美沙希には、啓二がいるんだ。

「まあそんな暗い顔しない。」おれの顔が暗いのは美沙希が思ってるのとは違う理由だ。

「どれ、今撮った写真、見せてみそ。」

美沙希は伸ばした腕でおれの手からカメラを取って、画面をちょいちょいと操作した。「ふむふむ」ってしばらく眺めて、「あー」と声を漏らした。」

「うん、いかんね。これだと『よくできました』はあげられない。いい?女の子はね、写真を撮られるならかわいく撮られたいものよ。それが例え写メの粗―い画像であってもね。あたしは苟も女子であるから、その辺り弁えています。だからみんなも写真を撮らせてくれるんだよ。シローの撮る写真はね、足りないの。これで校内に展示されようものなら、恥ずかしくて我慢できないって子もいるだろうね。どれ、ちょっとこっち。」

美沙希はカメラを返すと急に立ち上がり、窓際に立った。それから太陽のある方を眺めながら、くるくると身体を回したりして、そのうち、一つ所に留まった。それでおれを手招きした。

「こっちの角度から撮ってみてよ。」

「お前を?」

なんだか釈然としないが、おれは言われた通り立ち上がって、指さす方向に立って美沙希へカメラを向けた。すると今度は「もうちょい左上。それで、少し引いて。」と細かい指図をする。砂浜のスイカ割りのようだ。

「あーそこそこ。それでしぼりとシャッタースピード変えながら、何枚か撮ってみそ。」

言われたままにした。もう十分だと一向に許しが出ないので、ざっと十枚以上は撮った。

美沙希はポーズを取るのをやめると、またおれの手からカメラを奪って写真を眺めた。何枚かアルバムを行ったり来たりして見比べて「これ」とその中の一枚を見せつけてきた。

柔らかい陽射しの中、窓辺に佇む少女。黒髪を後ろでまとめ上げて、ほんのり赤みがさした頬、潤んだ瞳が光を持っている。クラスTシャツに名前を刻んだ左胸の内にあるのは、憂いか、希望か……。言葉で描写するならこんなものだろう。よくよく考えればヘンテコな格好で雑多な部室の中にいる、意味の分からないズッコケ写真に違いないが、一目見た印象は静かな興奮を与える。

「どうです、旦那?あてくしも、捨てたもんじゃございませんでしょ?」

隣で画面を覗き込んでいた美沙希がいたずらっぽい目を向けてくる。笑顔から漏れる吐息が頬に掛かった。

「ああ、これはいい。」実物より綺麗だね、そんな冗談の一つでも言えたら良かった。だけど、おれに言えた言葉はそれだけだった。

「こんな具合にうまい写真が撮れたなら、女の子も、光ちゃんも、笑顔でシローのカメラの前に立つよ。これ、間違いない。」

「お前は全く、おそろしいね。敵いっこない。この受講料はいくらですか?」

「まけとくよ。仕事に付き合ってくれたお礼。」

おれは握れるだけの紙幣を握って、少しあったかい手のひらにポンと載せてやった。


大会の一切は卒なく終了して、祭りの余韻もほどほどに、身体はくたくたで、強い日差しの中、重くはないが決して軽くもないカメラを提げて始終走り回っていたおれは、家に着くなり一睡してしまった。目が覚めた時には部屋は真っ暗で、おれは事態を呑み込むのに少々難儀した。それからはだるい身体を持ち上げ、下におりて遅い夕食を食べ、風呂に入ってようやくしゃっきりした頃には、夜も更けていた。慣れないことをすると疲れる。明日が休みで良かった。

おれは帰宅して床に放ったままになっていた鞄を拾った。弁当箱、水筒、出し忘れた。もうとっくに洗い物は終わっている。こうなるといつもは自分で洗わされるのだが、明日は休みだから、今日は許されるだろう。寝ているおれを起こしに来なかったところからして、きっとそうだ。授業が一切無かったから教科書の類は入っていない。その代わり、カメラをケースごと鞄にしまったのでいつもより膨らんだ見た目をしていた。おれはカメラを取り出して、机の上に置いた。

そうだ、データだけ取り込んでおこう。

おれの部屋にはパソコンがあった。去年うちのパソコンを新調したので古い方をおれの物にした。自室にパソコンを持っていくって言ったら、勉強しなくなるでしょって、母さんはあまりいい顔しなかったけど。型落ちには違いないが、れっきとしたデスクトップパソコン、これはちょっとした自慢である。ここにはおれが撮った写真のデータをみんなしまってある。写真部として活動を始めた時からずっと。去年の学校行事の写真とか、修学旅行の写真とか。それぞれフォルダに適当な名前を付けて保存してある。これが思い出のアルバムってわけだ。あんまり風情がないな、これは。

おれはメモリーカードをパソコンに挿して、いつもの手つきで新しいフォルダに「球技大会」と名付けて写真を保存した。これでメモリーカードの容量が空いて、別な写真を撮ることができる。おれは保存が終わった写真を順繰りに眺めていった。朝のそわそわした教室の様子から始まり、開会式、最初の競技へ……。撮った写真はその時にも確認こそしていたものの、やっぱりカメラの小さい画面とパソコンの大画面とではまるで違う。その場で気付けなかった些細なピンボケやゴミの写り込みを見つけると、悲しい。お気に召した写真があると、嬉しい。物言わぬ画面の中の表情だというのに、見ていると一緒に顔が綻んでしまったり、口をすぼめてしまったりする。写真は、不思議だ。

さっきまで体育館の中の写真だったのが、急に舞台を変えた。この薄暗い部屋は、部室。真ん中に写っているのは、弁当を広げている美沙希の笑顔。ああこれは、おれは思わずにやける。すると次の写真は――そうだ。急に始まった撮影会の、何枚も撮った同じ構図の写真だ。その中でも、美沙希が「これ」と選んだ一枚をおれはすぐに見つけて、そこでマウスを動かす手を止めた。

やっぱり、これがいい。画面の明るさといい、表情の写りといい、他と違っている。大画面で見るとそれが際立つ。何百枚と撮った今日の写真の全ての中でも、これがベストショットに違いない。大会とは直接関係がないってのが、お笑い。これをおれが撮ったんだって、啓二に見せたらきっと驚くだろう――。

――啓二に見せる?

おれは今、確かにそう考えたのだが、それを思いかけて、次の瞬間、非常に奇妙な事が浮かんだ。それは、この写真を啓二に見せてはならないのだという焦りにも似た不安であった。これは、あいつには見せちゃいけない、でもなんで?自分の中に思い浮かんだ危機感に何も説明をつけることができない。おれが白く霞む霧の中に一人、行くあて知れず、右へ踏み出すか、左へ踏み出すか、はたまた後ろか、所在なく立ちすくんでいたところ、霧の中から立ち現れたのは神木のあの言葉であった。

馬鹿な、馬鹿な、そんなはずはない。おれはそんな卑しい目的のために今ここで、この写真を眺めているんじゃないぞ。そんな不道徳な行いのためにこの写真を撮ったんじゃないぞ。これは、おれが昼休みに頼まれた仕事をこなすのを傍で見守っていたお礼にって、美沙希が……。

美沙希が、なんだ?おれたちは、誰もいない薄暗い部室で二人、何をしていたんだ?

おれは勃起していた。

おれは次々に写真のページを送った。午後の試合が始まって、ソフトボールの試合が行われている。そうして自分に言い聞かせる、ほうら、何のことはない、球技大会の写真だ。試合をやって、応援して、元気な活動の様子だ……。だが、おれの脳みそは既に気味悪く活性化して、どの写真でも、写り込んだ女子の姿を目ざとく狙うようになっていた。あれも、これも、必ず女子が写っている。その途端にまた、身体中に流れる毒が思考を蝕む。マウスを握る手に液体が滲む。クリック音は熾烈な速さに変わる。

ええい、こうなりゃヤケだ、今すぐにブラウザを立ち上げて、四角い検索窓に「エロ画像」とでも打ち込んで、そこに出てきたもので思考を塗り上げろ。そうだ、そうするのがいい。目にも留まらぬ速さで写真を次々に送るのをやめて、さっさと、考えた通りにするんだ。おれは何もおかしくない。この夜更けに例の行為に及んで、何が悪い?

不意にクリック音が止んだ。どうして、こうなるんだ。写真はいつの間にか一周して最初に戻って、画面には「ベストショット」がでかでかと映し出されていた。

やっぱり、これがいい。赤みが差した頬は、あの時、おれのすぐ隣にあったんだ。団子にした髪の下で、汗ばんだうなじのかおりも、薄手のTシャツで胸のふくらみ、下着の形までくっきり分かるのも、全部おれの一番近くにあったんだ。マウスを握る右手がそっと机を離れた。

「旦那」「旦那」、人懐こくそう呼ぶ声が、頭の中で響き渡る。

おれは拭いきれない罪を抱えた男になった。ここから手の届く位置にティッシュの箱が置いてあった。いつも目覚まし時計の横に置いてあるのに、なんでだ。これは、情状酌量の余地がない計画犯罪ということだろうか。おれはささっとティッシュを抜き取って、すっかり拭い取ってしまいました。


週明け、おれは至って自然に美沙希と顔を合わせた。制服を着て、髪型もお馴染みの一つ結びに直ってしまえば、これはいつもの美沙希だ。だからおれも、ここに立っているのはいつものおれ。女というものは、男がそれとなく視線を胸に落としていると、どういうわけかすぐに分かるらしい。仮に、おれのやったこともしれっとバレてしまったなら、すぐさま土下座してその場で斬首するつもりだったのだが、流石にそんなことはないようだ。啓二とも朝から話をした。球技大会の昼休みの出来事が、一言でも、話題に上るようだったらそれだけで無間地獄で身を焼くつもりだったのだが、それも無かった。

下手な隠し立てはよそう。罪人は、罪を重ねました。あの夜から今日までの週末の間に、おれは同じことをもう一度やった。パソコンを起動して、デスクトップに見慣れないフォルダが一つできていたのでそれを開いたら、写真が並んでいて、その中に例の写真があって、勃起した。以下略。感覚が麻痺したのか、前ほどの絶望は無かった。あの夜におれはおかしくなってしまったらしい。いや、それ以前、二人きりの部室でカメラを構えたその時にはもう、おれは醜い欲に支配されていたのかもしれない。あの時シャッターを切ったのは、おれの中のそういう成分。

写真部の活躍する舞台はそれからも定期的に訪れた。部員全員が出る幕でない時も、副部長たるおれは大抵撮影係を引き受けるので、カメラを持ってうろうろ、うろうろ。だが、あれからおれの中で不可逆的な変化が起こってしまったようだ。被写体にカメラを向ける、そこにいるのは女子。すると、おれの頭はごく自然に、自室のパソコンの前に座る自分が思い至る。そうして、良くない成分が自動的にシャッターを切ってくれる。僅かな時間の出来事。その夜になるとおれは律儀に、昼間思い浮かべた通りに、その日撮った写真を使うのだ。一連の「作業」の中でおれという主体はどこかへ消え失せたようで、おそらくは、あの白濁した液体と一緒にティッシュにくるんで捨てられているのだろう。

そのうち奇妙なことが重なるようになってきた。おれの撮った写真が重宝されるようになってきたのだ。全校集会の表彰式で撮った写真が、学校だよりに使われていた。学校の公式ホームページでも、学校生活の様子として載せられていたのはおれが撮ったもの。校内合唱コンクールの時の写真は、後日柴センがみんなの撮影分から適当に選んで校内展示に使っていたが、実はあの中の何枚もがおれの撮った分だった。高総体で撮ったものは、いつの間にやら学校を通じて教育委員会の資料に載せられていたと、後になって偶然気が付いた。これまでにこんなことは無かった。

こういう時、おれを持て囃したのは啓二と美沙希だった。重宝されるのはそれだけよく撮れている証拠なんだって二人は言う。おれにとってはどうでもいいことだった。自分で撮ったのに自分のものじゃないみたいで、ほとんど赤の他人が撮ったのと同じ感覚なのだ。どこがいいのかさえちっとも分からない。だが、そんな冷めた態度でいるのは場違いこの上ないから、おれはへらへらして、専門家ぶって「コツとタイミングの成せる業だ」とか得意気になってみた。頓珍漢で意味不明。とうとう壊れた。


おれ一人、心の内が狂騒にあっても、世間は変わらず、静かに流れていく。黒色の制服がひしめき合っていた校舎が、代わりに真っ白けなシャツで満たされる。強い日差しに打たれたコンクリートが発する熱気、血気盛んな若者の肌から発せられる熱気、熱病にうなされるかのような鬼気迫る空気が教室も、廊下も、全部を満たしていた。

昼休みのこと、おれは弁当箱の下に引っ付いていた溶けきった保冷剤、わずかに気温よりは冷たいのを、指でぐにぐに押していた。パッケージのペンギンは氷に乗って微笑んでいるが、足元は今にも崩れそうな小さい流氷しかない。これが地球温暖化だ。このペンギンも、おれも、逃れ得ぬ暑さを前にぐにぐにになってしまうのは仕方のないことだ。

「なはは、シロー何してんの。」

頭上で元気のいい声がした。美沙希が、おれの机の横を通りすがりに、覗き込んで笑っていた。美沙希が左手の人差し指を掲げていて、そこに金輪のついた鍵がくるくる回されているのを見つけた。黄色いタグもついていて、あの鍵には見覚えがある。

「どうした、部室、行くのか?」

「ん?そうそう。ちょっと調べ物。」

「『調べ物』?」不思議な言い方だ。

「今度の部活で文化祭の出し物を話し合うでしょ、その前に、目を通しておきたいのがあって。」

「ふーん。」大した用事ではなさそう。

「一人でか。」

「まあ、別に楽しい用事でもないし?」

「一緒に行こうか?」

おれはごく自然にこう言ったようであるが、胸中は、美沙希について行けば二人きりだと分かったから、だと思う。それをひた隠しにして、「部室はきっと涼しかろうね」と余計な一言を付け加えた。美沙希は「なるほどね」って納得したようだった。

美沙希がおれの少し前を歩く。校舎の廊下の端まで来て、辺りに人影も無くなってきて、部室棟に渡るといよいよ誰もいない。この頃は、美沙希のことばかり考えて夜を過ごしている。例の写真は、おれの中で不動の地位を占めている。そんなにしょっちゅう世話になるんなら、デスクトップの一番目立つところにでも、いっそ壁紙にでも、してしまえばいい。だけどおれは「球技大会」フォルダの片隅にそっと置いたままにしている。今ではきっと、電子データに指紋やら手垢やら、それ以外の物体まで染みついているだろう。その様子を目に見ることができないのが不幸中の幸いだ。今までに、美沙希を使った分の全部残らず、コップか何かに注いで集めて、どれくらいになるだろう。これを目の前を歩く本人に見せつけて、「どうだ、おれの脳みそだ。これだけ流れ出てしまって、今この頭蓋骨の中はまるですっからかんだ、覗いてみる?」って問いかけることを考えて、一秒後には馬鹿らしくなってやめる。

もう何を言っても努力の甲斐なく、誰も信じてはくれないだろうけど、おれはこんな悪人に成り下がっても、美沙希本人を自分のものにしたいだとか、啓二が妬ましいだとかは決して思ったことが無い。真相はむしろその逆で、今さらに、この二人は前世からの契りで結ばれた存在だと確信を強めている。深い信頼で結ばれた二人はしあわせだ、誰も割って入ることなどできない。同じ天の下ににそんなものが存在するなど、このおれが認めない。

美沙希は部室の扉の前に立って、鍵穴に鍵を差し込んでガチャリと回した。そうして扉を開けながら、横手で明かりのスイッチを入れた。部室棟に入ってからずっとそうだったが、ここはひんやりとして、向こうの校舎より二十度くらいは気温が低いだろう。きっと。美沙希はごちゃごちゃと物が投げ込まれたスチールの棚の前に立って、あれこれ覗き回していた。

「何を探してるの。」

「んーとねえ、昔の資料。」背中で答えた。

「文化祭の出店計画、夏休み前に出さなきゃいけないじゃん?昔の資料が参考になるかと思って。」

写真部は文化部であるから、やはり文化祭は欠かせないイベント。毎年一人一作品提出して写真展を開催している。体育館でやってる吹奏楽や演劇に比べたら地味なのに違いないけれど、これでいて結構人気がある。外部から来る人に好評で、来場者の感想記帳には「毎年楽しみにしている」と小慣れた行書体で刻まれているのを見たことがある。

「出店計画って言ったって、いつもみたいにポストカードじゃないの?用意する枚数だって、去年と同じでいいんじゃ。」

「うーん、それでもいいんだけどね。柴センが『昔は他にもやってたみたいですよ』って言ってて。詳しくは知らないって言うんだけど。」

「なんだそれ。柴セン相変わらずテキトーだなあ。」その台詞を言う時の柴センの顔が容易に想像できた。

「それでもねえ、その一言で俄然、火が付いちゃって。今年は何か新しいことやりたいんだ。ほら、あてくしこれでも部長でございましょ?こうなったら、権限を行使して、えいや、でやってしまおうと思ったんでさ。」こっちもこっちで、美沙希らしい。

「それで参考になる昔の資料なんかあったらなーと思ったんだけど、こりゃ見つからないねえ。」

さっきまで棚の品々をいじくりまわしていた美沙希は、ついに体を引っ込めてしまった。その時おれは、柴センが以前に話していたことを思い出した。……それも、おれは、「ああ、見つからないね」でこの場を済ませれば良かったものを、部活動の時になって、みんなの前で「そういえば」って口にすれば良かったものを、気付けばおれの締まりの悪い口が、頭に浮かんだままを漏らしてしまっていた。

「帳簿なら暗室にあったと思うけど。」

美沙希はくるりと反転した。「それだ!」

「さすが旦那!やはり持つべきものはできる副部長だねえ。」

おれたちは暗室の扉の前に立った。部室の片隅にある暗室は、長らく使われていないので扉の前に机まで置かれてしまっている。

「入ったこと、ある?」美沙希は扉を指さした。

「前に、みんなで気になって開けたことあったろ。あの時中をちょろっと覗いて以来だな。」

「なんだかワクワクしませんこと?」

「なんだよそれ。」おれは呆れた。

おれは扉の前に置かれた机を脇にどけてやった。こうすると金属の扉の全体像が露わになる。クリーム色の壁と同系色で塗られた金属、これと同じものは、そう、校舎の階段のところにある防火扉と同じだ。端のところで塗装が剥げてしまって、そこだけ鈍色が覗いている。おれは今さっき「なんだよそれ」と言ってしまったけれど、訂正させてほしい。おれも美沙希と同じくワクワクしていた。いつか本で読んだ「開かずの間」のこわい話、決して開けてはならない扉を開けると、異界に吸い込まれてしまうらしい。あれはきっと、この暗室をモデルにしているんだ。美沙希はドアノブに手を掛けた。「いざ」と一言呟いて、少しか体重を入れて扉を引く。ぎいって音がして、その向こうの様子がおれにも見えてきた。異界は、暗い。暗室だから当たり前だ。扉を開けた分だけ、四角い光がこちらから床を伝って反対側の壁に届いている。広さは、うちの洗面室と浴室を足したのより少し広いくらい。流し台っぽいものが見える。フィルムカメラは確か、現像液ってのに浸けて写真を現像するんだ。きっとそれに使うものなのだろう。資料棚は、その反対側の壁にあった。

「あれ、電気つかない。」

美沙希はスイッチをパチパチ言わせながら呟いた。おれがスイッチを見て、次いで暗い天井を仰ぎ見たら、理由がすぐに分かった。

「電球がついてないよ。暗室は専用の明かりを使うから、もう撤去しちゃったんだな。」

「ええ、赤く光るの、見てみたかったなあ。」不満げな声を漏らした。

「資料を探そう。」

美沙希が先に部屋に入って、それからおれが入ろうとしたら、扉がぎいと鳴って閉まりかけた。おれは慌てて扉を手で押さえた。外からの明かりが無くなったら、いよいよ漆黒。夜目が利くフクロウでも何も見えない。このまま押さえ続けておかなきゃならないか、そう思った時ふと気が付いて、脇にどけてあった机をズラして扉の内側にどんと噛ませた。

「ドアストッパーだったんだ、これ。」

「なるほど。」

「さ、帳簿を探そう。」

美沙希が資料棚の前に立った。二人横に並んでは狭くて敵わないだろうから、おれは後ろでその様子を見守った。何も、資料棚を一番奥に置かなくていいのに。そこに届くまでに光はいっそう弱まってしまって、薄暗い中、美沙希の白いシャツが際立つ以外はよく見えない。「あったあった」と美沙希は声を上げた。いくつものファイルの背表紙がここから見える、おそらく年度ごとにまとめられた帳簿だ。

「これ、昭和の頃からあるよ。昭和六十年って、何年?」

「どうだったかな。」

美沙希は真ん中くらいから一冊取り出して、パラパラめくった。

「ここじゃ読めないだろ。いくつか取り出して、向こうで読めよ。」

「うーん、こうすれば……何とか読める。」美沙希は屈み込んだ。足元の方が光が差してくるらしい。

「そんなに横着しなくても。早いところ、出ようぜ。」

「あらあら旦那、もしかして暗い所がこわいんで?」笑いが混じった声でそう言いながら、ページをめくり続ける。

「向こうで待っててもいいよ」と言った。美沙希め、いよいよ分からない。そこでおれが大人しく従ったら、それこそおれが美沙希の言った通りだってことになる。この期に及んでおれは卑怯なのに違いないが、臆病者ではないと信じていた。美沙希はおれの前でしゃがんで丸まった背中を見せている。首を僅かに動かすに従って揺れる髪の毛。それはちょうど、立っているおれの股の辺りにあった。

おれは勃起していた。

げっ、またかよ。そう思った。

この時、おれは極めて冷静だった。自分がどこに立って、何のためにここにいるのか、この視線の先にいるのが無二の親友であることも分かっていた。つまりおれは、正気が狂っていたのだ。

ここは校舎から離れた部室棟。その上に、廊下の突き当りの部室の、せまっ苦しい暗室の中だ。そうしてこの重い金属の扉まで閉めてしまえばいよいよ、中からの声は誰にも届かない。真っ暗闇の異界の中で、何が起きようと知る者はいない。そしてここで起きたことは、何もかも、現実のこととは思えなくなるだろう。憐れな美沙希は黙ってファイルに目を凝らしている。誰か、異界の邪を祓えるような、強い光の騎士を引っさげてここへ来れば良かったのだが、運悪く、連れ歩いていたのは人間の皮を被った悪魔だった。一思いにやってしまうか。華奢な肩をがしりと掴んで、床に組み伏せて、清らかな体躯を欲しいがままにする。そうしたなら、おれは閻魔様も呆れはてるくらいの地獄の鬼になれるだろう。こんな時、いつも思い浮かぶのは全く不幸な我が友、啓二だった。

「啓二……」おれはほとんど自然に呟いた。

「どうしたの?」

「お前、啓二のこと『旦那』って呼ぶ?」

「ええ?あんまり。名前で呼ぶ方が慣れちゃったからね。」

「そうじゃなくて、将来的にだよ。」

「なんだそれ。なはは。」

啓二は決して人を傷つけないやさしい人間だが、親友が本気で懇願したら、おれを刺し殺してくれるだろう。だから、安心だ。ちょっと難儀だが、ついでに、おれの屍体を山奥に埋めてもらおう。おれだってそこまでの面倒は掛けさせたくないけれど、これはあいつのためでもある。おれがいなくなって、少しは騒ぎになるかもしれないが、三日もすればみんな飽きて忘れてしまうから、それまでの辛抱だ。それより後は、また変わらない日々を送ってほしい。おれが埋まったところには長い間は草木も生えないだろうが、いずれ、花が咲きます。それじゃ、そういうことで。

「あてくしの喋り方はねえ、旦那……あ、また言っちゃった。時代劇の、観すぎ。お父さんの趣味で、小さい頃から見てたせいで。おっかしいねえ。」

お父さん、その一語でおれはたちまち我に返った。美沙希にもお父さんがいる。お母さんも、他の家族も。おれにはその言葉で美沙希の傍にいる近しい存在の息吹を感じ取って、先刻までの、悪魔に憑りつかれた考えがきれいさっぱり洗い流されてしまった。第一、啓二がおれを殺すわけがないです。おれはぐずぐずになって、この場で情けなく泣き出してしまいそうだった。

おれは「おかしかない」と言った。

「やっぱり、外で待ってるよ。ここは恐ろしい。陰惨として、暗くて、嫌だ。こわくてたまらなくなった。」

「あはは、冗談だってば。」

「いいや全く。外に行ってるから。」

おれは屈み込む美沙希を置いて一人で暗室の外へ逃げ出した。

外側の壁に背中をぺたりと預ける。現世に戻ってきたことでおれの心もいくらか取り戻されてきた。それと同時に、先刻までの意地汚く、目も当てられない悪の権化を思い出して、今度こそ泣き出してしまいそうになる。こんなことならついてくるんじゃなかった。当然起こるべき結果にも考えが至らずに、火遊びに興じる小さな子供みたいだ。君子危うきに近寄らずと言うが、危うきに近寄らないというのは、自らの身を守るためだけではないようだ。こんなことはもうやめよう。美沙希と二人きりで部室に入るのは、いいや、それだけでない、金輪際、啓二を交えずに美沙希と関わるのはよそう。危うきものというのは、この場合、おれだ。

美沙希、美沙希、そしてまた美沙希。おれはなんだかいつでも美沙希のことを考えている。毎晩、毎晩、脳みそを流れ出させてすっからかんになった代わりに入れているのは、美沙希のことのようだ。本当に、自分が浅はかで堪えられない。おれがこんな風になったのは、球技大会の日にここで撮った写真のせい、それよりも、美沙希その人の存在のせいだ。かわいさ余って憎さ百倍、おれは途端に美沙希のことがひどく疎ましく思われてきた。なんの咎があって、おれはこんな目に遭わなきゃならないのか。それもこれも、美沙希のせいだ。本人は今、呑気に壁の向こうで書類を眺めている。人の懊悩などつゆ知らず。おれは、美沙希をこのままここにしまい込んでやろうと思った。そしてその通りに、ドアストッパーになっている机を持ち上げ、自然な力に従って、扉が閉まっていくのを眺めた。またぎいと不快な音を立てて、開かずの間は再び封印された。

「ちょっと!閉めないでよー!」

これがホントの、箱入り娘。

「ねえシロー!」

「どうだ、そこは暗いだろうね?」

おれは机を元あったように扉の前に置き直して、その上にどっかり腰を下ろした。それからすぐに、座り込んだおれの横でドアノブがガチャガチャ回った。

「ああひどい!閉じ込められた!」

非力な美沙希め、扉と机と、おれの重さを押し退けられないでいる。おれは、ますます扉に背中を押し付けた。ガタガタ、ガコガコ。

「ねえもういいでしょ、開けてよ。」

「なんだ美沙希、やっぱり暗いのがこわいんじゃないか。」

ついにドアノブを回すのは諦めて、しきりに扉を叩いている。

「シローったら!早く開けてよ!」

「おやおや余裕が無いな。だらしがないぞ、いつもの『旦那モード』はどうしたんだ?『旦那、開けておくんな』って言ってみろ。」

「開けて!今すぐ!」

憐れな美沙希、もうほとんど叫び声に近い。扉をけたたましいくらいに叩いている。そんな乱暴にやっても開くわけないのに。

――音が鳴りやんだ。声もなく、急に静かになった。おや、これはどうしたことだろう。おれは扉に向かい耳をそばだてた。すると、やがて、「ぐすり」と一回。すすり上げる音だった。

一気に青ざめた。身体の芯をを冷たい水が流れた。おれは飛び降りて、机を投げ捨てて、力任せに扉を引いた。

美沙希が正面向いて立っていた。俯いて、親指の付け根のところで目元を覆っていた。頬には透き通った清純な液体が一筋、流れた跡があった。美沙希はゆっくりと顔を上げ、上目遣いでこちらを見返した。おれは自身の短い人生の中でも、あれほどおそろしく、哀しいまなざしをこちらに向けられたことは一度としてなかった。その瞳におれは顔を焼かれ、目を潰されてしまった。

美沙希は何も言わなかった。それは何よりの非難で、何よりの侮蔑。俯いたまま、ゆっくりと明るい方へ、一歩、二歩、踏み出して、完全に暗室の外に出たところで、おれはこれ以上扉を支えていられなくて手を離した。それきり、もう二度と、暗室は開けられなくなった。

後悔。その涙は、美沙希の精一杯の反駁だ。自らを幾度となく己の欲望のために消費してきた男への唯一の抗議で、最も強い力を持っているものだった。

おれは部室を飛び出して、走った。どこまでも、あのまなざしが追いかけてきて、ただ必死で逃げるしかなかった。校舎の暑い寒いももう知らず、自分の机に収まると、机板の表面の模様を凝視し続けた。そのうちに予鈴が鳴って、ぞろぞろと戻ってくる生徒の中には確かに美沙希もいたようだが、それでも、石みたいに俯いたまま、授業が始まってもそのままで、身体の表面には苔まで生えてきた。

家に帰って、おれは泣いた。じめじめと、なんてものじゃなく、枕がしっかり濡れる程に。その時に、僅かに残っていた脳みその余りと、代わりに詰まった「美沙希病」の病巣もすっかり流してしまったようで、おれにはもう、何も残っていなかった。

おれは部活に出なくなった。教室でも、決して美沙希のいる方向だけは振り向かないで、絶対に目を合わせまいとした。美沙希は今でもあのまなざしでこの暴漢を睨み続けていて、それに向かい合ってしまったらおれはこれ以上生きていくことが堪えられないと思ったから。突然おかしくなったおれの様子に啓二はたちまち気付いて、一度は理由を尋ねた。おれが絶対に答えなかったので、尋問はそれきりになって、以降は腫物みたいに触れないようにしている様子だった。

夏休みが近付いている。美沙希とは口を利いていない。啓二と話す時もどこか及び腰。半透明のカーテンを一枚、この顔に掛けて、それ越しに会話しているみたいだ。情けない、これならいっそ啓二とも話さなければいい。本来なら、そうしなきゃいけないのに。長らくカレンダーなどというものに注意を払って来なかったのだが、どうやら今週末からが夏休みということらしい。休業に入ってもしばらくの間は夏季講習があって、完全な休みとは言えないが、これは出席日数にカウントされないから行かなくてもいい。そうすべきだ。……おかしな話だ、だとすると、これまで学校にちゃんと通っていたのはかろうじて出席日数という体面を保つためだったってことになる。そんなもの、もう欠片も残ってないというのに。

夏休み前の最終日、椅子とお尻が引っ付いていたおれのところに、啓二が机をトンと叩いた。

「シロー、明日ヒマだよな?」

あんまりな訊き方だ。うちは写真部、土曜の部活なんて、ありません。

「ああ。」おれは顔を上げないまま答えた。

「おれと美術館に行かないか。見たいものがあるんだ。」

「二人?」ずるい質問だ。

「うん、二人。」

おれも馬鹿ではない。どうして啓二がこんな誘いをするのか、その意図は分かり切っていた。これは行かなければならないのだ。おれは顔を上げて、頷いた。

「よし、それじゃ駅前に、一時。それでいいか?」

おれの方としても、訊きたいことはあった。でも、それすら許さないように、啓二はちゃっちゃと行ってしまったので、それ以上致す方がなかった。


次の日、市内は全面的に夏休み初日。浮かれ気分に暑さが加わって、どこかおかしくなった学生が溢れている。高校生といえば、カラオケやら、ゲーセンやら、映画館やら、それらしいところに出張るだろうが、おれたちは違っている。啓二は、いつもの待ち合わせ場所に立っていた。着ている青いシャツも斜め掛けの鞄も、去年見たことがあって覚えていた。

「時間通りだな。」啓二は微笑んだ。

おれは昨日から尋ねたかった質問を投げかけてみた。つまりは「美術館に何を見に行くのか」ということである。啓二はふっと笑って、鞄から折り畳んだチラシを一枚手渡してきた。そこに書かれている文字を読み上げた。

「大竹吉越写真展……?」

大竹、その名にはやはりピンとくるものがあった。春の高校生写真コンクールの展示会場で話しかけられた、あの老人。啓二もそれが分かっていた。

「ほら、お前が春の写真展で話したっていう『大竹』って写真家。あれ、少し考えていたんだけど、こないだこれ見てピンと来たんだ。大竹吉越。おれの記憶の限りじゃ、あの時の風貌からも、この人で間違いないと思うんだ。」

「でも、知らない写真家だ。このポスターを見る限りじゃ、風景でも人の活動でも、いろいろと撮っていそうだけど。」

「おれも少しは調べてみたんだけど、よく分かってない。でもま、行ってみるが早い。これも何かの縁だ。」

写真展などは、あまり行ったことがない。特に写真家の個展なんてのは全く。それはきっと啓二も同じだろうと、おれは小さく頷いた。

駅前のバスプールで美術館行のバスを待つ。待っている間は車の排気やら、コンクリートの照り返しやら、辺りは結構なヒートアイランドと化していたが、一度バスに乗り込んでしまえば空調が効いていて快適。おれたちは後ろの方の二人掛けの席に座った。路線バスの二人掛けの席はどうしてあんなに狭いのだろう。啓二と隣同士の席に座ったのは、学校行事でも、プライベートでも、それこそ数え切れないくらいあるけれど、この狭い二人掛けにすし詰めにされるってのはなかなか無いことだ。

駅前通りを走っている間は会話がなかった。おれだって、啓二が二人きりで遊びに誘った目的は分かっている。大竹の写真展は偶然が重なって、開催場所も春の写真展と同じで、口実に都合が良かっただけ。本当の目的はただ一つ、美沙希とのこと。それをいつ、どちらが話題に出すか、それだけが問題なのだ。元はおれが撒いた種なのだから、ここまで察しがついているのに知らんぷりしてのらりくらり躱すのは、最悪だ。だからといって、毅然と口に出せるほどの勇気は馬鹿者にはないのである。願わくはこれに誘った啓二の方から話してくれることだが、実際に、その通りにしてくれた。

「美沙希のことさあ……」啓二はおれのいない方を向きながらぼそりと言った。その後がしばらくなくて、やがてこう続いた。

「あんまり冷たくしてやるなよ。ああ見えて繊細なんだって、知ってるだろ?」

「『冷たくする』?」

おれの方は言葉がすらすら出てきた。きっと、ずっと言いかねていた分が堰を切って出てきたのだ。

「そんな意地悪なつもりはない。おれは何も言えなくなっちゃって、それだけなんだ。本当に、悪い。」

「それは分かってるよ。でもあいつは『目も合わせてくれない』って嘆いてるからさ。」

「美沙希から、どこまで聞いた?」その名を口にするのは、久しぶりな気がする。

啓二は「うーんと」と言葉に詰まって、「たぶん全部、話してくれた限りは」と言った。

「美沙希も反省してるんだ。ちょっとした遊びで、笑って済ませれば良かったものを、パニックになって節操なく泣いたりなんかしちゃったから、シローに気まずい思いさせちゃったって。その前に、シローのことからかったのも悪かったって。」

「いや、それはおかしい。」おれは素早く返した。

「あいつは何も悪くない。逆立ちしても、悪いのはおれだけだ。何の前触れもなくあんなことされたらおれだって腹が立つし、長いこと閉じ込められたら……な。あそこは、暗いんだ。美沙希は怒りこそすれ、謝ることは何もない。」

なんだこれは。道徳の時間に先生の機嫌を取りに行ったみたいな、お誂え向きのいい子ちゃん回答である。この馬鹿が。

「いやー、おれもそう思って同じこと言ったんだけどな?それでも反省してるって。だけど、お前が謝る事すらさせてくれないから、だいぶしょげてるよ。」

おれが美沙希から目を背けている間、ずっとあのまなざしで睨んでいるんじゃないってことは、心の奥では分かっていた。ただ単に逃げていただけなのだ。悪いと思っているのに、謝ることから逃げていたのだ。臆病者だった。

「そうか。おれは教室の中の暑苦しい空気に溶けて、いなくなったつもりでいたけど、やっぱりそうはならなかったんだな。それどころか、そこにいるだけであいつに気の毒な思いをさせてたんだ。ついでに、お前にも。……なあ、啓二、おれは悪いヤツだよ。世の中の悪いヤツの中でも、上級だ。悪人のグランプリでもあれば、優勝トロフィーを手にできる自信がある。美沙希に、悪いことしたよ。今回のことだけじゃなくて、それはお前にも悪いことなんだ。それが何かって言うと……悪い、やっぱ、ここでもどうしても言えないんだけど、とにかく、それについては反省してるし、それでもどうしようもない。おれ自身がしょうもなしだから、ダメなんだ。本当はお前と美沙希に、謝らなきゃいけない。謝って済むことではないだろうが、最低限の礼節としてそうしなきゃいけない、だけど、何が悪いかも白状してないくせに謝罪だけ述べたって何の価値も無いから、これもできない。それで、せめて自分一人でけじめくらいはつけたいものなんだが、これは、何一つ要領を得てないお前からしたら論理の飛躍に聞こえるだろうが、おれの中では、ちゃんとつながってるんだ。……おれはもう、写真を撮りたくない。」

啓二は腕組みした。「それは、ダメだ」って言って、友人の最後の申し出を容易く棄却してしまった。

「何も分かってないおれの立場からこう言っても、無駄なんだろうけどさ、おれが勝手に思うに、シローの思ってるそれは大して悪いことではないんじゃないか?だっておれも美沙希も、お前に何かとんでもない悪事を働かれたなんて思ったこと、一度もないぞ。そりゃ、気付かないうちにお金が盗まれてたりしたらおおごとだが、シローはそんなやつじゃないだろ。よしんば、お前がそう語るほどのことを影でしていたとしても、今おれに対してそれを話した。だったらそれが何であれ、相応の受け止め方をしてやるのが道理ってものだ。シローはな、とかく、考え込みすぎるところがある。そしてな、やさしいんだ、お前。自分じゃ気付いてないだろうけど、おれも美沙希も知ってる。それでもって、何より、大事な副部長様に我が写真部を辞められたら困る。副部長も、おれの親友も、代わりはいないんだ。」

啓二は「どうだ、やっぱりおれ、お前のこと分かってない?」って笑った。おれにはそれで十分過ぎた。本当はとっくに分かっていた。啓二は、こういう男だ。おれの空っぽの頭蓋骨をすっかり満たしてしまったどす黒いものだって、こいつはきっと、正面から受け止めてくれる。それだけの深い度量を持っている男に、だからおれは話せない。底抜けに明るいふりして、へらへら笑っているしかできないのだ。

大竹の写真展は高校生の写真コンクールを展示していたのと同じスペースでやっていた。中高生六百円。かなりいい昼飯が食える金額にちょっと驚く。おれは写真の芸術性というものを信じていなかった。だからって回れ右して帰るはずないので、おれは大人しくチケットを買ってその場でもいでもらった。

見事なものである。こないだの大判プリントが額縁に飾ってあるのとは違う。一枚一枚パネルになって、三、四メートルくらい離れたところから見るのが正しかった。いちいちキャプションなど読んでいなかったけれど、写っていたのは雄大な景色とか、どこかの街のお祭りで、神輿や巨大な炎やらが上がっているやつ、朝霧に包まれた街、ジャングルから覗く星空の長時間露光。入口で払った六百円にぐちぐちと考えたのを少しか反省する。

「大竹吉越についてちょっと調べたんだけど。」

雪景色の写真の前で啓二は囁いた。

「私生活は紆余曲折あるらしい。奥さんがいるんだけど、他の女の人と関係を持ったり。かと思えば別れてまた別な人と連れ添ったり。まあ、そんなのはあっても写真には関係ないってね。」

啓二は笑うが、その時おれが考えていたのはまったくの真逆である。「だからか」唸りたくなるくらいに、そう思った。

一時間かそこいらですべて見て回ってしまい、展示を後にした。ミュージアムショップに心を惹かれるものもなく、ついにやることなくなって、おれたちは美術館を後にした。冷房に長く当たっていたから外の暑さが心地よい。これも一時のものだろうけど。

啓二は正面広場で大きく伸びをした。どんと構えて美術館の展示を見ていると、自然に肩が凝ってくるのである。

「わざわざ見に来たのにこう言っちゃ良くないけど、有名な写真家ってどんなにすごいかと思ったら、大したことないな。」

「おいおい」っておれは失笑した。でも、頷ける。写真はやはり、芸術ではない。

「シローの撮る写真の方がよっぽどいいよ、な?」

この言葉は屈託ない励ましに違いないが、おれが今日確信を得た論に従えば、はははと笑って受け入れている場合でもないことだ。あの日の大竹の言葉はその通りだった。

おれは素朴な疑問って風に、啓二にとある質問を投げた。

「お前は、写真を撮ることについて、欲があるか?写真を欲深く撮っているか?」

これには、啓二も悩んだ。そしてこう言った。

「そうだな、撮り鉄は、欲深いよ。自分の撮りたい一枚のためなら、何時間でも、どんな無茶でもする。たまに欲をかきすぎて、駅員さんや他のお客さんとトラブルになる人までいるくらいだ。」

「それは、また別の意味だと思うんだ。」

「確かにそうだ、はは。だけど、シロー、おれには、写真という技術そのものが、欲深く感じられる。人は過去を記憶する。だけど記憶は時間が経つごとに曖昧になり、薄れていく。岩が長い時の間に雨風に打たれ、その形を縮めていくように、過去は次第に忘れ去られるのが自然の摂理なんだと思う。だが、人はそうあってほしくないと欲をかく。だから少しでもこの情景を、この瞬間を残そうと思って、写真に撮るんだ。これは自然の摂理に逆らう欲深い行いだよ。浅ましいけど、でも、それがいいんだ。」

啓二はバスの定期入れを取り出して、その中に指突っ込んで一枚の写真を取り出しおれに見せた。そこに写っているのはおれと啓二と美沙希。見覚えのある観光地で並んでいた。

「覚えてるか、これ?」

「ああ、修学旅行だ。自由行動の日だ。」

「そう。美沙希と一緒に修学旅行に行くって、昔から夢だったんだ。でもさ、自由行動の班は最低三人って決まりがあったろ?あれは困った。どうやったって、おれたち二人と一緒になった人には気兼ねさせちゃうと思って。シローが一緒で本当に助かった。三人で、あれは楽しかったな。これは親友と彼女と、一緒に撮った一番の宝物。これがあるからどんなにジジイになっても忘れないよ。欲深くたって、写真に残したって、悪くないよ、な?」

おれは思わず噴き出した。

「これは、惚気だぞ。今のはあんまりべらべら言いふらしちゃいけない。」

「わーかってるよ。」

啓二はまた、大事そうに写真を元通りにして定期入れをしまった。

「夏季講習、行くよな?」

「ああ。サボったら親にどやされるし。」

「美沙希のことな、謝らなくてもいい。その代わりに頼む、来週の朝、教室に来たら、あいつと顔合わせて『おはよう』って言ってやってくれ。ちょっと微笑むだけでもいい。あいつにはおれが話しておく。それで万事うまくいく。いいな?」

「分かった。いろいろ心配かけてすまん。」

「当然だ。お前は、やさしいからな。」

夏はこう暑くなきゃいけない。


月曜日の朝、おれはいつもの時間に登校した。前の扉から教室に入ると、美沙希は一番前の席で友達と話していた。向こうも啓二に話を聞いていたのだろうから、おれが来るとすぐに気が付いてこちらに顔を向けた。目を合わせた美沙希は美沙希のままだった。啓二はああ言ってくれたけど、やっぱり謝らなくてはいけないと決心して、おれは何度も言葉を考えてきた。けれども、いざこの段になると、どうもこうもならない。すぐそばに他の女子はいるし、美沙希の顔だって、見るのは久しぶりだし。だらしがないおれはまたへらへらしだして、右手軽く挙げ「よっ」って、これは馬鹿だ。おれの方は何一ついいことがない。

目を細めて手を振り返してくれた美沙希の笑顔、一瞬の間だっただろうけど、おれにとってはとても長かった。あれは、いつかの写真に負けないくらい良かった。


九月。夏休みが終わった。人生においてこれほど長い休みも、もうしばらくは訪れることがないだろう。それと同時に、文化祭の開催が目前に迫っている。放課後はどこも準備に追われる生徒の姿で賑やかだ。写真部もこの頃は毎日部室に集まって、当日に向けた準備を進めている。例年はポストカードだけだった物販は、カレンダーとか、写真をラミネートしたしおりとか、ポストカードを飾れるペーパークラフトの写真立てなどがラインナップに追加された。さらに美沙希の鶴の一声で、来場者投票による写真コンクールが開催されることになった。入賞者には豪華景品を用意しているとかで、今年の提出作品は各人力が入っているように思える。

美沙希には、相変わらず悪いことを繰り返している。仲直りはできたけれど、それくらいでこの罪人の罪が晴れるはずはなく。こればかりは習慣になっちまったようで、夜にパソコンの前に向かっていると、収まりがつかない。それでも、他に誰もいないところで二人きりになるのは努めて避けるようにしているので、今のところ本人を前に魔に侵されたことはない。暗室は、もう二度と開けないと決めている。

あれ以来、美沙希は二度と「旦那モード」を披露しなくなった。節操ない男子に尋ねられた時は「なんとなく~」って誤魔化しているけれど、おれはすべてを知っている。おれは、美沙希の中から大事な何かを永久に奪ってしまった。その変化はいずれは訪れるものだったのかもしれないし、本人の中ではさしたる意味を持っていないことかもしれない。だがこのことは、おれの中のフィルムに消えない焼き跡となって、美沙希と言葉を交わす時にいつでも思い出す。

啓二はどこまで分かっているんだろうか。啓二には真相のすべてを打ち明けていて、知っているのかもしれない。おれには訊けるわけのないことだ。いつかずっと先、二人が結婚して、家族の増えた一つ屋根の下におれが遊びに行った時、昔話の一つとして笑って話せるかもしれない。そう考えて、自分でも閉口する。おれはいつまでこの二人の厄介になり続けるんだろう。けれども、大丈夫。愛し合う二人はしあわせだ。そこにちっぽけな寄生虫の一匹が這いずり回って、少々のおこぼれをちうちう吸い取ったとしても、二人のしあわせは決して尽きることがない。

せめて、へらへら笑っていよう。

「ね、ね、聞いた聞いた?」美沙希が部室に駆け込んできた。

「今年の後夜祭、ミスコンやるんだってさ!」

「へえ。よく先生たち認めたなあ。」啓二はおかしな感心の仕方をしている。

「うちのクラスは誰が出るんだろ。」

「光ちゃんだってさ!」

「星野さん、か。」順当でしょう。クラスで一番のきれいどころだ。

「それでねえ、公式資料に載せるアー写ってあるでしょ?あれをどうせなら『プロ』たる我が写真部にお願いしようかって話なんだって。」

「なるほどそうきたか。……それならば、うちにはエースがいるよな。」

啓二はこちらを見てにこにこしている。

「そうだよ、みんなを撮るのにかけちゃシローが一番だよ、やりな!だってほら、ねえ?」

美沙希め、その先に続く言葉は「いとしの光ちゃんとお近づきになれるチャンスだよ?」だろう。これで、満点解答。

「そうだな、頼みとあらば、やってみよう。」

ああいやらしい。