作品ページへ戻る

カンニング

この間のテストの結果は思った通りの惨敗だった。

一学期末から続いて成績が落ち込んだことで親には散々にどやされて、抵抗の甲斐なく今月から小遣いが減らされる運びとなってしまった。夏休みの勉強が足りないからだって言われたが、自分では世の中大半の中学生と同じくらいか、むしろそれ以上にやっていたと思う。……流石にそれは言い過ぎかもしれないが、言うほどやってないわけじゃなかった。

そんなことも全部どうでもよくなるくらい、おれの心を縛りつけるものがあった。

あれは社会のテストの時間だった。

先に言っておくが、おれは断じて邪な意図があったわけじゃない。ただ、少し顔を上げて左斜め前を見ると、あの人の席まで視線が通るだけなんだ。

古谷詩緒音さん。あまり活発なタイプじゃなくていつも押し黙った人で、学年で一番の成績。絵に描いたような優等生。

あの人の決定的な場面を見てしまったのだ。

まだ衣替えをしたばっかりで紺一色に包まれた教室はイマイチ落ち着かない。春の頃を思い出させるようなブレザーの左袖を、あの人は机の下に伸ばしていた。妙だなって思ってそのまま見続けていた。次の瞬間、机の下から引いたその手には一枚の紙が握られていたんだ。最初は理解できなかったが、次第にこれはまさか……と確信を深めた。

巧妙だ。テストの前って、机の中に何も入ってないのを確認するだろう。でも「机の下」は誰も見ないんだ。きっとテープか何かで貼り付けてあったんだろうな。あの席の位置じゃ監督の先生からは見えない角度になる。

おれは辺りを見回した。他にも見ている人がいるかもしれないと思ったから。誰も驚いた風の人はいなかった。古谷さんのすぐ後ろにいる啓治なんかは流石に見えただろうに、これまた気付いていなかった。これ以上見回すと明らかに自分の方が挙動不審に見えるからその時はやめておいた。

休み時間に改めてみんなの様子を窺ったが、やっぱり誰も気付いちゃいないようだ。当の本人は何食わぬ顔で次に控える数学の教科書を取り出してぺらぺらめくっていた。本人に確かめれば真相が掴めたかもしれない。そんなことしなくても、あの時ならまだ机の下に証拠が残っていたはずだ。結局そこまではしなかった。

おれは見てはいけないものを見てしまったようで、まるで自分が悪いことをしたかのように動揺していた。その後の数学のテストで公式を一個まるごとど忘れしたのもそのせいに違いない。あれを見ていなければもうちょっとマシな点数だった。

今は社会の時間で教卓の前にフジモンがいて、テスト範囲の続きの内容をやっている。フジモンは現場にいなかったから知る由もない。古谷さんは優秀な生徒だって、疑いすら抱いてない。クラスのみんなもこのことを知らない。世界でおれだけが古谷さんの「悪事」を知っている。

古谷さんは窓際の席に座り、右手の内でシャープペンシルをコロコロ回している。少し内巻きの黒髪が肩にかかる。眠いわけじゃないんだろうけど、どこか蕩けた眼をしていて、何を考えているのか、はたまた勉強以外に何も考えちゃいないのか分からない。……アンニュイ、確かそう呼ぶんだ、あんな人を。

しめしめ誰にもバレてない、とか思ってるんだろうか。あと一週間もすればテストの成績が確定する。そうすれば真実は闇に葬られるんだ。それを変えられるとすればおれしかいない。

この件についてどうすべきか自分なりに思考を巡らせた。だしぬけに「古谷さんが不正行為をしてました」なんて先生に言ったところで何一つ証拠がない。物証がなきゃ判決は揺るがないんだって聞いたことがある。当然本人は否定するだろう。おれが理由もなしに人を貶めるような性格じゃないとは先生も理解しているだろうが、「あの」古谷さんが夢にもないことするなんて、それこそ誰も信じられないから。

信頼できるやつに相談してみるか?それも考えた。だけど噂が流布する可能性を考えたらできなかった。これが学年会議沙汰になって、根拠もない悪評を垂れ流したのが自分だと知られれば、最悪の立場に追い込まれるのはおれの方だ。すべてが終わってから「お気の毒様」って古谷さんと目が合ったら、それこそ正気じゃいられなくなると思う。

結局はこのことを第三者に話すのは得策ではなかった。まずは本人に真意を問いただす他ないのだと思う。おれと古谷さんはほとんど話したことがなかった。

――というか、おれが義に走る必要ってあるんだろうか。

あの人の不正が糾弾されたとして、誰か喜ぶ人がいるんだろうか。古谷さんはみんなに愛されるような人じゃないが、誰かに憎まれる人でもない。いつも一緒のお友達、なんて女子はいなくて、クラスの集合写真では端っこの方で女子一同に混ざって控えめなピースサインを掲げるようなそんな人だ。みんなは「えー古谷さんがそんなことしてたなんてー」と衝撃は受けるはずだが、それで「いい気味だ」とかほくそ笑むいわれのある人はいない。おれだってこの事実を明るみに出したことで立派な正義漢だと褒め称えられるはずもないんだ。

だったらこう、もっと賢いやり方があるんじゃないの、そう思う。

おれがこのことを本人に打ち明けたら古谷さんは「誰にも言わないで」って懇願するはずだ。成績のいいあの人のことだから、偏差値の高い私立高校を志望してるんだって、風の噂で聞いたことがある。それだから内申に傷がつくことは何としても避けたいはず。そしたらおれは言うんだ、「このことを黙っておいてやってもいいが、代わりに……」。

つい最近小遣いを減らされたばかりだ。当然その使い道にも厳しい目が注がれるわけで、ほしかったゲームが相当遠のいてしまった。あの人にとっちゃ自己保身のための数千円の出費なんて、大したことないじゃないか。いや、むしろ安いくらいだろう?

――そんな子供じみた要求なんかじゃなくて、もっと他にあるんじゃないか?

そういうの、よくあるだろ?女の子が約束を守ってもらう代わりに……っていう類の。

古谷さん……顔は悪くない。女子バレー部の新妻さんは男子に人気だけど、ああいうキラキラしたのとは別のタイプでさ。ジャージ姿の時を見るにやや細身って感じで、身長は俺より十センチ小さいくらい。あっちだって……真っ平らってわけじゃない。文化祭でクラスで揃いのTシャツを着た時に見たことあるけど……。ド変態でおなじみ、学年女子全員のサイズを査定した高木は「古谷詩緒音はB」と言っていた。あんなやつの話なんて信じないけど。

いやいや流石にそれはやりすぎだ。おれの方が重罪になっちまう。だけど、あっちの方から提案してきたら、それは……合意の上?

考えてみればあの人のやったことは相当な悪事だぞ。おれみたいに必死こいて正々堂々と立ち向かって、それでも悲しく散った人がいる。かたや誰にもバレないのをいいことに不正を働いて、偽りの結果で先生に認められる人がいる。とんでもない不公平だ。不条理だ。

そもそもおれは悪くない。あっちが悪いことをしていて、おれだけがそれを知っている。これはおれにしか裁けないことなんだ。その過程で多少の腹黒いことをしたって、それは必罰といえるはずだ。きっと。

突然、フジモンがおれを名指しで呼んだ。話を聞いてなかったから咄嗟に「ひぇ、はい!」なんて情けない声を上げて立ち上がり、クラスが爆笑の渦に飲まれる。古谷さんは興味なさそうに黒板を向いていたが、そのうちにちらりとこちらを見たので目が合った。悪意のない目、ここで立ってる男子に自分がどう思われているか、まったく知らないんだろうな。

フジモンに顔が赤い理由を問われるまで時間はかからなかった。


昼休み、意を決したおれはゆっくりと古谷さんの席まで近付いていった。まだ教室に残る給食の匂いも意に介さず古谷さんは黙々と見慣れない問題集に向かっていた。

誰が開けたか、十月の乾いた風が吹き込む窓を背にしておれは立ちはだかった。古谷さんのノートに俺の影が落ち込む。驚くことに、この人はすぐ隣に人が立っているというのにまるで無頓着で、見向きもしなかった。はなっから自分に話しかけてくる人はいないって、そんな風だった。そんな様子にあてられておれもしばらくペンを動かすこの人を見守り続けてしまった。変に伸ばさず整った桜色の爪。水色のシャープペンシルで綴られる文字は女子っぽい丸っこいのじゃなくて、全体が一つの書体みたいに統一感のあるものだった。

落ち着こう、あくまで優位に立っているのはおれなんだ。堂々として、つけ入る隙を与えてはいけない。

「古谷詩緒音。」

名前を呼ばれた古谷さんは手を止めて首をこっちに向けた。

「あ、部長。」

小さい声。おそらく生まれてから一度も大声で叫んだことないんじゃないか。

「話があるからついて来てくれる?」

「えと、何?」

「いいから来てよ。そっちにとって大事な話なんだ。」

思い出した、この人はまだおれを「部長」と呼ぶんだ。


おれと古谷さんは一応、同じテニス部に所属していた。

一応、というのは古谷さんが幽霊部員だったからだ。

成績優秀な古谷さんはほぼ毎日街の学習塾に通っているとかで、放課後はすぐに下校していたから基本的に部活に顔を出さなかった。一年の初めの頃はそれなりに来ていたのだが、学年が進むにつれて勉強時間が増えたのか部活に出る頻度が減った。そのうちに大会に出る他の部員たちと実力の差ができて、二年の秋ごろからはまったくと言っていいほど来なくなった。

おれはそんなテニス部の部長だった。部長といっても立候補したんじゃなくて、先輩方が引退したあとに二年の中で新部長を決めようとした時に、たまたまじゃんけんで優勝してしまっただけだ。人に押し付けておきながら「不真面目で一番部長っぽくない」ってみんなから言われた。同期がみんなその調子だから一年からも専ら名前で呼ばれていた。部長なんて名ばかりだった。

部長ではあったけど女テニの事務連絡なんかは副部長の高村さんに任せてたから、古谷さんとの関わりなんてなかった。クラスの中で言葉を交わした時に「部長」と呼ばれることが何度かあった。幽霊部員でテニス部の内情を知らないからとりあえずそう呼んでたんだと思う。

正直、あまりいい気はしなかった。あの人が部活に来ないのを女子部員もみんな「古谷さんだから仕方ないよ~」なんて言ってたがそうは思わなかった。成績が良ければ、塾に行ってれば部活をサボることの免罪符になるんだろうか。こればかりは帰宅部を禁じるうちの校則に問題があるのかもしれないが、活動が緩くて幽霊部員も多い文化部が他にあるというのに。そんなんだから大会メンバー選出のときや、打ち上げのときも古谷さんはそもそも頭数から外されていて、完全に名簿上だけの存在だった。そのことを顧問の斎田先生に話してみても「それぞれ事情がありますから」とあの人に同情的だった。目くじら立てすぎじゃないかってみんなから言われて、それ以上追求するのはやめた。本人と話し合うことはついになかった。


古谷さんが数歩後ろをついて来るのを確認しながら、廊下の突きあたりまで行ってそこの空き教室に入った。五時間目に移動教室でここを使うクラスはなかったはずだ。おれは古谷さんを中に入れた後、誰も来ていないのを確認して扉を閉め切った。変な風に思われたくなかったから鍵は閉めなかったけど、おれの企みを考えればおかしな懸念だった。古谷さんは入口近くで突っ立っていたから、扉の小窓から見えない位置まで誘導した。

「部長、話って、何?」

「おれはもう部長じゃないけどな。」

「そっか。でも部長だったから……。」

ろくに部活に来なかったくせによく言う。思えば誰もいない教室に女子と二人なんて経験したことなかった。ところが今はロマンチックでも何でもない。

「おれさ、こないだのテストの時、見たんだよね。」

「何を……?」

今さらしらばっくれなくてもいいのにと思った。

「社会のテストの時に、そっちが……やってるのを見たんだよ。」

「ああ……。」

存外大したことない反応だった。焦り出して今にも「誰にも言わないで!」とか言い出すかと思ったが、半ば諦めたともとれる調子だ。

古谷さんはそれきり何も言わないので、おれが切り出した。

「前からやってたの、そういうこと?」

すぐさま首を小刻みに横に振った。髪がはらりと揺れる。

「塾で受けた模試の結果が良くなくて、定期考査の成績まで落とすわけにいかないと思って、でも今回はテスト勉強あんまりできなかったから、すごく不安で、それで……。」

か細い声だが、泣き出したりはしなかった。そこら辺はみんなに知られた優等生の古谷さん、て感じだった。

「バレたらどうするつもりだったの?」

「少しくらいなら、と思って。ごめんなさい。」

「謝っても仕方ないよ。」

古谷さんはもう一度押し黙った。おれは視線を上げて顔を窺った。そんなに表情豊かではないこの人がこうも不安な顔をしているのは初めてだ。

「他に、誰か知ってるの?」

「いや。誰にも話してない。それどころか、おれ以外に誰も見てないみたいだ。」

ひとまずは安心、そんな風に見えた。

「……先生に話す?」

「どうかな。証拠がないし、話したところでおれにいいことが起こるわけじゃないし。かといって不正をそっとしておくのもどうかな。これは古谷さんの問題だよ。」

「あの……もう二度としないって約束するから。」

やはりそうくるんだ。

「それでいいって思うならおれも約束に免じてやってもいいけどさ。でも秘密を抱えたままにするってのも大変なことだよ。」

「じゃあ、わたしはどうすれば?」

ほらね、こうなる。おれは頭の中で幾度となくこの人との会話を「リハーサル」してきた。そしてどんなときも最終的にはこのくだりにたどり着くんだ。そしたらおれは――。

そしたらおれは……どうするんだっけ?

「……さっきも言った通りこれは古谷さんの問題だからさ、自分のために自分ができることを考えればいいよ。それが古谷さんなりの誠意なんだっておれは思うことにする。」

それ以上は言わなかった。言えなかった。おれの方が先に教室を出て行った。あの人はすぐ後ろにはついて来なかったけど、五時間目の授業には何事もなかったかのように出席していた。


バカなことをした。

おれは制服のままベッドに寝転がって照明の紐を見つめていた。

こんなに中途半端になるなら声なんかかけるんじゃなかった。言うなら欲望のままに「秘密をバラされたくなかったらお前の体を寄こせ」って言えばよかったじゃないか。事実それを望んでいたんだから。ところが昼間はどうだった、土壇場で体裁を保とうとして説教臭い言葉を並べてお茶を濁した。挙句、逃げるようにその場を去った。腰抜けだ。

もうあの人に何かしようって気は全くない。今からでも「誰かに話す気は完全に失せたから何もなかったことにしてくれないか」と訴えたかった。引き返しようがなかった。

あの人がした誰にも迷惑をかけない些細な悪事に対して、おれがしでかした罪はあまりに大きすぎた、重すぎた。

――こんなことは望んじゃいなかった。


普段の部活に来ないあの人でも、大会だけは原則全員参加だから集合場所に来る。当然あの人の出場枠はないけれど、揃いのユニフォームはみんな着るものだ。テニスウェアってのは、上が薄手のシャツで、下は女子だとスカートなんだ、無論その中にスパッツは履いてるんだけど、元々が結構短い。あの人のユニフォーム姿は一目見てテニス経験が浅いのが分かる体格だった。肩は華奢で筋肉もついていないし、スカートから覗く脚は全く日焼けしていない真っ白。おまけに髪の毛は普通邪魔にならないようにショートにするか後ろで結ぶものなのに、いつもの下ろしたスタイルのまま。ああ、この人はテニスやらないんですねって、そのものだった。でもそれはそれで……この際だから認めよう、結構グッときた。

それは二年の時の中総体で、先輩方にとっては中学生活最後の舞台だった。誰も皆この日のために一生懸命打ち込んできて、特に部長は別格だった。特別な思いがあったんだ。

部長の試合が始まって、みんな勢揃いでコートの近くまで応援しに行ったのだが、おれだけは座席で荷物の見張り番をさせられた。ここ一番でじゃんけんの運がなかった。悶々とした気分で座り込んでいたところ、みんな出払った座席におれの他にもう一人いた。古谷さんだった。一番端の席で一人遠くを見つめていた。

「古……谷さん。」

おれが呼びかけるとあの人はこちらを振り返った。

「応援、行かないの。あっちのコートで部長の試合やってるよ。」

「みんなが行ってるから……。」

「一緒に行かないの?」

「わたしはよく知らないし……。」

何か遠慮しているみたいだった。話すには距離があったのでおれが手招きすると、古谷さんは軽やかに段を上がっておれの近くまでやって来た。

「部長はさ、朝練に毎日来てて、放課後も最後まで残って片付けとコートの施錠までやってた。おれが知る限り一番テニスと真剣に向き合ってる人なんだ。その部長が今、これまでのすべてを懸けてプレーしてる。頑張ってる人がいたらそれが報われてほしいから、応援したくなる、おれはそう思う。」

我ながら大真面目にカッコつけたこと言ったと思う。周りに誰かがいたら大笑いされたはずだ。あの人は一言も発さずにおれの言葉を聴いていた。

「わたし、ここにいるから、行ってきてもいいよ。」

おれの気持ちを察してか、次にあの人はそう言った。今思えばその言葉に甘えても良かったかもしれない。おれが応援に行ったことで試合結果が変わったはずもないけど、少なくとも部長の雄姿は見届けられた。

「いや、これはおれの仕事だから。別なやつに仕事押し付けてきたとなったらおれ怒られるし。それにさ、置き引きに遭ったとして、取り返せる自信あるの?」

ふるふると首を横に振った。それを見ておれは「そういうこと」と言い腕を組んだ。なんであんな気取った言い方をしたのか自分でもよく分からない。

古谷さんはしばらく隣で座っていたが、やがてすっくと立ちあがった。

「応援、行ってくるね。」

「うん。」

おれの近くを離れてコートの方へ小走りで向かっていく後ろ姿を見送った。

その後の昼休憩の時間、男子は男子、女子は女子で一つにまとまって弁当を広げていた。その一団に混じる古谷さんの姿を見た。小学生みたいなピンク色の弁当箱を白い膝に乗せておにぎりを頬張っていた。どういうわけか、その時突然安堵のような希望のような感情がこみ上げてきて、「これでいい」と思ったのを覚えている。

きっと、おれはあの人が部活に来ないのが嫌だったんじゃない、本当は古谷さんと一緒に――。


翌日、始業前には古谷さんの姿が見えなかった。朝から自習室にいることはよくあったけど、今日は荷物が全部机に置いてあった。気が気ではなかった。おれはもうどうなってもいい、先生に助けを請いに行っててほしかったし、警察に被害届とか出しに行っててほしかった。逆に……屋上に行ってたらどうしよう。無事を確認したい気持ちと顔を合わせたくない気持ちでごちゃまぜになって友達から心配されるくらいだった。予鈴がなって全員が席に着き、いよいよ心配になったころ、教室の扉を開けて古谷さんが入ってきた。こちらに一瞥もくれず、何食わぬ顔で席に着いた。まもなく先生も入ってきた。

あちらの方からは音沙汰なかった。真相はこっちから聞き出すしかないと思った。放課後、放課後まで何もなかったら、本人に話しかける。そう心に決めて一日を過ごしていた。

事が動いたのは昼休みだった。平静を装って友達と談笑していたら後ろから声をかけられた。

「部長。」

おれを「部長」なんて呼ぶ人は一人しかいなかった。――完全にノーマークだった、周りに人がいる場所で話しかけられるなんて思いもよらなかったから。

「話があるの。少し、いい?」

みんなは目を点にしていた。普段の生活からはおおよそ交わるはずのない組み合わせだからだ。頷いて教室の外に連れていかれるおれをどんな顔して見送っていたんだろう。

古谷さんは昨日と同じ空き教室におれを招き入れて、扉を閉じた。電柱みたいに突っ立ってるおれをそこら中に空いてる席の一つに座らせた。

「今朝ね、先生に話してきた。」

第一声がこうだった。

「テストのときにわたしがしたこと、ぜんぶ。先生もびっくりして最初は信じてくれなかったけどね。部長のことは何も言ってないから、心配しないで。」

かける言葉が見つからない。どうしてこんなに明るい声で打ち明けるのかも分からない。

「……良かったの?」

古谷さんはうんと頷いた。耳にかかる少し内巻きの髪が前に流れる。

「パパとママには失望されちゃった。今の志望校には行けなくなるかも。このまま隠し通したらって言われたけど、そうじゃないんだよね?」

「それは……。」

「部長の言う通りなんだ。秘密を抱えたままにするのは大変なことだから。わたしはわたしのためになることをやったの。」

消えてしまいたかった。おれはそんな風に人を諭せるような人間じゃなくて、それどころか人の弱みにつけ込んで不貞を働こうとするようなやつだって、大声で叫びたかった。この人はおれを誤解している。

「わたし、このまま誰にも見つからなかったらまた同じことやってたと思う。だから、誰か他の人に見つかる前にやさしい部長に見つかって、よかった。」

「やさしくなんか、ないよ。」

「そう?部長は何事も正しく、いつも真剣に向き合ってて、すごいなって思ってた。わたしと全然違うなって。いろいろ間違えちゃったけど、わたしもそうなりたいって思ったんだ。」

そんな風に思っていたなんて。だって古谷さんとおれは全然話してないのに。

「それでね、先生はこのことがみんなに知れて、わたしに良くないことが起こるのを心配してくださってるみたい。わたしはもしそうなっても仕方ないと思うし、これは部長次第だけど……先生のためにもこのことは誰にも話さないでいてくれる?」

「当たり前だ!誰にだって言うもんか、絶対。何かあったら必ずおれも協力するから。」

「ありがとう、部長。ありがとう。」

そう言って、古谷さんは深々と頭を下げた。やがて頭を上げて、おれをまっすぐ見つめる。優しげな蕩けた眼にはうっすら涙が滲んでいた。

ああ、おれはもう否定のしようがないくらいこの人に夢中なんだな。


空き教室を出て、二人の教室まで並んで歩いた。この廊下がどこまでも長くたって構いやしない、そうあってほしかった。

高校でもテニス、やるのかな。それがいい、せっかく自分のラケットを持ってるのにもったいないから。おれが教えてあげるのにな、そしたらいっしょにラリーができる。今からでも猛勉強すれば同じ高校に通えないかな。おれの頭じゃ厳しいかもしれない、勉強を教えてもらえたら、あるいは。そうしてるうちにいつか、詩緒音さんもおれのこと好きになってくれないかな。今、すべてを訊く必要はないさ。

教室に入り、自分の席に戻る詩緒音さんがこちらに向かって手を掲げた。

「それじゃあ、部長。」

「おれもう部長じゃないんだけどな。」

「そうだね――三浦部長。」

詩緒音さんがそう呼ぶなら、おれはこの人の部長でいるしかないんだと思う。

あいつらがにやにやしながらおれを待つ席へと戻っていった。


後日、成績表が渡された日。

自分のは見るまでもなく、あの人の様子が気になったのでそっと目を向けた。詩緒音さんはしばらく成績表と向き合っていたが、不意にこちらを振り返って、0が並ぶその紙をこっそりこちらに掲げてみせた。

あの笑顔には敵わない。