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おかえり、私の王子様

俺様は鴉だった。自らが鴉たることを後から知ったのであって、それまで俺様は黒い鳥だと思ってきたし、それで十分だった。

俺様はニンゲンの森で生きてきた。箱型に三角屋根のニンゲンの巣と、中にニンゲンの入った高速の箱を横目に暮らしてきた。遠い先祖から伝わる話には、目の前に広がる光景はどれもニンゲンが作ったものだという。果てしなく広い青天井と、数え切れぬ木々を湛えて聳える山々以外のものはすべて。ここがニンゲンの森だというのはそういうことだ。

俺様は長らく生まれ故郷の森で他の鴉と付かず離れず暮らしていた。ところが数が増えすぎた、どうにも暮らしが窮屈になって、いられなくなって住み慣れた森を抜け出した。新しい森には気ままに暮らせる場所があると踏んで旅に出たら、それが甘かった。ニンゲンの森はどこも同じだ、めぼしい餌場は血気盛んな奴らの縄張りの中で、ようやく見つけた僅かな隙間も礼節を知らない若造どもが屯して譲らない。ろくに飯にありつけないままあてのない旅を続け、最後にたどり着いたのは開けた丘にあるニンゲンの森で、一番隅の狭苦しい区画だった。そんな場所に居ついてからいくつかの夜が明けた。

ニンゲンは一つの四角い巣に家族で寝泊まりする。そうして決まった朝に要らないものを袋に詰めて一か所に集める。俺様はそれをいくらか失敬するのだ。果物の切れ端や、魚の頭を上手いこと掘り出してやれば儲けものだ。ニンゲンはそれを嫌って鴉を追い立てるが、自分が要らなくなったものにまで意地を見せるとはなんて浅ましいことだろう。

結論から言えば、新天地の餌場は良くなかった。緑の網が悪い、あれがかかっていて袋が漁りにくい。やっと糸口を見つけたって、袋の中身がいいものとは限らない。相当に運が良くなければ当たりを見つけられない。そうこうしているうちに卑しいニンゲンがやってきて袋をすべて動く箱に詰めて持って行ってしまう。

まともに餌にありつけない日々が続くものだから、俺様は飢えていた。この地を諦めて旅立つにも体力が要る、今度こそ安住の地にたどり着けなければ、いよいよ死ぬばかりだ。そんな賭けには出たくない。

山の端から朝日が顔を覗かせる。俺様はねぐらから飛び出して空を回った。腹が減った、今日は何かを食いたい。朝焼けの空に黒い翼が光を放った。

上空から見下ろすと、ニンゲンの袋は既にいくつか集まり始めている。いつもの数には足りない。まだ目覚めていないニンゲンがいる。ニンゲンは時間に正確で、毎日同じ時間に巣から出てくる。

その時、俺様の頭に素晴らしい考えが浮かんできた。なぜ今まで思いつかなかったのだろうと不思議に思えてくるほどだった。袋を漁るのは簡単なことだ。緑の網に入れられては手の施しようがない、だが、ニンゲンが袋を置きに来る機会があるではないか。まるごと奪う必要はない、ちょいとニンゲンを小突いて脅かして、袋を放って逃げ出したところを悠々探ればよいのだ。これしかない、そう決め込んで俺様は辺りを見渡せる柱の上に止まった。

一生の中でもとても長い時間だった。ニンゲンを待ち続ける間も腹は空き続ける。俺様は必死に胃袋を鼓舞してその時が来るのを待った。

太陽が首をもたげて辺りが温くなる頃、果たしてそれはやって来た。ニンゲンだ、袋を抱えたニンゲンがよたよた置き場へ歩いてきた。あの中にはきっとうまいものが入っているぞ。俺様の腹もそう答える。行くしかない。俺様は一度高く飛び上がって、ニンゲンの頭に狙いを定めて急降下、脚の爪を突き出した。

――すんでのところで脚を引っ込めた。そのまま近くの地面に足を下ろす。咄嗟に俺様をこうさせたのは、先日の記憶が呼び覚まされたからだ。

俺様は一度覚えた顔は忘れない。このニンゲンは覚えている、ニンゲンのメスで、それも巣立ち前の雛だ。前にも袋を置きに来ていた、こいつの袋は、「大外れ」なのだ。この袋の中身はきらきら光る金属の筒だとか、苦い葉を包んで焦がした燃え残りだとか、生臭く臭う紙をくしゃっと丸めたのだとか、そんなのばかりだ。何の腹の足しにもなりゃしない。だからこいつから袋を奪っても意味がない。

俺様は太陽を遮り立ち尽くすニンゲンを見上げた。ニンゲンもまた急に目の前に降り立った鴉を奇異に感じて覗き込んでいる。手違いでとんだ骨折り損を働いた。さっさと戻ろう。

《・・・・・?》

ニンゲンが何か言葉を発した。聞き間違いかと思ってもう一度そのニンゲンを見上げた。

《・・・・・・・・・・?》

ニンゲンの視線はこちらに注がれている。間違いない、相手は俺様だ。このニンゲン、俺様に話しかけている。別に返事をするつもりはないが、得体の知れない生き物に俺様はかあと一声上げてみせた。意思疎通を試みるなら凡そ見当違いだと気付け。

《・・・・・・、・・・・・・。》

メスの雛は屈みこんでこちらに手を伸ばした。その時俺様は初めてその全身をまじまじと眺めた。

しなやかで細い指。黒い頭の毛は繕われず、伸びるがまま背中まで続いている。体の表面にまとった白い衣から覗く手足はそれと同じくらい青白く、骨の色がそのまま透けているかのようだ。このニンゲンは痩せこけた、不健康そのものだ。飢え死にするニンゲンを見たことはないが、いるところにはいるのだな。このまま餌が得られずにこれは死にゆくに違いない。

それじゃあまるで俺様と同じじゃないか。自嘲的な調子でそんな考えが頭をよぎった。

《・・・。》

もう一度声を上げた。骨ばった指をこちらに向けてひらひらさせている。

――分かった。ニンゲンは、俺様を籠の鳥か何かと勘違いしている。俺様は四本足の紐で繋がれた動物とは違う、ニンゲンの巣の中で日がな一日丸くなっている毛玉とも違うのだ。その態度が無性に癪に障った。

俺様は策を思いついた。手を出されるまま素直に近付く素振りをみせると、ニンゲンは笑顔になった。愚かな。そうして手元まで近付いて嘴を寄せ……次の瞬間、その指を強く咥えこんだ。

《・・・!》

しめしめ驚いている。まさか噛まれるとは思っていなかったのだろう。指を引っ込めてさすっているのが滑稽で、俺様はざまあみろと高らかに勝鬨を上げた。

《・・・・・・・・・・・・。》

ぼそぼそと呟いている。これに懲りてさっさと失せればよいものを。

《・・、・。》

はっと息を呑むのが聴こえた。黙って飛び去ればよかったが、つい振り返った。俺様が噛んでやった指をよく見れば、そこに鮮やかな血の色が滲んでいた。少し切れたらしい。

《・・・・・。》

ニンゲンのメスは指を抑えたままその場でおろおろしている。馬鹿だな、あんなのは放っておけばすぐ止まる。俺様だってそんなに強くやったわけではない。――だが、ああしたのは俺様だ。

馬鹿な話だ、自分が傷つけたのを自分で介抱するなんていうのは。俺様はニンゲンを先導して歩き始めた。何度か振り返ってかあと鳴けば、ニンゲンのメスは意図に気付いて後をひょこひょこついてきた。そうして芝の開けた場所にたどり着いて、石造りの基礎からひょっこり生えた金属をくいと捻ってやる。たちまち空に向かって水が噴き出した。

《・・・・・・・・?》

このニンゲンはここから水が湧き出るのを知らなかったらしい。こちらを見て目を丸くしている。ニンゲンは怪我をすると傷口を水に浸けたがるだろう?お前もそうすりゃいい。俺様は泉から降り立ってニンゲンにそれを指し示した。

《・・・・・、・・・・・・・・・・・・・?》

ようやく気付いたか、泉に近付いて血で汚れた指を洗い始めた。きっとああすれば痛みが和らぎ傷の治りが良くなるのだ。ひとしきり洗った後、濡れた手を拭って怪我をしていない手で水が湧くのを止めた。

ニンゲンのメスは近くの木の板に腰かけた。俺様ときたら今度こそ去ればよいのに、そこに留まってニンゲンの周りをうろうろしていた。胃袋は鳴り続けるばかりだが、そのことはあまり気にならなくなっていた。奇妙なニンゲンはまたしても鴉に向かって話しかける。

《・・・・・。》

何とも気色悪い。ニンゲンに熱心に話しかける鴉がいたらさぞかし滑稽だ。逆も然り、こんなニンゲンは皆の笑いものにされるに決まっている。俺様はここまできたらむしろ可笑しくなって、こいつが話し終わるまで観察してやろうと決め込んだ。

《・・・・・・・・・・・・・・。》

《・・・・・・、・・・・・・・・・・?》

ニンゲンは何かを尋ねている。当然分かるはずもない。そうだ、分かるはずもないのだが――。

憂鬱、まっすぐに向けられた瞳にはその感情が浮かび上がる。俺様の羽根より黒いものがあるとは知らなかった。

《・・・・・・・・・?》

黒い瞳が何かを期待しているのが分かる。そう訊かれたって分からないものは分からないのだ。俺は辟易してはいともいいえともつかぬ短い声を上げた。きっとニンゲンは都合のいいように解釈したのだ、返事に満足して頷いた。

《・・・。》

手をひらひらさせながら去っていくあいつを見送った。その日は終ぞ何も口にできなかった。


他愛ないニンゲンのメスに付き合って一日を無為に過ごしたツケが空腹という形で俺様に襲い掛かる。今日こそは何かを見つけて食わなければ。もはや飛ぶ鳥を捕まえる気力なんか残っていやしない。腹の足しになるものがないかと野原のあちこちをつついて回った。穴蔵の虫一匹でもいればいい、ニンゲンの雛の食べカスでもいい。黒い目を血眼にする勢いで辺りを掘り起こした。

――キラリと何かが光った。

その一瞬を見逃さなかった。駆け寄って草をかき分ける。そして次には湧き起こった希望がすべて落胆に変わった。

金属の環。嘴の先ほどの径をもつ環が、日の光を受けて銀に輝いているだけだった。どこぞのニンゲンの落とし物だろうが、今の俺様には関係ない。食えない、それだけで無価値と呼ぶに十分だ。

《・・・・・!》

大声で叫ばれて、思わず飛び退いた。あのニンゲンのメスだ。昨日と違わぬ姿でこちらに向かって今にも折れそうな腕をぶんぶん振っている。

《・・・・・・・・・・・・・・!》

そんなに黄色い声を上げられても困る。今日は本当にお前を相手にしている暇はないのだ。そんな事情も知らずにあいつは昨日と同じ場所に座り、無視して餌を探し続ける俺様に熱い視線を送る。

《・・・・・・・・?》

こちらが耳を傾けているかなんてお構いなしに語りかけてくる。

《・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・。》

《・・、・・。》

《・・・・・、・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・、・・、・・・・・・・・・・・。》

憂鬱、憂鬱。深刻な顔だ。それは俺様に話せば解決することか?

《・・・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・?》

何もない。根気すら尽きかけたその時に、俺様の脳裏に素晴らしい案が浮かんだ。いや、正常ならば無謀としか思えなかっただろうが、「正常ではない」俺様にはこれが世紀の名案に思えてならなかった。そうと決まれば何を躊躇することがあろうか、すぐに叢をかき分けに入った。

あの銀の環は先刻と同じ場所にあった。よしよし、俺様はそれをくいと拾い上げて、木の板に座るニンゲンの側に差し出した。

《・・・?!・・・・・、・・・・・?!》

ニンゲンは金属の小さいのが好きだ。後生大事に持ち歩く。そうかと思えばそれを簡単に人に渡す。それはきっと、大切なものを引き渡すかわりに自分がほしい別なものを手に入れられるからだ。この銀の環もまた、ニンゲンが好きなものに違いない。こんなに痩せこけたニンゲンだ、これを与えれば真っ先に食い物に換えてくる。俺様はそれを失敬すればいいだけだ。これは名案と呼ばずなんと呼ぼう?

《・・・、・・・・・・・・?》

そうだ、さっさと食い物に換えてくるんだ。俺はかあと急かす。

《・・・・・・・・・・・・・・・・・。》

ニンゲンは急に笑顔になった。環を拾い上げ、自分の指に嵌めて恍惚として眺める。何かがおかしいぞ。

《・・・・・、・・・・・・・・・・・。》

しきりにはしゃいでいるが、環だけじゃ腹は満たされないだろう。何をそんなに嬉しがっているんだ。俺様は腹が減ったんだ。

《・・・、・・・・・・・。・・・・?》

《・・・・・、・・・・・・・・・・・・・・・・。》

俺様はすっかり上機嫌になったこいつの調子に呑まれてしまって、何かを言い返すこともできずにいた。ニンゲンはさっきまでの憂鬱が噓のように晴れやかな顔でまくしたてる。

《・・・・・、・・・・・・・・・・・!》

《・・・、・・・・・・、・・・・・・・・・、
・・・・・・、・・・・・・・、・・・・・・・・・・・・・、
・・・・、・・・・・・・・・・・・・・?》

……期待されている、俺様が。こいつは何も分かっちゃいない。

《・・、・・・・・!・・。》

どうにでもなれ。かあと一声、それを待っていたニンゲンはいっそう顔を輝かせた。

《・・・・、・・・・・!》

あいつは立ち上がって、その場でくるりと回った。頭の毛がはらりと流れた。病的にほっそりした白い首が覗く。

《・・・!》

環の嵌められた手を振りながら笑顔で走り去っていく。

してやられた。俺様の思惑は何一つ達成されなかった。ニンゲンに縋るなんて我ながらどうかしていた。腹が減るからこんな馬鹿げたことを思いつくんだ。浅薄な自分を恨めしく思った。

しかしてニンゲンは奇妙だ。あんなに覇気のない廃人のようなやつが、俺様が渡したものでたちまち息を吹き返すなど。銀の環がそれほど貴重なものには思えない。考え得るのは、やはりあのニンゲンのメスが単純なやつだということだ。空腹事情は何ら解決に向かわなかったものの、それだけであいつが晴れ上がったなら、良くはなかろうが悪いことではない。


ちくしょう、空腹で目が覚めてしまう。ようやく見つけた小さな木の実を二、三食ったのがかえっていけなかった。一息に消化を済ませた腹が無様に泣き声を上げるんだ。そうは言ったものの、むしろちゃんと目が覚めたことこそが幸福なのかもしれない。もういっそ、食い物を探すより死の床を探した方がいいんじゃないか。卑屈になって止まり木の枝に寄り添っても、微塵も温もりを返してはくれない。

今日こそはまともな餌にありつかねば。小動物を捕まえる力も、あてのない宝探しをする気力もありえない。となれば、ニンゲンの出す袋に最後の望みを託すしかなかった。

置き場にはまだ何もない。今日は早く目覚めすぎた。だがちょうどいい、このまま袋を提げてやって来るニンゲンを待っていれば――。

初めに現れたのはあの若いメスだった。向こうもすぐに俺様を見とめて声を発した。

《・・・・・。》

おいおい何の冗談だ。あいつは前日に増してみすぼらしい成りをしていた。頭の毛はいつもより荒れ放題だし、白い衣を着ていたのが今日は薄汚れたぶかぶかの布切れで、あれはどう見てもオスの大きいのが着るようなものだ。おまけにあの顔、一晩中寝ていませんとでも言うかのように焦点の定まらない目をして、頬もげっそりだ。ありゃあ明日にでも死ぬ――俺様といっしょだ。

――肉!

肉の匂いだ。あいつから漂ってくる。正確には、あいつの袋だ。

次に気付いたときには俺様はもう無我夢中で袋に飛びついていた。

《・・・!・・・・・!》

ニンゲンが叫ぶ。知ったことか。そいつの手から離れた袋を俺様はつつき、破り、中を漁った。そうして掘り出したのは、てらてらと光るピンク色をした生肉の切れ端だった。

あるじゃねえか。

俺様は食らった。無心に食らいついた。ほんのり血の混じった蛋白質と油の塊が喉元をでろりと流れていく感覚は何にも代えがたい至上の喜びだった。生き返った、まさにそんな感じだ。

《・・・、・・・・・・・?》

横目に見たあいつは俺を見つめて呆然としていた。

《・・・、・・・・・・・・・・・・・。》

俺様に衝撃を受けたか?昨日は何を夢見ていたか知らないが、俺様は鴉だ。ニンゲンの嫌がることを平気でやってのけるのさ。

あいつは俺様に噛まれた指を見つめてぶつぶつ言っている。銀の環は相変わらず指の一本に嵌めている。その指は擦り切れて浅黒くなっているところがある。

《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。》

不意にあいつは立ち上がり、肉を食む俺様の隣にあった穴あきの袋を引っ掴んで、緑の網の中に放り込むと、急ぐように自分の巣へ戻っていった。薄々分かっていたが立ち直りの早いやつだ。


ニンゲンの思惑が何であったかは知らない。ただ、あれ以来明確な変化があった。あいつは毎朝ゴミ袋を置きに来るようになった。そしてその中身は以前のような「大外れ」ではなく、袋の端に必ず肉の切れ端が入っていた。それを緑の網の中に置きながら、肉のある端だけは必ずはみ出るように置いてあった。疑いようもなく俺様を意識していた。その親切通り、俺様は袋をつついて中の肉を頂戴するのだった。

そんな日が何日か続いた。あいつは外に出る度に空を見回す。お望み通り俺様が見えるように飛び立ってやると、目配せしてきた。俺様が食事を始めるとあいつは言葉少なに一言二言語って、それから巣へ帰っていくのだった。

《・・・、・・・・・・・。》

俺様が肉のコリコリしたのを嘴の中で回していると、うっとりと見つめながらあいつは呟いた。このニンゲン、貧相な見た目をしておきながら、実はこんなものを食っていたのか。大層なご身分で餓死寸前の俺様に近付いたものだ。今となっては水に流してやろう。

《・・・・・・・・・・・・・・・・・。》

言いながらニンゲンは手を伸ばす。こいつ、前にそうやって噛まれたのに懲りないのか。俺様も恩知らずじゃない、もう噛んだりしないが、触られるのは気色悪いので数歩退いた。

《・・、・・・。》

気を悪くしたか?いや、すぐに笑顔に戻る。立ち上がり、巣に帰る方向を向きつつこちらに手を振った。

《・・・・・・・・・・・。またね。》

――今、何が起こった?

俺様は確かに別れの挨拶を聴いた。ニンゲンの口から。あいつが鴉の言葉を覚えたか?

違う。あれは確かにニンゲンの言葉だった。


不可解なことが立て続けに起こった。徐々に、徐々に、地上から届くニンゲンの声が意味を持った言葉の羅列に聞こえ始めた。そんなはずがあるか、はじめは勘違いだと思った。だがそれは紛れもない現実だった。《今日はあつい》、《このはなしを知っているか》、ニンゲンの会話が「聞こえて」いた。些細な予感は確信に変わった。

俺様は、ニンゲンの言葉が理解できるようになった。

それはあのニンゲンの娘の言葉も同じだった。娘がしきりに話しかける言葉のいくらかが分かる。どうやら娘は俺様を可愛がっているようだった。

ゴミ置き場の脇の塀に寄りかかって、娘は肉にありつく俺様をにこにこ眺めていた。肉の切れ端は毎日部位が変わる。ある時は筋肉質だったり、脂ぎっていたり、またある時は骨付きだったり。わざと変えているのかもしれない。

《あなたの名前なんだけどね、》

名前?ふざけたことを。

ニンゲンの奇妙な習性に名前がある。ニンゲンはとかく名前をつけたがる。一人一人に別な名前がついているらしい。犬にも、物にも、気に入ったものに名前をつけるらしい。そんなのは御免だ。俺様は鴉だ、それでいい。

《カラスって・・・でクロウっていうんだって。だから、あなたの名前はクロウ。どう?・・・・・だけど、・・・・・よ。》

やめてくれ。俺様は不服の声を漏らしたが、それはむしろ歓迎と受け取られた。仕方ない、俺様はニンゲンの言葉を解するようになっただけで話せるわけでも、まして娘が鴉の言葉を理解できるわけでもない。

《よろしくね、クロウ。》

もう勝手にしろ。

《クロウ、・・・・だよ。》

俺様は娘を見上げた。娘は目が合って微笑む。今日のあいつは見慣れない装いだ。かつての白い服はもう着なくなっていたが、今日のは初めて見る。鼠色の服に下半身は波打つ折り目のついた腰巻、黒い靴を履き、手には革の鞄を持っている。「初めて見る」とは言ったが、俺様はこの服を初めて見るわけではない。むしろ、多くのニンゲンがこれを着ているのを見たことがある。

《気になる?そう、わたし、実はあの・・・・の・・・なんだよ。今日からまた・・・・に行くことにしたの。》

思い出した。この服を着ているのは決まってニンゲンの若い娘だ。そうして大きな建物に集合する。これはおそらく群れの証だ。この娘もまた、群れに加わるのだ。

《わたし、似合ってる?》

「似合う」とは何だ。場にそぐわない服もあるのか。「似合う」か否かなど俺様に分かるはずもないが――それを着て同じ場に集まるのが年頃のニンゲンの常だとすれば、こいつがそれに加わるのはもっともらしいことだ。

かあ。

《本当?!ありがとう!》

《女の子はね、・・をすると・・・になるんだよ。》

思えば、以前はなすがままだった髪が今は繕われて整っている。

《クロウ、行ってきます。》

去り行く背中を見送った。最近はよく笑うようになった。


飢餓に狂っていた頃が嘘のように俺様は強くなった。空高く飛び上がることができる。鳶のやつに目を付けられても睨み返してやれる。卑しい土鳩の連中は俺様に距離を置くようになった。この辺りでも勝手が利くようになったので、最近は別な食い物を探しに出かけることもある。流石に肉ばかりでは飽きるのだ。仮に収穫がなくたってゴミ置き場に戻れば娘が肉を捨て置いているのだから、気楽なものだ。

今朝の娘は早かった。俺様がゴミ置き場に姿を現した時にはもうそこにいた。娘だけではなかった。中年の女もいた。あれは確か、娘の家の向かいに住む女だ。女は娘に向かって早口にまくしたてていた。娘は俯きがちにそれを聞いている。不満、凡そそんな感情が見て取れる。俺様は高度を落として女の言葉に耳を傾けた。

《毎日毎日・・・ゴミを出して。・・・ゴミの・・・は決まってるのよ!》

なんだ、ゴミのことで文句を言われているのか。ニンゲンの群れは規則でできているらしい。ゴミ置き一つにまで規則規則か。息が詰まる。生きたいように生きるのが鴉のやり方だ。

《あと、ゴミはちゃんと・・・の中に入れてくれる?!カラスに荒らされてるんだから!》

《すみません。》

女よ、悪く言うな。あいつはわざとそうするように置いているのだから。

《まさか、わざとじゃないでしょうね?・・なのか知らないけど、あなたがカラスに話しかけてるの、知ってるからね。》

言われてやがる、鴉に話しかけるニンゲンなんておかしいんだ。

このまま黙って見ていてもいいが、それでは朝飯が食えない。あの女の生意気なのは癪だし、何よりこれに懲りて娘が肉を置きに来なくなったら厄介だ。仕方ない、一泡吹かせてやろう。俺様は再び飛び上がる。女の頭上で旋回し、位置を調整する。これだ、という瞬間を見定めて、尻から糞を落としてやった。

しめた、大成功だ。頭に糞を受け、悲鳴を上げながら逃げ帰っていく女。目の前で起きた出来事に娘は驚いて、こちらを見上げた。

《クロウ!》

俺様が前に降り立つと娘は笑いながら憤る。

《私に当たったらどうするの!?》

外すわけないだろう、俺様が。

《・・・・・だよ、私を助けてくれたんだね。》

過大解釈だ。

《ありがとう、私の・・・・・。》

娘はこちらに手を伸ばした。触るな。

《いけず!クロウは・・・・・・屋さんなんだから。》

何か酷い勘違いをされている。

娘は今日の分の肉が入った袋を置くと、お馴染みの格好でニンゲンの若者が集まる場所に向け駆けていった。


娘に出会ってからもうどれだけ経っただろうか。こんなに長い期間同じニンゲンを観察するのは初めてだが、ニンゲンの変わりようときたら目まぐるしい。娘は以前とはすっかり違う様子になった。それがどんなものであるかを述べるのは難しいが、最初のような生気のない立ち振る舞いでなくなったのは言うまでもない。ニンゲンは鴉よりもずっと長く生きる。生の長い生き物は相応に変化の速度も遅いものだが、ニンゲンは分からないものだな。娘が一人前の女になる頃、俺様はもう生きてはいない。娘が歩む長い道のりのその先を俺様が見ることはないのだ。……まったく、我ながらいつまであいつといるつもりだ。

娘の変化といえばそれだけではない。周りにニンゲンの気配がするようになった。あの服を着て出かけるようになったからか。中でも熱心なのは一人の男だ。最近娘の家の前まで来るようになったやつだが、娘と同じくらいの歳で、例によって鼠色の服を着ている。あの男は、言葉を聞くまでもない、求愛だ。男は娘に気がある。それでああして毎朝やって来るのだ。男の方は申し分ない、実に健康体だ。むしろ娘こそ見ての通りの不健康で釣り合わないように思えてしまうが、ニンゲンの優劣は健常さだけではないのだろう。そう思えるのを幾度となく見てきた。娘だって男のことが嫌というわけではないらしい。いつも笑顔で応対している。おめでたいことだ、あれはつがいになって、すぐに雛もできる。


娘は今日も出かけていった。毎日のように俺様の姿を追いかけることもなくなった。相変わらずゴミは置いていくが、中年の女を憚ってか、回数が減った。何も困りはしない、なぜなら今の俺様はこの界隈で一番知恵があり、強いからだ。以前の弱さは栄養状態が芳しくなかっただけだということをこの身で証明してみせた。だからもう餌場には困っていない。娘のもとを訪れるのはただ単にねぐらに近くて便利だから、それだけなのだ。

今朝は娘を見ていない。もう出かけただろう、ゴミ袋はきちんと置かれている。俺様は折角なのでいただくことにした。

冷たい肉を食みながら俺様はあることを思った。ゴミ置き場が荒らされたら他のニンゲンが憤るのならば、何も肉をゴミ袋に入れて置いておくことはないだろうに。娘の家の前にでも並べておけば俺様は勝手に取っていく。俺様は強いのだ、他の鳥が割り込む余地など与えない。娘はゴミに置いておかないと食べないとでも思っているのだろうか、考えの浅いやつめ、今度教えておこう。

《コラ!》

怒鳴り声がした。振り返ると、中年の女だ。ゴミ袋を持って立ちはだかり俺様を睨みつける。

《いつもいつもゴミを荒らしやがって!》

ものすごい剣幕だ。話しかけているのが俺様じゃなかったら何一つ伝わりやしないのに、健気なもんだ。辺りで一番の鴉になった俺様は少々調子付いていて、こんな女など取るに足らないものに見えた。そこで翼を広げて威嚇し、かあとやり返してみせた。張り合うように女は激昂する。思ったより単細胞な生き物だ、ニンゲン。次は何だ、走って追いかけてくるか?女は屈んで足元の礫を拾い上げ――まずい。

飛礫が俺様の足元を掠める。乾いた衝突音を立てて後方へ弾んでいく。あの女郎、殺すつもりか。女は次を手に取っている。すぐに逃げなければ、殺される――!!

《やめて!》

娘だ。どこからか駆けてきてすぐさま俺様と女の間に飛び込んだ。

《何するの!絶対に許さない!》

娘は俺様を庇うように座り込んで女に対峙する。娘の髪が目の前で光る。ニンゲンにしては小さい背中が荒い呼吸に合わせて上下する。

《くっ!あんた、どうかしてるわよ!》

娘の剣幕に狼狽えた女はさっきの調子を完全に失い、ゴミ袋を乱暴に投げ込んで去っていく。娘はその姿が完全に見えなくなるまで一度も目を逸らさなかった。

《クロウ!大丈夫!?ケガしてない!?》

振り返って涙を浮かべた目をこちらへ向ける娘。明らかに動揺している。俺様は自らの無事を教えてやるために一声鳴いた。

《今朝は会わなかったから何となく気になって。ごめんね、私が戻ってこなかったら、今ごろ。》

俺様の心配はいいが、娘、あんまり勢いよく飛び込んでくるものだから、膝を擦りむいて血が出ているぞ。

《ああ、これくらい平気だよ。》

そうは言っても。

《ふふ、舐める?》

気色悪いこと言うな。

《そうだね、ちゃんと洗わないとね。》

俺様と娘は公園の水飲み場に移動した。まるで初めて会った時のようだ。俺様が蛇口を捻って水を吹き上がらせると、娘はやっと笑顔を見せた。

《やっぱり上手。》

傷口を洗い流した後は木の板の長椅子に座った。これも昔と同じだ。俺様は娘の隣に飛び乗った。

《ねえクロウ、触ってもいい?》

……頭はやめろよ。背中を差し出してやると娘の手が首から尾に向かって流れた。繰り返し撫でた。

《あったかい。》

それはしなやかで、空を飛ぶときに体を撫でる風のようだった。その中でも指の一本に嵌められた銀の環が異物として感覚に残る。水に浸していた手は俺様の体温より冷たい、それなのにどこか温かい。

《大丈夫、あなたは私が守るから。》

貧相な娘の分際で驕ったことを言う。守られるのはお前の方だろうが。

《・・・・だよ。》

太陽が暑さを増していく間、娘は俺様のそばを離れなくて、辺りが昼の空気に変わったころにやっと娘は立ち上がって自分の行くべき場所へ発った。


一週間が過ぎた。

例のゴミ置き場には行っていない。ああして痛い目を見た場所はほとぼりが冷めるまで訪れないのが吉だと知っている。その間は別な場所で食事を摂ったり、無礼者の鴉に俺様の威厳を見せつけてやったりしていた。市街地でニンゲンを眺める日もあった。どうしてかニンゲンの言葉が分かるようになって、やつらの見え方はかなり変わった。

ニンゲンは目的を持って動いている。意味もなく街を出歩いたりしない。土鳩に餌を放り投げるやつだって、それ自体が目的で公園に来ている。多くのニンゲンが鳥に構いやしないのはそれが理由らしかった。忙しいのだ、ニンゲンは。周りに目をやる暇なんてなくて、無防備に歩いている鳥に手を出してなどいられない。場合によっちゃ鳥の存在にすら気付いていなかったりする。ゴミを荒らされて怒るのは家の周りを汚されるのが嫌な近所のニンゲンだけで、普通はゴミ漁りの鴉にも目を向けない。

ニンゲンは太陽の下でさえ目の前を夜の帳に包まれている、それくらい盲目だ。

同時に、いかにあの娘が普通でないかも分かった。鴉に話しかけるニンゲンがいないこともない。幼い子供は鳥を見つけて声をかけるし、中年の女だって怒りの声を発していた。娘の異常なのは、俺様に対する入れ込みようだと気付いた。ああまで親し気に話しかけるやつはいない。まるでニンゲンの男にささやくように言葉の一つ一つを贈る。あれは相当なお熱だ。

ニンゲンの言葉に、どうにも理解しがたいやつがある。

レンアイ。

今だって分かっちゃいないが、あの感情に察するところと、娘の様子とを照らし合わせると――娘は『レンアイ』だと思う。

あいつは今どうしているだろうか。

日は西に傾いている。どうせねぐらに帰るのだ、ついでに家の前を通ってみることにしよう。

果たして娘はいた。窓を開けて縁に腰かけ庭先に脚を投げ出している。驚くことに、服を着ていなかった。胸元と股座にだけ僅かな布をつけ、枝のように細く、絹のように白い肢体を風に吹き晒していた。毛も羽根もないむき出しの素肌の内側に、全身の骨格が透けて見える気がした。

俺様は娘の前に降り立った。どこか遠くを見つめていた娘の瞳が見開かれる。

《クロウ!》

俺様の名前を叫ぶ。

《どこに行ってたの!?一週間も姿を見せないで!》

《おいで。》

渋々娘の素足のそばまで近寄ってやると、手を伸ばして俺様の背中をさすった。

《心配したんだよ?ごはんも全然食べに来ないし。もしかして、あのおばさんが来ると思って怖かったの?!》

誰がニンゲンごときを恐れるものか。

《大丈夫、クロウにひどいことするおばさんはもういないから。そうだ、お腹空いてるよね、ごはんあげるね。》

娘は家の奥に消えていった。窓という窓が遮光された室内に西日が差し込む余地はなく、ここからでは中の様子は窺えなかった。

しばらくすると娘が皿を持って戻ってきた。血の色が照り輝く肉塊の載ったその皿を、娘は俺様のそばに置いた。腹は空いていないが、食わねば余計なことを言われると思ったので気休めに啄んだ。

娘が再び俺様の背中に手を当てる。不思議ともう悪い気はしない。

《ありがとう、私の王子様。》

『王子様』?

《私、今、幸せだよ。》

《前に訊いたよね、もし私が白い小鳥だったら、クロウは私を遠くへ連れて行ってくれる?って。そしたらあなたはこれをくれた。》

娘は左手の甲を見せた。左から二番目の指に銀の環が嵌められている。

《これが私に勇気をくれたんだ。》

銀の環を見つめる娘、俺様を撫でる時の目と同じだ。自分には何一つ心配がない、そんな安心しきった目。

《あれは仕方がなかったんだ。お父さんが悪いんだよ。これを見るなり私をその場で押し倒して、無理くり奪おうとするんだもん。クロウがくれた大事なものだから、必死で抵抗しようとして――そしたら、たまたまそばにあったんだ。》

《目の前が真っ暗になっちゃった、これからどうしようって。とりあえず汚れた服と飛び散ったのを片付けようとしたら、あなたが飛んできて、ね。》

――あの日のゴミ袋に、お前は何を入れたんだ?

《クロウ、お父さんはおいしかった?それとも私の指の方がいい?》

違う、俺様が指を齧ったのは。

《クロウは私との約束を果たしてくれた。元気をもらって、学校に行けるようになって、私は自由になれたんだ。》

俺様は皿を見た。少しばかりつついた肉塊がそこにある。――これは何だ――その部屋の奥に何がある?

《おばさんの味はどう?お父さんはあなたがみーんな食べてしまったからもうないんだ。口に合わなかったら言ってね、別なのを用意するから。――そうだ、彼がいいや。私に会いに来てくれる男の子がいるの。体もしっかりしてるし、優しいからきっと私たちの仲を応援してくれるよね。》

ケダモノだ、こんなのは。許されるはずがない!

《どうしたの!?怒ってるの!?あいつらは私たちを引き裂こうとしたんだよ、死んで当たり前でしょ!?》

俺様は飛び上がった。こんなものと一緒にいられるか。触られた背中に悪寒が走る。

《行かないで!》

《わたし、クロウのためなら何でもする!クロウが好きだから!好き、大好きなの!》

俺様の名は、クロウじゃない。

俺様がどんなに遠くへ飛んでも、その声は俺様に憑いて響き続けた。


人間の屍体を食わなくなっても、相変わらず人間の言葉が分かるままだ。人の世にある限り、俺様には奴らの思考が分かる。しかしどんなにそれに倣っても、俺様の喉はかあと乾いた鳴き声を立てるだけだ。それに引き換え、カラスの連中は駄目だ。どいつもこいつも餌を得ることか、子孫を残すことしか頭にないウスノロどもだ。あんな奴らと一緒にいると自分まで空虚に思えてくる。どちらも堪えられない。

人間にはなれない、カラスにも戻れない。人間とケダモノの中間になった俺様に、最早生きる場所はないようだ。


たった一つを除いては。