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黎明 後編

「アガタやん、自分……」

アガタの顔にフドーと名乗る男の吐息がかかる。怖くて声も出ない。

「ばりかわええやん!いくつ?……っても分からへんな。せやかて絶対ワイより年下やろ、な?」

アガタは自分の置かれた状況が全く分からなかった。いきなり現れて自分を縛り付け、桐野を吹き飛ばし、その上べたべたとかわいがってくるこの男は何者なのか。

――逃げなければ。木の根のような物体は既に腰まで伸びている。そのうちの一本を掴んで念を込めながら力いっぱい引っ張った。

「あー無理無理。そりゃワイが今力込めとお。それを奪おうなんざルール違反やろ。」

アガタの必死さを嘲るようにフドーはかかと笑う。彼女が手に込める力をさらに強めると、それに呼応するように背中から広げた長さが背丈ほどの翼が現れた。

「ほー、鳥はんや。『超越はん』にええもん貰っとんな。」

感心して翼を眺め回すフドー。アガタは手を止めて彼の顔を覗いた。

「あなたもわたしと同じ……『超越さん』に……。」

「『超越さん』?せやからそう言うとお。会いたかったで、我が愛しの……妹ちゃん。」

目と鼻の先でフドーの白い歯が光った。

「おいお前!アガタから離れろ!」

与作が叫んだ。彼女の後方で同じように縛り付けられて、抜け出そうともがいている。

「フドー!人質を解放しろ!」

五木が大声で呼びかけた。広場の十数メートル向こうから、狙いすました拳銃の照準はフドーの頭を捉える。安全装置は既に外されている。

「やかましいわ!ワイは今アガタやんと話しとるやろが!ちょー黙っとかんか!」

フドーは下ろしていた手を五木に向けてかざした。同時に石畳に亀裂が入り、整然と並んだタイルを盛り上げながら「何か」が彼女の方に走った。

「待って!」

アガタが声を上げる。それに反応してフドーが掲げた手を閉じると地中を這う「何か」は五木の足元一メートル手前でぴたりと止まった。

「あなたは、わたしを探しに来たんでしょ?」

「せや。長かったでーここまで。」

「何のために……?」

「同じ『超越はん』の申し子、いわば兄弟。一目見いひんと気が済まへんやろ?実際会うてみてもっと気になっとお、アガタやん、ちょーお話ししよ、な?」

「や、やだあ……。」

フドーが「つれへんのお」と頭を掻く。

「今更やけどアヤシイもんじゃあらへんで?登場の仕方が荒かったんは堪忍な。」

「おい変態!俺の言ったことが聞こえなかったのか!?今すぐアガタを放せ!」

「は?何なんアイツ。縛られとおくせによう喋るわ。ホンマにしばいたろか?」

アガタははっとした。この男はわたしに乱暴するつもりはないらしい。けど、それ以外は違う。どうでもいいと思っている。どうでもいいから、何とでもする。桐野や五木や、与作のことを。

「分かったからやめて!」

「ん、やっぱし大事なヤツなんか?もしや、コレか~?」

左手の小指を出して左右に振ってみせる。

「わたしが話を聞くから、みんなにはひどいことしないで!」

「ワイも別にケガさせたかないねんけどな。」

「花ちゃん!この人には何もしないで!」

五木はそのままの体勢でわずかに頷いた。周りを囲む自衛官は銃を構えたまま誰一人として微動だにしない。

「ま、兵隊さんは大学ん中じゃ筒ぶっ放せへんから、どっちみちしばらくは突っ立っとることしかできへんのやし。」

フドーが右手の人差し指を一度曲げ伸ばしすると、アガタの下半身に絡みついた根が一瞬に解けた。

「与作!」

アガタが振り返る。与作は相変わらず縛り付けられたままそこにいた。猛烈な敵意の視線のみをフドーに向けている。

「ねえ与作を放してよ!」

「いやーワイの身の安全のためにもうちょーあのままで置いとく。ヘーキヘーキ、アガタやんのお願いやし悪いようにはせんて。」

「そんな……。与作、ごめんね……。」

今にも泣き出しそうな悲しい顔、昨日も見た顔。与作は心が痛む。

「大丈夫だ。……お前、アガタに手出すなよ。」

「おーおっかな。」

フドーは足元に手を伸ばして即席の椅子を二つ創り出した。木の板に足を刺しただけの簡素なものである。

「座りや。」

「ありがとう。」

アガタは一脚を受け取ってそれに腰かける。作りは簡素でも四本の脚の長さは精巧に揃えられている。思い描いた通りに生み出せば造作もないことだ。

フドーは彼女の向かいに座った。たった今も多数の銃口が向けられているのに、全く意に介さずアガタの顔を見てはニヤニヤしている。

「アガタやんはなして人間とおるん?」

「何でって言われても、もともと自衛隊の人と一緒にいたし、今はそこの与作って人のところで……」

「それやそれ!自衛隊んとこにおるってのは分かる、ワイも最初はそうしとった。せやけど、今は人間の、兵隊でもない、馬の骨と一緒におるんやろ?」

「それは、だって与作は……」

「彼氏か?付き合っとお?」

脅し半分で対話の席に着かせておきながら調子付いたおじさんのような質問をしてくるのにアガタは当惑した。その質問はさっき与作が答えようとしていたっけ。どう答えていいか分からない。少なくとも昨日以前のわたしなら自信をもって答えていたはずなのに。

質問に答えられないとみてフドーは声色を変えた。

「アガタやん、ワイと来おへんか?」

「え?」

「正直、人間とおってもええことないで。ワイらは仲間同士、どっか遠くで暮らすんがええて。」

「なんでそんなこと言うの?」

フドーはフッと笑って突き出した親指で周りを指す。

「見てみい。兵隊さんに筒向けられとお、マトモなことじゃあらへん。それもこれも全部、ワイらが『超越はん』の申し子やからや。」

アガタは「一緒にしないでよ」と声を上げて語る。

「それはあなたが乱暴するからでしょ!?その様子じゃここに来る前にも悪いことしたんだ、だから追われてるんだよ。そんな人と一緒にいるなんて絶対無理!わたしはそんなことしないもん!」

「ホンマにぃ~?」

フドーの鋭い目つきにアガタは気勢を削がれる。

「アガタやん、自衛隊がホンマに手前を狙ってへんと思うとんか?自衛隊がいつでも手前の側におるんは守るためやない、ミョーな動き見せたらいつでもぶっ殺すため、とちゃうんか?」

「そんなわけ……!」

「ええ方法があるで。ここでちぃーっと暴れてみい。全部分かるで。」

「しないもん!」

フドーは黙ってアガタを睨みつけた。アガタは目を逸らそうと思った、でも逸らせなかった。蛇に睨まれた蛙は動けないんだ。すると急に彼はニカッっと笑った。

「ごめんごめん、怖がらせてごめんな。ええ子ちゃんでおったら自衛隊も悪いようにせん。――それができるんなら。」

彼は心が読めるのか、そうとすらアガタは思った。

昨日の夜、彼の背中に手をかざしてわたしは何をしようとしていたんだろう。怒りに身を任せて力を込めて……。もし測定器の音がわたしを呼び戻してくれなかったら、今頃、わたしの心の痛いのは、こんな程度じゃ済まなかったかもしれないんだ。

東の上空からローターの回転する音が聴こえた。自衛隊のヘリコプターが編隊を組んでこちらへ飛んでくる。フドーはそれを眺めながら目を細める。

「そろそろタイムアップや。アガタやん、ワイは大マジでっせ。」

手をキュッと結ぶアガタ、俯いて下唇を噛んだ。

「それでも、わたしはやだよ……。」

「そか。かまへんかまへん、せやけどな、ワイは自分のこと気に入ったで。」

フドーはそう言いながら立ち上がり、アガタの耳元に口を寄せて彼女だけに聴こえるように囁いた。それから少し離れた位置に歩いてゆく。不審に思って制止する五木をよそに、彼が拳を天に掲げると、轟音と共に地面が割れた。そしていくつもの幹が現れたかと思えば、それらは瞬く間に伸びあがって彼を囲む木立となった。

「この大学は緑が多くてええのう、増やしたるさかい。」

フドーはアガタに向き直ってまたニカッと笑う。

「ほな、また。」

次の瞬間、フドーは一蹴りに木の一本に登ったかと思うと、そのまま十メートルはあるかという跳躍を見せ近くの学部棟の屋上に移り姿を消した。


上空を舞うヘリコプターの音以外には何も聞こえない。広場の石畳を割って力強く根を張った辺りの木々は、もう何十年も昔からそこで育っていたとでも言うようだ。創造主が去った今でも自信たっぷりに広げた葉を風になびかせる。

与作は視線を戻してアガタを見た。何メートルか向こう、例の男と会話していた場所から動かぬまま、こちらに背を向けて木々を見上げている。かく言う与作も全く動いていない。自分の下半身に絡みついた蔓のような幹が一歩たりとも動くことを許さない。

フドー、とかいうかの男とアガタが何を話していたかは聞き及ばなかった。けれどもここから見る彼女はひどく動揺していた。

「与作!」

二人が東の学部棟の方から彼の名を呼んで駆け寄ってくる。早いうちに自衛官に救出されて安全なところに退避していた。尤も、男は彼らが眼中にないようであったが。

「あんた大丈夫!?ケガは!?」

「待ってね、今助けるから。」

そう言って二人はそれぞれに与作の脚に絡む枝の一本を掴んで力の限り引っ張った。

「ああ、悪い……」

しかしどんなに引こうとも枝は精々きしむ音を立てて曲がるくらいだった。

「鋸、とか……必要かな。」

「待ってください。」

アガタだった。駆け寄ってきた二人に気付いてすぐそばまで来ていた。

「理央さん、哲さん、少し離れて。」

確かで逆らい難い口ぶりに二人は手を離して立ち上がった。代わりにアガタが与作の正面に立った。

「大丈夫だったか?」

無言で頷く。それから片膝をついてそっと枝に手を当てた。

「うん、これならわたしの力が届く。」

静かにそう言って目を瞑る。次の瞬間、アガタが手を触れたところから順番にあれだけ押しても引いても効かなかった堅い枝が純白の羽根に変わっていく。与作はここまでゆっくりはっきりと『原子核再構成』が行われていくのを見るのは初めてだ。

軽やかだ。開いたままの読みかけの本が、春風に吹かれてぱらぱらとめくれていくように。

羽根は風に乗って木立になった広場を駆ける。揺れる葉のざわめきと合わさって舞台に舞う踊子のようだ。すべての羽根が舞の列に加わったころ、与作の身体は解放されていた。

「よかった……ズボンまで消しちゃわなくって。」

頭のてっぺんに羽根の一枚を引っ付けたアガタが言った。与作はこの場で下着を丸出しにした自分を想像して苦笑いする。彼女の頭の羽根を取り除き、手を取って立ち上がらせる。

「平気か、言附。大きなケガがないようで何よりだ。」

少し遅れてやって来た五木が言う。目標を逃した隊員たちは既に次の動きに移っていた。

「何よりも前に言わせてくれ。言附、それにアガタもだな……」

そう言うなり五木は深々と頭を下げた。

「本当にすまない。」

「花ちゃん……?」

「我々は君に重要なことを伝えていなかった。本来は伝えるべきであったにも関わらず。そのためにこのような事態を招いたのは、我々の責任だ。」

「まったく理解ができないんですが。」

「今となっては後の祭りだが、すべて話そう。それから……」

五木は哲と理央の方に向く。二人とも先刻からの状況のすべてに驚いて口を挟む余地がなかった。

「愛田哲さん、赤明理央さんですね。我々は陸上自衛隊です。我々に任意同行願います。」

「「え……」」

「このような状況の直後です、理解が及ばぬでしょうが、どうか。」

「待ってください、こいつらもですか?」

与作が横から問いかける。

「ああ。あの力に触れた以上、念のためお前と同じ検査を受けてもらわなければな。」

「そんな、こいつらまで……」

「自衛官さん。」

真剣な口調で理央が声をかける。

「与作も、同じところに行くんですよね。だったら、連れて行ってください。」

「理央!」

「僕も同じです。」

与作の懸念をよそに掛け合う二人に五木は重々しく頷いた。

その時、全員の耳にわざとらしい咳払いが聴こえた。

「いやーすみません。どさくさに紛れてバリケード抜けてきちゃいました。お節介ですがね、向こうの非常階段、封鎖し忘れてますよ。」

「教授《せんせい》……!」

いつもの呑気な様子で阿手内教授が立っていた。

「失礼ですが、どなたですか。」

「僕はここの教員の阿手内って者ですが、一応そこの子たちはうちの研究室で面倒見てるものでして。詳しいことは存じ上げませんが、学生を預かる者として放っておけないなあと思いましてね。」

「ああ、あなたが阿手内教授でしたか。申し訳ありませんがお引き取り願います。」

すると教授はアガタに向かってとぼとぼと歩いていった。

「や、アガタちゃん、元気?」

「せ、先生……。」

「見ちゃったよー、これ、どんな手品?」

教授は「ちょっとゴメンね」と言いながら彼女の足元に転がる羽根をつまんだ。立ち上がって「あー思い出した」と手を打つ。

「羽根と言えば、ついこないだ僕ね、ちょっとした手違いで備品を紛失しちゃったんだけどね、その備品を預けた学生がちょうどその時見たって言うんですよ、羽根を。こんな羽根だったんだよね、与作くん?」

「はい……」

教授はこんな言説で自らを関係者の内に入れようとしているが、本心では気になるからついて行きたいだけなんだろうと与作は思った。

五木はとうとう観念してため息をついた。

「では、あなたもご同行ください。」

先ほどの見立ては大方合っていただろう、その言葉を待っていたかのように目を輝かせる教授を見る限りでは。


その場にいた全員は駐屯地まで護送された。与作にとっては二度目の経験である。

前回より広い会議室で、他の面々を待つ間に聞いた話によれば、桐野は打撲と腕に軽い外傷を負って治療を受けている。すぐに復帰できるという。

やがて全員が同じ部屋に集まった。アガタの姿もあった。哲と理央は心なしか疲れた顔をしている。無理もないことだ。

全員を横に並べて座らせ、五木はその向かいに立った。

「本来ならば個別にお伝えするべきですが、何分慌ただしいもので、このような形になることをご容赦ください。」

「本日はご協力ありがとうございました。本件は……」

五木は途中で口をつぐんだ。目の前にいる人々の求めんとするものを察して長たらしい前置きは不要と思った。そうして手元の資料から与作に見覚えのある紙を取り出して三人の前に差し出す。

「誓約書です。国家安全保障に関わる機密情報保護のため、この先の話を聞くにはそこに書いてある内容を了承していただかねばなりません。」

三人は誓約書に目を通している。

「なるほどね、与作の言葉の意味がようやく分かってきた。」

「ダメだ、テツ。」

「それほどまでに大切な秘密なんだねえ。」

「教授まで……。」

与作は懇願するように五木を見る。

「なあ五木さん、この人たちは関係ないんですよ!今日のだって、こいつらを狙ったわけじゃないでしょ?巻き込まれただけですって!」

五木は眼鏡のつるに触れながら俯いた。

「私がこのようなことを言える立場でないのは重々承知の上だが――違うな、言附。」

顔を上げて再び与作を見据える。レンズの奥の瞳が鋭く光る。

「君が巻き込んだんだ。先んじて君が本件に関与したことで、本来ならばそこの少女のことなど知る由もなかった彼らを。」

――そうだ。俺が受け取った宣誓書、あれに署名をすることはこれほどの意味を持っていたんだ。そしてそれは今、テツたちの前にある。

「やっぱりダメだ。もう帰ろう。全部俺が悪かったからさ、このことはもうこれで終わりにできないか?」

バン。

理央が机を叩いた。もう片方の手は頬杖をついて与作を睨みつける。

「何それ?」

「部外者にしようってんじゃないんだ、俺はただ……」

「そろそろ言ってあげようか?いや、答えは要らない。テツはきっと言えないだろうから、私が言ってあげる。与作……いい加減にしなさい。」

続けてまくし立てる。

「ここ最近のあんたは何かおかしいってみんな気付いてたのよ。こそこそ、そわそわ、そんな感じ。みんなは女でもできたんじゃないかって笑ってたけど、まあそんな理由じゃないのは分かってた。確かに私たちもあんたが口にすることすら許されないような、大それた事情があったなんて知らなかった。それなのに詮索するようなことしたのは悪いと思ってる。でもね……テツは本当に心配してたんだよ。」

哲が名前を呼ぶのも無視して理央は続けた。

「与作、その言葉はもう手遅れなの。何はともあれ、あんたは一歩間違えば命にかかわるようなとんでもない状況に片足どころか両足とも突っ込んでるのを私たちは知ってしまった。それなのにあんたはそう言ってこの場を収めるつもり?臭い物に蓋してそれでいいでしょって?もう一度言う、いい加減にしなさい!『僕はちょっと命がヤバいような事件の渦中なんだけど、君は何も知らないままいつも通りに接してくれたら大丈夫だよ』って、もしテツが言ったら、あんたどうするの!?答えなさいよ!」

「ごめん。」

「ごめんじゃないの!」

理央が勢いよく立ち上がる。反動で座っていたパイプ椅子がけたたましい音を立てて倒れる。

「理央くん。」

教授が優しくも重々しい声で彼女を止める。理央は荒い呼吸を整えて聞き入った。

「与作くんの平静でない様子について君たちが気にかけていたのは知っているよ。特に仲のいい二人は尚更ね。けれども、彼の立場になって考えてごらん。今の言葉は何も僕たちを軽んじてのものではないだろう?それにこの機密がそれほど重大なものならばさ、アガタちゃんの存在そのものを知られることだってきっと不都合があるはずだよね。それを承知の上で彼がこの子を君たちに紹介したのは、彼なりの精一杯の誠意ではないのかな。どうかな。」

答えを求めて与作を見た教授に彼は軽く頷き返した。

「友人ならそこはお互い汲んであげるべきだよ。」

そう言いながら教授は立ち上がって、床に転がったパイプ椅子を組み直して理央の背後に置いた。「すみません」と言って彼女は座り直す。

場を仕切り直すように五木は資料を立ててトンと整える。

「赤明さん、言附さんの言うことはもっともです。そこに署名することの意味はきちんと理解してください。」

「分かっています。この胸のつかえが取れないうちは、他の何だって手につくものですか。」

理央は手元のボールペンを取って一息に書類を書き上げた。与作はそれを歯を食いしばって見ていることしかできなかった。

残る二人の誓約書も受け取り、五木は一度頷いてアガタを隣に呼びつけた。

「ではまず彼女から説明しましょうか。といっても言附が誓約違反スレスレのことをしてくれたおかげで、名前くらいは知っているでしょう……」

五木は以前与作に伝えたのとほとんど同じ内容を繰り返した。違うことといえば『原子核再構成』をその場でやってみせなかったことくらいだ。披露するまでもなく、ついさっき目の前でまじまじと見たから疑いようがなかった。教授などは非常に興味深そうに聞いていた。

話が一段落ついたところで五木が息を吐いた。

「なかなか驚かれないんですね。」

「話しがいがありませんか?」

教授は笑った。五木が「いえ別に」と返す。「いちいち訊き返されないので助かります」と与作を横目に呟く。

「学者というものはね、未知の世界に驚いたりしないのですよ。」

「この若者たちも学者の卵ですから」と腕を広げ満足げに語る。

五木は眼鏡をずり上げた。アガタはその隣で小さくなっている。先刻からこの調子だ。

「言附、ここからが君にも話していなかったことだ。勘違いしないでほしい、我々は伝える義務を怠ったのではない、本件と無関係故伝える必要がない、と判断されていたんだ。」

そう言いつつ五木は手元の資料の中からホチキスで留められた一部を取り出す。

「『原子核再構成』を使えるのは、こいつだけじゃなかった。」

「あの男ですか。」

軽く頷き、数枚のA4用紙に印刷された内容を読み上げる。

「アガタが発見されてすぐ後、兵庫県内で同じような身元不明人が保護された。クセのある明るい髪、近畿地方の方言を喋り、枯草色の服を着ている。そして『超越』の名の認識と、常軌を逸した力。すぐに自衛隊の保護下に移された。同時期に確認された似たような二つの事例に対して便宜上の呼び名が付けられた。先に発見された方、つまりアガタを《甲》、もう片方を《乙》。《乙》が名乗る自称、それは――フドー。」

その名を聞いた時、アガタの肩がこわばった。

「二つの事例は別件として扱うとされ、確認場所から《甲》を第一師団、《乙》を第三師団の管轄に置くこととされた。以来、《乙》は中部方面隊の駐屯地で生活していたのだが――」

「《乙》は脱出した。アガタの『家出』みたいなかわいいものじゃない、駐屯地内の装備品と建造物に多数の被害を与え、明らかな敵意を持った逃走だ。すぐに捜索部隊が組織され丹波山地の一画に《乙》を包囲することに成功した。レンジャー部隊を動員して山中での捜索が行われたが……ヤツは追い詰められた状況を逆手に取った。」

五木はそこまで喋って、「木を隠すなら森の中だ」と呟いた。

「アガタが背に翼を生やし、教授の記憶装置やヘリコプターを羽根に変えたように、《乙》は物質を植物、とりわけ樹木に再構成することを得意とする。見ただろう、木立になった石の広場を。山中に分け入ったレンジャー部隊は周囲が既にヤツのテリトリーであることに気付かなかった。一個分隊と完全に通信が途絶え、増援がたどり着いた時、隊員たちは枝にぶら下がっていたという。結局部隊は丹波山地での対象確保に失敗、今日まで捜索を続けていたが……」

「俺たちの前に現れた。」

「《甲》と《乙》に対しお互いの存在は秘匿していたが、ヤツはどこかで漏れ聞いたらしい。まさかこちらまで来ていたとはな。こうして情報公開が後手に回ったことは本当に申し訳ないが、こちらにも事情があるんだ、どうか察してほしい。」

質問してもいいですか、と哲が挙手した。

「今後はどうなさるんですか?」

「現時点で《乙》は大学構内に潜伏中のようです。既に大学全域を我々が封鎖しました。本部は次なる作戦を実行しています。今はそれ以上は申し上げられません。」

「花ちゃん、わたしは……?」

アガタが細い声を上げる。ここへ来てから喋らずじまいで五木の話にも首でしか答えていなかったから、うまく声が出なかった。

「ヤツの狙いが分かった以上、お前は駐屯地で厳重警備のもとにいてもらわなきゃ困る。言附は……むしろ我々といない方が安全だろう。他の方々も。そんなわけで落ち着くまでは会えないだろうが……それでいいか?」

「俺はいいですけど……」

アガタを見ると、こちらをちらと見て小さく頷いた。

「安心しろ、私もなるべく顔を出すようにするから。」

五木が彼女の肩を軽く叩く。

「大丈夫だ!五木さんたち自衛隊は強いから!」

「そ、与作の言う通りね。」

「僕もお饅頭用意して待ってるよー。」

口々に励まされてアガタは「ありがとう」と言い、もっと小さな声で「ごめんね」と呟いた。

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全学の封鎖から一夜が明けた。

啓倫大学の中核たる常葉《とこば》キャンパスに今、学生の活気はない。キャンパス内に通じるありとあらゆる道は自衛隊のバリケードが張られ、隊員が立ちふさがっている。学生や教職員はもちろん、風が心地よい学内のプロムナードを日課で出歩く市民までもその存在を許されていない。この街の中心に巨大な要塞が出来上がっていた。

それとは裏腹に、この空前絶後のニュースに全国は大盛り上がりを見せている。朝刊の一面は軒並み啓倫大学に関する記事。ニュース番組では拡大放送が行われ、何の事情も知らない著名人の発言を取り上げては浮き沈みを繰り返し。啓倫大学はめでたくツイッターのトレンド一位も獲得した。大学で極秘の実験が行われていてそれが事故を起こしたのだとか、さらに実験には自衛隊も関わっていたのだとか、果ては秘密裏に新兵器の実験が行われているのだとか。大方は面白がった悪戯心が生んだ珍説である。

その中には真の情報もあった。フドー襲撃の目撃である。とある映像はたちどころに伸びゆく樹木を確かに捉えていた。当事者がそれを見れば間違いなく本物だと言い切れるものであった。しかし不思議なことに、ネットの海に溢れた大量の嘘の中、その真実はかき消えてしまった。映像は何十万回と再生されたが、今では頭から信じない者か、妄信的に信じる者かのどちらかの他にはいない。

大学内に一般人はいないが、その周辺は大変な賑わいを見せている。昨夜から正門前の通りは報道陣によって自然に作られた特設の取材スペースが設けられている。その他にも急な休日が訪れて暇を持て余した学生が興味本位で見に来たり、何事かと様子を窺う周辺住民、反自衛隊の横断幕を掲げた市民団体、ひっきりなしに出入りする自衛隊車両にご自慢のカメラを向ける愛好家たち、ここぞとばかりに自らを売り込みに来た政治家、動画投稿者、宗教団体、ただの変人……。

吐き気がするようなモラルだ。すべてを知っている与作は顔を背けた。

噂には既に連隊規模が本作戦に動員されていると聞く。それがどれほどの人数なのか与作には想像もつかない。

彼は今、正門前にできた一番大きな人だかりを遠くから一瞥して、すぐに来た道を引き返そうとしていた。彼らと同じ類には思われたくない。今さっきも人だかりの中に見知った顔を見つけてしまった、誰かにこの姿を見られてしまえば、自分もやはり「その類」の人間になってしまう。不名誉なことだ。

「与作くん?」

そう思っている矢先にまんまと声をかけられてしまった。あろうことか前方から。与作は俯く首をひょいと上げて声の主を見た。

「教授……?」

阿手内教授だった。大学は開いていないというのにお馴染みのよれたスーツを着て背中を丸めている。

「ああ、やっぱり与作くんだ。いやこれは、恥ずかしいところを見られてしまったな。」

そちらから声をかけた割に妙なことを言う。

「どうしたんですか?」

「ちょっとでいいから研究室に行けないかなーと思ったんだけど、門番の人に掛け合う前にこのごった返してるのを見て諦めたんだよね。」

「何か置いてきたんですか?急な封鎖ですもんね。」

「そういうわけじゃあないんだよね。僕はあそこの方が落ち着くんだ。」

「家よりも?」

「そう。」

与作は少し考えて、にやりとした。

「それは、家だと奥さんとウマが合わないからですか?」

痛いところを突かれた風に教授は狼狽えた。

「違うよ与作くん、決してそういうわけじゃないんだ。」

「でも日頃言ってるじゃないですか、家には僕の居場所がないんだ~って。」

「誤解だ、それは誤解だよ。僕と家内は仲が悪いんじゃないからね?」

「ではご自宅にいてもいいのでは?」

「それは……」

答えに詰まって教授は首を傾けた。

「また一つ、若者の結婚への意欲を僕が削いでしまう結果となった。」

教授はこれから駅に戻るというので与作は帰る道すがら途中まで付き合うことにした。このように大学の外で教授と話すのも珍しい。

「どうでしょう、あれから何か浮かびましたか?」

「何か、というと?」

「アガタの力とか、『超越さん』の正体だとか。」

「いいや、まったく。」

もうお手上げ、と教授は実際に両手を挙げながら笑った。

「僕たちの知る世界が根底から覆されてもおかしくない話だよねえ。」

「もう既にそんな感じですよ。」

やけに上機嫌な彼の様子を見て与作は昨日と同じ疑問が浮かんだ。

「五木さんの話を聞いてるときもそうでしたけど、教授はどこか楽しげですね。」

「不謹慎と言われるかもしれないけどね、それはそうさ。……あーこれ言っちゃおうかなー。」

「どうぞ。」

「自衛隊と協力して、お忍びでアガタちゃんの力について研究している専門家のグループがあるんだってさ。今度僕も仲間に入れてもらえないか掛け合ってみることにしたんだ。」

「おお、なんかかっこいいですね。」

「この歳にしてね、こう心にボッと火が点いた感じさ。何せまったく未知の世界の扉が開いたんだから。」

「教授らしいですね。」

「そういえば」と与作は昨日の話題を切り出す。

「駐屯地でも言ってましたね、『学者は未知の世界に驚いたりしない』って。」

「そうだね。そもそも学者はまだ誰も知らない世界のことを相手にしてるんだから、世の中に知らないことがあるのに驚いたりしない。前に話したことがあるよね、無知の知。」

「覚えてますよ……でも半分くらい。」

「素晴らしい人の話を半分も覚えているなんて。ぜひとも僕の研究室に来るといいよ。」

「もう入ってます。」

教授は髭をさすりながら大げさに笑う。与作もつられて微笑んだ。

「確か、学問のはじまりは無知を自覚することからだ、って話でしたよね?」

「そうそう。第一に、世界のすべてを知る者はいない。これは多くの人が同意するだろうね。」

「はい。」

「それから、『私は○○について知っている』という人、これは真に理解しているのではなく、知った気でいるだけなんだ。」

「専門家という人たちですか?でも普通の人よりは詳しいでしょう。」

「そうだろう。でもそれについてすべてを知るわけではないよ。そう言う者があれば、試しに問答してみるといいよ。」

問答?与作はその言葉を繰り返す。

「とはいえやっぱり自分よりその人の方が知識量があるから、どこかで言い負かされると思います。」

「こうするんだ。辞書を開いて言葉の意味を調べる、その説明の中に出てきた単語を調べる、そうやって辞書のあっちこっちを巡る。それと同じことだ。これはどういうことですか、じゃあそれはどういうことですか、あなたはなぜそれが分かるんですか、と繰り返す。根気強くやってるといつかどこかで彼は言葉に詰まる。すべてを知ってるなら何を訊かれても答えられるはずなのに、おかしいよねえ。」

「なんかそれって揚げ足取りみたいじゃないですか……?」

「何を言うか、古代ギリシアから続く由緒正しい論法さ、はは。」

教授は与作の方を向いてにこりと笑ってから視線を前へ戻す。

「とにかくね、どんなに新しいことを学んでも、自分は無知のままだ。いや、むしろどれだけ学んでも新しい発見は尽きないから無知だと気付かされる。それこそ学問の原動力と呼んで差し支えないのではないか。」

「だから無知であるという自覚が必要だと。」

「これがこの世界に入って僕が身をもって学んだことだね。」

教授がゆっくりと首を縦に振る。

「教授なら『超越さん』のこととか、あっさり解き明かしちゃいそうですね。」

「それはどうかな。」

「俺はそう思いますよ。」

教授は唸った。「僕が思うに……」と言って一呼吸置く。

「現時点で『超越さん』の一番近くにいるのは君だ、与作くん。」

「ええ?」

「というよりも君たち、と言うべきかな。」

「君たち」に含まれているのはアガタだ。あの子と一緒にいることが、果たして真実に近付く道なのだろうか。教授の考えには頷きがたい。

話題は尽きないが、別れの交差点が見えたのでこれ以上の話はよした。

「それじゃ俺、こっちなんで。」

「アガタちゃんがいないと退屈かな?」

「それが、今晩はあいつらが来るっていうんですよ。」

「へえ、哲くんと理央くんが?それは楽しそうだね。一応言っておくよ、羽目を外さないようにね。」

「はい。」

笑顔のあとの、歯切れのよい返事。教授はそれを聞いて満足して、ちょうど青になった信号を渡っていった。


「ヤアヤアおじゃましまーす。お、模様替えしたんだねー。」

どてどてと部屋にあがりながら理央は見慣れない家具の配置に気付く。

「まあな。」

与作は彼女とその後にあがってくる哲とを交互に見た。どちらも手にレジ袋を提げている。近所の格安スーパーで買ってきた菓子やら総菜やらでたっぷり膨れている。

「大学の様子、見てきた?」

客人を招き入れ玄関の鍵を閉める与作に哲が尋ねる。

「遠巻きにな。ありゃひどい。そしたら帰り道で教授にばったり会ってさ。」

「教授に?あの人は家にいても手持ち無沙汰そうだしね。」

「正解、まさにそんな感じだったよ。」

哲は苦笑いする。

「ねえねえ、寝るときどうしてるの?」

部屋をぐるりと見回しながら理央が訊く。

「ベッドはアガタに取られたから、新しく布団を買った。前に使ってた来客用の突貫工事の寝床じゃ背中に悪いしな。」

「確かに、自分の背中は労わった方がいい。」

「それよりなんでわざわざうちに来たんだ?」

「広義の避難ってとこ?そんな感じ。」

「はあ。」

横から哲が出てきてこう説明した。

「あんなことがあった後だから、この件が落ち着くまでは僕たちのところにも警備の人を置いてくれるみたいなんだけど、それだったら三人一か所にいた方が自衛隊の人も手間が省けていいんじゃないかって。そう提案したら了承してくれたからこうして与作の家を避難所にしたんだ。」

「ああなるほど。」

「二人の生活どうなってんのか気になるしね。」と得意顔の理央が言った。

「てことはあいつを捕まえるまでここに泊まるつもりか?」

「いいや、今晩だけ。さっきのは口実で、本当は久しぶりに与作のお宅訪問をしようと思っただけなんだ。」

「そうだろうとは思った。」

「もしかして、久しぶりに一人で寝るのが寂しくなったりしちゃってる?」

「そんなに人肌恋しくはない。」

「まあさ、明日明後日のうちに一件落着してあの子も帰って来るんじゃない?」

それだったらいいんだけどさ、と与作は呟く。

テーブルの前に座りこんで、二人が買ってきたレジ袋の中を物色するうちに、酒類が入っていないことに気が付いた。

「お前らこんなに買ってきた割に酒はないのな。うちはアルコールのストックないぞ。あいつが勝手に飲んだら困るからさ。」

「いいんだ」と哲は首を振る。

「晩飯の後にでもまた買ってくればいいよ。」

「二度手間じゃない?」

「あったらすぐ飲んじゃうでしょ。」

「ダメなのか?」

「与作、たまには素面で真面目に話したいこともあんのよ。」

二人そろってそんなことを言うのは今までにない。理央なんか溜まった愚痴がある時は「酒がなきゃ話せない」と言って強引に飲みに誘ってくるのに。よっぽど大切な話があるのだろうとすぐに察して、与作は「そういうことなら」と座り直した。

話題は与作の想像通りのことだった。理央は駐屯地でのやりとり以来の反省を口にした。

「私、あの時のことは結構反省してて……」

「そんなことないって。」

与作は言った。

「あれくらいガツンと言ってくれた方が目が覚めたっていうか、気付かされたよ。」

「あんたのことじゃない。」

「え?」

「あんたに言い過ぎたな、とかカケラも思ってない。むしろ足りないくらい。」

「あっ、そっすか……。」

「そうじゃなくて、アガタのこと。あの子、あの時どうしてた?」

与作は記憶に残る彼女の姿を思い返した。部屋にいた間中、置物のように静かにしていたのを覚えている。「超越さん」の話題のときだって前に話したような得意気な感じはまったくなかった。駐屯地で保護されることになっても文句の一つ言わない。端的に言えば、あの日は「らしく」なかった。

「あんまり元気なかったな。原因に思い当たる節が多すぎて分からん。」

「元気なかった、そこが重要。あの時私はあんたに対してキレたけど、隣で聞いてたあの子にしてみても責められてる感じだったと思う。自分に関わることで私たちの間に齟齬があったなら、元を辿れば自分のせいだって、そう思わせちゃったと思う。そこらへんフォローするのを完全に忘れてた。」

反省、と理央は言った。

「アガタ、今きっと相当落ち込んでる。そんな時にこうしていつ会えるか分かんない状況になるってのは、かなりまずいよ、与作。」

「そうだ。言われて初めて気付いたよ。」

「一番いいことにはあんたがあの子に会って来ればいいんだけどさ、問題はそれだけじゃなくて……。」

「何が問題なんだ?」

すると理央は人差し指を挙げ、ゆっくり倒して与作に向けた。彼はしばらく理解できなかった。

「おれ?」

素っ頓狂な声を上げる。理央は重々しく頷いた。

「はっきり言って今のあんたが会いに行ってもあの子のためにならない気がする。」

「俺が頼りないから?」

「半分合ってて半分違う。今与作が思ってるような『頼りない』って意味じゃないの。なんていうか、この……」

説明に詰まって唸る理央。それを見て哲が横から語った。

「理央が昨日言ってたよね、『僕が心配してた』って。事実、ここ最近の与作はちょっと心配な感じだったよ。もっとも、与作のことを一番気にかけてたのは僕じゃなくて理央だけどね。」

「別に……!」

理央の頬があからさまに赤くなる。

「ええ、そんなに怪しかったのか、俺?」

「自覚ないのね、やっぱり。」

「与作は『隠し事をしてるのを察知された』と思ったみたいだけど、それだったら『心配』はしないでしょ。それだけじゃなくて、与作には何か心に引っかかるものがあって、悩んでる風があった。理央はむしろそっちの方を気にしてたよ。……今、こうして隠し事についてはその全貌を知るに至った。だけどさ、まだ『心の引っかかり』の方を聞いてない。だから今のままではアガタちゃんのことを受け止めるには不十分だと思うな。『頼りない』ってのはそういうことだ。悩み事を抱えてる人に対してお悩み相談したいって思う?」

理央は隣で冷静を装って頷く。

二人の言うことは間違いない。今日まで何となく身が入らない気分がしていたのはその通りだった。

「それでも、俺には自分の悩みが何なのかピンとこないよ。何に悩んでるか分からないなんて、変な話だけどな。」

「それなら当ててみようか。」

哲は至って真面目に言う。

「原因不明の体調不良に見舞われることはよくある。それと同じで、自分の悩みの種が分からないなんて珍しいことじゃない。そういうときは一つ一つ自分の心にクイズを出すんだ。」

「それって心理テスト?」

「ある種の自問自答だよ。思いつく限りの可能性をあたるだけ。例えば、与作の悩み事は関西弁の彼についてではないね。昨日まで存在すら知らなかったんだから。」

与作は引き込まれるように聞き入った。

「アガタちゃんの秘密をどうやって周りにバレないようにするかってことは?」

「違う。俺はちゃんと隠せてると思ってた。……結果はこのザマだけど。」

「じゃあアガタちゃんをめぐり自衛隊の人とか、あれこれとどう折り合いをつけるかってこと?」

「いいや、割とどうにかなるかなーって思ってたかな。俺、テキトーだから。」

「『超越さん』のこととか?」

「それは……。そうだ、理央に話したことあるんだ。それについての悩みだったら自覚してるよ。」

「そういえば、あの質問はまさしくそれについてだったね。いきなり答えにくい質問される身にもなってよ。」

悪いな、と与作は理央を見やって苦笑した。

「だったら……」と言ってから、哲は考え込んだ。そしてふふっと笑ってこう尋ねた。

「アガタちゃんと仲良くやっていけるかなーってこと?」

「さすがにそれは……。いや――」

そうらしかった。与作はこの問いかけに妙にしっくりくる自分がいることに気が付く。単純すぎて拍子抜けしてしまうような理由が、見つからなかったパズルのピースみたいにうまくはまる。

黙り込んだ与作に哲が「正解かな。」と微笑む。

「呆れた、そういうのマリッジブルーっていうんじゃないの?」

理央が横槍を入れる。哲が思わず吹き出す。

「何それ?」

「知らないならいい。」

「と、とにかく分かって良かったね。」

与作は腕を組んだ。考えてみれば自然なことだ。大それた話の連続ですっかり気にも留めなくなっていたが、異性と同棲することだって人生において初めてである。漠然とした不安を抱くのも無理はない。

「俺はどうすりゃいいんだろう。」

「そうだね。」

「慣れろ、って言いたいけどそれじゃ今すぐ解決しないし。」

気が付けば三人とも同じ姿勢で考え込んでいた。

不意に哲が「よし」と声を上げた。

「アドバイスなんてそんな大仰なものじゃないけどね。」

そんな謙遜の言葉から入るとき、きまって彼の話はたいそうなことだから、与作は期待を寄せていた。

「与作の選んだことは間違ってないと思うよ。あの子と一緒に暮らすという選択は。これまでアガタちゃんは自衛隊の基地で暮らしてたんだよね?生活に必要なものは充足しているけれど、気の合う仲間やおしゃべりの相手はいない。それはとってもつまらないことである以上に、それだけじゃ生きていけない。そんな状態に比べたら、好きな人と同じ屋根の下で暮らせる今は天と地ほどの差がある。」

与作は照れくさくて目を逸らした。

「人間は社会的動物なんだ。」

与作が同じ言葉を繰り返すと、哲は「そう」と頷いた。

「一匹狼で生きていける動物とは違う、自分が生き残る確率を上げるために群れる動物とも違う。自らの周りに社会的関係が必要な生物であるってこと。」

「社会と関わりがないと生きていけない、っていうわけか。」

「うん。これを言い換えるなら、人間は生まれながらに友愛《ゆうあい》を求め、それなしでは生きていけないってこと。」

「なんか分かる気がする。」

「この友愛はさ、単に友達の間の友情を指す言葉じゃないんだ。家族や仲間はもちろん、社会や、延いては国家を形作るものでもあるという。つまり共同体の本質は、網の目のようにつながりあった人と人との関係だってことだよね。それが友愛。」

「友愛には三つの種類があると言われてる。一つは、有用であるもの。一つは、快いもの。」

「もう一つは?」

「善であるもの。」

「そうか。うん、分からん!」

思い切りよく理解を放棄して与作は両手を後ろにつく。「もっと分かりやすく説明しなさいよ」と理央が脇から文句を言った。

「そうだね。有用な友愛とは、相手との関係が自分にとって役に立つということ。『あの人と一緒にいると自分の役に立つから仲良くしよう』ってな感じ。快い友愛とは、相手との関係が自分にとって快適だということ。『あの人と一緒にいると楽しい』とね。ところで与作、僕たちの友愛は三つのうちどれだと思う?」

「ちょっと待て。三つめの説明を聞いてない。善である友愛って何だ?むしろそれが一番訊きたい。」

「ごめんごめん。言葉の通りだよ。関係それ自体が善なんだ。お互いが善い人であって、付き合いそのものが徳の高い善であること。じゃあ改めて、三つのうちどれ?」

与作はテーブルの上に目に見えないカードを三枚置く。それぞれに書いてあることは、有用な、快い、善である……。少し考えて、その中から一枚を取った。

「お前らのおかげで落単を免れたことは何度もある。話してて楽しいのは言うまでもない。だがそんな言い方するってことは三つめだ。……正解?」

「メタな推理はやめなさい。」

「うん、僕もそう思ってる。」

拳を握って「うし!」と与作が喜ぶ。

「お察しの通り、友愛の中では善であるものが最も称賛されている。さらにこうも言われてる、真に善である友愛のためならば利他的行為も、場合によっては自らの命すらも懸けられるのだと。」

「おお、そんなにか。」

「それはどうだろう。さておき、友愛を築くなら利益や快のためよりは、善であるものの方がいいってことだね。」

哲が語るにはアガタとの関係も分かりきった利益や快のためではなく、「善い」ものでなければならないという。「善い」が何を意味するのか、はっきりとしたことは分からないが、少なくとも一言で言い表せるような具体的なものではなさそうだ。

次なる問題は、いかにして「善である友愛」が形作られるのかである。

「結局俺はどうすればいいんだろう。」

与作は頭を抱える。

「必要なことがいくつかあるよ。まず、一方通行の好意は友愛とは呼べない。友愛のそもそもの条件が『三つのうちどれかの動機があって、お互いが相手に好意を抱き、お互いが相手の好意を認知している状況』だからだよ。自分がどんなに相手を想っていても、相手がそれを知り、同じように想っていなかったら友愛は成立しない。」

「ファンがどんなにアイドルを推してても、アイドルの方はファンの名前も知らないんじゃ対等な友愛じゃない、か。」

「あんた、それは全国のアイドルファンを敵に回すんじゃない?」

「マジで?」

「例えとしては悪くないと思うけどね、僕は。まさにそんな感じ。」

「ほらね」と言わんばかりに得意気な目を向けられ、理央はため息をつく。

「ほらテツ、次行こ、次。」

「はいはい。もう一つは、見せかけの善じゃダメだってこと。一見、善である友愛によって相手との関係を欲しているようであって、実はそれが自分にとって都合がいいから相手をそばに置いておきたいという願望のためだった。これが見せかけの善、利己的で非難すべきものだ。」

「例えばどんな感じだろう?」

「そうだねえ、友達のことを純粋に思いやって行動していると自分自身も思い込んでいたけれど、実は無意識のうちに自分が有利になれるように状況を操作していた、みたいな。」

「腹黒いな。」

「腹黒いね。そうでなくても、善である友愛のつもりだったけど突き詰めれば自分の利益や快のために関係を築いていた、なんてこともある。」

そこまで聞いて与作はまたも考え込んだ。

「そう言われちゃうとな……。俺はお前らを都合よく使いすぎてる気がする。締切直前のレポート手伝ってもらったりとか……」

「それはそう。」

「間違いなく。」

二人そろって強い調子で同意するので与作は心の中でコミカルにずっこけた。

「大丈夫、誰もいいように使われてるなんて思ってないし。」

「考えてみると、善である友愛って難しいものなのかな。テツの言う通りどれも突き詰めれば善でなく見えてくる。」

「確かにね。……僕には友愛そのものが難しいものに思えるけど。」

「それはテツが口下手なだけだろ。そんな根暗みたいなこと言ってんじゃねえよ。」

「そうね。」

哲は「返す言葉もございません」と頭を下げる。

「僕が言えるのはさ、二人の関係は常に『自分のため』であって、『他人のため』でもなくちゃならないってこと。」

話はこれでおしまい、哲が手を合わせた。その仕草が不思議と教授に似て風格と茶目っ気があったのが可笑しかった。

「実践的な恋愛のアドバイスじゃないからあまり役に立たなかったかな。」

「全然。むしろそんな平凡な話ならテツに訊かねえって。」

「それもそうか……って、それは僕に経験がないから?」

「いやー、そういう意味じゃないよ?別に?」

理央がしばらく与作の顔を見つめ、不意に「うん」と口にした。

「あんたが次にやることは決まったね。」

「何?」

「何って、会いに行くの、今から!」

「今からぁ!?」

おおげさに仰け反る。

「もうこんな時間だぞ?」

「こんな時間、ってほど遅くないでしょ。二時に『夜はこれからだ』とか言い出すやつが何言ってんの。」

「日はまだ沈んでない。最近は日が長くなったよね。」

「でもさあ今は会えないんだって、聞いただろ?」

「会えないったって、食い下がってみたら分からないでしょ。」

「だけど、うーん……」

「与作、会いたくないの?」

理央は突っかかるように尋ねた。

思えば、最後に見たアガタの顔を思い出せない。別れる時も目を合わせてなかったから。きっと、笑ってなかった。笑ってなかったならそれは良くないことだ。会いたくないかと問われれば、会いたかった。すごく。

「なに迷ってんだろ、俺。わりい。」

「そ、その調子。」

与作は床に放ってあった薄手の上着を引っ掴んで立ち上がった。

「わざわざ来たってのに悪いな、この家のもの好きにしていいから。」

「珍しくないことでしょ。」

「人を家に上げておきながらバイト行ったりするからね。」

そんなこともあったなあと与作は頭の片隅で自らの行為を思った。

「すぐ戻って来る。」

「長くなったって構いはしないってば。」

「そのうち何か返すよ。ありがとな……ホントに。」

「気にしないで。」


背中を押されるままあてもなく家を飛び出したが、心配することはなかった。近所に大勢の自衛官が集まっている場所があるではないか。関係者以外立入禁止ではあるが、そこには五木もいるだろう。そうでなくても、与作を見知ったアガタの対応部署の者がいるはずだから、彼らを頼ればいい。

そんなことを思いながら大学への道を行く中途で、もっと手っ取り早い方法があることを思い出した。五木に渡された電話番号があった。仕事中だから繋がらないかもしれない。それでもダメもとでかけてみる価値はある。

連絡先の「阿手内教授」の次の欄に五木に教えられた番号がある。思えば哲は通話アプリでしか連絡してないから電話番号もメールアドレスも知らないんだ。他の友人もほとんどそうだ。最後に携帯で電話をかけたのがいつ、誰にだったかも覚えていない。

無機質なコールを数回繰り返し、諦めて赤いボタンに親指を伸ばしたところでコールが止んだ。

「もしもし……」

「もしかして、言附か?今どこにいる!?」

ただならぬ剣幕だった。与作はあっけにとられて少々反応が遅れた。

「えっと、家の近くを歩いてますが……」

「アガタは一緒じゃないのか!?」

「それはそうですよ。どうかされたんですか?」

「そうか……。すまなかったな。」

などと言ったきり、与作の要件も訊かずに電話を切ろうとしたので、彼は慌てて呼び止めた。

「あの子に何かあったんですか?」

「あとで説明する。今は忙しいんだ。」

「待ってください、その口ぶりだとまたどこかに行ったんですね?」

「あとで説明する。」

「今説明してください。」

さっきより携帯を強く握りしめた手に汗がにじむ。

「やっぱりいなくなったんですね?」

「……問題はない、居場所は分かっている。」

「どこですか?」

「……もういいだろう、切るぞ。」

「分かりますよ。駐屯地から出て、俺のところに来てないとなれば、行き先は決まってる。――あいつ、あいつのところに行ったんですね?!」

フドー、与作は彼の含んだ笑いを思い出した。去り際、彼はアガタに何か耳打ちしていった。あの行動にもっと注意を払っておくべきだった。

電話口の五木は黙っていた。与作は質問を続ける。

「五木さん、今どこですか?」

「大学だ。」

「俺も今から行きます!あの子のところに連れて行ってください!」

「馬鹿言うな!できるかそんなこと!」

「アガタは自分の意思であいつのところに行った、なら連れ戻すには説得しなきゃいけない。俺なら――俺ならあの子を呼び戻せます!」

「お前話聞いてるのか?ダメだ。」

「じゃあ五木さんたちに連れ戻せるんですか?」

返答は少し遅れてやってきた。

「危険だ。勝手なことはさせられない。」

「承知の上です。五木さん、フドーは自衛隊の監視から抜け出した、そしてアガタを唆したのはあいつだ。あの子が何を考えたのか分からないけど、この状況で、誰の言葉を一番聞くと思いますか?……お願いします。」

五木は「少し待て」と言って通話から離れた。周りにいる人と話しているのだろう。与作はその間も大学への道を急いだ。

しばらくして五木の呼ぶ声がした。

「東門に回れ。案内役を立たせておく。」

与作は荒い息で答えて、夜が迫る街を駆け抜けた。

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研究棟の内部は足元の様子も判然としないほどの闇が覆っていたが、目が慣れるにつれ部屋の全貌が明らかになった。今アガタがいるのはエントランスホール、一階の大部分を占めている。備品の類はすべて撤去されたのか、空間を貫く数本の柱を除けば殺風景なものだった。

フドーはエントランスの中心、正面入口から直進したところに座っていた。目を閉じているが、声をかけたのだからアガタのことは把握している。彼女はそっと声をかけた。

「電気……つけないの?」

「つかへん。あっても要らんし。……もう見えとおやろ?」

「……うん。」

「ワイらの目はようできとおからな。夜の森でも一度も迷うたことあらへん。」

フドーは目を開いた。沈みかけの太陽が差す、ほんの僅かな光だけで彼の顔は不思議なほどよく見えた。

「何してるの?」

「只管打坐《しかんだざ》、禅の境地に至るにはただ座るだけでええ。ゆうて、『ただ座る』ってんが難しいこっちゃ。余計なことは何も考えたらアカン。」

「ぜんぜん分かんないよ。」

「かまへんかまへん。」

フドーが「座りや」と近くの床を指した。そこにはいつの間にか座布団が敷いてあった。藺草編みの、座布団というより柔らかい畳である。アガタは渋々靴を脱いでその上に正座した。

「あなたのこと、まだ信じたわけじゃないんだけど。」

「せやけどワイの言う通りここに来た。大歓迎やで~アガタやん~。」

そう言いながら彼がにじり寄ってきた分だけアガタは後ろに退いた。

「あなたには話を聞きに来ただけだから。」

「そうなん?ま、ええで。何でも問答したるさかい。」

フドーが姿勢を正した。アガタは座布団を後ろにずらし距離を取って座り直す。

静かな世界。外の木々のざわめきがよく聞こえる。二人以外に動くものの気配がまったく感じられない建物。アガタは本当ならこんな不気味な場所、少しだって居たくないと感じたはず、しかし今は違った。一人ではないからだろうか?目の前に彼がいるからだろうか?それが例え不信を抱いている人物でも?

「フドーは、本当に『超越さん』に生み出されたの?」

「なんべん言わせんねん、ホンマのホンマに『超越はん』の申し子や。この力と、確かな悟り、それが十分な証拠やんか。」

フドーが右手のひらを前に出して、空を掴む。それから差し出すように開いた手には細い小枝が一本乗っていた。アガタは「そう、それ」と呟いた。

「木の枝とか、どうやって出すの?植物なんて枝も葉っぱもちっとも出せないよ。」

質問に対して彼はしばらく悩んでいたが、急にかかと笑って「知らん!」と答えた。

「ワイもなんとなくやっとお。説明できん。せやけどワイかてアガタやんに訊きたいくらいや、背中に生やす翼はどうやっとん?」

「あ、あれは……こう背中に手をやってパッと。ああ、でもそうしなくても出せたりするや。」

「パッとねえ……。『超越はん』の申し子でも、力の使い方は違うとるらしいや。」

「それよりわたしが訊きたかったのはあの時!わたしの脚に絡んでたやつ、どうして力が効かなかったの?あんなの初めて。」

「あー、ありゃルールや。」

「ルール?」とアガタは訊き返した。フドーが腕を組んで頷く。

「この力は借りモン。力使うとる時、『超越はん』にお願いしとおやろ?ワイもや。二人で同じモン操ろう思うて同時にお願いされたら、『超越はん』困ってしまいはるやんか。せやからそん時は、先に触った方が優先。んで、ワイが居らんくなったら、アガタやん、きっと力効いたやろ?そん頃ワイはあの枝のことなんかアウト・オブ・眼中やさかい。」

「へえ。同じ力の持ち主同士、互いに創り出したものには簡単には力が効かないんだ。」

「この間思いついたこっちゃ。ちゅーか自分、そういうこと何も知らへんねんな。」

「むう、だって使わないようにしてたんだもん。」

何気ない指摘が、嘲笑されたようでアガタはむっとした。

「なんで?」

「花ちゃんが……自衛隊の人が使っちゃダメって言うから。」

それを聞いてフドーが「けっ」とわざとらしく拗ねた様子を見せる。

「あのなあアガタやん、人間は『超越はん』の力持ってへんからそないに言うんや。ほぼほぼ妬み嫉みや。『手前らには使えへんから自分も使わんといてやー』って、んなアホな話あるかいな。ワイらは『超越はん』に選ばれとお。好きに使うたらええ。」

「それじゃあダメだよ!!」

声を荒げた。

「いつか、取り返しのつかないことになるよ。」

「……ほう?聞かしてみい、その話。」

「あなたは乱暴だから分からないだろうけど――」

アガタは打ち明けた。些細なすれ違いから生まれた怒りが、あわや自らを破滅へと導きかけた。その破壊衝動は音もなく忍び寄り、すべてを「無意識」というベールの下で遂行させようとした。罪の意識から逃れたいだけの方便に過ぎないのだろうが、あの時のわたしはわたしじゃなかった。どす黒い何かに体も心も乗っ取られたみたいだった。

「こんな身に余る力を与えて、『超越さん』はどうしてほしいのかな。わたしには分からない。」

「敢えて空気読まんで言わせてもらうで……」

フドーは目線を横にやった。

「あの与作っちゅーアホンダラは今ピンピンしとお。せやから今となっちゃ、何が問題なん?ケンカの原因は多かれ少なかれ両方にあんねん。カーッとなって周りが見えへんようになるんは誰でもや。んで、アガタやんはゴメンて言うたやろ?せやったらこの話はおしまい。」

「そんなのずるだよ。与作はこのことに気付いてないんだよ。これを聞いたら与作だってわたしのこと嫌いになるよ……」

「もとはと言えばそのアホンダラが悪いやろ。アガタやんをせまっくるしい部屋に閉じ込めて、アガタやんは鳥かごの鳥とちゃうで。」

「それはわたしも嫌だったけど……それが与作といっしょにいるための約束だったんだ。」

「約束ぅ?」と怪訝そうな顔をしてフドーは繰り返す。

「ホンマしょーもな。人間との約束なんざ目くそ鼻くそやわ。」

アガタは大きめのため息をついた。

「フドーに話したこと、ちょっと後悔してる。ううん、かなり後悔してる。」

「いやゴメンて。そないに気に病むこっちゃないって言いたいだけや、な?」

フドーの顔が険しくなった。ここからの自分はマジメモードです、そんな感じだった。

「アガタやん、アガタやんが辛いんは手前のせいじゃあらへんで。」

「なんで?全部わたしのせいだよ。与作を困らせちゃったのも、ひどいことしようとしたのも。」

「ちゃう。人の生ってのが、元来そないなモンなんや。」

「……どういうこと?」

指折り数えながら、フドーはこのように語った。

「人は生きとったら老いて、病に伏し、いずれ死ぬ。それだけでも苦しいのに、愛しとお者と別れたり、ばり恨めしい者に出会うたり、欲しいモンが得られんかったり、心身の活動で苦しみが生まれたり、究極的には、生きるっちゅーこと自体が苦しみに満ちたモンや。アガタやんが今辛いのはな、苦しみに満ちた生を生きとるからや。」

「……そんなのやだな。生きることから逃れる手段は、一つしかないじゃん。」

「いや、どうにかする方法はあるで。苦しみの原因を取り除くこっちゃ。なんで辛くなるか言うたら、煩悩があるからや。煩悩って知っとお?煩悩とは欲望、あれが欲しい、これが欲しいっちゅー思いが消えへんかったら、そこから苦しみが生まれんねん。」

あれが欲しい、これが欲しい――。

一人の退屈を紛らわせたくて、花ちゃんにいろいろなものをねだった。孤独を埋めたくて、心の隙間を埋めてくれる相手を探した。それがダメだっていうの?

「何も欲しがっちゃダメなの?」

フドーは頷いた。

「目先のモンに囚われたらアカン。」

「そんなに割り切れないよ。」

「せやな。」とフドーはしきりに頷く。その上でこう語った。

「考えてみ?欲しがったところで、この世のモンはみんな儚いで。欲しいモンを手に入れても、いつかはボロになって無うなる。好いとおヤツと一緒に居うても、いずれはどっちも亡うなるんや。この世に永遠なんてあらへんのやし。せやったら、ホンマに手に入れる必要あるんか?」

「それでも、やっぱり一人はやだよう。他の人はみんな楽しく暮らしてるのに、なんでわたしだけ……?」

「気落とさんといてや。俗世ってのはそないなモンや。俗世の中に居ったら、煩悩の火を消すことはできへん。」

「じゃあどうするの?」

そう答えた途端、フドーは目を見開いて「山!」とこちらを指さした。

「山ごもりや。現にワイはそうしとった。自衛隊の基地に居った時、人の世はどーにも無常で、何の意味も感じられへんで、しばらく山に隠れた。生きんのに最低限必要なモンはこの力でどーにかなる。あとはひねもす川べりの岩に座っとったり、木の根元に寝っ転がっとったりな。結果、どーにもならんことはなかったわ。ありゃ悪くないて。アガタやんがしたいって思っとおなら、今からでも教えたるで?」

「ええ……。やっぱりお風呂は入りたいなあ。髪の毛ゴワゴワになっちゃうもん。ちゃんとベッドで寝たいし、ちゃんと料理したもの食べたいよ。もしかしてこれが煩悩?」

「かまへんかまへん、女の子やもんな。」

フドーは微笑んでアガタの頭を撫でた。その瞬間、フドーはお風呂入ってるんだろうかと頭をよぎったが、今しばらくは考えないことにした。

「フドーの言いたいこと、よく分かるよ。でもやっぱりわたしには難しい。そんな立派な考えなんて持てないから、苦しみと仲良く生きていくしかないんだ。」

「心配せえへんでええ、ワイが居るさかい。『超越はん』の兄弟たるワイがな。」

「案外やさしいね。でも嫌い。」

「きびし~」

フドーががっくり肩を落とす。

二人とも黙り込んだ。二人の間にある小さなランタンがコンクリートの壁に巨大な影を写し出していた。

「でもさあフドー、じゃあ何で山から下りてきたの?」

「自衛隊に見つかってもうたからな。同じ申し子仲間が居るっちゅーウワサも気になったし。それにな――ワイは悟ったんや。」

静かな語り口で彼は続ける。

「確かに、この世は苦しみに満ちとって希望なんかあらへん。そしてそれはワイらだけやない、人間も、みーんな同じやなって。そん時、そん時や、悟ったんは。ワイは特別や。『超越はん』から直々に授かっとるこの力も、この心に確かな『超越はん』の存在を感じとるんも、人間は持ってへん特別や。特別な者には特別な使命がある。――ワイはこの力でもって、この世を生きる人々を苦しみから救ってやらなアカン。それが『超越はん』の意思や。きっとワイは前世で相当な功徳を積んどったらしいや。」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

アガタが話を遮った。

「フドー、『超越さん』の意思が分かるの?あと、前世って、わたしたちが生まれる前を知ってるの?」

「もちのロンやで。」

洒落を言いながら得意そうに笑ってみせる。

「人は死んだら生まれ変わる、これはアガタやんも聞いたことあるねんな?」

「うん。本当かウソか分かんないけど。」

「ホンマのこっちゃ。そんで、生前の行いによってまた人に生まれたり、畜生に生まれたり、あんまし悪いことしたら地獄に落ちたりする。ワイらも『超越はん』の申し子として生まれる前はきっと人間だったんやろな。」

「そうなの?」

「その方が自然や。言わずもがなワイらは人間より『超越はん』に近い。せやからワイらの前世は人間の、それもかな~り上澄みの『いい人』だったらしいや。」

衝撃だった。だったら生まれ変わっても人間のままでよかったとすら思ってしまう。

「ワイらもはよ功徳を積んで『超越はん』と同じ高みに行かな。」

「え……?それって、わたしたちも『超越さん』になれるかもしれないってこと?」

「おう!」

大きくガッツポーズをしてみせる。

彼の話を聞き、アガタは口元に手をやって考えた。いい人は自分のような力を持った者として生まれ変わる。力を持った者はいい行いをすれば「超越さん」と同じ高みに到達できる。ということは――。

「『超越さん』は元々……」

「人間やな。」

「そっかー……ええ!?」

今のノリええなあとフドーはニヤついた。

「正確には人間だった頃があるっちゅーか……。ちょー昔話しよか。」

そう言って彼はこんな話を始めた。

「むかーしむかし、古代インドの小さな国でな、王子様が生まれはった。流石一国の王子様やわ、それはそれは不自由ない生活を送っとった。お妃様も子供もできた。せやけどやっぱしワイらと同じ苦しみを抱えとった。生きることそのものの苦しみや。どーしてもこの世の苦しみに絶望して、ついに家族を置いて出家しはった。つまり俗世を離れて修行するっちゅーこっちゃな。厳しい修行の甲斐もなく心は乱れとったが、ある時苦行をやめて木の下に座っとったら、突然悟りを開いた。それからというもの、多くの弟子を従えて説法をし、教えを広めたのち、齢八十にして入滅しはった。つまり、仏さまになったんや。」

「その王子様が『超越さん』なの?」

「ちょー違うとる」とフドーが首を横に振る。

「『超越はん』は『超越はん』や。王子様が生まれる前からな。その上で『超越はん』は一度王子様に生まれ変わって人の世に降り立ちはったんや。現世の人々に教えを説くためにな。そんで仏さまになっとお。人間がありがたやって手合わせとお仏さまは、『超越はん』の一つの姿やな。」

「お寺の大仏が『超越さん』なの?」

「そーじゃないんやわ。」

「もう、分かんないよ。」

彼の言うことがちっとも分からなくてアガタはすねた。

「『超越はん』が王子様として現世に降り立って、その王子様は仏さまになった。せやから大仏さまは人間だったころの見た目に似てはるんやな。これはご存知の通りや。せやけど大仏さまは『超越はん』の生まれ変わった一つの姿でしかあらへんから、『超越はん』そのものとはちゃうんやで。」

「なんとなーく分かったような分かんないような……。フドーはいつ知ったの?」

「いつも何も、元々そないなモンやろ。」

「元々……?」

「そ・れ・よ・か!」

さっきの話に戻すとフドーが言った。心なしか急いているようである。

「『超越はん』のもとに、一切衆生を救わなアカン、それが力を持って生まれたワイの使命や。せやからまずは、アガタやんを縛っとるモンから解いてやらな。――ほうら、ちょうど来よった。」

「え、それって……。」

フドーは黙って彼女の背後にある窓を指し示した。辺りは完全な夜が訪れていた。それでも月明かりに照らされた外は明るい。だがこの明るさは、それだけではない。

「あそこから正面の様子が見える。そーっと見て来いや。」

言われるがまま窓に近付いて、アガタはちらと外を窺った。

自衛隊。大勢の隊員が建物を囲むように立っている。おそらく全周にわたって同じように配置されているだろう。正面にはさらに多くの隊員がいる。武器も持っている。アガタを追い、そしてフドーを捕らえるために来たんだ。彼女はその中に五木の姿を見とめて一層の不安が募った。さらに予想外のことには、その隣にいた人物の存在であった。

「与作……!?」


錆びついた金属の大扉、人の手が触れることで輝きを失いくすんだノブ、蝶番はひどく風化して開ければ身悶えし金切り声を上げそうだ。

ここはお化け屋敷の入口ではない。かつてはこの辺りの林を利用した研究を行う拠点だった場所だ。そして今は国家を揺るがし得る二人の人物が中で交渉相手を待ち受けている。

「言附、心は健常か?」

静かな声がした。隣に五木が立っている。今さっきの与作と同じように扉を見つめたまま視線を逸らさない。戦闘用のヘルメットに防弾チョッキを身につけて、身体が何倍も大きく見える。そう思ってから与作は自分の頭に手をやる。硬い感触、自分の頭が二回りも大きくなった感覚。彼も今、彼女と同じような恰好をしているのだ。

「不思議だな、自分がここに立ってることすら変に思えてくる。身体は何処も平気、指先だって震えてはいない。それなのに、震えを感じる。身体のもっと深いところ――芯が、どうにも落ち着かないんですよ。」

「ここにいる目的はなんだ?」

与作は深呼吸する間に自分に問いかける。

「この中に入って、アガタを話をすることです。」

五木は何も答えないまま頷いた。視線は動かさない。自動小銃を支える左手を置き直した。

「すべてさっき伝えた通りだ。フドーとの交渉は私が行う。お前は答えなくていい。お前は――」

「アガタのことだけ考えろ、ですよね。」

「そうだ。」

五木が耳に手を当てた。通信をしている。それから元の姿勢に戻った。

「言附……前に私がお前の気分を害することを言ったかもしれない、すまない。……私は、そういう性格なんだよ。」

「えっと、具体的に何時のやつですか?」

「何はともあれ、君はここに立っている。それは並の人間にはできないことだ。君のように勇気と根性のある者は自衛官に向いているよ。」

このように五木が慣れないことを言い出すので、与作はこそばゆい気持ちになった。自分の調子を狂わせようとしているのかと思えた。

「やめてくださいよ……。」

「君が羨ましいよ。あの子にもモテるわけだ。」

「そんなことはないっすよ。」

「冗談だ。緊張はほぐれたか?」

「あっ、そういうことだったのか。」

「当たり前だろ。」

五木さんがこんなこと言うはずないもんな……。

「安心しろ、お前は私が守る。」

そんな言葉を平然と言えるのだから、五木さんの方がかっこいいと思う。

「準備ができた。行くぞ。」

言うなり五木は返事も待たず、必要最低限だけ扉を開けて、するりと中へ入った。。


建物内は暗い。ずっと前に電力の供給は断たれており、人を安心させる灯りはどこにもない。与作は渡された懐中電灯を点けた。明るく照らされた壁を見つめると、その周辺の闇はさらに濃さを増す。やがて向こうで明かりが点いていることに気付いた。暖かい色の光だ、光源は地面にあるらしい。そちらに懐中電灯を向ける前に五木の顔を見た。五木は軽く頷く。そのまま進もうとのことだ。

奥の壁に光源に照らされた二人の人影ができている。人の背丈の三倍ほどの大きさで、縁がぼやけた影は隣同士で座っている。与作は安心した。アガタは少なくとも縛り付けられたり、非道な扱いを受けてはいない。やがて光源の正体が分かった。ランタンだ。柱の向こう側に置いてある。

話し声がする。二人は立ち止まって会話に耳を傾けた。

「ええか、ここに油が入っとお。油槽は外っ面と同じ形しとるさかい、それをイメージするんや。」

「うん……。」

「ランタンの燃料はパラフィンっちゅー油や。ま、灯油でもええねんけど……難しいことはかまへん、さっき見せた油を思い出せばええ。それをこの油槽の中に直接創り出したる。こん時にキャップをきっちり閉めとったらアカンで。内の空気が無うなって真空になってまう。それから間違うても外っ面や芯を消しとばしたらアカンで。まま、やってみい!」

「ええ、難しいよ……。」

「物は試しでっせ。」

しばらくしてアガタが「あっ」と叫ぶのが聴こえた。

「あーあー指先から油出したらアカンて。ホンマにアガタやんはぶきっちょやなー。」

「もームリ―!」

「ごっつニオイ残るで、こりゃ……。」

「やだー!」

布切れでアガタの指を拭いてやりつつ、フドーは痺れを切らして柱の向こうに語りかけた。

「いつまで盗み聞きしとお、変態!」

五木が手で合図を送り、柱の陰から出てくる。それに与作が続く。

「ランタンオイルも創っているのか。そのランタンも自分で出したものだろう。」

「何でもや、何でも。自分らがホンマにトロいからこちとらアガタやんにずっと消えへんランタンのやり方教えとってん。」

「こちらは定刻通りに来たぞ。」

「与作、花ちゃん……。」

二人を見て彼女の顔が沈む。

「よ、無事みたいで安心した。」

「エラい人聞き悪っ。ワイとアガタやんは兄妹やで?」

アガタが「違うってば」と不服そうに漏らす。与作は言い返してやりたい気分だったが、打ち合わせ通り何も答えなかった。

「んで、あっちが与作で、そっちの兵隊さんは……」

「二等陸曹の五木花だ。」

「ほーん、ワイがフドーや。よろしゅう。」

「そちらのことは知っている。余談だが、我々は初対面じゃないぞ。私はお前の襲撃を受けたばかりだ。」

「ホンマ?自衛隊なんてみんな同じ服着とるさかい、いちいち覚えてへんわ。」

「構うものか。」

決して楽しいおしゃべりではなかった。お互いが話の流れをこちらに引き込むための駆け引きが始まっていた。横にいる他人が口を挟むのは、銃弾が飛び交う戦場の真ん中にずかずか足を踏み入れるのと同じことだ。

「要求通り、ここに来たのは与作と私だけだ。」

「要求?ああ、ワイはどうでもええねんけどな、この子が会いたいって言うとってん。付き添いは一人だけ言うたんはワイやけど。」

「ごめんなさい。花ちゃん、与作を連れてきてくれてありがと。」

「それは違うぞ。」

五木は答えて首を横に振った。

「この馬鹿は私が何を言ってもついてくると言い張って聞かなかったんだ。今回ばかりは私も折れたよ。」

「そうなの……?」

「当たり前だよ。俺はアガタに会いに来たんだ。」

アガタは顔を背けた。伏し目の瞳はほのかに揺れ動くランタンの灯りを映して輝いている。

「私から言うことは何もない。話はこいつから聞け。……それでだフドー、どうだろう、ここは二人に話をさせてやって、馬の骨の我々は黙って聞こうじゃないか。」

「ほーん。」

「断っておくが、放射線量測定器でお前が力を使っているかはお見通しだ。妙な真似はしないでもらいたい。」

「せやかて、外ではワイをとっちめるための手筈が進んどおやろ?」

「そうだな。それはお前の態度と行動による。」

この建物は完全装備の隊員に包囲されている。正面には装甲車もいるし、上空からは無人機が絶えず観測を行っている。先日のような逃亡劇はできそうもない。この建物内でフドーの力は未知数だが、全体の状況は彼にとって不利であって、五木の提案に応じる余地はないように感じられた。しかしフドーは笑った。

「ええで。策を弄したって人間にワイは止められへん。それにな、ワイも気になっとお。なんや、おもろそうやんか。」

言い終わるや否や、どかっとあぐらをかいて座り込んだ。五木はそれを見下ろして絶えず目を光らせる。やがて与作に手で合図をした。

打ち合わせで五木と確認したことがいくつかある。まずはアガタの真意を確認し、その上で「こちらに戻って来る」という確かな意思を持たせること。途中でフドーを挑発したり、口車に乗ったりしないこと。それからあまり長い時間をかけてもいけない。時間が双方にとってどう働くか分からないからだ。簡単なことじゃない――けど、大丈夫。背中を押してくれた二人のためにも。

「前置きは全部ナシな。俺たちのところに戻ってきてくれないか?」

「ムリだよ……。」

「どうして?理由を聞かせてほしい。」

「与作のためなんだよ。わたしが一緒にいちゃいけないのは。」

「それは――」

その時、五木の怒号が飛んだ。

「貴様、何をしている!」

驚いて二人が見ると、座っているフドーに対して五木が銃を向けていた。

「タンマタンマ!ちょー喉渇いとってん。ワイはさっきから喋りっぱなしだったんやで?」

よく見ると彼の手には透明な液体が注がれたカップがあった。さっきまではなかった。

「力を使ったことは測定器で分かると言っただろう。こっそりやっても無駄だ。」

「別にこっそりやってへんし。知っとお?ただの水は美味ないねん。ほら、『天然ミネラル』って言うやろ?ポイントは、山の湧き水をイメージしてな……」

「興味ない。」

「はーアホくさ。せっかく人が真面目に解説しとるっちゅーに。」

「次、予告せずに不穏な行動をとったら、即座に交渉は打ち切りだ。」

そう言って睨みつけながら五木は銃を下ろした。同じように睨み返しながらフドーはカップの液体に口をつけた。

「こちらは大丈夫だ。与作、続けろ。」

その言葉を受けて与作は頷いた。それと同時に今の会話を聞いて自分の中で繋がったことがあった。

アガタとケンカした日のこと。あの時、測定器が作動した。誤作動ではなかったというから泣きじゃくった拍子に力が漏れたのだろうってことにしていたけど、それは順番が逆だ。測定器が鳴って、あの子は自分に泣き縋った。その間自分はどうしていた?――ずっとあの子に背を向けていた。だから状況が掴めなかったんだ。今、一つの仮定をすればすべてに説明がつく。

「アガタ……俺とケンカした時さ、力、使おうとしたんだ?それも、あんまりよくないことに。」

「ようやっと気付いたんか、与作!ホンマしょーもない男やで。」

「二人に口を挟むな。」

アガタは頷いた。頷いて、ランタンと同じ色で燃えるように輝く涙を白い頬に伝わせた。


どうしてもっと早くに打ち明けられなかったかな。すぐに素直になって「もうやりません」って言えたらこんなに心は痛くなかったかな。良くない病気は放っておくと悪化する。早いうちなら治せたものを、しばらくしたら手が付けられなくなって、もう同じ方法じゃ治せなくなる。

「どうしたって言い訳にしかならないけどね……」

「聞かせてほしい。」

「この力は借り物。この体は作られたもの。だからこの心も、本当はわたしのものじゃないんだ。ときどき自分の心が自分でも分からないほうに行っちゃうんだ。そんな時のわたしは力だって好き放題使うの。わたしさ、ここに来るまでにめちゃくちゃに力使って来たんだけど、その時どう感じたと思う?――楽しかったんだよ、とっても。信じられないよね、勝手に抜け出して悪いことしてるのに。わたしには扱いきれないこの力が逆にわたしを乗っ取って、どんなことも平気でやっちゃうの。」

「一緒にいられないっていうのは、そういうことか。」

「わたしは時々わたしじゃなくなる。それは与作やみんなに迷惑がかかるだけじゃない、いつかきっと取り返しのつかないことになる。それがこわくて……。」

二人の会話が止まって、代わりにフドーが口を開いた。

「……ちゅーわけで与作、ワイがアガタやんをやかましい人間のおらんとこに連れてったる。その方がアガタやんにとってもええんや。ワイがおるから安心せえ。」

与作は彼をちらっと見ただけですぐにアガタの方に向き直る。

「本当にそのつもりなのか?」

「まだ決めたわけじゃないけど……その方が誰も傷つかないよ。」

「俺はそう思わない。」

「ホンマに諦めの悪い男やなあ、与作。」

フドーが口をとがらせて息を吐く。

「あんなあ、アガタやんは自分が嫌いになったって言うとるわけあらへんで?だのにそないに手前んとこに留め置こうとすんのがアカン。アガタやんにとっちゃ自分や自衛隊の奴らと一緒におるっちゅーことは辛くて苦しいだけなんや。」

「違う。」

「人の話聞いとお?」

「お前こそ何も知らずに知った口聞くなよ。」

「よせ、与作。」

五木に諫められて「すみません」と頭を下げる。それからフドーもギロリと睨まれて悪態づきながらやがて黙り込んだ。

「俺の家で暮らすのが辛くて苦しいだけ?そんなわけない。だってさ、あんなにいい詩書いてくれたじゃないか。俺もさ、静かだった部屋が賑やかになって退屈しなかったよ。」

「……うん。」

「誰にも迷惑かけないところで生きるってのは、誰にも助けられないで生きるってことだ。寂しがり屋のアガタにそんなことできるのかよ?」

そう聞いた途端、また彼女の目から涙があふれた。

「そんなの分かってるよ……いじわるだなあ、与作は。」

「一つ、教えてあげるよ。」

「アガタの心は乗っ取られてなんかない。怒りに任せて後先考えないことしちゃったり、誰にも咎められずに自分の力を使ったらこの上なく楽しいと感じたり、それも全部、自分の心だ。人と暮らし、自らを律するために『悪いもの』として蓋をしてきた、自分自身の心なんだ。俺はもうとっくに気付いてるよ。アガタは明朗快活なだけの子じゃない、言葉の陰でもっとたくさん悩んでて、人の気持ちが分かるだけ無理をしてて――、大それた力を持ってるだけの普通の女の子だってことをさ。」

「うっ、うう……」

両手で顔を覆った。目元を押さえても流れる涙は止まらない。そうして俯いた彼女の頭にポンと手が載せられた。

「そういうの全部いいよ、俺の前では。望みがあるなら聞いてあげる、迷いがあるなら考えてあげる、不安があるなら隣にいる。力の使い方もさ、これから少しずつ答えを見つけていけばいい。何たって約束しただろ?二人で『超越さん』のところまでたどり着くんだって。どれも大変なことだけどな、大丈夫だ、俺の友達の助けも借りればいい。」

「他の何でもない、自分の心に従って答えてくれよ。――アガタはどうしたいんだ?」

なんでよ、こんなにずるいのさ、与作は。わたしはさよならが言いたかっただけなんだ。悔いの残らないような別れの挨拶ができればそれだけでよかったんだ。それなのに諦めきれなくなるようなこと言うなんて。だいたい、もっとガサツなキャラで売ってるんじゃなかったの?料理の腕にしたって、忘れっぽいところにしたって。聞いてないよ、こんなに優しくて、こんなにかっこいいなんて。

わたしは、わたしの心は――

「与作といっしょにいたいよう。」

何も言わないで、彼はわたしを抱きしめてくれた。


ランタンの灯は音もなく煌々と照り輝く。まだ始まったばかりの長い夜が明けるその時まで光を放ち続けるだろう。超越の力で油を注ぎ、芯を延ばすことができるのだから、この炎は決して消えない。

五木はランタンに照らされた影すらも揺れ動かないほどに立ち尽くして、それでも脳内だけは目まぐるしく回転して酔いそうなくらいだった。与作は立派に自らの役目を果たした。アガタはこちらに戻ることを選択した。五木の思案の種は、今この瞬間も自分を殺そうと策を講じる超越の力の手先から如何にして二人を遠ざけるかということだった。

自らの腹の内を探られぬよう、押し殺した声で五木は語りかけた。

「彼女はこう決断したんだ。次は君だ。我々は君の要求に応じる余地がある。だから先んじて二人を外に出してやることは構わないだろうか。」

フドーは悩んだ。正確には、悩むそぶりをした。実のところ彼は提案を受け入れる気など毛頭なかった。

「アカンわ。」

「理由を聞かせてくれ。」

「そら、アガタやんが出てったら、自分らが待ってましたとばかりに突入してワイを殺す気やからや。」

それを聞いてアガタは息を吞んだ。

「花ちゃん、確かにフドーは乱暴だし悪いこともしたけど、それは悪い人ってのとは違うよ。ここにいたのだってわたしを待ってたからなんだよ。だから、優しくしてあげて。」

「大丈夫だ、五木さんたちに任せよう。」

与作はそうフォローしたが、彼も分かっているはずだった。フドーの見立ては当たっていることを。

建物の外では突入部隊が合図を待っている。そして現時点でその合図を送ることができるのは五木に他ならない。アガタを解放させ、その後の交渉の成り行きによって突入が行われる手筈だった。もちろん、五木も平和的な解決を望んでいたが、そのようにはいかないであろうことを十分に織り込んでいた。

「そないなワケでアカンのやわ。いくらそっちが殺す気マンマンかて、民間人が居ったら慎重にならざるを得ないわな。」

フドーの言うことは核心をついている。そして彼の状況は変化し、温情を見せる余地のない域に達していた。

アガタがそばにいたことは自衛隊の強硬策を抑えるための「人質」として効用を発揮していたが、それは彼にとっても、唯一自分に対抗しうる素質を持つ者がそばにいるという「枷」として作用していた。それが彼の力の行使を躊躇う唯一の要因であった。

「与作、三時方向に二メートル移動しろ。」

「あ、えっと、どっちですか……」

「右だ!今すぐ!」

与作は言われるがままアガタを抱えて飛びのいた。勢い余って柱に背中をつく。それから自分たちが元居た地点を見つめた。

何も起きない?否、さっきまで無かった不自然な隆起がある。あれはフドーの力だ、あのまま立っていたら地面から植物が現れて先日と同じように脚を取られていたはずだ。

「ほーう、なんで分かっとお?」

「入ってきた扉から外に出ろ!早く!」

「させへんで!」

二人が立ち上がって走り出すより早く、彼は握りこぶしを作った。数秒後、入口に通じる通路を塞ぐように垣根が立ち上がった。

「出口を塞がれたかっ……!」

言い終わると同時に五木は斜めに前転する。すると立っていた位置を鋭い幹が貫く。

「何や、やっぱし見えとお。」

「ちょっとフドー!何するの!」

「堪忍な、アガタやん。ちょーそこで待っとってや。」

退路を塞がれた。それ自体は問題ではない、この建物にはいくつも出入口がある。問題なのは、彼がその作戦を取ってきたことだ。こちらが突入を渋っている間にすべての扉と窓を塞がれては五木達は孤立する他なかった。

「抵抗をやめろ!」

「花ちゃんやん、自分、階級何て言うとったっけ?」

「二等陸曹。無駄なことを訊くな。」

「二等陸曹っちゅーたら軍曹さんやっけ?ハッ、とんだぺーぺーやないけ。自分、さっきワイの要求聞く言うとったけどな、そんなら要求はこうや、そっちの元帥サマをワイの前に連れて来、そんでワイの言うことぜーんぶ聞かせたるわ。」

「貴様、何考えてる?」

「ぺーぺーに利く口なんかあらへん、元帥サマが来うへんなら、ワイに頭下げに来よるまで自分らの雁首いくらでも木の上に飾っといたる。」

「それが本性か。」

「別にぃ。」

五木が与作に目配せをした。突入を敢行するという合図だ。その際の手順は確認してあった。彼はアガタの肩を叩いて、一気に姿勢を低くさせた。それを見届けた五木は左手を振り上げ、棟外の茂みに潜伏した隊員に目をやって、一気に手を振り下ろした。

あらゆる方向から同時に音が聴こえてきた。順番も定かではない。重い銃声、扉を破る音、窓ガラスが割れる音、飛散した破片の輝き。何人もの荒々しい足音、踏みしめられる床上のガラスの軋み。

空間はすぐにしんと静まり返った。二人が頭を上げると、建物の中には十数人の隊員がいて、その銃口はすべて一人に向けられていた。

「はー、こないにぎょうさん居ったん。五、六人かて思っとったわ。」

隊員の一人が二人のもとに駆け寄って膝をついた。影になって顔はよく分からない、それでもその声には聞き覚えがあった。

「二人ともよく頑張ったね。もう大丈夫だ。」

「桐野さん……。」

隊員の一人に助け起こされるようにして五木は立ち上がり、ずり下がった眼鏡を直した。

「フドー、抵抗は無駄だ、その理由を聞かせてやる。この建物の……」

途中で言葉を止め、五木が後ろへ跳び退く。すると先ほどと同じように目の前に突如幹が立ち上がった。

「無駄だ!話を聞け!お前の攻撃はすべて分かってるんだよ!」

フドーが不服な表情で舌打ちする。

「どのような場所にも自在に植物を創り出す、貴様の力は非常に強力だが、使用には少々『仕込み』が必要なようだな。地中に根を張るという段取りが。それを利用させてもらった。この建物の地下は我々の装備で具に観測されている。何か変化があれば正確に位置が分かるんだ。……今現在も十時方向五メートル先、毎秒一メートルの速度で根を張っているだろう?」

フドーの表情に苦しい色が窺える。

「などと言われると慌てて攻撃に移るしかないが……」

五木の言葉に合わせて幹が立ち上がった。しかしそれは先刻のものよりずっとか細く、小枝ほどのようだ。

「当然、間に合わせの攻撃ならそうなるだろう。この程度、散弾で破壊できる。」

閃光が走り、銃声が轟く。伸びかけの枝は根元から砕けて粉々になっていた。

「となれば残る手段は即席の武器を作るか、我々を武装解除するか……どちらにせよこの戦力差を前に現実的ではないな。忘れるなよ、部隊は外にもいるんだ。」

「けっ、反則やろ……」

「どっちが。」

「我々は死そのものを恐れてはいない。我々に仇なすものが、国家を、国民を脅かすことをのみ危惧する。したがって、貴様がこの身を屠ろうと、我々自衛隊は決して屈することはない。……あと、自衛官の階級に元帥はない。」

ありったけの白い灯火がフドーに向けられている。人間なら網膜が灼けるほどの光線の中にあって、彼は目を見開いたまま立っていた。夜の帳をものともしない超越の加護を受けた瞳は、同じくらい明るさに対しても強い耐性を示していた。

真昼の太陽より明るい輝きの中で、彼は笑った。

「最後通告だ、直ちに抵抗をやめ、我々に恭順する意志を見せなさい。」

五木の落ち着いた言葉が反響する。それでも彼の笑みは消えることがなかった。やがてすっと首を上げて天上を見つめた。

「せやなあ……まさしくこの言葉が合うとお。」

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月の表面のように無数の穴が空いた壁に大の字の影が落ちる。地獄火の熱気が残るエントランスホールでアガタは小さな体をいっぱいに広げてそこに立ち塞がった。熱を持った数多の銃身が一つ目をぎょろりとその体に向けている。

肺を熱い空気で膨らませ、渇く喉を震わせながら彼女は声を上げた。

「フドーを、殺さないで。」

与作は空になった手を握りしめた。さっきまで温もりが感じられる距離にいたあの子が、今はあんなに遠い。

「なにやってんだよ……危ないだろ……?」

「ごめん、与作。でもわたし黙ってられない。」

「アガタ一人でどうにかできる状況じゃないんだよ。」

「それでも殺し合うところなんて見れられないよ。」

彼女は正面に立つ五木を見据えた。五木は表情を崩さないままで立っている。

「フドーを殺さないって約束して。」

「馬鹿な真似はよせ。戻れ。」

「約束してくれるまでどかない。」

アガタは譲らなかった。彼女の瞳もまた強力な灯火を前にして万全の能力を発揮していた。

フドーは膝をついていた。驚異的だ、あれほど受けた銃弾は悉く体の表面にひしゃげて食い込む程度で、炎熱は初撃でわずかに喉を焼いたくらいだ。明らかに超越した耐久性を示している。それでも、自身では癒せないその傷が彼にダメージを蓄積させている。攻撃が続けばいずれは戦闘不能に陥ることが誰の目にも明らかだった。

咳きこみながらフドーが軽く声を出す。

「アカン、アガタやん。」

「フドーのためじゃないよ。元はフドーが悪いんだからね。」

「そういうこっちゃなくて、ワイを庇ったらアガタやんまで危ない。」

「え……?」

「ワイと一緒に殺されてしまうで。」

アガタの広げた腕がゆっくりと下へ落ちていった。

与作は黙っていられなくなって声を上げた。

「お前、適当なこと言うなよ!」

「適当やない、忘れんな。今、筒向けられとるんはアガタやんやで。」

「それはお前を庇って前に立ったからだろ!」

「外野に何が分かんねん。そこの花ちゃんやんに訊けばええねん。」

五木は視線を逸らさない。眼鏡の奥の瞳は常に対象に向けられている。

「フドー、お前がどうしようと、アガタまで巻き込むのはやめろ!まして適当な嘘で言いくるめようだなんて……」

「せ・や・か・ら、花ちゃんやんがホンマのことゲロったら済む話や。」

「いい加減にしろよ、五木さんはその子の世話役なんだぞ!俺よりも長い付き合いなんだ、そんなこと絶対にしない!」

「与作には訊いてへん。そこに突っ立っとおやつに訊いとお。なあ、答えろや!」

「アガタ、どっちを信じればいいかなんて分かってるだろ?五木さんは……」

「……言附、静かにしろ。」

「早く何とか言ってくださいよ、五木さん!」

「黙れって言ってるんだよ!!」

五木の声が四角い部屋で反響を繰り返した。与作は面食らってかっと目を見開いたまま固まっていた。アガタに立ち塞がった時の意気はもはやなく、支えなしに立つ棒切れのように次に吹く風で倒れてしまいそうだ。

静まり返ったホール。アガタは乾いた唇を開いた。

「花ちゃん。教えて?」

「私の任務は……」

五木の声ははじめぶつぶつと唱えるだけでろくに聞き取れなかった。次にはいつもの淡々とした口ぶりでこんなことを語った。

「私の任務はアガタの保護、監督だ。それだけじゃない、もう一つある。常に対象の力を監視し、それが我々の管理下を外れ、国民の生命と財産を脅かす兆候が見られた際には……対象を完全に無力化する。その権限を与えられている。」

「どういうこと……?」

「あいつがアガタやんと一緒に居った理由はな、ずっと見張っててヤバくなったら殺すためっちゅーこっちゃ。」

「五木さん……」

「アガタ、お前がそいつを庇い続けるなら、それは我々に離反したと見なす。だから私はお前を――殺さなければならない。」

言った。

少しだけ視点を変えて、考えてみれば分かることだ。大学にフドーが現れた時、まばたきの間に五木たちが駆け付けた。そして彼らは銃器を持っていた。なぜあんなに装備が整っていたのか、彼の襲来に備えていただけだろうか?

それ自体は理性的に考えれば理解できないことではない。与作がどうしても納得いかないのは、五木がそれを今ここで白状したことだ。信じていた相手に裏切られた、そうと分かれば誰だってショックを受ける。先刻の自分の説得を無に帰すようなことをなぜ告白した?作戦の失敗でも望んでいるのか?

アガタはひどく動揺していた。いつものわがままのときは声を上げて叱られる。今は違う。仕事をしている時の落ち着いた声で、「殺さなければならない」そう言われた。

「どうしよっ、かな……。花ちゃんに殺されちゃうの、やだな……」

素っ頓狂だ。自分でもおかしな反応だなって分かる。見知った人に殺されそうな状況でとぼけた声が出せるものだ。

「アガタやん……」

彼女の背後から声がした。荒い息遣い、彼は立ち上がっている。それ以上は分からない。感覚器官が何一つ掴めない、理解を拒んでいる。この、燃え盛るような、沸き立つような、全身から溢れ出る激しい怒り以外は。

「退きや。」

凍った背筋に手を当てられる。全身の毛が逆立つ。手はそのままアガタをゆっくりと、強い力で押しのけた。よろけた先に与作が来て彼女を抱きとめる。そうしてやっと体の感覚が戻って、アガタは後ろを振り返った。そこにフドーはいない。

修羅だ。

鬼神がそこに立っていた。

「自分ら全員、地獄に送ったる。」

地鳴りがした。地獄の釜の蓋が開いたのに違いない。

地中を観測している隊員が驚きの声を上げた。

「全方位に伸びてます!秒速……測定不能!もうこの床中に広がってます!」

「何!?出し惜しみしていたというのか……!?」

「無駄。」

建物中の柱が唸り出した。立ててはいけない音を立て、ひび割れていく。

「柱にまで……!」

「倒壊します!」

「くそっ!総員退避!」

与作は辺りを見回す。こんな部屋の中央にいてはどうあがいても助からない。せめて最後まで放さないようにアガタの背中を強く抱いた。

「大丈夫だ。」

「与作……」

その時彼女の頭に何かが被せられた。ヘルメットだ。顔を上げると、いつもの髪型の五木が立っていた。隣には桐野もいる。

「頭は守っておけ。これ以上思い出を失くさないようにな。」

「花ちゃん。」

「お前の力なら自分と言附だけは守れるはずだ。生きろ。」

五木は力なく微笑んだ。もう一つ言いかけて、諦めたように口を閉じた。

守る。――そうだ、わたしにはできる。わたしには「超越さん」の力があるから。

「与作、放して。わたしに任せて。」

「ん……?」

「花ちゃん、みんなをわたしのそばに集めて。早く!」

「あ、ああ。総員、ここに集合!」

建物は爆発するように崩れ落ちた。

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樹齢一分の大木が枝先を伸ばし続けている。空を覆うほど広がった葉を揺すりながら夜の空気を飲み込んで、自らの体の一部に変えている。この街ができる前からこの地に根差していた辺りの木々も、今はただ突如現れた自分より何倍も大きな新参者に震え、動揺の声を口々にあげるばかりだった。

どんな境内の御神木より太い幹のもとに怪物は息を荒げて立っていた。降り注ぐ瓦礫を消し去った彼の周りは円状に安全地帯ができている。焼き菓子の生地に型で穴を空けたみたいだった。未だ立ち上る砂塵の中で自分の吸気を清潔に保っている。

それに対峙するもう一つの怪物の姿があった。

五木は上体を起こして周囲を見回した。前も後ろも二、三メートルほど瓦礫が積み上がっている。瓦礫の壁は左右に続いていて、他の隊員の姿が見える。誰もかれも自分の目を疑って座り込んだままでいる。無理もない、ついさっき自分の頭上に幾重にも瓦礫が降りかかってきたはずなのだから。彼らは今、翼の形に沿った壕の中に匿われていた。

あの子が守ってくれたんだ。

五木は腰の力が抜けた。後ろにもたれかかろうとした時、急に首の後ろに意図せぬ異物を感じて飛びのいた。剝き出しになった鉄筋が五木の首筋に鎌首をもたげている。改めて自らが死の縁にいたことを実感した。

「五木さん、無事ですか。」

桐野が声をかける。建物が崩れる直前に見たのと同じ場所にいる。闇夜に紛れて黒く塗った顔と刈り揃えた頭に埃が積もっている。

「ああ。」

返事を聞いた桐野は次に上を見上げた。五木も正面の壁上に目をやる。

アガタの背中が見えた。肩甲骨の内側から翼がくっついている。「くっついている」というのは調査資料の記述による。身体の一部として生えているわけではないためだ。あれだけの瓦礫に打たれて、この塵の中でも投光器に照らされ白い輝きを保っていた。常に最良の状態に保とうとする、そんな力が働いているように思える。あの視線の先にはフドーがいる。

五木の足元にヘルメットがあった。顎に当てる部分が消えてなくなっている。せめてもの気休めで彼女に被せてやったのを、力んでいるうちに思わず握っていた部分を消してしまったのだった。外装に傷はないのに、あれではもう使えない。そんなことを思ううちに五木らはあることに気が付いた。

――与作はどこだ。

「言附?おい、言附。」

彼の姿はどこにもなかった。崩れる前を思い出すに、彼がいるはずの場所には人より大きな瓦礫がその身を横たえているだけだった。

「与作がどうかしたの?」

五木の言葉を聞き、瓦礫の山の上からアガタが尋ねた。目は前を向いたままで、わずかに首をこっちに回す。

「姿が見えないが、近くにいるはずだ。私に任せ……」

これを言うべきではなかった。五木が気付いた時にはその言葉のほとんどを口にした後だった。

アガタは首を戻した。正面の敵を逃すまいと睨みつける。

「フドーーーーー!!」

「人間の命は儚いのう。だいたいアイツ、生き急いでそうやったしな。まあ……殺したんはワイや。」

彼女の食いしばった歯の間から獰猛な息が漏れ出す。

「アガタやんも『超越はん』の申し子やなあ。なら――やり方は分かっとお?」

彼女の周りを漂う埃が一斉に蠢いた。加速度をつけて握りしめた両の拳に吸い込まれていく。辺りに低い音が響いた。咆哮にも似たその低温は、どうやら彼女の拳が鳴いているようだった。どれほどの力があれば人間の手からそんな音がするのか、五木には見当もつかない。未だかつて聞き及ばぬ絶望がそこで唸っているのだった。

瓦礫にも異変が現れた。彼女に近い方から順番に、鉄が、ガラス片が、コンクリートが、人の産物が白い羽根に変わっていくのだった。戦地に冬が訪れたかのように瓦礫の塹壕に降り注ぐ。

「ワイは言うたで、この世にあるモンを信じとっても虚しいだけや。」

「あなたが奪ったんだ……!!」

「せやなあ。」

その顔にはおちゃらけも怒りもない。

「どないすん?超越の力でも亡うなった人は生き返って来うへんし、アガタやんにできんのは、ワイをブチころがすくらいやわ。」

「今!そうしてやるんだから!」


「待てよ。」

その声はアガタの足元からだった。

「俺はまだ死んじゃいない。」


与作はアガタの右手を取って、もう片方の手は彼女の背中に回した。巨大な翼はもうそこにはなかった。

「与作……。」

「生きてるよ。アガタが守ってくれたからな。」

「与作だ……」

「そうだよ、だからそんなに触らなくても生きてるってば。」

フドーが彼の背中を見てため息をついた。

「何や、生きとったんかい。……もうホンマに、しょーもないやっちゃ。」

与作は彼女の頭に手をやった。

「また一人でなんとかしようとするなって。これからはいっしょだって、言ったばっかりだろ?」

「だって、ホントにダメかと思ったんだも~ん!」

「落ち着いたか?」

「んと、すっごいドキドキしてる。」

「そういう意味じゃなくてな……まあいいか。」

二人は体を離す、手はつないだまま。そこに桐野が「二人とも」と声をかけた。

「こっちに降りてきて。」

何か考えがあると見えて、言われるがまま壕に対して斜めに立てかかった柱の残骸を滑り降りた。

「言附くん、大事はないか?」

「はい。」

「言附、アガタ、そのまま姿勢を低くしていろ。射撃が始まるからな。」

「え?」

言うや否や、塹壕の外で射撃音が響く。

「外の部隊が奴の動きを止めている。どれほど効くかは分からんがな。」

銃声は数丁ずつ、絶え間なく轟き続ける。いくつもの分隊が交代で射撃を続けていた。

「まずはお前たちをここから連れ出すことを考えなければな……」

「そういうわけにもいかないっすよ。」

首を振る与作に五木は眉を顰める。

「だってこの子にその気がないからさ。そうだろ?」

「うん。」

力強く頷いた。

「このまま戦っても、どっちかが倒れるだけだよ。それは多分フドーの方。自衛隊は強いし、たくさん人がいるからね。でもそれまでにフドーがどれだけのことをするか。それはとっても悲しいことだよ。そうならないためには、今ここでフドーにやめてもらわなきゃいけないよ。そのためにはわたしはどこにもいかないよ、それができるのはわたししかいないから。」

「そう言うと思った。」

「えへへ。」

「というわけです、五木さん。方法を考えましょう。」

「馬鹿!」

銃声にかき消されまいと強く発した言葉は増して厳しく響いた。

「もう計画は中止だ!」

「だからー、今から計画を考えるんだってば!」

「今はただ非戦闘員を退避させることだけが目的だ!」

「五木さん、」

与作は五木を見据えた。

「まさか俺だってこんなドンパチに巻き込まれるなんて思ってませんでしたよ。でもね、誓約のあの書類を書き上げた時から、一度だって『もう逃げ出したい』って心が動いたことなんかないんですよ。……自分でもどうかしてると思いますけどね。」

五木の曇った眼鏡ごしに彼の瞳が見えた。今さっき死にかけた男の目には到底見えない。

「ああ。言附、お前は本当に……馬鹿だが、いい奴だ。」

「今度菓子折り持って行きますね。」

「収賄だ。公務員は菓子折りを受け取らん。」

与作が困ったように笑う。

銃声は未だ響き続ける。与作も慣れてきて、少し大きな雨垂れの音、そんな風にしか思えなくなってきた。

「そこまで言うからには、何か考えがあるんだろうね?」

手元の小銃の埃を払い、桐野が尋ねた。

「あるよ!そのためには、与作、頑張ってくれる?」

「任せとけ。」

「ありがと。じゃあ、さっきみたいにわたしと手つないでくれる?」

「?いいけど……。」

与作が右手を出すと、アガタはそこに手を乗せた後、掴んだり指を絡めたり手の甲を擦りつけたりした。白い指が触れる度、気恥ずかしくて手汗が滲まないか心配だった。

「やっぱり」と彼女が呟く。

「どういうことだよ?」

「さっき与作がガバッと出てきた時、わたしの翼なくなったよね?あれ、わたしがやったわけじゃないんだよ。全身から力が抜ける感じがして、『超越さん』に心が届かなくなった気がしたの。」

「んーと、つまり、力が使えなくなったんだね?」

桐野が訊き返すと、「そういうこと」とアガタは指を立てて答える。

「でもそれはその時だけでさ、なんでかなって考えたら、一つだけ思い当たることがあったの。それを今確信した。わたし、与作と手をつなぐと力使えない。」

「へー。……マジか!」

与作はこの力に関して今さらどんな話が出てきても驚かないと思っていたが、この新事実には目を見張るばかりだった。

「考えられる理由は一つだよ。前に言ったでしょ、わたしたちは『超越さん』の力を借りる時、手を、起点にしてるんだよ。こう、手にグッと気持ちを込めてね。だから手をつなぐと、蛇口を指で塞いだみたいに力が届かなくなるのかな。だけどさっき、フドーに力の使い方教わってる時はフドーに手を添えられたけど、そんなことはなかった。わたしと与作は効果があって、わたしとフドーは効果なくって、じゃあさ……」

「分かったぞ、アガタの考えてることが。いっちょアイツを黙らせてやろうぜ!」

与作が手を打った。アガタも応えてにこりとする。

「待て」と五木が割って入った。上を見上げて戦闘が続いているのを確認する。

「危険すぎる。今のヤツは前と違う。もはや人を殺すことも厭わない!」

「大丈夫だよ。わたしがついてるから。」

「おう、そう言ってくれんなら平気だな!」

「言附くん、冷静に考えろ。」

「……そうだ、私がやる!私でもやつの手を掴めばいけるはずだ。アガタ、試してみろ。」

五木はグローブを取って彼女の前に手をかざした。その手を取らず、アガタは少々悩むそぶりを見せた。

「ん~、やだ。花ちゃんには別なことやってほしいんだ。与作以外、この穴からは出て行ってほしいんだよね。じゃないとフドーは警戒して近付かないと思うから。」

「やだってお前……」

「……花ちゃん、わたしに言いたいこと、あるよね?」

その言葉を聞いた五木の手がだんだんと下がっていく。非常事態に対応するため、片隅に追いやった心がもう一度やってきて胸を支配する。

忘れちゃいけない、私はこの子を殺そうとしていたのだ。自らの正義に従って動いた者を、殺すと高らかに宣言したばかりだった。どんな弁明も通じるものか、私は――

「花ちゃん!」

アガタが五木の肩の装具に手を置く。

「わたしも花ちゃんに言いたいことあるよ。だからそれは、後でちゃんと話そ?今はみんなのためにやれることをやらなくっちゃ。花ちゃん、わたしを信じて。」

五木は外したグローブの甲で埃に曇った眼鏡を拭った。

「脱出の準備をする。言附、しっかりやれよ。」

「はい!」

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しとしと。

雨の音がした。

窓際に打ちつける水滴、遠くでは自動車が水溜りを勢いよくかき分けていく。

目を開けるとトラバーチンの天井が広がった。殺風景なタイルのおまけみたいに火災報知器が少し遠くについている。見慣れた研究室の天井のようだが、それとは色味が違う。

窓の外は音を頼りに思い描いた通りの雨模様。灰色の厚い雲に覆われた空を古いフィルム映像のノイズみたいな縦長の線が次々に突っ切っていく。雨なんて久しぶりじゃないか。

ここは病室だ。事が収まった後、与作は自衛隊の病院に担ぎ込まれた。大事こそなかったが、無事でもなかった。自分の体より何倍も大きいコンクリートが降り注いできたんだ、無理もない。今でも生きているのが信じられない。怪我の治療を受けた後、流石に疲れ切った体は彼を深い眠りに誘わせた。今こうしてやっと目が覚めたのだ。

与作は体を起こした。起き抜けの体はまだ怠い。夜の疲れも抜けきってはいない。

まさか三日三晩眠ってたとかないよな――。病室には時計がなかった。

隣に病床があった。二メートルはないくらいの間を隔てて、こちらと同じ向きで並んでいる。布団が膨らんでいる。頭の方に目を動かすと、長い黒髪と見慣れた二つの結び目が見えた。与作は素足を冷たい床に付けて、彼女が横たわるベッドに近付いた。

アガタがそこで寝ていた。思わず声をかけてしまいそうになって、言葉をとどめる。その安らかな寝顔を見るために、与作はそばにあったスツールに腰を下ろした。

少し前まで毎朝目にしていた寝顔。今はそれがここにあることがどうしようもなく嬉しいと感じた。いろいろなことがあったけど、最後には大切なものを失わずに済んだ。守った、なんておこがましい、守られていたのは自分の方だ。この子は小さな体に秘められた大それた力で、様々な苦難に打ち勝ったのだ。今度、何でも願いを叶えてあげよう、たくさん褒めてあげよう、それくらいのことをやり遂げたんだ。

「……ねえ、そろそろ起きていい?」

「うわあっ!」

寝ていると思った人が起きていたことに気が付くと、変な声が出るものなんだ。与作は大きく仰け反って、椅子から崩れ落ちそうになる。

「そんなに驚かなくても。」

アガタは体を起こしながらふてくされて言った。乱れた髪を手櫛で整える。

「だ、だって、起きてたのかよ!」

「今起きたんだよ。」

「じゃあすぐ目を開けろ!」

「だってさ、与作がわたしのことジロジロ見てるんだもん。いつもそうだよ、与作、朝起きてわたしの寝顔じーっと眺めてるでしょ。そういうとき、わたしは決まって寝たふりをしてるの。」

「マジかよ……。」

与作の顔が赤くなる。アガタは「そーゆーシュミなの?」と怪訝そうに問いかけた。

「まあいいよ、わたしもさっきは同じことしてたもん。」

「てことは、アガタは起きてたのか?」

「うん。」

よれた入院服をただしながら彼女は答えた。お馴染みの白いワンピースはすっかり汚れてしまった、今はきっと洗濯されてどこかに干してある。

アガタは与作と共に病院に連れてこられた。大量の瓦礫が降り注いでも、高速のコンクリート片をぶつけられても、超越の身体は一切の傷害を負わなかった。空高く跳躍を繰り返すことができるのも、人間とは違う身体を持っているのは間違いなかった。与作が病床に伏した後、彼を心配して同じ病室で寝ていた。

「あれからどれくらい経った?」

まだ熱い頬に手を当てながら与作は尋ねる。

「一晩。今は午後の……三時前くらいかな。おやつの時間だよ。思ったより時間経ってなくてホッとした?」

「ああ……徹夜した次の日なんか夕方まで寝てる。」

「ははは。まだ寝てなくて大丈夫?」

「横になってる方がキツいかも。」

「そう。ゆっくりでいいからね。」

与作を気遣うアガタの様子がどうにもこなれていて、彼女が年上のようだった。実際のところ彼女は年齢不詳だが。

「そっちこそ、さっきから起きてたんだろ?平気なの?」

与作が尋ねると、彼女は口を尖らせて「んー」と唸って、それから「平気」と微笑んだ。

「わたしね、あんまり眠くならないのかも。夜になったら『寝ようかな』って思うけど、寝なくても割と平気だったりするんだ。駐屯地にいた頃は消灯時間のあともずっと起きてたりしたよ。何てったってわたし、人間じゃないから!」

眉をきりっとさせてピースサインを掲げる。

「なんというか、すごいな……。」

「ホント、とんでもないよね。」

与作はベッドの隣にあるキャビネットに目をやった。その上には折り紙のセットと、それを使って折ったであろう折り鶴が三つ並んでいた。

「ん、どうしたのこれ?」

「あー!!それはダメなやつ!!」

「ダメなやつ?」

与作は伸ばしかけた手を止める。アガタは伏し目で答えた。

「千羽鶴……作ったら与作も早く治るかなって。でもそれ作ったところで、あと九百九十七羽、同じもの作らなきゃいけないんだって思って……。」

「心折れたのか。」

「まだ折れてないもん。」

「心配すんな。俺はもう大丈夫。だけど、この鶴は貰っておくよ。三羽鶴、だな。」

丁寧に折られた鶴は頭と尾の先まで整っていた。千羽鶴にする予定だから、翼は開いていない。これよりもうんと大きな翼に与作はもう助けられた。

「あとで花ちゃんが来てくれるって。わたしたちが寝てる間もお仕事してたんだよ。自衛隊の人たちはすごいよね。有事はいつ何時訪れるか分からないから、って。」

「ああ、そうだな。」

五木を待つ間、与作は空っぽの胃に食事を求めた。アガタは「あーんってするやつ」と言って食事を彼の口に運びたがったが、それだけは全力で断った。

五木が病室のドアを叩くまでにあまり長い時間は経たなかった。

職員の案内を受けて入室した五木は昨日と存外変わらない様子に見えた。違うところといえば昨日は身体を一回りも二回りも大きく見せていた戦闘用の装備が、見慣れない制服に変わっていることだ。肩に階級章が張った制服は各所が金ぴかに輝いていて、ごついようで引き締まった印象を受ける。

ベッドの与作とその隣のスツールに腰かけたアガタを交互に見て、はじめに五木は声をかけた。

「二人とも、身体の調子は。」

「バッチリ!」

「おかげさまで。五木さんの方は?」

「問題ない。これくらいの怪我は何の障害にもならない。」

「花ちゃんケガしてたの?!」

「む、気付いてなかったか。本当に大したことはないさ、少し打っただけだから。」

左肩をさすりながら五木は答えた。

「無理しないでくださいよ。ちゃんと休めたんですか?」

「そこまで言うなら私の代わりを務めてくれないか?」

「いやあ、それは……。」

「冗談だよ。さっきまで三時間ほど仮眠をとった。」

「三時間?!」

「それ以上伏したら私も明日まで起きないだろうからな。」

向こうのベッドからスツールを引っ張ってきて五木はアガタの隣、与作から遠い方に腰かけた。軍帽をとって膝に置いてから改めて顔を覗くと、なるほど確かに目の周りに疲労が出ていた。

五木は窓の外の景色に目を向けた。つられるように二人も窓を見ると、灰色の空に間の抜けた三人の顔が浮かんだ。

「これは大学も雨だな……。」

「あの場所はどうなってるんですか?」

「いくらか作業員がいて、『始末』をしている。あのでかい木はまあ……すぐに朽ちるだろう。」

「あんなにおっきいのに?」

「フドーの創る植物はな、二日もしないうちに枯れるんだ。本人もそう認めてる。超越の力で創り出したとて、表面上似せただけの模倣品なんだと。週明けに大学の広場に行ってみるといい、割れた石畳と抉れた地面の他には、わずかな朽木しか残っていないはずだ。しかしあれだけでかい木となると、しばらくは封鎖しておかないと危険だな。」

「人気の観光スポットになると思ったのに。」

「これ以上うちの大学を悪い意味で有名にさせるな……。」

この力は分からないことばかりで、まだまだ研究が必要なのだと五木は語る。

「それで、五木さん。今の状況を教えてくれませんか?」

「ああそうだな。順番に話すよ。」

「フドーの身柄は我々が確保した。お前たちのおかげでいい収容方法が見つかったからな、力を封じて安全に拘束してある。今は、危険が及ばないようにとある場所に連れていかれたところだ。」

「いい収容方法っていうと……」

五木は手をひらいて顔の前で握ってみせた。

「事情を知らぬ者が見たら何とも滑稽だぞ。」

「アハハ……。」

「フドー、これからどうなるの?」

「私から確実なことは言えないが、一つは――彼次第だろうな。いずれにせよ無抵抗のまま殺したり、非人道的な扱いを受けることは決してないと保証する。可能な限りいい方向へと向かうように、我々は努力する。」

「そっか……よかったよ。」

アガタは一息ついた。「なんというかね――」と首をかしげ、言葉を詰まらせながらに語った。

「確かに彼は乱暴だしベタベタしてくるしお風呂に入んないやつだけどね……」

「風呂に入らねえのか。」

「彼には他にも訊きたいことあるし、それなりにスジの通った人、って感じだよ。何より、『超越さん』のもとに生まれた仲間だからね。よしみ?って言うのかな。もう会えなくなるのは嫌かも。……ああ!浮気じゃない!浮気じゃないよ!?『超越さん』から生まれた兄妹って言うか……あー!これじゃフドーと言ってること同じ!やだー!」

アガタは慌てふためいて頭を抱えた。

「とにかくそういうのじゃないから!信じて!」

「俺まだ何も言ってねえぞ。」

「だってそれは疑ってる目だよ!」

「いつもと変わらないだろ。」

「変わるよ!フドーのバカ!与作のバカ!」

「俺もかよ!」

五木は彼女を落ち着かせるように騒いだ勢いでズレた衿を正してやって、「私もそう思う」と声をかけた。

「五木さんも俺が疑ってるって言うんですか?」

「そっちじゃない。話をややこしくするな。」

「奴は凶悪ではあったが、昨日は別として、殺生はしないという最低限の倫理はあったし、潜伏箇所に人気のない山中を選んでいたのもその方が当人にとって都合がいいから、だけではないと思う。奴は話の通じない怪物ではない。アガタのその意向、尊重するよ。」

「うん、それが言いたかったんだ。」

座る姿勢を正して、アガタは微笑む。

「大学の敷地はすぐにでも封鎖が解かれるだろう。授業も再開されるはずだ。」

大学、その言葉を聞いてあることを思い出した与作は思わず身を乗り出した。

「そうだ、二人は!?テツと理央、どうなりました!?」

「ああ……確か言附の家にいたんだったな?そういえば護衛の隊員がお前の部屋の鍵を渡されていたはず。二人は家に帰ったんだろう。別段変わった報告がないということは、何事もないってことだ。」

詳しいことは担当の者から追って伝える、と付け加えた。それを聞いて与作は胸をなでおろした。

ちょっとアガタに会ってくるだけのつもりが、一晩帰ってこなくて、今ごろはもう大学で起きた大事件のことも聞き及んでいるだろう。またしても迷惑をかけてしまったな。

「いい友人じゃないか、彼らは。」

「俺の大学生活の一番の賜物です。……そうだ、アガタのことも心配してたぞ。ふらっといなくなるもんだから、あいつらにも一言弁解した方がいいよ。」

「これからはみんなと仲良くするよ。哲さんは大人っぽくて優しいし、理央は美人で憧れちゃうし、先生は……お菓子くれるいい人だよ。」

「ちょっと教授《せんせい》だけ不憫じゃないか?」

「えー、じゃあ物知りでー、ひげが立派。」

「そうだな、そのくらいにしとけ。」

二人は顔を見合わせて笑った。その隣で五木も薄く微笑んだ。

ひとしきり笑った後、誰も口を開かなかった。部屋の中は再び雨の音で満たされた。

与作には見えていた、五木が何か語りたそうにして言い出す機会を探っているのが。当人の心に整理がつくまではいくらでも黙ろうと思った。アガタも同じだった。とうとう五木もそれを察したようで、

「本当は何より先にこれを話すべきだった。」

とそれらしい前置きもなく語り出した。

「私がこの管轄――つまりアガタを任されること、に配属された時、そこには課せられた二つの任があった。」

重々しい口調で話は続く。

「一つは、素性が分からず特別な能力を持った彼女を監督し、保護すること。結局のところ、これはわがままな女の子の世話役だった。」

「えへへ。」

「もう一つは……彼女の力を我々の管理下に置くことができず、国民の生命と財産を脅かすものだと判断された場合に――対象を完全に無力化すること。つまりそれは……殺すことだ。私は初めて会った時から、アガタを守ることと殺すこと、両方を任ぜられていたんだ。」

五木は「殺す」という無慈悲な単語を敢えて使っていた。柔らかい表現で言葉を濁すことは、自分自身の言い逃れに思えたから。

「いつまでも黙っているつもりはなかった。かといって何気なく打ち明けられる話でもなかった。結果としてあのような段階までずるずると引っ張ってしまったのは、私が……」

「なんとなーく、分かってたよ。」

鼻歌でも歌うみたいに軽々として答えた。五木は俯いていた頭を上げた。

「フドーの乱暴なの見たり、わたしも周りが見えなくなってバカなことしそうになったりしてさ、薄々気付いたんだよ。ありったけの兵器のある場所の真ん中にわたしが住んでる理由がさ。わたしを安全な場所に置いておくだけなら警備員さんのいるホテルだっていいわけじゃん?もちろんスイートルームがいいな?――でも実際はそうじゃない。」

「言わずとも気付いていたんだな……。尚更不実だった。ごめん。」

五木はうなだれた。天井の照明を身体で遮って、影が落ちた制服の装飾は最初に見た時ほど輝いてはいなかった。

「花ちゃんがわたしに伝えたかった事って、それかな?」

「そうだ。長らく伝えられなかったことも、あの状況下で告白する羽目になったのも、偏に私が……」

「じゃあわたしの言いたいこと言ってもいい?」

五木の話も遮って問いかけるので、彼女は力なく返事をするのみだった。

そう切り出したはいいが、肝心のアガタはあー、うー、と恥じらいながら言葉にならない音を途切れ途切れに繰り返すばかりだった。それでもついにくるっと五木に向き直って、

「ありがと、花ちゃん。」

と照れくさそうに言うのだった。

おおよそかけられるはずのない言葉に五木は耳を疑った。

「花ちゃんさ、初めて会った時に言ったよね。『君が私を信じられるように、私は君を信じることにする』って、それから『ウソはつかない』って。その通りだった。約束通り、花ちゃんは今まで一度もわたしにウソをつかなかった。言うのがちょっと遅くなったからって、それは裏切ったのとはちがうよ。最後にはホントのこと言ってくれたら、それでいいよ。わたしね、花ちゃんにありがとうって思ってるよ。それまでのわたしは信じられる人なんて一人もいなかった。でも今はたくさんいるよ。」

アガタは横目で与作に視線を送る。なかなかいいこと言うじゃんか、彼は頷いた。五木は先刻から微動だにしない。

「ああーでも、花ちゃんのやさしさにちょっと甘えすぎちゃったかな。ごめんね。」

不意に、五木から笑いがこぼれた。頬を緩ませて、次の瞬間には「まったくだ」といつも彼女に説教する時みたいに矢継ぎ早にまくしたてる。

「お前があれがほしい、これがほしいだのとゴネる度にどれだけ私が手間をかけたと思うか?!あれこれ厄介事を起こす度にどれだけ私が後始末に追われ、反省文を書かされたと思うか?!全部まとめたらこれくらいだぞ、こ・れ・く・ら・い!!」

五木はついに椅子から立ち上がり、両手を広げた。大袈裟か――あるいは事実か。情けない声を上げてアガタが頭を抱えると、その上にそっと手を乗せた。その手がとても優しくて、彼女が我が子を慈しむ母親のようにも見えた。……口にしたら怒られそうなので与作は押し黙った。

やがてアガタが顔を上げるとその手を離して、そのまま置いてあった軍帽を引っ掴んだ。

「現在、関係者の間で協議を進めている話がある。アガタを取り巻く体制の見直し、端的に言うと、この子をもう少し自由にさせてやれないかということだ。」

「えっ?」

「長期的なことも見据えて、監視体制や存在そのものの扱いを再検討するということだ。とはいえ我々の管轄から外れるわけではないから、無論、生活費等の負担についてはこれまで通りだし、基本的な責任は我々が負うことに変わりはない。」

「じゃあじゃあ、街を歩いたりできるの!?」

目を輝かせつつ問いかける。五木は優しく頷いた。

「わーい!」

「そんなに簡単にできるんですか?」

「何にせよ、言附、君の存在が重要だ。それからアガタ、お前自身の行動もな。上層部や背広の面々は渋っているが、当人を良く知る私に言わせればこの子は見た目ほどバカじゃない。」

「ひどーい!」

「普段の生活で力を封じることができるし、素性を隠して振る舞うことができるし、何より『正しいことを見極める力』があると確信している。」

「さすがわたし~。」

「鼻の下伸びてるぞ。」

「一筋縄にはいかない。調整は難航しているが、問題ない。必ず話をまとめてみせる。」

五木は軍帽を深く被った。つばを押さえて頭に馴染ませる。

「仕事の山との戦闘が待っているので、そろそろ失礼する。」

「無理しないでね。」

答える代わりに首を縦に振って、病室の出入口に向けて歩き出した。

「五木さん、ありがとうございました。」

「手が空いたらまた来る。お大事に。」

それからは何も言わずに扉の向こうへ消えていった。二人は誰もいない病室の扉の前をただ眺めていた。

「……かっこいいよな、五木さん。」

「わたしは前から知ってたよ?」

立ち去る彼女の瞳がまして輝いて見えたのは、目の錯覚などではないと思う。


かれこれこの状態のまま三日ばかし経ったのではないだろうか。

六畳ほどの空間。壁も床も金属に塗装を施したような光沢がある。窓はなく、外に通じる扉が一つ。空調と何かの駆動音が絶えず響き続ける以外は何も聞こえない。

先ほど「三日」とは言ったが、正確には半刻ほどだろうか。それにしても全く何も進展しないまま簡素な椅子に座り続けるのはくたびれた。

「あのなあ……だんだん鼻がこそばゆなってきたわ。」

フドーは目の前の男に話しかけた。

机の向こう側に座っている初老の男ときたら、まるで動き出す気配がなかった。いかにも将官らしい煌びやかな制服を身にまとい、凛としてそこに座しているが、こうまで動かないでは蝋人形と変わらなかった。戯れににらめっこをけしかけても眉一つ動かさない。どうしようもなくなってフドーは少なくとも五回は彼の顔の小皺を数え上げた。五回とも計測結果が違った。

「鼻、掻いてもええか?」

男は答えなかった。

「何とか言わんかいな、ジジイ。」

しばらくしてようやく口を開いた。

「秋山英雄だ。『英雄』と書いて『ひでお』。」

「……いや、こんだけ待たせて最初に言うことがそれかいな。まええわ、ほんならなヒデちゃん……この状況を説明してくれへんか?」

フドーは両手を持ち上げようと踏ん張るが、僅かに震えるだけだった。手首の拘束具が彼の腕を身体の前に縫い留めていた。胴体も椅子に固定されている。それだけではなかった。目覚めてからずっと左右に屈強な自衛官が二人座っていて、彼に腕を組み手を掴んで放さないのだった。

「なんでワイはこんな野郎二人におててニギニギされなアカンねん。怒り通り越して悲しなってきとお。自分らもそう思わへん?」

左右の男は答えない。随分と我慢強いもので、こいつらなら何日間でも座禅を組んでいられそうだとフドーは思った。

「彼女から聞いたのだ、君たちはこうすると超越の力が使えなくなるようだ。おかげで君を安全に収容できる。」

彼女、といえばアガタのことらしかった。

「せやなあ、さっきからなんべんやっても『超越はん』が答えてくれはんない。流石のワイも知らなんだ。おい自分ら、どうせ女子とおててつないだこともあらへんやろ?握り方強すぎや!悪かったのう、ワイがアガタやんみたいなカワイ子ちゃんじゃのうて?」

ここぞとばかりに力をかけて握ってみると、同じだけの力で握り返してきたのでフドーは「ギブ、ギブ」と言って指を開いてみせた。

「ここ、どこや?」

秋山は何も言わずに首を横に振った。

「どうも普通の部屋って感じがせえへん。地下深く……いや、船ん中やろ?安全のためワイを島流しにしたとちゃうか?」

「いずれにせよ、この部屋から抜け出したとて追跡を逃れるのは至難の業だぞ。そういった考えは諦めてくれると助かるのだが……。」

「そんなん、やってみなきゃ分からへん。」

そう言って邪悪な顔でほくそ笑んだ。それでも秋山の表情が崩れないのを見て、すぐに眉を上げてちゃらけてみせた。

「……と言いたいとこやが、やめや。もう飽きとお。ワイが自分らに負けるはずあらへん、せやかて簡単に勝てるとも思ってへん。反則やろ、あんなん。それにワイの知らん対策法まで見つけよって。」

「どっちが。機関銃の掃射と火炎放射を受けて立っていられる生物は聞いたことがない。」

「そないな化け物前にして突っ込んでくるやつらの方がよっぽど化け物やで。」

「私が命令したからな。」

「アホらし。」

「アホといえば……」と呟きながらフドーは目を細めて遠くを見た。

「与作、あいつは生きとお?」

「無事だ。勇敢な彼は今病院にいるよ。」

「ちぇっ、」自然と彼の頬が緩む。

「もっとぎっちょんぎっちょんにしとくべきやったな……。」

それから今度は開き直ったように顔が明るくなった。実に変幻自在な表情だ。

「もうええわ!ワイのことは煮るなり焼くなり好きにせえ。ただ、一生おててニギニギの刑だけは堪忍な!生きた心地がせえへん。……せやけど、毎日べっぴんさんが手つなぎに来てくれるなら考えへんこともないな?――アカン、それでも嫌や。」

「それは受け容れかねるな。我々の要求を一つ従ってもらう。」

「何や、聞くだけなら聞いたる。」

「『誰も傷つけるな』。」

「は?」

「それだけだ。」

そう言ったきり秋山はまた黙ったのでフドーはいよいよ分からなくなってしまった。

「ほんならワイを殺さへんちゅーことか?ドアホ!ワイが何しとったか忘れとお?!ワイが説教受けて『はいすんまへん』て素直に聞くと思っとお?ワイはなぁ、人間とちゃうねんで。弱っちくて他人と仲良うせな生きてかれへん人間とはちゃうんや!」

「それでも、道徳はある。」

彼の気迫が削がれた。

「勘違いするな、我々は君を殺したかったわけではない。抵抗を続けるならば無力化することを選択肢の内に入れていたに過ぎず、こうして無抵抗に確保された今では人道的に扱わねばならぬ義務がある。それが規則だからだ。――なぜ戦いに規則があるか分かるかな。そうしなければ秩序が失われるからだ。人は絶えず争い、時に力に身を委ねることがある。それは生きる限り仕方のないことだ。ただし、それが肯定されるためには規則のもとに秩序ある戦いが行われなければならない。規則を捨て、秩序が失われた時、我々はただの人殺しに成り下がる。これが我々の道徳だ。……理解し難いか?」

フドーは首を斜めに向けた。

脆い。こんな理屈で身を固めないと自分たちが力を行使することを正当化できないのだ。時には誰かの命を奪うような「力」を使うことを。それでも、争う双方がこの道徳に則っていればそれで合意は成立する。だから人は戦うことができるのだ。脆い。

「フドー君……」

「何や、『くん』て。やめーや気色悪い。」

げえと吐く真似をして不快を示した。

「フドー、私には君のその胸に抱く信念がそこいらの人間よりずっと堅いように思える。その道徳に照らし合わせて――先ほどの要求を受け容れることは難いだろうか。」

このジジイ、何を押し付けてくるかと思えば、つまるところ手前の信念通りに生きろっちゅーつもりかいな。これじゃまるで……

「ワイの完敗やんか。」

その言葉は心の中で呟いたか、口に出ていたか、本人には分からなかった。

「ホンマはな、全部分かっとってん。『超越はん』の力はこないなことに使うもんやない、殺生も、傷つけるんも、みんなご法度や。逃げ回っとるうちにいろいろ忘れてもうたわ。」

「なあヒデちゃん、これはワイと自分との約束ちゃうんやな。――ええわ、乗ったる。た・だ・し、自分らがワイに妙なちょっかいかけて来ん限りはな。それと、アガタやんにもやぞ。」

「きっとその通りにしよう。」

初めて秋山の顔がほころんだ。彼はすぐに右手を差し出したが、その行動が理解に苦しんだのでフドーは首を傾げた。

「知らないかね、人間は親しい者の手を握って親交を示すんだ。」

「バカにしとお?ワイのこの哀れな姿を見いや!」

そう言いながら固く握られた両手を震わせた。秋山は「ふむ」と呟いた。

「確かにそれではいかんな。解放してやれ。」

その一言でたちまち両手も拘束具からも解放されて自由の身になってしまった。突拍子もない命令に関わらず渋る様子もなくすんなり外されたのがフドーの目に見ても不自然だった。さてはジジイ、最初から筋書きを全部用意しとったな。彼は両手のひらを机に擦りつけると、机には手形がべっとりついた。

秋山は改めて右手を差し出した。歳を取ってはいるが手首ががっしりしていて、盛りの頃が偲ばれる。さっきと違って今なら「超越はん」にも声が届きそうな感覚がするが、この手を掴めば再び力は使えなくなる。

それも大したことじゃない。




憂き世にて情けを求む君にこそ我も贈らめ憂き無しの花




「それは誰の歌なんだ?」

秋山が問いかける。フドーは今や拘束を受けず、天井の蛍光灯を見上げながら椅子を後ろに傾けてゆらゆらバランスを取っている。

「ワイの詩や。」

「歌を詠むのか。」

「当たり前やがな。ワイも文化人や。」

「して、どのような意味で?」

「あのなぁヒデちゃん、ちょー聞いて『こりゃ手前に贈られた詩やないな』て思わへんかったんか?これはな、あの子のためにワイが詠んだ詩や。」

「アガタ君か。」

「せや」とでも言うように傾けた椅子を戻してフドーは頷く。

「インドにな、無憂樹っちゅー花が咲いとお。『超越はん』が王子様として生まれはった場所に生えとった木っちゅー風に言われとお。日本でも温室を探せばあるやろな。――その花を添えて、届けたってくれへんか?」

「申し訳ないが、それは自分で届けてくれないか?」

「はあ?」

「その方が彼女も喜ぶのではないか?だって、そんなにいい歌じゃないか。」

秋山の真摯な瞳を前にもはや何も言い返す気はなかった。

「おおきに。」

「一つだけ頭の片隅に置いといてほしい」と言って秋山は白髪交じりの頭ををなでつけた。

「君を鎮静剤で眠らせている間――人間の致死量を遥かに超える量を投与したのだがな。」

「ワイはゾウさんか?」

「濃度を上げても上げても覚醒に近付くので非常に困った。それはさておき、そのまま息の根を止めるべきだと主張する者も多かったのだ。」

「そいつらの方が賢いのう。自分ら、ワイを殺さへんかったこと、いつか必ず後悔するで。」

「それならば君こそあの時死なないでよかったと、いつか必ず思うはずだ。」

「けっ。」

「とにかく、今もそう思っている者がいることを、常に念頭に置いておくべきだ。」

フドーは我意を得たりと不意に笑い出した。

「そないに言うて、ワイを生かした手前、好き勝手されたら自分らの面子丸潰れになるからとちゃうんか?」

「ご想像にお任せするよ。」

「ご忠告おおきに。忘れんなや、ワイは超越の申し子やで。」


住み慣れたワンルームが一段と狭くなってしまった。

三年前の春、大学進学を機に越してきたアパートの一室。まだ殺風景な空間が広がっていて、それでもここが俺の城なんだって人並みに浮かれてみたりした。あれから月日を経るごとに物は増えていく一方で、一時は足の踏み場がなくなることもあった。積み重ねた思い出と同じ歩調で、殺風景な部屋が狭くなっていくのだった。その上今となっては……。いっそ住まいを移してしまおうかとも考えたが、卒業まではこのせまっくるしいのを楽しむことにしよう。

与作がこんなセンチメンタルに浸るのにもわけがあった。

退院して一週間ぶりに戻った部屋は心なしか綺麗になっていた。あの晩に与作が部屋を飛び出て行ったあと、残された二人は手持無沙汰になって掃除機でもかけたのだろう。哲ならやりかねないことだった。それから一か所だけ変わっているところがあった。冷蔵庫の扉に目立つ付箋が一枚貼ってあったのだ。黄色い付箋には理央の走り書いた文字でこうあった。

「家事分担」

本当にそれだけ。帰ってくるなりこれを目にして、二人して苦い顔で笑った。不思議と元気の出る四文字だった。理央のこういうセンスはずば抜けてるなと与作は思った。

そしてそんな風に付箋が貼ってあるのを見て、彼は自然と母のことを思い出した。一人暮らしを始めて一か月くらいの頃、母さんがわざわざ訪ねてきた。「暮らしぶりをチェックする」とか言って、あれこれ細かい指摘を連ね、最終的にそれらみんな付箋に書いて冷蔵庫の扉に貼って帰ったのだった。与作は備忘録としてしばらく貼り付けたままにしておいた。理央の付箋がそれと重なって、三年前を思い出さずにはいられなくなったのである。

大学が封鎖されたと聞いて親からメッセージが送られてきたこと、そのうち返信しようと放っておいたら昨日まで忘れてしまっていた。元々返信は遅いが、流石にこれは後で怒られると思う。

女の子と一緒に暮らしてる、なんて聞いたら驚くだろう。それでもいつかはアガタを紹介せねばなるまい。そんな場面を想像したらテレビドラマで見た古風な結婚の挨拶みたいになって、おかしくて笑わずにはいられなかった。

与作は近くにあったリュックを掴んで立ち上がった。

「ぼちぼち出かけるか。」

「はーい。」

小気味よい返事と共にテレビを消してアガタも立ち上がる。

街は元通りになった。実験林の大木は街中から見え、大きな存在感を放っていたらしいが、五木の言う通りすぐに枯れて今では建物の屋上から朽ちた幹を眺められるのみになった。それこそ最初は様々な陰謀論の種だったのだが、もはや誰も話題にしない。世事の移り変わりは早いのだ。

「日曜日なのに学校に行くんだね。」

与作の隣を歩くアガタが呟く。歩く度に髪と白いワンピースの裾がひらひら揺れる。

「授業は無いけどな、別に珍しくはないぞ。サークル活動やってるとこだってあるし。」

「へえ。大学ってそういうのなんだ。」

「そういうの。ちなみに阿手内教授の研究室はレアケースだぞ。普通はあんな緩くないし、部外者が勝手に入っちゃダメだからな?」

「いいなーわたしも大学生なりたーい。」

「おお、がんばれ。啓倫大って一応難関国立だぞ?」

「むう……。」

超越の身体は自身の状態を常に万全に保とうとする。だったらオツムはどうなるんだろう。もしも超越のオツムだったなら、あっという間に与作より賢くなるのだろうか。本人を見る限りそんなことはなさそうだが、これでいてこの子は存外聡い。

大学構内に入り、割れた石畳が三角コーンで立入制限された広場を抜ければ、与作たちのホームグラウンドとも言える研究棟が見えてくる。休日で人気はない。階段を上れば研究室はすぐそこだ。

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今となっては誰のためのサプライズかも分からない飾りつけを全員で行った。いつもは研究室で存在感を放つ埃をかぶった資料たちも今だけは煌びやかな飾りの前に主役の座を明け渡す。あっという間に部屋中が阿手内研究室に似つかわしくない鮮やかな色彩で満たされた。

飾りつけを終えて教授は椅子にどっしり座り込んで深く息を吐いた。与作たちはそれぞれの席に着いて、アガタは空いている椅子を彼の隣に転がしてきて腰かけた。教授は全体のバランスを見るようにぐるりと部屋を見回した。二、三度同じようにした。

「家でこれ作ってる途中にさ、家内にダメだしを入れられてさ、一度作り直したんだよね。そんなにダメかなあって思ったんだけど、こうしてみるとやっぱり直した方がよかったなあ。器用なんだ、あいつは。」

「なんでこんな凝ったのを用意しようと思ったんですか?」

「そりゃあもちろん、アガタちゃんが帰ってきたお祝いにね。おかえりなさい。」

「えへへ、ただいま。……いろいろごめんなさい。」

「そうだよ、私たちも心配してたんだから。」

理央は諭すが、表情は笑っている。

「丸く収まってよかったんじゃない。あの夜の話も聞きたいな、僕は。」

「いろいろあったよ、ねー?」

「さあな。」

与作はそっぽを向いた。後になってみれば、気持ちに任せて大層なことを口走ったものだ。恥ずかしかった。嬉しかった。

「じっくり聞かせてよ。」

「話さねえよ、守秘義務だ。」

「あんたが話さなくてもさ、アガタ、私には聞かせてくれるでしょ?」

「んー何から話そっかなー。」

「ねえ教授!どうして俺たちを集めたんですか!?」

与作は逃げるように教授に話題を振った。元はと言えば日曜日に彼らを集めたのも教授の誘いだった。

「まさしくねえ、それこそお祝いのもう一つの理由なんだよ。」

「どういうことですか?」

そう問われると教授は子供っぽくにやけてみせた。

「じゃーん」、口で奏でながら教授は引き出しを開けてあるものを掲げた。三人はそれに見覚えがあった。失くなって久しい量子コンピュータ「コスモス」の記憶装置だった。

「これで僕も『コスモス』を触らせてくれる……かもしれないぞ!」

「おお!」

「与作、あれ何?」

「とにかくすごいコンピュータを使うのに必要なブツだ。覚えてるか?俺とアガタが初めて会った時に、ぶつかった拍子に消しとばしたやつだよ。」

「ああ……その節はどうもスミマセン。」

「これがあれば宇宙の謎だって、ミクロの不思議だって、『原子核再構成』のヒミツだって解き明かせてしまう……かもしれないのだ!」

「わあ!すごーい!」

アガタはよく分からずに手を叩いて喜ぶ。教授も満足げに頭を掻く。

「と、これだけじゃないんだよ。」

またも教授の眼光が鋭くなる。今度は長めに溜めるので、聞く側も空気を察してそれとなく身構えてやった。

「晴れて僕もアガタちゃんたちを研究する専門家グループの一員に認められました!」

「すごーい!それで、何するんですか?」

「当分は『原子核再構成』と君たちの身体の研究かな。」

「ええっ!?先生、破廉恥なのは……。ねえ、与作?」

「いいんじゃねえの?」

アガタの突き出した肘が彼の脇腹に食い込んだ。

「痛ぇ!」

苦悶の声を上げる彼に理央は呆れ返り、哲は苦い顔をするしかなかった。

「アガタがご想像のような検査はしないだろ。それに『君たち』てことはフドーの奴も協力するんだろ?その手のやつはあいつにでもやらせとけばいいんだよ。あいつすぐ脱ぐし。」

「確かに。」

「関西弁の彼はどうなったの?」

「おかげさまでピンピンしてるってさ。性格も治りゃいいんだけどな。」

「ついでにお風呂にもちゃんと入ってね……。」

「何それ?」

アガタは「なんでもない」と首を横に振った。

「それはそうと、ここからが本題。」

教授が姿勢を正した。何か話を始める時の合図だ。

「いろいろ研究してく上で、君たちのことをなんて呼んだらいいかなって。いつまでも《甲》だの《乙》だの言ってられないし、何より総称が必要だろうさ。それでね僕考えたんだよ。」

「わたしたちの名前……?」

「神の如き超越の存在がこの地に遣わしたる者たち……それをこの国ではこう呼ぶ。――御先《みさき》、とね。」

教授は紙に書いてそれを掲げる。アガタは瞳を輝かせた。

「お稲荷様はキツネを遣わす、山神様はカラスを遣わす、超越の存在は君たちを遣わした――。ならば君たちは、『超越の御先』だ。」

「超越のみさき……。」

「さて、どうかなアガタちゃん。君さえよければ上の人たちにそう提案してみようと思うよ。彼も気に入ってくれるといいけどね。」

「御先」、アガタは心の中で繰り返した。うん――いいかも。

彼女が首を縦に振ったのを見て教授もほっとしたようだった。

「では、そうしよう。」

ガチャ。

研究室の扉が開いた。前に立っていたのは阿手内研究室の面々だった。見慣れない飾群に目を奪われて立ち止まり、やがて与作の隣にいるいつか見た少女に気付いて後ろによろけた。

「後から来るように呼んでおいたんだ。お祝いは人数が多い方がいいでしょ?」

教授が茶目っ気含んだ小声で告げる。

「さてさて、我が研究室に新しい仲間が増えたよ。みんな仲良くしてね。名前は……」

「……御先 アガタです!」


市ヶ谷、防衛省。御先災害対策本部。真新しい付け看板の内にある指令室で、統合幕僚監部の高官たちが肩を並べていた。スクリーンを囲むように席に着き、それぞれが頭の中で考えを巡らせていた。部屋を満たす鈍重な空気が外との比重で全体を大地に押し下げるかのようだった。

「イラン中部の高原での確認情報は間違いないでしょう。発見が遅れたのは砂漠の真っただ中で誕生から一度も移動していないからだそうです。」

「既に米軍は監視対象に加えたとの情報もある。」

「これで何人でしたか。」

秋山は軽く手を挙げて質問を口にした。

「ほとんどの現地政府は存在を口にしませんが、もはや存在が確定的なものを数え上げれば……百人目です。」

「百。」その数字が幾人かの口から洩れた。

「最も多いのが中国、次にインド。我が国は二人。御先の発生は世界の人口比に等しいのですか?」

「確証はありませんが、おおよその目安としては妥当でしょう。」

「現地当局との関係は協力的な者、つかず離れずで拘束を受けずに生活する者、真っ向から反抗する者……様々です。」

「ヨーロッパ連合が近く御先の存在を公表するという話は?」

「目下、関係機関が調整中です。しかし朝鮮の緊張といい、白日の下に晒されるのは時間の問題でしょう。我が国でも啓倫大の一件があるし……。」

「人間は人間の問題に取り組むだけですよ。逆に言えば、それ以外にやりようがない。」

秋山は舐めるように全体を見回す。

「超越の御先……。お前たちはなぜ、地球に舞い降りた?」


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